【歴史】明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行、古文書に [ごまカンパチ★]
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※朝日新聞デジタル
https://news.yahoo.co.jp/articles/1ade4e8214a4e27f466490a44d787af505f62b40
戦国武将の織田信長(1534〜82)が、配下の明智光秀(1528?〜82)に討たれた本能寺の変(1582年)をめぐり、光秀は本能寺(京都市中京区)の現場には行かず、
部下に実行させていたとする学説が出てきた。本能寺の変に参加した家臣から聞いた情報として、事件から87年後にまとめられた古文書に記録されていた。
これまで映画やドラマなどでは光秀本人が寺を襲ったように描かれてきたが、それを裏付ける史料はなく、研究者の間でも議論されてきた。
古文書は江戸時代前期に、加賀藩(現在の石川県と富山県の一部)の兵学者、関屋政春(せきやまさはる)が書いた
「乙夜之書物(いつやのかきもの)」(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵、3巻本)。
史料の存在は一部で知られていたが、主に加賀藩に関わる部分が注目されてきた。
このほど、富山市郷土博物館の萩原大輔主査学芸員(日本中世史)が読み解いて明らかにした。
萩原さんによれば、本能寺の変の記述は1669年に成立した上巻にある。
寺を急襲した光秀軍を率いたとされる重臣の斎藤利三(としみつ)の三男で、自らも数え16歳で事件に関わった利宗(としむね)が、
おいで加賀藩士の井上清左衛門に語った内容として収録されていた。
利三と、光秀重臣の明智秀満(ひでみつ)が率いた先発隊2千余騎が本能寺を襲い、光秀は寺から約8キロ南の鳥羽(京都市南部)に控えていたと書かれている。
奥書(書き入れ)には、関屋が息子のために書き残し、他人に見せることは厳禁とある。
萩原さんは「関屋の自筆本で後世の加筆もないとみられ、事件に参加し、重要情報に触れ得る立場の人物が情報源であることから、信頼性が高い記述ではないか」とみる。
光秀本人が本能寺を襲ったと考えられてきたのは、光秀と交流があった公家の吉田兼見(かねみ)の日記(1570〜92年)などに
「惟任日向守(光秀のこと)、信長之屋敷本応寺へ取懸」などと記されていたためとみられるが、うわさを書き残した可能性も指摘される。
光秀が本能寺に行かなかったことについて、本郷和人・東京大史料編纂(へんさん)所教授(日本中世史)は
「十分あり得ることではないか。光秀自身が最前線に赴く必要はないし、重臣を向かわせたのも理にかなう」と話す。 >>729
何を言ってるのかね?
敵対してる戦いならともかく謀反やからな。 明智光秀は子供が細川氏に嫁いでキリシタンになったんだな
信長に会わないよう指示されてたかもな
だってポルトガル人は当時ホイールロック式銃を売ろうとしていたはず
でも扱いにくいし信長が買ったという記録はない
まあ推測だけどそれでキレられたんじゃない? 〇〇城を建てたのは誰?って聞かれて「〇〇武将」と答えず「大工さん!」と答えるのは
間違いのようで間違いではない。城を作ったのは武将でもあるし
城を建設したのは大工。同じようで同じじゃない・・
そんな感じじゃないか? >>38
軍事的に圧倒的劣勢かつ調略で味方同士疑心暗鬼に陥っている当時の毛利家に、そんな力はない 歴史に詳しい人が多いから聞いておきたいことが有ります。
まずなぜ信長の後継者が秀吉なんでしょうか?織田家と関係ないのに。織田家に使えていたのではなくて信長という人に仕えてたと言うこと?今の時代と戦国では価値観や主従関係が違うかも知れないけど。そうすると他にも信長配下は居るけどなぜその人達は我こそは!!と立ち上がって天下を狙わなかったんだろ?
次にそれこそ信長の本当の子供達はなぜ秀吉に天下を譲ったのかな?織田家の後継者は俺だ!と名乗り出る男はいなかったのかな?出来上がった家に生まれて生ぬるいボンボンで信長のように覇気がない名目だけの子供達ばかりだったのかな?織田家は秀吉の天下の頃には滅んでるけどなぜ織田家の子供達は何もせず秀吉に滅ぼされたのか気になる。
秀吉が天下人になるときなぜ家康は配下になったんだろ?結局関ヶ原で秀吉殺すなら最初から自分が天下を取ればよかったのに。
戦国は謎だらけ。 >>617
寝てたかどうかは判らんが、眠れる時にしっかり休養するのも将としての嗜みだろ
寝不足でフラフラしながら戦の采配されたら堪らんわ >>742
八重の桜思い出したw
最後の逆転チャンスの奇襲攻撃に寝坊で遅れて敗北して中村獅童をw >>643
あとは明治天皇ね。
その時に蘭奢待の芳香について詳しく記録されたものが残っている。 >>741
秀吉が後継なのは秀吉が一番最大兵力を運用できる勢力で、一応信忠の息子を擁立してたから
諸侯が仕えてたのは織田家で間違いないけど正しくは「自家を守ってくれる強い織田家」に仕えてたのであって「自家を守れそうにない弱い織田家」に仕えるなんてのは当時の職業意識的にありえない、だから強い羽柴家に鞍替えした
我こそはって人は秀吉に負けて潰れた
秀吉の時代に別に織田氏は滅んでないしむしろそのまま江戸時代まで殿様として続いていってる
家康が秀吉の配下になったのは戦っても最終的に押し潰されるのが目に見えてたから
関ヶ原で家康は秀吉となんて戦ってない
ザックリこんな感じだろうか >>746
すごい!天才だ!
やっぱここの人達の知識は凄いです。
江戸時代まで織田家残ってるとかほんまかいな?秀吉時代に滅んでると聞いた記憶があるのですが。
織田家は本能寺で滅び、秀吉は関ヶ原で滅び、てはず。 >>708
洛外まで進軍してた軍を京都まで返してるから部下の暴走はないと思う >>747
信雄の子孫が残ってなかったっけ?
三介様の為さることよ(ノ∀`) >>750
もちろん直系ではないけど天皇家も織田の血が流れてい
るよね >>747
秀吉時代の織田氏は秀吉から見ると旧主の親類縁者ってのもあって基本的に大事に扱われてる
本能寺で織田一族は結構死んだけど、なんと言っても信長は男だけでも10人以上兄弟がいるし息子の信忠も同じく男だけでも10人以上兄弟がいるしでめちゃくちゃたくさん一族はいる
江戸時代に殿様身分で残った織田氏はいくつかあるけど織田の本家扱いされたのは信長次男の織田信雄(おだのぶかつ)って人がそう >>750
奈良か近畿方面にも織田藩あった
大名未満の旗本クラスにもいた >>753
奈良県には何故か織田家の末裔の藩が複数あったのな
信雄直系は官位や席次で江戸幕府からも優遇されてたのに、お家騒動で並の小藩扱いになっちゃった
子孫は余り偉い人は居なかったみたい >>741
清洲会議って言葉くらいは聞いたことあるだろう。
信長亡き後の相続人を決める会議。
結果から言えば、織田家は死んだ当主、
信忠の嫡男である三法師が継いだ。
だがこれはあくまで形式上のことで、
3歳児に政治なんてできるはずもなく、
その後見人である秀吉が織田家の実権を握ったわけだ。
もちろん、家臣団筆頭の柴田勝家などは猛反対して挙兵したが
あっさり討伐された。
柴田勝家でも敵わないのに、他の有力武将が
敵うはずもなく、次々と懐柔され秀吉の権力体制が確立されたという流れ。 いつのまにかID:nQ9Y/8aw0のお守りをするスレになってるな そもそも、武士って何なんですかね?
日本史に突然登場して、政権牛耳ってさ。
800年も日本を支配してた人達。
この正体を解明しないと、日本史そのものを読み解けない気がします。
因みに、古代日本の四大階級といえば >>758
元々は契丹が連れてきた新羅の兵隊
遼史に出てくる日本国王府が幕府政治の
始まり >>725
出生地だからな、ウィキ見ると父親が誰なのかで出生地が決まるっぽいんだ >>731
いやさ、そもそも襲ったのが明智郡である必要すらないと思うんだ
当時あの近辺に居た軍は明智だけってなってるやん、表向きは居ない軍勢が
水色桔梗を掲げて攻めたら、密室殺人と同じで犯人は自動的に明智やん >>529
家康公と早いうちに知り合ってるし、天海ルートっぽいよね。 光秀は本能寺から約8キロ南の鳥羽に控えていたって
坂本城からの行程も含めて距離を東京で例えたら
吉祥寺を出発して信長のいる東京駅に部下が突入
光秀はお台場あたりで指示出してたとかってカンジだろ
なんかビミョーだな 信長の死体を運び去ったのは本能寺の坊主
光秀を匿って一緒に逃げたのが家康
後は 信長家臣団の殺し合いを笑って見ていた なかなか興味深い惟任日向のスレ
まあ光秀公が本能寺に親征したかしないかは
>1をみてもウリのレベルじゃそのジャッジはわからないなあ。
ただね、スレを見ていて自称愛国者ネトウヨども
自称国家の軍師ネトウヨ軍オタどもといった
自称一個師団の指揮も可能な自称愛国聖戦士さまが
このスレでドヤ顔で口々にいっていることは違うってことはわかるなwww
ネトウヨくんたちさあ「大将は前線に立たない、それが戦場のリアリズム」って
大将気取りでこのスレで言っているけどw
まあゲームの戦国無双とかみたいに光秀自ら長刀もって
ガチで最前線で切ったはったしているとは思わんけどねw
でもさ、前線指揮をとったとしてもおかしくはないよな。
だって、これ、自分がやってるのアナーキーな謀叛だからねw
いくら部下だって自らの直臣だからってビビッてヒヨって
チクッたりバックれたり裏切ったりって、そこは一番考えるよねwww
や、光秀サイドはさ、何も信用できないんだよwww あとね、まさに本能寺の謀叛ってさ
まさにチャンスは一回の乾坤一擲の大勝負なわけで、
ここでね、本能寺の第六天魔王たる信長と
当時名目上織田家当主(信長は当時隠居)の織田奇妙こと信忠、
これを同時に討ってないとパーペキにオワコンだからね。
どっちを逃がしても生き残った方がスーパー激おこの果てに
全織田家領内にくわえ徳川その他属領エリアに布告して
不忠不孝の謀叛人明智一派の追討に動くし、皇室からも逆賊認定でるでしょ
つまりこの国に光秀一党は寄る辺なきノーホエアマンなるんだよなwww
逆に言えば史実がそうであるように、勝てばね、朝廷も悪い顔はしないし
畿内の諸大名も大小色々ファニーな動きをするわけだ。筒井順慶とかw
ま、それはともかく一敗地にまみれたら、
コンテニューなしのゲームオーバーなわけでw
それはさあ、金柑先生も前線に出張って現場監督するでしょ?
だって自分の命に天下の帰趨がかかってんだからwww
もとより再起をはかるとかそういう観念ないしね
(これはその明智退治に動いた秀吉の方も同じ)
文字通りオールインなんだよ。謀叛ってそういうもんだけど。 >>768
よく犯人の気持ちになって犯行動機を考えてみろと
そうすれば事件の全貌が見えてくると刑事がいいそうだろ?
光秀の立場になって、考えてみたんだよ
信長への謀反なんて事前にバレたら、それで一巻の終わりだよな
だから謀反の計画はほんの一握りの信用できる家臣にしか知らせていないわな
兵たちはもちろん知らんし、明智光秀の家臣の中で位の高い連中でも知らん人いたと思うだよな
光秀配下の武将でも光秀をお館さまと忠誠誓っているというよりも
信長の家臣みたいな武士が光秀配下に客将みたいな形でついていたかも知れんし
それこそ目付みたいな立場で入り込んでいる武士もいたかもしれんし
本能寺を襲った武将は本当に信頼できる部下であって
信頼できない連中は光秀とともに離れた場所で待機していて
本能寺の変が起きたときは、なにが起きているのか知らん家臣も大勢いたのではないか?
そんな状態で光秀が本能寺を襲撃していれば
離れた場所に待機している軍勢は、逆臣光秀を撃ち滅ぼせ!と
逆に光秀刃を向けてくる可能性があるじゃないか?
その不安があるから、光秀はあえて本能寺から離れた場所で
それほど信頼していない家臣たちと待機して
信頼していない家臣たちの動きに目を光らせていた、
そんな感じだったのではないかと思うんだよね >>705
織田信長暗殺の黒幕が明智重臣だったり
徳川家康だった可能性まで想像し得るね そりゃ大将が最前線になんてゲームじゃないんだから
信長と別にいた信忠の動きにも備えなきゃならないんだし >>771
他人の気持ちになる、なんて事は出来ない
同じ事でも誰かは怒り、誰かは喜ぶわけで 徳川が明智を擁護したのはたしか。東照宮周辺に由来の建物がある。 >>106
信長がいなくなって動きやすくなるってなら沢山いそう >>769
そんな歴史ロマンを妄想するのは作家やマニアのやること
年寄りの光秀が現場にいたら、信長を殺すことよりも主君光秀を守るために兵力が裂かれるので話にならない
信長の桶狭間の急襲にしたって、信長の偉業をたたえるための作り話の可能性がある
通常は奇襲部隊なんて決死隊なのだから、そこに大将が参加したりしない
君は勝手に歴史ロマン小説でも妄想してりゃいいよ >>776
明智門なんかも残ってるぞ。
まあ徳川家光も春日局が乳母だったが家光の光は光秀から取ったなんて話があったくらいだからなあ。
少なくとも明智光秀と徳川家康、千利休は情報を共有してたと思う。 >>499
発掘調査で古代山陽道の遺構が出ているのを知らないのですか?
自分の無知を棚に上げて、他人に想像だと決めつけるのはとても恥ずかしい行為ですよ? >>27
アベシ本人が岸の子って言って左翼教師に晒し上げられたとも言ってた
有名人の子も大変だな >>763
竹千代との出会いシーンで同じくそう思った >>781
確かに、学者の想像を遥かに超える遺構が最近発掘されてるな
幅広の直線道路を山を削り谷を埋めてゴリゴリ造っている
唯一の目的は大量の兵士と物資を短時間で移動させるため
外圧の下、日本が中央集権的律令体制構築に躍起になってた時代の物証だね >>766
かなり時間たってからの証言だし>>1の文献だけじゃ鳥羽本陣節は微妙だけど
ただ本能寺奇襲部隊を程度独立させた指揮権を与えた分隊とみるなら距離が離れることはそうない話でもない
例えば長篠の戦いの鳶ヶ巣山砦奇襲部隊は長篠から3km位離れてた砦を奇襲してた
8kmだと賤ヶ岳の戦いで勝家の本陣玄蕃尾城と佐久間盛政が強襲した大岩山砦くらいの距離だよ >>778
加勢してくれた>>780 くんが(合力多謝w)援用している
>>60くんのカキコを参照してほしいもんだが
他にね、まさにさっき言った通り一発勝負なんだからさ
自らの手勢も連れて前線には出るよねw
むしろ大将が離れたところにいてどうすんだってこと。
兵力の分散っていうならさ、大将一人ぽつねんと
寂寞たそがれているわけにはいかないんだからwww
それに牽制すべき敵ってとりあえずいないんだよな。
これは話が逆でそういうロケーションだから挙兵したんだからねw
自分が万単位の兵隊持ってて主君に当主が数百人の親衛隊しかいないってんだから
まさに信長父子の主君筋を弑逆し、朝廷を牽制できるか否かがすべてでね。
京都洛中内外を制圧し、権力中枢を抑えることに全力かけるのが
これはデフォなんだから、それはいたんじゃないかなあ。普通に考えて。
…と、いうよりチミが光秀なら、何はなくとも不安にならない?w
尾張の守護代の傍流から徒手空拳に唾し天下布武になりあがった
一代の英雄にして梟雄、第六天魔王を仕留められたかどうかさ。
謀叛の成否と自らの運命、次代を決める結果、一番先に、知りたくならない?www >>781
東日本でも古代東山道の遺構が出てきてるけど幅10m近くもある大きな道路で荷車の通った跡らしきものもある >>706
う〜〜〜ん、もうしわけないけど
1582年? 当時はオランダという統一独立承認国家はなかったと思うよ。
まさに独立戦争中でその母体となるユトレヒト同盟はあったと思うけど。
まあ、当時は本邦とか鎖国とかなかったし
南蛮商人なりコレジオのバテレンあたりから欧州史を聞いて
オランダ独立戦争こと八十年戦争にいっちょかみしたろと
信長公が考えたと思うのは、こりゃロマンだがwww
(ただ当時の在日南蛮人(!)はスペイン人でしょ、
ポルトガルもいたろうが同君連合だしねw
で、そのオランダが独立戦争している相手がスペインなんで
これはどうなんでしょうねwww) >>756
三谷幸喜監督の同名タイトルのコメディ映画なら知ってる人も多いはず。
「ステキな金縛り」の落ち武者こと更級六兵衛が、ほんのちょい役で出てくるのかミソw
(ちなみに彼は架空のキャラだが、後北条氏に仕えていた
とある武士がモデルであるとの事) 常識的に考えれば外様でかつ重用されるということは最も警戒されているはずで
本人が不穏な動きを見せたらバレバレだろう >>790
信玄が死んでめちゃくちゃ浮かれてたときだからな。
一番ヤバいと思ってたヤツが死んだんだから
油断するのも無理はなかろうて。 >>747
三法師が(豊臣家臣ではあるが)大事にされて、
元服後、織田中納言秀信として、岐阜城主となる。
しかし、関ケ原の戦いで西軍につき、改易されて高野山に追放。
最終的には、高野山からも追い出されて死ぬ。
子孫がなかったので、ここで織田の嫡流は滅んでいる。
ただ、信長の子孫とか織田一族の子孫はうじゃうじゃいる。 >>786
かなり頭の悪い人の妄想だねそれ
こんなの光秀の独断でやれる謀反ではない
信長と利害対立していた多くの人間が裏で綿密に動いたと考えられる
年寄りの光秀は何かあった時の責任者として担がれただけだろうね >>69
桶狭間とは違うよここ
現場は山じゃないんぜ?
自陣営を奮い起こすために先頭切って敵陣に突っ込む必要性もないし、
逆に光秀が動いたら、その動きを信長陣営に察知される可能性がある
そもそも信長はここで供の者も少なかったようだから、
何らかの密談をしていたとも考えられるが、
その密談相手もグルだった可能性すらある 87年前というと2.26事件があった頃だな 信憑性は高いな >>786
んーどうだろ?
別働隊にある程度の指揮権与えて数キロ先にある敵を強襲なんて普通にあるしなぁ
長篠の鳶ヶ巣山砦奇襲、山崎の大岩山砦、長久手の白山林とか
長久手でいえば秀吉本陣は犬山で別働隊の池田と家康で長久手で戦ってたし
見方が敵に自分を売る事は考慮に入ない訳はないと思うけど
それ言いだしたら何も始まらない
だからこそ別動隊は信頼のおける人物置くか自軍有利の時にするもんだし
後立地的に本能寺は東は市街地、西は西洞院川に挟まれて大軍を配置するのにあんま向かないんだよね
一番厄介なのは逃亡されて大阪にいる四国方面軍との合流でしょ
市街地で大軍動かすのはリスクあると思うな
だったら南の大阪に繋がるく街道抑えて逃亡阻止したいというのは合理的だと思うけど
もちろんこの考察にも穴があって
光秀が引き返した山陰道で逃亡はないとしても山陽道どうすんだってことになるけど やっぱ信長の亡骸がないのがこの事件を
ミステリアスにしてるんだな 仁義なき戦いでいうと 菅原文太だろうな 光秀
秀吉 : 田中邦衛
家康 : 梅宮辰夫
信長 : 金子信雄
義元 : 山城新伍 >>800
子供がまだ食べてるでしょうが!!を勝手に殺すなwww >>784
古墳時代ですらあの規模の古墳をあちこちに作る技術あったんだから、土木技術は思ってるより高かったんだろうな そりゃ今日にいる少人数の信長殺すのにわざわざ街中の狭い現地いる必要ないからな。
騎馬で30分もしない場所なら伝令で足りるし、何より逃がすとしたら南しかないんだし、対大坂勢対応の意味でも鳥羽に構えるのは理にかなっている。 >>794
独断でやっちゃいけない行動なのに独断でやっちゃったから
孤立無援で3日天下で終わったんだろ 総大将が最前線に居ること自体が不思議ではあったからな。配下の武将に指揮を執らせるのは普通だし。
鳥羽であちこちに伝令はしらせて色々と工作してたんちゃうか? 歴史研究者というインチキ新説唱えるガイジは淘汰されろや >>122
まあ
秀吉と家康の動きが早すぎるしな。
前もって知ってたか
そんな遠征はしてなかった疑いを抱く。
何万という兵と秀吉、家康が会えるわけないし。 もし信長が予定より早く本能寺を出発してたら光秀は赤っ恥だったな >>1
伝聞の伝聞だし変後80年以上経ってから書かれてるし、明智軍記と大差無いような気もする。 >>47
>所ジョージのせいで消えていく古文書
高須院長が皇室に献上して失笑買ったやつみたいな? >明智光秀は本能寺に行かなかった?家臣が実行
愕然とする光秀
そして、やっちまったのなら仕方がない(「是非に及ばず」は実は光秀のセリフであった)
と腹をくくったのであった そりゃーリモートでできたんなら、それに越したこたぁネエわさ。 急な異変で混乱中なのだから
明智は中国攻めの最中のはずだと普通皆思うだろ
最初は家康が信長を強襲したという流言があったんだぞ >>798
信長と黒人の侍は、一緒に外国に行ったのでは?
もう日本めんどくせーから明智、お前に任せるわっつって
暗殺したことにしてさ 何となく秀吉と共謀して信長を討つ計画を立ててた気がするんだよな。最終的に権力争いに勝って、謀反は全て光秀のせいにして自分が成り上がったというのなら納得いく。 >>816
当日まで京都に居たからな。
だから>>808になる。 道三と息子が一騎打ちした時点で大河見るのやめた
序盤に光秀が暴れん坊将軍のように野党を切り捨てていく時点で吐き気がしてたけど
生きるか死ぬかの闘いなんてしないから、歴史に名を遺す奴は そんなことより
前田利家の裏切りをちゃんと書けよ
加賀藩 >>789
滝川一益が延々と走ってたやつだっけ??
清州会議が映像化される度に滝川一益=無能ってレッテル貼られるから気の毒だわ。 本能寺の変の凶報は秀吉が一番早く知ったと思われがちだが
三河にも秀吉と同時期の6月4日には既に情報が届いてたんだよな
松平家忠が書いた家忠日記の天正10年6月4日条(変から二日後)では以下の事が記述されてる
・光秀が謀叛した事
・信長父子の件は極秘扱いにすること
・家康は堺にいる事
・家康は伊賀から伊勢を通って大浜に上陸した事
・穴山梅雪が切腹した事
・織田七兵衛信澄の謀叛は風説だった事 >>824
信長の家臣団は皆、光秀の謀反に対し
本領と自分の身の安全を守るので手一杯だった。
秀吉が毛利方と話をつけて、あんなに早く戻ってくるのは誰も予想していなかった。 >>47
所を擁護するわけじゃないけど昔の人も似たようなことを
していてふすまや屏風の裏紙が実はなんてことはざら
ここ数年人気の一閑張り細工も古文書を使うといい感じになると
いうんで売られている古文書が使われてたりする
一番最悪なのは家の人間が興味ないからと蔵にあったのを捨てたり
ヤフオクなんかでバラ売りされてしまうこと >>825
いやいや秀吉もとりあえずはその前段の例の通りだよ
自分の領地が長浜と姫路だから姫路までまず必死に逃げて来たの
逃げてくる途中に北摂の中川清秀とかとお手紙やり取りして合流しようってことになったの >>821
上杉謙信は
小田原城の目の前で
酒盛りをして籠城中の城兵を挑発してたそうだがw >>827
大返しの途中中川清秀に宛てた書状は秀吉の必死さと頭のよさが垣間見られて面白いよね
6月5日付中川清秀宛秀吉書状では信長・信忠父子は無事に切り抜けて膳所まで退かれた
更に6月10日付中川清秀宛秀吉書状では柴田勝家が越中を平定して既に上洛を開始してる
と二度も大嘘を言って調略してるもんな >>794
光秀に呼応したのは誰?
秀吉の大返しに妨害が無かったのは何故?
単独犯でなければ何らかの妨害が為されるはずだが >>795
本能寺は信長常宿だし、家督は既に委譲されてたわけで=小姓衆しか居ないのは当然 年上の光秀をいじめて屈辱を与えておきながら
謀反されないと思ってた信長が甘ちゃんすぎて笑える
信長みたいな未熟なアホが天下を取らなくて本当に良かった >>831
本能寺は信長の定宿じゃないぞ
定宿は妙覚寺
泊まった回数も本能寺が数回に対して妙覚寺は20回近く泊まってる 信長は本能寺でなにをしていたんだろ?
よくテレビ番組では日中は公卿たちを招いて
茶器の自慢をしていた、ってやっているけれど
信長のコレクションも本能寺の変で全焼してしまったんだろうな
もしも今残っていればどれもこれも億単位の値段がついただろうに、もったいない >>829
大嘘をついてると非難されても、いやーあの時は私混乱してましたんでと逃げられる
秀吉はとんだ喰わせ者
実際に何をやったかなんてわかったもんじゃない(証拠はぬかなく隠滅したであろう) 秀吉の大返しも見事だけど
家康の堺から逃亡して5日に帰着、三河衆を糾合して14日には先発隊が北伊勢、本体鳴海もお見事
最初から軍を率いてた中国方面軍、四国方面軍と違って討伐軍編成からスタートと考えるとこれもなかなか
仮に秀吉の大返しがなくても西の中国・四国方面軍、東の徳川軍に挟まれて光秀詰んでる
どう転んでも本能寺後の光秀に勝ち目などなかったという
秀吉・家康の有能さが頭抜けてる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています