https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83449

2021/05/27
田中角栄を無罪にしようとした法務大臣

伝家の宝刀「指揮権発動」はなぜ未遂に終わったか
寺尾 文孝 日本リスクコントロール社長


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「決断力、人脈、胆力のいずれの面でも、傑出した人物。それが寺尾さんです」(元総理大臣・細川護熙)
「こんなに顔の広い人には、会ったことがない」(野球解説者・江本孟紀)
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年会費2000万円。日本最強・最高の危機管理会社、日本リスクコントロール。著名政治家、一流企業経営者、「芸能界のドン」、暴力団組長までが頼りにする知られざる「駆け込み寺」だ。依頼を受けるのは紹介者からの紹介があったときのみ、電話番号も公開せず、ホームページすらない。
同社の寺尾文孝社長は警視庁元機動隊員で、秦野章元警視総監の秘書を経て日本ドリーム観光の副社長を務め、許永中、伊藤寿永光、高橋治則、後藤忠政、中江滋樹らバブル紳士と対峙した。1999年に日本リスクコントロールを立ち上げ、政財界の「盾」として闇から闇に数多くの依頼を処理してきた。政治家・経済人・芸能人たちの「墓場まで持っていく秘密」。その一端を明かす驚愕の手記『闇の盾』の一部を紹介する。
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ミスター検察への怒り

「寺尾君、今日ちょっと行こうか」

いつも政治家や官僚を引きつれ、料亭やクラブへと繰り出す秦野先生から、珍しく2人きりで食事に誘われたことがあった。秦野先生が法務大臣になって2年目、昭和58(1783)年11月のことである。秦野先生は72歳、私は42歳だった。

秦野先生についている警視庁のSPが、ほぼ私と同年齢の連中である。銀座の裏通りの地下にある料亭「松島」の座敷で向き合い、熱燗をあおった秦野先生はいつになく険しい顔つきだった。

「寺尾君、俺がなんでもできると思ったら大間違いなんだぞ。君はそういうふうに思っているかもしれないけど」
「…………」

秦野先生がなんでへそを曲げているのか、いまひとつわからない。夜が更けるにつれ、秦野先生のピッチはさらにあがり、何本もの徳利が空になった。

「法務大臣だなんていったって、なんにもできないんだよ。人事ひとつ、自分の思う通りにできないんだから。法務大臣の力なんてそんなもんだ」

話を聞くうち、秦野先生の怒りの原因が少し、見えてきた。実はこの直前、伊藤栄樹(いとう しげき)最高検次長検事が、東京高検検事長に昇格することが決まっていた。東京高検検事長は、確実に検事総長となる「待機ポスト」である。つまりこの人事は、伊藤栄樹の検事総長昇格を意味していた。

伊藤はロッキード事件当時、法務省刑事局長を務めた検察のエースだが、秦野先生は、伊藤の検事総長就任をなんとしてでも阻止しようとしていた。





「隠れ田中派」

秦野先生は、昭和49(1974)年に参議院議員に当選した当初から、ロッキード裁判に批判的だった。検察が使った「嘱託尋問」という手法を正面から批判し、国会に検察幹部を呼び、厳しい質問をぶつけた。検察を目の敵にしていたのだ。

とくに伊藤は、過去に書いた論文をまとめた著書『検察庁法逐条解説』で、〈不当な指揮権発動があった場合、検事総長の対処は従う、従わない、辞任するの3つがある〉と書いて、秦野先生の怒りを買っていた。

秦野先生は法務大臣に就任すると、伊藤を東京高検検事長に昇格させないよう主張したが、検察の抵抗は強固で、結局秦野先生の意向は通らなかった。「大臣なんて、なんにもできない」という秦野先生の嘆きは、そのことを言っているのである。

秦野章と田中角栄は非常に強く、濃い関係である。秦野先生は田中元総理に、「知事選に落ちても、閣僚にするくらいはわけなくできる」と言われたと著書で明かしている。秦野先生は参院議員当選後も「隠れ田中派」としてロッキード裁判を批判し、田中角栄擁護論を唱えつづけた。

「直角内閣」と言われるほど角栄色が強かった中曽根康弘内閣が成立すると、田中元総理は秦野先生を法務大臣に押し込み、ロッキード裁判への直接、間接の影響力を狙った。

秦野章は、田中角栄を無罪にするために法務大臣になったのである。田中元総理は昭和58(1973)年10月12日に有罪判決を受けたが、秦野先生はその前も、そのあとも、指揮権発動を狙いつづけた。政治生命を懸けて、指揮権発動に踏み切れなかったことには、長く後悔の念を口にしていた。


     ===== 後略 =====
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