【歴史】なぜ信長は鉄砲隊を千挺しか配置しなかったのか (JBpress) [首都圏の虎★]
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(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
■ 家康に泣きつかれた信長
(前回より)のっぴきならない状況に追い込まれた徳川家康は、格上の同盟者である織田信長に泣きつくしかなかった。その信長は、数年前から上方での戦いに忙殺されていたのだが、長篠城が囲まれていた頃、ちょうど上方での戦いが一段落して、兵を休ませていた。
【写真】長篠城跡(愛知県新城市)
家康からのSOSを受けた信長は、織田軍主力を一気に長篠に投入することを決心し、約3万の織田軍を率いて三河に向かった。美濃方面でも武田軍が陽動作戦を行っていたが、構わなかった。そして、家康と合流すると長篠城の6キロほど手前で停止して、武田側から見えないように織田軍主力を注意深く配置した。
対する武田勝頼は、織田軍の進出はキャッチしたものの、その兵力と信長の真意を計りかねていた。これまでのいきさつから見て、信長が本気で家康を助けることはないだろう。織田軍の兵力が多少大きくても、戦意が低いのなら、織田軍がモタモタしている間に徳川軍を叩いてしまえる。そう踏んだ勝頼は、会戦を決心した。
5月20日、勝頼は長篠城の押さえを残し、武田軍主力(推定1万5千)を設楽ヶ原(したらがはら)の東まで前進させた。これを見た信長も、織田・徳川軍を前進させ、決戦の機は熟した。翌21日、武田軍は夜明けとともに攻撃をはじめた。
対する信長は、前田利家・佐々成政ら5人の奉行が指揮する鉄砲隊3千を前線に配置した、と『信長公記』という史料には記されている。『信長公記』とは、信長の秘書官だった太田牛一(ぎゅういち)が書き残した、一種の信長回想録だ。記述の信憑性がたかいため、信長研究の基礎資料として知られている。
信長が鉄砲隊を活用して武田軍を撃破した、という話の大元の出どころも、この『信長公記』の記述だ。ところが、『信長公記』の研究が進んだことによって、もともとの記載は鉄砲千挺であり、3千は後で盛られた$博嘯轤オいことがわかってきた。
だとすると、総勢約3万という織田軍の中で、前線の鉄砲隊が千挺では少なすぎないだろうか? また、約1万5千の武田軍主力による突撃を、千挺の鉄砲だけで粉砕できるものだろうか? そう思って、『信長公記』の記述を注意深く読み直してみると、次のように書いてある(意訳)。
21日の早朝、武田軍が動き出したとの知らせを受けた信長は、家康の本陣である高松山へやって来て、戦況を視察した。そして、諸隊から抜き出した鉄砲約千挺を、前田利家・佐々成政ら5人の奉行に指揮のもとに配置した、というのだ。
ここで、決戦に至る流れをふりかえってみてほしい。われわれは長篠の合戦を、「織田信長が武田勝頼を破った戦い」と認識している。けれども、この戦いは本来、徳川家康vs.武田勝頼という図式で起きているのである。
信長は、家康に泣きつかれて駆けつけた援軍の立場だった、という前提に立って、例の『信長公記』の記述を、もう一度、読み直してみよう。信長は、なぜわざわざ家康の本陣にやってきたのだろうか。論理的に導き出せる答えは、ひとつしかない。武田軍の主力が、徳川軍に向かって攻めかかっていたからである。
だとしたら、例の千挺の鉄砲隊は、徳川軍の側面を援護するために急遽配置した、と理解するのが正しい(続く)。
全文はソース元で
https://news.yahoo.co.jp/articles/2d988cfd6ed36378b1489f36524c76faf880c098
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201021-00062517-jbpressz-000-1-view.jpg 千利休が決めたから
千にしなさいと
信長と対等に口を聞ける数少ない茶人 大友や龍造寺じゃあるまいし織田家がそんなに多くの鉄砲隊を組織できる訳ないだろw 千挺の鉄砲隊ったら当時は最新鋭兵器だからそれだけで相当なもんだろう
武田側の鉄砲数はどのくらいだったかなんか資料あるんかな >>17
気持ち悪いと思ってみえる方、みえますか?
「みえる みえますか 名古屋弁」で検索してみえた? 本当の数なんてわからんだろ
勝頼は信長の真意を理解出来なかった無能ということだけは真実 火縄銃って今のお金で1000万くらいでしょ?
日本の4分の1おさめたくらいで100億捻出するのは凄い事 >>1
実にお目出度い奴だな
昔の史料が正しいことを書いているって
この場合は、何人集めろという命令だけだろう
数を数えた結果じゃ無いだろうに 武田も先代がさんざん散財してお金すっからかんだったんだろ
で遠征しかけるのも今回、無理してしたもんだから成果残さないと
勝頼の立場が国内政治的に危うかったんだろうな 当時の火縄銃は現代兵器に例えると巡航ミサイルや多連装ロケットシステムに相当するぐらい画期的な兵器だったからね それしかなかったからだろ
多聞院日記に奈良の筒井順慶に信長から長篠に鉄砲隊貸してくれと連絡が来たので、50人の鉄砲隊が派遣されたと書いてあるし 武田の騎馬隊は何人でしたか?
1000いるわけねーだろ 武田の騎馬隊なんてものは存在しなかったし
鉄砲隊で敵の突撃に対して一斉射撃なんていうシーンもない
狭い日本の国土でそんな戦闘シーンは行われない
一体いつになったら、この当たり前の事実が一般常識として
認められるようになるんだろうね 騎馬も弓矢も修練がいる。火縄銃は大して訓練しなくとも相手を殺せる。
信長軍が弱かったのが、銃を採用した怪我の功名。 設楽原なら山間じゃないかな
長篠城が川のそば
戦国時代なら草茫々
騎馬隊ないよな >>12中国にはソースあるよ。秀吉の時の三段撃ちがヤバいって真似したいけど難しいと。信長が使ってたかは分からんけど、存在はした。 >>14
鉄砲無くても兵力約3倍差だよ
鳥居強右衛門が死んだ時点で勝てない 1000挺以上もぶっ放したら、黒煙で戦場が何も見えんからだよw
いくさになるかよ.それぐらい理解しろよ。 和弓と同じ長弓のイングランドはロングボウの農民兵を免税を餌に大量に育成
戦いの主役に据えてクレシーの戦いでは当時無敵のフランスのロングランス騎士集団を打ち破った
(兵力は1万2千の英軍、4万の仏軍と圧倒的に仏が勝っていた)
日本でどうしてこの方法を採用する大名がなかったのだろう
和弓の威力はロングボウなみにあるからやろうと思えば出来たはず
鉄砲千丁よりも和弓一万張の方が威力があるよ
弓は1分間に10矢くらいの連射が出来るし直接射法だけでなく山なりの弾道で間接射法で打撃を与えることも出来るし 鉄砲より、火薬の大量生産がなかなか上手く出来なかったらしい。
ある程度の大量生産(それでもタカがしれてるが)ができたのは信長の領地内だったらしい。 騎馬は伝令に使われるのと
騎乗身分の武将の移動手段
荷馬はいたが戦闘用ではない
当時の日本で、馬は戦闘の道具ではない
ポニーのような日本馬で敵を踏み荒らせるはずもないし
重い鎧武者を乗せたポニーの上で獲物を振るうことができるはずもない 馬を銃声でパニックにさせて 織田の足軽が武田の馬から降りた誇り高い騎兵達を長槍で殺すってエゲツなかっただろうね。 >>40
黒煙は煙よりも火の粉を伴って暴発の可能性ある つうか、織田の持ってる鉄砲の総数がわからなければ千挺しか、なのか、千挺も、なのかなんて言えないだろ。 千挺で「しか」は銃の数を現代基準で考えている気がする >>1
>もともとの記載は鉄砲千挺であり、3千は後で盛られた$博嘯轤オいことがわかってきた。
また、
日本の歴史を貶めようとするチョンの寝言かい?w
「わかってきた」という勝手な寝言をいってもなあw >>41
日本の武士は弓を扱えたし、そもそも日本の合戦の主力兵器は弓だから、平安時代からその戦法はとられてる。 >>46
武田の騎馬隊は、突撃の時は最初から馬を下りてる。
戦場の後ろで繋がれてた。 関ヶ原もあんなにさ
雑草だらけで騎馬隊とか無いよな
島津の捨て奸はあったかな 長篠の戦い
正面攻撃しか描かれてないけど
側面からも絶対撃ってるよ
なおかつ馬脚を乱すために塹壕と地雷も埋めてたはず 長篠の織田・徳川連合はかなり本格的な野戦築城をしていたのが
最大の勝因 >>1
続きの記事ねーじゃねーかw
その存在しない続きには鳶ヶ巣山攻略隊に持たせた500丁のことなんかも書いてあるんかね >>57
島津退却戦もかなり盛られた話だよなー
実際、東軍の被害がどんだけあったかわからんし
確かなのは、島津は副将も打ち取られて、完全壊滅状態で
なんとか主将は帰国できたってくらい 木曽馬なんて小さいんだよ
昔の日本人は150cmぐらいなんだ
だから乗れただけ
雑草が1mあったら邪魔で仕方がない ヘイヘ並みの狙撃手が1000人もいるんだぜ勝ち目ないだろ 1000発撃たれた時に何人落馬してるかわからんが
やーやー!って突っ込んだ時に届きもせずバタバタ倒れていったら戦意なんて掻き消えるんじゃないか
鉄砲は馬を驚かせるための武器。
馬は臆病だから、鉄砲の音で驚き、暴れ出す。
千丁の鉄砲が絶え間なく射撃していれば、武田の騎馬武者は立ち往生。
勝因は鉄砲の音。 >>20
今で言ったらドラえもんが1000匹みたいなもんか 明智がたまたま十字砲火になるよう鉄砲隊を配置して驚くべき戦火をあげた 士農工商が、超有名なら
その通りに、うまいことやっていたんだなぁ〜という印象しかないです。
馬泥棒だけは、許せないと思う。 捕まった鳥居強右衛門に武田は援軍は来ないから
あきらめて城を明け渡すよう城のやつらを説得しろ
そしたら武田のそこそこの地位の部下に取り立ててやると言われ
鳥居強右衛門はそれに同意する
そして徳川の城の前で鳥居強右衛門は
あと2、3日で織田、徳川の援軍3万が到着する事を伝える
武田はすぐさま鳥居強右衛門を処刑するが
城に立て篭もる徳川軍は奮い立ち援軍到着まで城を守りきる >>56
また、この劣等民族のチョンかいw
オマエなあ、カス頭で日本の歴史を語るなよw >>24
鉄砲生産地なら現在の価値で500万円ぐらいやぞ
火薬が海外からの輸入で手に入らんけどな >>58
設楽が原の両側面にも築城して攻撃してるな
しかも、突入してくる武田軍からは死角になるように陣を配置している
さらには、鳶ヶ巣山を攻めた酒井忠次隊が長篠城隊と合流して背後から攻撃
包囲殲滅戦の様相になってる 島津は朝鮮で鬼島津と呼ばれいたから史実の
可能性が高い 織田軍の死者ってどのタイミングで発生したんだろうね。
信長大嫌いな海音寺や戸部の小説だと
「織田軍の兵士は弱兵で質が悪かった。『武田と戦う』というだけで脱走者がたくさん出た」(=長篠の戦場では完勝して戦死者なし)
という嘘みたいな展開だし、
他の小説だと
「まだ武田を倒し切っていないのに、功を焦った連中が馬房柵から飛び出して返り討ちにあった」(=武田は正面から闘えば織田に負けない)
とか、
「最終盤まで織田軍に戦死者は出なかったのに、追撃戦で返り討ちにあった」(=やっぱり武田は強かった)
みたいな展開もある だとするとこの千挺の火力は側面から徳川軍の背後にまわり込まれるのを防ぐ目的だろう。 戦国時代にタイムスリップした自衛隊の戦車とヘリが活躍した 桶狭間と同じくらいタイムマシンツアーで見たい戦w 謎が多いよな >>12
こういうものって多少の誇張があっても実際そうであるもんなんだよ >>45
その話最近聞くけどじゃあ昔の絵はみんな想像で描いたってこと?
それはさすがに無理ありすぎないか?
騎兵の集中運用はなかったというなら分かるが 未来人が何で自衛隊が20万人にしか居ないの?と似た様な物か。 >>79
千挺って言ってるのは、チョンだけだよ。何の根拠もない。
3千挺で間違いないよ。 >>20
信玄の時代にすでに数百丁持ってたって記述あるから、武田も相当持っていた 鉄砲より陣地構築が勝因だろ
第一次世界大戦の騎兵隊みたいなもんだ 織田 信長(1534年- 1582年)
エリザベス1世(1533年- 1603年)
16世紀の兵力としては進んでいる 長篠の絵巻は鉄砲以前にそもそも柵がある防御陣に騎馬で突っ込むか?と言われてるね >>86
織田家の国友で生産された鉄砲の射程距離が全然違ったらしいけどな
100mは射程距離が織田家の国友筒の方が長い
大筒もあったんだろ?大砲では無いぞ
毛利家は大砲持ってたけどさ 信長が躍進出来たのは鉄砲より改良しまくった槍だろ。桶狭間の戦いなんて槍でフルボッコしたんだし。 3万とかいうのは実体せいぜい3千
銃も100挺くらいだろ 武田1万5千といっても、ほとんど百姓に槍を持たせた程度だろ。
鉄砲で回りの兵が死んでいけば命の危険を感じて四散するだろう。 実は当時の火縄銃だと弓より殺傷力が小さい
練度の低い兵にでも扱えるって点では弓よりもいいけど >>90
武田家は後方を酒井勢に抑えられたし前に出るしか無かったんだろ >>90
そもそも、柵を作った前例が無いからな。
それを信長がやった。
武田側が「?」と思っても、これまで通り突っ込んで行ったのは想像できる。 勝頼は何で退却しなかったんだ。強固な連合軍の陣地全容を把握せずに始めたのかな。
酒井の奇襲で焦ったのかw 実はイーサン・オータギューという南蛮人だったろうな
自己紹介で日本風にオータギュー・イーサンですって言ったら
ああ、おおたぎゅういちさんねって ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています