【日本史】大局が読めない上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた ★4 [ボラえもん★]
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上杉景勝は軍神・上杉謙信から家督を相続し、会津120万石を与えられた豊臣五大老の一人だ。
だが秀吉の死後は家康の術中にまんまとはまり、上杉家の存続こそ許されたものの、所領は30万石へと大幅に減封されてしまった。
東京大学史学編纂所の本郷和人教授は「失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと」と説明する――。
■会津120万石という大領地を与えられた理由
上杉景勝は関ヶ原のときに、二重の失敗をしでかしています。失敗の理由はただひとつ、彼が大局を見極められなかったこと。
関ヶ原の時点で、彼の領地は会津でした。会津は東北の要の地であり、ここを持つ大名が東北のチャンピオン。
その地を伊達政宗が取った。しかし豊臣秀吉に「もう戦争の時代は終わった。俺の家来になれ。挨拶に来い」と言われ、
いろいろと渋りましたが、結局、家来になる。会津は取り上げられて、「おまえなら任せられる」ということで蒲生氏郷に与えられます。
そこから氏郷は見事に秀吉の期待に応え、怪しい動きを見せる伊達政宗の活動を封じる。
それで92万石まで領地が増やされるも、40歳で亡くなってしまいます。
しかし後継ぎがまだ幼なかったために秀吉は会津を蒲生から取り上げ、その会津にあらためて置かれたのが上杉景勝でした。
上杉は越後から国替えされるのですが、そのかわり、120万石という大きな領地を与えられた。
その配置には「東北地方の抑え」という意図と、恐らく「徳川の背後を牽制する」という意味合いがあったと思います。
ところが国替えののち、すぐに秀吉は亡くなってしまう。それで徳川家康の活動が活発になっていく。
■「大きな戦争」を狙っていた徳川家康
当時の家康がなにを狙っていたかというと「大きな戦争」です。戦争を起こして、どさくさまぎれに豊臣の政権を奪取したい。
これは秀吉が、織田の政権を奪取するときに行った方法と同じです。
明智光秀を始めとして柴田勝家らと、戦争に次ぐ戦争をやる。そのうち、いつの間にか織田家の政権は秀吉のものになっていた。
だから家康も、列島規模で大きな戦いを起こしたかった。それに勝つことで豊臣政権を否定し、徳川政権を作ろうとしたのです。
(中略)
■前田家の次に家康の標的になった上杉家
三成を離脱させたあとの徳川家康はやりたい放題。戦争のためには相手が必要だということで、最初に目をつけたのが前田家でした。
利家の息子、利長の代になっていた前田家に「謀反の動きあり」と難癖をつけたのですが、前田はすぐさま謝ってきた。
自分の母親、もう高齢になっていたお松さんですが、お松さんを人質として江戸に送りますと、文字通り土下座外交を展開しました。
よくよく考えてみれば、それはおかしい。当時はまだ豊臣政権下ですから、本来家康と利長は同僚です。
同僚のところになぜ人質を出すのでしょうか。しかし利長は家康の意図をきちんと理解し、徳川に優る力が自分たちにないと理解していたからこそ、謝った。
そこまでされれば家康も「謀反はなかった」と疑う姿勢を解き、お松さんは江戸に送られます。
では次に誰を狙うか。「大きな戦争」を起こすには、相手も大きくなければなりません。三成のような小物ではダメ。そこで狙われたのが上杉景勝でした。
今度は彼に謀反の疑いがかけられます。もちろん濡れ衣でしょう。
しかしこの流れは前田と同様で、もう誰もが家康が理不尽なことを言っているのはわかっている。
家康も、自分が無茶苦茶なことを言っているとわかっています。わかっていても、狡猾こうかつな家康はそんな自分に誰がついてくるか、こないのかを見定めていたのです。
(以下略、全文はソースにて)
https://president.jp/articles/-/45133?page=1
★1が立った時間:2021/04/29(木) 12:16:14.52
※前スレ
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1619783512/ >>92
当時だと10歳前半に初陣させるのが普通で
まだ数え8歳の秀頼が出陣しないのは当然では?
しかし20代になった大坂の陣ですら
出陣していないから無理だろうな
秀頼しかいない豊臣家に
秀頼に死なれたら断絶してしまう >>41
毛利家では安国寺だけが事の重大さを分かっていたんだよな
豊臣政権で毛利小早川は散々優遇されていたんだから、
家康の天下取りを全力で止めて、自ら秀頼を擁しつつ天下取りに向かうしかなかった
家康を潰さなければ、家康に潰される!
殺るか殺られるか!
これが分かっていたのは家康と安国寺だけ!
結局毛利や吉川はアマチャンなんだよw
どうして家康が自分等の重役ポジションそのままにしてくれると思えるんだよw
毛利潰さなければ与える恩賞ないからなw >>101訂正
大坂の陣の段階だと秀頼の子供がいるんだった
しかし幼い子供を残して死んだら大変だろうし
やはり出陣は無理だろうな 前スレでも関ヶ原の時の黒田如水の話が出てたが、関ヶ原の時第三勢力となってあわよくば天下をって言う俗説は
慶長5年10月4日付吉川広家宛黒田如水書状の中の
「上方で美濃口においての合戦が今月まで続いていれば、中国地方まで進軍して華々しく一戦することが出来たのに、内府が早く戦いを終えてしまい残念だ」
ってのが俗説の根拠になってると思うけど、そもそも中国地方は毛利の領土だし
それを堂々と毛利方の吉川広家に話すのもおかしな話で、やはり如水は関ヶ原の直前直後の一次史料からも分かる通り終始一貫して家康方で、
あくまで家康の味方として中国地方まで進軍して、西軍の連中が仮に中国地方にまで勢力を伸ばしていれば
私も一合戦できたのにという解釈が妥当だと思う
更にこの書状の続きでは
「西軍に属した島津義弘や立花宗茂は九州へ逃げ下ったそうなので
内府様の意向に従い、その仰せ次第では二人を討ち果たすために出陣する」
と言ってるし自ら進んで家康に敵対しようなんて気はなかったと見るべきだな しかししつけーな
こうすれば西軍が勝った云々
無意味なんだよ >>104
毛利や上杉は信長に滅ぼされる寸前だったのを本能寺という神風で助かったどころか
大老まで出世できてしまったので
のらりくらりやっていれば神風が吹いて助かるという神風思想が染みついてしまったからね
だから家康と敵対しても先頭に立って家康と戦うことをしないのは当然
そうやって自分たちのために神風を起こすのはあくまで別人のすることだから >>102
別に軍が孤立しているわけではないので
兵糧が「不足」し始めてもなかなか切れないもんなんだよ >>104
動かなかったのに大減封だもんなぁ。
上杉よりも毛利の方が大局を見誤ってるよな。 >>104
小早川系は理解してた
だから秀包や秀元は積極的に動いてるだろ
残念ながら親玉の隆景が死んだから家中の影響力が下がってたんだよ
秀包や秀元は有能だけどまだ若造
安国寺は所詮坊主
吉川は無能なお坊ちゃんで毛利本家直属家臣にもろくなの居ないから
何より当主の輝元がボンクラの極みだから無理だわなw >>104
毛利が最初から臣従しても江戸時代初期の改易祭で
やられたかもしれないが…
少なくとも家を守るだけのつもりなら従属で大丈夫だろ
関ケ原以前に従属したのに
改易された加藤や福島も家は存続している 大局が読めなかったのは別に関ヶ原の戦いだけではないだろ
謙信死んだ後から大局は読めてなかったし
本能寺の変がなければ滅ぼされていたし >>14
部下に、傾奇者でパチンコキャラで人気になった前田慶次がいるからじゃね。 >>112
甘いな
大勢力なんていつ難癖つけられて潰されるかわかったもんじゃないだろ
ましてや毛利なんて美味しいとこ押さえてんだからそのままにしてもらえるなんて甘過ぎる願望だよ
元就が当主なら絶対そんな甘い期待しないぞ >>65
>石田が秀頼よりも偉いことになってしまう
そうはならんだろ
まあ三成が主導権を握る形になることで相対的に豊臣の権威が下がると言うファクターはあり得るけれども、
このケースでは秀頼が幼少と言う時点ですでにその分は織り込み済みとも言えるので、
三成の挙兵に乗ったところでほとんど権威にマイナスはない 前田、上杉と次々にいちゃもん吹っ掛けて潰しに掛かってるんだから
次はもしかしたら自分の番かと危機感を持つはずなのに輝元は静観してるんだもの
敵意を持ってるかもしれない徳川を引きずり下ろす好機なのにみすみす逃すなんてマヌケとしか言いようがないわな >>111
吉川は無能というか恵瓊が大嫌いで
アンチ恵瓊として頑張り過ぎた >>117
元就なら家康とニコニコ交渉はするだろうが絶対信用なんてしない。
そしてどこかに仕掛け入れて家康を潰しにかかるよ
間違いない
そうやって生き延びてきた男だから 光成じゃどのみち無理ゲー
根回し力調略力が家康と桁が違う
どうにか戦えたのは秀吉の力の残り火のお陰だし 結局、大谷吉継が三成に指摘していたように、西軍勝利を信じてついた将はいなかったってことでしょうね
だから上杉も博打よりも自国勢力圏の防衛を優先した。
増田や長束のような三成の決起の中心にいた人物も、敗戦後の保身のために家康に動静を伝えていたというしな >>120
毛利では家康に勝つのは無理だよ。
兵力が違い過ぎる。 >>111
むしろ秀包や秀元の方が若造だから理解していなかった
過去30年間の歴史を見れば明白だろう
信長・秀吉の天下取りを認めない、俺が合戦で止めてやると勇んだ奴は大勢いたが
上手くいかずに多くが悲惨な最期を遂げる羽目になった
こういう天下取りの流れができたら諦めて抵抗しないのが最善の選択肢だと吉川たちは理解できていた
それでも秀包や秀元は若造だから仕方がない
真田・島津・立花みたいに中央の歴史を知らない田舎大名も仕方がない
輝元はいい年こいて中央の歴史も知っているのに浅井長政ごっこ・柴田勝家ごっこを始めてしまうのだから質が悪い
むしろ吉川たちはよくやった方だろう >>123
元就が陶と戦った頃と比較したら十分戦える勢力差だよ 石田三成も秀吉のイエスマンじゃなくて、悪いことはちゃんと諫めてたらここまで嫌われなかっただろう
毛利輝元みたいなポンコツを大将にしてる時点で負け確定。関ケ原でいい勝負しても負けたと思う
歴史は噓をつかない >>126
当時の大名や各地方の国人は荒々しい武闘派の連中が多かったから
中央のもやしはクッソ嫌われてたと思うぞ
逆に秀忠とかは現在では無能扱いだけど身体は戦傷だらけだったらしいから
当時はそんなに評判悪くなかったんじゃないか 前田利長・・・ヘタレすぎ
毛利輝元・・・無能すぎ
石田三成・・・嫌われすぎ せっかく毛利は割拠主義の家風だったのに、何で一番になろうと思ったんだよw
輝元はアホや。家康に譲って中国でそこそこ領土もらった方がいいだろうに 前田利長と福島正則と加藤清正が
西軍に付いたら勝てたかな? >>133
そんな戦力バランスになるんじゃ家康は事を起こさないだろ >>134
家康は豊臣方の大名1人1人を徳川の
味方に付けて
西軍を弱体化させてから
戦争しかけてるよね
前田利長と福島正則と加藤清正と
黒田長政が西軍に付いてた
勝てたかな? >>132
あほじゃないだろう
関ヶ原の戦いの後
毛利が存続したから
260年後リベンジで徳川を倒して
輝元のやり方は間違ってなかったんじゃねえの?
あれ以上暴れてたら
領土と財産と命全部取られてたでしょ
前田利長と島津のやり方も間違ってなかった >>134
前田利長と福島正則と加藤清正と
黒田長政の父親みたいな存在の
前田利家が死んでから
家康はクーデター起こしてるよね 島津はうまくやったよなあ
まあ家康としても辺境の九州を譜代や直轄にするメリットがなかった
というのもありそうだが >>138
島津も毛利も利長も采配はokだったじゃねえの?
家康と本気で戦ってたら
負けた後すべて失ってたよ
ああいう采配したから幕末でリベンジできた >>136
別に明治維新は毛利のリベンジじゃないでしょ
長州倒幕派な桂あたりは毛利家背負って動いてたわけじゃないし 1日で終わるとは思わんなわな
まあ、大軍同士の睨み合い
最低でも3ヶ月はかかると考えるのが普通では
小牧・長久手の戦いが約9か月 秀頼を担げんかった時点で西軍に勝ち目はなかったよ
秀頼に手出しさせなかった家康の戦略的勝利 たった1日で7万〜10万の大軍が壊滅って
ちょっと想像できないでしょ
ミサイルのある時代じゃなくて
槍が主力の時代で >>136
輝元は恵瓊に乗せられたアホだよ。めっちゃ小さくなったとはいえ領土を維持できたbのは
すべて吉川のおかげだからw 輝元は何もしてないよ そもそも秀次粛清で終わっていたんだよ、豊臣家は。
秀次付きの殺された子飼い大名だけで数十万石。
連座処分逃れた与力、親秀次大名も皆家康の取りなしで処分逃れたもんだから、そりゃ皆家康につくわ。 台湾のドンキみたいな店でパイナップルケーキを買って帰ろうとしたら台湾の友人が『そんな恥ずかしいものを国の外に持ち出すな』と必死に止めてきた話
http://dsse.mediakraken.org/GtmS/972955682.html >>145
輝元が大博打しなかったから
幕末まで毛利家は存続できたんだよ
石山銀山は取られたけど
元就は輝元の事へたれって評価してたけどな >>150
大坂城に入った時点で大博打してるし、そして負けてるしw
吉川に尻ぬぐいしてもらっただけでしょ。 >>142
輝元じゃなくて元就だったら騙してでも秀頼を連れ出してそう
しかし、秀頼は最後まで情けなかったな
大阪の陣でも一度も戦場に出ず
土蔵で死亡って
太閤の子なら一度でも千成瓢箪と共に登場しろよって >>151
あほ 輝元が大阪城から
出て関ケ原に行って
負けてたら
大変なことになったぞ >>151
大博打してないわ
秀頼担いで
大阪城から出て
関ケ原で大負けしたら
もう滅亡してただろうに
ちゃんとリスクヘッジしてるわ >>152
無理やろ実戦経験皆無だし
恐らく現代のボンボンと精神力も肉体力もほぼ変わらんぞ >>155
別に現代のボンボンだって旗印に担ぎ出されるくらいのことはできる 秀頼が博打打たんからその後の家康に豊臣がなぶり殺しされることになったんだな
マザコンだからしゃあないけど >>155
だから、形の上では家康も三成も秀頼の家臣。
つまり、家康vs.三成なら、家臣同士の闘いにすぎず、諸将はどっちに付こうが勝手。
しかし、秀頼が西軍に付けば家康は賊軍になる訳で、
毛利,島津なども戦っただろうし、小早川の裏切りもなかっただろうし、逆に福島の寝返りまで期待できたと言う話。 秀吉は堀秀政と蒲生氏郷の急死で仕方なく消去法で上杉景勝を会津に持って来たからな。
秀吉の天下取りを支えた織田配下の堀と蒲生、秀長が亡くなった時点で終わった。
例え秀次の切腹が無くても秀次では家康に対抗出来ない。
軍事面で家康に対抗出来たのは堀秀政と蒲生氏郷。内政で支えた秀長。 >>157
てか関ケ原のときには淀君はじめ大坂城の首脳部は家康を討てじゃないだろ
むしろ光成の挙兵と毛利の大坂城進駐を迷惑に思ってる
西軍×東軍を臣下の争いに思ってるわけで
秀頼出馬は無いわ >>159
いや秀次がしっかりと権威を継承していたら家康では対抗できないよ
イーブンな立場じゃないんだから >>161
秀次が継承したのは秀吉存命下でのお飾り権威であって、中身のある支配ではない。関白在任時に何をしたか見れば自明 >>159
秀次が正当後継者で、2代目として官位も貰った場合、
豊臣恩顧大名がどうするかだよなあ。
あと、最上とかも豊臣派でいるだろうし。 >>161
秀次失脚の騒動も輝元が噛んでる説があるんだよな
秀次から借りた金をチャラにしようと輝元が連判状を大袈裟に差し出したのが事の始まりって話 >>63
流れる水に文字を書く そんな無駄な一生さ 家康に秀次と戦う名分がない
反逆者になってしまう
それでは他の大名も家康に味方できない >>138
島津本国は関ヶ原に一切介入してないから、家康が責める口実が無い >>145
勝てる戦を負ける方向に持っていったのも吉川だろがw >>136
リベンジするような気はなかったらしいぞ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B7%9E%E8%97%A9
長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。
巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が
「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、
藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる
…この俗話について、2000年当時の
毛利家当主・毛利元敬は「あれは俗説」と笑い >>123
毛利は120万石とされているが周防長門に減封された後きっちり測ったら
50万石強あって隣の安芸より多かったなどという事件もある
それに瀬戸内交易路利権なども加えると実際は200万石相当あると
更に宇喜多は豊臣家忠義一直線で家康と戦うとなれば確実に行動を
共にするので家康に対抗可能な国力はじゅうぶんある >>162
公家にはメチャクチャ人気があったらしいぞ。
勉強熱心で和歌の研究はかなりのレベルだったらしい。
豊臣家と朝廷の安定した関係は秀次のおかげと言っても過言ではないと思うぞ。
あと、長久手では部様に負けたが、あれは池田恒興が元凶であって、その後の紀州攻め等ではあの雑賀衆を含めたややこしい泉州&紀州勢を屈服させたからな。
無能ではないと思うぞ。 まあ追撃しても秀忠を抜けなかっただろ
陰湿で愚鈍な景勝だしw >>169
吉川は汚れ役を引き受けただけだよ。
毛利家全体が漁夫の利を狙っていたのは明らか。
本隊の輝元が大阪城から動かなかったのがその証拠。
関ケ原でも、毛利秀元の目の前の中山道を東軍が横切って配置につくのを黙って見逃したわけだからな。
毛利家の誤算だったのは、たった1日で家康が圧勝してしまったこと。 >>173
最上ごときにあれだけ苦戦をするわけだからね。
ただ、付かず離れず追撃していれば家康も関ケ原まで行けなかったのかも知れない。 >>15 無理だろ。北条にも勝てなかったし。
国力が。
>>62 たまたま >>174
おまえ一人でずっと同じ事何回もレスしてるな。
吉川の子孫か何かか?
何が汚れ役だよw
ただの裏切りだわ。 >>175
孤立無援の京極ごときに苦戦した西国無双さんもいるし、
城攻めってのは苦戦するもんだよ 勝頼も万の兵で寡兵の長篠城を囲んでも落とせずに破滅の道をまっしぐらだしな。 >>175
家康は上杉と佐竹の出方がわからなくて、
ギリギリまで江戸にいて、
あ、こいつらへたれてやがる、
と確証持ってから出馬してる。
つまり、
上杉が一部隊でも下野に進出していたら、
佐竹が江戸を狙う気を見せたら、
家康は動けないし、徳川本隊つまり秀忠も動けなかったろうね。 それを思えば、最重要拠点の岐阜城が
籠城もしないで野戦に挑み1日で落城してしまったのには
西軍の諸将もビビったやろな。マジで。 >>181
岐阜城が籠城に向いてないのは、
城主ならわかってたはず。 そもそも論で言えば本気で日本統一しようとしたのは
織田信長ただ一人
上杉景勝が大局読めない田舎大名ってわけじゃなくて
信長が特別なんだよ 本郷さんはこのスレッドを何度も読み返していると思う 吉川はただのクズ
保険かけたつもりで本家だまして上手く裏取引したつもりが、家康にバカ扱いされて
いいようにあしらわれ本家が存亡の危機に
そこまでクズ扱い受けながらもちろん不平唱えるなんて身分不相応、必死で泣き入れて
まだ政権固まっていず揉め事起こしたくない家康が、じゃあまあごっそり領地削ることで
終わりにしてやるという悲惨な結果に
身内に吉川みたいなクズがいるとこんな酷い目に遭うという好例 >>167
家康は一応島津征伐の命令は下してるぞ
一連の流れは
立花宗茂が柳川に戻り籠城して徹底抗戦の構えだったのを
清正が島津征伐の先鋒を務めることを条件に立花を開城降伏させ
立花・加藤・黒田・鍋島で薩摩国境まで迫りさあ薩摩へ進攻ってところで
慶長5年11月12日付黒田如水宛徳川家康書状で
「これから寒気が強まる季節だから、年内は(薩摩へ)軍勢を動かさないように」
と家康の進軍停止命令が届く
潰すつもりが途中で気が変わり取り止めたのか、最初から潰す気は毛頭無かったのかは一次史料にないから家康の真意は分からんけど >>178 1週間で陥落だぞ。鳥取とか三木とか年単位だよな。 >>171
関ケ原時の動員兵力では毛利6万
家康3万+徳川直臣1万2千+秀忠1万5千=5万7千
で毛利の方がやや多いくらいだな
まあ同数だったら多分、家康の方が強いんだろうけど
勝ち目はあるだろうな 三方ヶ原の戦いで武田信玄の軍に破れ命からがら逃げ出した家康である
その時 恐怖の余り家康は馬上でウンコを漏らしてしまう
浜松城に帰ってきたとき鞍についたウンコを家臣の大久保忠世に発見されてしまった
忠世「殿 w やってしまいましたなwww」
家康「えぇい これは焼き味噌じゃあ!」
これが有名な「家康焼き味噌事件」だが近年の研究でこれは史実に反するということが分かってきた
家康は漏らしていなかったのだ 柴田に滅ぼされる寸前の所から信雄・羽柴方に付いて生き延び
その後も微妙な情勢を読んで豊臣方についていき、元敵方ながら加増を受けつつ五大老まで行ったんだから大局観がない訳ではない
記事では、東軍の背後を突く圧倒的優位性を語っているけど
それを言うなら、追撃する上杉軍の背後を最上が突いたら、上杉も圧倒的劣勢に立たされるだろうに
自領だから残存する兵や城で食い止められる?と言うなら、徳川も関東北東部は自領だし >>188
三木や鳥取は毛利の支援有りじゃん
孤立無援の大津城相手に1万5000も率いていって1週間はかかりすぎ >>192 高天神とかも相当かかった。
いや、普通の武将じゃ陥落できないだろ。
小野木も、もたもたしてたでしょ。 >>180
一般には福島らだけで岐阜城を陥としてしまったのを見て、
徳川の関与しないところでケリを付けられてしまうのを危惧して慌てて駆け付けた、と言うことになっている。
上杉や佐竹が動いた場合でも、史実より派遣する部隊を減らすことはあるかもしれないがまとまった部隊を送ることは確実で、
例えば美濃に家康、関東に秀忠と配分すれば史実の関ヶ原と戦力は同じになる。 そもそもの話、上杉が動かないのは直江状以来数か月にも渡って続いているわけで、
8月末になって「『あ、こいつらへたれてやがる』と確証を持つ」何かが起きたわけじゃない。
問題は徳川の大軍が西方へ進発したという出来事をトリガーにしてそれが変化するかどうか。
うがった見方をすれば秀忠の軍は信濃を攻めつつも、いざという時には東へ戻ることを想定して動いていたと考えることもできる。
その後家康が美濃へ向かうよう指示を送ったのは上杉が最上攻めを開始して最早警戒が不要になったため、と考えれば、
秀忠・秀康の戦力で対上杉は十分と考えていたと考えることができる。 まあ最上領への侵攻が実際に始まったのは9月8日だから、
事前に察知していたのでないと、この動きを見てからの指令と考えるのではタイミングが早過ぎか >>82
淀殿は「石田や大谷が不穏な動きしているから、早く上方に戻っておくれ」って徳川に手紙送ってるくらいだから、
西軍に協力する気なんてまるでないもんな。
淀殿は秀吉の遺言である「家康に秀頼成人するまでは政務を任せる」ってのを信じてたようだから、
石田たちの家康打倒の企てなんて豊臣家に対する反逆としか思ってなかっただろ。 >>172
三好信吉の尽力で秀吉が官位をもらってその後の関白まで上り詰めたっていうのなら、その説明でも構わないが、実際のところは三好の当主を継がせ、後に関白継がせるための教育で多少歌くらい読めた程度のことだろ。秀吉存命下の朝廷なので、公家が取り入らない訳があるまい。
あと、紀州攻め等はどうみても羽柴秀長に作ってもらった戦勲だよね。
非業の死を遂げたからって判官贔屓が過ぎるな。 >>178
そもそも敵が苦戦する様に作ってるのが城なんでね
基本的なことわかってないやつ大杉
長篠とかたった500人の城を武田本軍1万あまりが落とせないから戦いになったわけで
城攻めに大軍が釘付けになるとか当たり前
だから取捨選択が必要になってくる
それができるのは総大将クラスの人間だけなんだよ
輝元にその能力ありましたか?という話になる
残念ながら三成はそんな権限ある格の武将じゃない >>191
景勝は滅亡必至みたいな大ピンチを3度も迎えたのに天寿を全うした稀有の武将だよ
大局感なしにそんなことできるほど甘い時代じゃない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています