2021/5/24 19:01 (2021/5/25 0:13 更新)
湯之前 八州

【東京ウオッチ】

 「何でもいいから、生きていてほしかったです」―。新型コロナウイルスに感染し、昨年12月に死去した立憲民主党の羽田雄一郎・元国土交通相に対する追悼演説が5月19日、参院本会議で行われた。演壇に立ったのは、自民党の尾辻秀久・元参院副議長。国会の追悼演説は、他党の議員が登壇するのが慣例となっている。日ごろ鋭く言論で切り結ぶライバルを、党派を超えてしのぶことから「武士道の名残」と言われ、何度聞いても涙を誘う名演説も存在する。追悼演説の歴史やエピソードをひもといてみたい。 
https://www.nishinippon.co.jp/sp/item/n/743829/


┃「武士道の名残」他党議員の登壇が慣例

 追悼演説は、原則として現職の国会議員が死亡した際に本会議で実施される。衆参事務局によると、参院は1947年以降、これまでに172回行われた。衆院は集計していないとの回答だが、ほぼ毎年、例がある。
 登壇するのは他党の所属で、故人と親しかったり、同じ委員会でともに仕事をしたりした議員。激しく論争した間柄であることも多いが、なぜ他党の議員が演説するのが慣例になったのかははっきりしないという。ただ、絶対に他党というわけではなく、同じ党の議員のケースも散見される。
 首相や首相経験者、政党の党首が亡くなった場合は、他党の重鎮が引き受けるのが習わしだ。現職首相のまま1980年に死去した自民党、大平正芳氏の場合は、当時の社会党、飛鳥田一雄委員長が演説した。首相在任中の2000年4月に病に倒れ、翌月他界した自民党、小渕恵三氏に対しては、社民党の村山富市元首相が登壇した。



┃社会党委員長を襲ったテロを指弾した池田勇人氏

 時代を超えて語り継がれる追悼演説もいくつかある。その一つが1960年、東京・日比谷公会堂で暴漢に刺殺された社会党委員長、浅沼稲次郎氏にささげられたもの。読み上げたのは、ときの宰相、自民党の池田勇人氏だった。
 「私は、この議場に、一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行い、また、来るべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行おうと誓った好敵手の席であります」
 冒頭、こう切り出した池田氏。「私は、誰に向かって論争を挑めばよいのでありましょうか」と最大のライバルを失った寂しさを吐露する。
 演説のクライマックス。池田氏は、浅沼氏の友人が同氏の清貧さを評したという詩をとうとうと吟じた。
   沼は演説百姓よ
   よごれた服にボロカバン
   きょうは本所の公会堂
   あすは京都の辻の寺
 そして―。「暴力による君が不慮の死は、社会党にとどまらず、国家国民にとって最大の不幸であり、惜しみてもなお余りあるものといわなければなりません」と続け、命を奪った卑劣なテロを指弾したのである。議場では、与野党問わず多くの議員が涙したと伝えられている。



┃「先生、きょうは外は雪です。寒くありませんか」

 冒頭に登場した尾辻氏が2008年、旧民主党参院議員の山本孝史氏をしのんだ演説も、国会では語り草だ。
 「先生は末期のがん患者として、常に死を意識しながら国会議員の仕事に全身全霊を傾け、懸命に生きられたのであります」
 演説は中盤までは淡々と展開していく。故人の業績を紹介した後、やがて尾辻氏が厚生労働相当時、山本氏と相対したエピソードの場面にさしかかる。
 「印象深いのは、平成16年11月16日の厚生労働委員会の質疑でした。山本先生は『助太刀無用、一対一の真剣勝負』との通告をされました。この質疑の中で、私が明らかに役所の用意した答弁を読みますと、先生は激しく反発されましたが、私が私の思いを率直にお答えいたしますと、幼稚な答えにも相づちを打ってくださいました。先生から、自分の言葉で自分の考えを誠実に説明する大切さを教えていただきました」
 自身の反省も交え、山本氏との思い出を披露する尾辻氏。最後は目尻に手をやりながら、天上の故人とこう会話した。
 「先生、きょうは外は雪です。ずいぶん痩せておられましたから、寒くありませんか」―。
 この様子は「議会史に残る感動の名演説」のタイトルで、動画投稿サイト「ユーチューブ」にも映像が公開されている。視聴回数は、約75万回と表示されている。



┃3度登壇の尾辻氏「つらい役回り」
     ===== 後略 =====
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https://www.nishinippon.co.jp/item/n/743829/?page=2