のりものニュース2/3(水) 6:20配信/杉山淳一
https://news.yahoo.co.jp/articles/b15b78862e9047ab2091373edffe5e2458cb2681

スキー客向けの臨時列車はJR各社も2005(平成17)年まで「シュプール号」という名前で運行していました。「シュプール」という言葉は「スキーやそりの滑った跡」という意味です。青函トンネルと瀬戸大橋が開通したときの内容を収録した『時刻表完全復刻版』1988年3月号を開くと、次のような「シュプール号」が見つかります(注記がないものは、往路が夜行、復路が昼行)。

●首都圏発
・急行「シュプール白馬」千葉〜信濃森上
・急行「シュプール信越」東京・新宿・上野〜妙高高原、信越本線経由
・急行「シュプール上越」大船〜小出
・急行「シュプール蔵王」横浜〜山形
・急行「シュプールレインボー蔵王」上野〜山形
・急行「シュプール猪苗代」上野〜猪苗代
●名古屋発
・急行「シュプールユーロ赤倉」名古屋〜妙高高原
・急行「シュプールつがいけ」名古屋〜信濃森上
●京阪神発
・急行「シュプール’88(妙高・志賀)号」神戸〜長野、北陸本線経由、復路も夜行
・急行「シュプール’88(白馬・栂池)号」西明石〜南小谷・白馬、北陸本線経由、復路も夜行

3月号の時刻表ですから、雪が残る地域も少ないはず。それでもこれだけの「シュプール号」が走っていました。このほか、後年には急行「シュプール草津・万座」(大船〜万座・鹿沢口)、急行「シュプール野沢・苗場」(神戸→越後湯沢)、特急「シュプールサンダーバード」(西明石〜黒姫)などがありました。

シュプール号の列車種別は基本的に急行でした。当時は、同じ路線を「アルプス」「妙高」「きたぐに」といった夜行急行も走っていましたが、スキーシーズンの乗客増をシュプール号が引き受けていたのです。しかもシュプール号の車両はワンランク上の特急用車両が使われました。料金も宿泊施設を組み合わせて格安に設定したため、スキー愛好家にとっておトク感があり、大人気だったようです。

座席列車でもスキーバスのような窮屈さはなく、渋滞もない。マイカーで慣れない雪道をドライブする必要もありません。ビールを飲んで一眠りして、目覚めれば雪国です。到着駅からスキー場に連絡するバスも用意されました。

鉄道趣味的には使用車両が注目されました。特急用車両だけではなく、なかには団体列車などに使われるジョイフルトレインのキハ65系「エーデル」編成、キハ80系「リゾートライナー」、12系客車「ユーロライナー」、14系客車「スーパーエクスプレスレインボー」なども投入されました。希少な例ですが寝台車を使った列車もあり、583系電車と485系電車の混結編成という珍しい運用もありました。

シュプール号誕生の背景は第3次スキーブームです。スキーブームは高度経済成長期以降、観光・レジャーが旺盛となった1960年代が第1次、札幌オリンピックが開催された1972(昭和47)年頃が第2次、そしてバブル経済期の1980年代後半が第3次にあたります。第3次ブームの象徴として、映画『私をスキーに連れてって』があります。この映画は1987年に公開されました。撮影は1986(昭和61)年のシーズンで、シュプール号の運行開始と一致します。

第3次ブームは『私をスキーに連れてって』がきっかけと認知されています。しかし公開前からシュプール号の運行が始まっていましたから、ブームのきっかけはもう少し早かったと言えます。この時期はバブル経済だけではなく、完全週休二日制の普及とそれに伴うレジャー産業の発展がありました。

並行してバブル経済においては、地方の安い土地にレジャー施設を投入し、付加価値を与えて集客し利益を上げるというビジネスモデルが旺盛でした。山林を切り開いて作られたゴルフ場やスキー場などです。そして空前のスキーブームとバブル景気は、千葉県船橋市に全天候型スキー場「ららぽーとスキードームSSAWS」を誕生させたほどでした。

1990年代初期にバブル景気は落ち着きます。しかし、今度は円高傾向で海外のスキー用品が安く手に入るようになり、おしゃれなグッズ、スキーウエアが流行しました。これはスキーブームを延命する効果がありました。

一方、鉄道に目を戻すと1990(平成2)年に上越新幹線で直行できるガーラ湯沢スキー場(新潟県湯沢町)が開業。さらに1997(平成9)年には北陸新幹線(長野新幹線)が開通したこともあり、JR東日本は「新幹線でスキー」というプロモーションを始めました。

このような時代背景と車両の老朽化もあって、シュプール号は次々と姿を消していきました。最後まで運行した会社はJR西日本でした(長文のため一部削除)