【社会】足利義満を描いたとみられる新たな肖像画を発見 東京都内の男性が古美術商から購入 [凜★]
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NHK(2020年12月22日 6時41分)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201222/k10012776841000.html
室町幕府の将軍、足利義満の姿を描いたとみられる肖像画が、新たに見つかりました。黒々としたあごひげや若々しい表情などが特徴で、調査を行った専門家は「新しい義満像を読み取ることができる重要な発見だ」と指摘しています。
見つかった肖像画は、縦1メートル余り、横40センチほどの大きさで、僧侶の姿をした人物が畳に座っている様子が描かれています。
東京都内の男性が古美術商から購入し、その後、東京大学史料編纂所などが調査したところ、顔つきや衣装などから室町幕府の3代将軍、足利義満の出家後の姿を描いたと判断されました。
義満の肖像画として広く知られている京都の鹿苑寺所蔵のものと比べると、黒々としたあごひげや顔のしわが少なく若々しい表情などの特徴が見られます。
史料編纂所などは、この肖像画は描かれた布地の絹や押された印の特徴から、義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
中世に描かれた将軍の肖像画が新たに見つかることは非常に珍しく、足利義満を描いた肖像画はこれまでに数点しか確認されていないということです。
東京大学史料編纂所の村井祐樹准教授は「義満という有名な人物の新しい肖像画が出てきたということは非常に驚きだ。権力者として最高潮だった時の姿を描いていて、この肖像画から新しい義満像を読み取ることができるのではないか」と指摘しています。
(以下省略)
https://i.imgur.com/fHyY8AY.jpg >>168
なんでだろう?やはり「一休さん」でいつも
一休さんのとんちにしてやられる冴えないバカ殿のイメージがついたからか? >>179
一休さんは義満が老人の頃生まれたので金閣寺で会うのはほぼ無理
新右衛門さんは当時名声を確立した一休さんのカルチャーサロンの常連だった >>204
長男が夭逝しているので次男だけど実質産まれた時から嫡男扱いで将来将軍になる事が確定している
そして将軍として死んで、波乱万丈なドラマが無いというか
徳川での家光主人公でドラマを作っても面白くないだろう
日本史の大物ならそれこそ藤原道長とか、武将なら楠木正成とか、天皇なので無理だろうが天智天皇とかまだいるしな
西郷をやったので明治維新くらいから博文か板垣とかでもいいような 期待てたんと違う(。・ω・。)y━・~~
まぁ美化は当然入るにしても、本当にA♂ッぽい負陰気。
権力握ってハンサムとか、残念じゃのぉ〜。 >>7
惜しいw
詭弁も追加しよう
>>14
オープンザプライス! >>204
麒麟なんかより、池端には太平記2として取り上げて欲しかったんだけどな。太平記が義満産まれた辺りで
終わってるからちょうどいいのに。南北朝の混乱後編と合一が描ける。 >>1
誰かに似ていると思ったら
間 抜作先生じゃないですか、お久しぶりです 足利義持と将軍を争って命を失った、足利大納言義嗣の忘れ形見である。 >>208
氏治さんは前に歴史秘話ヒストリアでやったでしょ >>義満の死後150年ほどたった西暦1550年前後に描かれたとみています。
これじゃ想像図でしかない。 >>1
寺が燃えたらしいから
燃える前にあった肖像画を見たのを
模倣して描いた贋作だなw ああ、この話題、スレがたってたかw
日本国王たる源道義の御真影でしょ?
まあなんていうか面白いものが出て来たもんですな。
(そしていつでてくるんだ、足利尊氏の確定肖像画はwww)
まあね俗にさ「唐様で売り家と書く三代目」とかいうけど
三代目の人間の出来でその後のレジームの流れ、できるんだよなあ。
義満も家光公もあれだけの力量あらばこそ後代に続いたってわけさ。
それいえば金塊将軍実朝公も大した力量はあったと思うけど。
>>220
とはいえ、現代の例えば今から400年前の戦国時代の
武将の顔イメージなんて大抵は某ゲームからの影響が強いわけでねw
いわんや1800年前の中国の三国志時代、とかさwww 義満が明への国書で「日本国王」と名乗ったのは海禁政策で外国の君主以外と交易しない明に対する方便で国内ではこの称号を全く使っていない ところでおそらく誰かスレ民がガイシュツだと思うが
1550年ごろってことは16世紀中ごろってことですな
ってことは西洋じゃルネサンスも盛期を過ぎてる頃じゃないっすか。
ダビンチは亡くなっておるし、ミケランジェロも古希を超えてるよw
ううん、まあルネサンス絵画と直接比べるようなものじゃないし
出羽守をきめるのもなんだけど、まあ差があるよなあ。
旧代の最高権力者を描いたものにしてもさ。頂相ねえ。 >>48 くんと>>168 くんが大河ネタの話をしているけど
義満を大河にしちゃうとさ、南北朝、南北正閏論争にハッテンしかねないわけで
ってか避けて通れないわけでさ。アブナいでしょ、そこwww
今の皇統の話とも直結するご先祖の話なわけでさ。
さらにこれは>>224 くんへのレスでもあるが
貿易目当ての形式的にせよなんにせよ現実に大中華の冊封を受けて
要するに室町将軍が明朝の家臣になってるわけで、
これは特にネトウヨ時代にやるには
色々とメンドーな論争を巻き起こすんじゃないかなあ。
大河ネタでいえばほら、清盛やったときだって皇室を王家と呼んだだけで
あれほどネットじゃ大騒ぎだったんだからさwww
それに尖閣問題じゃないが現在の大中華ともビミョーな時期に
大中華と上下関係つける話なんて、まずいんじゃないですかねえ。
むしろ大河ドラマ「マッカーサー」の方が面白いんじゃないっすかねwww
まあ「ペリー」でもいいけどwww >>220
鹿苑寺(金閣寺)に義満の死後すぐ描かれたとされる肖像画があるからそれを参考にしたんだろう
姿が若いのは息子の義持に将軍位を譲って出家した38歳の時を想定してるからなんだろう 死後150年後に描かれた肖像画なんて価値無えだろ
いま徳川時代の将軍の肖像画を誰かが想像で書いたとしてそんなもんまったく
再現性なんて無いわけで歴史価値なんて無いだろ? 骨董業ではヤバイもんだったかな
模写もそこそこあったけど
そっちのが価値が出るからってので僧形の身につけてるものがよいものなら
自分の先祖でも義満像とかしちゃって売り払ったりでアホみたいに数があったり
仏像の種類の定義みたいに丸顔髭 僧形坊主頭でで高価な持ち物持ってる武家なら
義満像とかね 南朝倒して実質朝廷終わらせて神武天皇みたいなもんだったから
とにかく数があった 新たに発見って、戦国時代の1550年頃に書かれて、今の今までその肖像画はどこにあったの?学者もその存在を知らなかったなんて驚きなんだが。 >>207
最近の大河ドラマって女か戦国武将か幕末やっときゃいいみたいな風潮で
すげー見飽きた感あるんだよね。その辺の人も源義家とかもやればいいのに >>111
尊氏のつもりなんだろ
国博にしては認識が古いな >>231
鹿苑寺(金閣寺)が臨済宗の寺だから、おそらく臨済宗 ヘタレ尊氏と違って義満はめちゃんこ凄かったらしいな
法王だかなんだかうろ覚えだけど 死後150年後に描かれた肖像画にリアリティーってあるの?
今で言うなら、1870年に亡くなった人の全盛期の時の絵だろ? 聖書の4大福音書も
イエスが十字架に掛けられるところを今見てきたルポルタージュみたいなドキュメンタリーみたいな書き方だけど
実際は 新右衛門さんって直属の部下じゃ無い寺社奉行だろ?
なんであんなに気軽に命令できるんだ? 蜷川新右衛門について
蜷川氏の当主は代々新右衛門と名乗っている。
蜷川新右衛門といえば、テレビアニメ『一休さん』(1975年-1982年)に足利義満の側近で
寺社奉行の武士蜷川新右エ門が登場するが、モデルとなった蜷川親当(智蘊)が仕えたのは足利義教であり、
そもそも室町幕府に寺社奉行はなく、実際のところ一休宗純と師弟関係があったのも親当が出家して
智蘊と名乗ってからのことであり、ほとんど架空の人物である。ただ、親当の嫡子蜷川親元が記した『親元日記』や
一休が記した『狂雲集』には蜷川親当(智蘊)と一休の交流(禅問答など)が綴られており、
これをスタッフがアニメ制作の参考にしたのではないかとみられる。
Wikipedia蜷川氏の項目より 一休さんってただのトンチ名人の小坊主じゃなくて帝のご落胤のエリートセレブやかららなあ。当人は好き勝手の貧乏暮らしを好んだ
乱れた性生活が大好きな禅問答屁理屈じいさんだったから有名になったが。 義満が日本国王たるには、一休とのとんちクイズに勝ってからにしなくてはならない 死んですぐ建てられた西郷像だって似てなかったと言われるのに150年後に書かれた肖像画なんて漫画やゲームの絵と変わらないだろ 仮に大河をやるなら
金閣寺が燃えるとこまでやってほしい 足利家は名前見てもわからん。
何代家くらいは書けよ >>255
義満がわからんなら相当なアホと言っていいぞ >>255
「日本国王」の称号と金閣寺で有名な人物だぞ。 昔の肖像画なんて全部誰が誰だか分からんのばっかだろ
写真じゃないんだから
適当でいいんじゃないの? 今のソシャゲや信長の野望の信長さんのイラストも肖像画と言えば肖像画か。 >>240
家光みたいなもんだからな。
俺は偉いってのがスタート地点だから、アタマが良くてリーダーたる資質があれば、龍となるわけだよ。
その点、徳川慶喜はアタマはリーダーたる資質がなかった。あったら徳川中興の祖となったかもしれない。 >>261
×徳川慶喜はアタマは
○徳川慶喜はアタマは良かったが 足利将軍15人のうち、尊氏だけ「義」の字がつかないの。 日本国王源道義はドラマ等でも見たことがなくね?
花の御所や金閣寺造ったり天皇をしのぐ権威を持とうとした権力者にしては影が薄いわ >>251
そもそも上野の西郷像は本人を知らない人が
写真も無いから絵を見て作ったわけだから
大昔の人を想像で描いた肖像画と条件が大して変わらん >>220
元にした画像はあっただろう
よく知られたものに似ているし
室町幕府の権威が揺らいでいたので最盛期の将軍の画像を権威付けに描かせたのかな 義満と呼ぶとは無礼な!
室町殿、もしくは北山殿と呼びなさい >>2
朝鮮人なんかは何も残ってないんだよなあ(笑) >>275
北条高時の高
から
後醍醐天皇の尊治(たかはる) 歴史ゲームの大家・コーエーの査定値
足利義満 政89 戦71 智87 歩B 騎B 弓B 水C
蜷川智蘊 政68 戦62 智55 歩B 騎C 弓C 水C
一休宗純 政54 戦19 智93 歩C 騎C 弓C 水C >>264
足利氏は「義」か「氏」が通字で尊氏(高氏)の兄が「高義」という名だったんだけど早死したので高氏が惣領になった
その後尊氏の嫡男の義詮が将軍になり、弟の基氏が鎌倉公方になってから将軍家は「義」で鎌倉公方家は「氏」を通字にするのが習わしになってる 有力御家人のうち、代々北条氏と婚姻関係を結び、のちに室町幕府の将軍家となった足利氏を例にとると、鎌倉期の嫡流家の歴代当主の諱は「得宗の当主の偏諱+通字の氏」で構成されている[19]
(具体的には、泰氏が泰時[20]、頼氏が時頼[20]、貞氏が貞時[21]、貞氏の三人の息子(高義・高氏・高国)が高時[22]からそれぞれ偏諱の授与を受けたとする)[23][24]。
足利氏は代々北条氏一門の女性を正室に迎え、その間に生まれた子が嫡子となり、たとえその子より年長の子(兄)が何人あっても、彼らは皆庶子として扱われ家を継ぐことができないという決まりがあった[20]が、
正室(北条時盛の娘)が子を生む前に早世した頼氏の跡は、その庶子であった家時(貞氏の父、母は上杉重房の娘)が家督を継いだ。
家時に「氏」が付かないのはこのためであるようだ[20]が、代わりに用いられた「時」の字は本項の冒頭で示したように北条氏の通字であり、やはり北条氏から偏諱を受けたものであるとみられる[25]。
また、足利高義の名の2文字目に清和源氏の通字である「義」の字が使われている背景にはこの当時の足利氏と北条得宗家の良好な関係の象徴であり、得宗家が足利氏の将軍および得宗家への忠節と引換に「源氏嫡流」として認められたとする見方もある。 >>285
今川貞世 政治56 戦54 智58 歩C 騎C 弓C 水C
新田義宗 政治11 戦46 智25 歩C 騎B 弓C 水C
上杉憲顕 未登場 義満は機嫌のいい時と悪い時のギャップが酷いお天気屋だったらしい
足利将軍家は尊氏の躁鬱病の気質が遺伝している >>2
朝鮮王国には朝鮮人が今でも誇りにしている輝かしい歴史があるもんな
1637年2月24日
朝鮮王仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼(最上級の土下座)を行わされた。
朝鮮王仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、受降壇の最上段に座る清皇帝ホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、許しを乞わされた。
三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)
叩頭礼は額を地面に打ち付けて行う中国式の土下座で、三跪九叩頭の礼は三回ひざまずいて九回額を地面に打ち付ける最上級の土下座である。
清の支配体制に組み込まれた朝鮮は、清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建てた。
清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回に及び、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、三跪九叩頭の礼により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。
このような清と朝鮮の朝貢関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。 幕政は管領細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導することにより帝王学を学ぶ。頼之は応安大法を実施して土地支配を強固なものにし、京都や鎌倉の五山制度を整えて宗教統制を強化した。また南朝最大の勢力圏であった九州に今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して、南朝勢力を弱体化させ幕府権力を固めた。 なんとも言えない表情だな
開いた瞬間クスっとしてしまった 重要文化財に勝手に認定されて売ることも出来なくなり
保管方法を指示され保管に費用がかさみ
維持できなくなって国に寄贈という糞みたいな末路が待ってる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています