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2021/02/22(月) 12:58:52.52ID:Jv/+e1h+9■度重なる水害に治水を
江戸時代の延宝年間、畿内はたびたび、激しい水害に襲われた。特に2(1674)年の水害は激しかった。大阪平野の北側を流れる淀川が増水し、下流にかかる橋が次々と流されて、左岸の堤防は決壊、現在の枚方市から大阪市までがすべて水没した。被害は甚大だった。
度重なる水害に対し、新たな治水方針を決めるため、幕府(将軍・徳川綱吉)は天和3(1683)年、若年寄の稲葉正休(まさやす)らを畿内に派遣し、淀川や大和川、その流域河川の調査を行わせている。これに同行したのが、幕府や各大名からの注文を受けて、多くの土木建築事業を手掛けていた瑞賢だった。
瑞賢と親交が深かった儒学者で政治家の新井白石(1657〜1725年)はそうした経緯や治水事業を「畿内治河(ちか)記」で詳細につづっている。それによると、実際の調査は瑞賢が中心で、範囲は今の大阪、京都、兵庫、奈良、滋賀の各府県に及び、主要河川を舟で調べている。
「琵琶湖に端を発する淀川は上流から流出する土砂が滞留して、川底が高くなって氾濫する。淀川が海に注ぐところに、九条島があり、河水が島に当たって水勢を弱めることが、上流の土砂堆積の原因になっている」
淀川の河口に蓋をするようにあった三角州の九条島に目をつけた瑞賢は「九条島に水路を開いて、強いままの水勢で淀川が海に流れ込むようにしなければならない」と考えて、治水構想を示した。そして、幕府からの正式な依頼を受け、工事に着手した。
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https://www.sankei.com/west/news/210222/wst2102220003-n1.html
2021年2月22日 10時30分