2011年3月11日。宮城県南三陸町は東日本大震災の津波に襲われ、市街地が壊滅。831人が犠牲になった。あの日、町防災対策庁舎で指揮を執っていた町長の佐藤仁(69)も屋上で津波にのまれ、死にかけた。職員ら43人も失った。あれから10年。住宅や公共施設の高台移転は進み、復興事業はゴールが見えた。目の前のエネルギッシュな首長が、死線をくぐり抜けた生き残りであることを知る人も少なくなった。人口1万2千の小さな町で、陣頭に立ち続けてきた指揮官の胸の内を紹介する。

さとう・じん 1951年、宮城県志津川町(現在の南三陸町)出身。同町議、同町長を経て2005年、歌津町と合併して発足した南三陸町の初代町長、現在4期目。東日本大震災の当日、町防災対策庁舎で津波に巻き込まれたが生還。元高校球児で、仙台商遊撃手として1969年の夏の甲子園に出場し、8強入り。趣味はスポーツ観戦で、プロ野球・楽天イーグルスが大好き。1960年のチリ地震津波でも自宅を流されている。

屋上で流された職員たち
 ――20年10月、震災復興祈念公園が全面オープンしました。庁舎に献花した時、どんな思いでしたか

 言葉では言い表せません。見つからないんです。3月11日、屋上で味わったあの寒さとショックは。

 目の前で、役場と男性職員の家がつぶれていく。家の中に奥さんがいるんです。女性職員が奥さんの名を金切り声で叫ぶ、そこへ津波。波が引いたら、あれだけたくさんいた職員が、たった10人しか残っていなかった。女性職員も姿が見えない。そばには俺とその男性職員の2人だけ。恐ろしい現実でした。


 ――屋上のアンテナに上って耐えました

 津波は2回、3回と襲ってきました。太いアンテナに7人、細い方に3人。アンテナに巻き付けられている電線に足をかけて登りましたが、4回上り下りしました。いまやれと言われても到底できません。

 ――階段の手すりに引っかかって助かりました

 最初は海側にいましたが、町役場が折れて(防災対策)庁舎にぶつかってきたので、様子を見ようと階段側に移動した時、波をかぶってフェンスに押しつけられました。もし元の位置にいたら、みんなと同じように流されていたでしょう。津波がせり上がり、屋上の私たちをのみ込むまで、まばたきする間でした。


 ――あの瞬間はいまも鮮明ですか

 はっきり思い出せます。ただ数年前、生存者が集まって記憶を突き合わせたのですが、一人ひとり覚えていることが違いました。どこにいて何をしていたのか、時系列がバラバラ。みんな自分が正しいと思っているものだから、全然かみ合いませんでした。

 ――いまも当時のことを思い出しますか

 震災3年目ごろまで、朝起きると家族から「ゆうべもおぼれていた」とよく言われました。水の中で息ができない悪夢。寝ながらもがいていたようです。当時は枕に頭をつけるとすぐ眠りに落ちるくらい、疲れ果てていたのですが。


 怖かったのは自動洗車機です。震災2年目でしたか、車を洗おうとした時、前から水が迫ってくる様子を見て津波を思い出し「止めろ!」と叫んで外に出てしまいました。一時は地下鉄も地下街も「水が入ってきたらどうしよう。火事になったら逃げ場がない」と、敬遠していました。

 そんな私を見て、町に来た米国の精神科医がPTSDだと言ってくれました。だいぶ良くなりましたが、自動洗車機だけはいまもスタンド任せです。

■公務員の悲哀を いやとい…(以下有料版で,残り10038文字)

朝日新聞 2021年2月28日 8時00分
https://www.asahi.com/articles/ASP2T421WP1TUNHB009.html?ref=tw_asahi