【高知新聞】薫的神社の神像が50年ぶり開帳 祭神は山内家菩提寺と対立して獄死の長宗我部の菩提寺住職 [みの★]
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精緻な表情や彩色の神像
高知市洞ケ島町の薫的神社のご神体の神像が、22日から28日まで、およそ50年ぶりに開帳される。祭神となっている江戸時代の僧・薫的和尚の生前の姿を写した像と伝えられ、精緻な表情や色鮮やかな彩色が特徴で、開帳に向け専門家による補修作業が行われている。
薫的和尚(1625〜71年)は長宗我部氏の菩提(ぼだい)寺だった瑞応寺の住職を務めたが、藩主の山内家の菩提寺と対立して投獄され、獄死。後に時の権力を恐れない和尚の姿勢が人々の崇拝を集め、瑞応寺の境内に薫的堂として祭られた。
神社によると、神像はおよそ50年ごとに開帳され、前回は1973年ごろ、夏の大祭に合わせて演劇や歌謡大会も行われ、にぎわったという。
神像は、投獄前の和尚が京都の仏師に彫らせたと伝わっており、明治初期に廃寺となった瑞応寺から、その後につくられた薫的神社に移され、「薫的さん」と親しまれている。
…続きはソースで。
https://www.kochinews.co.jp/article/439180/
2021年3月5日 8時35分 薫的和尚が生まれた1625年は、もう大坂の陣も終わってて、
大名としての長宗我部氏が完全に滅んでたわけだけど、
それでも、長宗我部派と山内派の対立みたいなのは、残ったんかな…? 御社号 明治三年に洞ヶ島(ほらがしま)神社と称し、
昭和二十四年十一月、大神様の御名を冠して、薫的神社と改称した。
一般には常に「薫的さん」の名で親しゃされている。
エラ特亜にしか見えない 土佐は上士、下士の身分制度があったからな。上士は山内家の家来で、下士は長宗我部の元家臣達。
長宗我部がいなくなっても、尊敬を集めてて存在が邪魔だったのだろう。 山ノ内一豐が長宗我部支持の国人衆を虐殺したあの流れか? >>6
一豐「みんな〜和解の印に相撲大会やるお」
国人衆「面白そうじゃん参加するわ」
一豐「お前ら皆殺しじゃwww」 【衝撃】福原愛さんの夫・江宏傑、インスタにとんでもない写真を投稿してしまう…
http://zydsyi.boblove.org/447832089124 >>8
他人のアイデアを横取りして出世したような奴だからな、一豊は。 >>2
土佐藩では身分制度が厳格化されており、長宗我部氏遺臣の多くは郷士として
上士たる山内家臣の一等下に組み入れられた。
この上士と郷士の差別化は幕末まで徹底して行われていたぐらいだから、
大阪の陣の10年後程度なら一番対立が激化していた頃じゃないかな。 >>10 >>8
やり方はえげつないがこの時代円滑経営の為に国人衆皆殺しするのは割と起きてる(九州の黒田家、北関東の佐竹などなど) 薫さん的な神社?
一豊がアイデア盗んだのって
大河ドラマだと同僚というか友達というかな扱いだった人の息子なんだよね
堀尾吉晴っていう生瀬勝久さんがやってた役の息子のアイデア
えげつない男だよ >>2
最終的には坂本龍馬やら岩崎弥太郎の長宗我部侍が勝ったんやで。 >>1
薫的和尚は豊臣秀吉に強制連行された韓国人で本名は金薫的ニダ
この像は韓国に返還するニダ ほお、仏像ならぬ神像のスレとは珍しい。
そしてこのエピソードやイベントは初めて知った。
50年に一度の御開帳か、そりゃめでたい。
でもって、以下は土佐史一般論だが
スレでもガイシュツの山内家や長曾我部家の上士下士のこもごもね
まあ幕末の竜馬史やら土佐勤王党だのなんだので有名だけど
どうもねえ、あの時代の土佐のアレコレってのは好感を持たないんだなあw
幕末はどこもそうといえばそうだけど尊皇佐幕攘夷開国と
血なまぐさいテロの応酬だしさ。斬奸とか上意討ちとかたまらんぜ。
竜馬もまあ脱藩したくなるよそりゃあwww
で、別にいちゃもんをつけるわけないんだけど、
法禁の脱藩してまで出てった土佐藩下士の出の竜馬を顕彰して
土佐高知の偉人とするのは「う〜〜〜む」と思わないこともないねえ。
これは隣県愛媛松江が「坊ちゃん」をフィーチャーしていることも
なんかフクザツに思うところはあるんだけど。別にどっちもいいんだけどさw
(坊ちゃんの作中、舞台を明示してないが…まあ松山だろうねモデルは。
で、作中ではその地を主人公の口からクソミソにdisられ、
しまいには「この不浄の地を離れた」とまでいわれているんだよなあw) 長宗我部元親の同母弟・長宗我部親貞(吉良左京進親貞)の直系子孫が友達にいるけど
秦神社が長宗我部の氏神社だと言っていたよ。
そいつんちは、江戸時代は播磨屋橋の豪商として残り、山内家から士分を賜ってた。
よさこいに歌われる
「土佐の高知の播磨屋橋で〜♪」の一節は、友達の家のことを歌ったもの。
家はさながら博物館か資料館。
すぐ隣が才谷屋。つまり坂本竜馬の家で、両家は江戸時代を通じて昵懇の間柄だった。
そんなこともあって
司馬遼太郎が『竜馬が行く』を執筆中、
その友達の家に取材に来てるし、その顛末は『竜馬が行く』にも『街道を行く』にも書かれている。 まぁ四国は四国出身の大名家がないような小さな島やからな。
来島は別の島やしな。 >>16
むかしは名前表記のゆらぎがよくあったから、
どっちも正しいんだろ。 お恥ずかしながら 糞的神社 とよんでしまいました。_| ̄|○ 愛媛の殿様の西園寺さんは京都に帰って立命館をつくらはったらしいな。
高知の中村の殿様の一条さんは居残り組は残ったけど高知移民は絶滅とか。
お公家さんが殿様になるって地元民はノホホンとしてたのかな? >>27
飛騨や伊勢にも公家系戦国大名はいるが、
公家系の生き残れる土地柄とかあったんかな…? >>28
> 室町時代の公家政権の権限は、
山城国(京都)に置かれた幕府および各国の守護によって大きく侵されていき、
次第に有名無実化していった。
ついには朝廷に出仕しつつも将軍家に家令として仕える公家も現れ、
さらには諸国の荘園に自ら下向して経営をする者も現れた。
まれによくある >>20
松山は秋山兄弟いるし、正岡がいるだろ
「坊っちゃんの舞台になった」とあるだけで、
あんな江戸っ子を出身者にはしてない
それからお前の友達が偉いのも、お前が嬉しいのもよく分かったが、
他人のネタで長文書くほど喜ぶこたねえだろ
神像開帳も珍しくねえし。
神武とか神功とか聖武や聖徳太子神像、
大日如来象とかありまくるし。
次はぜひ自分の先祖を誇れるようになるといいな
調べるとおもしろいぞ
俺の祖先みたいに教科書載ってるかも知れんしな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています