【歴史】「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断、被害者の数はなんと5万人 ★4 [砂漠のマスカレード★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
【写真】「世界で一番強い国はどこか? 」中国製AIの衝撃回答
日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
■最初は布教を許していたが…
秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21?page=1
6/8(火) 15:01
配信
前スレ 2021/06/11(金) 14:13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1623407991/ 九州平定といっても実質的には九州統一を目論んだ薩摩の島津氏と秀吉との争いだった。この合戦では島津軍は九州各地でよく善戦したが、いかんせん20万ともいわれる秀吉軍の前に次第に薩摩一国に追い詰められ、翌15年4月21日、ついに島津家当主義久は秀吉に和睦を申し入れている。
その後、秀吉は薩摩にしばらく滞在して戦後処理をすませると、帰国の途につき、途中、博多に立ち寄った。史上有名な「伴天連追放令」はこの地で発令されたものだ。
それは6月19日のことで、この日秀吉は、九州遠征に勝手に秀吉軍に同行していたポルトガル人でイエズス会の日本における布教の最高責任者であったガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
一つ、なぜかくも熱心に日本の人々をキリシタンにしようとするのか。
一つ、なぜ神社仏閣を破壊し、坊主を迫害し、彼らと融和しようとしないのか。
一つ、牛馬は人間にとって有益な動物であるにもかかわらず、なぜこれを食べようとするのか。
一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、同時に秀吉はコエリョに対し追放令を突き付けている。
この追放令が出されたことで九州各地や京・大坂にあったイエズス会の教会や病院、学校などが次々に破壊された。しかし秀吉が、交易やキリスト教の信仰自体を禁止したわけではなかったため、ほとんどの宣教師たちは九州などにとどまり、非公認ながら布教活動を細々と続けたことがわかっている。
■西洋人が胸に秘めた「日本侵略」の意図
さて、秀吉がなぜこの追放令を出したかだが、その理由の一つに、西欧人たちが胸に秘めた日本侵略の意図を読み取ったからだと言われている。宣教師コエリョが秀吉を博多で出迎えた際、自分が建造させた最新鋭の軍艦に秀吉を乗船させて、自分ならいつでも世界に冠たるスペイン艦隊を動かせると自慢半分、恫喝半分に語ったという。このとき秀吉は彼らの植民地化計画を瞬時に看破したのであった。 もう一つ許せないのが、日本の大事な国土が西欧人たちによって蚕食され始めていることだった。
たとえば、キリシタン大名の大村純忠は自分の領地だった長崎と茂木を、同じくキリシタン大名の有馬晴信は浦上の地をすでにイエズス会に寄進していたのだ。
日本国の支配者たる秀吉にとって、いかに信仰のためとはいえ、外国人に日本の領土の一部を勝手に譲渡するなど言語道断の出来事だった。西欧人たちがそれを足掛かりとして領地を広げていくことは火を見るよりも明らかだったからだ。
最初に宣教師を送り、続いて商人、最後に軍隊を送って国を乗っ取ってしまうという西欧列強お得意の植民地化計画が今まさに実行されようとしていたのだ。
秀吉はそれを防ぐためには、キリシタン大名や宣教師たちの勝手な振る舞いに一日でも早く歯止めをかける必要があると考えたのである。
さらに、秀吉がこの伴天連追放令を出した理由として、実はこれが最も大きかったのではないかと研究者たちの間でささやかれている理由がもう一つある。それこそが、先の四カ条の詰問にもあった、日本人の奴隷問題だった。
日本人の貧しい少年少女が大勢、タダ同然の安さで西欧人に奴隷として売られていることを秀吉はこのたびの九州遠征で初めて知ったのだった。
九州遠征に同行した秀吉の御伽衆の一人、大村由己は著書『九州御動座記』の中で日本人奴隷が長崎港で連行される様子を大要、次のように記録している。
■『九州御動座記』の記録
「日本人が数百人、男女問わず南蛮船に買い取られ、獣のごとく手足に鎖を付けられたまま船底に追いやられた。地獄の呵責よりひどい。──中略──その上、牛馬を買い取り、生きながら皮を剝ぎ、坊主(宣教師を指す)も弟子も手を使って食し、親子兄弟も無礼の儀、畜生道の様子が眼下に広がっている……」
同胞の若者たちが鎖につながれて次々と南蛮船に押し込まれていく光景は大村由己にとってはこれ以上ないカルチャーショックだったに違いない。
何とも酷たらしい場面だが、当時の海外に出た西欧の商人にとって有色人種の奴隷交易はなんら恥じることのない商取引だった。これはそもそも、1452年にローマ教皇がポルトガル人に対し異教徒を奴隷にしてもよい、という許可を与えたことが根底にあるという。
なお、牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ。ルイス・フロイスも日本人が器用に箸を使って食事する様子を驚きをもって本国に伝えている。 大村由己は自分が目撃したことを秀吉に報告したところ、秀吉は激怒し、さっそく宣教師コエリョを呼びつけ、なぜそんなひどいことをするのかと詰問した。するとコエリョは、「売る人がいるから仕様が無い」そうケロッとして言い放ったという。
この言葉からも、こうした日本人奴隷の交易にキリシタン大名たちが直接的にしろ間接的にしろ何らかの形でかかわっていたことは間違いないだろう。
海外に連行されていった日本人奴隷は、ポルトガル商人が主導したケースがほとんどで、その被害者はざっと5万人にのぼるという。彼ら日本人奴隷たちは、マカオなどに駐在していた白人の富裕層の下で使役されたほか、遠くインドやアフリカ、欧州、ときには南米アルゼンチンやペルーにまで売られた例もあったという。
この5万人という数字に関してだが、天正10年にローマに派遣された有名な少年使節団の一行が、世界各地の行く先々で日本の若い女性が奴隷として使役されているのを目撃しており、実際にはこの何倍もいたのではないかと言われている。
こうした実情を憂慮した秀吉はコエリョに対し、日本人奴隷の売買を即刻停止するよう命じた。そして、こうも付け加えた。
「すでに売られてしまった日本人を連れ戻すこと。それが無理なら助けられる者たちだけでも買い戻す」といった主旨のことを伝えている。
その一方で、日本国内に向けてもただちに奴隷として人を売買することを禁じる法令を発している。こうして秀吉の強硬な態度がポルトガルに対し示されたことで、日本人奴隷の交易はやがて終息に向かうのであった。
もしも秀吉が天下を統一するために九州を訪れていなかったら、こうした当時のキリスト教徒が持つ独善性や宣教師たちの野望に気づかず、日本の国土は西欧列強によって侵略が進んでいたことだろう。秀吉はその危機を瀬戸際のところで食い止めたわけである。
■日本史の新視点
慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。
ともすれば現代のわれわれは秀吉に対しキリシタンを弾圧した非道な君主というイメージを抱きがちだが、実際はこのときの集団処刑が、秀吉が行った唯一のキリシタンへの直接的迫害であった。それもこのときはスペイン系のフランシスコ会に対する迫害で、ポルトガル系のイエズス会に対しては特に迫害というものを加えたことはなかった。
ここまで見てくると、当時の秀吉は日本の為政者として領土や国民の安全を守るために最善の選択をしたように思えてくるのだが >>1
合ってる
朝鮮侵略は西洋人を脅かす為のパフォーマンス >>2
>ガスパール・コエリョを引見すると、次のような四カ条からなる詰問を行っている。
これなぁ……話として面白いし、日本がキリスト教を禁止したのは奴隷貿易を防ぐためだとか言えるからかっこいいんだけど
原本がないんだよね……
昭和の偽書の可能性もある >>1
カトリックやローマ教皇の権威低下からの布教活動であって奴隷化の為の布教活動は言いすぎでしょ
日本の奴隷をアメリカ大陸とかに運ぶより日本の奴隷が掘った銀を交換レートの安い国の金と交換した方が儲かっただろうし
慰安婦が存在したのだから慰安婦目的の戦争だったに違いないとはならないし でもさ、現代に於いて、また奴隷を雇うみたいな搾取企業増えたし
もう現代に秀吉はいない でも今や
1億人アメの奴隷。
安倍もスカも言ってる、
アメリカ大統領様様ってwww 邪悪なスペインの尖兵の宣教師たちと日本の為政者を描いたNHKの大戦国史は見ごたえあったな。
ああいうのこそ大河ドラマで見たいと思った どっちみち日本は奴隷化できなかったよ
ヨーロッパから遠すぎる
ゆうたら世界で一番遠い国
しかも手前にもっと頭の弱い国がいっぱいあるのになんで苦労して日本を奴隷化する? 日本人の血が入ってるとかなんとかでソフィーマルソーだかが
それ系の末裔だときいたことあるけど、デマか? 戦前は欧米列強への配慮から、戦後は戦勝国たる欧米様への気後れからだんまり決め込んでいたが、
段々言えるようになってきたね 日本人を奴隷化してるパソナは
未来の教科書に載りますか 「沈黙 -サイレンス-」という映画も白人の傲慢さがでてるよな 家康はイギリスと貿易して、最新の大砲を購入
この時代は、国際感覚の鋭い為政者ばかりだな
明治維新以降、ボロボロだよ
唯一頑張った外交だって、江戸末期に維新とは別の優秀な江戸時代の人間が、不平等条約を頑張って撤回させようとしたわけで
明治維新のごたごたが落ち着いた、明治末期あたりからそれなりによくなって
その江戸時代の遺産で日露戦争までよかったようなもんだよ
あとは薩長テロリストによる悪政が今もまだ続いている お前ら秀吉のころポルトガル人が日本に来るのにどれぐらい時間かかったか知ってる?
帆船でアフリカ回って半年w >>21
>なんで苦労して日本を奴隷化する?
中国制服の橋頭堡
今正に、アメリカがそれやってるだろ? >>19
>>26
とりあえずコイツラは奴隷らしい 太閤様、すみませぬ
経営者目線で語る奴隷化が止まりませぬ >>29
徳川が最悪なんだよ
260年も鎖国して日本を世界から立ち遅れさせた
こっそり調査して兵器購入なりしてれば良かったのになにもせずに
黒船で失禁w開国w
日本の恥
国賊 むかしから転職みたいなのはありそうやけどなあ
半社やからやろ?神ガー悪魔ガーゆうて、社会転覆みたいなやつ ジャップ奴隷をポルトガルに売り飛ばしていたのはジャップ自身
黒人が黒人を売っていたのと同じ構図。劣等民族なんてこんなものか >>31
だからあ
飛行機でブーンとくる時代じゃない
橋頭保なら台湾で十分 誰かが本を売りたくて唱える新説を自説として唱える馬鹿が一番の奴隷 オレが日本人を奴隷化するよ。
先手先手のガースーだ。 白人世界は「野蛮人に襲われる白人女性」という物語にことさら敏感に反応する
白人の歴史は野蛮人退治と帰伏の歴史だからだ
白人女性を切望する醜いジャップたち・・
卑しいジャップたちが白人女性を目の前にして何もしなかったとは考えられない・・
美しい白人女性たちを捕虜にして
その生死を自由にできる状況下において
ジャップが彼女たちをレイプしなかったはずがない・・
バンカ島事件ではこのようにして白人たちの妄想は膨らみ
白人女性たちが銃殺前に日本兵にレイプされたという虚偽の歴史が作られた パヨ、キリシタンに謝罪と賠償を要求しろよな。
(´・ω・`) はあ?わーくにはどこもかしこも国産奴隷ばかりやんけ
ピンはねされてこき使われて過労死して >>29
イギリスはアンボイナ事件で
極東から撤退するけど >>45
現代では白人女性のマンコを見ても牛みたいで劣情を催さないんですが >>23
京都と吉原は全然ちがうぞ
京都は高級クラブみたいな感じで文学芸術の社交場だった
吉原はただの遊郭だ >>39
お前らは明治になっても国民の六割が奴隷で、日本が解放してやったんだぞ やっぱ、日本は愛知出身の大阪人やないと、
あかんねんな
わかる? >>37
鎖国w
江戸時代中期から出島には、世界の最新の情報がオランダなどから得られていた
蘭学といいつつ、オランダ経由で当時のヨーロッパ情勢をつかんでいた可能性が高い
さらに江戸時代中期以降、豪農や金持ち庄屋が増えて、そこの次男坊とかが学問を追求する人が多く
このあたりから、藩校ブームになるんだよ
これが江戸後期にかけての識字率向上につながる
鎖国なんていいつつ、上手に外国と交易しながら情報も得ていた
さらに内需拡大で豊かになった人々が自主的に勉強し、さらに学校を作った
これが幕末開国時に、外国からの侵略を抑止した1つの要因でもあるんだよ
日本はもっと野蛮な国かと思ったら、庶民まで識字率が高くて驚いたらしい
それで力ではなく交渉でって流れを作った スペインはキリシタン大名動かして日本をクリスチャン国家にするつもりだった
まあ台湾島みたいに総督府は置けなかったとは思うがな
結局は天界みたいな仏教勢力に駆逐されてしまった >>54
ではなぜ黒船に失禁開国したのかね?
なにも知らず なにも準備がなかったからでしょう >>56
勝者によって書き換わった歴史をうのみにするとはw >>54
国民から外国の情報を遮断しておいて
自分は何も準備してないって
金王朝以下だわ 鳴くまで待とうホトトギス
だけの人じゃなかったんだな これ、TVでも碌に出ない話であまり知られていないんだよな。
俺も本で知った口だが。
時宗と良い特亜に都合が悪い英傑はとことん下げられてる。 >>58
>>59
じゃあなんで黒船を打ち払えなかったの?
何の補給もない船団を
言い訳できない 基本的に日本は奴隷売買は禁止だったのにどういう訳か頭が空っぽの人はそこを無視するのよね >>1
世界一と煽てられ気を良くする猿ジャップ笑う >>63
それは家康 秀吉は泣いて血を吐くホトトギスとなる >>58
>>59
ちゃんと調査してたんなら徳川幕府は生き残りの布石を打ってたはずだろ
当たり前
何もなかった スペインにハポン村というのがある
奴隷に売られた日本人のたまり場だったのかもしれない >>65
打ち払えなかった という聞き方がわからない
打ち払う必要はなかったのに、どっかの藩が喧嘩ふっかけてフルボッコになってたしw
単に外交すりゃいいのに、朝廷に下手な情報吹き込んだり
全部薩長がじゃましているんだよ
徳川憎しだけで動いて、国全体のことなんてこれっぽっちも考えてなかった ひとを見たら、救世主かとおもう、ぐろーりあのぜすさま
ぱらいそさ連れて行ってくだせ
施政者は、悪魔の手先とおもう
こうゆう思想=半社やべーてなかんじ? 九州の大名は火薬の原料になる硝石を南蛮人から買うために日本人を売った
硝石は日本で産出しなかった >>70
失礼な
あれは天正使節団の末裔だぞ
仙台の武士の末裔だ 人買いなんていつの世でも忌み嫌われる行為
京都の河原で首謀者を見世物にして一人ずつ首を斬るといい >>71
言い訳無用
きちんと西洋に対抗できる軍備がなきゃ対等な交渉もできるわけない
なぜその準備をしていなかった?
国民には先進知識を隠蔽しておいて 要するに、一億人を奴隷にしてシナチョンに売り渡す安倍竹中は秀吉より凄い人物であるということですね >>50
白人女性が牛なら
日本人女性は哺乳類ですらない
亀とかカエルとかそのレベル
オードリーへㇷ゚バーン、ミランダカー、エマワトソン、ナタリーポートマン、クロエグレースモリッツ
世界中で知名度があり世界の女性から憧れられ、男性から求められるのは白人女性ばかりです
アジア人女性では世界的スターにはなれない
事実アジア人女性で世界的知名度のある女性はほとんどいない 「数多すぎ」
「男たちが黙っていないはず」
「待遇は悪くなかった」
などなど、慰安婦強制連行を疑った理屈を、
ネトウヨはいとも簡単に捨て去るのだろうか? だから今でもバチカンでは秀吉は悪魔として表現されている >>82
戦争でしか解決しようとしない時点でダメだろうね
もし武力で解決しようとしたら、明治維新どころか占領されていたかもしれない
そういう思考能力を当時の政府(公儀)や、国を本当に思う人たちには無かったと思うよ
だから外交でなんとか切り抜けようとしたわけだよ
そういう外交努力を理解できずに、なんでも力で解決なんて無理でしょ
なんか中華的な発想だな >>17
いわゆる奴隷と経済的に困窮して奴隷になるのは違う
自身を買い戻すことすら許されない奴隷と借金を返せば(年季明け含む)解放される遊郭では別次元の存在
キリスト教圏では生涯にわたって奴隷=人間ではない。 >>87
時代が違うだろ
馬鹿なのか
お前の国は明治になっても国民の六割が奴隷だったが、日本が解放してやった
両班は気の向くまま奴隷を鞭で叩いていた しかしさ
秀吉がスペインと組んでアメリカ西海岸を奪ってたら今ごろどうなってたかな
WW2に負けない可能性があったとすればそれだけだ 今は自民党と経団連と竹中が日本人を奴隷として売り出そうとしてるけどね スペインやポルトガルに連れていかれた日本人奴隷の子孫たちは
アフリカにわたりアフリカの地名は日本語由来のものが多い
ナイジェリアにはゴマとかタナカとかナカイとかサブロとかエドっていう町がある 天正遣欧少年使節のひとりは行った先でのキリスト教の奴隷売買に嫌気が差して、日本に戻ってから棄教してるよな つーか当時はキリシタンに改宗させた信者を
信仰の聖地に行けるとか騙して奴隷として連れ帰っていたんだよ。
秀吉が怒るのも当たり前だ。 >>93
アメリカの開拓民にインディアンと同様に日本人が殺されていたんじゃないか? 晩年は仕方ないね。認知症は誰にでも起こるらしいからな >>97
いいや男だが
そういう考え方もなんか偏っているなw 信長なんて頭おかしそうだから女子供でも売れるものならなんでも売ってそうだなw タイクーンの語源にもなってる時点で日本に留まらない世界規模の大英雄なんだよな秀吉 キリスト教にやられた国は
どこもその後、衰退して行ったからね
東南アジアとか、北アフリカとか
もともとは世界的にも
豊かな地域だったのに そんな国がベトナム人奴隷50万人使役してるんやからな >>102
いやいや鉄器も火縄銃もあるのに石器に負けないだろ
天然痘だのもあるし >>12
金じゃないのよ
一神教の宗教上の使命感でやってるのさ国をあげて
有色人種や異教徒は畜生道に落とすべき、それが神のお望みで畜生にとってもいいこと、と信じてる >>89
戦争も外交の一種だってことを学ぶべきかな >>1
この奴隷化に成功したアフリカからの黒人奴隷化の数知れず
言っちゃポリコレ的にアレだけど、アメリカに運ばれた黒人奴隷って部族抗争に敗れた黒人の中の当時の負け組なわけでさ
アメリカの黒人の遺伝的なルーツを辿れば、彼らのコンプレックスを解消するどころかむしろ拗れさせる結果しか招かない >>101
今はユネスコの世界遺産に指定されてる
マカオの教会地区とかね
20年ぐらい前に、あそこの大聖堂跡地の地下から
労働者の遺骨がゴッソリ出てきた
おそらく、穴掘りが終わったら後ろから襲って
そのまま穴に埋めたんだろう
ポルトガル人とイエズス会が
どれだけ卑劣だったかがよくわかる >>104
あのなあ 朱子学徳川が西洋近代と交渉できると思う?
ムリだよ
拳で話し合うしかない >>109
自足できれば良いけど補給前提の移民じゃ無理がある まだ思ってる人がいるからね
文明は(白人は)ヨーロッパから西回りにアメリカ大陸を占拠してアジアを占拠するものだ、とする
だからロシアや中国を狙ってる >>105
この奴隷ってのは戦国大名が他国に攻め入ったときに
参加する兵が乱取りといって、攻め入った先で
盗みや人を拉致して金にするために起きるんだよ
ほとんどの戦国大名はそれを黙認していたんだけれど
黙認することで兵が集まってくる、ってのがあるからねw
でも信長は兵に対して乱取り禁止していて、兵にちゃんと給料を出して
常備兵としていたそうだ
だから、むしろ信長軍団からは乱取りが起きずに、奴隷売買もなかった可能性が高い ポルトガルかなんかに名字がジャパンの地域があるとか言ってなかったっけ?
これの末裔だったの? >>113
白人に奴隷を売ってたのは
アフリカのムスリム系支配層
中世は、ムスリムがアジアからアフリカまでの広範囲を仕切っていたからね >>110
いまでもすでに奴隷やん?この世は悪魔の手先が操ってるんやで
あ、俺は当然善良なええひとな、半社をせなあかん
はやく来て、ぐろーりあのぜすさま、ぱらいそさいきてえだ
洗脳こわいお でも奴隷の子孫はアフリカにいたままよりも幸せなんじゃね?
アフリカにいたままだったら白人女性とおまんこなんて夢のまた夢
アメリカで産まれたからバスケやアメフトといったスポーツ分野やAV男優といった職業で成功して
黒人たちが切望する白人女性とやりまくれるわけで 真の英雄がようやく評価されてきたな
少し前まで秀吉はボケ老人だのハゲネズミだの叩かれてたが >>124
アメリカの癌になってるがな
もう去勢しろよ 当時の宣教師の悪事は今の意識高い系なら白人でも言ってる
ジャミロクワイは自分の父親がポルトガル人と知って多少のショックを受けてた 奴隷として売られた方も騙されていて、始めは年季奉公だと思っていた 秀吉様は素晴らしいな!
今の政治家にもこんな人物がいれば、
日本はここまで落ちぶれなかった >>125
世界のグローバル化を見越して明に侵攻しようとした英雄だよ
後継者さえいれば歴史は180度変わっていた
ひきこもり徳川と 現代に置き換えると電通が宣教師で韓流がウリスト教、韓流養成所が奴隷市場だと思えばよい >>109
なんか勘違いしてないか?
日本の政府軍が戦うのは、アメリカじゃなくて
キリシタン大名連合軍とだぞ。 >>12
東南アジアだよ、ポルトガルだし
ポルトガル/スペイン関係なしに奴隷売買はされてたし、
この記事はいい加減すぎるが 洗脳って怖いよな
宣教師使ってあちこち植民地化していったんだからな >>120
>信長軍団からは乱取りが起きず
正規兵なら起きないの?
それも中世の倫理観で?
あほらし >>120
黒人奴隷もらって喜んでた奴なんて全く信用できないんだが >>121
上でも誰か書いてるけどスペインの通称ハポン村じゃね
仙台藩の使節の末裔だってさ
姓がハポンの人が多いからそう呼ばれてるけど
実際の名前はコリア・デル・リオだってさ
微妙な気分になる響きだなw 映画「サイレンス」 原作:遠藤周作 × 監督:マーティン・スコセッシ 15世紀スペイン領のカナリア諸島では奴隷がサトウキビ農園で働かされていた
幼少期をカナリア諸島で過ごしたスペイン人サッカー選手のダビド・シルバの先祖には日系人が居た タイガーウッズは黒人でありながら黒人女など全く眼中になく
金と名声の力で白人女とばかりやりまくっていたが
あれタイガーが結構婆専だったから許されてたところはあると思う
あれが白人の美少女系ばかりやりまくってたら白人男たちの嫉妬で頃されてたんじゃないかと思う
コービーブライアンとかいうのもホテル従業員の白人女性にフェラをさせて訴えられてたな
黒人有名アスリートは白人女性はみんな自分と寝たいと思ってると思う >>109
日本人移民がインディアンの立場になって
次々押し寄せてくる民間人が銃装備しているのが
当たり前のアメリカ開拓民に襲われるって意味だぞ
インディアンと戦うと言っているわけじゃないw
インディアンだって石器じゃないぞw
ちゃんとライフル銃で武装していたし キリスト教の教会行ってたけど、
上の奴らは糞。
信者を奴隷みたいに働かせて、
献金させて、自分らはニートみたいな生活だもん。 さっさと
奴隷島のケケ中が頃されないのが不思議w
アイツはオカシイやろ? >>89
戦は単なる外交手段だけども?
なにを書いてんの? そもそも植民地支配ってもんはキリスト教の産物だからなー 日本が侵略されなかった理由
欧州から遠すぎたしアジアの中ではそれなりの文明国だったから
東南アジアはまだまだ未開だったからはるばるやってきた欧州人の植民地にされた >>134
キリスト教を使って、大名やその配下、庶民を洗脳して
白人の味方につけ、政府に敵意を抱かせて
反政府ゲリラへと思想改造するんだ。
武器・弾薬も、しこたま彼らに与える。
そりゃどんどん世界中が、植民地にされていったわけだよ。
すごい。 >>147
信者という文字を合わせると儲かるだもんね >>144
いやいや
スペインに協力を仰いで西海岸に拠点を築けばそうそうやられない
秀吉のころはまだライフルはなかった 実際は小西行長を通じてキリシタンの要請で唐入りしてんだよ たしかにキリスト教に融和的だったのに一気に方針転換したのは解りやすいよね^^; >>136
大抵の戦国大名は給料を払った兵ではなくて
戦のたびに農村から徴兵しているんだよ
だからタダ働きさせられている
そういう兵の不満をそらすために
攻め入った先での乱取りは黙認していていたってこと
だけど信長の場合は常備兵として給料を払っていた
そして乱取りを禁止して、乱取りした場合は罰を与えていたそうだ
だから信長軍団では乱取りは起きなかったということ >>156
だから後の世の話ね
秀吉の100年後くらいには西部開拓時代に突入しているだろ スペインとポルトガルは世界を二分する条約をバチカンで結んで、フィリピンはスペインが
そして日本はポルトガル領になるはずだったじゃなかったっけ。結局、そのことを告げ口し
たオランダが幕府との交易権を得て、インドネシアもポルトガルから奪ったと。どっちにし
ろ、気持ちの良い話では無いな。 >>87
朝日新聞が捏造を認めたのに まだ言ってんのか
パヨクは妄想ばかりしてないで事実を知れよ >>163
日本だってレベルアップするわな
鎖国してなきゃ 支払いや納品 結局は利権でもめただけなんだけどな
周辺国で終わったと思ってた疫病が日本ではまだ残ってて
奴隷の価値は日本人はすぐに死ぬってので低かったし 信長の方がキリシタンを直臣にはしてない
逆に秀吉はキリシタンの小西行長を唐入りの一番隊にしてる 仮面の忍者赤影では信長と秀吉が正義で宗教が悪だったな イエズス会が徳川家康を裏で操って豊臣家を
滅亡させたのはこれが理由 信長、秀吉、家屋
この愛知糞味噌トリオがいなければ
今頃白人様の植民地を経て搾取されてることにも気付かず
みんな明るく幸せな人生を送れてたのに >>152
人間って宗教大好きだしな
仏教だっておんなじようなもんだし
最近は過激イスラム教なんかも 手元にある文献によると本能寺で信長を殺したのは光秀ではなく本能寺に忍び込んだ秀吉
香炉の蛙が鳴いて知らせたという 秀吉の寿命が後10年
跡取りもいたら
今頃日本人の国が中国にあったかもな 外国相手の奴隷は救われたかもしれんけど
結局自己責任で団塊ジュニア切り捨てられたり
神風アタックとか
日本人同士の奴隷扱いは変わらなかった
まだフィリピンのようにスペインの植民地でいまじゃ英語公用語のほうが良い国になったね
日本人はいまだに国内で親族間殺人ばっかし >>160
>だから信長軍団では乱取りは起きなかったということ
だから何で起きなかったと言い切れるの?
近代の軍隊を見ても正規軍なら略奪をしなかったか? このお陰で日本人のリズムは音頭となり西洋の裏拍でアクセントをとる機会を逸したのである >>172
敵の一部を味方に引き入れ
内乱・分裂を引き起こさせる、最強のツール。
これが宗教。
キリスト教は歴史上、最強の侵略ツールだった。 朝鮮出兵で捕虜にした朝鮮人はスペインとポルトガルに奴隷として売り飛ばしたとか、
あっちの歴史書には書いてあったけど、どうなんでしょ。興味ないけど。 家康は三浦安針から真相を聞いてるから一番イエズス会に警戒してたろw しかし秀吉が明を奪ってたとして
天皇を大陸に移すことはできなかっただろうな
イギリスだって王室をアメリカに移してたら今頃まだ超大国だったはずだが
できなかった >>170
いや、確かイエズス会は豊臣秀頼についていたはず
大坂の陣のころには家康はカトリック勢力とたもとを分かち
イギリス、オランダの宗教色の薄い商売だけが目的で外交をしてきた
国と近づいていて、大阪城に打ち込んだ大筒もオランダから輸入していたことが明らかになっている でも秀吉は文明伝授の恩ある大韓アニキをふみにじり、さらに後年クソジャップは植民地化で韓国の人々を虐殺やレ★プしてたよね。 日本人で西欧のクラシックのリズム感もってるの羽生選手だけ
ほかはミュージシャンも演奏家も日本のリズム感w >>179
そりゃあ、罰を与えると宣言されていたら
兵士は乱取りしなくなるだろ
それでも隠れて乱取りするやつもいたかも知れないが
黙認しているほかの大名家に比べたら、圧倒的に少なくなるのは
理屈でわかるだろ? >>170
島原の乱はイエスズ会が仕掛けたってのはガセ? 本体は否定してるが >>190
アニキには常に強くて大きいアニキでいて欲しかった
アニキがショボいとお互い不幸だな どうやって船で片道半年もかかる国を奴隷化できんの?
想像できんわ >>179
乱取りがあったと主張したいんなら、そう書いてある史料を探せば終わる話だよ
少なくとも今残ってる史書では厳罰に処すと言明して、実際に処断されてる
起きなかったと言い切るもなにも、あった記録を持ってくれば済むんだから >>197
アメリカ人がGAFAの奴隷だろ
君は去年から何を見てたの? 統一チョン系の工作って何かを上げるために何かを落とすって手法を取るからすぐわかるわ
疑われないために過剰に相手がチョンだとか言うしさ
日本人なら信長や秀吉や家康に関してフラットなだけだもん >>194
ちゃんと自分の文章を読み返せよ
起きなかったと断言してんじゃん
>だから信長軍団では乱取りは起きなかったということ >>199
世界中に植民地を置いて、そこを拠点にしていた。
そうやって世界の覇権を握っていたのが大航海時代。 >>160
そうそう信長の軍は戦国時代でもっとも異質だった
近代の軍事制度の創設者ともいえるね >>176
意味不明なんだが酔ってるのか?ラリってるのか? >>197
お前はパソナの派遣か、明日も働けよ
俺は休むけど 日本人が恩着せがましいのはむかしっからなんだね
奴隷から救ってやっただの
平民の給与の五割が税金年金保険に徴収されてる奴隷なのに 豊国大明神は、国を豊かにします
戦国大名って実利主義のイメージ、資本主義者みたいな
でも、ごほうびを振る舞えなくなったらおわりなんよね
人間ってのはしょせんは誰かの奴隷やわね >>1
そういえばこの辺のことを歴史教育から綺麗に削除して隠れキリシタンの話だけクローズアップしてたな
どうせGHQの歴史改変と日本人に対する洗脳教育の一環だろうけどさ >>205
揚げ足取りするなよ
くだらないやつだな
はいはい訂正します
信長の軍では他の大名家に比べたら乱取りは起きにくかった
これでOk?
バカか?お前は >>178
主語も補足も挟まず、唐突に独自用語はさむなと学校で添削されなかった? そもそも戦国時代は乱取(戦争の後の略奪、人攫い、奴隷化)が当たり前で武田信玄の鉱山労働者とか奴隷だらけだった。
秀吉軍も朝鮮戦役では奴隷をめちゃめちゃ狩ってきた。
まぁ国内の平和化を狙い秀吉は小田原戦の際に人買い禁止をしたりしたが、
西欧人のみが奴隷交易をしていたみたいに思うと明らかな間違い >>201
武力で有無を言わさずの時代と違い
島民が彼の跋扈を許容する投票活動をきているのだから
それが民意
嫌なら島から出ていけばいい 現代マカオ人には日本人の血が混ざってると思うよ。あと、シンガポールにカラユキさんの
墓を見に行ったな。戦前は、東洋の真珠と呼ばれたフィリピンにも出稼ぎに行ってたんだぜw >>200
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1066561265
shi********さん
2011/7/17 22:27
戦国大名は兵士に対して略奪行為を禁止する書状=禁制(制札)を盛んに発行しています。禁制の多くは戦地・占領地の村や寺社が大名に発行を申請するもので、殆どの場合受け取りのお礼として金銭を納めていたようです。しかしこの禁制があれば万事安全が保障されたわけでは無く、禁制を貰っているにも関わらず略奪に遭ったという例もあります。また十分な礼銭が用意出来なかったり大名とのコネクションがなかった人々は禁制そのものを得られなかったはずです。結局自分の身は自分の実力で守らなければならない、という時代だったのでしょう。
さて、信長が発行した禁制(略奪を禁止したタイプのもの)で現存するものは約130通。織田軍がお行儀の良い軍隊であったのならこれだけ多くの禁制は必要なかったでしょう。規律が厳格化されていたのなら年を追うごとに発行数は減少していったはずですが、そういうわけでもありません。また禁制は大名側が申請を予め想定して、前もって用意していたようです。つまり発行する側も受け取る側も織田軍は略奪行為をする軍隊である、という事が前提としてあったわけです。
「三河物語」には織田と徳川の兵士が略奪品を巡って大喧嘩を起こすエピソードが載っています。略奪品目当てで参加する兵士も多かった以上末端の規律をコントロールする事は容易ではなかったはずです。また信長の命令で略奪が行われた例もあるように略奪は戦争行為(戦術)の一部でもあったわけで、「織田信長の軍は規律が厳しく、略奪なども少なかった」とは言い切れないのでないでしょうか。 >>214
日本語の「ない」はゼロではないもんね。 >>179
信長の軍が略奪したって資料がないからな
お前がそう主張したいなら文献漁りまくってお前自身の手で未発見の資料を見つけなければならない >>189
かじりもせずに知ったか並べるのはどうなんだ?
日本では別に宗旨宗派のタブーなんかない
入門書や解説書は山ほど出てる訳だから、少し読んでみれば良いのに
母国の神様仏様についてすら知らない人があれこれ書いてもさ >>1
ネトウヨ 「太閤秀吉は、日本人の奴隷化を進めるパソナ自民党の敵ニダ!謝罪しる!賠償しる!」 最近の研究で
奴隷貿易の片棒を担いだのが朝鮮人だったのが分かり始めているらしいね
あいつらが日本人を誘惑して奴隷として売っていた
それにキレた秀吉が朝鮮出兵を決断した てか、戦乱の戦国時代はポルトガルが運んでくる鉄砲の火薬欲しさに大名が自領の日本人を
奴隷として売っ払って買ってたんだよ。秀吉がどうしてたのかは知らんが。 毛唐なんてこんなもの
キリスト教徒もイスラム教徒に負けない野蛮人ども 最近欧米人が日本にかなり住み着くようになってきたから不安だな
日本を内側から侵略し出してるんじゃなかろうか >>214
無いと言い切るのはおかしいと指摘されているのに無いと言い続けたお前が悪い 最近は中国共産党が挑発してるの?
信用失わせる為に >>229
既に日本は朝鮮系に侵略されてるけどな。
昔アメリカの小さな研究機関が日本の歴代総理の血筋や素性を詳しく調べてみたら、純粋な日本人は角栄など少数で
大半は朝鮮系との混血だったという調査結果だったので驚いたみたいだな。
電通や創価、統一、政策決定してる諮問会議の連中など、全員朝鮮系。 >>230
自分で読み返してみたら
>だから、むしろ信長軍団からは乱取りが起きずに、奴隷売買もなかった可能性が高い
と最後に可能性が高いとかいているので
断言した文章ではないことは明らかなんだけれどな
日本語がよく理解できないお前は可能性が高いという言葉の
意味がわからずに噛みついていたキチガイ犬みたいなものだなw >>96
それ誰?
中浦ジュリアン?
原マルチノ?
伊藤マンショ?
ん〜〜あと一人が出てこない 日本人ってどこからコーカソイドの
血が入ったんだろう…
アヴァール?🐴🐴🐴💨 ほんと宗教が生活に密着するの害悪でしかないな
戦争起こるわ虐殺起こるわ意味不明の理不尽まかりとおるわ
イランだってインドだってパンデミック起こったの宗教行事やんけ >>219
えーと史実の話をしてたらだいぶ時間が飛んで『三河物語』って…
大久保忠則だっけか?
書かれたの寛永だかの頃でずいぶん間が空いてるし説話家訓を持って来るとはw
まず史書や史料の扱いを知った方が良いと思うよ
誰かの借り物の説でなく、自分で抄訳くらいは目を通してみればいいと思うんだ
ちなみに簡単に読めるようになったのは塙保己一先生が『群書類従』に収載してから
『御成敗式目』に、殺しや紛争はまかりならぬと書かれてるが、だから殺し合ってばかりとはならないからねw
禁制を出しつつ「乱取りは許さない」と実効性のある取り締まりまで行った点が先進的という点を見落としてるよ 秀吉って東大受かる学力はありそう
出世のしかたが東大合格のそれ 結局、秀吉の時代は刀狩りやらで武家と庶民とが明確に分かれて、庶民は切り捨てごめんで
一方的に斬り殺されても文句言えない社会だったから、あんま変わらなくね?w >>242
日本人の大半はイベントとしてしか宗教やってないぞ 日本人5万人身売買だろ
キリシタン迫害→キリシタン討伐
が正解だな >>239
それと、外国に奴隷として売り飛ばすのは違う
宣教師と日本人がグルになって売り飛ばしてた
年季が開けたら帰国できると聞いていたのに帰してもらえないと
外国で裁判起こした日本人もいると読んだことがある 国が違えど同じ宗教で繋がってれば仲間とか思ってたらアホよね
西洋人にとってはアジア人のキリシタンなんか聖書を読む猿だろうし 当時の欧州の「未開な地」への布教は植民地化とセットよな
なんであんな白人至上主義になってもうたん >>220
文才もなにもさ
新晴正って史学者でもなんでもない、時代劇作家だぜ
論文書く訓練も練習もしてないんだから読みにくくて当たり前
そんでもって欠落部分は憶測で穴埋め >>137
奴隷として貰ったが扱いは奴隷と呼べるようなものじゃなかったし 信長が生きてても
(信長の手によって)
遅かれ早かれ同じような結果になったと思うが... >>246
ご自宅に神棚もお仏壇もないの?
ご両親や祖父母もお参りしないとは本当に日本人なのかしらね >>247
敗戦後の日本人は愚劣な九条平和教育の薫陶を受けたものだから、
そのフィルターで歴史を見てしまう悪癖があるわな。
異民族の外敵内敵は討伐するものだという意識が欠けてる。 >>255
そういうのと特に一神教のやつらの寛容のなさは別物やろ
人間を幸せにしない宗教はいらん >>255
墓参りって未だによく分からんわ
先祖は成仏して輪廻転生してるはずだし
仏教や神道ごっちゃでわけわからん 新自由主義がキリスト教に相当するんだろうな
これに迎合して国を安値で売り飛ばしたのが小泉だ >>235
>>160で
>だから信長軍団では乱取りは起きなかったということ
と言っちゃってるからな
文献でも禁じていたというのもあるし
あったにせよ少なかった、と言いたい話に揚げ足をとる
ID:sMxw8u5e0はゴミ
心情的に擁護したいけど言葉遊びでは100%キミの負けだよ >>125
秀吉の偉業。
人身売買禁止令→奴隷解放
刀狩り→武装解除
惣無事令→戦争放棄
リンカーンの奴隷解放宣言は秀吉の200数十年後の。 >>12
南米のネイティブへの迫害ぶりを見れば布教なんて奴隷化の1手法だとしか思えないけどね。 >>6
これは
秀吉が直接朝鮮に直接行って見てきたら
どんな決断を下したかというドラマ出来そうw >>262
他国と戦争しなきゃ名宰相で終わったのもヒトラーと一緒 刀狩りは郷士の農奴化だろ
キリスト教とは利害が対立したから追い出しただけで有難がるようなことではないわ
上級国民が好き勝手やっても復讐できない土壌を生んだ張本人だよ >>263
あれだけキリスト教を使って、
メチャクチャな侵略や虐殺をやりまくって
侵略ツールじゃないと、
平気で言い張る連中には戦慄するわ。 幽霊なんか意味わからんよな
自殺だろうが他殺だろうが、どこで死んでも遺体は葬儀されるわけで坊さんのお経もあげられてるのに
魂と肉体が分かれてるのか?
坊さんは意味のないお経あげてるのか? 大名が外国へ売り飛ばされた!
とかは、どこ探しても見つからない
ここら辺が北宋とは違う。 中国の人には日本の摩訶不思議な農民制度
理解できないと思うw
なんで農民なのに刀持ってるの?じゃ。 >>223
>信長の軍が略奪したって資料がないからな
信長公記に越前攻めで信長軍が奴隷狩りをしたという記述があるぞ 名主肝煎の方が(農民)お金持ちだから。
下級侍は貧乏。
江戸期の売春婦管理してたのも
名主肝煎層らしいね。 >>259
神仏分離なんて明治時代からだかね。それ以前はゴッチャ。日光東照宮に五重塔と仏像が
あるぐらいゴッチャw 北センチネル島に布教に行って殺されたアホもキリスト教 ヨーロッパでは日本人が裸で首輪されて家畜と同じように飼われてたんだよな >>259
輪廻転生したら成仏してねーだろ・・・
悟りを開いて輪廻の輪から抜けるのが仏になると言うことだぞ? >>223
https://nisikiyama2-14.hateblo.jp/entry/2019/04/13/222558
人身売買の厳しい実態は、後になっても確認できる。
『信長公記』によると、天正3(1575)年に織田信長が越前国の一向一揆を討伐した際、殺された人間と生け捕りにされた人間の数が、3〜4万人に及んだと伝えている。これには、兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた。殺された数も多かったようであるが、生け捕り分(民と百姓)は、戦利品として扱われたと推測される。 宗教は押し売りするもんやない
そう言う意味で全ての宗教は経典を無視している
一部例外を除きますが この頃のヨーロッパでは皿はない
スープと酒位しか食器と呼ぶようなものは無かった >>262
文明の進化を250年ストップさせた徳川に権力奪取された時点で
全ての功績は帳消しだろうがよ まあ、別に秀吉が宣教師に奴隷売買禁止してようとなかろうと戦乱が集結して
さえいれば、奴隷売買なんて減っただろ 日本の不幸は豊臣の世が続かなかったことだよ
秀吉個人が天才過ぎたのもあるが
家康は単なる横殴りクソ野郎 >>288
関西が日本の中心だった頃の日本て
ゴミみてえな国だったからな
関東を中心にしただけで一流国の仲間入り よく、稼げない企業をつぶして、再編してという議論がありますが、まったくの見当違い
ですので、気を付けてください。
再編などありえません。ただただ客をなくして売り上げ総額を落として、技術を盗み
資産を奪うことだけが目的です。労働者のために稼ぎやすい方法を準備して当たらな起業
が起こることは断じてありえません。
客は日本人じゃなくてもいいので、日本人から奪った富で、日本人以外を客にするだけ
なのですよ。気づいてない労働者の方々が多すぎます。 >>290
清とかオスマンとか何代も
名君が続くってなかなかないからな
日本だと北条得宗家ぐらい パソナガルが日本人を奴隷にしているというのに……
ああ、一緒になってやってる側か >>280
奴隷狩りじゃないじゃん
戦闘行為だし推測されるってw >>290
秀吉が秀次殺しちゃったからね
秀次が健在なら少なくても家康の出る幕はなかった 朝鮮人の偽装上げは対比してるものの下げが目的だからな 生口という言葉が残っている
明治のからゆきさんの伝統は昔からあったんだ キリスト教の教義
・神しか許さない
・やったもん勝ち
・虐殺根絶やししたあとに平和を願えばいい >>298
>兵はもちろんのこと民や百姓も含まれていた
これは読めないのかな? >>24
あちこちの国で日本人が現地人と間違われる現象があるそうだけど
こういう奴隷たちが力をつけて繁殖したのかもしれない >>91
それそれ!
最後の行大事
「人間じゃない」のよね >>306
確かその農民や兵は捕まって奴隷って形でなく、金銭によりやり取りして労働力となり支配地域の開墾や新たな兵になってたかと。
相手側に送り返すってのは元からなく奴隷でもなく、民が所有物って形に扱われてたからじゃなかったか? 島津氏が九州平定を目指して北上しているとき
各地で捕まえた奴隷を薩摩まで送る隊列が途切れることがなかったという。
秀吉が島津を降伏後に開放させたってな。
日本人同士でも奴隷狩りしてたのよねw >>276
仮に日本がキリスト化したとしてもローマ教皇が天皇を任命するとはならず
天皇が神に生涯1人の女性を愛する事を誓ったりする程度だったろうな 1597年より前に中国から対馬経由の手紙で
「おまえを日本の王にしてやる」
と書かれて無教養猿が悔しがったのがキッカケが現在の通説 >>306
奴隷狩りが主じゃないだろ
勝手に改竄するな キリスト教って神が自らに似せて人間を作ったって言ってるだろ 神に似てない有色人種は人間じゃないんだよ
そもそも有色人種も同じホモサピエンスだっていう概念が無い時代だし >>310
下記に対する反論だよ
>信長の軍が略奪したって資料がないからな
>でも信長は兵に対して乱取り禁止していて、兵にちゃんと給料を出して
>常備兵としていたそうだ
>だから、むしろ信長軍団からは乱取りが起きずに、奴隷売買もなかった可能性が高い
>だけど信長の場合は常備兵として給料を払っていた
>そして乱取りを禁止して、乱取りした場合は罰を与えていたそうだ
>だから信長軍団では乱取りは起きなかったということ >>311
いわゆる奴隷って形でよく思いつくような扱いではなく、兵力・労働力として扱われていたが地域の人間って形に組み込まれて生活してたろ。
強制的な引っ越しをさせられたりはしてるが移動後には賃金で普通に雇われたり村民として居住したりと、海外で言われる奴隷って扱いとは違ってたみたいだよ。 >>315
>奴隷狩りが主じゃないだろ
何を言い出すの?w ローマの奴隷とかサラリー貰ってたからな
逆に欧米のキリスト教時代の奴隷とか絶望しかないからね >>317
それらで言う略奪による破壊活動ってのがなかっただけで、支配地域での財産回収からの分配はあったかと。
捕らえた兵を活用するのにそのまま民は所有物として別地域に移動させて労働力にしてた。
略奪・奴隷狩って状況だけ見たら同じに感じるが、実際の扱いとしての中身が海外で言われる略奪・奴隷狩・奴隷制度と比べたら緩すぎで奴隷って言わないだろ?ってなるんじゃないかね。 秀吉より信長のが石山本願寺みたいに淡路島を包囲するだろなw >>322
虐殺はするが略奪はしないというのはありえないでしょ?
ID:xi1aCEut0の言う、織田軍は正規軍だから略奪をしないという主張が無理がる 女の人は性奴隷として南蛮船に乗せられて海外に売られたのか!? 性奴隷がやばかったらしいな
キリスト教はマジでクソ >>325
キリシタン大名とかが火薬欲しさに領民売るんだよ 戦国時代が終わったら用済みの武士を傭兵として売り飛ばしてたけどな チョッパリざまあwwwww
↓
悪さしてた君たちの先祖だぞ? ポルトガル人に買われた日本人は
ポルトガル人の黒人奴隷の奴隷にされた。
奴隷の奴隷、これが日本人。 どうでも良いが日本は奴隷制度をもっと前の平安時代だったかに禁止してるだろ。
秀吉がイエズス会に宛てた手紙に
「日本人を奴隷にするのをやめよ、わが国には奴隷などという物は廃止されている」
とか書いたのが記録に残ってたはずだぞ。 >>318
そりゃアメリカの黒人奴隷だって普通に結婚して子供もいただろ
それと同じだよ >>324
だから略奪って形に破壊活動がなされたのではなく、組織的な回収作業が行われた。
まあ抵抗がなされたりは当然あるんだがそれは支配した側が所有者として奪い取ってはいたんだが、それらの行為が他の支配層とは違って組織的にされてたって話になる。 >>311
島津と大友の豊薩合戦の時に島津が豊後国内で乱取りした人達が肥後にいると知った秀吉が、
肥後領主の加藤清正と小西行長に宛てて調査の上、それらの人達を豊後に返すよう命じてる書状があるね
ただ島津の降伏後すぐに行ったことではなく、大分経ってからの話しだな
豊薩合戦が天正14〜15年(1586年〜87年)で、上記の加藤・小西宛の書状の日付が文禄2年(1593年) カトリックが被害者のフリして言いたい放題
加害者のくせに >>334
アメリカ時代でなく当時の話からしたらキリスト関連での奴隷と比較した話にならないと。 「うちは、社長から従業員までの距離が近くて、週末も皆でレクレーション活動もあり、すごくアットホームな会社です!」
こういう売り文句に、日本のマイルドヤンキーはすごく弱いし
実際、こういう会社で、「おまえを頼りにしてるぞ! じゃ、キャンプするから、社内BBQを仕切れ!」っていわれたら
アホだから、すぐに自分が会社に必要不可欠の地位にいるとか
勘違いして、舞い上がるからな。 カンコクでは豊臣秀吉の戦犯裁判をやれ!って声が高まってるらしいね?(´・ω・`)
謝罪と反省と賠償でまた騒ぐはず。 日本史上、貧農出身の偉人は
たった3人しかいない
豊臣秀吉
伊能忠敬
渋沢栄一
これ一般常識なので丸暗記必須ですの よかったな日本。キリスト教信じて韓国人みたいになっちゃうなんて最低だよな。 >>331
君らが奴隷になるのが嫌で、貧乏がええゆうなら、そうなればええがな
せやからって、俺らの邪魔すんなよな
こんなニュアンスやったっけ? 現代は社畜かアメリカの奴隷しかいないという皮肉。。。。 ですよねー
あのミンジョクに嫌われてる
すなわち良い人 ムスリムへの対応を見てると
秀吉がいかに優秀か分かるね 信長が長島一向一揆や比叡山焼き討ちなどで苦労してるのを見てるから
宗教団体は反政府勢力になるとヤバイという認識が秀吉にあった。 >>347
島原の乱で信者を根絶やしにしたのは禍根を残さないため。 >>342
伊能忠敬も農家といっても名主の家系の出じゃなかったっけ?渋沢栄一もだけど >>346
角栄は中国を調子に乗らせるきっかけを作った国賊。 >被害者の数はなんと5万人
あれ、50万人は居るんだろ。
南京は増加の一途で、長崎は減少?いつかゼロにする気だなw 秀吉は完全には禁教にしてないだろ。
禁教にして鎖国したのは家康だ。 今度、家に近所のキリシタンが勧誘に来たらかましたるわ
この人さらい!! >>265
他国に打って出なきゃ世界の広さもわからんし
逆に中国あたりに併合されてたかも知れんぞ >一つ、なぜポルトガル人は多数の日本人を買い、
>奴隷として国外へ連れて行くようなことをするのか――という四カ条で、
当時の秀吉が日本人を奴隷売買してケシカランと言ってる。
秀吉の目にも丁稚奉公とは全く違ってたんだよ。 詳しい人に訊きたいが、山田長政みたいな海外移住組はこの5万人には入ってないのかね? >>363
政務やらない万暦帝時代だし
わざわざ遠征する金もないし 奴隷って死ぬまで永久に飼い主の為に働かないといけなかったわけでもなく、
ある程度働けば自由になれたこともあったんだよな。
結婚して子供を産んで家庭を持つ奴隷も居るし。
知的階級な奴隷や裕福な奴隷も居る。
イソップ寓話のイソップも奴隷だったし。
奴隷ってだけで否定的にしか考えられないのは頭悪すぎ。 キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売ったのが事実なら
何で海外に日本人奴隷の末裔が一人も見つからないんですかね? >>367
黒人運んでた奴隷船の仕様みてこい
バーカ 白人は西暦以前から人を売り捌くことになんら罪の意識がない >>37
鎖国もそうだけど、政治体制も完全に時代に逆行させてたからな
織豊路線引き継げば世界に先駆けて近代化実現出来てたのに >>368
数が50万か知らんが当時の日本人奴隷はキリスト教に改宗しなかったら異教徒扱いとして普通の奴隷とは違う扱いになってたからじゃないか? >>359
すでにwikiだと数百人になってる・・・。 >>368
スペインのハポン村の人には蒙古斑が出る事あるらしいよ 秀吉と家康がいなかったら、日本は他のアジアやアフリカの国々のように欧米の植民地になってたな あまり知られてないが薩摩國島津が肝付國日向國の少年少女約7万人を奴隷として海外に売った >>370
馬鹿はお前。
現在のアメリカに黒人奴隷の子孫がこれだけ居るってことは
奴隷が恋愛し結婚して家庭を持つことを認められてたってことだ。
犬猫だって飼い主によっては幸せになるように
奴隷の飼い主が良識ある人なら奴隷も幸せに暮らせた。
奴隷っていうとムチで打たれて鎖で縛られてるのを想像するって頭悪すぎ。 >>379
当時の奴隷にも宗教により違いがあったろ。
異教徒としての奴隷・キリスト教としての奴隷で扱いが違ってたんだから。
日本人が人身売買で扱われるときに宗教的な立場で変わる話なんだが、それらが詳しくわかる話になってない。 高麗から元寇で処刑されずに奴隷として生き延びている事に、
感謝をする書状を日本へ送ってるぞw >>379
いや、奴隷の輸入が禁止されてからは人工的に
繁殖させていたのだが。
南北戦争くらいの時は。
ルイジアナ州とかに人間牧場があってケガとか
病気になったら獣医に診察させてた。 秀吉も、家康も聡明で良かった。ありがとうございました。
宣教師は、スペイン・ポルトガルのスパイの役割を負ってたのは事実、それを見抜いていた。
一時期は秀吉の子飼い大名までキリシタン大名化して、内部工作かけられていて危うかったからね
フィリピンの様にこの時代にスペインに占領されたアジアの国々もあるわけで。
長崎の隠れキリシタンが世界遺産なんて、ふざけるなって話だ キリシタン弾圧ばかり強調してる今の教育はなんの意図なんだろうね。欧米社会への忖度? 秀吉偉いけど九州人が糞過ぎる。
それとも九州人になり済ました渡来朝鮮人どもが悪鬼説。
なりより南蛮貿易と称し人身奴隷貿易を行っていたキリスト教布教者のモラルの無さよ。 >>105
いや当時の戦国武将には珍しく、人身売買は取り締まってたよ
常備軍整備してシステム的に乱取りもする必要なくなった
逆に庶民にちょっかいかけた兵士を手ずから斬り捨てるという… >>179
信長ってルール守らない人間には無茶苦茶厳しいのよ
庶民に危害加えようものなら速攻斬り捨て
新しい勢力が京都入りした時に起きる略奪も一切起きなかったらしい 上杉謙信が関東民を身代金誘拐してた頃
九州大名は九州民を外国に奴隷として売ってたのか 信長が生きてたらどういう対応したのかね
さすがにキリスト教を優遇するのはやめたかな 2酸化炭素排出権取引きでつうのめっている小泉の馬鹿を何とかしろ そういえば欧米の奴隷貿易は19世紀まで続くんだぞ
つまり奴隷貿易禁止のためには鎖国は必要性があったことになる >>391
実態に気付く前に本能寺だったけど途中で気付いていたらやっぱり禁教&追放してたと思うわ >>170
(スペインが後ろ盾となった)秀頼がもっと巧くやれば、戦乱が長引いたろうな
某記事より)
> 豊臣方の大坂城下では「火縄銃の弾」の生産がおこなわれていたが、それを可能にした
> 原料の鉛を海外から提供したのは、スペインと繋がるキリシタンの商人であった
対する家康側が、オランダ・イギリス(プロテスタント)から輸入のカルバリン砲で大坂の陣に勝利し
やっと国内が平定
引用ページ( http://taigon-net-rekisi.seesaa.net/article/476102544.html )
…
しかし、オランダは家康にスペインの策略の裏側を知らします。
オランダの責任者が、ヤックス・スペックス
スペインは、技師を派遣する代わりに、キリスト教を保護し布教の許可をすることを求めていました。
オランダは、
実はその布教こそ、家康が亡くなった後、キリスト教徒を使ってスペインが日本を征服する目的があるのだ。と進言。
激怒した家康は、スペインを追い出します。
そこで、スペインがとった手が、豊臣秀頼に近づき、秀頼を勝たせること。
…
秀吉の次の代は、代理戦争で◎家康(側のイギリス・オランダ)>●豊臣秀頼(側のスペイン)で決着だが
その過程で
銀など資源が枯渇レベルで海外流出したのが痛い 一神教によると森羅万象は全知全能唯一絶対神のなせるわざ。
浦上天主堂の真上に原爆が落ちたのは、どういう思し召しによるものか。
わからんよな、人間には。 コドオジを奴隷として海外に販売しよう
なにしろコドオジは一年中収穫できる最高の作物だからな
ハウス栽培だから >>386
侵略先で現地人に現地人を売らせるのはキリスト教の基本戦術だぞ
アフリカでも黒人に黒人売らせるように仕向けて「あいつらが奴隷を売るから買ったんだ」って言い訳してる >>391
信長が合理主義者なら西国大名の奴隷販売を禁じて終わり
信長配下のキリシタン大名は日本人を奴隷として売ることをしていない 江戸幕府も秀吉も ちゃんとこのこと 民衆に説明していれば 状況が変わってたのに 日本人の奴隷化なんて知らなかったがキリシタン大名が増えれば
日本が乗っ取られる可能性も有ったわけだからね キリスト教布教はそれが狙いだからね
秀吉は聡明だった 家康も聡明だった >>379
奴隷の供給が潤沢なこの時代は基本的に使い捨ての消耗品でしょ >>1
今同じことが起こってるんじゃね?
日本人はヤバイ
騙しやすいし情緒的だからな >>291
桃山時代の日本は右肩上がりだよ
京都のお寺の庭園見ても大きな石が庭石として置かれてる
その後はこじんまりした庭になってくる >牛馬の肉を手づかみで食べるというのは、西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかったからだ
中世の映画ものであるみたいな感じか、初めて見たらビビるだろうな(´・ω・`) スパゲティも手で持ち上げて下からチュルチュルやってたらしいな
どっちが野蛮人なんだとw 一方、現代では軍師・竹中と歴代の自民党政権が日本人の奴隷化を進めるのであった。 >>368
あほか?当時の日本の人口が100万人以下だわ。 >>415
でも、実際のとこ騙されて奴隷として売られた高橋是清とか
一般家庭に売られたから、しばらくの間は留学生がホームスティしてる感覚だったとか
しかし、家事手伝いばかりで学校にも行かせてくれないので
家主に文句を言ったら「君は奴隷だよ」と言われてビックリとw
その後、ちゃんと留学できた日本人の友人たちから
金を借りて自分を買い戻して自由の身になったと
(奴隷は収入がないので普通は自分を買い戻せないらしい)
そんな高橋是清も後年、「一般家庭に売られた運が良かった、
もしハワイの農園とかに売られていたら生きて日本に帰れなかっただろう」
と、怪我や病気になっても放置され馬車馬ごとく働かせられる
騙されて奴隷にされ農園送りになった日本人の環境を嘆いている
まあ、こんな文化の違いがあるから
戦後、日本の丁稚奉公制度をGHQは奴隷制と感じたのかもね >>325
それを少年使節団がマカオだかマラッカだかで目撃して
ショック受けたんだよね >>410
ナポリでは、70年代ぐらいまでやってたらしい >>325
少年は宣教師の肛門奴隷にされたという記録もある >>406
少なくともアメリカの奴隷は高額だったんだがな、売れる状態を維持して移動させるコスト考えろ。 >>421
たしか輸送状態はかなり劣悪だったとか聞いた気がする アメリカの黒人アスリートに凄い能力高いのが居るのはそのせいかもな?
耐え残ったのが遺伝子残したから キリスト教なんざ公権力横暴装置だしな
時の権力者により仕様がコロコロ変わる便利な宗教よ
十字軍と植民制裁が今でも世界の負の側面
WW1もWW2も欧州初
ロクでもないのが欧州人やで インカ帝国はキリスト教に滅亡させられたからな
植民地化された時代だった >>1
ポルトガル船の来航は年に1度1隻、年にポルトガル船1隻で5万人は到底運べない
>当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポル
>トガル国王が日本との貿易の権利を独占した[1]。以降、年に一度、一隻に
>日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョー
>ルの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。
食料が貴重であった時代に数万人の奴隷を生かすために、ポルトガル人は大量の食料を周辺地域から金銭で調達しないと
いけなくなり儲からなくなるだろう。明は倭寇の人狩りもあり、顧客にならないだろうし、東南アジアには
人口が十分にあるから、わざわざ遠くから運んで割高な奴隷に需要はないだろう
ポルトガルの黒人奴隷は水夫が多数をしめており、(数人力の)肉体労働力や性格もあり、日本人よりも奴隷として価値は高かった
考えられうる輸送法の限りで、水・食料コストを安くし、輸送コスト分割高で(マレー語などの)語学ができない奴隷にさえ需要がある地を探して届ける方法はなく採算がとれない >>425
キリスト教の布教が始まる前に征服は終わっている >>1 >>426
イエズス会は奴隷貿易禁止をポルトガル国王に求めていた。人身売買禁止までに薩摩に来航したポルトガル船は18隻しかない。
ポルトガル船の目的は絹を売ることであるため、薩摩に特定の年だけ来航しない理由はない
最盛期の奴隷購入が法律で禁止されるまえの1543年から1570年までだとポルトガル船はわずか18隻しか来航していない
数百人載せたと書いているのは、キリスト教を敵視していたことで知られている元僧侶の大村由己だ
船の中を見る機会もなく中立で客観的な資料としての信頼性は全くない
適当な船室に多く見積もって数十人程度の購入した奴隷を閉じ込めたとして、18隻分全て合わせても数百人程度だ
そもそもポルトガルの記録で日本人奴隷は希少で、力のあるアフリカ人水夫が好まれたが、当時の日本人は
繊細で攻撃的なことでも知られており奴隷としては敬遠されていたはずだ
下請け運送業者で運んだという珍説については、その時代は武装商船や倭寇しかおらず一人頭の輸送コストは馬鹿にならない
倭寇は何の脈絡もなく金を要求してくる海賊であり、彼らに運ばせるとなるとリスクも相当ある
要求される輸送の報酬が高すぎて採算は取れないだろう
輸送コストで奴隷は割高になってしまい、東南アジアにつれていこうとしても売れず赤字がつもり上がる >>1
年間1隻しかこないのに、どうやれば5万人を輸送できるか謎ではある
当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[1]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。
下請け運送業者で運んだという珍説については、その時代は武装商船や倭寇しかおらず一人頭の輸送コストは馬鹿にならない
倭寇は何の脈絡もなく金を要求してくる海賊であり、彼らに運ばせるとなるとリスクも相当ある
要求される輸送の報酬が高すぎて採算は取れないだろう
輸送コストで奴隷は割高になってしまい、東南アジアにつれていこうとしても売れず赤字がつもり上がる
考えられうる輸送法の限りで、水・食料コストを安くし、輸送コスト分割高で(マレー語などの)語学ができない奴隷にさえ需要がある地を探して届ける方法はなく採算がとれない
売り手がないのなら、マカオには日本人だけの巨大な奴隷街ができるが、そのような記録はなく
ポルトガルの支配地域の奴隷は圧倒的に黒人という記録が残されており、中国人や日本人などのアジア人奴隷をポルトガル人は好まなかった >>428 >>1
デ・サンデ天正遣欧使節記の資料的価値は無いに等しい
50万人は原則、年間1隻しか日本に来航しないポルトガル船が輸送するのは不可能
1971年以降は王令に反するため、隠れて行う必要がある 南蛮商人に奴隷を売っていたのはキリシタン大名ではなく島津
大友を攻めて捕えた大友領民を肥後で売り渡してる所をフロイスが目撃してフロイス日本史に書き残してる
ちなみに島津さん朝鮮征伐でも朝鮮人3.7万人拉致ってきてるそうだ >>431 >>1
秀吉は自ら発した追放令を破り、宣教師を通訳としている
追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳や
ポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[16]。1590年、
ガスパール・コエリョと対象的に秀吉の信任を得られたアレッサンド
ロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令
に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールで
ぶらついていたと記述している[17]。 >>433 >>1
徳川秀忠の時代に宗教弾圧が本格化した。幕末勤王志士、水戸天狗党と諸生党の戦いを想起させる幼児・妊婦まで公開処刑する凄惨な虐殺劇の幕が上がる
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命
による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、
家康の禁教令は臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝によっ
て起草されたが、言い回しなど基本的な部分において施薬院全宗が
起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都に
あった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らば
ることになるが弾圧は徹底されなかった。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に
改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対
して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で
無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々
に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される
(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。
元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、
中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度
(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の
葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限され
宗教界全体に影響が及んだ。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介
して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[20]。 単純な疑問なんだけど、このころの外人はどうやって日本語をしゃべれるようになったんだろ おれたちは自民党の民
日本やアメリカの奴隷ではない >>435 >>1
ポルトガル来航以前より倭寇は大規模な奴隷ネットワークを持っていた
多数の日本人倭寇もカガヤンの戦い(1582年)、マニラの戦い(1574年)で確認されている
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった[13]。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[14]。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。
乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという[13]。 アホか
倭寇に苦しんでいた朝鮮半島が海を越えてくる可能性はゼロだ
だからそのあと江戸時代に300年近くも鎖国してられたんだよ 南蛮バテレンはやっぱりクソだな、でも信長もコイツらの正体知ったら激怒してたよ
信長の頃はバテレンどもは本性隠し敬虔な信仰者演じていた >>438 >>1
ポルトガルの記録で日本人奴隷は希少で、力のあるアフリカ人水夫が好まれた
黒人奴隷は水夫として高付加価値の奴隷だったが、日本人は貧相で性格も繊細で攻撃的、せめて語学ができれば良かったがマレー語は話せず大金をはたいて水・食料を与え遠方まで輸送するほどの商品価値は無かった
ポルトガル人、アジア人、アフリカ人の船員は戦乱で捕獲され奴隷となっていた日本人を買うことがあり、ときにはアジア人奴隷、アフリカ人奴隷が日本人の奴隷を所有した。こうして売られた奴隷の多くが日本人女性であり、故郷から離れた乗組員や奴隷に妻・家族、妾をもたせ懐柔するために奴隷の購入は許容された。ポルトガル領の奴隷の大部分はアフリカ系だったが、少数の中国人、日本人の奴隷の存在が記録されている[4][5][6]。
ポルトガルの人口は少数であるため、ポルトガルの海外進出は大量の奴隷を獲得して初めて可能になった。また奴隷の人種についてはアフリカ系が好まれた。15世紀後半から16世紀にかけて、ポルトガルの奴隷への依存度が問題視されることはなかった。奴隷は稼いだお金を貯めて自由を買うか、代わりの奴隷を買うことを許されれば、自由になることができた。女性の奴隷は、主人が結婚することを選べば、自由になれた[7]。
アフリカ人奴隷はマカオの戦いで命をかけて勇敢に戦い、ポルトガルへの忠誠心をヤン・ピーテルスゾーン・クーンに称賛されるほどだった。 スレ5つ目ってw
ネトウヨにとって秀吉や時宗は東郷平八郎みたいな英雄なんだろうな。狂気に満ちた晩年はどう見ても評価できないだろ。認知症だったんだろうが >>441 >>1
オランダは布教に力を入れなかったがアジアでの植民地獲得なら、ポルトガル人よりうまくやっている >>443 >>1
数は不明だが島津は日本人奴隷を売っている
天正十四年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏の豊後侵攻の乱妨取りで拉致
された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[53]。『上井覚兼日記』
天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか
濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」
と同様の記録を残している。天正十六年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で
豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され
肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年
から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否するこ
とは、問題であることを申し触れること
— 下川文書、天正十六年(1588年)8月
と、天正十六年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正と
小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。
同天正十六年(1588年)同様の命令があったことが島津家文書の記録として残っている。 >>444 >>1
たった1隻で数十年かけたところで、5万人の奴隷輸送が不可能なのは一目瞭然だ
年1隻しかなくともポルトガル船は絹の供給を独占し莫大な利益を稼ぎ出しており採算のとれない大量の奴隷を運ぶ経済合理性がない
自前で運ぶ輸送力もなく、売る先の需要もなく、莫大な食料費で赤字となる
多少そろばんができれば不可能なことは分かるはずだ
黒人奴隷は腕力があるから『水夫』としての需要があるため、ポルトガル人は黒人奴隷を優先して手に入れたが、日本人に食わせる食料ほどのリターンは期待できない それを英国ユダヤに唆され明治維新などと宣って実質的にはテロを行い日本国を売り渡したのが薩長の屑共な
以降、日本は不平等条約により搾取され続け現在の国賊政党自民党の売国政治にまで至ると >>445
天正遣欧使節が行く先々で多数の日本人が売られているのを目撃してるわけだが、彼等はどういうルートで連れてこられたと解釈する? >>447
それな
今こそ自民禁止法を制定しよう! NHKがバチカンの資料発掘してやってた番組では
豊臣滅亡後にイエズス会の傭兵になり給料貰って東南アジアの戦線で活躍した武士たちがいた >>448
この分野で引用するものがたまにいるが、デ・サンデ天正遣欧使節記は色々と改編、虚飾が指摘されており資料的価値は低い >>445 >>1
日本のアイヌ民族浄化政策に比べるのであれば、スペイン国王の先住民政策は寛容なほうだ
「知床日誌」文久3年(1863)出版
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k024/html/p028.html
見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着如何にも菜色をなしける
病人等杖に助りセカチ男子 カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか我等を見て皆
寄来りし故其訳を聞に舎利アハシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫
を持へき時に至れはクナシリ島へ遣られ諸国より入来る漁者船方の
為に身を自由に取扱ハれ男子は娶る比に成は遣られて昼夜の差別
なく責遣ハれ其年盛を百里外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて
暮す者多く男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ病者となりては働稼の
なる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く又夫婦にて彼地へ
遣らるゝ時ハ其夫は遠き漁場へ遣し妻は会所また番屋等へ置て
番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ何時迄も隔置れそれをいなめは
辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也如此無道の遣ひ方に逢ふか
故に人別も寛政中ハ弐千餘文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人安政五戊午改百七十三軒七百十三人 有しか
今は漸々半に成しそうたてけり此儘にては今廿年も過れは土人の種も
如何と案しける由等話其故爰には丈夫の者なき故猟漁等出来難く
其日其日の烟も立難きか故毎日此汐の干を待ては小貝を拾ひ汐満来れハ
野山ニ入て草の根等堀て辛き命を繋く事とそ聞に其憐さまし
けれは我等か貯への糧米を聊かつゝ分ち與へ来るやタンネウシ沙地
此所長き沙地なれは号く過てバナ人家十五軒の岬を廻りて川に入るに巾三十余間し
はしにて舎利運上屋へそ着し一同鎮守杜に至りエナヲ削りて山海の神
を祭り途中の安を賀し車座に一樽を開き詰合宮崎氏へ濱にて 秀吉は多数の朝鮮人民を連れ去っただろ
貿易してるだけ伴天連の方が文化的 >>453 >>1
>日本のアイヌ民族浄化政策に比べるのであれば、スペイン国王の先住民政策は寛容なほうだ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1388281079/
346世界@名無史さん2018/05/11(金) 09:52:09.760
「知床日誌」 松浦武四郎
幕末の探検家・松浦武四郎の手記によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで和人達の慰み物になり、
人妻は会所で番人達の妾にされたと書かれている。夫は漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされ、子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す。
日本へ反発できなくなった大きな理由に人口減少がありますが、
その大きな原因は、女達が日本人の慰み者にされたこと、性病を含む伝染病を移されたこと、生活基盤を失わされたこと、などがあげられます。
松浦武四郎によると、夫婦は仲を引き裂かれ、男だけクナシリ送りとなり、そこで昼夜の別なく奴隷労働に使役され、
斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、
諸国からきている和人に体を弄ばれる。男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、故郷に帰ることが許されるころには既に老人となっており子供を残すことができなくなった。
和人によって妊娠させられた妻は、唐辛子汁を飲ませる等で堕胎させられることにより、
子供を残せない体にされた。さらに和人に性病を移されることなども手伝い、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人口は激減した。
松浦によると無理やり妾にされた挙げ句に性病をうつされ、顔が崩れて悪臭を放っているアイヌが山にたくさん居たとある。 >>428
薩摩で18隻
平戸等他の港に寄ったポルトガル船の数は?
そもそも秀吉が目撃したのは長崎でしょ >>455
江戸時代、幕府に認可された宗教以外の信者は下人にされたり強制改宗させられたのと比べるとどうだろうか
サブリミス・デウス
サブリミス・デウス(ラテン語:Sublimis Deus[1]、またはSic Dilexit[2] )は、1537年6月2日に教皇パウルス3世が公布した勅令。西と南のインディアンと呼ばれるアメリカ大陸の先住民とその他のすべての人々を奴隷にすることを禁じている[3]。アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても、自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。
内容
『サブリミス・デウス』の文言は、広範に適用される宣告だった。アメリカ先住民だけでなく、すべての未知の民族に適用されるよう構成されている。主な箇所は以下の通りである。
不肖ながら、地上で主の力を行使し外にいる主の群れの子羊たちを、我々に委ねられた群れに引き入れよう
と全力で努力しています。しかしながら、インディアンは真の人間であり、カトリックの信仰を理解する能
力があるだけでなく、我々の情報によれば、その信仰を受けることを強く望んでいると考えます。これらの
弊害に対する十分な救済策を提供したいので、我々は、これらの我々の手紙、または公証人によって署名さ
れ、教会の高官の印章で封印された翻訳は、原本と同じ信用を与えることを定義し、宣言する。これまでに、
またはこれからいかなる反対があったとしても、前記のインディアンおよび、後にキリスト教徒によって発
見される可能性のある他のすべての人々は、たとえイエス・キリストの信仰を持たない者であっても、決し
て自由や財産の所有を奪われない。また、彼らは自由かつ合法的にその自由と財産の所有を享受することが
でき、またそうすべきであり、いかなる形でも奴隷にされてはならない。これに反することが起こった場合、
それは無効であり、何の効果も持たない。
— パウルス3世『サブリミス・デウス』 元軍人のロヨラは、祖国の新世界侵略のためにイエズス会を組織したのではない
プロテスタントに対抗して世界中に福音を伝導するために軍隊組織を真似てイエズス会を作った
欧米列強は都合が良いときだけイエズス会を利用して、国家運営の邪魔になるとイエズス会を弾圧し取り潰した >>457
ポルトガル船の目的は絹を売ることであるため、薩摩に特定の年だけ来航しない理由はない >>454
唐入りで連れてきたのは儒学者と陶工
家康の時代に国交が回復して、儒学者は帰国したが陶工は自分の意志で帰国を拒んだ。
朝鮮半島では陶工の社会的身分は最下層だったが、日本では有能な技術者として社会的
地位が与えられていたので、日本に居たほうが居心地が良かったからだとされている。 >>460
薩摩はもういいよ
平戸等他の港に寄ったポルトガル船の数は?
そもそも秀吉が目撃したのは長崎でしょ >>458 >>1
北海道におけるアイヌの民族浄化や奄美群島の原住民への過酷な措置と比べるとかなりましに見える
ブルゴス法
ブルゴス法は1512年12月27日、スペインのカスティーリャ王国ブルゴスで公布された。アメリカ大陸におけるスペイン人の行動、特に西インド諸島の先住民(カリブの先住民)に対する行動を規定した最初の成文化された法律であり、先住民への虐待を禁じ、彼らがカトリックに改宗することを期待した。この法律はカスティーリャの慣習法が完全には適用できない西インド諸島をスペインが征服後に制定された。
ブルゴス法の適用範囲は、当初はヒスパニオラ島に限定されていたが、後にプエルトリコとジャマイカにも拡大された。
労働条件・規則
ブルゴス法ではエンコミエンダでの労働条件や規則を以下のように一様に規定している。
カリブ先住民に対してキリスト教を理解させ、強制でなく自発的な改宗を促す(脅迫等による一過性の改宗でなく、恒久的なキリスト教の浸透)
カリブ先住民に決められた広さの住居の建設と提供、与えられた土地を含む財産の保証をする
カリブ先住民に対する侮辱や虐待を禁止する
児童労働の禁止(及び教育中の労働禁止)をする
出産後3年間の育児休暇を保証する
結婚した先住民女性に対し労働を強いることを禁止する
未婚の女性を両親から離すことを禁止する
5ヶ月の労働後に(連続した)40日間の休みを提供する
1日に十分なパン、野菜、肉、魚を提供する
酋長・族長の家族を優遇する むしろ日本人のほうがもともと変な病気をもってたんではw これはまさに大手柄だよな
キリシタンが迫害されたといっても
欧米人は平気で奴隷にするんだからな 西側は蛮族との戦争と文化略奪が根底にあること忘れちゃダメだあそこまで権利だの著作権だのうるさい背景が彼らが元々海賊だから
あと陸続きの国家は侵略前提で物事考えるから
ここに対応できる江戸時代の人達は感性がすごすぎる国家統一するまで同じ感覚だったからかもしれんなー >>462
>>429 にあるとおり、ポルトガル国王が年に一度だけ日本と交易ができる船を許可していた
想像は自由だが、1550年以降は年に1隻以上の来航を禁止する王令が出されていた ところで、現代において、竹中の奴隷はどのくらいおるの? >>445
南蛮船が年に一隻しか来なかったって
信じちゃってる人?
鎖国してた江戸時代ですらオランダだけで
年一回来航しているのに? >>464 >>1
記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、
年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界
九州の人口
奴隷の需要
海賊対策のための武装
奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画
移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、
ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている[11][10][12]。 >>471
ポルトガル船は年に1隻と書いてある通りだ。国王に頻繁に報告する宣教師の目もあるから抜け駆けは無理だろう キリスト教は侵略の尖兵。彼らが他の国でやったことを考えれば明白だ。 >>472 >>1
日本がフィリピンを侵略すれば良かったというものがいるが、朝鮮と同じく回復困難な遺恨をフィリピン人に残したことだろう
鉱山などの一部の利益がでる土地を除き、フィリピン、アステカ、インカでは先住民の族長や酋長を貴族として、間接統治はそれなりにうまくやっていた
フィリピン人先住民の支配階層は貴族(プリンキパリア)として、スペイン帝国の一員になった
プリンキパリア(貴族階級)[1]とは、スペイン領フィリピンのプエブロの支配者であり、
通常は教育を受けた上流階級のことで、後に市町村長と呼ばれるようになったゴベルナ
ドルシーリョからなる。保安官、判事、地区を治めるバランガイ長または市町村長、知事、
前ゴベルナドルシーリョ、および任期中の優良な市警、将校から構成されていた。
マウラ法以前は、この上流階級には、スペイン王室への税金を免除された者だけが含まれ
ていた[2]。植民地時代の文書では、納税をする者(「デ・パゴ」)とは対照的に、彼らを
「de privilegio y gratis(特権と自由)」と呼んでいた[3]。彼らはスペイン領フィリピン
の真の貴族であり[4]、古代ローマの貴族階級にほぼ匹敵するものであった。プリンキパレス
(プリンキパリアの構成員)は、植民地時代以前のビサヤ、ルソン、ミンダナオのバランガイ
と呼ばれる小さな古代の社会単位の領主だけでなく、王国、ラジャナート、部族連合、
マギノーの支配階級からその起源を辿ったものである。この階級のメンバーは排他的な特権
を享受しており、プリンキパリアだけが選挙権を持ち、公職に選ばれ、ドンやドニャの称号
で呼ばれることが許された[5]。 >>474 >>1
アメリカ大陸では征服から宣教はあっても、宣教からの征服はしていない
ポルトガルやスペインによる植民地化を懸念した陰謀論については、大航海時代の
ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、
居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国
の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は
法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な
環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な
貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争
を伴う植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するか
のように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地
を増やしていった。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年の
メキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、
フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な
役割を果たした事実はない[11][12]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、
スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に
受け止められていた[11]。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だった
が、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経
過した後のことである[13][14][15]。 >>137
信長は奴隷としてその黒人を使ってないけどな
きちんとした身分を与えて人間として遇した
信長や秀吉をもっとちゃんと調べろ
信長とか人格面だとかなり優しいおじさんだぞ >>473
それだと江戸時代のオランダ船と同じ頻度と量なのだが。
する必要なかったんじゃね? >>475 >>1
年間1隻のポルトガル船だけで、日本が保有していたかなりの量の銀を運んだとの記録がある
数十年にわけても年間1隻のポルトガル船で5万人を運ぶのは不可能だろう
南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[1]。金、中国の磁器、ジャコウ、ルバーブ、アラビアの馬、ベンガルの虎、孔雀、インドの高級な緋色の布、更紗、フランドルの時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルのワイン、レイピアなどが、日本の銅、硫黄、漆器、武器(日本刀等)と交換された[2]。日本の漆器は、ヨーロッパの貴族や宣教師を魅了した[3]。
ポルトガル船の主要品目に硝石は含まれない[2]が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造が五箇山等の各地で行われ国産化が進んだ。 >>120
信長の軍が他の戦国大名と違って兵農分離できてたって説は今だと否定されてるらしいよ >>478
倭寇で貿易が禁止されていた明の絹と日本の銀の交換貿易により、1隻でも莫大な利益を生み出した記録が残されている >>482 >>1
スペインには外国人の人権保護に関する法律もある
インディアス新法(スペイン語:Leyes Nuevas、Leyes y ordenanzas nuevamente hechas por su Majestad para la gobernación de las Indias y buen tratamiento y conservación de los Indios)は、1542年11月20日に神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王カルロス1世)によって発布された、スペインによるアメリカ大陸の植民地化に関する法律である。この法律はドミニカ会修道士バルトロメ・デ・ラス・カサス等からの陳情や改革を求める声を受けて、エンコメンデロス(管財人)によるアメリカ大陸の先住民の搾取や虐待を防ぐために、先住民の集団に対する権力や支配力を厳しく制限することを目的としたものである[1]。
成立の背景
インディアス新法は、1512年12月27日にアラゴン王フェルナンド2世が発布したブルゴス法(Leyes de Burgos)に反発した改革運動の成果である。スペイン人と新大陸の先住民との健全な関係を規定するために作られた初めての法律であり、新世界における最初の人道的な法律とみなされている。
要旨
統治者にはアメリカ先住民(法律ではインディアンと呼ばれる)の幸福のために配慮し、保護する義務があること。
戦争、反乱、救援を求めるため、その他のいかなる理由であっても、将来にわたって奴隷にしてはならないこと。
現在奴隷になっているアメリカ先住民は直ちに解放されなければならないこと。
意思に反して、あるいは正当な対価を与えずに、アメリカ先住民に仕事をさせるという悪習慣は、直ちに止めなければならないこと。
真珠を獲るために遠隔地に連れて行ってはならないこと。
総督だけが先住民をエンコミエンダに託す権利を持っていること。エンコミエンダ設立の禁止には、すべての宗教団体、病院、共同体、公共団体も含まれること。
当初の征服者に与えられていた(エンコメンデロスとしての)「分配」は、エンコメンデロス(管財人)の死後直ちに停止され、先住民は自由な臣民として王室に服従すること[2]。 >>442
秀次の件か?
秀頼が産まれて邪魔になったから殺したと言われてるが、秀次にも辻斬りしてたという噂もある。
その血を絶やすために一族郎党皆殺しにしたのか?本当のところはどうなんだろうねえ? >>485 >>1
海外と比較すると日本人は大量虐殺者と大量虐殺を賛美する傾向が相対的に強い
法華一揆の虐殺
長島一揆の虐殺(騙し討ち、なで斬り、21,000人以上とされるが総数は100,000人と見られるため実数がないほどの死者)
越前一向一揆(12,500人を殺害し3万人から4万人を奴隷とする)
東北一揆の虐殺(なで斬り)
叡山焼き討ち(3,000-4,000人、なで斬り)
山科本願寺の殲滅戦
天草島原の乱(37,000人)
天正伊賀の乱(伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)
宗教系の弾圧には他の宗派が一枚かんでいることが多く、結局のところ1つの宗派が潰れても
他の宗派の勢力が強くなるという歴史を繰り返して来た
これは宗教勢力を敵に回し続けて生き残るのは難しいためでもある
かつて弾圧・虐殺された本願寺や日蓮宗が権力の中枢にいることからも宗教勢力は日本の政治や文化の深く
重層的に染み込んでいる
九戸政実の乱の皆殺し(騙し討ち、5,000人の兵と家族・周辺住民等)
武田信玄の信濃志賀城攻略時の生首3,000
徳川家康による堀川城の虐殺(2,000人近くの生首を堤にさらす)
伊達政宗による小手森城の虐殺(800人)
(秀吉が「なで斬り」を命じた肥後国人一揆等もあるが、死者数は把握していない)
この他にも無数の(事件化されず埋もれた)政治弾圧事件や虐殺事件があるが、特に批判対象とされることはない
これらの虐殺者は秩序の守護者として賛美されており、敵対勢力を皆殺しにする慣行は擁護者が多い
https://ja.wikipedia.org/wiki/虐殺事件の一覧
日本を凌駕する虐殺事件というと中国とオスマントルコであり、一回の虐殺数は数十万人を超える
(南京は数値に信頼性がなくなっており、マニラ虐殺は日米入り乱れた凄惨な市街戦のため別枠として除く) >>472
各地の港で日本人奴隷が見られたって記録残ってるから数百人程度ではないのは確実
そもそも中継地と日本間の航海だから年1隻なんて少ない頻度なわけないんだよな
硝石の輸入もあるしそれなりの頻度で行き来してないと日本で鉄砲量産した辻褄が合わなくなる >>469
その18隻が全部薩摩と貿易したと
それが事実なら長崎にポルトガル船は来てないんじゃ…
年に数十人程度の人身売買に秀吉がここ迄騒いだというのもリアリティに欠けるかな >>487 >>1
朝鮮出兵では多数の人狩り、人売り商人が朝鮮半島に渡り、奴隷のお土産の記録もある
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後
につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わね
ば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもか
くやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひ
かせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり
— 慶念『朝鮮日々記』
と記録を残している[15]。
渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[16]。
多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた。[17]
薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[18][19]。 >>490
その連れてこられたやつはその後どうなったんだろうな
日本には身分としての奴隷がないからいつの間にか市井の人間と混ざってしまったのかな >>488
>各地の港で日本人奴隷が見られたって記録残ってるから数百人程度ではないのは確実
この分野で引用するものがたまにいるが、デ・サンデ天正遣欧使節記は色々と改編、虚飾が指摘されており資料的価値は低い
ポルトガル領では極めて少数の日本人や中国人奴隷がいたとの記録しか残されていないため、数百人でも辻褄はあう
>そもそも中継地と日本間の航海だから年1隻なんて少ない頻度なわけないんだよな
ポルトガル船は年に1隻と王令で定められ、その権利の入札記録も残されている。
国王に頻繁に報告する宣教師の目もあるから抜け駆けは無理だろう
>硝石の輸入もあるしそれなりの頻度で行き来してないと日本で鉄砲量産した辻褄が合わなくなる
南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[1]。金、中国の磁器、ジャコウ、ルバーブ、アラビアの馬、ベンガルの虎、孔雀、インドの高級な緋色の布、更紗、フランドルの時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルのワイン、レイピアなどが、日本の銅、硫黄、漆器、武器(日本刀等)と交換された[2]。日本の漆器は、ヨーロッパの貴族や宣教師を魅了した[3]。
ポルトガル船の主要品目に硝石は含まれない[2]が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造が五箇山等の各地で行われ国産化が進んだ。 現場を見るのは、指導者として見習いたい。秀吉、少し見直した >>482
年にたった一隻しか来ないポルトガル船のために
各地の大名がキリシタンになったのか?
戦国時代の軍事を支えた硝石(火薬の原料)がたった
年一隻で運べたのか?
んなバカな。 >>489
ポルトガル船の目的は絹を売ることであるため、(薩摩で絹が売れなくならない限り)薩摩に特定の年だけ来航しない理由はない 武田鉄矢のラジオで言ってたけどインカ帝国だかマヤ文明だかが滅亡させられたのわずか50年前くらいで、その侵略した連中がフィリピンまで迫ってた。秀吉が朝鮮出兵で名護屋に巨城築いたのはその防衛拠点の意味合いがあったらしい。 バテレン教って、奴隷貿易&侵略の手先だったからね
日本を救た秀吉 >>494
信じる必要はないが事実としてポルトガルの主要商品は絹だった
中国は倭寇の襲撃により、日本に対して禁輸措置をとっていたため、日本では中国製品が不足していた[1]。当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[1]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した。
南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された[1]。金、中国の磁器、ジャコウ、ルバーブ、アラビアの馬、ベンガルの虎、孔雀、インドの高級な緋色の布、更紗、フランドルの時計、ヴェネチアガラスなどのヨーロッパ製品、ポルトガルのワイン、レイピアなどが、日本の銅、硫黄、漆器、武器(日本刀等)と交換された[2]。日本の漆器は、ヨーロッパの貴族や宣教師を魅了した[3]。
ポルトガル船の主要品目に硝石は含まれない[2]が、古い家屋の床下にある土から硝酸カリウムを抽出する古土法、主にカイコの糞を使う培養法による硝石製造が五箇山等の各地で行われ国産化が進んだ。 >>54
なるほどなあ。
なぜ明治維新のあの短期間に近代化と、それに密接な関係のある
改革の数々(廃藩置県、富国強兵、宗教改革、教育改革、まだまだ
沢山あるのだろうけれど、全然知らん)、が出来たのか個人的に
なぞだったんだよなあ。
といっても中学の歴史で習った頃は「ふーん」だったけど。社会人に
なってから「普通に考えたらそんなんできるわけねーだろ。」と
思うようになって・・・
やっぱり江戸時代にそれなりに基礎が出来ていた、そう考えないと
無理だよなあ。
明治維新のことを深く理解しようと思ったら、最低でも江戸時代と
セットで理解を深めないと、色々見誤りそう。 教科書で習う鎖国には違和感があるよな
オランダと中国とは貿易していたし >>491
>その連れてこられたやつはその後どうなったんだろうな
前期倭寇は食糧の他に人々を捉え, これを奴隷として使役したり売却したりしたと述べた。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行っている。中国東南部の江南・淅江。福建などを襲
撃し人民を拉致した倭寇は対馬・松浦・博多・薩摩・大隅などの九州地方で奴隷として売却
した。これらの奴隷は, 牛馬の飼育や薪取り, 水汲みなどの仕事をさせられた。 倭寇は朝鮮半島や中国で人さらいして奴隷貿易してたらしいし >>501
長崎とか、異国人のような容姿の人多いけど、古来からどこかしらの血が混ざってるのかもね。美輪明宏とか。 キリスト教徒と聞くと、小学生の頃塾の先生が「私はキリスト教徒です」と言うと、
皆で「うわっ、キリシタンや、隠れキリシタンや!」って騒いだら先生が「キリスト教徒と言いなさい、それに隠れてません」って言った事を思い出すわ >>490 >>1
スペインによるフィリピンの征服はイスラム王朝に奴隷化されつつあった部族と同盟することで可能になった
部族の長は後に、貴族位が付与され知事や裁判官としてフィリピンの統治に関わっていく
マニラの戦い (1570年)
背景
スペインはポルトガルが独占していた香辛料貿易に風穴をあけるために、1560年代後半、スペイン人とメキシコ先住民の兵士を従えたミゲル・ロペス・デ・レガスピをメキシコからフィリピンへ派遣した。フィリピンでは1405年にスールー諸島、1520年にミンダナオ島でイスラム王朝が建国されており、ルソン島の都市国家の首長の多くもイスラム教に改宗していた[1]。レガスピ上陸時のルソン島、ビサヤ諸島の総人口は100万人から150万人だったが人口密度は低かった[2]。
ポルトガルはオスマン帝国の同盟国であった東アフリカのアダル・スルタン国、南アジアのデリー・スルターン朝、東南アジアのマラッカ・スルタン国と交戦をしており、強大なオスマン帝国と同盟関係にあったイスラム王朝とキリスト教国は対立関係にあった。
スペインは、8世紀以降、ウマイヤ朝カリフの下でイスラム教徒に侵略されていたスペインを再征服し、再びキリスト教化するための700年にわたる戦争を終えたばかりだった。奪われた領土の奪還の過程は、レコンキスタとして知られている。かつてスペインを侵略したイスラム教徒に対するスペイン人の憎悪もあり、イスラム教化されつつあったフィリピン諸島でのスペイン人の活動は新たな火種となった。
その後
1571年、レガスピはスペイン人280人と現地人600人の全軍を率いて上陸した。数万人のムスリム民兵の抵抗を打ち破ってマニラを占領し、同地に居留地を築いた。5月19日、レガスピはマニラ植民地に「市」の称号を与え、1572年6月19日に正式に裁可された[4]。このとき、マニラ市の人口は250人程度であった[5]。
パンパンガ族(英語版)はなおもスペインに抵抗したが、バンクセイ海峡の戦い(英語版)で大敗、首領のタリック・スライマーン(英語版)が戦死した。その後、抵抗は終息へ向かった[5]。
ビサヤ地方のバランガイ(パナイ、ボホール、セブ)はスペインに征服されることはなかったが、協定、平和条約、相互同盟によってスペインの勢力圏に組み込まれていった[6][7]。
スペイン帝国に従属する道を選んだビサヤ、ルソン、ミンダナオのバランガイの領主、王族、ラジャナート、マギノー等の支配階級は、スペイン領フィリピンの世襲貴族であるプリンキパリアとなり、納税を免除され投票権を持ち(貴族にだけ認められる)ドンまたはドニャの称号で呼ばれることを許された。プリンキパリアは各地域の首長、判事、知事であるゴベルナドルシーリョ等の任期2年の役職を歴任するようになり、スペイン帝国の一端を担っていく[8][9][10][11]。 琉球人は中世以前から東南アジア交易が盛んだったが16世紀ごろから東南アジアで多く
の日本人奴隷が増え南蛮人に動物のように扱われてるのを見て琉球人は次第に東南アジア
から遠のいた、後年琉球は奴隷貿易でさらに強軍化した薩摩軍に侵略された >>503
中国、朝鮮、台湾、琉球、フィリピン、マレーなどの血も少しは入っている可能性はある >>501
いやそうじゃなくてその後だよ
やっぱいつの間にか混ざっていなくなったんだろうな >>505 >>1
日本人を多数含む倭寇はフィリピンに進出し植民地を持っていた。倭寇はこの時代、大規模な奴隷貿易を行っていた
カガヤンの戦い (1582)
1582年のカガヤンの戦いは、フアン・パブロ・デ・カリオン提督率いるフィリピン・スペイン軍と、
タイ・フーサ率いる倭寇との間で行われた一連の衝突である。カガヤン川周辺で行われたこれらの戦
いは、最終的にスペイン軍の勝利となった[2]。
浪人、漁師、商人(密輸・合法)からなる日本と中国の海賊の大集団に対して、銃士、槍兵、ロデロ、
水兵が戦った記録である[3]。 浪人、軍人、漁師、商人(密輸、合法)からなる日本と中国の海賊の
大集団に対して、銃士、槍兵、ロデロ、水兵が戦いを繰り広げた[4]。海賊は大型のジャンク船と18隻
のサンパン(平底の木造漁船)を持っていた[5]。
ロンキージョは1582年6月16日にフィリップ2世に次のような手紙を出している:[7][8]
日本人は最も好戦的な人々だ。彼らは銃を持ちこみ、鎧を着て、
多くの弓兵や槍兵を連れてくる。すべてはポルトガル人から提供
されたものだ
スペイン側
兵士40名
水兵数不明
ガレオン船1隻
小型船5隻
軽舟1隻
倭寇側
ジャンク船1隻
サンパン18隻
倭寇約1000人 アイヌにそんな惨いことするなんて信じられなかったけど
道民ならやりかねないと思った。特に旭川系 >>509
奴隷貿易をしていた倭寇には多数の日本人が含まれていた。スペインには多数の日本刀や火縄銃を使う倭寇戦士の記録がある
副官は日本人とされている
倭寇には硝石を運べる航路があったことは間違いないだろう
マニラの戦い (1574)
マニラの戦い(1574年)(スペイン語: Batalla de Manila en el 1574; Filipino:Labanan sa Maynila ng 1574)
は、マニラ地域の主に現在のパラニャーケで、林鳳率いる中国・日本の海賊と、スペイン軍と先住民の同盟軍
との間で行われた戦いである。この戦いは1574年11月29日に起こった[2] 林鳳の艦隊はパラニャーケに上陸し、
そこからイントラムロス砦への攻撃を開始した。当初、住民は混乱していたが、林鳳の軍隊は彼らを潰走させた。
さらに倭寇はスペイン軍の司令官であるマルティン・ド・ゴイティを殺害したが、マルティン・ド・ゴイティ
の抵抗により、マニラへの攻撃を遅らせることになった。
林鳳の倭寇軍はマニラを包囲したが、フアン・デ・サルセード率いるスペインのマスケット銃士50人の部隊
が包囲を破った。 [1] マニラで敗れた林鳳は撤退し、マニラへの侵攻計画を放棄してパンガシナン州を占領した。
一年後、サルセド率いるスペイン軍が再び林鳳を破った [1]。
スペイン側
300スペイン兵(インカ、アステカ、マヤ等の米先住民を含む)
300イロカノ兵
民兵(数は不明)
倭寇側
62隻の軍艦
4,000倭寇兵[1] >>498
出島の歴史見てみると1550年に初めて
長崎にポルトガル船が一隻来航。
1561年に5隻のポルトガル船が来航。
1571年にポルトガル船とポルトガルがチャーター
した唐船の2隻が来航。
そのが毎年のようにポルトガル船が来航したとある。
ポルトガルは長崎とだけ貿易してたのか?
鎖国してた江戸時代みたいだな。 >>508
何のとりえもないものは下人・賤民など、陶器専門家なら製造を任せられ、儒学のエキスパートであれば大名に雇われるといったところだろう >>512
経緯は知らないが開港前、長崎開港時のものだから特別に複数隻が許可されたのだろう このスレまだ続いてたの?
最初の1〜2スレでだいたい意見は出尽くしたような。 >>501
> これらの奴隷は, 牛馬の飼育や薪取り, 水汲みなどの仕事をさせられた。
奴隷といってもめちゃくちゃな取り扱いではなさそうだね。
わからんけど。 >>514
いやいや。
当時は長崎以外でも南蛮貿易が盛んだっただろ。 >>517
いやいやの意味は分からないが、薩摩で18隻のポルトガル船の来航記録はある >>518
1543年から1570年までだとポルトガル船は薩摩に18隻来航していた >>485
陳情を受けるまえにさんざんやったからな
法ができたころは遅いんだわな >>518
日本に来航するポルトガル船は一隻だけじゃ
なかったのかよ。 >>486
秀次が実際どうだったかわからないけどさ。
秀次に問題あったとしても、一族郎党皆殺しにまでしなくても良かったのにね。
秀次は謹慎させておくなどしてさ。 >>514
5隻のポルトガル船:その後、大村領横瀬浦(よこせうら)(現在の西海市)が新しい貿易港となり、さらにポルトガル人は横瀬浦から福田(現在の長崎市福田本町)へと貿易の拠点を移すことになります。
2隻(1隻のチャーター船):しかし、ポルトガル人たちが大村領内での貿易を希望したため、候補地として挙げられた長崎港の調査が始まり、元亀(げんき)2年(1571)に来航 >>521
1543年から1570年までだとポルトガル船は薩摩に18隻来航している
長崎の記録はいずれも湾内の調査や港の施設を作るためだから、貿易が許された船は1隻だけで矛盾はない >>523
実際は複数のポルトガル船が日本各地に複数回
来航してたんだろ。 >>526
国王の入札がとれたポルトガル船は1隻だけだから、貿易が許された船は1隻だけだ >>37
鎖国とはいっても出島でオランダとの交易はしてたし。
鎖国したからこそ、文化が華開いた側面もあるし。
外国人が出島以外に自由に入れる状態が続いていたら、侵略される可能性が高くなっただろうし。 >>69
徳川幕府は終焉したけど、徳川家の皆さんは皆殺しにはなってないよ。 >>75
使節団は日本に帰って来てなかったっけ?
現地に残った人もいたの? >>522
出家したとして
応仁の乱あたりのパターンになりそうだし
秀頼と前関白秀次の息子VSで >>525 >>527
複数隻が確認された記録はいずれも湾内の調査や港の施設を作るもので人手が不可欠で特殊な事情のもので、
あえて特筆されていることから他の年と比べ特別だったということだ >>527
その話聞いたことないんだけどネット上で見られる資料なんかないの >>511 >>532
記録にある奴隷の大部分は黒人であり、日本人や中国人の奴隷は少数だった
記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、
年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界
九州の人口
奴隷の需要
海賊対策のための武装
奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画
移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、
ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている[11][10][12]。 >>533
Boxer, Charles Ralph (1951). The Christian Century in Japan 1549–1650. University of California Press. >>535
当初、日本との貿易は全てのポルトガル人に開かれていたが、1550年にポルトガル国王が日本との貿易の権利を独占した[1]。以降、年に一度、一隻に日本との貿易事業の権利が与えられ、日本への航海のキャプテン・マジョールの称号、事業を行うための資金が不足した場合の職権売却の権利が与えられた。船はゴアを出航し、マラッカ、中国に寄港した後、日本に向けて出発した。 >>491
前期奴隷貿易は、倭寇主体だよ?
元寇の仕返しで拉致された人達。 >>535
ネット上にはないってことね
とりあえず眉に唾つけとくわ >>536
1隻に語弊があるのであれば、記事にある通り1隻程度に訂正しても構わないが、来航しない年もあるだろうから一般向けの説明は1隻でも構わないだろう 下っ端の大名に会うのにも、
🙇♂🙇♀土下座して会うような感じだぞ?
この頃の西洋人は。 >>527
実際は複数来てたんだろ。
当初はポルトガル船じゃなくて倭寇に乗せて
もらってたし、中国から唐船チャーターして
たみたいだから。
官許船以外にも唐船やジャンク船も使われたん
じゃないの?
年一回一隻で長崎だけだと江戸時代のオランダ
と同じ。 >>538
ネットだと信頼できないので本を出せというのが普通の大学教育を受けたものの感想だと思うが
boxerはこの分野で一級の資料とされている >>542
それ以外の事例を裏付ける証拠はない憶測として拝聴しておく >>543
そりゃ情報量で言えば当然そうだが、自分の目で見られないところにいくら情報があってもこの場では意味を為さないし カルマ、カクセイから武士になった系譜もある
豊後岡藩 >>545
アジア人奴隷がわずかなものという資料ならネットでもアクセスできる
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。
Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X 2014年2月2日閲覧。
https://books.google.co.jp/books?id=Vrj4gApIJz4C&pg=PA228&redir_esc=y#v=onepage&q&f=false >>544
種子島に鉄砲伝来させたポルトガル人は中国
のジャンク船だったろ。 実際の政治やってるのは
🌾👩🌾名主肝煎層だぞ?
じぶんの国に足を踏み入れずに死んだ
大名だっているんだからw >>548
残念ながらポルトガル国王が貿易を独占したのは1550年以降の話しで例外事例にはならない 日本にも奴隷はいたが戦略的に使ったことはおそらくない
巻き込まれる形で奴隷制を仕方なく採用してきた
逆に外国の奴隷制を解体してきた過去なら度々ある
かの南北戦争の奴隷解放もジャパンマネーが関わっていた
李氏朝鮮の奴隷制を解体したのも日清戦争で日本が勝ったから
それと奴婢には墓を建ててはいけない
あくまで家畜と同様モノなので墓を建てて人間扱いしてはならない >>536
仮に権利を与えられていたのが一隻だったとして
権利を与えられていない船が日本との貿易を行って罰せられた例があるのかどうか
罰則がなければ実質的な効力を持たないと考えられるが >>436
今と違って暇ならいくらでもあるでしょ
スマホがないんだから移動中に勉強ならいくらでも出来る 「この度朝鮮人を捕虜とした中に、技術者や縫官(裁縫の技術者の意か)、手先が器用な女がいたら、御用に召し使うので、進上せよ。家中も改めてよこすように」
中川修理大夫(秀成)に命ずる秀吉の朱印状 >>37
最悪じゃねーよ
その後の薩長による悪政の方が最悪であって日本史の暗黒期だろ
おまえ馬鹿だなそれとも西国人か? >>554
本状と同じ日付でほぼ同一の文言をもった朱印状が一〇通あまりも確認されており、秀吉は朝鮮侵略に従軍した諸大名にむけて一斉にこの命令を発したものと推定される。 当時日本で布教活動をしていたあるイエズス会の宣教師は、「日本人は計り知れぬ程の朝鮮人を捕虜にし、彼らを日本に連れ戻った後、捨値で売り払った」と記している。そしてこの人身の拉致=”奴隷狩り”は、とくに朝鮮南部の諸州に集中し、第一次侵略(文禄の役)よりも第二次侵略(慶長の役)の方が一〇倍もの惨状を呈したという。 >>552
憶測はいくらでも湧いてくるだろうが、資料は限られている
秀吉の朝鮮出兵時に人狩り、人身売買の商人の処罰をした記録があるかというのと同じことだ >>21
地政学と当時の航路について学んでみると良い
航空機の無い時代において、日本とインドネシアはアジア支配の重要地点だったんよ はよ秀吉か家康の生まれ変わり来い
双方とも貧乏な環境から現れた 鎖国も一時的な措置としてはメリットもあったとは思うけど、
国内の開発も一段落して人口増加も止まった18世紀、享保年間頃には再進出を図っても良かったんじゃないかなと思うね。 >>474
神父は未開人への布教
商人は奴隷を含む交易
王立軍は海外領土獲得
船頭多くして舟山に登る、てやつだった >>558
そもそも同時代のガレオン船の人員輸送力についても過剰評価されすぎてはいる
最大級のガレオンで貨物を一切なくして短距離であれば最大600人という説もあるが
アルマダ海戦では130隻に24000人、平均で185人しか搭乗していない
リスボンからオランダの港の距離は1800km、海賊天国だった長崎からマカオの距離は2000kmで条件も近い
大きなガレオン船はクルーだけで200人ともされるが、長距離で貨物を乗せてから、人を運ぶ難易度も考えたほうが良いだろう >>556
慶長2年11月29日付で出されてる文書だね
この中川家の他にも島津家、立花家、鍋島家などにも同内容の書状が伝わってる
この秀吉の命令に対して、鍋島直茂が朝鮮人の縫官(裁縫の得意な者)二人を秀吉に送ったことで秀吉が喜んでいる書状もある
(慶長3年)7月10日付鍋島直茂宛豊臣秀吉朱印状
「ぬいくわん弐人差越候、遠路念を入候之段、悦思召候、猶増田右衛門尉可申候也」
縫官二人がこちらに届いた。遠路にもかかわらず念の入ったことで、大変喜ばしい。
なお詳しくは増田長盛から申し上げる。 >>563
現代こそ欧米に対しての“物理的”な鎖国が必要だと思う >>534
>記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。 >>550
1560年にポルトガル船長のヌマデル・デ・メンドンサ
がジャンク船で坊津からマカオに向かう途中で海難事故
に会った記録が残っている。
ちなみに荷物は十万両の銀と奴隷。 まず戦略的に奴隷を使う場合どうするかと言うと
極端な低賃金で働かせることで、経済力を付けるのである
次に、その経済力を使って他国に侵攻する
現代のイメージで例えると、商品の価格をめちゃくちゃ安くする
ことで、相手国の経済を弱らせて、弱った所で国を乗っ取るのだ
乗っ取ったら、乗っ取った国の民も奴隷にして
再び同じことを繰り返す、これを行うのを帝(みかど)と呼ぶ
なので皇帝と奴隷はセットで語られることになる
皇帝がいる時は領土を拡大しようとするし、領土を拡大する
のには奴隷は非常に使える戦略なのである
もちろん地球は有限なので領土拡大はいずれ行き詰る
すると奴隷制は終わり、皇帝は報いを受けて、非業の最期を
迎えることが多々ある
日本は島国で奴隷に馴染みがないのでこの辺の感覚には
いまいち馴染みがない。せいぜい奴婢が商品として売られて
いるペット感覚である。なので日本で奴婢のイメージは基本的に
可愛いらしい。 >>568
そりゃほかが多かっただけじゃないの
まあこの記事の「5万人」には典拠となる資料が明記されてないので甚だ怪しいけどね 今でもやってるんだけどね
大使館の美術品に紛れ込ませる治外法権の海洋ルートに
エプスタイン系、ピザゲート系の人脈が出てきてる >>565
2000kmの航路となると30日分の水・食料は用意する必要がある
憶測にあったようなジャンクを使ったところで、ポルトガル人が
調達できるのは粗悪品だろうからガレオンよりはるかに効率が悪いはずだ
船主視点で見るなら、輸送船としてよりもガレオンの近接護衛(捨て駒)に
使うほうが理にかなう そろそろ高瀬弘一郎「先生」の論文を読んでからのやりとりにしない?
この種のネタの必須文献でしょ
誰でも無料で読めるしさ
Wikipediaの高瀬弘一郎から論文に飛べば少なくとも慶応の論文はすへて読める
なので読んでない人は自粛が望ましい。簡単な調べごともできないんだから
※私は高瀬説に疑問があるが、さりとて大学者を「氏」と言うには失礼と思い、高瀬弘一郎「先生」と呼ばせていただく >>568
人身御供的な扱いだったんじゃないの?
価格が分からないと何とも言えない
日本人だけ単価が高かったかもしれないし
野球選手とコンビニバイトの給与が違うみたいなものですよ カトリック神父がスペインポルトガルの侵略の尖兵を務めてたと自説を展開する奴はまず
「イエズス会の歴史」を読め
カトリック内部資料を駆使した大作だ >>568
その他が多いだけだぜ、それ
史料は他にも色々あるからなあ
キリシタン藩主からの人身売買関連 >>1
秀吉というより秀長だろ
秀長が体調悪くして以降の秀吉の酷さを見れば
実務は全て秀長によってコントロールされてたのがわかる
世界中の歴史あるあるだが
ボスはカリスマで実務担当にクソ優秀なものを抱える
実務に長けてる人がトップに立つと何故かうまくいかない
人間社会の妙 >>568
日本人奴隷はマカオで世界各地に売りさばかれた
と言われている。
ポルトガル本国へ売られたのは稀。 >>579
必死な奴こそが勝つからさ
日本人は必死さを失ったから韓国に負けたろ >>582
>実務に長けてる人がトップに立つと何故かうまくいかない
今の日本がそれぽいなw >>573
記録によるとアジア人を買う目的は妻、妾にするためだ
水夫をなだめるための嗜好品として購入していた
マレー人奴隷、黒人奴隷が日本人奴隷を持っていたとの記録もある
ポルトガル人、アジア人、アフリカ人の船員は戦乱で捕獲され奴隷となっていた日本人を買うことがあり、ときにはアジア人奴隷、アフリカ人奴隷が日本人の奴隷を所有した。こうして売られた奴隷の多くが日本人女性であり、故郷から離れた乗組員や奴隷に妻・家族、妾をもたせ懐柔するために奴隷の購入は許容された。ポルトガル領の奴隷の大部分はアフリカ系だったが、少数の中国人、日本人の奴隷の存在が記録されている[4][5][6]。
ポルトガルの人口は少数であるため、ポルトガルの海外進出は大量の奴隷を獲得して初めて可能になった。また奴隷の人種についてはアフリカ系が好まれた。15世紀後半から16世紀にかけて、ポルトガルの奴隷への依存度が問題視されることはなかった。奴隷は稼いだお金を貯めて自由を買うか、代わりの奴隷を買うことを許されれば、自由になることができた。女性の奴隷は、主人が結婚することを選べば、自由になれた[7]。
アフリカ人奴隷はマカオの戦いで命をかけて勇敢に戦い、ポルトガルへの忠誠心をヤン・ピーテルスゾーン・クーンに称賛されるほどだった。 To build back better, we must reinvent capitalism.
これがG7の本音だ
集金ペもやってる National-Capitalism
あんま違わない >>581
勘ぐる必要もなく文章の通りだろう。黒人奴隷の腕力はなく水夫や港湾での仕事では無駄飯食いとなり、性格も繊細で攻撃的だったから奴隷としての価値が低かったということだ
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。
食料が貴重であった時代だ。数万人の奴隷を生かすために、ポルトガル人は大量の食料を周辺地域から金銭で調達しないと
いけなくなり儲からなくなるだろう。明は倭寇の人狩りもあり、顧客にならないだろうし、東南アジアには
人口が十分にあるから、わざわざ遠くから運ぶことで割高になった奴隷に需要はないだろう
ポルトガルの黒人奴隷は水夫が多数をしめており、(数人力の)肉体労働力や性格もあり、日本人よりも奴隷として価値は高かった
考えられうる輸送法の限りで、水・食料コストを安くし、輸送コスト分割高で(マレー語などの)語学ができない奴隷にさえ需要がある地を探して届ける方法はなく採算がとれない 「合同結婚式、6500人の行方を捜して」被害者家族が訴え
https://www.christiantoday.co.jp/articles/8957/20060123/news.htm
日本基督教団統一原理問題連絡会主催の統一協会問題日韓教会フォーラムで、
日本側は、韓国で統一協会の合同結婚式に参加した後、行方不明になった日本人
女性6500人の捜索を韓国教会に要請した。韓国教会側は教団と団体が協力し、
問題解決に積極的に対処していくことに合意した。 >>575
いや船が小さければ寄港する間隔を短くするだけでは?
あとジャンクの場合は船主は中国人でポルトガル商人は相乗りとかかと思うが オリンピックと同じ 二軍しか来ない
イギリスとフランスの派遣を断れ 悪の根源
歴史見て >>586
黒人奴隷はマカオの戦いでオランダ正規軍に勝利して、マカオを守った
「ポルトガル人は奴隷を使って私たちをマカオから追い出した。兵士を使ってのことで
はなかった。それはマカオに兵士がいなかったからだ。[...]私たちの敵がその財産を安く
守った一方、私たちは愚かにも多くを浪費した。」と記した[16]。彼はまた、「マカオの
ポルトガル人の奴隷はその主に忠誠だった。去年私たちを倒して追い出したのは彼らだ
った。」、戦闘中に「私たちは少数のポルトガル人しか見えなかった」とも記した[17][18][19]。 >>588
それはお前の感想だろ
当時のキリシタンによって日本人が奴隷売買の被害にあった事実は消えない グラバーは武器商人で スワイヤ・マッキノンの日本代理店主
坂本龍馬はその主要な日本販売人で 会社が亀山社中 >>594
しかも、黒人奴隷の慰みものという奴隷の奴隷
みたいな地位だった・・・。 >>584
なるほど
韓国人がネット工作してんのか >>1
秀吉は光秀子孫に悪く言われる時があるが
実は案外いい奴なんだよな
南朝鮮半島も元は任那日本府でわかるように元は日本の領土だったのな >>436
出島の頃は中国語、日本語、オランダ語が話せる華僑が仲介してて今も中華街でその末裔暮らしてるってNHKが言ってたが >>596
別にその黒人奴隷に処遇をどうこうする権利があるわけではないから「奴隷の奴隷」ではないが メキシコ大統領、スペインに植民地支配の「暴虐」への謝罪を要求
https://www.afpbb.com/articles/-/3217503
メキシコのアンドレス・マヌエル・ロペスオブラドール(Andres Manuel Lopez Obrador)大統領(65)は25日、
1519年から約300年続いたスペイン統治時代の「暴虐」に対する謝罪をスペイン政府とローマ法王に求めた。
ロペスオブラドール氏は「かつて大虐殺と抑圧があった。剣と十字架による侵略が行われ、彼らは先住民たちの神殿の上に教会を築いた」
と述べ、「和解の時が訪れた」とした上で、その前にまずスペイン側からの謝罪が必要だとくぎを刺した。
これに対し、スペイン政府は直ちに声明を発表し、「わが国の国王に送付した書簡の内容を、メキシコ大統領が公にしたことに深い遺憾の意を覚える」と反発。
書簡の内容は断固として受け入れられないと表明し、「500年前のスペイン人による現在のメキシコ領土進出を、現代の尺度で判断することは不可能だ」と断じた。
その一方で、「これまでわれわれは常に兄弟国として、共有する過去について怒りを抱かず建設的な視点で向き合ってきた」
「われわれは歴史を共に歩み、素晴らしい影響を与え合った自由な民族なのだ」などと、メキシコ側に訴えた。 >>591
何度も寄港するということだが、まさか朝鮮や中国北部の港を使うということか? >>594
資料にある通りだ
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。 そう言えばスペインに日本人の名前のサトウとか姓が多いらしいね >>603
そりゃアフリカ系が圧倒的だろ。
当時のヨーロッパでは人間とは思われていなかった。 当時は日本がまだないんだから民族単位で見るべきだよな
隼人、熊襲、蜘蛛だろ
そういえば豊臣家ってどこの部族なんだろ >>603
数百人もいれば上等じゃねえか。何寝ぼけてんだる >>607
×何寝ぼけてんだる
○何寝ぼけてんだ? >>151
技術力と軍事力が日本を守った。
日本は当時スペインやポルトガルに占領された東南アジアとは違い、
戦国時代が続いていて、銃を買う必要もなく、国内で自前で作りだし、
巨大軍事力国家に変貌してたからね。
種子島からたったの数十年で。
ちょっとタイミングがずれてたらヤバかったかもしれない。
そもそも巨大軍事力があったのに、宣教師の影響でキリシタン大名が大量に生まれ
内部から工作しかけられて危うかったわけで >>1
日本人に黒人奴隷の腕力はなく水夫や港湾奴隷としては無駄飯食い、性格も繊細で攻撃的だったから奴隷としての価値は低い
食料が貴重であった時代だ。数万人の奴隷を生かすために、ポルトガル人は大量の食料を周辺地域から金銭で調達しないと
いけなくなり儲からなくなるだろう。明は倭寇の人狩りもあり、顧客にならないだろうし、東南アジアには
人口が十分にあるから、わざわざ遠くから運ぶことで割高になった奴隷に需要はないだろう
ポルトガルの黒人奴隷は『水夫』として(数人力の)肉体労働力があり、日本人よりも奴隷として価値は高い
考えられうる輸送法の限りで、水・食料コストを安くし、輸送コスト分割高で(マレー語などの)語学ができない奴隷にさえ需要がある地を探して届ける方法はなく採算がとれない
「ポルトガル人は奴隷を使って私たちをマカオから追い出した。兵士を使ってのことで
はなかった。それはマカオに兵士がいなかったからだ。[...]私たちの敵がその財産を安く
守った一方、私たちは愚かにも多くを浪費した。」と記した[16]。彼はまた、「マカオの
ポルトガル人の奴隷はその主に忠誠だった。去年私たちを倒して追い出したのは彼らだ
った。」、戦闘中に「私たちは少数のポルトガル人しか見えなかった」とも記した[17][18][19]。 BLMが米国で大きな政治運動になっている。
cancel cultureを伴っている。
高学歴ほど「奴隷にしちゃってゴメンナサイ」になっている(ケントギルバート)
この「奴隷にしちゃってゴメンナサイ」が、日本にも飛び火したら大変だ。
日本は大事な金づるでね、ここが反米、反キリスト教になったら、
カネカネキンコに影響を及ぼす。
太閤秀吉の禁止令、キリシタンによる日本人奴隷売買禁止は、
無かったことにしないと米国、deepstate、japanhandlerには大変だ。
反日マスゴミ、有識者、朝○○を総動員して、秀吉を抹殺する必要がある。
そういう運動方針は絶対堅持しないとね。 >>25
原爆投下の批判については遠慮いらないね
ハッキリいってやればいい >>612
イエズス会は奴隷貿易禁止をポルトガル国王に求めていた。1570年の人身売買禁止令までに薩摩に来航したポルトガル船は18隻しかない
ポルトガル船の目的は絹を売ることであるため、薩摩に特定の年だけ来航しない理由はない
最盛期の奴隷購入が法律で禁止されるまえの1543年から1570年までだと薩摩にはポルトガル船はわずか18隻しか来航していない
数百人載せたと書いているのは、キリスト教を敵視していたことで知られている元僧侶の大村由己だ
船の中を見る機会もなく中立で客観的な資料としての信頼性は全くない
適当な船室に多く見積もって数十人程度の購入した奴隷を閉じ込めたとして、18隻分全て合わせても数百人程度だ
そもそもポルトガルの記録で日本人奴隷はわずかで、力のあるアフリカ人水夫が好まれたが、当時の日本人は
繊細で攻撃的なことでも知られており奴隷としては敬遠されていたはずだ
下請け運送業者で運んだという珍説については、その時代は武装商船や倭寇しかおらず一人頭の輸送コストは馬鹿にならない
倭寇は何の脈絡もなく金を要求してくる海賊であり、彼らに運ばせるとなるとリスクも相当ある
要求される輸送の報酬が高すぎて採算は取れないだろう
輸送コストで奴隷は割高になってしまい、東南アジアにつれていこうとしても売れず赤字だ >>614 >>1
アメリカは気に入らない政権ができれば、いつでも米軍を使って第二GHQをやる
アメリカ人は日本人が原爆の復讐をする気だと思い込んでるから、反米政権の危険・兆候があればあっさりと新たな傀儡政権ができるだろう 火薬一樽につき日本女性処女50人が当時の相場だ。
歴史を直視する勇気を持とうよ。 >>575
下請け運送業者で運んだという珍説については、その時代は武装商船や倭寇しかおらず一人頭の輸送コストは馬鹿にならない
倭寇は何の脈絡もなく金を要求してくる海賊であり、彼らに運ばせるとなるとリスクも相当ある
要求される輸送の報酬が高すぎて採算は取れないだろう
輸送コストで奴隷は割高になってしまい、(語学もできず腕力もない貧相な日本人を)東南アジアにつれていこうとしても売れず赤字だ
口減しのあった時代に、5万人の奴隷を購入して採算をとるのには無理がある >>619
それが歴史学者のコンセンサスなら受け入れられるだろうが、未確認でトンデモの怪しい情報であれば日本人の国際的評判は下がることになる >>610
アメリカ大陸では征服からの宣教はあっても、宣教からの征服はしていない
ポルトガルやスペインによる植民地化を懸念した陰謀論については、大航海時代の
ポルトガルはゴア、マラッカ、マカオ等の独立した港湾都市、小規模の貿易拠点、
居留地を手に入れる一方で、すでに文明が発達していたインド、中国等のアジア諸国
の植民地化には成功していない。ゴア、マラッカ等の港湾都市の領有と要塞化は
法制度が異なり財産権が十分に保証されない国との香辛料貿易を行うために不可欠な
環境整備であり、ヨーロッパの小国だったポルトガルが最優先すべき目標は安全な
貿易路の確保、ポルトガル人の資産保全、香辛料貿易の独占であって大規模な軍事紛争
を伴う植民地化ではなかった。イエズス会の布教を支援したポルトガルと対比するか
のように、キリスト教の布教を重視しなかったオランダやイギリスがアジアで植民地
を増やしていった。
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年の
メキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、
フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な
役割を果たした事実はない[11][12]。米先住民に対するフランシスコ会の布教については、
スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に
受け止められていた[11]。イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だった
が、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経
過した後のことである[13][14][15]。 >>622
秀吉はポルトガルが軍事的脅威だと認識していなかった
宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている[14][12][11]。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。 >>622
前スレだか前々スレだかで言ってた人がいるけど
コンゴみたいに支配層が改宗して国内が割れるのが理想形だろうな
でもいくらも例がないし狙ってやったとも思えない >>601
>「剣と十字架による侵略が行われ、彼らは先住民たちの神殿の上に教会を築いた」
九州での日本人の奴隷売買の話題で隠れがちだが、「キリスト教徒による神社仏閣の破壊」もかなり深刻な問題だったんだよな
「土着の宗教施設の破壊」と「聖書によるキリスト教布教」がコンキスタドールのお決まりの植民地獲得手法だった
1558年でも平戸で大規模に仏像が破壊されている
有馬氏や大村氏が領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊するなどといったことが大名単位で行われていた
もちろんこれらはコンキスタドールや宣教師の教唆されて敢行している
1580年には長崎と茂木はイエズス会に寄進され「スペイン領土」となっている
そしてマニラのスペイン総督府が、大艦隊を率いて平戸に結集し、平戸の宗教施設を要塞化して防衛するという侵略案があり
宣教師とマニラのスペイン総督府との間で書簡のやり取りをしている
秀吉が手を打っていなければ、九州がまずスペイン領土になっていた可能性が高い
秀吉の九州進攻によりこのことが明るみになり、伴天連追放令により秀吉が再び長崎や茂木を日本の国土として領土安堵している
秀吉はコエリョに、「キリシタンは、いかなる理由に基づき、神や仏の寺院破壊し、その像を焼き、その他これに類した冒涜を働くのか」
と質問している
コエリョは「キリシタンたちは、我らの教えを聞き、真理を知り、新たに信ずるキリシタンの教え以外には救いがないことを悟った。
神仏は自分たちの救済にも現世の利益にも役立たぬので、自ら決断し、それら神仏の像を時として破壊したり毀滅したのである。」
(ルイス・フロイス「日本史 4」)と回答している
そのコエリョの回答を聞いて、太閤がさらに激怒した
秀吉は「予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを欲しない。ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを集合せしめ、日本の全諸国より退去せよ」と命じ、
「伴天連追放令」の布告を司令官ドミンゴス・モンテイロに手交した
コエリョは九州での奴隷売買を廃止させるために努力したというのだが、どこまで本気で努力したかは疑わしい
藤田みどりさんの「奴隷貿易が与えた極東への衝撃」という論文には、
イエズス会日本準管区長のコエリョ自身がポルトガル商人に代わって日本人奴隷売買契約書に署名した事実が書かれている >>620
倭寇か
倭寇が連れてきた日本人をマカオで売りさばいてたって例はないの?
秀吉の詰問にコエリョが「商人が勝手にやってる事で把握出来ない」みたいな事言ってた気がするけど >>582
そのたとえだと秀吉が死んで秀長トップで
おかしくなる感じなんだが
実務派がトップになりあがったのはケ小平とかふつうにいたけど >>626
奴隷は倭寇を通じて日本に集められた
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった[13]。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[14]。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。
乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという[13]。 >>628
ソースは未確認だが、 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海・海市の条の和訳サイトがある
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/ikkan1.html
乙卯の年(34年=1555年)、ポルトガル人たちが倭夷を誘って広東沿海に来航した。周鸞らは倭人たちをポルトガル人に扮装させて、共に広東の賣マ(くさかんむり+麻)街で交易させ、かなり経ってから立ち去った。これ以来ポルトガル人たちは毎年のように倭を誘って広東に交易にやって来るようになった(注1)。
(注1)日本人達をポルトガル人に扮装させる、という微笑ましい(?)周鸞たちの作戦だが、他資料にこの話は全く出てこない。広東にいたこともある鄭舜功が自ら目撃したところなのかもしれない。 >>630
戊午の年(37年=1558年)、毛烈と謝和は倭夷・善妙(注1)らと岑港に上陸して立てこもった。そして徳陽もそこに引き込み、遂に店舗も焼き払った。このとき王宗道・李貴顕は日本から浙江海域に戻ってきたが、官軍の船団が隊列を整えているのを見て驚き、南澳へと向かった(注2)。ややあって毛烈は倭人たちと柯梅に拠点を移し、一年余り抵抗を続けたので、官軍の損害は莫大なものとなった。そこで包囲を解いたところ拠点を捨てて去って行った(注3)。
(注1)詳細は不明だが大友宗麟が徳陽と前後して派遣した日本人の僧侶かと思われる。
今年(41=1562年ごろ?)、許朝光は船を造って倭賊に売った。倭賊らは船を買って乗ったがすぐに壊れてしまい、ついに許朝光を怨み、再び地方を襲撃しようと考えた。しかし官軍には勝てないと考えて許朝光を襲って商品と船を奪い取って日本に帰ろうと話し合い、遂に南澳に入って許朝光を殺そうとした。朝光はこれを防ぎきれず南澳を脱出した。倭賊らは舟に乗って去ってしまった。そこで官軍が南澳に入ったが、後に兵たちは兵糧を欠いてしまい、ちょうどそこへ新たな賊がやって来ると兵たちは賊を誘導して東莞地方を襲撃した。許朝光は都御史呉カク(確の木へん)芳の招諭に従って投降し、船を闢望海上に泊めたが。そもそも国法を恐れてのもので心から服従したわけではない(注2)。
(注2)許朝光が倭人たちに殺されかかって南澳を離れて官軍に投降し、入れ代わりに南澳に入った官軍兵士が今度は倭寇と結んで掠奪を行った経緯は「流逋」にも見える。許朝光が一時官軍に投降していたことは『世宗実録』嘉靖42年4月庚申の条に「把総許朝光」が対倭寇戦に参加していることで確認できる。 キリスト教の宣教師であったフランシスコ・ザビエルですが、宣教師というのは各国を回ってその国の状況を視察するという役割も担っていました。
最近、イエズス会の文書館に保存されていた秘密文書が公開されて、その中にザビエルの書いた手紙がありました。
そこには「スペインの基地を作るために地理的条件を考えると天草が最高だ。長崎に要塞を作るべきだ」と書かれていました。
布教活動をする一方で、スペインの基地を作るという計画もあったようです。 >>632
おそらくフェイクだろうが、典拠・文献を出してもらいたい
ザビエルはポルトガル王ジョアン3世の依頼で渡航しているので、スペインのために情報収集をしたとは思えない 日本人女性を性奴隷として外国に
売りまくった戦国大名は伊達政宗だろ。
これは資料が残っているから史実だったはず。 >>1
秀吉の時代、キリスト教は禁止されていなかったが、徳川秀忠の時代に宗教弾圧が本格化した
幕末勤王志士、水戸天狗党と諸生党の戦いを想起させる幼児・妊婦まで公開処刑する凄惨な虐殺劇の幕が上がる
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命
による1614年(慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになるが、
家康の禁教令は臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝によっ
て起草されたが、言い回しなど基本的な部分において施薬院全宗が
起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都に
あった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らば
ることになるが弾圧は徹底されなかった。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に
改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対
して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で
無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々
に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される
(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。
元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、
中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度
(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の
葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限され
宗教界全体に影響が及んだ。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介
して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[20]。 >>631
日本人がポルトガル人の扮装をしたというのは興味深いエピソードだ 「NHKスペシャル 戦国〜激動の世界と日本〜」 放送期間:2020年
世界各地で「日本の戦国時代」に関する発見が相次ぎ、大航海時代のヨーロッパと日本が強く結びつき、
地球規模で歴史を揺るがしていた事実が明らかになってきた。
第1集は、織田信長と豊臣秀吉の時代。ヨーロッパの16世紀の文書が公開され、信長・秀吉と、来日した
キリスト教の宣教師、そして背後にいたポルトガルやスペインとの深い繋がりが見えてきた。
それぞれの思惑と、しれつな駆け引きを描く。
第2集は徳川家康の天下取りの時代。新発見の文書に記されていたのは、オランダ商人と家康の深い繋がり。
オランダは、当時最重要の国際通貨だった「銀」を求めていた。
世界の産出量の3分の1を占めた日本銀をめぐり、オランダと超大国スペインの間に激しい攻防が始まる。
覇権をかけた両国の争いの最前線となった戦国日本、その実像に迫る。 >>1
キリスト教は初期の頃から地球球体説を受け入れていたが、仏教や儒学は頑なに否定して球体説と地動説を論破した
慶長11年(1606年)にはイエズス会の日本人修道士、イルマン・ハビアンと「地球論争」を行っている。
この時林羅山は地動説と地球球体説を断固として受け入れず、地球方形説と天動説を主張した。
慶長12年(1607年)、家康の命により僧形となり、道春と称して仕えた。 >>640
仏教者、儒学者は地球球体説に反発した
日本には、16世紀後半まで地球という概念が存在しなかった[116][117]。宣教師フランシスコ・ザビエルは
その報告において、日本人が地球が球体であったという事を知らなかったと報告している[116]。
しかし近世儒学の祖の一人林羅山は、儒教的な秩序論により、この説に反対していた。羅山は宣教師ハビアン
との対談において、「万物にはすべて上下がある」とした上で[119]、地球が球体であるというのは、儒教の
渾天説の世界観を模したものであると非難した[120]。また従来の須弥山的世界観を持つ仏教者の中からも、
地球球体説に対する反発が起きている[121]。
仏教における須弥山世界観
須弥山中腹には日天と月天がまわっている。須弥山の高さは八万由旬[7]といわれ、中腹に四大王天がおり四洲を守る。
さらにその上の山頂の忉利(とうり)天には帝釈天が住むという。須弥山の頂上に善見城がありインドラ(帝釈天)が
住んでいる。須弥山には甘露の雨が降っており、それによって須弥山に住む天たちは空腹を免れる。
ハビアン
1606年(慶長11)- 林羅山とディベート。また黒田如水の3回忌法要で遺族・有力者・僧侶・キリスト教者らの参列を前
に説教。キリスト教団の行方を左右する重要 な式典とされた中で、フランチェスコ会の報告書に大成功の記述があり、
僧侶らは激怒して行政に訴える >>603
黒人に比べてわずかだったら何なんだよ
無かったことにはならんぞ >>644
何の典拠も示されていない情報を盲目的に信じて、まともな資料の結論を軽視するのもどうかと思うが >>646
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。
記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界、九州の人口、奴隷の需要、海賊対策のための武装、奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている[11][10][12]。 >>643
ポルトガル船が最初に来てから完全に排除されるまで百年くらいあるわけで、
全期間トータルで5万人くらいならさほど多くないと言うことはできる。
そもそもこの記事の5万人の根拠は明示されてないけどね。 せっかく日本人の奴隷化を止めたにもかかわらず
明侵攻の夢を諦められずに朝鮮出兵して甚大な被害を出してしまった老害の秀吉さん >>647
日本人奴隷の存在を認めたね
で、正確にその数は不明ってことだね
お前自身がソースでお前自身の嘘を証明した
5万人説をフェイクと断定したけりゃ正確な総数を資料で提示して証明しろよホラ吹きの虫けら >>648
>全期間トータルで5万人くらいならさほど多くないと言うことはできる。
当時の輸送力、需要、食料事情、一級資料の日本人奴隷の記載記録を考えれば100年程度で5万人はどう考えても不可能だろう
全期間いれても数百人程度の規模というのが、まともな歴史家が出している推定ということになる
5万人はそれほど荒唐無稽な数字だ
16世紀のポルトガルにおいて中国人奴隷(人種的な区別の文脈であるため日本人奴隷も含む)の数は「わずかなもの」
であり、東インド人、改宗イスラム教徒、アフリカ人奴隷の方が圧倒的に多かった[6]。
記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、
年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量の限界、
九州の人口、
奴隷の需要、
海賊対策のための武装、
奴隷と貴重な貨物を離す独立した船内区画、
移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮の問題から、
ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人以上の規模と考えられている[11][10][12]。 >>651
不可能とするソースねーじゃんww
何の資料もないのに盲信してんなよ基地害 >>12
信用できないだろ
領地を勝手にイエズス会に譲渡するなんて、敵対大名であっても防がねばならない
キリスト教は世界中で勝手に土着信仰の文化を捻じ曲げていくからな
キリスト教とイスラムだけは殺し合って滅びてほしい >>650
不明であれば荒唐無稽な陰謀説が証明されるわけではないし、そうした情報を主張することが正当化されるわけでもないぞ
荒唐無稽な説をフェイクとするのは一般的なフェイクの用法としても間違ってはいない >>652
まるで慰安婦関連の韓国人や南京事件の中国人をみてるようだな
歴史は限られた情報しかないため常に陰謀論の入る余地はあるが、荒唐無稽で常識をはずれた説をフェイクとする事ぐらいは受容すべき範囲内だぞ
存在しない情報を捏造し5万人と主張、根拠とする情報を示さないことがフェイクだと言っている >>657
>>1 は情報原を示していないが、5万人奴隷説は感想ということだな 根拠はないけど5万人は認めろ論者は相手にする必要ないと思うぞ
平行線 >>660
>>1 の5万人もいたという感想(妄想)を盲信するのはどうかと思うが この当時のスペインとポルトガルは同君統治のはずだよな。
スペイン王とポルトガル王 (1581年 - 1640年) 一つ言えることは、伴天連追放令の時に話題に出るくらいには日本人奴隷が問題になっていたと言うこと
過小評価はいけないが5万人と言う数字にこだわる意味もない >>1
日本人の奴隷化は知らないがキリスト教の布教によるキリシタン大名の増加は
西欧により日本侵略を意味してるからね
秀吉は正しかった 簡単に大名がキリスト教に改宗しちゃうんだからね 怖いね 信長の野望ってキリシタンに日本人奴隷を売るみたいなコマンドってあるの? >>650
戦国時代に奴隷貿易があったのって
日本人なら常識レベルで知っているはずなんだが
あなたどこの人なんだ
それで江戸時代にはキリシタンを弾圧したと
学校で習うんだがな サント・ドミンゴ、プエルトリコ、ジャマイカ、キューバなどの先住民は100万人ほどが虐殺・病死させられるか奴隷にされた結果、ほとんどが絶滅してしまった
インカ帝国は虐殺とスペイン人が持ち込んだ疫病により最大で1600万人存在していた人口は108万人まで減少
アステカ帝国では、征服前にはおよそ1100万人であったと推測される(2500万人とする説もある)先住民の人口が、100万人程度にまで激減
スペインはその植民地政策において、アメリカ合衆国・カナダとは比べ物にならない数の「先住民を一掃」してしまている
1502年から42年までの40年間に2580万から2880万人のインディオが征服戦争の犠牲になったとされている
そんなスペインがキリシタン大名を使役して九州を攻略していたらどうなっていただろうか
もちろん当時の日本は最先端と言ってもいい軍備と物量で武装していたので、容易に陥落するはずはないが
キリスト教による精神支配とマニラのスペイン総督府等の武力と連携されて、大規模にスペインから戦争をふっかけられていれば
日本も南米の二の舞になっていた可能性もある
日本の神社仏閣も徹底的に破壊され、南米のようにその上に教会を建てられていただろう
インカの時代のコリカンチャ(太陽の神殿)跡に建てられたサント・ドミンゴ教会
https://diamond.jp/mwimgs/3/7/500/img_375caca9e60a4f63b4d111a51c584855117507.jpg
教会内部にはインカの神殿の土台が残されている
https://diamond.jp/mwimgs/1/6/500/img_16da5700f2ec6c1be53e9dc58c7ba794110857.jpg >>664 >>1
バテレン追放令の記事を読んだ限りだと、施薬院全宗が風説を誇張して捏造したと疑う説もあるようだが >>669
5.豊臣秀吉によって1586年5月4日、イエズス会に対して布教許可証が発布
されたことに危機感を覚えた仏教等の在来宗教勢力による宗教弾圧の要望を受け入れたため。
5.は秀吉が元僧侶である施薬院全宗や大村由己の讒言を受け入れたことを前提とし、
秀吉側近だった施薬院全宗等が九州で一定の信者数を持ち、前年に布教許可まで受けた
キリスト教に対する危機感を主要な動機とした宗教戦争との見解である。必ずしも神国、
皇国史観に沿った魔女狩り、宗教弾圧であったとする俗説と対立するわけではない。
豊臣政権から徳川幕府に移行してからも、仏僧である以心崇伝がキリスト教弾圧にお
いて主導的役割を果たしている。 >>1
小さすぎて読めん…
当初は織田信長の政策を継承し、日本でのキリスト教布教を容認していた豊臣秀吉。だが、後に「バテレン追放令」によって布教を禁ずるようになる。秀吉がキリスト教の布教を防ごうとした背景には、ポルトガル人による「奴隷貿易」があった。5万人の日本人が国外に連行されたという、その実態とは? 作家の新晴正氏による『謎と疑問にズバリ答える! 日本史の新視点』より一部抜粋・再構成してお届けする。
日本にキリスト教が伝わったのは、戦国乱世まっただ中の天文18年(1549年)に薩摩、今の鹿児島・祇園之洲に上陸したイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによってであった。
このザビエルからバトンを受け継ぐように永禄6年(1563年)、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスが来日すると、ときの権力者の織田信長から布教活動を許されたこともあって、京都や西九州中心にキリシタンが急増した。信長が本能寺で斃れた天正10年(1582年)ごろには全国で約15万人の信者がいたと言われている。
この数字は当時の京都の全人口のほぼ半数に匹敵するものだった。その後、信長の後継者となった豊臣秀吉は最初こそ信長のキリシタン保護政策を踏襲したが、天正15年になり、突然手のひらを返すかのように「伴天連(ばてれん)追放令」を発する。伴天連とはポルトガル語で宣教師を意味するパードレが訛ったものだという。
秀吉にはこのとき、布教や商用のために日本にやってくる西欧人に対し、どうしても許せないことがあったのだという。それは一体何だったのだろうか。
■最初は布教を許していたが…
秀吉は権力の座についた当初こそ、信長の政策を継承し、キリスト教の布教を容認していた。布教の裏にある西欧諸国との交易――いわゆる南蛮貿易にうまみを感じていたからである。
この交易では鉄砲や火薬、中国製の生糸などが輸入され、日本からは主に銀、金、刀剣類などが輸出された。そんな信長以来のキリシタンの保護政策に対し、秀吉に見直すきっかけを与えたのが、天正14年(1586年)7月に秀吉自身が始めた「九州平定」だと言われている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/18eb9427a939883a22f35c495b73131d05897f21?page=1 >>670
『天正十五年六月十八日付覚』原文
昭和8年頃に伊勢神宮の神宮文庫で写しが発見され、昭和14年に発表された文書であるが、
正文(原本)は発見されておらず、偽書とする見解がある。「覚」書であるため、仏教勢力
を代表して異教徒であるキリスト教の布教阻止を目指す施薬院全宗の讒言をまとめた非公開の
文書である可能性が検討されている。キリスト教の弾圧を目的として元僧侶が俗説を列挙し
た宗教的プロパガンダとして、宣教師による仏教等の在来宗教に関しての記述と同じく中立的
な資料と見ることはできず、これまで様々な解釈がなされてきた[1]。
『吉利支丹伴天連追放令』原文
追放令には前日の覚書から意思の変化を示す文言があり、日付、伝来も同一でないことから
一夜で秀吉に心境の変化があったとする説が提案されている。覚書では重臣達が出席した御前
会議での施薬院全宗の讒言とみられる糾弾を列挙しているが、6月18日時点では宣教師の追放
を命じたりキリスト教を邪教と断じてはいなかった。覚書にあった奴隷、人身売買の文言が消
えたのは、ガスパール・コエリョの反論によって修正した可能性もあるが、いずれにせよ家臣
団の中でも強い影響力のあった高山右近の棄教・服従の拒否によって追放令が発布された説が
検討されている[1]。 まあ日本で水呑み百姓やその嫁になるくらいならイスパニアの奴隷の方が、人間らしく幸せな人生だろ
多分 つうか、日本の中で日本人をさらって売り飛ばすとかやってただろ。 >>667
奴隷貿易の事実を否定した記憶はないが
ポルトガル来航以前より倭寇は大規模な奴隷ネットワークを持っていた
多数の日本人倭寇もカガヤンの戦い(1582年)、マニラの戦い(1574年)で確認されている
前期倭寇は朝鮮半島、山東・遼東半島での人狩りで捕らえた人々を手元において奴婢として使役するか、壱岐、対馬、北部九州で奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった[13]。
後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易を行い、中国東南部の江南、淅江、福建などを襲撃し住人を拉致、捕らえられたものは対馬、松浦、博多、薩摩、大隅などの九州地方で奴隷として売却された。
1571年のスペイン人の調査報告によると、日本人の海賊、密貿易商人が支配する植民地はマニラ、カガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエン、バターン、カタンドゥアネスにあった[14]。マニラの戦い (1574)、カガヤンの戦い (1582)で影響力は低下したが、倭寇の貿易ネットワークはフィリピン北部に及ぶ大規模なものだった。
乱妨取りや文禄・慶長の役(朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大、東南アジアに拠点を拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地で売却された奴隷の一部はポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインドに送られたものもいたという[13]。 >>1
日本人の奴隷化って聞いたことは無いな
それより秀吉はキリスト教が普及することによっての西欧の日本侵略を危惧したんだよ
当たり前の話だよね それは秀吉にも家康にもあった 信長も生きてればそうなってただろう
平和ボケじゃないからねw >>675
ちょっと笑った
奴隷を労働者と同じだと思っているんだな
奴隷はモノなんだから選択する権利はないよ
売る側には相手を選ぶ権利があるけどな >>678
有名だよ
天正少年使節が度々目撃してるのが記録に残ってる >>678
アジアでは秀吉が侵略側で、具体的計画もあったようだが
秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピン
の守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉
からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、
軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告と
もとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[19]。 >>682
秀吉は恐れるより、侵略して支配しようと考えてたのだから、スペインでさえ軍事的脅威とみなしてないだろう
スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な
兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土
防衛策に早くから舵を切っていた[10]。
私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由
はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、こ
れらすべてのものを与えてくださっています[10]。
— 1586年、スペイン国王フェリペ2世
サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明と
の講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の1591年に原田孫
七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する秀吉からの
国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピ
ン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉はフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告
ともとれる意思表明をしており、豊臣政権はアジアにおけるスペインの脆弱な戦力を正
確に把握していた。豊臣政権がフランシスコ会への態度を硬化させた原因は諸説提案さ
れており、デ・オランディア(またはスペイン人船員)の口から出任せの発言を高度な
情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が真に受けたかについての結論は出ていない[11]。 >>681
デ・サンデ天正遣欧使節記は色々と改編、虚飾が指摘されており資料的価値は低い
日本人奴隷が「わずか」という情報には裏付けが示されている >>641
仏教者、儒学者の地球球体説の否定でも分かる通り、当時の日本人には呪術的なところがあり論理的思考ができなかった
いくら説得されても須弥山地球平面説を信じ続けるものがいた >>685
見てもないものを虚飾で付け加える動機がない
元々統計値が出てるわけでもあるまいしそこに突っかかってもしょうがないだろ >>689
デ・サンデ天正遣欧使節記は歴史書ではなくフィクションとして楽しむために書かれてるので、荒唐無稽といっても良い >>689
ID:uJoaOWo/0のレス数見れば一目瞭然だけど、単なるネット工作員だよ
秀吉が英雄として評価されるのが許せない半島マインドみたいなものもってるんじゃないかな
ID:uJoaOWo/0の主張も全部ソースのない本人の感想でしかないし >>683
違うがな キリスト教の布教によってキリシタン大名が増えてゆく
これが西欧により侵略と見抜いたんだよ 西欧の邪心を見抜いた わかったか? 都合の悪い歴史資料をフィクション扱いしてっから韓国の歴史は捏造まみれのファンタジー化しちゃったんだろうな >>693
デ・サンデ天正遣欧使節記は娯楽用のフィクションとして書かれている。調べてみるといいぞ >>691
>>1 の荒唐無稽な5万人説をそのまま受け入れて擁護してるのは ID:vJIJEixv0 だけのようにも見えるが
もしかして作者なのか? イエズスが先に奴隷を禁止する要望だして通してるわ
歴史をファンタジーにするなマジで >>1
幕末勤王志士、水戸天狗党と諸生党の戦いを想起させる幼児・妊婦まで公開処刑する凄惨な
虐殺劇の幕は徳川秀忠によって上げられた
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)の
キリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令は臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ
以心崇伝によって起草されたが、言い回しなど基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテ
レン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒
は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教
を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[20]。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、
キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に
好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々
に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名
には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において
処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 外国から日本人救出とか、太平洋戦争はアジア開放とかよく考えるね
そもそもモラル低い日本が、品行方正な規律のキリスト教に教育されたくなかっただけなのに
一夫多妻だったのを欧米から咎めらてたんだよね当時の日本 闇ウヨ自民DSイエズス会
米先物利鞘長州藩特別会計 >>697
ファンタジーになるのも色々理由があるんだよ
古事記と日本書紀が二冊あるように
旧約聖書と新約聖書の二冊あるだろ
為政者にとって都合が悪い情報は消されるんだよ
それを何とかして書きとめたのがファンタジー
忍者だってオフィシャルでは存在しない扱いだからな 以前半島が日本人による教養教育に反発していまも併合憎んでるらしいが
昔の日本も西欧の教育を受け入れ拒否してたw >>692
80年かけて、たかだか2、30万しか信者になってない小規模の宗教の反乱をそこまで恐れたとは思えないが
実際、バテレン追放後に秀吉はキリスト教は放置したぞ
サン=フェリペ号事件では処罰はフランシスコ会だけでイエズス会は放置している
追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[16]。1590年、ガスパール・コエリョと対象的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[17]。
1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタが平戸に来着し、肥前国名護屋で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。 >>699
>品行方正な規律のキリスト教
笑わせるなよ 朝鮮人www >>698
明治維新に廃仏毀釈という宗教弾圧があったが、見方を変えると神道や新興宗教、民間宗教の反撃でもあるな
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 外人の奴隷か、秀吉の奴隷かだけの違い
奴隷なのは一緒だw
ちな今の日本の労働者6000万人の1/3も派遣奴隷だw >>696
ほーら早速ファンタジー世界に突っ込んでいったわ
君らそればっかだね 逆に千利休の評価はめちゃくちゃ下がったよな
侘び寂びだとか言って質素な茶室で対抗したけど
あんなもの日本人の美意識ではなくキリシタンの
影響受けていただけだったと言うね >>708
馬鹿かお前?w 教会見てみろw どこに詫び寂びがあるんだよ 間抜けw 白人はほんと野蛮だからなあ
人間を鎖に繋いでこき使おうなんてアジア人や黒人は思いつきもしないよ
白人が存在しない世界だったらいろんな国や文明がそれぞれらしさを発揮してもっと豊かになってたと思う >>692
アジア史においては、初めて西欧の植民地主義を撃退したのがフィリピンのラプ=ラプ王とされているが
正式には秀吉だろうな
ラプ=ラプ王はあくまで航海士のマゼランの簒奪行為に勝利したに過ぎない
これに較べて秀吉の九州進攻は、言ってみればスペインと日本の代理戦争でもあったが、秀吉はこれを勝ち抜いた
ペドロ・ラモンによる1587年10月15日付イエズス会宛て書簡では
「フィリペ国王の手で日本国内に軍事要塞を建設しなければならない、
コンパニアもイグリシアも確固たる武装基地を日本に持たないところからキリスト教の布教が遅延する、
ナウ船が渡来する長崎では軍事要塞の建築は容易である」
と秀吉との対決姿勢を見せている
コエリョさえ「長崎に軍事要塞を建設し200〜300人のスペイン軍勢を配置すれば関白秀吉の力と対抗できる」
という書簡をフィリピンのスペイン総督府及びパードレ達に送っている
当時のスペイン国際法学者であるフランシスコ・デ・ビトリアは
「『異教徒』がキリスト教を迫害したりするような場合、スペイン国王が武力を用いて介入する権利がある」
と主張していた(ビトリアの国際法理論)
つまり寄進されてスペイン領となった長崎の地に教会名目としてスペインが軍事要塞を建設し、
秀吉が一たびこのスペインの教会を攻撃すれば、長崎といえどもスペインへの侵略行為と取られ
スペイン国王の名のもとにスペインは日本に対して正当な防衛戦争を仕掛けることが可能な状況だった
しかしこのコエリョの援軍要請は、フィリピンの植民地化を優先したマニラのスペイン総督府に断られている
バテレン追放令の直後にはイエズス会の宣教師たちはは直ちに肥前に走り
有馬晴信やその他のキリスト教徒の領主たちに「力を結集して関白秀吉への敵対を宣言しろ」と働きかけた
日本にいるイエズス会宣教師らに多数のマスケット銃の買入を命じ、大量の火薬硝石その他の弾薬を準備させる一方で
スペイン軍を日本に駐屯させ、パードレを要塞化して秀吉を打倒する計画を立てていた
これらスペインの動きを見抜き徹底的に抑え込んだ秀吉は、信長や家康よりも抜きんでいた国際感覚を持っていたといえる >>698
一般に言われている凡庸な二代目なんて言うのは大嘘で、
影武者徳川家康で描かれた秀忠が、真実の姿だったんだな。 >>709
少しは落ち着いてレスしろよ
そんなんだから知的障害の笑いを浮かべるんだ
他人をバカにする資格ねーよ >>555
薩長による悪政?薩摩閥はともかく長州閥なんか大正時代には消滅している。
特に、バーデンバーデンの密約を端緒とする、反長州勢力「一夕会」結成で、
昭和初期には反長州藩勢力が軍と政治の実権を握り、日本は暗黒期を迎えた。
一夕会のメンバーには、満州事変によって日本の秩序を破壊した石原莞爾と
板垣征四郎、二・二六事件の端緒となった永田鉄山、インパールの牟田口、
武藤章、富永恭次、山下奉文そして東條英機と、悪しき人材に事欠かない。 >>713
うーん、俺からみても>>708はバカにされても仕方ないレスだと思うけど
千利休の評価が下がったにつながる論旨がないし
日本の茶の湯文化にある詫び寂びってキリスト教と何の関係もないよ >>709
ミラノ勅命を受けた後陣の半クーポラ、アプシスの開口部などのアーチ型構造の、
シリアのキュニコス派哲学者の伝統に由来する聖体拝領の表現が合致すると思う
これならば>>708が言う侘び寂びとは、エピクテトスの肖像に由来するドゥラ・エウロポスのシナゴーグ内のフレスコ画の象徴性と形式的スタイルと多くの共通点を持っている事が多くの美術史で指摘されている
おそらくサン・ピエトロ大聖堂やティツィアーノ・ヴェチェッリオの聖母被昇天と言った豪奢なキリスト教建築のイメージはもう少し遅く、
中世スコラ哲学の理念、つまり神を中心とした秩序と父と子の精霊を始めた人類に対するキリストの愛が、
ササン朝ペルシャ帝国において既に用いられていた地中海の芸術とササーン朝初期の芸術相互の影響が大きい。 >>715
だとしたら、調べてくださいとしか言えない
切腹を命じた理由もそこにある
>>716
それは知らなかった
美術史と関係しているんだよね 布教されたら
日本の常識が世界では非常識とバレるからね
だから規制、日本はなんでも規制からはいる
本当に日本は以前からガラパゴスになりたがってたんだねだめな指導者ばっかしのせいで >>717
あー、そっち系の人か
千利休キリシタン説って根拠のない俗説でね
義経チンギスハン説と同レベルのやつだよ このおかげで日本中ブラック企業の奴隷労働社会になったんですね >>719
当時は弱肉強食が鮮明な時代だった 今の価値観で考える馬鹿w
それが世界の常識だったんだよ ほんとに笑わせるわ馬鹿はw 太閤さんが伴天連追放しなければ歴史は変わっていたんだろうな。 >>712
紫衣事件については、猪熊事件を見習ってただろうし、虐殺も家康も若い頃はやってるので、似てるところもある
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強
く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して
幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これ
は、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったとい
う事を意味している[1]。 吉原とか言ってるけど
国内の借金の肩でってのは借金を返せば自由方面(タテマエ的には
国外への奴隷ってのは物として売り買いだから一生奴隷 >>529
むしろ16代の人は徳川内閣にすらなりかけたんだっけ
辞退したけど >>725 >>1
家康は以心崇伝、家光は沢庵宗彭、秀忠も以心崇伝を一時期を除いて重用しているし、
武断政治3代は武家政権でもあるが宗教的には仏教を神道の上位とし、仏教国にすることを目指してたのではないか
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 >>730
そう キリスト教なんて関係ない 朝廷の力を削ぐための神道より仏教なんだよ 秀吉は内政に専念してればなぁ
朝鮮なんかと関わるから短命政権に終わった >>705 >>1
廃仏毀釈運動、弾正台と宗教弾圧が続くが、神社神道・国家神道は宗教ではないという建前のため葬儀が認められず
神道系の新興宗教が伸びて現在に至るというところか
邪宗門
「邪宗門」は、あくまで時の権力者が彼らから見て敵対していると感じら
れたり、都合が悪いとみなされたりした宗教にまとめてレッテルを貼るた
めの政治的な用語で、宗教用語や学術用語とは言い難い。
よく知られるところでは豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教がそれと
されたり、豊臣・徳川らの命令への非服従を貫いた日蓮宗不受不施派が
「邪宗門」とされた。また、宗門改などを通じた宗教統制に入らなかった
民間宗教、新宗教なども江戸幕府によって「邪宗門」に分類された。
檀家の除名
江戸時代には、檀徒が信徒としての責務を果たせないと判断された場合、寺は
寺請証文の発行を拒否することができた。事実上の檀徒除名であり、後日、
宗門人別改帳からも削除されて無宿や非人となり、社会生活から除外された。 まぁ、これ見てわかる通り、日本は本当は中国と
団結して欧米に対抗しなきゃならないんだよな
バカのネトウヨは欧米の操り人形やってるけど 豊臣政権が短命で終わったのは、豊臣家臣団の分裂が原因
家康にいいようにやられた印象だ
特に頭が弱すぎるのが、加藤清正と福島正則
この2人はどうしようもないアホ
先が全く見えてなかった 秀吉ハデス、信長ゼウス、家康ポセイドンですね
創造主の弟のほうのハデスゼウス、創造主のポセイドン
結局当時もマッチポンプか良くない政策だったということでしょう
このポセイドンが弟のほうに寝返っていたから世の中が大変なことに
なっていったのですね戦争とか大地震とかコロナとか
彼らが地底人やパラレルワールドの地球と月のそういう存在を使って
コロナや災害、中国やロシアの不穏な動きを引き起こ・・・?ちょっとまってください
「へ〜い!!、新型コロナをばらまいているパラレルワールドの月の厚化粧で
もうそれ粘土ぬってますよねの女王が月のお偉いさん達の
妻たちを引き連れて堂々、厚粘土面(ねんどづら)42としてデビューだぜ!!
デビュー曲「厚くぬれ」を聞いてくれ!!
「厚くぬれ」
紙だったり油だったり♪
薄いふりしたり♪
美人受賞したって誤解させたりするのは♪
あなたがお金持ちだから♪
あと2ミリ もう1ミリ 厚いことないわ♪
泣きながらあなたがびっくりした顔も♪
思い出を抱きしめながら染みていく涙♪
シャニマライ 厚さを超えて♪
この思いあなたに届け♪
ブレキナタイ 言葉よりも♪
まっすぐに今粘土手に♪
もっと もっと 厚くぬれ♪ 」
粘土面デビューwww やったね!!
・・・あっいえ、ということで政治家の方々は早くそういう地底人やパラの事を公表して
みんなで対処していきましょう。政治家さんたちもアビガンが通らないとか彼らで
苦しんでいるかもしれませんが公表して日本人の一般国民の人たちも一緒に対処したほうが
今よりうまくいきそうです。こちらのほうの人だというならもう公表してください
みんなで頑張っていきましょう 超長文大変失礼いたしました >>731
天皇家を格下の下位機関と位置づけて、黒船が来るまでは徳川の支配は続いたわけだから、家康・秀忠・家光三代の仏教国教化策は幕府の延命には寄与したのかもしれないな そんなこと言っても千利休ってさ
日本人にとっては清貧の象徴だった人じゃない
金では買えない価値がある
豪華に着飾っても人間らしさは身に付かない
どれだけの強大な武力があっても
臆することなく果敢に言うべき事は言ってきた
だからこそ大名の中には彼の支持者が根強くいた
その価値観は今でも受け継がれていて
僕たちに大切なことを教えてくださっている
…って言うイメージだったじゃない
それが資料が出てきて歴史を紐解いてみると
どうやらこいつ奴隷商だったらしいって事が
発覚して、だから大名とコネ作っていたんだよね
しかも口がうまいもんだから、みすぼらしい
部屋で、欠けた茶碗で飲むのに感動させてやがる
それが一転して胡散臭い女衒みたいな茶人に
なっちゃって、一緒に茶でもどう?とか誘ってくる
サイテーなナンパ師のイメージになっちゃった
こうなったら生臭坊主をライバルにしてたたかうしかないな >>734
まず欧米の操り人形やって有色人種を裏切ったのは中国だし
今でも有色人種の団結をもっとも阻んでるのも中国、そしてその走狗の韓国 >>741
でも日本人は今やどっちにも負けたな
日本列島は間もなく韓国列島へ変わるし >>451東南アジアの日本人傭兵は有名だな
十六世紀から十七世紀、戦国時代中期から江戸時代初期にかけて、
多くの日本人が海を渡り、東南アジアから東シナ海にかけて様々な活動を行った。
海を渡った日本人はどのような人々だったか、大きく
(1)倭寇
(2)武士・雑兵(傭兵・奴隷)
(3) 商人・労働者
(4) キリシタンの四つに分けられる。
https://call-of-history.com/archives/6612
倭寇・商人による奴隷売買ネットワークが東アジア・東南アジア一帯に広がっており、
看過できない状況へと進んでいたようで、
1570年代から戦国大名たちも人取の禁止を政策に取り入れ始める。
以後、
豊臣政権もポルトガル王も、体制側は一貫して人身売買の禁止の命令を各地に出し、
これに商人たちが奴隷に依存する地元勢力と組んで抵抗を示すという構図が展開される。
>>500
江戸時代は国内の教育レベルは高かったし、概ね成功でいいかと
ただし、蘭学での技術輸入に関しては、特に軍事技術については海外を甘く見すぎだった >>742
韓国人って妄想だけで生きてけるから羨ましいわ >>744
ヤフコメニュースのコメント欄見てみな
韓国の工作が効いてみんな反自民だぜ
ざまあみろ >>505
ブルネイ帝国に奴隷にされていたタガロク人(貴族、プリンキパリア)はスペインと同盟を組んでイスラム王朝との戦争に参加した
スペインのボルネオ遠征
スペインと東南アジアのイスラム王朝との接触
1485年から1521年にかけて、スルタン・ボルキア率いるブルネイ帝国は、
イスラム化が未完全だったトンド王国に対抗するブルネイの傀儡国として
コタ・セルドン(またはマニラ王国)を設立した。イスラム教への改宗は、
現在のマレーシアやインドネシアからの商人や東南アジアでの布教活動が
フィリピンに到達することによって、さらに強化された[1]。
フィリピンには統一国家が存在しなかったため、ブルネイ帝国の影響にも
かかわらず、スペインの植民地化は推進された。1571年、スペインのミゲ
ル・ロペス・デ・レガスピがイスラム教徒の支配するマニラを攻撃、マニ
ラはフィリピン諸島の首都となり、貿易と宣教の拠点となった。ビサヤ人
(マジャアスのケダトゥアンやセブのラジャナート)は、スペイン人が来
る前はスールー諸島のスルタンやマニラの王国と交戦していたが、ブルネ
イのスルタンと戦うためにスペインと同盟を締結した。
戦争
スペインは1578年に宣戦布告した。その年の3月、総督デ・サンデに率い
られたスペイン艦隊はブルネイへの遠征を開始した。遠征隊はスペイン人
200人、メキシコ人200人、1500人のフィリピン人原住民(プリンキパリア)
、300人のボルネオ人で構成されていた[4]。キリスト教側の人種構成は多
様であったと考えられ、スペイン人将校が率いる歩兵はメスティーソ、ム
ラート、アステカ人、マヤ人、インカ人等の米先住民で構成されていた[5]
。イスラム教徒側も同様に多様な人種がいた。生粋のマレー人戦士に加えて
、オスマン帝国も近隣のアチェに軍事遠征隊を送っていた。この遠征隊は主
にトルコ人、エジプト人、スワヒリ人、ソマリ人、シンド人、グジャラ人、
マラバル人で構成されていた。これらの遠征隊はブルネイなど近隣の他の
スルタン国にも広がり、現地のムジャヒディーンに新しい戦闘戦術や大砲
の鍛え方などを教えていた[6]。
セリ・レラの娘でブルネイの皇女であるプトリは、王位継承権を持っていた
が、スペインの一行に同行、王位と富を捨て、キリスト教徒のタガログ人と
結婚することを決めた。タガログ人はマニラ出身で、スルタン・ボルキアが
彼の国を征服したことでブルネイのスルタンの奴隷にされていたため、スペ
イン人に加勢した。このキリスト教徒のタガログ人は、騎士として戦闘で勇
猛さを発揮し、トンドのアグスティン・デ・レガスピと呼ばれていた。皇女
プトリとタガログ人は、非イスラム教徒と結婚したイスラム教徒の女性を石
打ちの刑で死なせるというコーランの刑罰にも関わらず結婚をし、二人は深
く愛し合い、フィリピンで子供で子供が生まれ、マニラで質素な生活を送った[7]。 >>698
虐殺劇の幕上げ後も国内での人身売買は続いた
江戸・明治時代
元和二年(1616年)江戸幕府は高札で人身売買を禁止、元和四年に
禁制を繰り返し、元和五年(1619年)12箇条の人身売買禁止令を発
布、寛永四年(1627年)正月にも人身売買禁止令をだすなど、人身
売買の禁令は豊臣秀吉以降も繰り返し行われた[59]。
江戸時代に勾引は死罪とされ、新規の奴隷身分も廃止されたが、年
貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)
は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般
化したものである。
江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているとこ
ろから、広義における農奴と規定する定説が認められている。本百
姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人等も存在し、家父長的
奴隷制として規定することがある。地方によっては家抱、門屋、庭子、
内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は水呑
百姓以下だったとされる。傍系家族・下人も含め名主家族そのものを
広義の農奴の一存在形態とする見解もある。
芸娼妓解放令が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規
制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽く「和売」が行
われていた。[60]明治から昭和にかけての人身売買について牧英正
は、農村の慢性的貧困、父権の強さが人身売買を発生させる温床と
なる構造上の理由を説明している。[61] ●白人キリスト教のやってたこと
■アメリカ人 インディアン大虐殺 1億人のホロコースト
■アメリカ人 日本への各都市への大空襲で100万人虐殺 富山では99パーセントが空襲により焼失
■アメリカ人 東京大空襲を行う。2時間で12万人の民間人の虐殺世界新記録
■アメリカ人 沖縄から長崎に疎開する子供達を乗せた船「対馬丸」を攻撃 1500人の児童が亡くなる
■アメリカ人 原爆を二発も落として30万人を一瞬で大虐殺。日本人を使った原爆の人体実験
■アメリカ人 アメリカ人移住者がハワイ原住民を大虐殺。王政を転覆 ハワイ王国乗っ取り
■イギリス人 インド人に紅茶と綿花を作らせ食べ物を作らせず飢えにより大虐殺
19世紀の飢餓だけで2000万人が死亡。虐殺された数は不明
■アメリカ人 フィリピンで100万人大虐殺
■オランダ人 インドネシア人を強制栽培に従事させ飢えさせるなど大虐殺。日本人捕虜に対する虐殺も最も悪質
■フランス人 ベトナム人500万人大虐殺
■イギリス人 オーストラリアに住むアボリジニ大虐殺(オーストラリアはイギリスの犯罪人の流刑地)
■イギリス人 タスマニア島(オーストラリアの近く)の住民を虐殺。タスマニア島住人は虐殺により絶滅
■イギリス人 ニュージーランドのマオリ族を虐殺 白人国家に
■アイルランド人、フランス人 イースター島の住民を奴隷として連れ出し
彼らが持ち込んだ天然痘が猛威を振るった結果、1872年当時の島民数はわずか111人の絶滅寸前に
■アメリカ人 イラク130万人大虐殺 アメリカの経済制裁によりイラクの子供が80万人死亡
■イギリス人 中国人にアヘンを売りつけアヘン中毒にさせる。アヘンを売った金で中国人を買いアメリカで人身売買
■カナダ人(フランス人)先住民虐殺(現在進行中)
■ベルギー人 コンゴで1000万人大虐殺
■イギリス人 フランス人、アメリカ人、スペイン人、ポルトガル人、オランダ人=
アフリカから黒人を奴隷として大量に買い付け酷使、使い捨てにして大虐殺 5000万人
■スペイン人 ポルトガル人 アメリカ大陸での大虐殺。
(数千万人単位でインディオが虐殺され、ペルーでは1000万いた人口が100万人に)
■アメリカ人 ベトナム戦争でアメリカ軍が大量に枯葉剤、ナパーム弾を使用し虐殺
■十字軍によるイスラム虐殺
531名無しさん@1周年2017/09/17(日) 12:30:37.78ID:Bz58xBh/0
いや、お前ら勘違いしてるけど、
あの韓国人でも世界的に見ればマシな水準なんだよ。
この事実に震えた方が良いよ。
563名無しさん@1周年2017/09/17(日) 12:35:59.93ID:iApg6xlB0
>>531
覚悟もないのに国境開き過ぎなんだよな。
大抵の場合、手遅れになってから多くの人が知ることになって
過剰反応で社会不安が起こるんだろうな。 113 : 名無しさん@1周年[] 投稿日:2015/06/21(日) 10:48:46.87 ID:Om4mPyVo0.net
>>12
娘50人が火薬一樽だよ!
当時のキリシタン大名は奴隷貿易や挙げ句の果てに、
領土を外国へ謙譲しようとしてた
もし、かれらを追放してなかったら、
インカ帝国のように滅ぼされてたか、コンゴのように奴隷貿易で、
国民を家畜扱いされる国になってた!
3つの歴史はほぼ同時期
つくづく、豊臣秀吉の判断力ってすごいわ!
561 :名無しさん@1周年:2016/03/22(火) 20:21:26.67 ID:bWvhXdBN0
>>531
■コンゴ(ザイール)とはどんな国か
・.ベルギーの植民地、つーかベルギーの王様の個人的な持ち物
・当時はコンゴ自由国という名前だった。
別に自由な国、というわけじゃなくベルギーの王様レオポルト2世が
自由にしていい国、という意味
・レオポルト2世は苛烈な植民地経営で私腹を肥やしまくった。
現地の黒人を奴隷にして、天然ゴム農園で働かせた。
・生産性を上げるために、怠けてる奴隷は手首を切断する罰を与えた。
・そのうち、たくさん手首を切り取ることが
奴隷の監督として優秀ということになり、
奴隷の監督は先をあらそって奴隷の手首を切りまくった。
・片手がない奴隷ばかりになり、生産性は落ちた。
焦った監督たちはこんどは片手がない奴隷の残った
もう片手も切り始めて帳尻合わせた。
https://i.imgur.com/EnKjExn.jpg
・こんなことしてたんでもうコンゴはめちゃくちゃになりました。
353 :名無しさん@1周年:2017/01/09(月) 21:47:48.13 ID:oEybyf1G0
>>341
1800年代でコンゴ人1000万人殺してるぞ。
100万人の打ち間違いじゃないぞ
頭おかしいだろ 鎖国とかいうジリ貧で保ってナンボじゃ大した功績じゃないけどな。
その分浦島太郎で近代化が急務だったわけだし。 島津にとって戦争は略奪
隣国(日本国内)に攻め込めば農民を捕らえて奴隷商人に売る
外国(朝鮮)に攻め込めば農民・職人を捕らえて薩摩に持ち帰る 島津は侵略先の九州各地で童子(少年少女)の耳を削ぎ落して海外に売った >>749
日本でも奴隷やってたじゃんって言う人居るが、次元が違うんだよな >>1
この5万人って島津の他に倭寇が攫って売ったんじゃないの
室町以降の後期倭寇は朝鮮済州島・台湾・中国沿岸部の人々で日本人ではない
支倉使節の末裔を名乗る日本人街の地名がコリアだし >>755
コンゴレベルにはならなきゃ酷くないなら
チベットウイグルなんて天国だわ >>756
多数の日本人を含む倭寇はこの時代、大規模な奴隷貿易を行っていた
カガヤンの戦い (1582)
1582年のカガヤンの戦いは、フアン・パブロ・デ・カリオン提督率いるフィリピン・スペイン軍と、
タイ・フーサ率いる倭寇との間で行われた一連の衝突である。カガヤン川周辺で行われたこれらの戦
いは、最終的にスペイン軍の勝利となった[2]。
浪人、漁師、商人(密輸・合法)からなる日本と中国の海賊の大集団に対して、銃士、槍兵、ロデロ、
水兵が戦った記録である[3]。 浪人、軍人、漁師、商人(密輸、合法)からなる日本と中国の海賊の
大集団に対して、銃士、槍兵、ロデロ、水兵が戦いを繰り広げた[4]。海賊は大型のジャンク船と18隻
のサンパン(平底の木造漁船)を持っていた[5]。
ロンキージョは1582年6月16日にフィリップ2世に次のような手紙を出している:[7][8]
日本人は最も好戦的な人々だ。彼らは銃を持ちこみ、鎧を着て、
多くの弓兵や槍兵を連れてくる。すべてはポルトガル人から提供
されたものだ
スペイン側
兵士40名
水兵数不明
ガレオン船1隻
小型船5隻
軽舟1隻
倭寇側
ジャンク船1隻
サンパン18隻
倭寇約1000人 >>756
1574年のマニラの戦いの副官は日本人とされている
スペインには多数の日本刀や火縄銃を使う倭寇戦士の記録がある
倭寇には硝石を運べる航路があったことは間違いないだろう
マニラの戦い (1574)
マニラの戦い(1574年)(スペイン語: Batalla de Manila en el 1574; Filipino:Labanan sa Maynila ng 1574)
は、マニラ地域の主に現在のパラニャーケで、林鳳率いる中国・日本の海賊と、スペイン軍と先住民の同盟軍
との間で行われた戦いである。この戦いは1574年11月29日に起こった[2] 林鳳の艦隊はパラニャーケに上陸し、
そこからイントラムロス砦への攻撃を開始した。当初、住民は混乱していたが、林鳳の軍隊は彼らを潰走させた。
さらに倭寇はスペイン軍の司令官であるマルティン・ド・ゴイティを殺害したが、マルティン・ド・ゴイティ
の抵抗により、マニラへの攻撃を遅らせることになった。
林鳳の倭寇軍はマニラを包囲したが、フアン・デ・サルセード率いるスペインのマスケット銃士50人の部隊
が包囲を破った。 [1] マニラで敗れた林鳳は撤退し、マニラへの侵攻計画を放棄してパンガシナン州を占領した。
一年後、サルセド率いるスペイン軍が再び林鳳を破った [1]。
スペイン側
300スペイン兵(インカ、アステカ、マヤ等の米先住民を含む)
300イロカノ兵
民兵(数は不明)
倭寇側
62隻の軍艦
4,000倭寇兵[1] >>756
未検証だが、 鄭舜功『日本一鑑』窮河話海・海市の条の和訳サイトがある
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/ikkan1.html
乙卯の年(34年=1555年)、ポルトガル人たちが倭夷を誘って広東沿海に来航した。周鸞らは倭人たちをポルトガル人に扮装させて、共に広東の賣マ(くさかんむり+麻)街で交易させ、かなり経ってから立ち去った。これ以来ポルトガル人たちは毎年のように倭を誘って広東に交易にやって来るようになった(注1)。
(注1)日本人達をポルトガル人に扮装させる、という微笑ましい(?)周鸞たちの作戦だが、他資料にこの話は全く出てこない。広東にいたこともある鄭舜功が自ら目撃したところなのかもしれない。 >>464 >>1
日本のアイヌ民族浄化政策や奄美群島の原住民への過酷な措置に比べるのであれば、スペイン国王の先住民政策は寛容なほうだ
「知床日誌」文久3年(1863)出版
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k024/html/p028.html
見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着如何にも菜色をなしける
病人等杖に助りセカチ男子 カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか我等を見て皆
寄来りし故其訳を聞に舎利アハシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫
を持へき時に至れはクナシリ島へ遣られ諸国より入来る漁者船方の
為に身を自由に取扱ハれ男子は娶る比に成は遣られて昼夜の差別
なく責遣ハれ其年盛を百里外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて
暮す者多く男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ病者となりては働稼の
なる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く又夫婦にて彼地へ
遣らるゝ時ハ其夫は遠き漁場へ遣し妻は会所また番屋等へ置て
番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ何時迄も隔置れそれをいなめは
辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也如此無道の遣ひ方に逢ふか
故に人別も寛政中ハ弐千餘文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人安政五戊午改百七十三軒七百十三人 有しか
今は漸々半に成しそうたてけり此儘にては今廿年も過れは土人の種も
如何と案しける由等話其故爰には丈夫の者なき故猟漁等出来難く
其日其日の烟も立難きか故毎日此汐の干を待ては小貝を拾ひ汐満来れハ
野山ニ入て草の根等堀て辛き命を繋く事とそ聞に其憐さまし
けれは我等か貯への糧米を聊かつゝ分ち與へ来るやタンネウシ沙地
此所長き沙地なれは号く過てバナ人家十五軒の岬を廻りて川に入るに巾三十余間し
はしにて舎利運上屋へそ着し一同鎮守杜に至りエナヲ削りて山海の神
を祭り途中の安を賀し車座に一樽を開き詰合宮崎氏へ濱にて >>761 >>1
日本のアイヌ民族浄化政策や奄美群島の原住民への過酷な措置に比べるのであれば、スペイン国王の先住民政策は寛容なほうだ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1388281079/
346世界@名無史さん2018/05/11(金) 09:52:09.760
「知床日誌」 松浦武四郎
幕末の探検家・松浦武四郎の手記によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで和人達の慰み物になり、
人妻は会所で番人達の妾にされたと書かれている。夫は漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされ、子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す。
日本へ反発できなくなった大きな理由に人口減少がありますが、
その大きな原因は、女達が日本人の慰み者にされたこと、性病を含む伝染病を移されたこと、生活基盤を失わされたこと、などがあげられます。
松浦武四郎によると、夫婦は仲を引き裂かれ、男だけクナシリ送りとなり、そこで昼夜の別なく奴隷労働に使役され、
斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、
諸国からきている和人に体を弄ばれる。男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、故郷に帰ることが許されるころには既に老人となっており子供を残すことができなくなった。
和人によって妊娠させられた妻は、唐辛子汁を飲ませる等で堕胎させられることにより、
子供を残せない体にされた。さらに和人に性病を移されることなども手伝い、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人口は激減した。
松浦によると無理やり妾にされた挙げ句に性病をうつされ、顔が崩れて悪臭を放っているアイヌが山にたくさん居たとある。 >>762
北海道におけるアイヌの民族浄化や奄美群島の原住民への過酷な措置と比べてみるとましなほうだ
ブルゴス法
ブルゴス法は1512年12月27日、スペインのカスティーリャ王国ブルゴスで公布された。アメリカ大陸におけるスペイン人の行動、特に西インド諸島の先住民(カリブの先住民)に対する行動を規定した最初の成文化された法律であり、先住民への虐待を禁じ、彼らがカトリックに改宗することを期待した。この法律はカスティーリャの慣習法が完全には適用できない西インド諸島をスペインが征服後に制定された。
ブルゴス法の適用範囲は、当初はヒスパニオラ島に限定されていたが、後にプエルトリコとジャマイカにも拡大された。
労働条件・規則
ブルゴス法ではエンコミエンダでの労働条件や規則を以下のように一様に規定している。
カリブ先住民に対してキリスト教を理解させ、強制でなく自発的な改宗を促す(脅迫等による一過性の改宗でなく、恒久的なキリスト教の浸透)
カリブ先住民に決められた広さの住居の建設と提供、与えられた土地を含む財産の保証をする
カリブ先住民に対する侮辱や虐待を禁止する
児童労働の禁止(及び教育中の労働禁止)をする
出産後3年間の育児休暇を保証する
結婚した先住民女性に対し労働を強いることを禁止する
未婚の女性を両親から離すことを禁止する
5ヶ月の労働後に(連続した)40日間の休みを提供する
1日に十分なパン、野菜、肉、魚を提供する
酋長・族長の家族を優遇する 船員の雇用って大航海時代はどこの港でも行われてたんだけどね
その仲介を日本人自らやって暴利を貪っていた
今と同じ構図だね >>760 >>1
文禄・慶長の役では多数の人狩り、人売り商人が朝鮮半島に渡り、奴隷のお土産の記録もある
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後
につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わね
ば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもか
くやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひ
かせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり
— 慶念『朝鮮日々記』
と記録を残している[15]。
渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[16]。
多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた。[17]
薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[18][19]。 国内での人身売買はいいけど、海外へはダメってのが理解できん。売る方からしたら、
金が入ればそれでいいだろ。 船で何ヶ月も連れ回すほど奴隷に価値ある?
途中で死にまくるし体調悪化で売値も下がるだろ >>747 >>1
幼児・妊婦を含めた虐殺、広義の魔女狩り、強制改宗、宗教施設の破壊、宗教迫害等 >>766
それこそ日本人の言い換えればOKみたいなデタラメさだろ
援助交際=パパカツ=売春とか、
派遣=人買みたいなことよ >>767
後世の黒人奴隷と異なり、元々戦乱に乗じて乱取りされた人間だから仕入れ値ゼロ、おまけにタマ数も安定して多かっただろうから、買値も高くなかったんだろ
死んだら海に捨てりゃ良いし、丈夫で使えそうなのが残りゃオッケーくらいの感覚だったんじゃないの
残酷な話だけど >>771
下請け運送業者で運んだという珍説については、その時代は武装商船や倭寇しかおらず一人頭の輸送コストは馬鹿にならない
倭寇は何の脈絡もなく金を要求してくる海賊であり、彼らに運ばせるとなるとリスクも相当ある
要求される輸送の報酬が高すぎて採算は取れないだろう
輸送コストで奴隷は割高になってしまい、(語学もできず黒人ほど腕力もない貧相な日本人を)東南アジアにつれていこうとしても売れず赤字だ
口減しのあった時代に、5万人の奴隷を購入して採算をとるのには無理がある。数千人の娼婦街は食料維持を考えれば非現実的な仮定だし、そのような記録もない >>772 >>1
食料が貴重であった時代に数万人の奴隷を生かすために、ポルトガル人は大量の食料を周辺地域から金銭で調達しないと
いけなくなり儲からなくなるだろう。明は倭寇の人狩りもあり、顧客にならないだろうし、東南アジアには
人口が十分にあるから、近隣のスルタン国がフィリピンで奴隷狩りをしてるのに、わざわざ遠くから運んだ割高な奴隷に需要はないだろう
考えられうる輸送法の限りで、水・食料コストを安くし、輸送コスト分割高で(マレー語などの)語学ができない奴隷にさえ需要がある地を探して届ける方法はなく採算がとれない
売り手がないのなら、マカオには日本人だけの巨大な奴隷街ができるが、そのような記録はなく
ポルトガルの支配地域の奴隷は圧倒的に黒人という記録が残されており、中国人や日本人などのアジア人奴隷をポルトガル人は好まなかった >>1
これは豊臣秀吉を英雄視させたい輩の喧伝か?
人身売買は当時じゃ通常の商行為じゃん
なにを国士ぶらせてんの?何が目的かね >>1
信長が本能寺で討たれなければ明を征服してヨーロッパと対等に渡り合えたんだろうなぁ >>773 >>1
黒人奴隷は肉体的に堅固で水夫や港湾労働者として価値が高く食費分以上の価値を生み出したこと、元はオスマン帝国やインドのイスラム王朝で未開民族を狩ってきた奴隷出身者のため教育もしやすかった
ルシオ・デ・ソウザも指摘してる通り、先入観を捨てステレオタイプな鎖に繋がれた悲劇の奴隷像は皆無ではないものの、例外的なものと考えるべきだ
ポルトガルの人口は少数であるため、ポルトガルの海外進出は大量の奴隷を獲得して初めて可能になった。また奴隷の人種についてはアフリカ系が好まれた。15世紀後半から16世紀にかけて、ポルトガルの奴隷への依存度が問題視されることはなかった。奴隷は稼いだお金を貯めて自由を買うか、代わりの奴隷を買うことを許されれば、自由になることができた。女性の奴隷は、主人が結婚することを選べば、自由になれた[7]。
アフリカ人奴隷はマカオの戦いで命をかけて勇敢に戦い、ポルトガルへの忠誠心をヤン・ピーテルスゾーン・クーンに称賛されるほどだった。 奴隷貿易の中継地だったポルトガル植民地の島国カーボベルデ共和国
西アフリカの国セネガルの首都ダカール(パリ・ダカールレースでお馴染み)から西へ600キロの海上に浮かぶ島々
サッカーのクリスティアーノ・ロナウドの母方の先祖も住んでいたルーツの一つ
カーボベルデから北1900キロ。ロナウドが育ったポルトガル領マデイラ島もまた、奴隷によるサトウキビ栽培の拠点の一つだった >>776 >>1
奴隷は主人が不慮の事故や病気で死ねば遺言や家族の意思で解放されることがあった
年をとってパフォーマンスが悪くなると主人が奴隷を強制的に解放するケースもあり、
そうした事を非道徳的として禁止するような事は当時良くあったと読んだ記憶がある >>776
○黒人奴隷は肉体的に堅固で水夫や港湾労働者として価値が高く食費分以上の価値を生み出したこと、元はオスマン帝国やインドのイスラム王朝によって人狩りされた未開民族の奴隷出身者のため教育もしやすかった >>748
これだもんなぁ、キリスト教徒の悪行
異教徒には何してもOKとか、どういう神経してんだろうな、この宗教。日本は色んな神様を受け入れていたのに。
この時代乗っ取られなかった要因は、秀吉家康の聡明さもあるけど、
ベースにあったのは、日本の軍事力の高さだよね。
16世紀末時点で、世界最大の銃保有国になっていたという事実
種子島伝来からわずか100年、宣教師のポルトガル人もビックリしたろw
武器売り付けようとしたら持ってたんだから スパイ防止法作ろうとしない無能政府と与党にも言ってやってよ >>781
ほとんど誇張した最大値を入れ意図的に疫病死等を除いた数値だぞ
例えて言うなら南京事件で諸説でなく40万人が殺害された事のみ報告するようなものだ 支倉常長がメキシコで会った日本人というのも、連れていかれた奴隷なんだろうね。 >>1
すごい権力だな。
俺が今、秀吉だったら共産党員全員島流しするわ >>1
(病死・飢餓、行方不明者、全て含めた)死者数で言えば日中戦争もそれなりの被害とされている
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人の死者、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人の死者、199年間
■明清交替、2500万人の死者、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人の死者、8年間
■太平天国の乱、1000万人の死者 14年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■文禄・慶長の役、100万人の死者、7年間 >>748 >>749
拡散OK
どれも誇張された被害数だと疑いの目で見るべきだが、日本人も色々とやらかしていると海外で見られているはずだ
戦争犯罪・虐殺
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
病気・飢餓
■中華人民共和国大飢饉、1150万人〜5500万人の死者
■第二次世界大戦による病気と飢饉、1900万人〜2800万人の死者
■大日本帝国による飢饉と病気、813万人〜1493万人の死者
■日中戦争による飢餓と病気、500万人〜1000万人の死者 >>1
>>748 の陰謀論にはこれを拡散すると良い薬になるだろう
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人の死者、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人の死者、199年間
■明清交替、2500万人の死者、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人の死者、8年間
■太平天国の乱、1000万人の死者 14年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■文禄・慶長の役、100万人の死者、7年間
戦争犯罪・虐殺
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
病気・飢餓
■中華人民共和国大飢饉、1150万人〜5500万人の死者
■第二次世界大戦による病気と飢饉、1900万人〜2800万人の死者
■大日本帝国による飢饉と病気、813万人〜1493万人の死者
■日中戦争による飢餓と病気、500万人〜1000万人の死者 >>413
やってほしいよねポルトガルで
人権問題で難しそうだけど
何となく気付いてる現地人もいるだろうな >>781 >>1
法華一揆の虐殺
長島一揆の虐殺(騙し討ち、なで斬り、21,000人以上とされるが総数は100,000人と見られるため実数がないほどの死者)
越前一向一揆(12,500人を殺害し3万人から4万人を奴隷とする)
東北一揆の虐殺(なで斬り)
叡山焼き討ち(3,000-4,000人、なで斬り)
山科本願寺の殲滅戦
天草島原の乱(37,000人)
天正伊賀の乱(伊賀全体では9万の人口の内非戦闘員含む3万余が殺害された)
宗教系の弾圧には他の宗派が一枚かんでいることが多く、結局のところ1つの宗派が潰れても
他の宗派の勢力が強くなるという歴史を繰り返して来た
徳川幕府も魔女狩り(寺請制度・檀家)、宗教戦争、迫害なんでもありだぞ
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、
キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に
好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々
に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名
には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において
処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 >>789
大方の例にもれず日本軍も直接殺した数は少ないはずだが、物流を止めたり食料の現地調達で栄養失調・疫病が蔓延し大量死が起きた >>789 を拡散してくれるなら誰でも歓迎するぞ
ID:aK8nAs8+0 の良い薬になるはずだ
日本すごいばかりやってるのがネットで増えたが、太平洋戦争末期のような末法感ではある ■1932年から33年にかけてのソ連での飢饉、440万人〜910万人
■第一次世界大戦による飢饉と病気、541万人〜610万人
■第二次コンゴ戦争(1998)、380万人〜540万人
■第一次コンゴ戦争におけるフツ難民の虐殺、20万人〜22万人
■コンゴ自由国における残虐、300万人〜1300万人
奴隷・強制労働による死者
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人の奴隷
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人 >>789
つづき
特定の政治指導者が原因となった死者数
■毛沢東、1359万〜7000万人
■チンギス・カン等、2000万人〜4000万人
■アドルフ・ヒトラー、1351万人〜2549万人
■蔣介石、596万人〜1852万人
■ヨシフ・スターリン、330万人〜1500万人
■昭和天皇、300万人〜1400万人
■レオポルド2世、300万人〜1300万人(コンゴ)
■ポル・ポト、138万人〜340万人
■青年トルコ人(オスマントルコ帝国)、148万人〜281万人
■オマル・アル=バシール、106万人〜253万人
■金日成等、71万人〜350万人 武器や舶来品欲しさに奴隷売ってたのキリシタン大名だろ
今も昔も為政者はろくなもんじゃない。 >>710
今は日本も外国人技能実習生という奴隷を使ってるけどね >>790
>1は作家の思いつきなんで
本を売るための営業やぞ >>781
けど火薬武器は元寇の時にてつはう見てるのにそっちは取り入れなかったのかな
銃に比べてショボくて武士が欲しがらなかったのか 1946まで続いてたお上と上級国民の奴隷だった日本民族。
キリスト教国によって奴隷を解放してもらったじゃないか。
戦後生まれた日本民族の人数は5万人どころではない。
今だけでも1億3千万人。
キリスト教による恩恵のほうが大きいのだよ。
病院の赤十字マークからして十字架だ。そんな手のひらの上で
田吾作脳思考でキリスト教に
ぶーたれてみても墓穴を掘るだけやで。 >>627
秀長は秀吉より早くに亡くなったでしょ。 >>701
古事記と日本書紀は同時期の話を扱ってるけど、新約聖書は旧約聖書の後の世界、キリストについての聖書だから、旧約聖書と新約聖書は被ってないし、クリスチャンは両方読むよ。
ユダヤ教の人にとっての経典は旧約聖書までの内容だろうけど。 秀吉が大陸に手を出したのは、やっぱスペインみたいな欧米の動きに
危機感があったのもあるのかもなぁ >>774
信長も秀吉も家康も日本の英雄には違いないでしょ。
英雄とは完全無欠の人のことを意味するわけじゃないし。 欧州の近世は侵略と殺戮と奴隷の歴史よね
酷い人種だよ >>6
「慶長元年12月19日(1597年2月5日)、スペイン船サン・フェリペ号の漂着をきっかけとして、スペイン人の宣教師・修道士6人を含む26人が長崎で処刑された。これはポルトガルよりも露骨に日本の植民地化を推し進めてくるスペインに対する秀吉一流の見せしめであった。」
長崎の日本二十六聖人記念館のあれだね
長崎に行った時に見てきた
(あと、国宝の大浦天主堂もこの二十六聖人由来)
見始めは、なんて酷い事を…と思ったけど、見ていくとだんだん違和感出てきた
処刑された日本人信徒達はほんと気の毒に思うけど、記念館側の「日本の権力者側はこんな横暴で非人間的だったのです、一方キリスト教徒側は愛と信仰のために美しく死んだのです」ってゴリ押しすごくて
宣教師とその本国側のやってた事には1mmも触れない展示が姑息
しまいに「キリスト教を禁止した日本の権力側は決して外国人宣教師達の行動を脅威に感じたのではありません。あくまでも日本人信徒達による自発的な反乱を恐れたのです」
とはっきりと書いてあって、元凶の自分達の責任逃れと日本人への擦り付けっぷりにドン引きしたなー 韓国の陶磁器メーカー上場廃止で、蘇る豊臣秀吉への恨み
https://news.yahoo.co.jp/articles/a34935d90131ddef50976e02bbc2e640a0843477
主力商品は嫁入り道具として大人数用の食器セットであった。
しかし、韓国は少子高齢化が急激に進み、結婚しない人も増えた。
さらに、家族が集まった時には外食する機会が増え、ホームセットの需要なくなっていた。
若者たちは韓国産ではなく、安物であれば中国産を、高い物なら英国産などを選ぶようになった。
秀吉、まったく関係なくて笑えるw 織田豊臣は正しかった。
その後の徳川で日本は260年も伸び悩んだ。
薩長のお陰で何とか立ち直れたが、江戸時代に上手く立ち回れていたらもっと栄えたのに。 殺されたキリシタンも下手すれば亡国の先兵に使われてたかもしれないんだよな
実際に洗脳されて坊主殺して寺を焼き討ちしてたりもするからな
まさに当時の欧州諸国は今のISISといえる
そういう意味ではキリシタン弾圧も神の御業といえるかもね >>811
徳川幕府無かったら金と銀が日本から消失して近代日本の発展は無かっただろうな
あんま適当なこと書くな せっかく長い戦国時代が終わりかけてるのにまた一から宗教戦争なんて始まったらたまらんわな
そんなことはキリスト教徒が許しても神が許さなかったって事だ 九州四国の人身売買は後々のカラユキさんまで続くんだけどな。地元の差別が嫌で自ら出て行ったのも多かったらしいが。 有色人種を奴隷にしまくってた白人の時代なんて
交流せずに島に引きこもってた方がマシ
鎖国はGJ 余計な事をしたよなぁ
ここで奴隷になっておけば少しは気骨ある日本人が生まれたかも知れんのにな >>814
その金をレート操作で騙し取られていただろ
ついでに言うと発展しなかった理由は穢多を差別して
発明や研究を非推奨してきたからだぞ
泰平といえば聞こえは良いが体制維持の為に
身勝手な弾圧を続けてきた 現政権を批判するために、江戸時代の政治を持ち出すことがあるんだけど
しかしその言説が結果的に、当時差別されていた人たちのことも是認する
格好となっている。士族や華族が没落したのにその事実を受け入れられず
穢多たちの功績を認めようとしない。
本人は意図していないのだろうが潜在的な差別主義者となっている。 幕末の徳川幕府がすごく良かったとも、薩長による新政権がすごく良かったとも思わないけど、両者が早々に手打ちにして内戦を早めに終わらせたことは賞賛に値すると思う。
そして、そのためには権威はあっても権力は無い存在だとしても、天皇という存在が名目上必要だった。 キリシタンを一番排除したのは徳川じゃん
最初はキリシタン排除した秀吉上げしながら主導権を取りつつ
最後はキリシタン排除した徳川を叩くように誘導
ほんとはキリシタンなんじゃないの? >>816
それなのに、九州は今もキリスト教徒が飛び抜けて多いし(四国は知らない)
行政もキリシタン文化を売りにしてるよね
当然、弾圧してた日本側が悪という設定で まあなんにせよ宗教なんてどこの国でも為政者の支配ツールの1つにすぎないからね
為政者に都合の悪いものは弾圧して上下関係を尊ぶものは好まれがちw 一度フラストレーションを貯めさせてショックドクトリンで逆な結果狙いだろ >>826
反日日本人が多すぎ。工作員も多いニダ。
日本人は油断しすぎ。
ニッポンファースト 朝鮮出兵で朝鮮から50万人の女子供を奴隷として日本に連行して40万人をバテレンに売り捌いて残り10万は九州に住まわせた 今の世には秀吉がいないらしいな
日本人を奴隷にしてる連中が愛国者扱いされるなんて >>784
あの時代にメキシコに自力で行ける日本人なんて普通いないしね イスパニアポルトガルが 南米大陸でやったことを 江戸幕府が 喧伝して おけば 江戸時代の 殉教者も 減っていたろうに >>833
スペインがやったんであって
キリスト教がやったわけじゃないと言われれば終い >>826
>1を東洋経済オンラインで読むとよく分かるんだが、歴史好きな作家が書いた歴史本の営業だからな
信じない方がまとも >>834
宗教を利用してやってるんだからきちんと説明してやればわかるでしょ
日本人ってそこまで理解力ないわけないし >>836
実際に国が宗教を利用したからそれで信仰は捨てなかっただろう >>837
南米の惨状見てるただ単に利用してるだけだったのがわかるでしょ
宣教師送って ガタガタにしてそれから支配するってパターンなんだから
日本人はそこまで理解力なくないよ >>838
んんん?
キリスト教そのものより、当時の国家が問題だろとしか言えない
基本的に絶対王政の国が多かったし >>839
そもそも 利用されてるだけってわかってたら 強制的に引き離されるより自分から 止めんでしょ
そのこと知らないんだから 信仰心って言っても 内容はわかっちゃったら変わるの いるのが 当たり前でしょ >>838
南米は、まず軍事力でガタガタにしてから宣教師を送ってるんだが >>840
ごめん、うまく意味がとれないけど
「宗教または海外の覇権国家に利用されてると気づいたら棄教するだろう」
という意味?
信仰心ってそんな簡単な問題じゃないよ
一部の行き過ぎた陰謀論者やオウム真理教の残党を見ても分かるけど、それ自体に生きる意味を見出してる場合はそう簡単にはやめない
例えば、フランスはフランス革命の時にカトリック教会の財産没収とミサの禁止をしている
30年以上は表立った信仰が途絶えたのに、また復活した歴史がある
難しいんだよ、多くの人は信仰なしに生きられるほど強くないんだろ >>842
だから全員がそうするって訳じゃないよ
大半の連中が自分達が 利用されただけの立場だって気づけば
そこで辞めるか辞めないかって判断が大きく変わるってわけよ
幕府 はその説明すらしてなかったからな >>826
昭和の頃の教科書にはちょろっと載ってたよ。 >>789
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人の死者、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人の死者、199年間
■明清交替、2500万人の死者、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人の死者、8年間
■太平天国の乱、1000万人の死者 14年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■文禄・慶長の役、100万人の死者、7年間
戦争犯罪・虐殺
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
病気・飢餓
■中華人民共和国大飢饉、1150万人〜5500万人の死者
■第二次世界大戦による病気と飢饉、1900万人〜2800万人の死者
■大日本帝国による飢饉と病気、813万人〜1493万人の死者
■日中戦争による飢餓と病気、500万人〜1000万人の死者 ■1932年から33年にかけてのソ連での飢饉、440万人〜910万人
■第一次世界大戦による飢饉と病気、541万人〜610万人
■第二次コンゴ戦争(1998)、380万人〜540万人
■第一次コンゴ戦争におけるフツ難民の虐殺、20万人〜22万人
■コンゴ自由国における残虐、300万人〜1300万人
奴隷・強制労働による死者
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人の奴隷
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人
特定の政治指導者が原因となった死者数
■毛沢東、1359万〜7000万人
■チンギス・カン等、2000万人〜4000万人
■アドルフ・ヒトラー、1351万人〜2549万人
■蔣介石、596万人〜1852万人
■ヨシフ・スターリン、330万人〜1500万人
■昭和天皇、300万人〜1400万人
■レオポルド2世、300万人〜1300万人(コンゴ)
■ポル・ポト、138万人〜340万人
■青年トルコ人(オスマントルコ帝国)、148万人〜281万人
■オマル・アル=バシール、106万人〜253万人
■金日成等、71万人〜350万人 >>1
奴隷じゃなくても
世界で一番つまらない国だから
滅びてなくなっていい
つまんない しかし三成を配下に置くくらいだしやはり頭は良いよな 朝鮮出兵とかいってイキって攻め込んだらコテンパンに返り討ちにあってうんこチビって逃げ帰った恥ずかしい輩でしょw 今や奴隷をベトナムから仕入れる側ってのが面白いわ、日本は人身売買してるとか近いうちに叩かれんだろうな〜、戦時中の連中の方がはるかにまともな連中だったなw 従軍慰安婦なんてなかったと言ってる連中が低賃金奴隷輸入してる現実 強制労働・奴隷貿易
ここでは、労働条件の悪さによる死亡、労働能力を十分に発揮できなかったことによる死刑、輸送中や職場での労働者の不当な扱いによる死亡について一覧を載せる。
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人
■グラグ制度、105万〜600万人
■北朝鮮における強制労働、40万〜150万人
■アシエンダ制における奴隷労働、17.3万〜201万人(1900-1920)
■大日本帝国による朝鮮人の強制労働、27万〜81万人
■バルバリア奴隷貿易、24.5万〜38万人 >>806
学校の日本史では相対済し令で戦がなくなって恩賞に与える領地が国内で期待できなくなったので唐入りを進めたと、教わった >>1
拡散は歓迎だぞ
戦争犯罪・虐殺
ここでは軍事組織によって引き起こされた非戦闘員の死者数の一覧を載せる。特定の民族、宗教、政治的グループをターゲットにしたものに限ることなく、一般市民の生命を軽視した軍事戦略や残虐行為について記述する。
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
■第一次・第二次スーダン内戦、200万人
■ソ連・アフガン戦争、50万〜200万人
■張献忠の戦争犯罪、100万人
■バグダードの戦い後のモンゴルによる虐殺、20万〜200万人
■アンゴラ内戦、50万人
■第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍による生物兵器と人体実験、40万〜58万人
■マラーター王国のベンガル侵攻における戦争犯罪、40万人
■米比戦争、20万〜25万人
■マニラ大虐殺、10万〜50万人
■南京事件、1.3万〜40万人 >>860
拡散は歓迎だぞ
戦争・武力衝突
ここでは、高い推定値による死者数が10万人以上となる全ての戦争について一覧を載せる。これには軍人と民間人の両方の死者数が含まれる。直接、戦争によって死亡しただけでなく、それによって引き起こされた戦闘、病気、飢餓、虐殺、自殺、ジェノサイドによる死者も含む。
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人の死者、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人の死者、199年間
■明清交替、2500万人の死者、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人の死者、8年間
■安史の乱、1300万人〜3600万人、8年
■第一次世界大戦、1750万人〜4000万人、4年3ヶ月1週
■太平天国の乱、1000万人の死者 14年間
■回民蜂起、800万〜1200万人、15年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■レコンキスタ、700万人、781年間
■ロシア内戦、500万〜900万人、5年間
■三十年戦争、300万〜1150万人[信頼性要検証]、30年間
■デカン戦争、560万人、27年間
■黄巾の乱、300万〜700万人、22年間
■秦の統一戦争、200万人、9年間
■メフメト2世による征服、87.3万人、30年間
■文禄・慶長の役、100万人の死者、7年間
■十字軍、100万〜300万人[信頼性要検証]、196年間 >>21
当時世界の鉄砲の半分が日本にあって
戦国時代の武士団数十万が存在してたから
トップが優秀なら植民地化なんて不可能っての
は明白だった >>861
■ティムールによる征服、800万〜1700万人、35年間 どうせ奴隷となった現地でも従順な奴隷のままコキ使われてたんだろ
ほんと日本人は生粋のドM気質だよな、頭弱いわ >>862
沿岸部を砲撃して嫌がらせは出来ただろうけど、まともな武力侵攻できる国なんて歴史上見渡してもアメリカ以外には存在しない
モンゴルですら九州だけで蹴散らしてしまった キリシタン大名と結んで、武器や軍資金を援助する
大村純忠は、長崎の領地をイエズス会に寄進していたから
そこにスペイン艦隊を入れて、制海権をとり、九州だけを孤立させて切り取る
九州内の逆らう勢力にはスペイン艦隊が海から砲撃して、漁業や塩田をできなくして
そこへキリシタン大名軍が攻め入る
有力領主たちの子供をスペインに送って教育を受けさせ、次世代は心もスペイン化する
という計画を宣教師が書いてる。
秀吉がバテレン追放令を出してキリスト教と対立姿勢を見せると
宣教師ガスパル・コエリョは、有馬晴信に
スペインが支援するからキリシタン大名を糾合して、秀吉に対抗せよ
と働きかけたが、有馬晴信は応じなかった >>867
その宣教師はハナッから侵略を目的に布教してたんだねぇ。 宣教師ガスパール・コエリョ
ポルトガル出身で戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師。イエズス会日本支部の準管区長をつとめた。
1585年(天正13年)には宣教を優位に行いキリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めている。
さらに日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を持っていた(この案は彼だけでなく多くの宣教師が共有していた)
1587年(天正15年)、コエリョとの会食後、秀吉はポルトガル商人が日本人を奴隷として海外に売った等と
重臣達が出席した御前会議で、仏僧としてキリスト教と対立関係にあり宗教弾圧に動いていた施薬院全宗より讒言を受け、
布教責任者であるコエリョを詰問した。翌日に秀吉はバテレン追放令を発布した。
コエリョは大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出したが、
晴信は小西行長と同様に彼を嫌っていたので実現しなかった。その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めたが拒否された。 宗教なんて金集めのツールでしかない
馬鹿を騙して信仰心を植え付け洗脳
創価学会に現人神なんて典型的だろ
教祖様の現状すら伝えないクソ宗教とかあり得ないわ、北朝鮮かよ 創価は平和をまがりにも騙っていたのに
コロナ以降は完全に日本人潰しと営利目的に走ったからな
貧民と外国人の共済を目的にした宗教だけど残念だよ >>875
侵略した土地を改教して教会を建ててきただけなんで
だから朝鮮半島は白人に支配された土地 当時のキリシタン大名の連中って、奴隷貿易とか行われてるのわかっててイエス様〜、イエス様〜って言ってたのかよwww >>862
そのトップの一部が何故か教皇へ領地献上とかやりだして
危なくはあった >>878
なんでそこまで被れたかが不思議だよな
大名なんて当時としてはいい暮らししてただろうに ちょうど保守派ほどデマに騙されやすいってスレが立ってるな
朝鮮共産党機関紙の記者が出版社を創業
↓
左翼作家が日本人奴隷50万人の元ネタ「天皇のロザリオ」を出版
↓
潜伏キリシタン(キリシタン弾圧の歴史)の世界文化遺産に反発した作家とネトウヨが釣られる
↓
奴隷50万人説を史学者・歴オタがボコる
↓
バカが奴隷を5万人に減らしてやり直す >>870
上の方で100レス以上も投稿して宣教からの侵略はないって書いてる人いるけど、それならこういう流れは出来んよな >>870 >>882
スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた[18]。
私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[18]。
— 1586年、スペイン国王フェリペ2世
秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[19]。 >>884 >>871
サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明
との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢ではあったが、それ以前の1591年に原
田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する秀吉
からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門も
フィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉はフィリピン総督が服従せねば征伐
すると宣戦布告ともとれる意思表明をしており、豊臣政権はアジアにおけるスペイン
の脆弱な戦力を正確に把握していた。豊臣政権がフランシスコ会への態度を硬化させ
た原因は諸説提案されており、デ・オランディア(またはスペイン人船員)の口から
出任せの発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が真に受け
たかについての結論は出ていない[11]。 >>884 >>885
フランシスコ会の宣教師が米大陸に上陸したのは、コルテスによる1522年のメキシコ征服の翌年の1523年であり、侵略が完了した後に布教をしているため、フランシスコ会の宣教師が侵略を支援した事実はなく、また布教活動が侵略に重要な役割を果たした事実はない[11][12]。
米先住民に対するフランシスコ会の布教については、スペイン人の支配者に対する反乱に繋がる可能性が懸念されており、当初は否定的に受け止められていた[11]。
イエズス会が新大陸での布教を始めたのは1570年以降だったが、1500年のペドロ・アルバレス・カブラル率いる艦隊がブラジルに上陸してから70年経過した後のことである[13][14][15]。
宗教を絡めないイギリス、オランダ等によるアジアの植民地化の成功、コルテスによるアメリカ征服が宗教の介入なく軍事的になされたことからも、キリスト教の布教から文明の発達した国家の征服に乗り出すという想像上の政策の実現性は低く、またはそのような政策が実際に存在したかについても見解は分かれている[14][12][11]。1591年から1593年に秀吉はフィリピン総督に服従を迫っており、豊臣政権はアジアにおけるポルトガル、スペインの脆弱な戦力を把握していたとみられる。追放令でもポルトガル、スペインを軍事的脅威とはみなしてはいない。 秀吉が身内に何しようが関係ねえよ。検知と刀狩を行なったのは英断だった。それまで米測るマスなんて役人側と農民側が大きさ違ってたんだぜ。
それに秀吉政権下においては大規模な民衆虐殺は殆ど起きてないからな。 ■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人、199年間
■明清交替、2500万人、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人、8年間
■太平天国の乱、1000万人、14年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■メフメト2世による征服、87.3万人、30年間
■文禄・慶長の役、100万人以上、7年間
■十字軍、100万〜300万人[信頼性要検証]、196年間
戦争犯罪・虐殺
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
■マラーター王国のベンガル侵攻における戦争犯罪、40万人
■米比戦争、20万〜25万人
■マニラ大虐殺、10万〜50万人
■南京事件、1.3万〜40万人
病気・飢餓
■中華人民共和国大飢饉、1150万人〜5500万人の死者
■第二次世界大戦による病気と飢饉、1900万人〜2800万人の死者
■大日本帝国による飢饉と病気、813万人〜1493万人の死者
■日中戦争による飢餓と病気、500万人〜1000万人の死者 キリスト教の悪行は明確な事実なのになんで否定に必死なんだろうな >>888
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人
■グラグ制度、105万〜600万人
■北朝鮮における強制労働、40万〜150万人
■アシエンダ制における奴隷労働、17.3万〜201万人(1900-1920)
■大日本帝国による朝鮮人の強制労働、27万〜81万人
■バルバリア奴隷貿易、24.5万〜38万人 キリシタン狩りは正しかったと今ならハッキリわかんだね >>890
強制労働・奴隷貿易
ここでは、労働条件の悪さによる死亡、労働能力を十分に発揮できなかったことによる死刑、輸送中や職場での労働者の不当な扱いによる死亡について一覧を載せる。
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人
■グラグ制度、105万〜600万人
■北朝鮮における強制労働、40万〜150万人
■アシエンダ制における奴隷労働、17.3万〜201万人(1900-1920)
■大日本帝国による朝鮮人の強制労働、27万〜81万人
■バルバリア奴隷貿易、24.5万〜38万人
Japanese invasions of Korea (1592–1598)
Joseon: 1,000,000+ civilian and military deaths[4] (including 260,000+ troops killed or wounded)
20,000–100,000 captives[16]
157 ships[17]
Ming: ~36,000 killed[18][19] >>889
でないと隠れキリシタンで苦労しましたとか出来ないし
どう考えても自業自得と言われる >>865
これ見るとキリスト教の悪行とか、宣教師が日本人を奴隷にしてたとか
結構世界で知られてるのな
まぁアニオタ寄り何だろうけど https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
カラゴン事件(カラゴンじけん)とは、1945年7月7日から8日にかけて、ビルマのカラゴン村で、
陸軍第33師団歩兵第215連隊第3大隊(大隊長市川清義少佐、陸士53期)及びビルマ憲兵隊が、住
民を英印軍に通じたゲリラと判断し拷問・暴行を加え637人を殺害し、さらに家屋放火し女性を拉
致した事件。拉致した女性への性暴力も疑われた。1946年にBC級戦犯裁判(イギリス・ラングー
ン裁判)で裁かれた[1][2]。なお、文献によっては「カラゴン村事件」の表現も見られる[3]。 秀吉の評価が上がる話だな
貧農出身の彼だけに弱者への思いやりがあったのだろうな ポンティアナック事件
ポンティアナック事件(ポンティアナックじけん、インドネシア語: Tragedi Pontianak)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月23日から翌1944年8月にかけて、インドネシア西カリマンタンのポンティアナックで発生した、日本海軍の民政部および海軍特別警察隊による住民への弾圧事件である。
1944年6月28日の日本軍の軍事法廷により47名の死刑が確定し、即日処刑がなされたことが7月1日に現地民政部より発表されたがそれ以外にも少なからずの現地人が正式な裁判無しに処刑されたという。
裁判無しに処刑された者を合わせた犠牲者数については2千名から4千名と資料によってばらつきがあるが、当時海軍民政部で通訳として事件の取り調べを行った井関恒夫は1486名という記録を残している[1]。
(著者が命令書を受け取って現地海軍特警隊本部へ赴くと)逮捕された者達が座っている広間の前庭に、果物のジャムボの木が生えている。その木に一人の男が、爪先が届く程度の高さで吊り下げられていて、その男を一人の兵がこん棒を握って、思い切り殴っていた。
(中略)私と小林氏と二人で隊長の所へ行き、「隊長、何故あんなに殴るんですか?」 「あいつら悪い奴や、悪い奴は殴るんだ」と隊長は頭から決めつけた。 「調べもせんで殴るんすか?」
「悪い奴やから捕まえたんだ、悪い奴は殴っちまえ!」と当時隊長である上杉中尉の言葉であった。
— 井関恒夫(1987)『西ボルネオ住民虐殺事件―検証「ポンテアナ事件」』 p.27 アピ事件(アピじけん)とは、1943年10月10日の双十節を期して、日本軍占領統治下のイギリス植民地のボルネオ島アピで、華僑を中心とする現地住民が抗日武装蜂起を起こし、これを鎮圧した日本軍が反乱に加担したとして現地住民多数を殺害した事件[1]。
戦後、日本の法務省がまとめた資料では、討伐隊は暴徒約420名を逮捕し、取調べの結果320名を軍律会議に送り、軍律会議で220名が死刑、残る100名が懲役刑となったとされた[14]。
しかし、裁判を経ずに住民を処刑した事例が多数報告されていることから、事件に関連する被逮捕・処刑者数はこれよりも多かったとみられている。また、主謀者の裁判に関しても、死刑の判決を受けたのは郭益南以下数名とされ、他の170名余は判決によらず処刑されていたこと、最高刑者について処分に必要な陸軍大臣の認可を得たのは1944年1月下旬だったとされるが、処刑はこれに先立つ同月21日に執行されていたことが知られている。[15] 空想フィクションに釣られる人達多いな
当時の日本の宗教界が人を救えないほどに腐敗してたのは事実だし今もそう >>898
アピ事件では2000-4000人の巻き込まれた民間人が日本側によって殺害されたと記述がある
2,000–4,000 civilians massacred by the Japanese >>896
最近は豪農じゃねと言われてる
貧農ではないみたい とりあえず当時フィリピン周辺にいたポルトガルやイスパニアに5万の人間を運ぶ能力なんて無いよ >>843
そりゃ現代価値観持ってるから言えるセリフやぞ
中世戦国時代の人間がそんな価値観持ってる分けないやろw >>903
そもそも利用されてることも 知らないし
その情報すらもない連中なんだから
知れば反応が変わるのが当たり前 >>904
だからそれは現代の価値観をもってるから当たり前だと思うだけって言ってるんやぞ
中世戦国時代の人間の価値観からしたら全然当たり前じゃないからな >>905
それって過去の人間が馬鹿だっつってるようなもんじゃん
そんなわけないだろう >>906
人間は今も昔も馬鹿やぞ
価値観の違いを理解しないまま自分の価値観こそ絶対みたいなこと平気で言えるお前みたいな馬鹿が今でもおるやろ >>907
昔の 外国人の日記に日本人の知能の高さが書かれてるの知らないの こいつ本物の馬鹿やな
壊れたラジオそのまんまの奴久しぶりに見たわ 単に昔の人間の価値観が違うとか言ってるけど根っこは変わりやしねえよ
情報がないから判断できないだけじゃねーか単に
それにお前に昔の人間の価値観も持ってんのかよって逆に聞きたくなるわ >>904
宗教を統治の道具と考える倫理観は統治者独自の価値観
庶民は神様仏様がいるのが当然って価値観で
偉い坊主の言うことは全部真実って価値観 その情報の真偽を判断するのが当人の価値観そのものやろうに
当時の人間にそんなこと言っても堕落させる悪魔だのなんだのって話になるだけだわ
魔女狩りの歴史とかそうやろうにってかこいつID変えながらこんなアホなこと垂れ流し続けてんのな お上がきちんと言うのと 個人の言うのとではまるで違うけどな そのヘンテコ半スペガイジ相手にしても仕方ないぞ
なんか別の新興宗教にでもはまってるカルトだから会話は成り立たない やっぱこの変な半角スペース目立つよなwwwww
ID変えてんのなってそれ見て分かったしwwwwwwww 急にスレ失速してるなとは思ってたが
会話が成立しない妙なのが全レスし続けてるとこうなるのか >>7
あそこは中国からの官僚派遣が8割を占めていたのと、
毎年中国様に数百名の若い人間を差し出していたそうだから、
貿易船との窓口はなかったんじゃないかなぁ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘンドリック・ハメル
と思ったら、日本へ向かう途中に捉えられ、
朝鮮王の持ち物となり、給与が少なくなると物乞いし、
清王朝に直訴すると社会的抹殺で雄平され、何十年かして
半島を脱出して日本にたどり着いてその顛末を出版した外国人がいたww
あんまり変わってないなぁ現代のゴタゴタ韓国政府と。 そして明朝鮮侵略に
キリシタン大名が使われた
NHKの番組でやってた >>896
話がすげー飛ぶけど、でもその反面で
大阪でまだ差別が残っているのって地名が大阪のまま
だからだと思うんだよね
明治維新に伴って士族や武家が由来の地名の多くは
外されたんだよな、それが意識改革になったと思うんだよ
ところが大阪の命名って豊臣秀吉で一応武家なんだよね
大仙陵古墳、大山古墳から取って大山府に解明するのが良いと思うな >>1
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人、199年間
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人、6年間と1日
■明清交替、2500万人、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人、8年間
■太平天国の乱、1000万人、14年間
■ティムールによる征服、800万〜1700万人、35年間
■回民蜂起、800万〜1200万人、15年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■メフメト2世による征服、87.3万人、30年間
■文禄・慶長の役、100万人以上、7年間
■十字軍、100万〜300万人[信頼性要検証]、196年間
戦争犯罪・虐殺
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
■マラーター王国のベンガル侵攻における戦争犯罪、40万人
■米比戦争、20万〜25万人
■マニラ大虐殺、10万〜50万人
■南京事件、1.3万〜40万人
病気・飢餓
■中華人民共和国大飢饉、1150万人〜5500万人の死者
■第二次世界大戦による病気と飢饉、1900万人〜2800万人の死者
■大日本帝国による飢饉と病気、813万人〜1493万人の死者
■日中戦争による飢餓と病気、500万人〜1000万人の死者
※拡散は歓迎だぞ タイにいた山田長政が作った軍艦1隻で
スペイン、ポルトガル連合軍の無敵艦隊を10隻近く沈めたらしい
それも山田長政の軍艦は無傷
だったから
スペイン、ポルトガルも軍事的に大した力はなかったんだよな
日本の総力で戦っていればスペインを滅ぼせていたと言っても過言でない力はあった >>1
■第二次コンゴ戦争(1998)、380万人〜540万人
■第一次コンゴ戦争におけるフツ難民の虐殺、20万人〜22万人
■コンゴ自由国における残虐、300万人〜1300万人
強制労働・奴隷貿易
ここでは、労働条件の悪さによる死亡、労働能力を十分に発揮できなかったことによる死刑、輸送中や職場での労働者の不当な扱いによる死亡について一覧を載せる。
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人
■グラグ制度、105万〜600万人
■北朝鮮における強制労働、40万〜150万人
■アシエンダ制における奴隷労働、17.3万〜201万人(1900-1920)
■大日本帝国による朝鮮人の強制労働、27万〜81万人
■バルバリア奴隷貿易、24.5万〜38万人
死者数による政治的指導者一覧
ここでは、特定の政治指導者が原因となった死者数を載せる。死亡者は国策による国内の状況と、問題の指導者に対して忠実な軍隊による積極的な殺害の両方に起因している。
■毛沢東、1359万〜7000万人
■チンギス・カン等、2000万人〜4000万人
■アドルフ・ヒトラー、1351万人〜2549万人
■蔣介石、596万人〜1852万人
■ヨシフ・スターリン、330万人〜1500万人
■昭和天皇、300万人〜1400万人
■レオポルド2世、300万人〜1300万人(コンゴ)
■ポル・ポト、138万人〜340万人
■青年トルコ人(オスマントルコ帝国)、148万人〜281万人
■オマル・アル=バシール、106万人〜253万人
■金日成等、71万人〜350万人
※拡散は歓迎だぞ ようするに遠回しに五輪の海外メディア受け入れを縮小しろと言いたいのか?
でもなきゃ何の脈絡もなく急にこの話題出したただのアスペルガーだからな >>923
当時の日本に喜望峰経由でヨーロッパまで派兵できるような能力も兵站もないよ >>927
貿易利益の独占と兵站の拠点作りの為に
オランダがやったように次々とスペインの拠点を奪って行けばいいだけ >>927 >>923
当時の世界最強は軍事、財政状況や属国も含めるとオスマン帝国、東南アジア、インド、アフリカの航路で必ず衝突することになる >>930
まあでもスペインやオランダみたいな小さな国が覇権を得られる時代だったからね
日本の国力と比べるとミジンコ見たいなもんで当時の世界は
軍事的には大した力はなかったよね >>881
90年代以降の保守系は元共産党員も合流している。維新を除けば、保守系は経済左派・極左の巣窟 >>931
ポルトガルは覇権を得たのではなく、非ムスリム国家の傭兵として貿易拠点の使用を許可されていただけだぞ >>932
維新は売国ネオリベ党で全然保守じゃねーだろガイジ >>931
小さくない
植民地=領土だから超でかい
イギリスなんて地球上の大半を支配した大帝国だから
今の国土で考えてはいけない >>935
まあでも海上の制海権失うと植民地へ行く事も出来ず全滅する訳で
結局の所、軍艦の建造能力な訳でしょ
当時の日本の国力なら山田長政の作った軍艦1万隻とか作って余裕で覇権は取れたと思うけどね >>934
その理屈で言うと自民党も保守ではなくなるな
極左社会主義者の成れの果てが保守を自称しているが、政治思想の保守とは無関係どころかむしろ正反対の立場だな >>936
征服は金もかかるし貿易するにも市場もないと出来ない。下手をすれば『千年恨まれる』禍根を残すし良いことなんてあまりないぞ >>938
確かに今の欧米の人種対立は
何百年前のヨーロッパ人の征服によって生じた物だしな
先人の行った愚行が現代の人を苦ませている。 >>1
戦争・武力衝突
ここでは、高い推定値による死者数が10万人以上となる全ての戦争について一覧を載せる。これには軍人と民間人の両方の死者数が含まれる。直接、戦争によって死亡しただけでなく、それによって引き起こされた戦闘、病気、飢餓、虐殺、自殺、ジェノサイドによる死者も含む。
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人の死者、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人の死者、199年間
■明清交替、2500万人の死者、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人の死者、8年間
■安史の乱、1300万人〜3600万人、8年
■第一次世界大戦、1750万人〜4000万人、4年3ヶ月1週
■太平天国の乱、1000万人の死者 14年間
■回民蜂起、800万〜1200万人、15年間
■ティムールによる征服、800万〜1700万人、35年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■レコンキスタ、700万人、781年間
■ロシア内戦、500万〜900万人、5年間
■三十年戦争、300万〜1150万人[信頼性要検証]、30年間
■デカン戦争、560万人、27年間
■黄巾の乱、300万〜700万人、22年間
■秦の統一戦争、200万人、9年間
■メフメト2世による征服、87.3万人、30年間
■文禄・慶長の役、100万人の死者、7年間
■十字軍、100万〜300万人[信頼性要検証]、196年間
■第二次コンゴ戦争(1998)、380万人〜540万人
■第一次コンゴ戦争におけるフツ難民の虐殺、20万人〜22万人
■コンゴ自由国における残虐、300万人〜1300万人
※拡散は歓迎だぞ >>939
日本も他国の事を言えたものではないぞ
『日本喜び組』が海外で暴れるほど戦争の古傷が復活しかねないし、経済力が弱まり衰退中の日本に気づかう必要はもうない >>936
その植民地があってこその制海圏やろ
飲まず食わず寄港せずに延々動き続ける軍艦なんて現代にすらないぞ >>943
いや制海権あっての植民地
太平洋戦争でも日本軍は一時東南アジア全域を支配してたが
制海権を失ったらすぐアメリカに全部取られた 日本は明治時代帝国憲法で既に民主主義国家だったんだよね?
「万機公論に決すべし」っていうのが原則で天皇独裁という事はないし、議会制民主主義の体裁もとっていた。 >>937
その認識で間違ってないぞ
維新は売国ネオリベで自民党は戦後体勢維持の左翼だわな
ほんで民主党系列と共産党は大陸の犬の外国機関
日本の保守は滅びたよ >>944
植民地が奪われて制海圏を失ったんだよ
前後が逆だ 世界最古の民主政治が大和朝廷だっていう説をとりたい。
シラス政治という教えが神代から受け継がれていることは興味深い。 >>947
いや制海権が先だぞ
制海権を奪われ日本軍が補給出来なくなって餓死しまくって敗北し撤退の繰り返し >>942
征服による負の感情は日本や欧米だけのことでなく、中南米諸国間、アフリカ諸国間にもある
ムスリム征服はインドでは反イスラム感情を残した
ソ連は北方領土を強引に征服したが、日本人の対露感情の負の要因となっている >>1
戦争・武力衝突による死者
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人、199年間
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人、6年間と1日
■明清交替、2500万人、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人、8年間
■太平天国の乱、1000万人、14年間
■ティムールによる征服、800万〜1700万人、35年間
■回民蜂起、800万〜1200万人、15年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■メフメト2世による征服、87.3万人、30年間
■文禄・慶長の役、100万人以上、7年間
■十字軍、100万〜300万人[信頼性要検証]、196年間
戦争犯罪・虐殺による死者
■第二次世界大戦、2900万〜3050万人の死者
■日本の戦争犯罪、300万人〜1400万人の死者
■三光作戦、270万人以上の死者
■国共内戦、180万人〜350万人の死者
■マラーター王国のベンガル侵攻における戦争犯罪、40万人
■米比戦争、20万〜25万人
■マニラ大虐殺、10万〜50万人
■南京事件、1.3万〜40万人
病気・飢餓による死者
■中華人民共和国大飢饉、1150万人〜5500万人の死者
■第二次世界大戦による病気と飢饉、1900万人〜2800万人の死者
■大日本帝国による飢饉と病気、813万人〜1493万人の死者
■日中戦争による飢餓と病気、500万人〜1000万人の死者
※拡散は歓迎だぞ >>1 >>951
コンゴは現代でも紛争が絶えない
■第二次コンゴ戦争(1998)、380万人〜540万人
■第一次コンゴ戦争におけるフツ難民の虐殺、20万人〜22万人
■コンゴ自由国における残虐、300万人〜1300万人
強制労働・奴隷貿易
ここでは、労働条件の悪さによる死亡、労働能力を十分に発揮できなかったことによる死刑、輸送中や職場での労働者の不当な扱いによる死亡について一覧を載せる。
■労働改造制度、1500万人〜2700万人
■アラブ人の奴隷貿易、754万人〜7000万人
■オスマン帝国における奴隷制、1050万人〜1125万人
■グラグ制度、105万〜600万人
■北朝鮮における強制労働、40万〜150万人
■アシエンダ制における奴隷労働、17.3万〜201万人(1900-1920)
■大日本帝国による朝鮮人の強制労働、27万〜81万人
■バルバリア奴隷貿易、24.5万〜38万人
死者数による政治的指導者一覧
ここでは、特定の政治指導者が原因となった死者数を載せる。死亡者は国策による国内の状況と、問題の指導者に対して忠実な軍隊による積極的な殺害の両方に起因している。
■毛沢東、1359万〜7000万人
■チンギス・カン等、2000万人〜4000万人
■アドルフ・ヒトラー、1351万人〜2549万人
■蔣介石、596万人〜1852万人
■ヨシフ・スターリン、330万人〜1500万人
■昭和天皇、300万人〜1400万人
■レオポルド2世、300万人〜1300万人(コンゴ)
■ポル・ポト、138万人〜340万人
■青年トルコ人(オスマントルコ帝国)、148万人〜281万人
■オマル・アル=バシール、106万人〜253万人
■金日成等、71万人〜350万人
※拡散は歓迎だぞ >>1
日本の歴史は日教組と左翼歴史学者と文科省によって歪められたままで、それでウソを教わる子供たちが可哀そうだ。 幕末勤王志士、水戸天狗党と諸生党の戦いを想起させる幼児・妊婦まで公開処刑する凄惨な
虐殺劇の幕は徳川秀忠によって上げられた
日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年(慶長19年)の
キリスト教禁止令以降のことになるが、家康の禁教令は臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ
以心崇伝によって起草されたが、言い回しなど基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテ
レン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒
は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教
を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[20]。
徳川秀忠は元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、
キリスト教の本格的な宗教弾圧とキリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に
好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代の板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々
に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名
には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において
処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた。
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 >>954
虐殺劇の幕上げ後も国内での人身売買は続いた
江戸・明治時代
元和二年(1616年)江戸幕府は高札で人身売買を禁止、元和四年に
禁制を繰り返し、元和五年(1619年)12箇条の人身売買禁止令を発
布、寛永四年(1627年)正月にも人身売買禁止令をだすなど、人身
売買の禁令は豊臣秀吉以降も繰り返し行われた[59]。
江戸時代に勾引は死罪とされ、新規の奴隷身分も廃止されたが、年
貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)
は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般
化したものである。
江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているとこ
ろから、広義における農奴と規定する定説が認められている。本百
姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人等も存在し、家父長的
奴隷制として規定することがある。地方によっては家抱、門屋、庭子、
内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は水呑
百姓以下だったとされる。傍系家族・下人も含め名主家族そのものを
広義の農奴の一存在形態とする見解もある。
芸娼妓解放令が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規
制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽く「和売」が行
われていた。[60]明治から昭和にかけての人身売買について牧英正
は、農村の慢性的貧困、父権の強さが人身売買を発生させる温床と
なる構造上の理由を説明している。[61] 紫衣事件、猪熊事件
幕府の強硬な態度に対して朝廷は、これまでに授与した紫衣着用の勅許を無効にすることに強
く反対し、また、大徳寺住職・沢庵宗彭や、妙心寺の東源慧等ら大寺の高僧も、朝廷に同調して
幕府に抗弁書を提出した。
寛永6年(1629年)、幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽国や陸奥国への流罪に処した。
この事件により、江戸幕府は「幕府の法度は天皇の勅許にも優先する」という事を明示した。これ
は、元は朝廷の官職のひとつに過ぎなかった征夷大将軍とその幕府が、天皇よりも上に立ったとい
う事を意味している[1]。 >>1
家康は以心崇伝、家光は沢庵宗彭、秀忠も以心崇伝を一時期を除いて重用
武断政治3代は武家政権でもあるが宗教的には仏教を神道の上位とした
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。
邪宗門
「邪宗門」は、あくまで時の権力者が彼らから見て敵対していると感じら
れたり、都合が悪いとみなされたりした宗教にまとめてレッテルを貼るた
めの政治的な用語で、宗教用語や学術用語とは言い難い。
よく知られるところでは豊臣秀吉や徳川家康によってキリスト教がそれと
されたり、豊臣・徳川らの命令への非服従を貫いた日蓮宗不受不施派が
「邪宗門」とされた。また、宗門改などを通じた宗教統制に入らなかった
民間宗教、新宗教なども江戸幕府によって「邪宗門」に分類された。
檀家の除名
江戸時代には、檀徒が信徒としての責務を果たせないと判断された場合、寺は
寺請証文の発行を拒否することができた。事実上の檀徒除名であり、後日、
宗門人別改帳からも削除されて無宿や非人となり、社会生活から除外された。 遠藤周作はキリシタンが迫害を受けたというところだけ強調してるね。 >>1
アピ事件、ポンティアナック事件、カラゴン事件は「日本では忘れさられた」事件だ
ポンティアナック事件(ポンティアナックじけん、インドネシア語: Tragedi Pontianak)は、第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)10月23日から翌1944年8月にかけて、インドネシア西カリマンタンのポンティアナックで発生した、日本海軍の民政部および海軍特別警察隊による住民への弾圧事件である。
1944年6月28日の日本軍の軍事法廷により47名の死刑が確定し、即日処刑がなされたことが7月1日に現地民政部より発表されたがそれ以外にも少なからずの現地人が正式な裁判無しに処刑されたという。
裁判無しに処刑された者を合わせた犠牲者数については2千名から4千名と資料によってばらつきがあるが、当時海軍民政部で通訳として事件の取り調べを行った井関恒夫は1486名という記録を残している[1]。
(著者が命令書を受け取って現地海軍特警隊本部へ赴くと)逮捕された者達が座っている広間の前庭に、果物のジャムボの木が生えている。その木に一人の男が、爪先が届く程度の高さで吊り下げられていて、その男を一人の兵がこん棒を握って、思い切り殴っていた。
(中略)私と小林氏と二人で隊長の所へ行き、「隊長、何故あんなに殴るんですか?」 「あいつら悪い奴や、悪い奴は殴るんだ」と隊長は頭から決めつけた。 「調べもせんで殴るんすか?」
「悪い奴やから捕まえたんだ、悪い奴は殴っちまえ!」と当時隊長である上杉中尉の言葉であった。
— 井関恒夫(1987)『西ボルネオ住民虐殺事件―検証「ポンテアナ事件」』 p.27 >>13
今は逆に自民党や安倍という売国の為に生きてるような連中が、日本を二束三文で売りさばこうと必死になってるからな
クソ外国人から日本を必死に守って来た秀吉や家康が、泣いてるか憤慨してるわな >>949
じゃあ順番に説明してやるな
制海圏を得るには強力な艦隊が必要よな
で、この強力な艦隊って何よりもまず軍艦の数が必要よな
次に強力な艦隊を作っても維持しなきゃ制海圏なんて維持できんよな
そして次に維持するには何が必要かって、軍港と乗組員を駐屯させる基地が必要よな
でさらに軍港基地と兵坦を維持するには防衛のための兵と大量の食料と武器弾薬が必要よな
そんな基地はどうやってどこに作るかって、そりゃ植民地だよ
ヨーロッパは数百年かけてその植民地を広げて、軍港と中継基地を作って、そこに制海圏を構築したんだぞ
船だけあっても何もできんわ
日本が同じ年数かけて同じように制海圏を広げてぶつかったのが世界大戦な
わかったか? >>268
ね
今もキリスト教徒でいる連中は頭がオカシイんじゃないかと思うの
イスラム以上に危険な宗教だよ >>946
ごく一部のマイナーなグループの内部でだけで通用しそうな定義だな
世間一般、メディアでも自民党は保守と見られてると思うぞ >>905
俺もあんたに1票
当時の教育的背景を考えれば、
自分で見てもいないものを根拠に簡単に信仰を変えられるわけがない >>964
じゃあお前はそう言ってればいいぞ
維新が売国ネオリベ党なのは変わらん 明治維新に廃仏毀釈という宗教弾圧があったが、見方を変えると神道や新興宗教、民間宗教の反撃でもあるな
島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府は宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧
は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由
が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度は邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であ
り、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰
を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教、新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、
檀家を宗門人別改帳から削除し無宿や非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。 当時は戦国時代で、敵の捕虜とか村人をさらって奴隷にするのが普通だったんだよ
ヨーロッパに送り出されるのが可哀想って感覚は、敵でも同じ日本人って感覚があったんだろうな
アフリカの場合、部族抗争の捕虜とか積極的に奴隷として輸出して儲けようとしてたんだから、
えらい違いだ 古今東西の戦争の死者数を見る限りだとアジアもそれなりにやらかしてるぞ
戦争・武力衝突
ここでは、高い推定値による死者数が10万人以上となる全ての戦争について一覧を載せる。これには軍人と民間人の両方の死者数が含まれる。直接、戦争によって死亡しただけでなく、それによって引き起こされた戦闘、病気、飢餓、虐殺、自殺、ジェノサイドによる死者も含む。
■第二次世界大戦、6000万人〜1億1800万人の死者、6年間と1日
■モンゴル帝国による征服、3000万人〜5700万人の死者、199年間
■明清交替、2500万人の死者、65年間
■日中戦争、2000万人〜2500万人の死者、8年間
■安史の乱、1300万人〜3600万人、8年
■第一次世界大戦、1750万人〜4000万人、4年3ヶ月1週
■太平天国の乱、1000万人の死者 14年間
■回民蜂起、800万〜1200万人、15年間
■ティムールによる征服、800万〜1700万人、35年間
■アメリカ大陸植民地化、840万人〜1億3000万人の死者、199年間(死亡者数の推定値は、コロンブス以前の先住民の人口規模についての統一見解がないために異なっている。死亡率の90%は主に病気によるものである[注釈 1]。)
■レコンキスタ、700万人、781年間
■ロシア内戦、500万〜900万人、5年間
■三十年戦争、300万〜1150万人[信頼性要検証]、30年間
■デカン戦争、560万人、27年間
■黄巾の乱、300万〜700万人、22年間
■秦の統一戦争、200万人、9年間
■メフメト2世による征服、87.3万人、30年間
■文禄・慶長の役、100万人の死者、7年間
■十字軍、100万〜300万人[信頼性要検証]、196年間
■第二次コンゴ戦争(1998)、380万人〜540万人
■第一次コンゴ戦争におけるフツ難民の虐殺、20万人〜22万人
■コンゴ自由国における残虐、300万人〜1300万人
※拡散は歓迎だぞ >>949
ww2で日本が制海圏を失ったのは制空圏って概念が生まれてそれを先に相手に構築されたから
航空機の勝負に負けたんやな 日本のアイヌ民族浄化政策はかなり悪質だぞ
「知床日誌」文久3年(1863)出版
http://www.lib.nara-wu.ac.jp/nwugdb/k024/html/p028.html
見る影もなく破れて只肩に懸る斗のアツシを着如何にも菜色をなしける
病人等杖に助りセカチ男子 カナチ女子等大勢其汐干にあさりけるか我等を見て皆
寄来りし故其訳を聞に舎利アハシリ両所にては女は最早十六七にもなり夫
を持へき時に至れはクナシリ島へ遣られ諸国より入来る漁者船方の
為に身を自由に取扱ハれ男子は娶る比に成は遣られて昼夜の差別
なく責遣ハれ其年盛を百里外の離島にて過す事故終に生涯無妻にて
暮す者多く男女共に種々の病にて身を生れ附ぬ病者となりては働稼の
なる間は五年十年の間も故郷に帰る事成難く又夫婦にて彼地へ
遣らるゝ時ハ其夫は遠き漁場へ遣し妻は会所また番屋等へ置て
番人稼人皆和人也の慰ミ者としられ何時迄も隔置れそれをいなめは
辛き目に逢ふか故只泣々日を送る事也如此無道の遣ひ方に逢ふか
故に人別も寛政中ハ弐千餘文政五壬午改三百十六軒千三百弐十六人安政五戊午改百七十三軒七百十三人 有しか
今は漸々半に成しそうたてけり此儘にては今廿年も過れは土人の種も
如何と案しける由等話其故爰には丈夫の者なき故猟漁等出来難く
其日其日の烟も立難きか故毎日此汐の干を待ては小貝を拾ひ汐満来れハ
野山ニ入て草の根等堀て辛き命を繋く事とそ聞に其憐さまし
けれは我等か貯への糧米を聊かつゝ分ち與へ来るやタンネウシ沙地
此所長き沙地なれは号く過てバナ人家十五軒の岬を廻りて川に入るに巾三十余間し
はしにて舎利運上屋へそ着し一同鎮守杜に至りエナヲ削りて山海の神
を祭り途中の安を賀し車座に一樽を開き詰合宮崎氏へ濱にて >>971
奄美群島での過酷な取り立てもそうだが、日本人は植民地経営に向いてないと思うぞ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/whis/1388281079/
346世界@名無史さん2018/05/11(金) 09:52:09.760
「知床日誌」 松浦武四郎
幕末の探検家・松浦武四郎の手記によると、アイヌ女性は年頃になるとクナシリに遣られ、そこで和人達の慰み物になり、
人妻は会所で番人達の妾にされたと書かれている。夫は漁場で酷使され、妻は番屋で慰み女とされ、子供が出来た場合、和人達はそれを突き殺し、押し殺す。
日本へ反発できなくなった大きな理由に人口減少がありますが、
その大きな原因は、女達が日本人の慰み者にされたこと、性病を含む伝染病を移されたこと、生活基盤を失わされたこと、などがあげられます。
松浦武四郎によると、夫婦は仲を引き裂かれ、男だけクナシリ送りとなり、そこで昼夜の別なく奴隷労働に使役され、
斜里、網走では、女は年頃(16・7)になるとクナシリ(この当時、現地のアイヌは酷使によって全滅していた)に連行されて、
諸国からきている和人に体を弄ばれる。男も年頃になると連行され、働ける間は遠い土地で酷使され、故郷に帰ることが許されるころには既に老人となっており子供を残すことができなくなった。
和人によって妊娠させられた妻は、唐辛子汁を飲ませる等で堕胎させられることにより、
子供を残せない体にされた。さらに和人に性病を移されることなども手伝い、クナシリ・メナシ地方のアイヌ人口は激減した。
松浦によると無理やり妾にされた挙げ句に性病をうつされ、顔が崩れて悪臭を放っているアイヌが山にたくさん居たとある。 >>962
それは違う
植民地で軍事物資の生産は行わないから
制海権を奪われると補給が途絶えてしまい戦争継続出来ない
補給が途絶える=拠点を失うのと同意義な訳
太平洋戦争でも同じ事が起こった >>970
制空権も含めて制海権だな
戦闘機は空母で持ってくる訳だから >>953
日教組の組織率は2割程度で教員の中では少数派で、地域によっては創価学会系の教員もそれなりにいるぞ >>11
そうだね
日本人は町民男性のみならず子女に至るまで教育が行き届いていたので
口先で騙して奴隷目的で海外へ連れ出す事が困難だったらしいしな スペインは16世紀の7大学(1550年代に5大学)、17世紀に13大学を中南米に作ってる
教育システムからして日本に差をつけているぞ アイヌの民族浄化や奄美群島の原住民への過酷な措置と比べるとかなりましに見えるぞ
ブルゴス法
ブルゴス法は1512年12月27日、スペインのカスティーリャ王国ブルゴスで公布された。アメリカ大陸におけるスペイン人の行動、特に西インド諸島の先住民(カリブの先住民)に対する行動を規定した最初の成文化された法律であり、先住民への虐待を禁じ、彼らがカトリックに改宗することを期待した。この法律はカスティーリャの慣習法が完全には適用できない西インド諸島をスペインが征服後に制定された。
ブルゴス法の適用範囲は、当初はヒスパニオラ島に限定されていたが、後にプエルトリコとジャマイカにも拡大された。
労働条件・規則
ブルゴス法ではエンコミエンダでの労働条件や規則を以下のように一様に規定している。
カリブ先住民に対してキリスト教を理解させ、強制でなく自発的な改宗を促す(脅迫等による一過性の改宗でなく、恒久的なキリスト教の浸透)
カリブ先住民に決められた広さの住居の建設と提供、与えられた土地を含む財産の保証をする
カリブ先住民に対する侮辱や虐待を禁止する
児童労働の禁止(及び教育中の労働禁止)をする
出産後3年間の育児休暇を保証する
結婚した先住民女性に対し労働を強いることを禁止する
未婚の女性を両親から離すことを禁止する
5ヶ月の労働後に(連続した)40日間の休みを提供する
1日に十分なパン、野菜、肉、魚を提供する
酋長・族長の家族を優遇する 日本がフィリピンを侵略すれば良かったというものがいるが、朝鮮と同じく回復困難な遺恨をフィリピン人に残すことになったぞ
鉱山などの一部の利益がでる土地を除き、フィリピン、アステカ、インカでは先住民の族長や酋長を貴族として、間接統治はそれなりにうまくやっていた
フィリピン人先住民の支配階層は貴族(プリンキパリア)として、スペイン帝国の一員になった
プリンキパリア(貴族階級)[1]とは、スペイン領フィリピンのプエブロの支配者であり、
通常は教育を受けた上流階級のことで、後に市町村長と呼ばれるようになったゴベルナ
ドルシーリョからなる。保安官、判事、地区を治めるバランガイ長または市町村長、知事、
前ゴベルナドルシーリョ、および任期中の優良な市警、将校から構成されていた。
マウラ法以前は、この上流階級には、スペイン王室への税金を免除された者だけが含まれ
ていた[2]。植民地時代の文書では、納税をする者(「デ・パゴ」)とは対照的に、彼らを
「de privilegio y gratis(特権と自由)」と呼んでいた[3]。彼らはスペイン領フィリピン
の真の貴族であり[4]、古代ローマの貴族階級にほぼ匹敵するものであった。プリンキパレス
(プリンキパリアの構成員)は、植民地時代以前のビサヤ、ルソン、ミンダナオのバランガイ
と呼ばれる小さな古代の社会単位の領主だけでなく、王国、ラジャナート、部族連合、
マギノーの支配階級からその起源を辿ったものである。この階級のメンバーは排他的な特権
を享受しており、プリンキパリアだけが選挙権を持ち、公職に選ばれ、ドンやドニャの称号
で呼ばれることが許された[5]。
先住民の貴族とインディアス法
フィリピンでの間接統治制度を導入するために、フェリペ2世は1594年6月11日の法律で、以前の
王族や貴族が享受していた統治の栄誉や特権を保持させ、保護するように命じた。またフィリ
ピンのスペイン人総督には先住民の貴族を大切に扱うように命じた。王はさらに、先住民はこれ
らの貴族に対して、征服前に住民が地元の領主に与えていたのと同じ敬意を払うべきだと命じた[7]。
フィリピンのインディアンの族長たちが以前より悪い状態になるのは正しくない。むしろ、彼ら
の愛情を得て忠誠心を保つような待遇をすべきであり、神が彼らを神の真の知識に呼び寄せるこ
とによって彼らに伝えた霊的な祝福とともに、一時的な祝福が加えられ、彼らが満足して快適に暮
らせるようにすべきである。そこで、我々は、これらの島々の統治者に、彼らに良い待遇を与え、
我々の名において、彼らがかつて領主であったインディアンの統治を委ねるよう命じる。その他、
総督は酋長に正当な利益を与えることを確認し、インディアンは彼らの異教の時代に行ったように、
認識として彼らに何かを支払わなければならないが、これは我々に支払われるべき献上品や、彼ら
のエンコメンデロスに関係するものを損なうものではない
—フェリペ2世の勅令、1594年6月11日[8][9]
この法律によってフィリピン人貴族はスペイン王のエンコメンデロス(管財人)にもなり、スペイン
王はこれらの貴族を通して間接的に国を支配した。この規定に付随して、先住民のカシケに関するす
べての既存の規定、法律がフィリピンのプリンキパリアにも適用された。彼らの領地はスペイン帝国
から自立し属国化したバランガイとなった[7] >>980
○日本がフィリピンを侵略すれば良かったというものがいるが、朝鮮と同じく回復困難な遺恨をフィリピン人に残すことになるぞ >>954
江戸時代、寺請制度によって幕府に認可された宗教以外の信者(一部仏教、民間宗教、新興宗教)は魔女狩りされ、刑罰をうけたり、下人にされたり強制改宗させられたのと比べるとどうだろうか
サブリミス・デウス
サブリミス・デウス(ラテン語:Sublimis Deus[1]、またはSic Dilexit[2] )は、1537年6月2日に教皇パウルス3世が公布した勅令。西と南のインディアンと呼ばれるアメリカ大陸の先住民とその他のすべての人々を奴隷にすることを禁じている[3]。アメリカ先住民は、たとえ異教徒であっても、自由や私有財産の権利を持つ完全に理性的な人間であると述べている。
内容
『サブリミス・デウス』の文言は、広範に適用される宣告だった。アメリカ先住民だけでなく、すべての未知の民族に適用されるよう構成されている。主な箇所は以下の通りである。
不肖ながら、地上で主の力を行使し外にいる主の群れの子羊たちを、我々に委ねられた群れに引き入れよう
と全力で努力しています。しかしながら、インディアンは真の人間であり、カトリックの信仰を理解する能
力があるだけでなく、我々の情報によれば、その信仰を受けることを強く望んでいると考えます。これらの
弊害に対する十分な救済策を提供したいので、我々は、これらの我々の手紙、または公証人によって署名さ
れ、教会の高官の印章で封印された翻訳は、原本と同じ信用を与えることを定義し、宣言する。これまでに、
またはこれからいかなる反対があったとしても、前記のインディアンおよび、後にキリスト教徒によって発
見される可能性のある他のすべての人々は、たとえイエス・キリストの信仰を持たない者であっても、決し
て自由や財産の所有を奪われない。また、彼らは自由かつ合法的にその自由と財産の所有を享受することが
でき、またそうすべきであり、いかなる形でも奴隷にされてはならない。これに反することが起こった場合、
それは無効であり、何の効果も持たない。
— パウルス3世『サブリミス・デウス』 西欧ではこの当時、食事にフォークやスプーンを使う習慣がまだ定着していなかった
え? >>982
江戸幕府の仏教は高僧の念願だった寺請制度が叶って、他宗教を魔女狩り、刑罰・拷問、強制改宗、下民にして奴隷化をしていたのに反省を聞いたことがないぞ 江戸幕府の仏教は高僧の念願だった寺請制度が叶って、他宗教を魔女狩り、刑罰・拷問、強制改宗、下民にして奴隷化していたのに反省の言葉を聞いたことがないぞ >>974
食料なんかも立派な軍事物資やぞ
というか世の中で軍事物資に化けない生産物はほとんどないぞ
お前ってガンダムとかのエース一人が戦況を覆す系のアニメ戦争で考えてるやろ
現実の戦略って>>962みたいな感じやぞ 江戸時代の寺はアイヌ民族浄化政策に反対表明や苦情の申立もしてないし、むしろ民族レベルのいじめや虐待に加担してそうだぞ >>975
戦闘機の拠点は地上基地がメインだぞ
空母だけで運用できるわけねーだろ
空母打撃群とかで調べてみたらいい
空母打撃群はミサイル艦の戦略ミサイルを遠隔地で使うためのもので
それを守るために空母と艦載機があって更にその空母を守るために護衛艦やら潜水艦やらが群れ作ってんだ
そこまでやって空母周辺しか守れないんだわ >>974
その補給をたつための軍艦はどこで補給すると思ってんの? 島津家の家紋て十字架だけど
共謀してたから秀吉に攻められたのか
大河ドラマにならないわけだw >>974
お前太平洋戦争での戦略失敗まともに理解してないだろ
本土空襲しまくったB29も護衛戦闘機も空母で運んだとか思ってる?
あれ全部地上基地から発進してんだぞ >>1
江戸幕府の仏教は高僧の念願だった寺請制度が叶って、他宗教を魔女狩り、刑罰・拷問、強制改宗、下民にして奴隷化していたのに反省の言葉を聞いたことがないぞ 江戸時代の寺はアイヌ民族浄化政策に反対表明や苦情の申立もしてないし何をしていたのか
むしろ民族レベルのいじめや虐待に加担してそうだぞ このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 3日 1時間 49分 33秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。