【産経新聞】雑賀衆と織田軍の合戦シーンを和歌山市の市民グループが動画で再現 雑賀孫市の魅力を発信 [みの★]
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戦国時代、紀州を拠点に日本一の鉄砲集団とされた「雑賀衆(さいかしゅう)」を率いた武将、雑賀孫市(まごいち)の魅力を発信しようと、和歌山市の市民グループ「孫市の会」が動画を製作し、インターネット上で配信している。作家の司馬遼太郎も孫市の豪傑な人柄を愛したとされ、会員らは「全国に孫市の名前を広めたい」と意欲をみせている。
■行動力と人望備えた豪傑
孫市は戦国時代、紀伊国の北西部(現在の和歌山市、海南市の一部)の地域をまとめた有力者。地侍集団を率いた武将としても活躍し、鉄砲集団を采配。紀州に攻め入った織田信長軍を苦しめた逸話は、司馬遼太郎の歴史小説「尻啖(しりくら)え孫市」で取り上げられた。
孫市について、中世史に詳しい和歌山市立博物館の太田宏一学芸員は「文献資料は少ないが、信長の紀州攻めに抗戦した一方で、その後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の軍隊配置(陣立て)で重要な鉄砲隊を任された。行動力と人望を兼ね備えた豪傑だったのでは」と推測する。
そんな孫市の魅力を全国的に発信し、まち起こしに生かす活動を続けているのが、和歌山市内の歴史愛好家らで平成15年に発足させた「孫市の会」だ。
「和歌山で『日本一』と胸を張って誇れるのは、収穫量日本一のミカンや梅など少ない。そこで、かつて日本一の鉄砲隊を率いたとされる孫市を旗頭に担いで情報発信できれば、と考えました」と森下幸生会長(65)は説明する。
…続きはソースで。
https://www.sankei.com/article/20210610-A3HWZMCNBNKUJGCFZHHTMKBS3M/
2021年6月10日 8時00分 綱吉が出てくるまでの日本人は、喧嘩ごときで大量の死者が出るような民度。 ちゃんと生きたまま首をギコギコ捻り取って、グボボシーンあるの? >>3
金銀ほしいスペイン、ポルトガルに滅ぼされないで済んだろ 一つだけ言える確かなことは最強は陸奥ということだけだ 鉄砲を大量に保有するには金がかかるだろうが、財源はどこから? 兜はきちんと雑賀鉢にしとるんやろな
バッタみたいなやつ 長島一揆だっけ
全裸で織田軍に突撃のシーンをやってもらいたいw 鈴木孫一さんにはうちの御殿様の御先祖様が世話になってのう >>11
見よう見まねで国産で作ったんじゃないの? 雑賀一族は横須賀や藤沢にあるさいか屋で神奈川ではなじみがある 鈴木孫一さんのご子孫の方が栃木県日光市の圓光寺で御住職をやられているよ(雑賀重行氏)
でうちの御殿様ってのが我が栃木県壬生町にあった壬生藩に約300年前に藩主として入られた鳥居宗家
鳥居宗家の始祖であられる鳥居元忠公は当地で精忠霊神として祀られている(精忠神社)
鳥居元忠公は伏見城で最期を迎える時に鈴木孫一さんに手柄を取らせたと伝わっているんだよね
不思議な縁ですな >>11
雜賀衆は水軍もあり貿易もやってた傭兵集団だからその辺りで金はあったのかも さいかしゅうて根来寺なの?
根来から種子島供給受けてただけ? 雑賀孫市って戦国大名ではないってこと?
雑賀孫市はトップの名前であり、誰でも雑賀孫市になれるチャンスがある
初代雑賀孫市、二代目雑賀孫市、三代目雑賀孫市と引き継がれる
これで当たってる? >>20
たたら製鉄と鍛造は見よう見まね無理よ
ホームセンターで揃う時代では無い 参加した事ある 愛知からきた織田軍役
の人に、梅を思い切り投げつける催しが
あったな >>28
J Soul Brothersみたいな話だな 原田直政を討ち取るまではよかったが信長が直々に救援に乗り出したら圧倒的多数なのに蹴散らされ追撃されて大損害じゃなかったか >>28
戦国ゲームではよく出るけど
ただの棟梁
当時の農民集団は実力主義なので優秀な弟子を婿養子にして継がせることもあったが
鉄砲打ちはとくに技術職なので江戸時代からは世襲相続 本願寺は激飛ばしといて引きこもるからノった連中総崩れだな >>39
石山本願寺は地形的に立てこもった方が強いからな
のちの大坂城だもん 結果として信長も朝廷に調停してもらうしかなかったしね >>40
歴史上、籠城で勝ちをおさめた武将はいない
援軍を待つ以外で >>42
振り出しに戻って、でわ資金はどうやって調達したのかしら? >>24
関東にも雑賀一族はかなりいるみたい
そういえば横須賀のさいか屋のイベントに雑賀衆は毎年来るみたい >>43
籠城で「勝つ」というのは、どういう状態?
原理的にありえんように思うが。追い返したら勝ち? >>43
信長以前は囲んでる側が持たなくて引き上げてた
農作業しないといけないので 領地持たなきゃ武将とは言えんし、領地持ってるなら占領すれば補給を得られなくなり滅ぶ。
戦があるうちは傭兵稼業で食っていけるだろうが、無くなれば農民でもやるしかない。 こういう農民武装集団の活躍ってなんかワクワクするよね
職人気質な無骨な感じがかっこいい 根来寺の怖いところは
鉄砲伝来は二丁なのに
そのうちの一丁を領主から譲って貰って
翌年にはコピー製造に成功していること
ちなみに今の成田山新勝寺はその根来寺末裔な >>28
一揆で戦ってた相手や
江戸になって仕官して武士になった子孫のエアプ家伝しか記録が残ってないから
どの時期に誰が孫市で当主だったかが
あやふやになってるだけでが
ノブヤボで言うところの
三太夫、重秀、重朝は普通に世襲の血縁者 >>49
織田信長の楽市楽座も兵農分離も戦前からの通説が近年の歴史研究で否定されとるんやで
・「兵農分離」の実態
90年代に大ヒットした井沢元彦の歴史ファンタジー長編「逆説の日本史」等によって
「戦国時代、信長以前の大名の主兵力は農民で合戦は農閑期しか行えなかった。それを信長は「兵農分離」を行い常備軍を有して一年中合戦を行えるようにした」という俗説が広まったが…
この「信長の兵農分離」概説、現在多くの歴史研究者に多方面から否定されている。
そもそも信長が兵農分離政策を行った証拠とされてきた史料とは、実は
古くは朝倉氏が分国法で定めるなど既に各地の大名が行っていた城下集住すら織田氏は遅れていた、信長の革新性どころか後進性を示すだけのものであった。
兵農分離を行った証拠は実はない(真田丸の時代考証・丸島和洋氏の解説)
https://togetter.com/li/327812
ちなみにその史料の記述を要約すると「信長は安土に移転後も未だに城下に妻子を移住させない家臣達に怒り、失火事件を機に彼らの実家を焼き討ちした」というもの。
今川義元が勢力を伸ばす時期、既に有力大名は寄親寄子制や直属の牢人衆などで季節に関わらず兵を動員する体制を構築しており
今川軍が桶狭間の戦いで6月に大軍を動員できたのもこの理由。川中島の戦役でも両軍が夏期の農繁期に対峙している。
豊臣政権の小田原征伐に対する北条氏の百姓動員令のような事例は緊急事態に限られ、その状況においても百姓が直接戦闘に参加する事は少なかった。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています