現代社会では,優生学は危険思想として扱われる。優生学の目的は,集団の中から優れた存在を選び,劣った存在の命を絶つことにある。なぜならば,劣った存在があれば,優れた存在を脅かすからだ。

 実際,農学では「間引き」が基本だ。いくつも芽をだしていては,みな育たなくなってしまうから,同一環境下で成長不良の「劣等」は間引く。同じ理屈は,家畜にも適用される。おかげで,現代人はおいしいコシヒカリや神戸牛を食べることが出来る。

 しかし,この理屈を人間に適用すると皆が嫌がる。それは,結局のところ「優れているのに劣っていると勘違いして殺してしまう」という恐れがあるからだ。人は動植物の優劣を判断できるが人が人を判断できない,という前提がある。

 その一方で,「共生社会」と銘打ち,どのように劣った者であっても,優れた人々からお金を取り上げて,生活保護等の福祉名目で助けようとする社会的潮流が先進国にある。

 このような政策を続けた結果,ヨーロッパでは「頭の麻痺した人々」が増加し,福祉など一切無い中近東で生まれた人々が大量に押し寄せ,強姦だのと好き勝手させている。

 公平な理屈でいえば,「殺さない」ことと「助けない」ことはセットであるべきだが,なぜか「殺さない」一方で「助ける」ということをしている。これでは,自然の秩序は壊れてしまう。

 なぜ,シリア難民が「助けてあげなければならない人」といえるのだろうか? もしかしたら,好きで難民している賢い人々かもしれないではないか。しかし「その可能性は否定できないであろう』などと口にすれば非難轟々だ。

 だから私は,「殺さない助けない」の組み合わせか,または「殺すし助ける」の組み合わせにすべきだと思っている。

 1973年までのアメリカのように(この年までアメリカは中絶禁止),一切の人為淘汰をせず,自然淘汰にまかせるか(アメリカの乳児死亡率は先進国トップ。予防接種費用もない家庭の子どもは死ね,のスタンス),または,ナチスドイツのように「殺す」一方で医療保険制度や年金制度など「助ける」のは,筋が通っている。

 さて,前置きが長くなったが,要するにこの世界には「自然淘汰」と「人為淘汰」という二つの圧力がある。

…続きはソースで。
https://note.com/hashimotokotoe/n/nc81d51a4084a
2021年4月24日 1時06分