【長野日報】幕末の水戸天狗党追討「和田嶺合戦」高島藩軍師の自戦記が発見 苦戦をつづり、幕府を痛烈に批判 [みの★]
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江戸時代末期の高島藩用人で、水戸藩浪士「天狗党」との戦「和田嶺合戦」で軍師を務めた塩原彦七の子孫、塩原晴彦さん(73)=諏訪市=宅から、彦七が同合戦場で感じた恐怖心、感動、斬り合いの様子を詳細に書き残した漢文調の自戦記「自戦和嶺記」が発見された。彦七が生まれて初めて臨んだ実戦で感じた率直な気持ちがつづられている。県文化財保護協会理事の伊藤文夫さん(73)=諏訪市=によると、合戦で軍師を務めた彦七が「戦地において死への恐怖心を抱いていたという人間らしさ、戦場での殺し合いの生々しい場面がここまで細かく描写された資料はない。大変貴重」としている。
自戦記は合戦から約200日後、療養生活を送っていた際に天狗党の顛末を頼岳寺(茅野市)の霊道大和尚から聞き、投降した天狗党に対する幕府の対応について強く憤ったことから「子孫に残すため」に書き残した。
塩原さんが5年ほど前に自宅の仏壇の引き出しの中から発見し、その後、大切に保管してきたが、漢文のため、内容を正しく詳細に把握することができずにいた。そこで昨年春に友人で歴史小説家の大久保智弘さん(73)=東京都=に解読を依頼。記載された内容のすべてが155年の時を経て子孫の晴彦さんの前に明らかになった。大久保さんは「幕府に対するこれほど痛烈な批判はすごい。もし、当時、これが子孫以外の他人の目に触れたならば、本人はもちろん、高島藩も大変なことになっていただろう」と話した。
…続きはソースで。
http://www.nagano-np.co.jp/articles/73448
2021年2月5日 6時00分 武田延子 耕雲斎の妻。人見姓。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年40。靖国神社合祀[1]。
武田彦衛門 耕雲斎の長男。水戸藩士。500石。書院番頭。諱は正勝。武田金次郎の父。元治元年(1864年)、小川勢を率い転戦し、10月、自首した榊原新左衛門と離れて西上し、慶応元年(1865年)2月4日、越前国敦賀で斬首となる。贈従四位。享年44。敦賀松原と水戸に墓、また靖国神社合祀[1]。
武田幾子 彦衛門の妻。藤田東湖の女。藤田氏。慶応元年(1865年)9月24日、水戸獄中で絶食して死す。享年43。靖国神社合祀[1]。
武田孫三郎 彦衛門三男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀[1]。
武田金四郎 慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀[4]。
武田とし 彦衛門の娘。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年11。靖国神社合祀[4]。
武田熊五郎 彦衛門の五男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀[4]。
武田魁介 耕雲斎次男。諱は正義。弘化(1844年〜1847年)以来国事に尽し、元治元年(1864年)、大挙して江戸に赴き、8月、那珂湊にて合戦、そのまま西上し、慶応元年(1865年)2月4日、越前国敦賀で捕らわれ斬首となる。贈従四位。靖国神社合祀[4]。
武田桃丸 耕雲斎の六男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年9。靖国神社合祀[4]。
武田金吾 耕雲斎の七男。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。享年3。靖国神社合祀[4]。
阿久津梅 耕雲斎の妾。慶応元年(1865年)3月25日、水戸で斬首。靖国神社合祀[4]。 水戸天狗党の蜂起をとめようと、貞芳院(徳川慶喜の実母)と、永原帯刀が止めに入ったが、永原は被弾して重傷 意次・意知親子の次に、田沼の名を世に残した、若年寄の田沼意尊。
悪役なのは、田沼のデフォだな。(´・ω・`) >>8
足を使えよ怠け者
文書の持ち主に頼むのが筋だとは思わないのか 天狗党の小説は何冊か出てるけどどれも面白い
大体水戸で挙兵して栃木市で内戦起こし、妻子も連れて敦賀まで逃げ延びて(全部徒歩で)、最終的に魚倉庫に押し込められて殺されるって今の世の中じゃ想像できん 天狗党の乱に参加した武田耕雲斎の孫(16歳)は年齢を理由に遠島に減刑されたが
水戸では一切参加していない幼児まで殺害された >>5
水戸佐幕派の苛烈さが分かる >合戦後の療養中に天狗党の顛末を知った彦七は、幕府軍を指揮し、天狗党の乱の鎮圧を任された若年寄、田沼意尊の戦に対する弱腰な姿勢と、投降後の天狗党浪士に対する手のひらを返したようなひどい処分に、
>「天狗党の勢い盛んな時は後方からのろのろと付いてゆき、形勢が変われば強権をふるう。この臆病さは幕政を握る身分にふさわしくない」と激しい怒りをぶつけている。
だそうな >>17
幕末の水戸藩が内ゲバでグダグダになって、
主役の座を薩長に譲る一因になったよな。(´・ω・`) >>16
水戸藩の勤王に殿様殺されてるし
頼みの綱の慶喜はガン無視だし >>16
敦賀に処刑された二百人ぐらいの天狗党員を祀る墓と神社あって、
そこに鰯蔵移設されて残されてる >>5
孫の武田金次郎は復権したら怨み百倍で暗殺しまくるし、妾との娘は大久保利通暗殺犯の嫁になるし、マジで血塗られた一族… はいはい、
わしのせいわしのせい
_勹
ノノ ヽ
/y _ _ミ
/彡 `゚ ゚|
| 彡 "二二つ
ノi彡 ~~~ミ
/川 川川川川ミ\
`/ z WヽノW ヽ
/ \\ / / |
天 \/ / 狗 | 「一般の人々を軽蔑し、人の批判に対し謙虚でなく狭量で、鼻を高くして偉ぶっている」ということで、天狗党と呼ばれるようになった。 >>18
コレはヤベー
高島藩たしかにただで済まんわ
はだしのゲンあたりにいそうなキャラやな若年寄 天狗党は水戸藩を脱退した尊皇攘夷の団体で天皇に直訴するため水戸から京都に向かっていた。幕府や水戸藩はそれを阻止するため、関係諸藩に通知を出した。
高島藩の家臣は尊皇攘夷の考え近かったが殿様が幕府老中になったばっかりなので幕府に協力せざるを得なかった。また、大負けでもしたら責任問題になった。
千人近い浪士に小藩では相手にならず結果は大負けだったが50人近い死者数を7名で報告するなどでなんとかごまかした。
のちに天狗党は福井県で騙される形で852人が縛についたが352人斬首。
水戸天狗党、最終的には薩長側について戊辰を戦い勝ち組か゜゜゜゜゜-y(^。^)。o0○プハー
−−−−−
『宰相桂太郎』(光人社NS文庫渡部)
■1848-1913。長州藩百石取家に生まれた。日露戦争時の首相。首相在籍2886日最も長い。
■鳥羽伏見の戦いではライフル銃隊中隊長。
幕府軍の銃は射程100m、長州藩は500mで勝負にならず。
■戊辰戦争は全体で9000人ほど人命損失があったがその7割以上が東北での戦い。
桂はこれに参加。
■維新後は軍政面で活躍。徴兵制明治6年からだが当時は金を払えば免除できる
など不備が多かったが、これを改革。 この時代にはもう幕府の兵の戦意は下がってたのかもね >>25
金次郎は維新で副知事格になったけど最後は温泉場のコジキで終わったんだよな >>31 天狗党追討が、二百年以上ぶりの本格的合戦だったんじゃないか? 軍師が初実戦てと思ったが江戸時代は平和な世の中が続いたからそりゃそうか 山田風太郎の『魔群の通過 天狗党叙事詩』が面白かった。 カラミざかりがウゼー
広告ブロックしても出てくる
飯田里穂とやりてー >>27
それは門閥守旧派の反感に基づく評価だから。 >>33
このにしんは食べるためではなく肥料としてだから、ふつうの蔵や小屋と違って臭いがひどく、懲罰としての意味があった。 新1万円札のおっさんも入ろうと考えていたが、周囲に止められ入らなかったらしいな。
入っていたら早死にしていたかもな。
大河でも天狗党は出てくるんだろな。 >>34
赤穂浪士は、仇討ちを果たした後は泉岳寺に向かう途中で二人が隊から外れて、大目付に討入の報告に行っているからな。
本隊の態度も神妙なものだし、合戦など起きる状況にない。
最後は、島原の乱あたりか? >>16
まあ崇高な目的のためにはどのような手段も許されると思い上がって北関東一円を資金集めで略奪してまわって一般民衆を苦しめた暴徒集団だからな
ふさわしい末路を遂げたと言えるんじゃねえの? 和田峠を越えて諏訪大社の上辺りに水戸浪士の墓って標識見たことあるわ >>48
こういうのが、歴史をかじったと思い込んで勘違いを起こすのは、テレビの悪影響だろうかね。
「これまでと異なる新解釈!」なるものが、あんなに頻繁に出てくる事に疑問を持たない、単純な層。 >>50
新解釈でも無いと思うけど
金は何処から出たの? 水戸藩の戦いはグロ過ぎてドラマでも触れない
現代人が知ってる幕末史って片手落ちだよな >>45
赤穂浪士クラスを例に挙げるならあるよ
大塩平八郎の乱、天誅組の変、生野の変 >>16
>崇高な目的のためにはどのような手段も許されると思い上がって北関東一円を資金集めで略奪してまわって一般民衆を苦しめた暴徒集団
創価学会じゃん… >>47
参勤交代の帰りの津軽の殿様を鉄砲でねらった(密告で失敗、幕吏に捕まり獄門
)南部藩の相馬大作は津軽ではテロリストなのに南部では英雄。 >>47 南部と津軽の諍いとか関係ないw
…が、もののついでなので、紹介記事をリンクしておこう。
南部と津軽の歴史的な確執(戊辰研マガジン)
https://boshinken.publishers.fm/article/21929/ >>44
近くの高崎城襲撃しようとして直前に中止したこともあったような
上野戦争参加のフラグも若い時にあった気がする >>52
行った先の豪農や城を守っている家老などに自分たちの趣旨を話し無理矢理献金や食糧、酒の寄付。 >>18
田沼意尊て、ワイロ政治の田沼意次の子孫でロクでもない >>48
現在大村知事リコール署名の捏造で絶賛活躍中(?)の無知有害なネトウヨがその後継者だよな。
しかも愛知乗っ取りを謀って落ち目の河村を煽動した維新は真っ先に逃亡を図り、応援したビジウヨはいけしゃあしゃあと無関係を装うなど、実働部隊は哀れにも捨てゴマにされているのは自業自得。 >>53
天狗党と諸生党の争いは戊辰戦争後まで続いて、最期は、時代が明治に移ってから千葉銚子辺りで諸生党壊滅 この自戦記で批判されてる田沼意尊の他にも、
小笠原長行とか、竹中重固とか、
幕末期は糞評価を受けてる幕閣が多いな。(´・ω・`) 天狗党なんて一向一揆みたいなイナゴ集団だろ
根切りにされても仕方ない 和田峠は車でよく通る
水戸藩士の墓という看板になんじゃこれと思いつつ素通りしてたがそんなことあったのね >>64
鳥羽伏見の戦いで開戦早々に敵前逃亡した滝川具挙とかな >>65
当初は水戸藩の家老クラスが指揮したんでそうでもなかったが、
行軍の先々で各地の無頼の徒が参加して流賊化した >>55
親戚の家には天狗党を泊めたお礼か何かに貰った小刀があった様な気がする。 >>29
この頃の天皇はまだ京都にあったから途中の敦賀が出てくるのか
ありがとう 当時の侍なんて誰も実戦なんて見たこともないだろ
地方公務員に戦争やれと言われたようなもんだしそら恐怖もするわ >>71
岐阜の西の方まで来て、そのまま滋賀を抜けて京都に向かわず、
福井方面に迂回した結果だけどな。(´・ω・`) >>11
権威主義の幕府がパヨク的体質
客観的に見れば一族支配の北朝鮮と大して変わらん
薩長は合理主義で、理念よりも実利を取るタイプ 茨城の名産品はテロリストだからな
昭和の血盟団メンバーが茨城県会議長になっちゃう場所 >>69
首領格の藤田小四郎は藤田東湖の四男だったな。
処刑されたが、明治に義挙烈士に加えられ従四位を贈られた。 >>74
長州藩は下関で欧米艦隊攻撃、京都で御所攻撃と、
理念先行で暴発して、滅亡寸前になっただろw >>49
あの旧和田を大砲引いて越えたんだぜ!
ちなに和田有料トンネルは来年4月から無料になる予定です。 この時代の人は子孫の為にって書き残した類が多いみたいだから
まだまだ掘り出し物ありそうだな
門外不出前提で書いてるからこその幕府批判とか本音もあって貴重だ >>82
子孫が先祖伝来の古文書をどれだけ大事にしているかが問題。
今回の塩原さんみたいな人ばかりではないだろうからな。 鳥羽伏見の戦いの途中で徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却
その翌日には徳川御三家筆頭の尾張徳川が新政府に恭順
結果、旧幕府方は1万5000人の兵力を擁しながら緒戦にして5000人の新政府軍に敗北
それからは
徳川御三家の尾張藩は、徳川慶勝が東海道諸藩の新政府の触頭に任命され
佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へ動かしたことで
官軍は、難なく東海道を進軍
紀州徳川は将軍、慶喜に大阪城を守るよう指示されたが拒否
紀州徳川は新政府と戦う意思が無い証明として紀州藩士1500人と15万両を新政府に献上
徳川親藩の越前福井藩が、官軍として上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦
戊辰戦争では長岡藩に対する征討作戦にも加わり、北上して村上城を陥落させた。
庄内や会津藩とも戦闘
徳川譜代筆頭の彦根藩も戊辰戦争では官軍に加わり小山や本宮など各地を転戦
近藤勇の捕縛にも当たった
戊辰戦争の時には
薩長+徳川御三家+徳川親藩+徳川譜代 VS 反乱軍+奥羽列藩同盟になってた。 素通りさせればよかったのに、律儀に立ち向かったんやね >>86
幕府の追討令にもかかわらず、
戦闘を回避した藩が多かったらしいな。 戦国から300年近く経ってまた武田の末裔と称する奴が攻めてきたから諏訪はたまったもんじゃない >>86
藩主が現職の老中だったからさすがに戦闘回避するわけにはいかなかったみたいだな >>88
耕雲斎は生まれた時は跡部氏だったのに、
信玄の末裔を自称して改姓したエセ武田だがな。(´・ω・`) >>85
尾張は離反して当然のことを本家サイドがやらかしてるからな
秀吉が秀次に対してやらかしたせいで東海道の護り無効化になってるのに今度は徳川がそれをやらかしているという >>73
天下分け目の関ヶ原を避けたんだな
多分、譜代筆頭の彦根藩との衝突避けたんだな >>94
指摘されて気づいたが、水戸藩とむっちゃ遺恨があるなw >>93
尾張は離反したというより、もともと内戦を避けるために新政府とのつながりが深かった。
鳥羽伏見の後に東海道の各藩、寺社に手紙を送ったのも内戦を拡大させないため。 >>94
違う
慶喜が掃討の指揮を執る事が決まったから回避しただけ >>85
御三家と徳川将軍家の間には対抗意識あった
会津、桑名、讃岐などの松平家の方が徳川将軍家に忠義尽くした >>32を見て興味深いんでぐぐったら、本当だったw 那須塩原の温泉のようだな >>25
室町の代からだよ?w
跡部親子は何事も信元の旨を背き横行しけり
『鎌倉大草紙』 徳川の平和
先の参院選で宗家が・・・と
明治維新以後は世界戦争にまきこまれちゃって結局原爆2発だからなあ
ごもっともですなあ >>93
将軍吉宗と対立した尾張の藩主、徳川宗春に対して幕閣は失脚を画策して宗春は蟄居謹慎を命じられた。
宗春が亡くなった後も、幕府の蟄居謹慎は解かれず100年、宗春の墓石には金網がかけられた。
この幕府と尾張徳川の確執の件かな >>103
武田金次郎は人生が常に修羅モードすぎて、
温和な善人を主役にする大河のコンセプトに合わん。 >>105
どうしてこうも受け身なのか
持ち主も訳者も実名を出しているのだから
アクセスする方法などいくらでもあるだろうに >1 >2-107
自公安倍スタンノミクス幕府 安倍晋三元首相は、
2020年夏、武漢コロナ熱の第2波ピーク時に、
日本型忖度 ストロング ロックダウン、ペタ自粛 緊急事態宣言の再導入を、
インバウンドバブル投機狂乱バブル破綻がー、株価 地価 経済がー
から、
テラ嫌がり、かってに、ギガパニックで、
黒船襲来後 開国後 江戸幕府滅亡寸前、第2次長州征伐で、
14代将軍 徳川家茂逝去で、急きょ、15代将軍に就任した、徳川慶喜が、
15万人の江戸幕府総軍での、長州藩への総攻撃、大討入を息巻いたが、
長州藩ゲリラ 奇兵隊の、小倉城要塞陥落にビビり、
第2次長州征伐を実行せず、江戸幕府の威信、統制力、皆無にw
薩長土肥反幕府軍は、江戸幕府を、
江戸幕府陸海軍以外は、こけおどし、張りの子のとらとみなし、テラ侮るw
さらに、15代将軍、徳川慶喜は、
このあと、戊辰戦争 鳥羽伏見の戦いでの江戸幕府軍の大敗後、
大阪城要塞から、江戸に、こっそり敵前逃亡。
ベトナム戦争末期、1975年 ホーチミン大攻勢時、この、2年前に、
パリ和平協定で、アメリカに見捨てられた、
重税加速、インフレ化 スタグフレーション慢性的構造大不況で、旧南ベトナム崩壊寸前に、
政権投げ出し辞任した、旧南ベトナムの、グエンバンチュー大統領
ここらみたいに自公安倍スタン幕府 安全楽観デマ発表ムーヴ
大本営発表ムーブマニアックから、
政権を投げ出し辞任したがw
2020年春の、日本型忖度風 ギガ自粛、忖度ロックダウン、令和大不況確定での、
緊急事態宣言マックス強化もない。
いますぐ、有事法制 安保法制 ジェイアラート全開で、
不要不急外出全面禁止令 都市テラ封鎖、ロックダウンもない、
こういう、自公アベノスタン幕府 ジャップ猿国 菅パンケーキ執権日本の末路w
2020年秋冬、空気感染エイズ 空気感染エボラ 空気感染肺がん、
武漢コロナ熱グローバルパンデミックで、
日本全土で、ギガ死体の山 死の丘オーバーシュート、仮設埋葬墓地パンデミックだなw >>92
信玄が江戸時代に神格化された武田を名乗る価値はあっても、
小笠原をわざわざ名乗る価値なんぞないということか。
大名家に小笠原がいたからかもしれんが… >>8
そのうち諏訪博物館(上社本宮前)で企画展の一つとして抜粋とかで展示されるんじゃないかな >>102
ましてや尾張は水戸と紀州では輩出した将軍も1人も擁立出来なかった。さらに吉宗からの分派した御三卿にしても、
一橋は家斉と慶喜を擁立したが、清水と田安は1人も擁立出来なかった。 >>110
慶喜は一橋から入ったんだから、御三家で将軍を出してるのは、厳密には紀州だけよな。
あと、十六代家達は田安家出身よな。将軍にないが、静岡藩主ではある。 >>113 その時はもう大政奉還の後だから、ギリギリセーフ…? 鞍馬天狗とは全くかんけいないが、作者の頭に天狗の文字がよぎったに違いないw >>110
尾張藩は元々重臣衆が外様の家柄だらけで、新参の家臣の同様にも積極的だったから幕府から嫌われてた >>45
内の一人は唯一の生き残りの寺坂吉右衛門なんだけどね。唯一身分のない吉田配下の足軽だから、丹波にいた大石の家族や
浅野本家の家族へ本懐を遂げた報告の使者にはうってつけだったから。
大石らと別れたのは諸説あって、泉岳寺に行く途中で別れたのと、本懐を遂げた吉良邸で大石ら泉岳寺に行く組と
別れて直ぐに向かわせた説がある。 >>84
維新以前の文書や写真の原本って内容によっちゃ数百万で売れるのにな
その辺の古銭なんかよりよっぽど価値がある 太平洋戦争からまだ100年も経ってないのにこのときは最後の戦争から約250年も経ってるからな
そりゃ幕府の侍も怖くて戦えないだろうよ >>118
経済的動機で古文書の保存をするのは、無理があると思うな。
数百万で売れる古文書なんてわずかだろうし、
それだけの価値があると判定できる人も限られてて、
そういう人に出会うまでにも、保存の費用とか掛かるわけだし。 武田氏は甲斐に移る前には水戸の近くのひたちなか市に住んでいたんだよ 水戸藩内で二派にわかれて殺しあった奴だっけ、
たしか、家族も弾圧して殺して、
今度は維新で、天狗党復帰で奥州に逃げた奴らを殺しに行くんだっけか?
維新後の水戸がパッとしないのはこのせい >>125
紀州ですら陸奥(伊達)宗光が出てるのにな エド幕府「百姓は生かさぬよう殺さぬよう。ハラキリ!セップク!」
メイジセイフ「一銭五厘!小作人!カミカゼ!産めよ増やせよ」
wwwぎゃはは。
メイジイシンって、「ゲロからウンチへ」、みたいな変化だよなwwwぎゃはは。
ジャップwww 原文は辞書とか見ながらじゃ無いと解読が難しいな
独特の筆記体過ぎて >>128
水戸の天狗納豆って天狗党を意識したネーミングなのか?
そのパッケージを見るたびに天狗党かよと思っていたw
鼻高々! >>125
明治、東京になってからも諸生党のトップを探し出して、水戸郊外の長岡原で逆さ磔の極刑てすごいよな。
完全に藩の力を使い尽くしてるな。 >>16
吉村昭 天狗争乱
徳川慶喜の薄情さに涙が出る >>135
水戸城を襲撃したのだから殺害されて当たり前 >>1
タイミング的に持ち主の祖先が移住したのが多分維新頃なんだろうけど何でわざわざ茨城から不便な長野に移住したんだろう。帰農か? >>138
読み間違えてた、先祖代々系だったわ。天狗党の詳しい逃亡ルートも解明されそうね。
中山道を途中で抜けてそのま富山か。 >>27 リベラルという名で呼ばれたい人たちのことか もう勝ったんだろ 催促ばっかで援軍となるとちっともおくってこねえ
騙し討ちというか和平交渉やって毒でも食事に混ぜろやではどん引き
っていうか死ぬまで戦ったるわって逆に死兵になって
アホだから時勢が変わるまで適当に落ち延びとけやってのもふさいで
完全包囲までやってその場凌ぎの姑息なことばっかりで
幕府は余計なことしかしてこなかったからな >>98
福井も水戸と似たようなもんだったな
かなり美化されてるけど周辺の藩とよく揉めてたりお家騒動で内紛してたり問題児だった >>143
勝てば官軍とはよく言ったものだな。
長州はあのまま終わり幕府が続いたら国賊藩扱いだったはず。
天狗党の幹部は回天の烈士として讃えられただろ。 生瀬の乱のエピソードなんか見ても水戸徳川って残虐性が高いとこだったのかなと
平安時代後期から常陸は佐竹の地だったから徳川の気風は元からの茨城の気風ではないだろうけど >>144
宇和島なんかも実際は財政が火の車、一揆起きまくりでワンチャン狙いで一橋派の話に乗っただけだしな
あと薩長土肥は石高詐欺+長崎利権等でしこたま儲けてるから財政的には超裕福 >>146
知ったか過ぎる
長州藩は初期から財政破綻をしていて家臣の収入の4割召し上げが常態化していた
1700年以降で半知(収入の半分を召し上げ)をした回数は44回
特別会計で運用はしていたがそれを含めても破綻状態 >>147
ttps://core.ac.uk/download/pdf/35422967.pdf
幕末期に相当持ち直してんじゃん
少なくとも借金まみれの隣の福岡と比べたらかなりマシな経済状態に見えるけど >>148
資料の見方分かってる?
解決していないから明治に入っても家臣の収入を召し上げている >>49
現在信州在住ではないが、下諏訪の「魁塚」、大社近くの「赤報隊資料館」、
和田の「水戸浪士の墓」は行った事ある。
>>81
三才山トンネルが去年から無料になったんだっけ? 天狗党は一般住民から略奪しまくったから茨城でも嫌われてるよな
あと最近では水戸光圀より小田氏治のほうが人気ある >>11
戦後は幕府側が日本人、官軍側が在日。
戦前は皇国史観であべこべだった。 >>11
イデオロギー関係なく東日本ナショナリストが幕府側、西日本ナショナリストが官軍側。
ただ単純に関ヶ原のノリで東西対決したいだけ。 良スレ 天狗党なんて知らなかった
何かおすすめ本ないかね? 幕末の長州藩の藩財政が困窮と言うイメージで語る奴が居るけど、他の藩と比べても裕福じゃん。実石が表石と比べても二倍以上の開きがあるわ。表石詐欺が酷いのはここと土佐。逆に水戸は実石31万、表石35万で破綻している。
幕末で薩長土肥が動けたのは資金力の差でしょ、戦国時代の織田信長なんかが良い例だよ。 >>155
水戸天狗党の話は、幕末の通史ならまず出てくる話だけど、
天狗党単独と言うと、小説以外になんかあるんやろか…? >>127
そのとおりだ
挙げ句にお前の国を併合とか、ウンチ以下だよ >>156
江戸期250年間、延々と海を埋め立てて田畑拓いて幕末には相当な石高になってたらしい
幕末に長州萩から防州山口に城下町移せる蓄財あった >>159
江戸時代に西廻り海運が発達したことも、
長州にとっては幸運だったわなぁ… >>156
イメージで語っているのはお前
論文読めよ >>159
山口に藩庁を移転したのは攘夷戦争対策と政治的な理由
萩城は事実上水城だった為、海からの攻撃に弱かった
政治的な理由は、無役の守旧派を居住地である萩に残して、藩政に関与させないようにする為 >>127
朝鮮人は併合して下さいとデモしてたんやで >>155
吉村昭の天狗騒乱。史実を元にしたノンフィクション小説 尾張藩が本気で長州征伐をしてたら長州はとっくに消え去っていただろうに。
内戦の拡大を避けたのが尾張公の考えだったのに、
その恩を忘れ、その後戦争ばかりやりまくった長州がなあ。 >>165
そりゃ、長州藩でも政変が起こったから仕方ない。
長州も一枚岩ではない。
強いて責任を追及するなら、そうせい侯を追及するしか… >>165
勘違いしているようだが、徳川慶勝は徳川斉昭の甥で攘夷派
長州藩に手心を加えたのは自身の政治姿勢ゆえ
異母弟の容保とは路線が違う
>>168
青松葉事件に長州藩は関係ない
事実上の藩主である徳川慶勝が佐幕派を粛清しただけ
安政の大獄以来の確執に決着を付けた >>151
天狗党の中の完全に別働隊というか、ほぼ天狗党でない強請たかり強盗強殺だけが目的の田中源蔵隊の仕業だよな、それ。 >>171 芹沢は確かに水戸の人だけど、天狗党に入ってたことあんの? >>169
だから長州藩に手心を加えたのは尾張公の意向と書いたよ。 >>174
>内戦の拡大を避け
攘夷派が攘夷派に手心を加えただけで平和主義が理由ではないってこと
>その恩を忘れ、その後戦争ばかりやりまくった長州がなあ。
これも勘違いしている
高杉が決起したのは長州征討軍が撤退する前
つまり徳川慶勝は知っていたのに撤退したわけ
それと戊辰戦争には官軍として尾張藩も参戦している わかりやすく言うと
トランプが徳川慶喜
議事堂に突入した過激支持者が水戸天狗党 >>175
>高杉が決起したのは長州征討軍が撤退する前
>つまり徳川慶勝は知っていたのに撤退したわけ
そうだったか…よく調べてみると、
長州藩主親子と五卿を江戸に拘引しろっていう幕閣の命令を、
慶勝は拒絶したんだってな。
アヤしい行動だな… >>177
徳川慶勝は第二次長州征伐の参加も拒否している
長州に肩入れしていたと言われても仕方が行動 >>175
徳川慶勝は長州の過激な攘夷を批判してるから、同じ思想として手心を加えた訳ではない。
第二次長州征伐でも幕府にこれ以上の戦乱は政局を不安にし諸外国を利するだけと反対している。 幕末期の戦記はきちんと描写されてる上に封建時代=武士の時代と近代の間だから面白いのよな。北越戦争も会津戦争も長征戦も箱館戦争も
これが西南戦争になると片方が完全に近代だから半減しちゃう 天狗党の乱はあまりにもヤバすぎて映像化もあんまされてないな
深作欣二笠原和夫コンビで黄金期の東映で映画化されてたら面白そう
直接の関係はないけどその後の水戸大洗から始まった血盟団事件を書いた日本暗殺秘録が狂ってるのでオススメ
だいたい当事者が出演してるし >>178 >>179
第二次長州征伐は、越前松平茂昭も徳川の為にならんという反対意見を出してるし、
慶勝の長州再征反対の動機が、天下泰平のためなのか、
幕府存続のためなのか、長州への思想的共感のためなのか、
どれなのかようわからんなぁ…(;´・ω・) >>179
この行動の理由は?
長州征討軍の介入がなったから、高杉は勝てた
元治元年
12月15日功山寺挙兵
12月19日俗論派政府が報復で正義派幹部を処刑
12月27日徳川慶勝が長州征討軍の解兵令を発す
12月29日征長軍総督府が吉川監物解兵令を伝える
元治ニ年
1月5日幕府が徳川慶勝に長州藩主父子及び五卿を江戸まで拘引せよと命令。慶勝これを拒否。 >>181
幕末水戸藩の抗争はエゲつすぎるんだよ。
この史実を最初知った時は、ドン引きしたわ… 信濃高島藩諏訪家の藩士は仙台伊達家とならび、なぜだか大勢の陪臣を抱えていたと荻生徂徠が政談で書いているから、譜代の小藩とはいえ武威盛んな藩だったんだな >>187
武威盛んというより、諏訪家支配が古すぎて、
旧式の支配構造を清算できなかったんじゃないかい? 芹沢鴨は天狗党の前身の玉造勢と呼ばれるグループに入って活動してたようだ。軍資金集めに色々やったらしい。
で、天狗党と呼ばれるようになってから抜けたんだろ。
天狗党を騙るグループが幾つか出来てカツアゲしまくったらしいから。 >>1
自戦記なのに、本人は書く気なかったが
天狗党の扱いに対して反幕思想で書き残したわけ?
すっげぇデマが多そう >>175
高杉の「決起」ってなあに?
奇兵隊の隊長ではあるが、他にも力士隊など多数の部隊があった上、
当時の長州藩改革は木戸孝允=桂小五郎が首魁だろ?
奇兵隊は下関戦争のあとに結成されてるわけであって、
撰鋒隊事件で高杉は更迭されてるよ >>191
あほなの?功山寺挙兵以外に何がある?
功山寺挙兵当時、桂は潜伏中で藩内にいなかった >>191
そもそも、下関戦争の話はどこから出てきた?
徳川慶勝・長州征討軍で何故下関戦争の話になる? そういえば「武家の女性」って本が岩波であったな
公辺(幕府)と水戸家の緊張感がもろに出ていて面白かった 水戸って厄介な存在だったな
烈公とかいうお土産お菓子があるけど、どうしても買う気せんわ >>198
水戸学なくして、尊王攘夷運動はあり得たか?
尊王攘夷運動なくして、討幕運動はあり得たか?
そういう疑問は、あり得るわな… >>199
その水戸学が皇国史観なんてやつになり日本を破滅させた。
黄門様の妄想が日本を破滅させたわけよ八十年前に >>202 会沢正志斎先生の影響力をナメてんのか、お前は? 水戸市民だけど、現代でも諸生党vs天狗党意識は深刻に残っている
要は、自民党vs野党支持者
勿論、例外は多いけど 安政の大地震で水戸藩の重臣二人が死んでなかったら
また違っただろうな >>186
家族まで皆殺しとか他藩では見られない凄惨さよな・・・ >>202
絶対にある。過激派攘夷運動が無ければ反発勢力としての地方武士による開国派の台頭もなかった
要するに捨て石、踏み台としての水戸学が無ければ絶対に攘夷は失敗し、幕府主導かつ圧倒的不利な開国になった
西郷の思想もベースは最後まで藤田東湖だからな。島津斉彬の影響だけではああはなってない >>201
水戸学が2.26事件の原因にはなっているな
>>75の血盟団 >>206
他は大概は殺されても本人だけで親族は関係無いもんな。戦国時代よりやべえ >>206
勅一つで天下の大動脈でほぼ内乱てくらいの斬り合いやってるからね。身内で何度も
城の殿様の部屋の隣で切腹だの、斬り合いを止めるために切腹だの気合いというか思想の染まり具合が半端じゃない
それが御三家ってのがまたな >>201
水戸学の起源が明の亡命学者朱瞬水
右翼軍国主義思想の起源までもが中国人というのが日本 >>210
紀州や尾張は平和だったのにな
尾張とか一揆もほとんど無かったくらいなのに >>206
おかげで水戸藩は人材いなくなり、巡査とか警官ばかり。内ゲバやらず明治維新になってたら水戸藩が新政府中心になってたよ >>211
そんな話をするなら、尊王攘夷は、
春秋公羊伝に由来するという話になるだろ…(;´・ω・) 自分の上司のお隣さんが天狗党に殺されたそうな
イロイロあるのよ >>209
天狗党の家族処刑、明治維新になると今度は佐幕派を皆ごろし 例えば水戸市民と旧勝田市民は、政治的に仲が悪い
根っこは、諸生党vs天狗党のこれ 高島藩士の誰かが天狗党の今弁慶・不動院全海の武勇に肖って全海の遺体から肉を切り取って味噌漬けにして食べた話もあったみたいだね
暫くその高島藩士は友人から絶交されたというけど >>223
あれもよく内乱にならなかったと思うよ
場合によっちゃ水戸状態になってもおかしくない >>213
@内ゲバがなく攘夷派が藩の方針になる
→攘夷は間違いなく失敗する
A内ゲバがなく幕府(開国)恭順
→倒幕派に潰され水戸派は一掃される
B内ゲバがなく倒幕に参加
→内ゲバがなくても人材は枯渇してるので中心にもなれず登用もされない
どう転んでも維新後の水戸中心の政府の可能性はないのよ そういや尾張藩は重臣に織田信長の子孫が居たけど幕末まで空気だったな、まだ信長の親戚筋の家系の方が若干活躍してるくらい。 水戸藩、幕末のキープレーヤーだったのに、内ゲバと時流読み間違えて小藩みたくなっちゃった >>229
内ゲバも時流も関係ないと思うよ
しいて原因を挙げろというなら水戸学という自らが作り上げた思想のせい
水戸学が存在した限り水戸は幕府を追い込めるという希望を与える役目にしかなれなかった 水戸ちゃんがJ1に上がれないのは水戸学の思想のせいだったのか モザイクだけど天狗党?
大洗と那珂湊はガチ砲撃戦やってる
だから大洗町民は戦車アニメのガルパンに馴染んだw DNA >>219
どっちが天狗でどっちが諸生?
諸生の子孫が残存してると思うと武田金次郎は手緩かった >>124
武田は今のひたちなかの地名からとった名前だからな >>124
島津は最初から九州にいて大内は中国、上杉は越後とか思ってそうやね >>238
島津家の遠い分家の信濃島津家が上杉の家臣になってんな、仙台の伊達氏だって遠い分家が今川の家臣やってたし各地に分散してるよな。 >>236
お城とお殿様を守る水戸市が諸生党
(が一応体裁) 茨城は幕末の混乱と地磁気研究所がなければもう少し発展してたかもな 水戸天狗党は酷道で有名な国道157に沿うようなルートで
美濃から越前へ入り捕まった。
よくあんな所、歩いて行ったわ。 >>243
冬なら豪雪で行軍不可能だったかも
戦国時代に柴田勝家が豪雪で越前から春まで出て来れず、
近江に布陣する秀吉軍に後れ取った >>236
天狗党は月居山に逃げたように田舎農村部が基盤
年貢が7公3民の酷さで、不満が絶えなかった >>244
>12月11日、天狗党一行は越前国新保宿(福井県敦賀市)に至る
だから既に雪は降っていたはず >>246
冬の北陸道を踏破てスゴいな
越中から冬の北アルプスを越えた佐々成政て猛者もいるけど >>239
そうじゃなく島津も上杉も大内も出自は関東だよって話をしてんだと思うよw 水戸藩は天狗党騒乱で有望な指導者がみな死んでしまったから
維新後は人材が残っておらず、政府要人が輩出できなかったんだよなあ。 お、お、おおおおおお、水戸天狗党スレwww
親韓左派のウリもニッコリな天狗党のスレが立ちましたかwww
どうも今日は春めいた暖かくダルい一日だったが急に目が覚めたぞw
しかもガチの軍師が書き残した戦記って
これは非常に面白い新発見じゃないか。
こういう新資料発見とかあるから面白いよなあ。
ってか幕末の世にもいたのか軍師とかw
まあ新選組の武田観柳斎(アッー)、みたいな
甲州流軍学を極めたとか、そういう軍学者兵学者は
やっぱりおったもんだけどさ。
ところで今、たけだかんりゅうさいとタイプしたら
「武田韓流祭」と出たぞw なんだ武田韓流祭ってwww 幕末ものは爆弾みたいなもんだから大河にするにもきついのに、なんで近年は大河にしまくってるんだろうな
幕末に美味しい思いした奴等が多い薩長土肥や京都辺りに媚びたいからかな?
それとも単にネタ切れ? で、和田峠の戦いね。バトルオブワダトーゲ。
筑波山で挙兵した天狗党が日光やら北関東を荒らしまわり
幕府公儀から追われるパブリックエネミーの凶状持ちになったと思ったら
中山道は和田峠にやってきて在地のローカルな藩兵とガチに交戦し、
なんとアウェイの天狗党が勝ってしまうというねw
いやそれもどうなんだという感じだがw
その追討に当たった諏訪高島藩の軍師様の手記と
そして交戦当事者でありながら
「投降した天狗党に対する幕府の対応について
強く憤ったことから「子孫に残すため」に書き残した。」
って、これは敦賀で投降後、鰊蔵に閉じ込めて
その後ジェノサイドしたことを指しているんだろうが
まあ、確かに幕軍の処置はひどいもんだが、
それについて敵味方の恩讐を超えて憤激できるのは、
これは軍師の義侠心だよね。すばらしい。 尾張藩は、藩祖のころから勤皇だもんな
いち早く新政府軍について維新を進めたのは立派だった
会津、桑名、東北諸藩は親藩の特権を手放したくないから
いつまでも抵抗した。。自藩のことしか頭になかった >>250
最後にペリリュー島で10000人の人材が止めを刺された
陸軍上層部から2.26事件の制裁の側面も >>11 くんの発問って結構難しくてさw
これ、例えば共産圏、ソ連や中共の内部の政治勢力の話で
右翼左翼ってか保守派革新派とはなにか守旧派改革派とは
どういう存在か、みたいな定義のゆらぎを感じるよねwww
天狗党と幕軍、あるいは天狗党と諸生党、
どっちが右翼でどっちが左翼ってこりゃ難しいぞw
それいえば幕府と薩長、どちらが右翼か左翼かとか
こりゃ軽々に言えないんじゃないかねえ。
保守とか革新なんてね。王政"復古"が革新か?とかさwww
まあそもそもそういうフレームの話じゃないんだけどwww
ただまあ明治政府からこっちは天狗党の側の勝利だから
公式には維新の志士として天狗党幹部なんか追号追贈されてますわな。 江戸時代は、政治も経済も発展した問われるが
残酷さ、野蛮さにおいては退化したといっても過言ではない
桑名藩では、1700年ころに、野村騒動で
藩改革に尽力した野村一族を子供含めて100人近く皆殺しにしている
これほどの虐殺は、なかなかないぞ
躊躇なく子供を殺す制度があった
まだ律令制度の奈良平安時代のほうが、人道的だった >>256
尾張は藩の成り立ちからして特殊
西軍武将だった石河光元の子供を外戚で重臣待遇したり、イレギュラーな事しまくってる。 夢も希望も無くなるが
種明かしすると明治維新はエゲレスの銀行家のシナリオだよ >>256
尾張が勤皇なのは藩祖(義直)の母親が公家出身だからと言うのも大きいかと >>252
>親韓左派のウリ
ウゼーぞww
自分は諸生党縁故さね >>217 くんのカキコだけど
水戸藩を改易ってのは凄い話でw
だってさ、水戸の藩主、烈公を安政の大獄で強制隠居させた報復に
時の絶対権力者、大老の井伊直弼を水戸藩士が脱藩して
浪士としてぞろぞろやってきて江戸城桜田門前で
公然討ち取っちゃうんだから怖いんだよ、あそこは。
まさに古今みぞうゆうのテロリズムなわけでね。
そもそも関東親藩の大藩でありながら尊攘派の聖地みたいなところだし
そういうところをね、つついたらこれは大変危ないわけですよ。
っていうか水戸藩は本当にアンタッチャブルなところで
あの天狗党の大暴れや諸生党との抗争だってさ
藩主とかその周辺は何をやってたかって、なにも出来ないよね。
なんつっても藩内で白昼公然内ゲバのテロリズムやってんだからwww
天狗党の乱も藩の垣根を越えて>1の長野や日光北関東で
諸藩領内を荒らしまわっていたけど、
諸生党との抗争でも明治になってもまだ戦ってて
最後は利根川越えて千葉県で戦火あげてんだからw
もうワールドワイドっていうか滅茶苦茶だよwww やはり朝廷を大事にしなければならんよ
武家が支配してた時代に日本は退化した >>263
よく生き延びてたね
天狗党に皆殺しにされても文句言えなかったのにね >>266
関係あるよ〜
天狗党からなまえをとった。 加賀藩も伊達藩も
天皇や朝廷なんてどうでもいい、徳川が大事
こういうスタンスだったからなぁ >>264
更に天狗党が2.26事件の血盟団の遠い原因だろ
お前らは政治では一生静かにしてろw >>109
諏訪湖の周りの博物館美術館群はガチだよな
長野は教育県といわれたもんだが、
あの博物館銀座ともいうべき充実ぶりはすばらしい。
諏訪湖に眠るとされる信玄公の遺徳もあるかわからない。
(ところで当地の人士の信玄観はどうなのかしら?
甲斐からやってきた征服者だからなあ。
まあ諏訪御料人を寵愛し、その倅・勝頼を陣代にはしたが)
>>256
そう、東海道の抑えもへったくれもなく
親藩がすんなり官軍側についたってのが面白いよな。
もちろんスレ民諸君が言う通りの流れはあったにせよ。
「藩」って言葉の語源は「藩屏」、垣根とかのこと
つまり公儀への守護者ガーディアンみたいな意味だけど
その親藩大藩が、まあファナティックな水戸藩なんかそうだけど
揃って有事には徳川本家に正対するってのは面白いよな。
まあ最後の将軍慶喜公は烈公の倅で水戸の系譜とはいえ一橋家の人だからネー
まあこの豚一将軍もまた、時勢の先が見通せた人士ではありましたが。
つまり徳川家の人士はやっぱりね、みんないいんだな、頭www
逆に幕府だ忠義だ攘夷だいっている佐幕諸藩や臣下を冷ややかに見ていたのかもね。
(それこそ勝海舟の新選組への視線のように) >>249
出自って言っても比企の流れを汲む島津は別としても、
上杉氏を関東出身と言うのはちょっと…(長尾氏になったからセーフ?)
大内氏に関しては地元豪族じゃなかったかな >>264
ペリリューの水戸第2連隊とつうじるものがあるな >>265
猪熊事件で大揉めしたのがまずかった、帝が激怒してそれを聞いた幕府が介入したのがきっかけで主導権を握られてしまった。 >>269
伊達でも宇和島の方は精力的に動いてたじゃん、政宗の野心さを引き継いで居たのは忠宗じゃなくて秀宗ってのも皮肉。 天狗党系統はだいたい野党
諸生党系統はだいたい自民党
もう自覚ない人が9割だけどね >>268
さんきゅ〜。そうだったんだね。
このスレ見たら急にあの天狗のパッケージが頭に浮かんだんだよ。
天狗納豆美味いよな。 >>263
おっとレスどうも。
諸生党の残党なのかチミは?(違
で、諸生党といえば首魁の市川三左衛門、
処刑されるときの最後の一声「勝負はこれから」ってのはすごいよな。
いやウィキペ先生にそう書いてあるんだけどさw これ本当に言ったのかね?
これは相当な名言で、あの、室町関東の名将にして江戸城の創建者
太田道灌がいったとされる最後の言葉「当方滅亡」に比肩する話だよね。
しかし市川三左衛門、最後は佐幕派だから当然政争に敗れ
明治の御世になってから最後は乾坤一擲、残党率いて
千葉にわたってまで仇敵たる天狗党側と交戦したり
敗戦後はそこから逃れて東京(not江戸)に潜伏してたとか
いや、このファナティックな戦闘民族ぶりは幕末でも異例だよ。
その前段として天狗党への苛烈な弾圧を指揮していたってところもさ。
まあ、すごいよな、あの当時の水戸藩内は。思想の魔力だね。 >>269
加賀はとにかく徳川に媚びる事に全力だったもんな、一応準親藩の扱いだったけど福井や名古屋よりよっぽど親藩ぽかった
そして毎回貧乏くじを引かされる上杉と佐竹 >>270
まあいつもいうんだけどチバラキは叛骨の聖地にして
香取鹿島の武神がおられる尚武の地だからね。
別に時流遅れの暴走族が暴れているだけの土地ってわけではないw
それこそ大和朝廷にまつろわぬ土蜘蛛の時代から
将門公でも鎌倉将軍への加勢の話でも「叛逆」のキーワードから
いろいろ導出することはできるんだよ。
幕末ネタでいえば、これは千葉の話だが請西藩なんてあったでしょ?
なんと藩主である林忠崇、自ら脱藩しw、
幕府軍に加わって官軍相手に転戦するんだから。
で、結果日本諸藩の中で唯一の戦後お取り潰しだぜwww
でも、この愚直に幕府に従った忠義の大名は
「最後の大名」として幕末のどの藩主よりも長生きした。
太平洋戦争の頃まで生きていた。
最後に立ってるものが勝者なら、彼こそが勝者だったんだよ。
まあチミのあげた例とかチバラキはいろいろ政治的にあるけどね
熱くて強くて勇敢な信条に忠実な戦闘民族って気風はね、あるんだよ。 よかろうがボンクラで市川三左衛門が虐殺やって事態悪化させてな 結局は御三家も越前家も幕府の藩屏として役に立たなかったわけか。
単に遠くの親戚は頼りにらないだけ、と言う気もするが。 >>280
戦後の茨城県政治をおおよそ握ったのは今も諸生党系
市川三左衛門は結局勝利者だろw >>273
サクラ サクラの電報で有名なペリリューの玉砕話かね
第二連隊といえば長らく千葉の佐倉にいて帝都東京有事の抑えとして
嘱望された連隊だが、まあチバラキの気風のある精強な連隊であれば
それは相応の獅子奮迅の働きはするだろうなあ。県民性ってやつ。
で、まあ軍隊はともかく警察ねえ。
うん、「薩摩警視に水戸巡査」なんつって
維新後まあ軽く見られたところはあるんだけど
(その理由はむろんスレ民が言っている通り
天狗党・諸生党の内ゲバによる人材払底だ)
曲がりなりにも水戸巡査ってんでサーベルとピストルで武装し
帝都治安の守護を任を現場でやってたってことはだよ。
水戸藩士や水戸出身者、普通に強かったんだよwww
だって当時の東京の悪漢とかさ、まあ住民でもそうだけど
武道に心得のある奴とか普通にごろごろしているし
幕末維新の血みどろの時代、それこそ藩内外の戦争を生き抜いてきた
ガチのサバイバーばかりだからね。害敵に心理的抵抗がない()
それに対処するのは相応の手練れ戦闘者じゃないとね。
これまた血風ふきすさぶ藩内抗争サバイバーの水戸藩士とかwww >>284
むしろ倒幕のきっかけが親藩連中の主導権争いだからな
親類の小競り合いから滅んだと言う意味では鎌倉幕府の滅亡に近い >>277
宇和島の伊達宗城伯は幕末四賢公に擬せられるほどの
英邁にして先進的な君主ではあったろうね。
なにが英邁だって、ウリの尊敬する幕末明治の志士である
薩摩脱藩浪士、中井弘先生を周旋方に登用しているのがえらいwww
当然、宗城伯は明治維新後も新政府で要職を歴任しておるが、
これに対してまあ東北の伊達はね、
まあ奥羽越列藩同盟の盟主としてのアレがあったんで。
なんつーか白河以北一山百文の苦渋を舐めるのとは
これは東西で差が付いたもんですな。
ところで話は変わるけど昨今アメリカではポリコレがらみで
南北戦争の南軍旗の取り扱いをやめようずって動きがあるんだけど
本邦でも奥羽越列藩同盟旗とかフィーチャーされないかしらwww
蝦夷共和国旗とならんで、いい感じのデザインであるwww >>282
>熱くて強くて勇敢な信条に忠実な戦闘民族って気風はね、あるんだよ
ペリリュー島の水戸歩兵第2連隊。
鹿島アントラーズ/インファイト。
大乱世の梶山静六。かな >>42
そう。
つまり天狗党は芹沢鴨の大行進みたいなもんですw
これはさあ、まあ天狗党の乱、特に北関東を荒らしまわった時とか
なんつーかどんなもんだったかお察しだよねwww
まあ世情言われる新選組モノだとプレ近藤体制たる
芹沢レジームは特に悪く粗暴に描かれがちってところもあるが
(しかしまあ新選組も大概なところはあるけどなw)
そして諸生党との騒擾粛清がどんなものだったか、もさ。
こういう内ゲバもまあ新選組は年中やってたけど。士道不覚悟とか言ってw
まあまあまあ、なんとなくお察しだよね。
>>115
一応、鞍馬天狗は尊皇の志士だから(新選組と戦うしw)
尊皇倒幕側という意味では天狗党の側の人間ではあるなw
直接天狗党とは関係ないと思ったけど。 >>272
武家としてというか上杉氏を名乗ったのは鎌倉からなんで出自は関東でいい >>288
宇和島の殿様は高野長英を匿いきれず使い捨てにしたけどね
その点で鍋島の殿様あたりと比べちゃうとちょっとね おっと、どうも今日は書きすぎましたね
スレを勝手にジャックしてしまったのは申し訳ない。
で、>>81 くんのカキコを読んで感動したが
おお、和田峠のあのトンネル、無料になるの。
それは当地の人士には朗報だろうねえ。いいことを聞きました。
ウリはまあ「聖地巡礼」のノリであの旧道を天狗党を偲びながら
車で(車かよw)上ったり下りたり頂上の古いトンネルを
「すげえところだな」と思いながら通過したりしてたが
そういう苦難の行軍をせずとも現代は数百円で山の中を
ブーンといけるんだから、現代の土木技術は素晴らしいネ。
そしてまあ幕末よくあんなところで交戦したよな。
さっきも書いたが、それでアウェー側の水戸天狗党が
ローカルの藩兵を打ち破っちゃうってんだからすごいよなあ。
水戸天狗党って幕府から見りゃ凶状持ちの流浪の叛徒みたいなもんですぜ
それが捕吏ってか公儀の正規軍を普通に破るんだからなあ。
そう考えるとその追捕側の従軍者の手記ってのは
非常に興味深いお話になるね。
また>1のタイトルがいいじゃない「自戦和嶺記」。
特別な体験をしたならそれは手記を残さないとね。 >>292
破獄のお尋ね者たる幕閣よりおわれし政治犯たる
水沢の俊英、高野長英先生との宇和島の離別がどういう具合だったかは
ちょいとわからないが、しかしね、既にパブリックエネミーの
お尋ね者を庇護し、領内の先進文物研究の指導者にして
ブレーンとしたってだけで、これはなみなみならぬ宇和島公の
識見と胆力はわかるじゃないか。 >>281
媚びてたのは3代まででそれ以降は空気じゃね
幕末なんて借金だらけで富山に下克上されかかってるし 伊達宗城は単に先端技術が欲しかった、技術だけ取り入れれば先進派になれると思ってただけだからなぁ。村田に砲台作らせたり蒸気船作らせるとか意味不明なことやってるし
島津斉彬や鍋島直正あたりなんかとは首3つくらい格が違う。でも細かいことは抜きにして方向性は間違ってないけどね
しかしながら例えば渡辺崋山が田原藩の殿様だったら伊達公を遥かに凌ぐ政策をしてたろうね >>296
利常以降も加賀騒動やら織田秀親事件とかやらかして幕府に尻拭いして貰ってたから、徳川に頭が上がらなかったのは事実だと思う。この辺ほとんど実質お咎め無しで切り抜けてるし。
あと加賀も黒羽織党と言う革新派は少数ながら居たんだけどな、保守的な藩主一門がそいつらを干したから人材が育たなかったのが痛い。 >>297
江藤を庇えなかったのは鍋島直大であり直正はもう死んでるよ
そもそも佐賀藩が望んだ明治中央政府に反乱起こしてるのに庇うもクソもない >>300
位階もいつもお金でなんとかしてもらってるしねぇ
媚び体質過ぎて当然になってるから>>296のような感想を持つ人がいても不思議ではない 追討にあたった幕軍には田沼のひ孫、北条早雲の末裔、浦賀奉行の
ふりをしてペリーと交渉した人と、なかなか面白い面々がいた。 >>277
伊達の殿様はどっちも忠宗の血筋だよ
秀宗の血筋は二代で終わってる >>305
その割に仙台藩主と宇和島藩主の顔ってあんまり似てないよな
宇和島の方は政宗っぽいけど仙台藩主はまんまサンドイッチマン伊達。 >>306
そりゃ200年以上前の先祖だし顔も変わるだろ
徳川も狸系と狐系といるよな 江戸時代初期と幕末じゃ、話し方とか文章の書き方が変わっていて
タイムマシンで会っても、お互いやりとりが成立しないって文献を見た記憶ある
260年あれば、それだけ変化すんだな >>306
伊達政宗って全身の骨格が残ってるから顔の復元もできるんだよな
筋骨隆々で足に骨折した後があって落馬で骨折の逸話も本当だと判明
血液型はB型だというのも分かった >>307
西郷さん一族は150年以上経っても変わらんけどなw
縄文系の顔は強いね >>308
江戸末期の文化文政の瓦版か艶本なら現代日本人でもよく読めばギリ読めるからな >>311
どうも大久保さんとこの素性を見ると先祖は土着の薩摩人じゃないかも知れんね
京都大窪説もあるし途中で養子が入った線もあり、島津もそうだけど平安から鎌倉にかけて南部九州に入った荘園、鎌倉武士の流れの可能性もあるし >>309
謙信の骨も甕にいれてあるから残ってるけど調査拒否だっけ >>314
現当主が理系分野で割と有名な人だった筈だからとやかく言われるのは嫌いそうだもんな こういうのは小説なりにして出版するなりネットにあげるなりしてもらえると嬉しいね。
当時、漢文で記録を残せるというのはかなりしっかりした教養がある人物だけだった
でしょうから軍師になるだけの事はありますね。 >>317
郷士や超下級武士じゃない限り漢文は読み書き出来たよ
なんせ幕府を筆頭に藩も公文書は全て漢文なので出来ないと仕事が出来ない。サラリーマン化した武士の当然の教養。幕末なら尚更
中級武士でも即興で五言絶句や七言絶句くらい作れた
軍師になるくらい相当な立場の武士じゃなきゃ漢文を読み書き出来ないってのは戦国までの話 >>291
藤原→丹波→三河→三河→三河→三河→鎌倉
アルよ! かと言って、朝鮮渡来忍びって訳でも無いだろうw
下野の榎本氏か三河の日下部氏(穂国造一族)
が藤原の養子に入ったとか? >>318
幕末になると公家との折衝多くなるから漢文必須よ。公文書が漢文だから。幕末の志士に医者が多いのは当時の医学書は漢文だったことも一因 >>309
あれはたまたま政宗の墓が空襲で焼け、それを再建するために発掘調査になったはず。寛永寺の徳川家の墓の発掘の調査経緯と似てる。 >>269
外様大藩は徳川家との婚姻で親徳川化する
薩摩藩ですら上層部は親徳川だった 加賀藩は降服した天狗党員を武士として丁重に扱ったのに、
引き渡たされた幕軍は天狗党員を下帯一丁にして暗いニシン蔵に詰め込んだ
武士として扱わず盗賊扱いにした
これを伝え聞いた大久保利通は、「幕、滅亡の表(しるし)」
と日記に書き留めた 甲斐武田氏発祥の地が常陸太田と比定されたのは1960年頃らしいな。
何が決定的になったんだろか?古文書?
そういえば、上総にも武田氏がいたな。 本来なら国造の武田臣系の子孫と見るべきなんだろうけど。
家系図があるから混乱するw >>81
両親が諏訪の出身なんだけどばあちゃん家へ行くとき水戸浪士の墓って何?と通るたびに尋ねたけど答えが返って来なかった
地元の人にどれだけ知られてるのだろうか・・・ 70年代の国造で馬来田とか馬の名前付いた人いるんだから
馬がいない事は無いだろうw🐴 >>325
ひたちなか市武田郷から判断したんだろうけど。志田諄一氏は。 スレタイ見て一瞬また変な色物政党が出てきたのかと思った >>281
広島(浅野)も赤穂事件で幕府に貸し作ってたしな、過去にやらかして幕府にケツ吹いて貰った藩は後ろめたさで媚び売るしか無くなる傾向がある。岡山は幕末にもっと活躍しても良かった。
島津みたいに関ヶ原から幕末まで一貫して厚かましい態度とってるのがむしろ珍しいくらいだよ 水戸藩って幕末養子多くて影響半端ないぞ?斉昭が子沢山で有力大名へ養子に大量に出されてるし、高須4兄弟で有名な松平容保兄弟も祖父は水戸藩からの養子だからな。それ含めたら水戸藩の影響力は半端ない >>332
水戸黄門は絶倫だった...?
斉昭も絶倫で有名だったもんな >>296
幕末加賀藩は、途中までは空気じゃなかっただろ。
禁門の変の頃に、佐幕派と尊攘派の間で内紛を起こしたはず。
佐幕派が尊攘派を弾圧して、空気みたいになったけど。 >>334
俺らだっておナニーの回数なら絶倫レベルよw 山内容堂もなあ。
鳥羽伏見の戦い初日で参戦した土佐藩士を謹慎させ首をはねようとしたからなあ。
翌日に徳川征討の勅令が出たから反故になるんだけど。
あげくに岩倉具視から「葵について死ぬか?ああん?」と詰められる始末。
んで全権を板垣退助にゆずって飾り物に。 >>309
なお、伊達政宗の身長は、159.4cmだった模様。 >>337
広島藩は薩長と同盟を結び王政復古を成し遂げているし、長州征討にも反対して中立を貫いた
反幕府路線 >>339
関ヶ原後、徳川に加増された東軍大名はだいたい親徳川 >>337
詰腹切らされた松平大弍が攘夷派か
処分した本多政均が正信系で松平大弍は十八松平の系統だと思うけどこの時期になるともう譜代とかどうとか関係ねえんだな >>36
各藩がみんなしょぼくて財政もきつく兵力もなくて
まあ天狗党もわざとそういう道順を選んだんだろうけど、あまりにも
小さな戦闘さえも嫌がりすぎててリアルだったわな。 >>344
先祖に朝鮮からの渡来人がいる人をを朝鮮系と言うなら、天皇も該当する
多くの大名も朝鮮系になるな >>339
朝廷が山内家に何をしてくれたって言うんだよ?
徳川に尽くすのは当然の話だ >>347
お隣さんの事あれこれ言うのもあれだけどw
高句麗系子孫と、高麗系子孫は日本に残ってるわけで
調べてみれば。 >>325
http://syakeassi.xsrv.jp/4574
奥州征伐までは合ってるだろうけど。
武田勝頼がコレ持ってたって事は。
これを、「新羅三郎?!朝鮮人ニダ!言っちゃう人たちw」 >>347 そりゃ、高麗は新羅人がつくった国だし。
弓裔っていう奴が、新羅から独立する際に、
新羅に対抗するための権威付けに「(後)高句麗」という国号を使用、
弓裔の家臣で後に王位に就いた王建も、そのやり方を踏襲した。
同時代に(後)百済という国も、同じような新羅に対抗するための権威付け。 >>345
江戸時代後期なんてまともに剣も振れない人間ばかりだからな
足軽やら農民上がりの方が剣豪が多かったくらいだし 天狗党は木曽の尾張藩領を通っているのか?
大藩のくせにスルーさせたのか? 冬に大雪でしかも2千メートル級の山間を抜けて京都を目指すとか上層部の頭が悪すぎたな。最後も残された一族郎党悲惨なもんになった。東海道行って戦で負けた方がマシな行動だった。 >>356
追討令がでているのに東海道進軍するとかアホだろwww 東海道は無理ゲー
箱根や薩埵峠もあるし、船も使わないといけないし >>355
木曽代官所を通らないルートに変えてる
万石クラスの大名を通るのは流石に無理ゲー 和田峠の水戸藩士墓近くのラブホで童貞を捨てました。 >>360
祟りがあり、一生天狗の鼻みたいに絶倫じょぞwww 昨日、さんざん書いたんで今日は遠慮するけど
>>33 くんのネタは面白いなw
まあ、あのその作品は読んでないんだけど(近日読もう)
流浪の叛徒に正規軍が破れた事情に
そういうのってやっぱあるんだろうね。
というのも鎌倉以来、武士が本気で戦うのは
「本領安堵」か「新恩給与」を期待してのことなんだろうが
水戸天狗党は別に領域を占領支配しにきわけじゃないからね。
相手の目的は通過(or/and略奪なんで)その戦いは領土防衛戦争じゃないし、
仮に数に勝る天狗党破ってもまさか水戸藩の領土が貰えるわけじゃないからw
勝っても新恩給与も得られない。いわんや藩財政は火の車、じゃ
テンションだだ下がりだよねw しかも命がけwww
それでも戦わなきゃいけないのは幕命は元より
鎌倉以来の大犯三箇条があるからかね。
謀叛人の取締と殺害人の追捕w 大番催促は参勤交代だから関係ないwww >>318
まあさすがに武士はね識字はあったろうけど
さて漢詩がつくれたかどうかまでは(読めはしたろうが)w
こればっかりはセンスだからなあ。
しかも平仄がどうとかやかましいのよ。
また、別に漢文調で日常喋ってる(!)わけじゃないしねwww
現代日本人でも日本語は喋れてもポエムが読めるとは限らない。
一国の宰相が「ウラジミール」とか詠んじゃうくらいだからなあ。
「駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」
これ、聖帝安倍陛下の御製(相聞歌w)として日本文芸史に残るのだろうかw
万葉集の一番最初が雄略帝の御製(←立場を利用したナンパ歌)のようにwww なんだ、長広舌を発したこのスレももう終わりか
じゃあまあ例によって雑記を書くとするか
>>354
まあさすがに幕末ともなると田舎の小藩(失敬)はわからないけど
概ね武士も武士の自覚をもって、従来のそれとは異なる実践的な、
まさにハンズオンな剣法熱はあったろうけどね。まさに下克上。
太平の気風で累代重ねるうちに惰弱な文吏ライフを送っていても
いざという時代、乱世が来れば目覚めちゃうんだよ。侍魂ってやつw
武士もねえ、幕末はそりゃ伊達に二本指しているわけじゃないし
剣術その他はできたもんでしょ? 覚悟もね。
他ならぬ天狗党だって武士なんだから。
その天狗党を敦賀で最後大量虐殺(300人)したのも武士だしね。
据え者斬りだってそりゃ当たり前だが胆力はいるわけでね。
それいえば水戸で天狗党派をいじめまくった諸生党も武士だし
その諸生党を倒したのも(以下略
で、まあ足軽階級とか農民とかだけど
まあ上つ方の気風に煽られて庶民層にも撃剣熱はあったろうが
さて全体としてみるとどうでしょうね。駆け足できないっていうでしょw
あと後世の西南戦争の官軍(庶民階級)と西郷軍(士分)の激突と
その後の増援たる警視庁抜刀隊(士分)なんかの投入の故事を見るとさ。
やっぱり違うんじゃないですか、そういう戦闘者の根本のところが。
や、ここらへんは知らないでテケトーな俗説を述べてますが。 ああ、そうだ。もうオワコンなスレなんで
まったくスレと関係ない話をしませう。
2ちょんの+板のこの話題とはまったく別の江戸時代スレでねえ、
何の話題か忘れたけど、今月に入ってからのスレだと思うんだけど、
江戸時代の同心、これ士分であって足軽や卒族じゃないとか
ざっくり言っちゃったんだけど、普通に足軽階級でしたねw
これはウリの間違いでした。
お詫びして訂正します。しーましぇーん。 そういや今度の大河で渋沢栄一やるけど、天狗党の顛末やれるのかね
慶喜の無責任サイコパスキャラや水戸の狂いっぷりとか描けるのか >>367
やるだろうね
キャストを見たら天狗党メンバー揃い踏み >>371
市川三左衛門がまだ出てないのはなんでなんでしょうと思いますわ
市川三左衛門と諸生党の描かれ方とか、それでどれだけになるのか 現代的見方だと諸生党は政治的反動、白色テロということになるから、人間的苦悩や家族愛を描くという方向かな? 慶喜が大政奉還なんてしなきゃ御三家だって官軍についたりしなかっただろう
私怨で紀州派を弾圧したりするか反感を買って譜代大名も官軍に加わる事になった
まったく慶喜は徳川家にとって疫病神のような男だった >>374
一向一揆って一向衆が一揆を起こしたから一向一揆って言うんだぞw
天照を崇拝してる連中が起こした一揆は天照一揆だ。仏教が絡んでたとしても真言一気だ。実際には仏教を敵視してる連中なんだからそんな呼び名は絶対にありえんのだけど 廃仏毀釈とかやらかしたりとか水戸学は気違い染みていたな
明治政府もやったりして、終いには国家神道なんて気違いカルトが出来上がり やっぱ敵方の娘たちは凌辱されてから殺されたりしたんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています