【歴史】明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に [ごまカンパチ★]
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※朝日新聞デジタル
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ade4e8214a4e27f466490a44d787af505f62b40
戦国武将の織田信長(1534〜82)が、配下の明智光秀(1528?〜82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、
部下に実行させていたとする学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた
「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。
このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。
萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。
寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、
おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。
利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。
奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。
光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570〜92年)などに
「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。
光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は
「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。 100年近く後の伝聞情報が学説か、安直な学問やねぇ >>426
ぶっちゃけ、今残ってんのは大概は秀吉の都合の良い歴史だろうね 本願寺の変は秀吉の策略とも言える
その秀吉が策略を実行できたのは任命した織田信長
つまり本願寺の変は織田信長の策略と言える
明智光秀は、まんまと織田信長の策略に陥れられたのだ 学説ってもこういう古文書がありましたってまでしか展開のしようがないんでね? >>438
最後に制したのが家康だから、そういう意見もあって良いと思うけど
こと本能寺の変に関しては家康の都合のよい様に弄る必要なさそうかなと
まあ、黒幕説あるけどね 家臣が勝手に起こして後から光秀が乗っかったみたいな話かと思ったら違ってた >>439
手紙が山のようにある
本願寺の直前の長曽我部と明智光秀との手紙も美術館が整理していて2019年にようやく見つかった >>405
あくまで朝廷の臣下という立場を崩した勢力はことごとく滅ぼされている
蘇我氏、平氏、源氏、封建制から律令制の中央集権化を画策した信長 本能寺とか
ほりかえしたら
信長の骨とかでてこないの
DNA鑑定とかできないのか? 最後に直接言葉を交わしたみたいな逸話が今まであったわけでもないし
だから何?ってレベルのどっちでもいい話だなぁ 一代で大勢力をおこし最期は燃え盛る炎をバックに消え、遺体は見つからずとか、
もうこれでもかレベルの主人公補正だもんな
本能寺の変ない信長は三好長慶みたいに地味な扱いされちゃったかもね >>446
秀吉「明智秀吉よ、まんまと騙されたな!これぞ本能寺の変なり!信長もおまえも我が計略にまんまとかかったのう」
とか言ったのかもしれない 真実は麻呂連中しか知らんし墓まで持っていってるから分からんと思う 光秀レベルの裏切りは史上ユダかブルータスぐらいしか無いから目立つ 信長が天下獲った日本も見てみたかったな
ファッションは絶対変わってたと思うし >>364
その史料って天正10年6月12日付土橋重治宛明智光秀書状のこと?
それ以外ここ最近新出の光秀文書ってなかったと思うが
この文書なら3年前に原本が発見されたってだけで内容自体は写しがあるから昔から知られてたよ
あとこれには光秀が足利将軍の家臣だとはどこにも書いてない
この書状の内容を要約すると、
・貴方が義昭入洛のため助力するよう義昭から命じられたことを嬉しく思う。光秀も義昭入洛の件は既に承諾している
・この度雑賀衆が明智に味方してくれて感謝する
・この度高野衆・根来衆も明智の援軍として和泉河内方面まで出陣するとのこと感謝する。恩賞については後々相談しよう
・近江・美濃まで平定することができた
・追伸部分は義昭入洛が叶うよう是非力添えしてあげて欲しい >>424
信長が民から慕われるのは順当
あの当時で生きるなら信長か北条のとこだろうってくらいにはホワイト >>444
信長の遺体もミステリーの一つだよね
個人的には信長は落ち延びたか、最初から居なかったかだと思う
弥助が持ち去っただとか、完全に焼失したってよりはアリだと思うんで 安土城は防御能力がない宮殿のような造りで
天守は京都御所のような構造になっていた
天皇を迎えるためという好意的な解釈がなされているが
実際に信長が居住していた安土城に天皇が京都を捨てて遷都するだろうか? 信長は先を読みすぎて部下がついてこれなかった
秀吉の天下取りのあと
朝鮮出兵の佐賀の城に老いた秀吉が来ているように
軍事利用できる街道が全国で完成したのだ
信長のときは大返しができるぐらいはできていたが
そこから先はまだ天下統一前だから
完成していなかったのだろう 道というのはつくったら攻められる可能性があるのだから
国の境にはわざと通じてないところを
各所に残していたのだ
天下統一したからこそ、ズバッと全国に道を通せた 歴史なんてデタラメだからな
歴史書書いたやつの妄想が歴史になるから
今現在の安倍晋三のことですら分からないのに過去のことなど分かるわけがない 平氏を討伐するのに義経を利用し源氏を衰退させるのに北条氏を利用した
信長を討伐するのに光秀を利用し、織田家を衰退させるに秀吉を利用したとも考えられる 江戸以前に使われたいた旧街道というのが各地にあるが
なんでこんなに細い道なのだろうと
疑問に思ったことはないだろうか
あれはわざとだ
大軍団でワーッと通れないように
わざと細く作ってある
天下統一してからもそうなんだから
その前は推して知るべしだ
信長は天下を取るにあたって元寇から始まった
軍事用街道を全国に広げている最中だったのだ >>460
陸海軍を倒すためにスターリンを利用した >>460
後白河は、その場その場で強いほうについただけの人だよ。
北条に関しては完全に鎌倉内部の権力闘争だし。
信長の時代は朝廷は貧乏だから、金持ちに寄生しないと
天皇家はなんにもできん有り様で、そこまで気も回らないだろうね >>461
橋作らないのもそうらしいよね
ただ別の説で日本は基本馬文化でないので、広い道がいらないとかも聞いたことあるw 明智側の下級武士の手記によると「上様(織田信長)のご命令で徳川殿を討伐する」と下知されたとあるね
「上様がご命令なさるならそうなのだろう」と誰一人として信じて疑ってなかったとか >>464
だからそれが元寇で事情が変ったわけだよ
鎌倉と福岡を何回も往復しなきゃいけないわけだから
必然と馬が通れる軍事街道を整備する
必然性が生まれた
だけど、国と国が争う時代が
そのあともずっとつづいてたから
要所要所はわざとふさいであったわけだよ
信長はそれを壊していったから
秀吉が大返しできた 金閣寺を建てたのは誰?→答え 大工さん
に近いものがある。 >>459
波斯、インドでいうパールシーが日本に渡来していたのは出土品からはまず間違いないとみてる
彼ら中国に移住してきた古代ペルシャ人が祆教景教やヘレニズム文化を日本に持ち込んだ 自然の防衛施設である細い道や行き止まりをぶち壊して
でかい軍事街道を全国に通そうとする
天下統一の野望をもった魔王信長を止めろいう全国の武将の圧力が
家臣のどこかに来てもおかしくないだろ? なぜ信長が秀吉を重用したかもそこにつながる
秀吉は他の名家の武将と完全に違って
軍事土木建築の専門家だったから
百姓なのに信長によって武将になれた
つまりわざと細い道、行きどまりだらけの日本で
軍事街道を全国に広げようなんて思ってたのは
信長が最初なわけだ >>425
大航海時代は単純にオスマンが強すぎて
中東の内陸貿易路自由に使えなかったから >>474
ならなおさら
国際航路の発見がなければ
イギリスが世界支配の野望をもつことは
なかっただろ?
つまり元寇こそが信長の
天下統一の野望の起きた原点 >>1
そんなもの50年前から言われてるのに今さらドヤ顔で言われてもな… ちなみにそんな秀吉の部下をずっとやってた家康は
建築土木に自信があったから
未開だった関東平野を拠点にすることができたわけだ >>152
信長に手傷を負わせて蘭丸を殺した人は自分も怪我したんで山崎の戦いには参加せず生き残り
主家が無くなったので何故か鬼武蔵さんに仕えて、その後旧知の寺沢に仕えて九州の唐津に行ってる
嘘か真か、唐津城に寺に寄進された信長に傷を負わせた槍が展示してる >>6
曰く、居城でもない鳥羽に陣を構えてるんだから
1くらい読めよ 細かいくだらない書類まで残ってるから
想像出来るんだよなw日本は🇯🇵 普通に考えれば
大将が前線に行くなんてありえないから
前線を駆けずり回ってたのは
ロンメル将軍ぐらいだろ 信長は本能寺の変で生き延びて蝦夷に渡り
そこから大陸に行ってジンギスカンになった >>477
北条氏が内政家で、北条氏の治世ですでに領内の検地・伝馬制が確立され
民心も安定し非常に統治しやすかったからと聞いている 信長が逃げなかったのも事前に光秀が鳥羽に駐留してると報告受けてて逃げ道を塞がれたのを知っていたからかも 秘書が誤解してしまった
説明が足りなかったかもしれない >>407
明の悪人、懐良親王に殺されてるじゃん? 信長の始めた楽市楽座も軍事街道と同じだ
でかい市場が各所になければ
軍事物資を自前で大量にもっていくしかない
相手の兵糧を襲うなど余計な軍事行動も必要になる
市場がそこここにあればそこで調達すればいい
軍が身軽で移動も速くなる
日本の天下統一を具体的に考えればなくてはならないもの
つまり天下統一のための具体的な行動を起こしたのは
信長が最初ということ >>425
偉い人は馬に乗れるけど、御付きは徒だから、
あんまり意味がないんだけどね。 >>484
関東平野は家康が江戸に拠点を置く前は
ほとんど誰も住んでない原野だろ
家康が関東を切り開いても
まだ新潟や大阪に人口で劣っていた 進軍経路的に
本陣の光秀が本能寺よりさらに南の鳥羽まで行って布陣するなんてありえないけどな
せいぜい鞍馬口あたりで布陣したならわかるけど >>464
奈良時代には古代山陽道(道幅8m以上)を大和盆地から太宰府まで通してたんだけどね
一定距離感覚で駅馬を飼育する駅家(うまや)を置いていた
その後、大量輸送が利く船に貨客が奪われて、道そのものが衰退したけど >>474
当時、大型輸送は船だよ?
ラクダなんかw >>491
街道が開けてなければ
偉い人も馬に乗れないわけだが
老いた秀吉が大阪佐賀を往復できない
このときはじめて老人でも
こんな遠くまでこれる道が完成したんだろ こんな細かい所在地で「行かなかった」とか言い出すんなら
信長は桶狭間に行かなかった、とか言いたい放題やで >>489
楽市楽座は信長が最初じゃないぞ
信長以前に近江の戦国大名六角定頼が楽市令を出している
信長は六角定頼の後追いに過ぎない
それに楽市楽座なんて信長や六角氏以外にも北条氏や今川氏がやってるんだが >>494
そんなの想像だからw
旧街道はリアルに残ってるから
広さもわかる
わざと狭く細く作ってある
戦国の名残だな >>1
>明智光秀は本能寺に行かなかった?
当時はGoToは無かったからな! 原始時代 源氏
平安時代 平家
戦国時代 織田信長
江戸時代 徳川家康
昭和時代 天皇陛下
平成時代 安部
令和時代 菅官房長官
だいたい合ってる? >>498
天下統一のための不可欠な道具として
確実なビジョンをもって広げたのが
信長が初めてなんだよ
全国軍事街道と同じように
百姓の秀吉を軍事土木建築の専門家として
重用したのもそうだし
明智はそろばん侍みたいに
物資調達のために重用されたんだろ?
ぜんぶその目的のために
ほかの武将にはない発想と登用をしてるんだわ >>492
北条氏治世の武蔵は全国3位の60万石に達しており(駿河が15万石)
けっして荒れ果てた原野ではない >>503
関東平野は全国でもけた違いの広さがあるんだから
逆にいえば、
ほとんどが未開ってことだろがw 独裁者によくあるように信長が暗殺を警戒して宿所を頻繁に変えてる可能性もあるから
光秀本人が全力上げて本能寺に行ってもぬけの殻だったら目も当てられないので自分はそれに備えて京都の出口を塞ぐ交通の要衝にいてもおかしくない >>504
上杉謙信の治める越後でも30万石程度だったが 信長はいつ寝返るかわからんようなやつを
出自の引くいやつを才能で登用した
全国天下統一に欠かせないからだ
世襲、血縁ありきの当時の日本では異例の武将
そして実際に裏切られた
んで、「是非も無し(ですよね〜)」と
天下統一のどでかい狂気かつ本気の野望が先になければ
そんなことしないし、信長以外はやらなかったわけだ >>506
平野が小さいからだろ?
しかし人口は日本一だからな
土地は開けていた まあ光秀が先人切って突撃した様に見せたほうが、ドラマ化や芝居にしたときに見映えが良いからな。 >>509
越後平野と信濃川があり、人口も多いが
武蔵の半分程度の石高にとどまった >>505
出口を塞ぐ、だったら信長は本拠の安土に逃げるのが第一候補なんだから
東山に陣取って無いとおかしい
南の鳥羽に陣取るなら普通に南を警戒していたのだろう
自分と同じく中国方面援軍を申しつけられて出陣準備していた高山右近ら摂津衆と
四国方面軍で大阪にいた丹羽長秀と織田信孝がいたから 山崎の戦いでも、明智は後ろにいた。
上杉謙信のように前線で戦う軍神ではなかった。 グーグルマップの航空写真を見てみろよ
越後と関東平野の大きさの違い
下手したら10倍はあるんじゃないか?
正確な地理感覚の欠如した歴史なんて
完全に妄想の領域
はっきりいって文献ばっかみてるやつはそういうのが多い 戦国や幕末に関してはよく若い女が蘊蓄オッサンの巣窟なのに興味持つな
卑弥呼のほうは女がいないそうだけど蘊蓄オッサンの種別が違うのかな >>502
楽市楽座始めたときに天下統一目指してたの?
歴史名探偵コナンにでも書いてたか? >>476
そうなの?
学校の歴史で学んだけど、今はどう教えられてるんだろ。
ちなみに、壇ノ浦の戦いも無かったとかw
海外の歴史教科書を笑ってられないわ。
日本もねつ造ばっかり。 新潟平野というと米作のイメージが強いがそれは江戸時代以降治水が進んでからの話 >>47
くだらん古文書は文書されるべし
六角なんとかという書物も焚書されるべきだった >>519
天才のビジョンは凡人には理解できないよな
だから優秀だった明智もついてこれなかったわけだw
後付けだが、やってきたことをみたら
最初から天下を確実に狙っていた
まあ最初に聞いたら、信長はうつけとか
言われるわなw
でもだんだんガチになってきたわけだろ
最後は誰もが本気とわかって
ついてこれない老いた明智が裏切ったと >>521
そもそも耕作可能な平野面積が
関東の10分の1ぐらいしかないし
その上で稲作が栄えて人口日本一になった
いかに関東平野がずっと未開だったかってこと
いま明治維新いらい、
国家の全リソース投入してるから
関東が栄えてるように見えてるが
まあ昔は未開も未開だったちゅうことな >>505
当日と言うか、前日にお茶会して、
京の貴族も大量に押しかけてるのに、
信長がいないとか、ないわww
信長は周囲に敵はいないので、安心して泊ってたわ >>517
そこに下総と上野が入ってるからな
平野部で武蔵と同等の面積であり、人口も多かった越後が武蔵の半分の石高であったのが現実
武蔵がけっして荒れ果てた荒野では無いという証明になっている >>526
吉良はかなり襲撃を用心していたが、
あいつら、こないよ。
命日に来るかなとか、待ってたのに、
なかなか来ないよ。
で、そろそろいいかなって茶会したら……… ようするに徳川家康は
信長と秀吉という二人の天才の成功と失敗をじっくり見てたから
江戸で成功したわけだ
だから江戸400年を作ったのは
信長でもあり秀吉でもあると言えるな >>525
本能寺の変前夜、信長は囲碁の名人を呼んで対局させたんだよな
三コウ無勝負という珍しい結果になって信長と名人は首をかしげたそうだけど
本能寺の変を知った名人はあれは不吉の予兆だったのかと震えあがったとか
この逸話は信長が全く無警戒で無防備だった証拠でもあるんだよな 家康が堺から岡崎に戻った距離と日数、その道をYoutubeで解説してるの見たけど、その速さが不可能なほどだった。
天皇と家康がそそのかしてやらせたような。家康は謀叛を事前に知ってただろ。 >>530
関東平野と言ってんだがw
平野に川以外の自然の要衝はないだろがw
多摩川やら川に橋をかけまくったのも徳川だろしな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています