11月3日に迎える戦国武将、武田信玄の生誕500年を記念し、山梨県は信玄、勝頼の2代に仕えた武田二十四将の一人、小山田信茂の人物像を紹介する映像「信茂と勝頼(仮)」を制作する。武田氏を滅亡に追い込んだ「逆臣」と伝わる一方、近年の研究では従来と異なる見方も浮上している。県がこの武将に焦点を当てる理由とは。【梅田啓祐】

 小山田信茂は、武田家臣として郡内地域を統治し、武田氏滅亡後、織田軍に捕らわれ、処刑された。

 日本史広辞典(山川出版社)によると、「1582年、武田勝頼は織田信長軍に追われ、信茂を頼るが、信茂は離反し、武田氏の滅亡を導いた」とある。この他、信茂を逆臣とする説は数々の文献でも確認でき、織田家臣が記した「信長公記」は「小山田信茂がここに至って無下にも勝頼を突き放し、一行の受け入れを拒否した」。大善寺(甲州市)に伝わる「理慶尼(りけいに)記」は「信茂が郡内への入り口を封鎖した」などと記している。

 一方、郡内の郷土史研究家らで2018年に発足した「小山田信茂公顕彰会」は異なる人物像を示す。厳しい自然環境と田畑の少ない郡内を優れた手腕で統治した武将とした上で、「戦国時代の領主として領土と領民を守る義務の下、苦悩の決断に迫られた」と分析。さまざまな文献などから、多くの武田家臣が郡内を抜けて武蔵国に落ち延びていたことや、単純な価値観で測れない武田家との従属関係も分かってきたという。

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https://mainichi.jp/articles/20210315/k00/00m/040/251000c
2021年3月16日 6時30分