【JBP】元寇での幕府軍の一騎打ちや神風は八幡愚童訓の創作か 大正期に疑義も皇国史観にかき消される [みの★]
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鎌倉時代を代表する歴史的な戦いといえば、1つは「承久の乱」(1221年)、そしてもう1つは、元軍(モンゴル軍)が九州に侵攻してきた「元寇」(1274年、1281年)で間違いないでしょう。
特に後者の元寇は、中世日本における唯一の国際戦争であり、規模も近現代以前では最大級と言っていいほど大規模なものでした。なんといっても、中国大陸を支配するまでになった強大な軍隊が日本を攻めてきたのです。日本社会に与えた影響はきわめて大きく、後の鎌倉幕府崩壊の遠因にもなったと指摘されています。
そんな日本人ならだれもが知る元寇ですが、近年に入り新しい発見や新説の発表が相次いでいます。それらの研究の進展に伴い、これまで半ば常識と見られていた定説が大きく覆される事例も出てきました。
そこで今回から3回にわたり、歴史学者である服部英雄氏(九州大学比較社会文化研究院名誉教授)の著書『蒙古襲来』(山川出版社)を参考資料として、鎌倉時代の日本を揺るがした元寇について取り上げたいと思います。
初回の今回は、1274年に起きた「文永の役」こと第一次元寇に関して、日本の武士の一騎打ち、そして元軍の残虐行為の有無を検証します。
…続きはソースで。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65695
2021年6月21日 でも何らかの方法で押さえ込んだのは事実なんだけどな
当時強かった中華勢でも手に負えなかったのにどうやったんだろうね スタートの日本書紀から捏造の歴史
事実と向き合えないダメ民族なんだよ >>1
それならチャイナ側の資料で否定されてるはずだろ >>2
朝鮮と組んだから法則が発動して自滅したんだろ。 お前らが知ってる戦国武将の逸話の大半が江戸時代に創作された講談とかで
一次史料なしだらけ >>1
カミカゼがもし創作だったら
鎌倉武士が実力でモンゴルの大軍を追い返したって事じゃん
強すぎワロタ 日本の長弓の威力くらいしか思いつかない
他に優勢な武力が無い >>1
まーた朝鮮人のねじ曲げ捏造か
いい加減逮捕したらよ 境仁が冥人になって独りで蒙古軍斬りまくったんだろ?知ってるよ。 >>2
日本の海岸には大軍を上陸させるのに適した砂浜がほとんどないから
効果的に撃退できるんだよ 少なくとも一騎討ちみたいなのは嘘だろな
まず弓だろうし >>4 中国側の史料に一騎打ちなど記録されていないんだろ。 >>2
普通に考えて陸戦を得意としていたモンゴル軍が船に乗って海を越えて見知らぬ土地でまともに戦えるとは思えない 鷹島の大虐殺はあっただろ
捕虜に捕虜の腕を食わせるやつ そんな時代でさえあれなんだぜ?
卑弥呼なんてぜってえあやしいぜ?DQNのバーベキューの川流れの集団が
高床式倉庫の前にハイになって歌い踊ってたダンシングクイーンに酔ってただけだぜ?
しかも数百人どころか数十人レベルの川流れヤバい系の入れ墨集団!
それがみんなで話を盛りまくって「卑弥呼が来てん!聴衆がぶあーなって
何万ものやつらがうわああああなって!」系の盛りまくり。
それが魏志倭人伝のさえないヲタク編集者の耳にはいっちまって、さらに
脳内で盛りまくりでハアハア恥ずかしい汁を貴重な史料に垂らしながら >>12
なおモデルの宗助国は討たれてしまったんだよな >>18
強かったのはもちろんあるが防衛戦なので地の利がある
モンゴルのような平原で戦ってたら普通にボロ負けしてただろう 日本の鎧兜を身に付ければ、敵軍の弓矢を
お辞儀をして角度を付けるだけで弓矢を無効出来る
乱戦時では、両手剣の持久力で剣盾装備の敵軍を無双 言語が違う相手に口上を述べ合って一騎討ちなんてするわけないだろ やっぱり大正って奇跡の時代だったんだな
天皇は池沼だったみたいだけど 向こうの合流作戦ミスで海上待ちの時間が多くなりすぎて台風に遭遇した感じじゃないの >元軍の残虐性を示すエピソードとして
>(中略)
>「手に穴を開けて数珠つなぎ」という描写は、
>やはりオーバーではないでしょうか。
証拠なしにオーバーとかよく言うよ
あと元軍ではなく主体は高麗軍だろ >>2
今のトレンドは
・蒙古が得意とした集団戦が上陸戦で全く出来なかった
・鎌倉武士は実は集団戦もどきしてた
・鎌倉武士って実は対弓特化集団で相性が良かった ホルホルしようとして結果として非ホルホルになった皇国史観w >>2
だから普通に戦争してたって話でしょ
↓この説明の仕方聞いたことない? 真っ赤な嘘だったって事
>当時の日本の戦は、武士団の大将同士が戦闘前に名乗りをあげて一騎打ちで戦うスタイルだったのに対し、元軍は複数人がまとまって戦う集団戦法を採っていたという説明です。 朝鮮忍び?🥷˗͜͡ˏ͜͡ˋ͜͡ ͜͡ˎ͜͡˗͜͡ (͜͡ (͜͡ ͜͡˘͜͡•͜͡ω͜͡•͜͡˘͜͡ ͜͡ ˗͜͡ˏ͜͡ˋ͜͡ ͜͡ˎ͜͡ˊ͜͡˗͜͡ >>25
しかも弓を構えた姿勢でもそれが有効なんだよな
鎌倉武士の大鎧はよく考えられてるわ >>6
現代の作品でも司馬遼太郎に影響されている人多いよな
べつに司馬遼太郎は史実ですなんて言ってないけど
史実だと思っちゃう人が多いと何がホントか
わからなくなっちゃうんだろうな 皇国を侮辱するのかこの教授は
皇紀2681年に何をほざくか国賊が 阿波可汗いるぐらいだから
大陸とは仲よしなんだよね?
👑👱♂🐴💨 >>28
大正天皇は病弱だっただけで和歌も詠んで頭はしっかりしてた >>38
地理は日本側が断然知り尽くしていたから敵の上陸した場所の情報を得てから即座に両軍がぶつかる場所を把握して拠点確保に動いたのも大きいしな 元軍はジャワ遠征も失敗している
まず、渡海遠征が無謀だということ 家臣団ごとに戦うし、小さな家なら単騎に供回りの徒だけ
一騎打ちとあまり変わらない風景でしょ じゃ、何で唐の人は
用明天皇=阿毎と言いきったの?
勘違いする様な日本人の
🇯🇵👑👱♂🐴💨王様が大陸にいたんじゃないの? >>44
当時は必要なら供回り外して騎馬武者だけで編成組んで弓構えながら突撃して射撃し離脱する戦法を行ったみたいだな 鉄砲の普及で、お辞儀をして弓矢を無効化する鎧文化も変化して
大鎧が衰退していったのである、日本のお辞儀文化は鎌倉時代ぐらいに
戦場で武士の間で流行したのがきっかけかも知れないよ。 >>2
中華勢ではなくチョン族だぞ
攻めてきたのは 壇ノ浦で一応艦隊戦みたいなの経験してるし、一ノ谷なんて情報収集したうえでの奇襲作戦成功させてるし、日本語通じない相手に正面からは無いな。
でも、ベトナム版元寇のほうが面白い。 >>47
似たような物は当時のイスラム教国にもあったで この手の創作はガチで有効だからなぁ
韓国が慰安婦ガーしてんのも、中国が南京や天安門や香港でやってることも、
公式記録しか残らない100年後を見据えてのことだしな 当時の元軍の残虐さは大陸でも有名だっただろ
日本相手にはしてませんでしたとかいうんじゃないだろうなこいつ >>33
まるっきり嘘ってわけでもない
ヒャッハーじゃないんだから、武力行使の正当性を担保するため名乗り口上は必要
ってか
現代でも接近してきた外国軍に対して
「やぁやぁ、我こそは日本国航空自衛隊なり云々」って名乗り口上やってるだろ 鎌倉武士のホーム戦だぜ、ハットトリックに決まってる。 >>17
草原のモンゴルに船が作れるわけないしな
船は朝鮮や中国に作らせたっていうから
船が不出来で途中で勝手に沈んだんだろ
まあそれも含め神風と言えなくもないかな モンゴル軍の精鋭弓騎兵でも、対弓戦闘に特化した
鎌倉重弓騎兵には、馬を倒さない限りモンゴル騎兵でも勝てない 鎌倉武士みたいな基地外軍団が一対一なんてやるわけないだろ >>10
300隻の船に乗ってきたってせいぜい3万がいいとこ
各地から鎌倉武士が集まってきたらひとたまりもない
戦闘員で固め、補給が続く陸を、上陸戦で成功するわけがない
現に博多すら取れずに元軍はスゴスゴ帰るほかなかった >>4
中国側の記述は武士が集団で攻撃してきたとある この頃の日本人はガチの戦闘民族だからなあ
エンジョイ&エキサイティングが心得 >>47
史実の三国志にも普通にある。小説やゲームで武力高い馬超の一騎討ちは壮絶。
槍で戦ってたら槍が折れてしまい、折れた槍を腹に突き刺し馬超ごとぶん回す相手武将。それでも生き残る生命力の塊な馬超。
圧勝した閻行は小説に出れてない。 俺が推測するに、日本の勝因は漁師船による、夜間のゲリラ戦だろう
一部の漁師は異常に夜目が効くし、水上戦は源平合戦みても分かる通り日本のお家芸
レーダーが実用化されるまでの緒戦
日本の駆逐艦夜襲はやたら強くてアメリカは震え上がった
こういう民族の伝統芸は意外と変わらないもの
ただ、当時の政治的には鎌倉武士が強かったことにしないと困るから 白村江の戦いの後から
外国勢力の九州侵攻に備えてたことが勝因
あと鎌倉武士は領地とりあう戦闘に慣れてて
バーサーカーも少なくなかったことも勝因 東路軍は普通に朝鮮人たちだし
江南軍はほとんど南宋の敗軍の兵達だったんだろ?
棄民もいいところじゃないか >>63
総数 540,000〜556,989人および江南軍水夫 一騎打ちは国内でも雑兵や相当な格差がある
武将相手にはやらなかったんだろ?
元との戦闘なんか秒でアイツら言葉通じねえ人間じゃねー
やっちまえヒャッハー!だろうよ まぁ武勇を示すとか、戦局を動かす的なものではなく、武功を認知してもらうためのパフォーマンスだからな 元から恩賞をあんまやれないから神風を強調したってよく言われてただろ。
簡単に撃破できるならわざわざ不安定で波が荒れてる海上になんかとどまらない。さっさと上陸して拠点作ってる。 そもそも鎌倉重弓騎兵は、敵軍の指揮官を討ち取る為の
特殊部隊装備だから、モンゴル軍の全盛期のモンゴル弓騎兵でも勝てない 蒙古軍がきたのは台風がこない11月だからな
ふつうに自力で追い返したんだろ たとえちょっと占領したって大雪で無理だろw
世界トップクラスの豪雪地
南は雪降らない事知らなかったから ジャップはいつも都合の良いように歴史を書き換えてるよね 少弐資能、少弐経資、少弐景資が讃えられるべきなのに
なぜか北条時宗の手柄になっているのはなぜだ? 元軍の副将クラスまで討ち取ってたよな。台風じゃなくて >>79
文永の役はそう
弘安の役は夏だから普通に台風だろうな >>30
またネトウヨ史観か
文永の役も弘安の役も主力が高麗軍にだった事実はない
元史、高麗史ともに確認できない
主力が高麗軍というならどの資料に書かれているか言ってみろよ 元寇の話が嘘でも問題ない
日本で問題なのは会津プロパガンダだろ
現在進行形の反日プロパガンダだぞオマエら >>83にも名前の出てる少弐景資に射落とされた
けど負傷したけど生還したから討ち取られてはいない >>75
東路軍は精鋭って事か
精鋭なら何とかなるだろうと兵糧現地調達を命じて飢饉の朝鮮半島へオウン焦土作戦か >>71
鎌倉武士もかなり土人みたいな振るまいが記録されてるけどな >>2
日本に攻めて来た元軍の主力はその中華勢や朝鮮勢だから別に不思議でもなんでもないけどな。
地形に助けられたとはいえ、陸路で攻めて来た元軍を三度も撃退した陳朝の方が何気にすごい。 当時の航海レベルからして元側は帰るための余力も残さなければならないから、十二分に戦えなかっただけやろ >>70
大体は一点上陸ではないので、1000対1000程度で戦う
それが何か所かで、その繰り返し 惨敗続きで四日で太宰府辺りまでおしこまれたんだけど
大陸でもうさすがにようやく収束した苦労したって流行病が
まだ絶賛流行中でね 気がついてドン引きして船に帰っていった 長弓もった弓騎兵が「一騎討ち」がギャグだろ
絵にしっかり残ってるのに脳味噌足りてない馬鹿だらけ これね、博多湾ではなく
若狭湾に攻め込んで来てたら
目と鼻の先にある京都陥落して
日本終わってたんだよな
そう考えると怖い怖い 平家物語見れば、一騎討ちなどと言うのは、
特殊な戦闘形態であることがわかる筈だ。 >>1
昔は迷信が信じられていたから神が風を吹かし日本を守ったと言った方が効果あったんだよ
神が守る島を襲ったら祟られると信じて襲わなくなる >>96
そもそも京都がどこにあってどこの海からどういけば行けるのかとか知ってたのかどうか 高麗王、高麗国王・元宗の子の王世子・ェ(しん、後の忠烈王)が、
大元朝のクビライに「日本は、いまだ陛下の聖なる感化を受けておりません。
ゆえに命令を発して我が軍の装備や糧食を整えさせました。今こそ戦艦兵糧を使うべきです。
わずかではありますが、臣たる私めにお任せくだされば、つとめて心力を尽くし、帝の軍をいささかでもお助けできますことを切願しております」
と具申した記録が『高麗史』に残っている。李氏朝鮮の柳成龍の『懲録』にも「昔、高麗が元の兵を導いて日本を攻撃した」とあり、
李氏朝鮮時代においても元寇に対する高麗の主導的な関与があったとの認識であった。
また『元史』によると高麗国王・忠烈王は弘安の役後、「高麗国王、請自造船一百五十艘、助征日本。」と150艘の軍船を自ら作り、
日本遠征を援助したいとクビライに上奏している。
高麗はモンゴル帝国の侵攻を受ける以前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、
元宗、忠烈王以降の高麗国王はモンゴル帝国の兵力を借りることによって王権を奪い返したため、
それ以後、高麗王はほとんどモンゴル帝国に頼り、モンゴル名を貰い、
モンゴル帝国皇帝の娘を王妃にし皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族「?馬高麗国王家」となっていた。
このようなモンゴル帝国に頼らざるを得ない状況の忠烈王が、自身の王権を保つためにクビライの意を迎えようと、これらの発言を行ったとする見解がある。 >>94
集団で戦ってるんだよな蒙古襲来絵巻
あの切り取りの絵だって何人もで戦ってる所だし 日本を侵攻しようとした中国王朝が元以外に存在しなかった理由
http://news.searchina.net/id/1698114?page=1
日本と中国は2000年以上にわたって交流を続けてきた歴史がある。
東アジアでは「古来より中国が最強だったが、積極的に日本を侵攻しようとしたのは
元くらいだったと指摘し、これは一体なぜなのかと問いかけた。
2つの理由がある
まずは日本がそれほど「脅威ではなかった」からだ。王朝によって多少の違いはあったが、
それでも各王朝にとっては陸続きの国や北方の遊牧民族こそが直接的な脅威であった
日本は海の向こうにあるゆえ、脅威を感じなかったのだろう。
また、各王朝と日本の関係は特に親しかったわけではないが、特に険悪でもなかったとした。
2つ目は、「歴代の中国王朝の性格」だ。古代の中国王朝には、戦いで得るものと失うものを
天秤にかける理性があった。「海という自然の要塞」に囲まれている日本を攻めるのは骨が折れ、
日本を攻撃するなら朝鮮半島を通らなければならない。そうなると戦線が長くなるので不利になる。
失うものが多い割に、資源が少ない日本から得られるものはわずかで、割に合わないと判断した。 >>96
若狭湾に来たら大兵力で迎え撃てるので、
日本が大勝したのは間違いないだろう。 >>89
土人みたいな振る舞いって具体的にどんな振る舞い?
やーやーわれこそわーとかやったけど通じなかったとかも
一騎討ち同様疑問視されてるけど >>77 元記事の最後で、日蓮は嘘つき認定されてるぞ。 >>99
そんなの上陸して民間人を捕まえて
脅して道案内させるだけです。
どこが御所かも分かる。
しかも京都には堀も城壁が無いので簡単に侵入可能 >>1
えっ!服部?
日本の歴史学者とは思えんがwww 陸続きでそう遠くもないのに元を撃退したベトナム最強。
米国さえ退けた戦闘民族。 >>104
いやなんでそうなる?
京都やその周辺の地理を元や高麗は知らないから>>96みたいなことはできないんじゃないかって意味なんだが
そもそも実際には京都に攻め込まれてなんかないんだから別に誰も地理漏らしたりしないし 最初だけ一騎打ちで挑んだがモンゴル・チョン・チャンのやり方があまりにも汚かったので
その後は遠慮せずにめちゃくちゃやり始めた結果が武士の圧勝だったというww >>105
記録はあるから興味あるなら読めばいいけどまあ醜い人たちだよ
ボルソロナやエルドアンなど可愛いもんだ、がっかりするよ >>107
奥州合戦だけで、47万人もの兵力が動員された訳で、
モンゴル軍など屁でしかない。 >>33
昔の教科書
小学校では教師がいかにも日本人が間抜けと言わんばかりの自虐史観を教えていた ノルマンディー上陸したらドイツ陣営でタイガー戦車に追い掛け回され
タイガー戦車の大軍が続々とノルマンディーに集結して来たので
船に逃げ帰った感じだと、元軍側の指揮官もそんな感じだと言いそう ベトナムではちゃんと仁宗ではなく陳興道が英雄扱いされているのに
どうして日本では少弐親子が英雄扱いされず
蒙古襲来絵詞のおかげで従三位という高位を追贈された竹崎季長や北条時宗の手柄になっているのか? 絵詞 リアリティ凄い 竹崎季長描かせた絵師現場に居たみたい 手下に朝鮮人を使ってしまった。こいつらは戦闘よりおこぼれ強姦が望みだから弱い。
ベトナムでははっきり証拠が残っている。 だから日米韓で一緒に戦闘すべきではない。
絶対に勝てない。 >>113
いやあるから読めばいい、じゃ何を指して土人といってるのかも
そもそもそれが信憑性のある記録なのかもわからんやんけ
どこのどんな記録? ノルマンディーの水平線の向うに大軍がいる。今か今かと出撃を待っている。
しかし一兵たりとも上陸はさせない。あの水際で撃滅させるのだ。
上陸する最初の24時間が極めて重要で、その時は連合軍にとっても
我々にとっても一番長い日となるだろう。
ナチス陸軍元帥 エルヴィン・ロンメル >>114
急襲されたら手も足も出ない
琵琶湖に艦隊浮かべて大津まで来られたら
京都はもうすぐそこだし
朝廷と六波羅を人質に問われて
幕府はあっけなく降伏ですよ >>17
そうだよな騎馬民族が船できて、どうやって戦えって事だよなw >>85
蒙古・漢軍 15,000〜25,000人(ハーフ含む)
高麗軍 5,300〜8,000人
高麗水夫 6,700人 >>90
ベトナムはベトナムで海とは別の密林という地の利があったからな 境井仁が1人で元軍をフルボッコにして殲滅したのが真実 >>67
政治的には鎌倉武士でも九州武士でもなく、祈祷した寺社を最大功労者としてるぞ >>123
上陸してからの行軍とか兵站の問題があったり難しいという事でしょ
秀吉が朝鮮に攻め込んだ後も苦労してる この時代に海越えて攻めてくるとか無理ゲーしょw
陸が繋がってたら日本はなかったよな >>102
元は中国王朝になってるのかw
中国は蒙古に支配されただけだろw
蒙古王朝だろうよ 当然当事の船じゃ馬を連れて来るなんてできないんだろ?
日本は騎馬で突撃して奴らは地上戦か? 魏志倭人伝の記述信じて来日したら出鱈目過ぎて都には辿り着けなくて道に迷ってる間にやられてしまっただけだろ モンゴル軍の精鋭軍で日本に攻め込んでも
指揮官クラスが、次々と鎌倉重弓騎兵に討ち取られて
最後は、指揮官が存在しない精鋭軍が取り残されるだけ いつの時代も戦争は金がかかる。
米軍が従軍兵士の年金が少ないとか問題になってたけど
防衛戦争だと新たに獲得した土地もないからな。 >>101
何が問題って蒙古襲来絵巻自体帝室の「国宝」でわざわざそれを見せてくれてるのに教師含めて極一部をトリミングしたものしか見せてないという
どう考えても船に乗り込んだ上で首掻っ切ってるのし鹵獲品も多いのに台風だけってのがもうね
この記事書いた馬鹿は皇国史観でかき消されただの言ってるが明治の舊幕憎しも相まってろくに研究もされてない、戦後でさえ各種の「合戦図」をどこぞのトン大の有識者が資料の価値なしとしたから軽視され続けてきたのがここ20年でようやく「気付き」だしたところという
まぁ戦後の白痴教育の賜物よこの錯誤は
civ6してる外人のほうがよほど鎌倉の武士評価してるわ 実際、モンゴル軍は樺太を攻めてる
北の元寇って奴だけど
あのまま南下して北海道と東北蹂躙されたら
鎌倉が危なかった
そのタイミングで若狭湾から上陸したら、東西から挟み撃ちで、幕府は滅びただろう。 >>9>>18
第一回目の元寇(下見に来たレベルの少数精鋭)でフルボッコされて何十キロの土塁やら防塁を築き上げたのに
どこが鎌倉武士が強いの? >>17
上陸戦は難しいし、大鎧来た騎馬武士が沢山いるし勝って当たり前なぐらい >>132
もっと古代から朝鮮人に襲撃されたりしてるから慣れてはいるんだろう
科学が無いくらいで今と中身は変わらないよ 元記事を読めば
手に穴を開けて数珠繋ぎは大袈裟ではないでしょうか
確かに島民の虐殺などの残虐行為はあったようです
しかし手に穴を開けて数珠繋ぎは大袈裟では
もうなんか
手に穴で数珠繋ぎ>>虐殺
になってるのかねこの人の残虐度は 中世日本における唯一の国際戦争って
このあと朝鮮は何回も対馬に侵略かけてるじゃないですか >>135
元は攻め込む前に結構情報収集や調査してるぞ
元寇の前にも使者を送って日本を調査させてから攻め込んでる
でもその使者はずっと九州にいたみたいだから多分九州しか調査できてない >>133
まあそれ言い出したら中国の王朝ってそんなんばっかりなんでね
だいたい周縁部の王国や民族に全体が占領されて王朝になる
知り合いの中国人留学生が「中国の歴史は占領される歴史だ」と言っていた
真ん中あたりの人たちの目から見るとそういう風に見える >>7
ほとんど上陸できず、数か月、海の上で待たされて(たまにキャンプファイヤーの余興あり)で帰って行ったんだよw >>127
弘安の役
東路軍 40,000〜56,989人
蒙古・漢軍 30,000
高麗軍 9,960
水夫 17,029
江南軍 100,000人
水夫 人数不詳
軍船 4,400艘
蒙古軍 400,000人
東路軍軍船 900艘
江南軍軍船 3,500艘 >>111 JBPressが朝日新聞とどう関係してるんだ? >>31
そもそも蒙古人なんて
大してきてなかったんでは
殆ど朝鮮人だろ >>1
>しかし、「手に穴を開けて数珠つなぎ」という描写は、やはりオーバーではないでしょうか。
中略
>元軍が日本の侵攻拠点として占領した対馬や壱岐島で島民の虐殺を行い、島民を奴隷として本国に連れ帰ったことは、中国側史料にも記録されています。
>残虐行為があったことはほぼ間違いないでしょう。しかし「手に穴開け数珠つなぎ」に関しては、事実として扱うべきではないと思われます。
おい、この花園祐とかいうの何の証拠も出さずに「オーバーです。事実ではないでしょう。」って言ってるだけだぞ。
しかもこいつ今中国政府の監視下じゃん。
>中国・上海在住のブロガー 神風のおかげにしないと天皇のおかげにならないだろ?
武士が強かったおかげになると都合悪かったんだよ。 >>132
朝鮮はホロンでエベンキ族に入れ替わったしな。 >>147
その前にも新羅や刀伊の入寇があるからしなあ
>>141
フルボッコって
橋頭保も作れず撤退してるが
一応威力偵察説もあるが偵察だとするなら弘安の役までの間に防塁作られてるのマヌケすぎないか?
それに日本は第一次元寇の後も徹底抗戦姿勢に変わりないんだから前線゛びびってなかったってことじゃね >>125
京都周辺には大兵力があったので、
急峻されても余裕。 >>63>>68
鎌倉武士なんてクソ弱かった
本当に強ければ何十キロも防塁を築き上げる真似はしない
当時の元寇で汚物を集めてモンゴル軍の気力を少しでも削ごうとしたり
本当に真っ当に戦って勝てない相手だったのは事実 お前ら騙されてるよ。本当はモンゴルに負けて、今の支配者層はモンゴル勢力の子孫だよ。 朝鮮出兵だって上陸して内陸で帯陣してんだし。
わざわざ台風間近の不安点な海にいる馬鹿いない。
襲撃で陸の上で拠点を作れない、維持できないから
海上に退避してんだよ。 >>155
ベトナム戦争そのままだろうね
日本人は以外とパッシブ >>140
鎌倉にも軍勢はいたから挟み撃ちになっても鎌倉と西日本の両方で戦うだけで
ガラ空きのところを不意をつかれて…なんてことにはならんだろう >>37
「竜馬が行く」なんて、わざわざ名前を「龍馬」から「竜馬」に変えてこれは国際社会の中に立つ理想の日本人像を描いた架空の物語ですよと作者自身が前置きしてるのにね >>3
ねつ造もクソも、そもそも他の国は記録すら残してないトコがほとんどだろw >>25>>74
鎌倉武士は最初の元寇でボコボコにやられて
次の元寇のときに何十キロの防塁を張り巡らせたぐらいのヘタレだけどね
とにかく真っ当に戦っても勝てないからノルマンディー上陸作戦やるしかなかった >>156
その辺バカウヨ皇国史観、電波オカルト右翼も問題点だよな。
合理的に現場の頑張りなのに。 >>2
何らかの方法でって
まず日本の武士はバカみたいに一騎打ちで挑んでいって
ボコボコにされたってのが嘘だっていう所からだろ >>1
おそらく中国在住のライターの本当の目的は、通州であったような中国人による虐殺行為の否定だろ
その中に数珠つなぎの記述がある
>日本人居留民への暴虐行為
>冀東政府保安隊ら中国人の軍隊は日本軍を全滅させると、日本人居留民の家を一軒残らず襲撃し、略奪・暴行・強姦などを行なった[42]。
>居留民は約380人で、その大部は惨殺された[1]。
>7月30日午後通州に急行した天津歩兵隊長及び支那駐屯歩兵第2連隊長の萱島高の証言によれば、飲食店の旭軒では40から17 - 8歳までの女7、8名が強姦後、
>裸体で陰部を露出したまま射殺され、うち4、5名は陰部を銃剣で刺されていた[45][42]。
>日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、「血潮は壁に散布し、言語に絶したもの」であった[45][42]。
>第2連隊歩兵隊長代理の桂鎮雄の証言によれば、旅館の近水楼では、入り口で女将らしき女性の遺体があり、着物がはがされ、銃剣で突き刺され、また陰部は刃物でえぐられていた[46][42]。
>帳場配膳室での男性の遺体は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のように突き刺されていた[46][42]。
>女性遺体は裸体で、局部などに刺突の跡があった[46][42]。カフェの裏で殺害された親子の子は、手の指を揃えて切断されていた[46][42]。
>南城門の商店の男性遺体は、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた[46][42]。
>当時、同盟通信特派員の安藤利男はこの近水楼に宿泊していたが脱走に成功した[42][4]。
>また支那駐屯歩兵第2連隊小隊長の桜井文雄の証言によれば、守備隊の東門には、数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっていた[47][42]。
>鼻に針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体が、ゴミばこや壕から続々発見され、ある飲食店では一家全員が首と両手を切断され惨殺されていた[47][42]。
>14、5歳以上の女性はほとんど強姦され殺害され、旭軒では陰部に箒を押し込んであったり、口に土砂をつめてあったり、腹を縦に断ち割った遺体があった[47][42]。
>東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[47][42]。 >>169
手柄を大きく見せるための島津のホラだろ。 水軍に慣れてない元
日本海は荒れる
まして近海なら土地勘のある地元民がいる方が勝つ >>171
その第一次でボコボコにゆられてたってのも疑問だけどな
ボコボコにしてたならなんで九州とりみせずに撤退したのか
威力偵察説だというならその結果防塁作ったりしてるんだから
元がマヌケってことにしかならんし >>158 新羅や刀伊の入寇は、ただの海賊行為だからね。倭寇の反対なだけ。 佐野源左衛門鉢の木も作り話 北条一族天才的に宣伝旨い 神風の賜物にして恩賞払わない
まあ〜領地分捕りじゃ無いから与える地べた無し >>163
そんなこと元の歴史書にすら書いてないが >>175
バカチョンがバカなのは世界中知っている >>1
>>東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせて鉄線を貫き、6人数珠つなぎにして引き回された形跡のある死体もあり、池は血で赤くなっていた[47][42]。
南京虐殺の記念館に当初展示されたいたのは、この通州で中国人に虐殺された日本人の遺体の写真等だったなんだがな。
中国人の南京向け捏造資料として利用価値があったということは、普段からこの手の手首の穴をあけて数珠繋ぎという行為が、中国人にとっては荒唐無稽でない行為だったという証拠だ。
荒唐無稽であれば信じてもらえないし。 >>112
最初に少数精鋭の偵察部隊の元寇でボコボコにされて
二度目の元寇までに博多と長崎の超長い海岸線に防塁を築いてどこからも上陸させないチキン戦法するしかなかったのが
当時の鎌倉武士(日本)です 鎌倉重弓騎兵はモンゴル軍の指揮官クラスを
報酬目当てて狙い撃ちにする為、元軍の集団戦をマヒさせ続けていた
鎌倉重弓騎兵の特殊作戦軍相手に元軍は、多少は奮闘したね >>158
少数精鋭だから補給線が間伸びするまで追い込まなかっただけ
クソよえーコイツらって感じで帰ったのが第一回の元寇 >>185
少数精鋭て三万人以上だが
だからボコボコにされたならなんでどこも占領できず帰ったのか
威力偵察ならなんで次まで7年も間をあけて日本に準備する時間を与えて
次の戦況不利にしてるのかってなるだろ >>9
仮に台風が来たとしても
それまで本格上陸させず
水際で押し留めてたのは凄いけどな 一万人動員したら一回の食事だけで一万食。
遠方や長期になるほど兵站が破たんして現地略奪しかない。
近代戦だと高価な兵器から衣食住から。
経済力が左右してくる。 >>180
北を朴(ほう)と読ませる時点であちらさん
今のマスゴミとそっくりジャマイカ 元と日本が融和してたら今頃
漢民族も朝鮮族も滅んで
平和になっていたのになww >>191
それで舐めプした対策さられて不利になる元はアホだったって意味? まあ草原のモンゴル人がわざわざ日本に来るわけないよね
主力は中国人(北は金、南は南宋)、次いで朝鮮人(高麗)だわな
どっちも戦争には弱いことで有名
まあ金は強かったけど、中国の王朝になると中国人だらけになるからどうしても弱くなる >>185
攻められる側のその戦法がチキンなら
チキンでない戦法ってどんなんだよ これはいったい‥ 誰を叩けばいんだよ?アベスガ天皇? だから、元寇に限らず、一騎打ちなどほぼほぼなかったと考えるのが妥当。 日本の動員兵力47万人は、
モンゴル軍全体の兵力に匹敵するレベル。
コレが源平合戦以降、
戦慣れしており、
和弓も日本刀もモンゴル軍の兵器より、
はるかに優れていたので、
モンゴル軍は太刀打ち出来なかった。 >>172
神風で日本が勝ったという歴史観は、日教組のパヨクがバラ撒いたとか喚いてたネトウヨが、以前の元寇スレに出てきてたな。
実際には、この記事に登場する「八幡愚童訓」に代表される、神道系によって広められた歴史観なんだけどね。
自分の気に入らない歴史観を全てパヨクに責任転嫁するネトウヨの典型だったわ。 自分的にはモンゴル軍は歴史上の最強軍隊の一つなんだよな
ハンデありありとはいえそれを打ち破ったんだから日本人としては嬉しいんだな 水戸黄門や将軍吉宗のドラマが真実みたいに語られちゃう国だし、仕方ないと思うね。
楽しくない事実真実よりも、空想百連発のほうが楽しいもんね。 >>178
少数の偵察部隊が九州全土を取れるわけないだろ
兵法の基本で間伸びして補給できなくなるとどんな無敵の軍でも壊滅する
頭大丈夫かな? >>191
第一次は島民とか準備のできてない現地少数の警備だけ
蹴散らせただけ。ガチの反撃食らったら
鎧袖一触される程度の雑魚だった >>194
バカチョンが怠ったのだろう
自らたぶらかして日本を攻めようと言ってたのにww >>206
だから初回は三万なんだが
最初からとるつもりはなく偵察だけだったというなら、
わざわざ本格的に攻め込む次を不利にするために攻めてきたっていうようなものだろ
直ぐに攻め込むならともかく7年もかけて相手に準備する時間あたえてるんだから 何百年も前のことだろ
事実がそんなに重要か?
イギリスのアルトリウス伝説みたいなもんじゃないの >>1
時代は違うものの「唐代の鑑真和上」でさえも日本に教えを広めようとして、
5回ほど渡日に失敗してるくらい当時の航海は危険なものだったから
やはり鎌倉時代にあっても「向こうから来るのも一苦労」だったのではと思いはせるのだが・・・
真実はどうかね? >>130
昔の水上戦闘は風や波の運の要素が強かったから祈祷の寺社だったんだろうな
そこを考えても、水上ゲリラ戦での勝利だろう 武士団は血の気多過ぎんだよ
なんか、珍しい対外戦だぞ!ヒャッハー!って
むしろワクワクしてたんじゃないかと モンゴル軍が残虐だったのは有名な話だろ
征服した都市の人は皆殺しにしたって話だし
日本だってもし負けてたら
日本中の人が虐殺されてたね >>198
三国志読んでも強かったのは髭もじゃ武将たちだからね
体毛薄い民族に乗っ取られてしまって駄目になったな
日本も奴らによる静かなる侵略が進行中だけどな >>3
ファンタジー歴史の半島人の自己紹介でしたw >>204
モンゴル軍は騎兵集団があったから
近代の機械化兵団が出るまではかなり強力。
でもそれを活かせないジャングルの東南アジアでも撃退されたし
南宋の城攻めも苦戦であまり強くない。山岳地帯の日本でも無理。
中東の大平原とか騎兵の利を活かせる場所じゃ無双。 >>149
漢民族なんてとうの昔に滅んでる事実
偉そうな態度と外征してたら攻められて
当たり前 >>192
はい
日本を制圧するのは1万5000人のヌルゲーでした
> 『元史』世祖本紀では文永の役の元軍の軍容について「鳳州経略使・ヒンドゥ(忻都)、高麗軍民総管・洪茶丘等の将が
> 屯田軍及び女直軍(女真族の軍)、并びに水軍、
> 合せて15,000人、戦船大小合せて900艘をもって日本を征す」[13]と記している。 片手剣を片手で振り回して戦ったら、片手で腕立て伏せをするようなもので
すぐに腕力の限界が来て剣を構える事すら出来ない
あとは盾で逃げるだけの短期決戦 まあ、平家物語やら吾妻鏡やら読めば、
一騎討ちなどは、特殊な戦闘シーンである事が分かる。
言葉の通じないモンゴル軍に、
一騎討ちなど申し込むはずが無い。 これって、日本人は嘘つき、信じてはいけないという流れを作りたい記事ですか?
山川出版って、あれでしょ、あれ、、、、、 >>197>>207
舐めプして鎌倉武士がボコボコにされたのは史実に証明されてるよ
モンゴル軍が雑魚ならあんな大規模うな防塁工事はしない >>202
またまた皇国史観がでてきたなぁ。
戦慣れしとるって、戦慣れしとる点で言えば、向こうの方がはるかに戦慣れしとるやろ。
モンゴルは戦争に次ぐ戦争やで? >>219
マケドニア軍対モンゴル軍とか夢想するな
どっちも平原戦最強だし
マケドニア軍は攻城戦も強かったけど 日本とモンゴルの話にいちいち朝鮮混ぜんなよバカウヨは >>2
たまたま台風で恵まれただけだろ
日本は弱い者いじめ以外で勝った戦闘は有史以来一つも無いよ
日清日露戦争はイギリスのおかげだし 元は中国の王朝だからな
つまり日本は昔中国に侵略されて多くの人が殺されたってこと
中国人に謝罪と反省を求めないといけない >>125
若狭湾に上陸したら、東北・北陸・東海・近畿・中国・西国の鎌倉武士に包囲されて、
博多さえ取れなかった元軍なんて、ますますぼろ負けですよw
本丸から攻め上がって勝った侵略軍はない
必ず手ごろな拠点をとってから本丸を攻める
あと、京都は天然の要塞。侵入路が限られて、そこを守れば防衛側は楽
京都も鎌倉も、防御は固い 誇張創作はあるにしてもチンギスは
やはりとんでもない人物だった事は間違いないし
その後の帝国の版図を見てもただならぬ国家なのは
疑いの余地はない
その一角を撃退した日本はやはりすごいよ >>225
武士など田舎のヤンキーと同じメンタルだと思えば一騎打ちを仕掛けにいっても不思議ではない >>210
文永の役の時に撤退前に司令官と将軍たちが話し合ってるが
そこでは高麗の将軍はさらに先へ進軍することを上奏して却下されてるし
偵察だとか元々早期撤退する予定だたとかそういうことは全く言われてない >>229
だから何だ?
ソレが源平合戦以降の戦乱に次ぐ戦乱で、
日本の武士が戦慣れしていたことを
どう否定できるのか言ってみろ。 >>215
日本中が恐れおののいていたと書かれている
本来は負けていたのは確かだろうな
神風ではあるけど仏教の言うところの神の作用が正解だろう
飢饉疫病の後はこのような展開を警戒しろと歴史が教えてくれている 平家物語を見れば、
当時の武士がヤンキーと同じでない事が分かるだろうが。 >>228
台風が来なかったら、元軍の大船団を拿捕して再利用する
計画だったのかもしれないよ >>2
モンゴルは中華勢じゃない
漢民族居留地が植民地になっただけ モンゴル軍を皆殺しにしたところに
モンゴル村とかつくる長崎県の民度ww ただおれが元
フビライ・オレだったら
容易に日本を制圧する自信あるけどなあ
むしろ日本ごときに失敗して
よくあんな広い領土を築けたな
はいはい明日から従いますよ
よし征服
みたいな感じだったんじゃないか?
お前ら従うって言ったよね
なんで訓示を守ってないんだよ
ああ うっかりしてました
次から従いますってば
頼むよホント
みたいな >>204
広い場所で騎馬の機動力を生かして短弓連射できりゃ強いだろうけど
絵巻のとおりモンゴル側上陸部隊の短弓歩兵と日本の長弓騎馬じゃ
どう考えても分が悪いでしょ。 >>6
三国志もそうだし、武将の逸話も、創作八割でも驚かないな
大河とかのネタになってる武将も、立身出世するまでの数十年の情報がほとんどなくて
まるっと創作して、結構好評ケースが、ここ数年は増えてるな >>231
主力ではないにしろ2度とも高麗軍参加してるんだから
高麗の話が出てくるのは仕方ないのでは
>>247
勘違いというか日本の全体を把握できる状況になかったんだろうな
日本は元の使者が京都に行くと行っても拒否してたそうだし
まあ京都攻めること考えて調べようとしたんだろう >>167
崇徳可汗って何者だよwwww
👩オカサ?👑👱🐴💨 皇国史観なんて宗教の一つなんだから現実にあったかどうかなんて関係ないだろ?
マリアがイエスを懐胎したのは当時は超技術があって体外受精した受精卵をマリアの子宮に入れたんだとか説明するのか? >>210
はい
日本を制圧するのは1万5000人のヌルゲーでした
> 『元史』世祖本紀では文永の役の元軍の軍容について「鳳州経略使・ヒンドゥ(忻都)、高麗軍民総管・洪茶丘等の将が
> 屯田軍及び女直軍(女真族の軍)、并びに水軍、
> 合せて15,000人、戦船大小合せて900艘をもって日本を征す」[13]と記している。
あと3万でも少数だよ
頭大丈夫かな?この人 弘安10万余江南軍ー南宋の敗残兵多 河南川船に乗っけられ
クビライ〜「くた〇ること祈るみたいな扱い」気がする >>247
武士っていう戦闘階級も想定外だったんじゃないかな。例えばスペインポルトガルが遭遇した
南米の原住民みたいなものだったら征服は意外とたやすかろう >>234
鎌倉って街の侵入のしにくさは車乗るとよく分かるよな。
道路が限られる。 よくコミュニケーションとれたな…
通訳いないと単語の違い聴き取れないだろ。 元軍の大船団を鎌倉幕府が拿捕していたら、モンゴル帝国中を
侵略し放題で、大船団を失った元国は木材が不足で対策すらできない >>259
名乗りや一騎討ちの申し込みが行われてなかったなら、
現場の武士はコミュニケーションとってたかどうかわからなくないか
まあ元の方は通訳くらい連れてただろうけど 朝鮮の幹部が、日本は地形が険峻で、耕地も狭く、武士は野蛮で、
攻める価値ナシと進言してたんだけどな
騎馬機動戦ができない元軍など、鎌倉武士からしたらただの農兵に近い
承久の乱から50年たってはいるが、武士軍制は乱れてはいまい
そして大攻めの前にもしばしば元・朝鮮の使者が来たり、嫌がらせの攻撃をうけたりして
警戒態勢はとられていただろう >>262
鎌倉は戦地になってないよ
戦地になったのは九州と中国(長門) >>234
いやいや京が固いは無いよ
楠木正成は「京なんか守りに適してない」と帝に比叡山に逃れるように進言したけど却下され
仕方なく湊川で戦ったけど敗戦
明智光秀も京を明け渡せばもう少し粘る目が合ったけど
その前に決戦を仕掛けて1日で憤死
秀吉が占領して以降は御土居を作ったけど、その前は防壁も何もない原っぱだもの >>258
今の道が無かったら、どっからいっていいかわからない
横須賀線も変なルートだし うちの田舎は河野築地の河野さんは、
今でも有名人だからな。 >>262
倭寇が鎌倉幕府の大陸派遣軍になっていたかもしれない >>138
CIVといえばヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといった名だたる音楽家の中で八橋検校がいるのは
さすがに場違い感あって恐れ多いけど
東郷平八郎や井深大が評価されているのはうれしいな
最近は丹下健三も追加されたし 多くの歴史的記述がモンゴル軍の残虐行為を詳述している。バグダードの市民は逃げようとしたがモンゴル軍に捕らえられ、
女は幼児から老婆に至るまで徹底的に強姦され、子供から老人に至るまでことごとく虐殺された。
14世紀の歴史家ワッサーフは「死者は数十万人であった」と記述している。ニューヨーカー誌のイアン・フレイザーは「20万人から100万人に及ぶ死者を計上した」と記している[5]。
20万から80万人[6]、また200万人[7]とするものもある。
モンゴル軍は市街を蹂躙し、モスク、宮殿、図書館、病院を略奪、破壊し尽くし、何世代にもわたって保たれていた壮大な建築物は消失した。
薬学から天文学にまで及ぶ歴史的に貴重な書物を所蔵していたバグダードの知恵の館は破壊された[8]。
「モンゴル軍によって虐殺された人の血でチグリス川は赤くなり、次に、捨てられた書物のインクでチグリス川の水が黒くなった」と生存者は証言した。
ムスタアスィムは郭侃に捕らえられ、モンゴル軍による市民の虐殺と財宝の略奪の様子を見せつけられた。その後ムスタアスィムは敷物に巻かれ、
モンゴル軍の軍馬に踏み殺された。これは貴人に死を賜るときのモンゴル流の礼儀であった。モンゴル軍はムスタアスィムの子供たちも殺害、
『集史』によれば、唯一生き残った息子はモンゴルに送られた。
モンゴル軍が陣地をわざわざバグダードの風上に移動するほど、大量の死体から発する腐敗臭が凄まじかったという。
モンゴル軍は降伏を拒否した都市は見せしめのために徹底的に破壊したが、降伏した都市は破壊しなかった。これはモンゴル軍の戦術だった。 >>218
韓国で歴史ドラマやるなら始祖であるエベンキ人の朝鮮半島への大移動からやらなゃね >>254
制圧できてないが
最近じゃ博多焼いたことすら疑問になってきてる
威力偵察だったとしても大して偵察できてないから結果出せてない >>11
逆
本当の勇猛な武士の戦陣を
嘘で曲げたのが八幡愚童訓 >>219
騎兵同士の会戦やって勝ったバイバルスが如何に強かったかって事だね
東欧の騎士団とかの連合軍なんかはやられてる
呆気なく蹂躙されたシルクロードの都市国家みたいのは普通に弱かったんだろうけど NHKの歴史ヒストリアでも日本武士はうんこを投げて
元寇に抵抗してたというのが放送されてたからな
博多に20キロの防塁を工事して作って
そのうえ誇り高い武士が下劣な手を準備してつかって
なりふり構わず戦った
モンゴル軍がいかに恐ろしかったのかわかるんだけどな
陸上決戦では絶対に勝つことは不可能だった 勝つべくして勝ったというか、元が負けるべくして負けたな
得意な馬は使えない、補給もない、橋頭堡が確保できない、それどころか最後には上陸地点探して迷走中に襲撃される
元軍の性質として、上陸戦が苦手だったのだろう
マジャパヒト王国への遠征にも失敗している 昭和のパヨク作家も鎌倉武士の勇敢さは認めてたよ。
弓は貫通力が高いし両手使いの日本刀。
楽勝だな 元寇と朝鮮侵略はもっと研究が進んでほしいわ
日本が明治以前に経験した数少ない対外戦だし 金かけて大スペクタクルの映画作って欲しいな。ゲームだけじゃ物足りないw >>267
京都とそのものではなくて、京都の周りの山が難所なんだよ
ルートは決められている
国内勢の内乱はともかく外国軍が若狭方面から上陸侵攻したら、守りやすいと思う
そもそも若狭湾で苦労するだろ。峠越えの戦いになったら攻めるほうは圧倒的不利
10キロも進めずに弓が尽きて撤退だよ >>275
どの文献でも制圧してますw
> 『元史』日本伝によると「冬十月、元軍は日本に入り、これを破った。しかし元軍は整わず、また矢が尽きたため、
> ただ四境を虜掠して帰還した」[188]としている。
> また、『元史』左副都元帥・劉復亨伝では「(劉復亨は)征東左副都元帥に遷り、軍4万、戦船900艘を統率し日本を征す。
> 倭兵10万と遇い、これを戦い敗った」[10]とのみ記載し、劉復亨が戦闘で負傷し戦線を離脱していたことには触れていない。
> 『元史』右副都元帥・洪茶丘伝では「都元帥・クドゥン(忽敦)等と舟師2万を領し、日本を征す。
> 対馬・壱岐・宜蛮(平戸島か)などの島を抜く」[189]とあり、文永の役における元軍の戦果を対馬、
> 壱岐などの諸島を制圧し抜いたことのみを記しており、博多湾上陸以後の状況については触れられていない。 崖山の戦いは弘安の役の2年前で掃討戦の一環だから宋の王族が居ない事を確認したら元には戦略的に意味の無い戦争だもの撤退するさ。 モンゴルの戦法 : 馬の機動力を使って、小さな弓でコツコツ削る。
鎌倉武士の戦法 : 2m越えの巨大な弓で狙撃。
日本の弓は、2mを越す巨大な弓で、
エネルギー効率は悪いものの、力こそパワーな武器。
イギリスのロングボウとよく似ている。
一方、モンゴルの弓は効率優先の弓で、威力は小さい。
射程を稼ぐ為に、矢も短い。 元と高麗、つまり今の中国と朝鮮が一体となって
日本を侵略しようとしたという事実を
もっと広く日本人の間に知らしめないといけない
中国人や朝鮮人が日本の侵略に対して「反省しろ」「謝罪しろ」と言ってきても
「でもあなた達も日本を侵略しましたよね?」と日本人全員が言い返せるようにならないといけない 当時の日本って実は結構商売で中国大陸に進出していたんだよね。
元を来訪したヴェネチア商人が、伝聞ながら日本という国の存在を知っていたのもそのため。 >>203
お前の妄想するネトウヨの一部がそう言ったからと言って、
その他の妄想のネトウヨも同じと考えるのは早計だぞ。w >文永の役は征服を目的とした侵攻では無く、威力偵察ではなかったかとの説もある[431]。
>モンゴル帝国の軍事行動では、事前に兵力100?10,000規模での威力偵察を数度行った後、本格的な侵攻を行うことがある。
>例えば、モンゴル帝国の外交交渉では、チンギス・カンからオゴデイの時代に掛けて行われた金王朝侵攻では、
>数度にわたり「軍事行動に先立ち、あるいは並行して使節を派遣し服属を呼び掛けていたことが知られており、
>侵攻した地域で掠奪や交戦は行われたものの、領土征服をせずに軍が撤退する場合もあった[432]。
ただの偵察の少数部隊で水城まで追い込んだのがモンゴル帝国
これで撤退したのを日本が追い返したとか言ってる馬鹿がいるんですねw >>287
中国ってコロコロ変わってるからなぁ
白人だかロシア人だかの骨も見つかってるし本当の歴史はわかったものではない >>284
>劉復亨が戦闘で負傷し戦線を離脱していたことには触れていない。
>文永の役における元軍の戦果を対馬、 壱岐などの諸島を制圧し抜いたことのみを記しており、
>博多湾上陸以後の状況については触れられていない。
とあるが
都合の悪いことはかくして対馬壱岐の離島を破ったことを宣伝してるだけでは
しかも文永の役で迎撃した日本軍10万もいないし >>288
コロンだブスが、アメリカを発見する切欠に成ったね。
インディアンに恨まれろと思うわ。 >>283
当時の兵の機動力からしたら京都盆地は広すぎるし
羅城にはなってないから守りの薄いところ薄いところを探していったら
自然とノーガードの南側に回ってくるだろう モンゴル軍が強かったのは城塞都市攻撃だろ
騎馬軍団が集結して包囲して降参させる
野戦になったら大したことないんじゃないの
どこの国でも同じようなもんじゃないか?
大陸は広いから、馬がモノを言うというだけで
日本みたいな山岳ルート攻めじゃ、馬の価値は低下するわな 元寇での蒙古(高麗)軍の真の目的は日本への移民・植民だった。
連中は武器の他に、大量の農具と種子を所持していて
日本を侵略した後、そこへ大量の移民を送り込む準備をしていたそうだ。 少数の軍でも余裕でボコボコにしてたが追い込み過ぎると
兵法の定石では厳しいだろうと会議をして撤退したのが第一回目の元寇
>クドゥン「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』[192]とあって、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、
>多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。
>疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」[174][190]
> このような議論があり、また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、軍は撤退することになったという[174]。
> 当時の艦船では、博多-高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、
> この季節では天気待ちで1か月掛かることもあった(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)。
> このような条件の下、元軍は夜間の撤退を強行し海上で暴風雨に遭遇したため、
> 多くの軍船が崖に接触して沈没し、高麗軍左軍使・金?が溺死するなど多くの被害を出した[174]。 なんだかんだで日本はモンゴルの侵攻跳ね除けた国の一つなのは事実だよ
当時の人頑張った
ホラズム帝国とかアッバース朝とか大国でもリーダーがヘタレだった国は滅ぼされてる
この辺の王様の無様さ見ると
当時の日本がこのタイプの人らに治められてなくて良かったなぁ思うよ 八幡神の化身である白装束の神兵30人が現れて元軍を追い返したので日本は守られた
https://i.imgur.com/ale04u3.jpg
これか!! 対馬に侵略してきた中国朝鮮連合軍が返り討ちに合いボコボコにされただけの話だったのな
元の本隊もボコボコにして撃退
強すぎるだろ >>291
いやいや、事実、例えばバクダードの戦いのときも
中国人の軍人が協力してるから
元寇だってモンゴル人だけの軍隊なわけない
当然その当時の中国人も協力してるはず
高麗はもちろん今の朝鮮人の祖先の国だし
自分たちだって日本を侵略した歴史があるのに
そのことは一切無視して日本に
「反省しる」「謝罪しる」と言い続けてるのが中国人と朝鮮人 >>292
たったの3万の兵で日本全土を制圧できると思う?
本気のレス?(笑) この国は何でいちいち自分を良く見せようとするんだろう
相手には見透かされているのに そりゃ、カッコ良く脚色されているだろうが、それでも北条時宗は英雄で鎌倉武士も立派だったことに違いはない
北条家滅亡の際に後醍醐天皇が旧得宗邸に北条一族を慰霊する墓碑か何かを建てたんだっけ?
まともに元にやられていたら天皇も公家も無くなってしまったわけで… 経緯を簡単に説明
めっちゃ考えるままに書いてるから
見落とすなよーいくぜー
@文永の役 モンゴル軍圧勝!!日本は水城まで撤退※完全な事実
↓
A日本ビビりまくって元寇防塁(20キロの防塁)を博多に設置※完全な事実
↓
B弘安の役 日本ビビりまくってうんこを投げつけて上陸を阻む※完全な事実
↓
C台風でモンゴル軍撃沈→神風の由来 ※完全な事実
完全に日本がヘタレのゴミでした。
反論あるなら聞くー。
どうぞー??(・∀・)ニヤニヤ >>285
弘安の役は上陸できてないんだから九州すら捜索して確認なんかできてないし
2か月も上陸できなかった挙句に台風だから
目的を果たして撤退したわけじゃないが
しかもクビライは3回目もする気だったし
>>297
追い込み過ぎると兵法の定石では厳しい、じゃなくて
日本軍が増えてるからそのままだと「大敵」になるし
兵士が疲弊してるからってあるんだけど 元軍が仮に九州突破できても山岳地帯の多い日本では騎馬の利をそこまで活かせず
本国からの兵站も維持できないから結局撃退された気がする そもそも九州に橋頭堡を築いて京鎌倉に進軍したとして、元軍は兵力が減る一方だが日本はだんだん強化される
元軍得意の捕虜を盾にする作戦も、捕虜にも容赦しない「野蛮」な鎌倉武士には通用しないし >>301
まあわかるけど金総書記のオカンは大阪人だし習近平は日本に留学してたし欧米人の策略に乗るのは中近東と変わらないのでは >>308
>>日本は水城まで撤退※完全な事実
これは最初からの作戦でしょ。博多を武士が略奪したとの話もあるし いいから追い出せって、朝鮮人のなりすまし学者たちは。
もう日本学術会議だかのスパイ行為も中国共産党の千人計画も全て暴露されてるのに
本当にこいつら犯罪スパイたちは往生際が悪いよね、うっとうしい。
朝鮮人には一切学問の場で議論させるな、時間の無駄だから。
もう連中とは戦争しかないんだから。 >>293
大航海時代のきっかけはもう一つある。
1324年、アフリカのマリからメッカへ巡礼の旅をしたマンサ・ムーサ王が
途中に滞在したマムルーク朝エジプトで大量の黄金をばら撒き、地中海沿岸で大インフレを発生させた事件があって
それで黄金の都と呼ばれるマリの首都トンブクトゥを目指す者が続出した。
ムスリムの影響下にある陸路を避けるため、船に乗ってね。 昔、ドリフであったな
カトちゃんが出自出生名前などの経歴とかを相手に叫んで知らせてる最中に敵が切りかかってくるコント >>308
糞を投げつけてたってのは絵巻の一部からの推測だけど
それだって使われてた戦法のひとつってだけで
普通に戦いは行われてたしそもそもその考察に使われてた絵巻で戦ってるの描かれてるが
>>300
対馬とか離島は落ちてるよ
百人もいないから守れるの無理 こうやって威圧しておけばいつものように
いずれ敵から裏切り者が出てきて
内部から崩壊するだろうと思ってたとか >>9
まあ、相手はボートに毛が生えたような
船だしな。上陸しても騎馬もないから
ガチンコで百戦錬磨の鎌倉武者とじゃ
簡単にはいかんだろ。 朝鮮では自ら願い出た戦船の建造に追われて、
木を切りまくったおかげで朝鮮全土がハゲ山になっちまったとよw
今の北朝鮮と一緒ww >>198
>>217
こんなアホな認識だから前の戦争もジャップは中国に負けたんだなw 命知らずの土地狂い戦闘階級がいたのは誤算かもな
元の大陸民なんか石に齧り付くどころか遊牧民だし >>311
鎌倉武士が人質にされた捕虜を容赦なく射殺したってのはなんJの嘘松だけどな この時代に火薬が使われたって凄いよな。
日本では300年後にようやく火薬使った武器が使われる。 とにかくモンゴル軍はユーラシア大陸でひどい虐殺してきたんだよ
抵抗する都市は皆殺し
虐殺した人の首で首塚ができたっていうくらいだからね
織田信長みたいなもの
徹底的に根絶やしにする
日本だって元寇で負けてたらそうなったかもしれんのに
アホみたいに相撲でモンゴル人を応援してる能天気な日本人多すぎ >>316
おお、知らんかったわ・・・。
詳しい人が居るのね〜。 神風の台風が起こらなければ、東アジアのモンゴル帝国は
ヴァイキングの異教徒軍団みたいな、鎌倉武士軍団に
逆侵略されまくって滅んでいた >>232
日本が負けたのはアメだけな
あとは全部勝ち
特に日露は全戦全勝だぞ
イギリスはなんもしていない >>332
文永の役後に幕府は高麗への逆侵攻考えてるが中止にしてるから
少なくとも時宗の時代は逆侵攻はなかったんでないか >>331
13世紀の話です
「いつの時代」って
だったら日本が中国を侵略したのも
「いつの時代」の話だよ!
少なくとも今日本に生きてる人で
あの侵略に責任がある人なんてほとんどいないわ! 本当にこいつらの議論はくだらないだろ。
残虐行為は中国の記録にもあるから手に数珠繋ぎは嘘だとか必死にわめいて
それで擁護でもしてるつもりなんでしょうか?
こいつらはなぜか中国の資料ばっかり持ち出すからね。
大体、当時の日本人の誰がそんな残虐な描写を妄想で思いつくんだよ?
俺もびっくりしたが、連中が世界中でやった姑息で卑怯な無数の手口を
知った今となっては実際にやったと確信が持てますね。
この服部とかいう歴史学者はまずモンゴル帝国が世界中でやった
姑息で卑劣で残虐な虐殺行為を前置きで説明しろよな。 1回目はてっはうという爆薬を投げてきたりして大変でしたが、防護塁を作ったりして、2度目は上陸も阻んだ 元軍は海戦でも負けてたしね
日本側は主力は来ていなかった >>335
台風で元国からの貢物の大量の木材を失ったのが原因でしょ >>324
ウヨのデマって小学生が考えたのかってぐらい低レベルだな
しかも江戸時代の日本が禿山だらけだったのも知らないまぬけぶりw 島民虐殺はありなのに手に穴開けるのはありえないとかありえんよなw 弘安の役の2年前に広州で南宋が滅びる。元は祝勝会やりたいけど、その時に皇太子が日本に逃れて亡命政権作ってますとか分かったらパーティー台無しだろ?だから使いっぱにお前見てこいって言付けた。
実際ベトナムに逃げ込もうとしたり鎌倉五山の高僧に南宋からの亡命者がいたりする。 日本が勝ったというのも怪しいな
使者を斬った報復で一方的に殺戮されただけじゃね? >>330
クリストバル・コロンは最悪のコンキスタドールだからアフリカ人からもインディアンからも恨まれてるだろ
何も知らないインディアンを奴隷にして金集めに参加しないインディアンを痛めつけては
指を切ったり腕をおとしたり大虐殺やらやりたい放題のかぎりをやったけど、
ナンか知らんけど教科書上では偉人とか英雄視されてて神経を疑う というか、冗談抜きで日本は中国共産党や
韓国北朝鮮の恩を仇で返すこそ泥たちに乗っ取られ侵略されかけてますからね。
その核心に迫っている事実がついに暴露されたんです、世界中にね。
これからは冗談抜きでそういう連中とは激しく対立する事になるからね。
連中は一切行動で謝罪せずに幼稚園児のような言い訳をして
必死に日本にへばりつくだけだから追い出すしかないんです。
九州大学もこんなのを教授にしてるんですから推して知るべしでしょ。
叔父には悪いが俺も全部告発させてもらうからね、アメリカで。
俺の一族が九州大学に土地を寄付したのも本当の話ですが、
こんなスパイのようなクソ国賊の為に寄付したなんて話になったら最悪だよね。 >>336
日本の中国侵略は百年すらたってない
しかも被害者は戦後に産まれた中国人含めていっぱいいるし 文永の時は単純に元軍も準備不足だったからな
途中で補給が切れて帰る途中に台風喰らって勝手に壊滅と >>346
中国ではそんな風に教えてるのか納得したわ >>33
名乗り一騎討ちスタイルが通じる/通じないで対応が変わるとかってのも聞いたことがある
通じない相手だと鎌倉武士(蛮族)の本領が発揮されるのだとか >>296
いろんな物、🌊海底に落ちてるぞ
パスパ文字の物とかも発見されてる。 >>350
中国の世界史教育がどうなってんのかは知らんけど
ちゃんと勉強しないと悪い奴からうまい汁を吸われて
バカを見るのはお前だぞ? >>334
中国攻め落とせなくて東南アジアに資源求めて侵出してる始末だろ >>49
当時の朝鮮民と 今の奥地からきた糞チョンはまっ全く違う別物やで >>356
自分達で文字を創造できなかったのが恥ずかしくて神代文字とか捏造してる始末だしな もう俺の件も冗談だと思ってらっしゃる方は
アメリカヨーロッパには一人もいないでしょ?
お前らクソスパイだけなんだよ、この期に及んで俺の人生を妨害した
国賊たちを擁護して俺にレッテル張りをしようとする連中は。
今までそういう事を散々才能ある日本人に対してやってきたような連中が
「私はリベラルだとレッテル張りされてる」とかふざけるなよ、クソ朝鮮人が。
元々はリベラルという言葉も汚い言葉じゃなかったんだよ、
お前らが詐欺に利用するまでは。
そして、この期に及んで私の”国宝級の才能”を認めようともしないのも
こいつら中国朝鮮のクソスパイだけですからね。 >>354
いやバレバレだってば特有すぎてアホでもわかるわ >>348
いっぱいなんていねーよ
ごくわずかだろ
声高に日本に反省しる、謝罪しると言ってるのは
むしろ戦後生まれのやつらだからな
だったら同様に日本だって中国人や朝鮮人に
元寇を「反省しる」「謝罪しる」という権利はあるわ! >>149
清の時は満洲人に支那を支配されて
支那人の男は辮髪を強制されることになった
チャイナドレス言われてるも支那人の民族衣装ではないな >>345
使者を切ったのは第一次元寇後だから使者を切った後の戦は第二次元寇ってことになるが
一方的に殺戮どころか二か月経過しても九州に上陸できてない んじゃ、ウ○コとか死骸を投げつけてたとかも創作なのか!? >>356
捏造大好きなお隣の国の高麗国が元寇に便乗して日本に攻め込んできてて
戦闘に参加しない壱岐対馬の一般島民を虐殺したばかりか
200人ほどの島民の手のヒラにでっかいアナをあけて紐を通して数珠つなぎにしたあげく
高麗国まで連行して終生奴隷としてコキ使ったことに関してはあまり知られてないんだよな・・・
高麗国の末裔である韓国政府に半万年以上の謝罪と賠償を請求したいのに
なぜか教科書では説明が省略されてるで神経を疑う >>232
あくまでも日本は卑劣で矮小な存在としたいのかね?事実を歪めても意味がないぞ。 絵にも書いてあるじゃん
密集隊形の騎馬隊が弓を打ちまくってただろ
これは支那側も書いていたはず 当時の航海技術や造船技術で玄界灘越えは暴挙だろうな。
ヨーロッパですら地中海みたいな内海ならまだしも、季節風が厳しいアフリカ西岸に進出出来たのはキャラベルクラスの船が作れるようになった15世紀以降だし。 >>325
チョンは自力で独立を勝ち取ったことすらない雑魚 はよ中国に併合吸収されてしまえ 多分あと数十年したら「武士なんて本当はいなかったのでは?」とか言い出すな未来の歴史研究家は 世界初の鉄砲と大砲を装備して運用する宋の軍を、展開速度と弓の騎乗速射と機動力で制圧したモンゴル軍である、 神風は台風とは昔から言われてるし
蛮族が一騎打ちしたかは疑問 誰が何を俺の叔父に吹き込んだのかもこれから全部調査させてもらうから
覚悟しとけよ、国賊のスパイどもは。
福岡にも国賊が大量に住み着いてる事がよくわかりましたよ。
本当に全く笑えないからね、このスパイまみれの偽日本国は。
とにかくドイツイギリスの関係者にもアメリカの要人の皆さんにも
ご準備頂いてお待ち頂いてるでしょうからね。私も後は有言実行で行動するだけです、
人生と名誉を回復し親兄弟や親族との関係も回復する為にね。
慶應義塾の関係者にももちろん準備いただいているでしょう、
新塾長は”アメリカ留学でIBMで活躍された本当の日本人”という
中々珍しい人物らしいですしね。しかも純粋な慶應義塾の人物らしいですね。
よくそんな人物をスカウトできたなと思ってびっくりしましたが
アメリカの要人の皆さんにもいろいろと配慮頂けてると思いたいね。 >>375
モンゴルの方も火器は柔軟に取り入れてる あのなあ・・・そもそも海を越えての遠征が無茶なんだよ
補給も無いし撤退する拠点もないのに戦が出来るかっての
それでも元が来たのは日本がもっと小さい島だと思ってたからだな
要は朝鮮に騙されて死地に兵を送らされたんだな 宋の鉄砲は日本に渡来したが、日本側は戦闘で実験的に使った後に、コストと手間の割には大したものでもないと物置に放り込んでしまったようだな 事実として日本が大したことなかったとしてもだよ、だからといって日本を扱き下ろすような小馬鹿にする文言は不必要ではないかね?事実は事実であってそこに付随して相手を小馬鹿にする必要は毛根ないだろう。 元国の世界最大の大船団を拿捕した鎌倉幕府
鎌倉幕府の海上輸送の兵站に大打撃を与えるほどの海軍力を持たぬ
世界最強のモンゴル帝国相手に、不死の軍団を従えて逆侵略を開始する鎌倉幕府 ぶっちゃけ、散々に流されて上陸時にはバラバラ、がっつり船酔いでまともに戦えなかったかと。台風が来なくとも、座礁遭難しまくりで、兵站維持なんて無理。
浅底の沿岸用、河用の船じゃ日本海は越えられない。 というワケですのでそれまで親兄弟や親族が中国朝鮮のクソスパイたちから
経済的な圧力をかけられたりガスライティング工作で友人関係を潰されたりしないよう
アメリカの要人の皆さんと”本当の日本人”と”本当の九州人”の方々にはご協力いただきたいね。
と言ってももう冗談抜きですぐですのでね。必ず近日中に私は皆さんにコンタクトを
取ってご協力頂けるようお願いしますので、その時は快くご協力頂けるとありがたいですね、
資金提供やSAPとHVBに対する”清算”の件でもね。
本当に全く笑えませんからね、この国はアメリカより遥かに酷い状態だという事も
アメリカの要人の皆さんとユダヤ社会の皆さんにも十二分にご理解頂けたと思います。
本当に危ない所だったのです、この国はね。 佐賀やら長崎で沈没してる蒙古軍の船が見つかってるから嵐(台風じゃなくて爆弾低気圧的な物かも知れんけど)が来たのは間違いないと思う ていうか嵐が来たのは2回目の終盤戦だってもう証明されてるのに何言ってんだお前ら 大宰府に固執しすぎたのと、第一次作戦で使った対馬・壱岐をもう一回使ったのが敗因
とにかく上陸して展開さえしてしまえば日本の鈍重な重装弓騎兵など機動力で圧倒できる
対馬へ高麗軍で陽動を仕掛けつつ甑島から八代港を制圧し隈府まで占領する
この方面の防備は北条軍2000と菊池軍700なので戦闘にすらならない
南宋は八代で交易してたので地形などの情報はあったはずだし とにかく私も激怒してる事はご理解頂かないとね。
ここまでやられて激怒しない人間がいたら見てみたいよ、本当に。
本当に朝鮮人がやる事は姑息で卑怯な犯罪行為ばかりで嫌になるからね。
最近は中国共産党もあからさまに本性を現し始めたね。 でも中国朝鮮人が突っ込んでくるおかげで色々解明されていくなこれは
議論中はするけどやらせておくほうが面白いだろ >>362
おおスマンスマン
どうやらおまえはアホ未満だったみたいだな
はやくアホの水準まで知能が発達なさることを期待するよ 欧米さえモンゴル軍に圧倒されたのに島国の土人軍が勝ったとかあり得ない どっちにしろモンゴル支那チョン連合軍が壊滅したのは確かだから。
弘安の役に至っては、返り討ちで朝鮮半島を取り返すつもりで艦隊建造してたけど
半島なんかいらんしモンゴル支那チョンが土下座したから計画中止。
それより仏教やら神道の連中が神通力の恩賞せがんで大暴れってのが幕府を衰退させた。 >>334 日本はノモンハンでソ連に敗退してますので。 モンゴル軍の装備は、包囲戦や長期戦に不向きで上陸作戦に向かない
鎌倉武士団と装備が逆なら、モンゴル軍の圧勝 モンゴル帝国ってあれほど領土拡大したのになんで衰退しちゃったの? 戦役後に、日本側は元の残した兵器である船舶用の大砲や手投げ炸裂弾、鉄砲を多数鹵獲したが、その後日本側がそれを有用な軍事技術だと取り込んだ形跡はない
それどころか溶かして、記念の装飾品にしちまったようだ ベトナムもさり気なく元軍撃退してるんよね
あそこつえーよ >>395
高麗攻める計画は1度目の文永の役後、2度目の弘安の役前
それに元も高麗も負けはしたけど土下座なんてしてないしフビライは3回目の計画立ててて
ベトナムと戦争になるまでは準備もしてた >>1
モンゴル軍が世界中で残虐行為をした記録があるし
日本の武士団より集団戦法に長けていたのも事実だ
脚色はあるにせよ大筋で間違っているわけではない >>399
後継者が複数居て分割相続したんで帝国が細切れになった
後は各個撃破 平安末期頃の戦いではすでに集団戦に移行していたんだろうね
どうにも一騎打ちの資料が無い
すでに平家物語でも先駆けと組討ぐらいしか名乗りがないし
一騎打ちで勝敗が決まったのは武士登場の初期ぐらいでは? なんだろな鎌倉武士の荒くれぶりはさ
平将門から始まって享徳の乱まで続く荒くれぶりだったよな
まるで元寇に備えるための実務訓練になってたな 一騎打ちって大将首同士の決闘だろ
他の雑兵は集団戦で犬コロのように死ぬ
誰なのかすら分からん >>394
その割には死傷者数が炉助の方が多くて、どっちが勝ったんだ?って今でも露西亜自身が語ってる。
まぁ政治だよ。
支那チョンはホラ吹きに必死だけど、炉助ぐらいになると冷静に分析する。 >>394
だからさ、現在の最新上陸艦でもあれば馬を乗せて最強軍備をしたモンゴル騎馬隊が活躍できるかも知れないけど、
当事の船で死ぬ思いでやってきて、どうやって勝つの? >>368
高麗からモンゴルへ拉致された人の2世3世は
モンゴル人扱いだったようだ。
ハーフ。しかも元寇で攻めてきてる。 日本国内近郊は気象操作できてたってオカルトだったら面白かっただろうに >>412
連合軍なので、騎馬隊だけじゃないw
いつの時代も歩兵がメインですよw モンゴル軍の海戦への知識不足が全てだよ
海を見たことないような草原の民族が作戦立てて上手くいくわけないじゃない
ハノイ湾では満潮の時に湾の奥まで侵入して、干潮になって動けなくなくなって勝手に自滅した
船を動かしてたのは南宋の兵だから、元に協力したくなかったかもしれない >>355
なんだよそれ
中国攻め落とす?
いつそんな戦略たてた?
>>396
ノモンハンは敗退ではないぞ
戦争途中での講和というか
国境線がわずかに変わっただけ
まあ、あそこでは日本のと先端部帯とロシアの本陣との間の戦いだから、劣勢はしょうがないが >>415
騎馬隊で勝ち進んだモンゴルが、歩兵メインじゃ日本より強いとは言いきれないのでは?
日本は騎馬隊がいるんだよ。 中国の属国だった歴史を否定しようとする韓国に待った
http://news.searchina.net/id/1697834?page=1
李成桂が1392年に漢城を都として建国した際に国名をどうするかで大いに悩み、
最終的に明の皇帝・朱元璋に決めてもらった。次に、朝鮮半島では明および清に対して
朝貢を行い続け、その回数も頻繁であったとし、中国王朝の属国という身分であり続けた。
さらに、ソウルにある2つの建築物についても取り上げた。まず「独立館」は朝鮮王朝が
明、清の使節を迎え入れるために1407年に建造された「慕華館」であるとし、
独立門についてもその前身は中国の使節を迎えるための「迎恩門」だったと伝えた。 >>412
それ選んだのはモンゴルね
海戦選んだのよ 地震等の影響で現代とは全く違う地形だろうから、海の荒れ具合は当時は凄かっただろうな
モンゴル軍も陸軍主体の国家だし、海戦も不得手で大船団も密集状態だっただろうし 元は本気ではなかったろ
本気ならペスト使ってるだろうし あと日本だって海戦主体なんてことはない
陸戦だよいつも
海戦メインの国なんてないから >>420
元寇時の鎌倉武士打線とかいうやつなら嘘松だから貼らないで欲しいわ
あれがあちこちに拡散されて元寇と鎌倉武士については変なネットミームが浸透しすぎ >>419
スターリンの大粛正でボロボロの赤軍だけどな なんでこの手の記事書く人って
もれなく中国アゲ記事書いてんだろうな 日清戦争で負けて下関で土下座して
台湾を日本に献上した中国w >>416
それも元寇時の鎌倉武士打線って嘘松打線で拡散された話だし
まともな学者が取り上げるわけがない >>429
そんな事は知らんよw
それ含めての話だし >>421
日本の騎馬隊なんて、ポニーなんだから偵察部隊がメインですよw
いつの時代も結局は歩兵ですよw だってチョンの鎧が厚紙だったと言う嘘のような真実
だから、海辺の戦いで防御力がほぼなくなり、バサバサ切られた まず、日本の歴史学者の妄想癖は半端ないぞ、という事実を認めろ
そして元の記録原文を読め
余計な憶測や希望的観測は捨てろ そもそも鎌倉武士が博多で何をやったかを知れば、一騎打ちはありえないと分かる
武士はそんなに正々堂々としたもんじゃない >>430
中国アゲ?
中国からしたら異民族の支配国家だから、認めたくない話ですよ >>430
建国以来ずっと続いてる日本の歴史が邪魔なんだろ
文革やった国だしな 半数以上がゲロって顔真っ青で、フラッフラ。物資を乗せたまま座礁や流されて行方不明多数。上陸前から既に戦える状況ではない。 >>438
和紙じゃない?
予算もお手軽で、結構防御力もあるし
戦国時代にも大砲で使用するぐらいだし 当時の日本人男性の身長は140センチ前後
武士が乗ってた馬も、日本在来種の駄馬と呼ばれるポニーの一種
一騎討ちしたらどうやっても大陸から来た大男に勝てるわけない
小学3年生が大人に挑むようなものだから >>437 >>313
武士が博多を略奪だか焼いたかして焦土作戦したってことなら
根拠のない俗説というか噂みたいなもの
人気漫画で取り上げられたせいか有名にはなったけど
それだってキャラにちゃんと噂だけど、と言わせてる >>444
日本の馬じゃ一騎討ちなんて無理
ポニーに全部で80kg近くになる甲冑着た人が乗って戦えるレベルでは無い 勇猛な大男と言われた前田慶次でさえ3尺8寸(145センチ) >>33
正確には味方に証人になってもらう為名乗ってた
手柄もらう為にね 1回目は元側が割りと有利に進められてたけど指揮官級含め被害も大きくさらに進める戦力はなくて撤退
2回目は元側の戦力増強してきたけど鎌倉幕府側も準備万端だったから返り討ちにあって攻めあぐねてるうちに台風が来た
って感じじゃなかったっけ?
授業で習った時は神風で〜とか書いてあったけど過去の武士に対してかなり失礼だよね… >「手に穴を開けて数珠つなぎ」という描写は、やはりオーバーではないでしょうか。
お前がそう思いたいだけだろ、今の常識だけで考えて(´・ω・`)
女を裸で逆さ吊りにしてた世界だぞ、バカじゃないのかコイツは もし元の遠征軍が全軍上陸したら半月で鎌倉まで到達していたらしいね >>434 >>444
モンゴルの馬も「ポニー」なんだが
それに蒙古襲来絵詞みりゃわかるが騎馬のままの武士も歩兵も両方書かれてる 鉄砲なんて見たことなかっただろうから弓矢の届かない距離からバタバタ狙い撃たれた >>454
そしたら史実で参戦しなかかった鎌倉の軍も参戦するから一方的にやられるとは限らないけどな もしモンゴル本隊だったとしても徒歩では大して強くないだろうなw
騎馬にのって平原を駆けてナンボ >>445
御成敗式目だけ見ても鎌倉武士がまともじゃないのは分かる
あんな人として当たり前のことすら幕府から法整備してもらわないといけないのもその根拠 >>2
当時、韓国から高名な軍師を招いて兵法を学ぶとともに、韓国の優秀な傭兵を呼び寄せた
日本が勝てたのはこれが最大の要因 >>444
モンゴル馬やモンゴル人の体格知らんだろ >>455
モンゴルの馬がポニーWWW
少しはまともな嘘をつけよw ずっと一騎打ちで戦うわけじゃないだろ、殺られるまで武士が待ってたと思うのか?
アホなのかコイツは、元寇が無くても野党や郎党の類としょっちゅう戦ってた連中だぞ(´・ω・`)
名乗りが無けりゃ切り捨て御免だ、戦闘のプロをなめんな 実際は日本軍が物凄く強かったということのようなのでね。
なんで、後世にインチキ話にしなければならんのかと思うよ >>456
元寇でつかわれていたのは「てつはう」という炸裂弾での原型のようなものであって銃ではないが
陶器に火薬と殺傷能力を上げるための鉄片をつめたものだが4キロの重さがあるし >>464
モンゴル軍も他国侵略に邁進中の戦闘のプロですがw >>463
騎馬武者が狙撃を食らい血しぶき上げて落馬する浮世絵を見たことあるぞ モンゴル軍っていうか中国朝鮮連合だよな
当時の鎌倉武士は当時世界でも最強クラスの重装弓騎兵で編成されていて相手弱すぎで勝負にならなかったみたいだよ、堤防作ったのも出来るだけ相手を一網打尽に殲滅するためだったとも言われてるし >>462
蒙古馬は体高120〜140cmで、鎌倉時代の日本の馬もと同じくポニー(体高147cm未満)に含まれる
当時のモンゴル軍がサラブレッドで騎馬軍団作ってたと思ってるのか、
ポニーをシェトランドポニーだと思ってるのかどっち? 近頃ユーラシア大陸を中国大陸と言い換えているのを頻繁に見かけるんだが
なんか気持ち悪くね? 当時の武士の闘いはえらくのどかだったらしいね
一騎打ちでなかなか勝負がつかないと両者合意の上でいったん水入りにし
郎党が主人の汗を拭いたり水を飲ませたり団扇であおいだりのんびり休憩して
さあやりますかと再開したって 「最近の研究では・・・」がインフレ化して、
どれが本当なのか分らなくなってきてるんだが(;´・ω・) >>470
西洋馬でしょw
支配した中国から調達している事から >>459
アホか
ああいう現代人から見てもちゃんとしている法文集を当時作れたってのはたいへんなもんだぞ
世界に誇るべき文献だ
このバカ! >>468
蒙古襲来絵詞のことだと思うが、竹崎季長が乗っている黒馬の傷口には矢が刺さってる
詞書でも射られたことが書かれてる
竹崎季長と三人の兵士の間でてつはうは炸裂してるが
竹崎季長や馬がそれで負傷したとは絵からも詞書からも読み取れない
というかあのてつはうの形状みればどうみても銃じゃないだろう
まああのてつはうと三人は後から書き加えられたともいわれるが >>468
>浮世絵を
浮世絵なら、ずっと後世の江戸時代の創作イラストだろ。
たぶん、浮世絵でなく、蒙古襲来絵詞の事を言いたかったんだと思うが・・・。 >>468
そんなのはない
単なる爆発物だよ
あるわけないだろ >>459
現代の法律みれば殺人や窃盗の禁止が刑法に書かれてるだろ
あとよくみかける御成敗式目の意訳は捏造もあるから原文かまともな翻訳みないと内容勘違いしてる可能性あるぞ 一騎打ちは武士化した地主さんが隣の武士化した地主さんと争ったときにやった程度
どちらも当主ぐらいしか馬に乗っていない
当時は頻繁にあったのかもしれないが
戦闘の規模が拡大され武士団が形成され始めると一騎打ちはあきらかに流行らなくなる
名乗りを上げるのとは違うからね >>411
死傷者数で比較すれば、硫黄島の戦いは米軍の方が日本軍より多い。
だから、硫黄島で日本が勝ったというのはナンセンス。
最終的には第23師団が壊滅して、ノモンハン一帯はソ連軍が支配した。
ソ連軍は(彼らの主張する)国境線を越えて、満州国内に攻め入ることも可能な状況だったが、
第二次大戦が欧州で始まる直前だったので、
東亜での戦線拡大を望まないソ連が抑制したまでのこと。
冷静に分析すれば、ノモンハンでは日本が負けている。
当時の澤田参謀次長も稲田作戦課長も、敗戦を認めてたわけでな。 >>17
陸戦を得意としていたモンゴル軍が船に乗ってやってきたんじゃなくて
宋、高麗軍がやって来たんじゃないの 皇国史観は、お調子者のバカが作った学説
実績もなにもない無能者が、派閥闘争・金・出世栄達のためだけに唱えだした
現在で言えば、表現力も歴史知識も劣る「百田」みたいなのが、皇国史観を推奨した
野心むき出しで、実力がついてかないバカが、最後に頼るのが神がかりの主張
合理性に欠け、批判を許さない主張は、公から追放すべき
皇国史観みたいな主張を放置すると、科学を衰退させ、国の命運すら誤らせる 顔真っ青で、散々にやつれた奴がポツポツ上陸して来ても、戦える訳がないだろ。 竹崎さん盛ってね?
と言う気はする
敵が強いと言う事か自分スゲーのどっちかわからんが 昔の大河で、騎馬武者のダンカンが、浜辺で名乗りを上げていたら、
いきなり、てつはうが飛んできて爆死してもたシーンは覚えてるw >>1
対馬の住民を食肉用に舟にぶら下げてたら.それ見た日本側が大激怒して攻め飲んできた奴ら皆殺しにしたってなw
半島人は昔から下劣だわ >>483
ソ連が抑制するわけないだろ
大軍入れて戦っている
大体勝ったといっても大した勝利ではないぞ
国境線がわずかに動いただけ >>487
あれ少数で敵に突っ込んでいったらやられかけて危うく死にかけてたけど
白石通泰殿が助けてくれたんで生き延びました!って場面
しかも敵の首とれなかったから直ぐには恩賞もらえずに
鎌倉までいって先駆けの功を訴えてやっと恩賞もらえた、ってオチがつくんで
自分強い!って持っている絵というわけではない 弓騎兵が強かった
常にアウトレンジから攻撃できたんだろうな >>471
世界征服の野心が丸見えだよな
アジア大陸、ならまだしも
中国大陸、なんて表現は
自己顕示欲丸出してキモい 元軍は戦士した武士の肝食ってるし。補給が満足にできないし
船べりにぶらさげた人間は食料でしょ
水与えられない状況じゃないしもって数日
大陸では人間は食料だもの。表現がオーバーだとか
食料にたいして元軍はそんな感傷ねえだろ 日本民族の神話としての甘美に味付けされた元寇ばかり好んでますね >>483
ソ連が抑制するわけないだろ
大軍入れて戦っている
大体勝ったといっても大した勝利ではないぞ
国境線がわずかに動いただけ
日本はいつも勝ってたから、若干の敗勢に余計な事を入れた >>465 神道系の宗教利権のためと言えば、通じるだろうか。(´・ω・`) >>490
皆殺し?おっかねぇな日本人って。
1人殺された報復が皆殺しなんて。 >>82
同意
小二氏は歴史でもっと評価されるべき >>82
少弐に丸投げじゃなくて指令、統帥を重ねてたからね
時宗・安達泰盛の大本営でプラン立ててる
よく寺社の祈祷に恩賞出したって揶揄されるけど
それだって、全国の武士の半数は寺社系の武士だったから、
その兵力を鎌倉の指揮下に入れるって意義があったし、
いろいろ仕事している >>460 >>495
聞いたことがないが
まさか僧侶の蘭溪道隆や無学祖元のことじゃないだろうな
ふたりとも南宋人だぞ
三別抄のことなら別に日本は雇い入れてない
元寇の前に三別抄から救援要請の手紙が来たが日本はスルーしただけ >>478-479
蒙古なんちゃ絵というのか
社会ニガテだったから興味なかったし浮世絵かと思ってた
そうかあれは撃ち抜かれた時の血しぶきではなく火薬が炸裂したんだ 九州に上陸されてからは武勇で巻き返すも
アホみたいに一騎打ち挑んでは集団でボコられて
折角形勢有利になりかけたのに膠着状態続いてたところ蒙古側の突貫工事で作った船が次々沈没じゃなかったけ >>477
お前のレスのほとんどが「だろ」で締めくくられてて、お前の方がバカに見えるわ >>460
なんだよ、韓国とか
朝鮮かね?
高麗? >>504
最新の研究で、蒙古の襲来を退けたのは韓国の戦略があったためであると明らかになっている
日本は韓国の知恵によって今の国を保っているのだから不思議なものだ >>481
武士のみに焦点が当てられてることは無視かい
そこが一番重要なのに ちんぴらが
なんか変よそ者をクソなげこんだりしていびって撃退した感じだった >>492
えーあの脳筋鎌倉武士にしては正直でいい人っぽいな
大河でうじきつよしがやってたから胡散臭くて、すまんな >>507
そのアホみたいに一騎討ち挑んだ、が今は疑われてる
記事にもあるが竹崎季長も一騎討ちしてないし名乗ってもない >>510
冗談言うのが専門?w
本国負けてるんだからそっちで頑張れw 当たり前だよな。
テツハウとか実用性ある程度に威力ある飛び道具あったろうに。
どうしてこんな大軍を相手に出来るんだよってのが正直な感想だった。
さっさとゼータガンダムやらせて欲しいわ 神風があったとしても
3ヶ月も上陸出来ずに近海を漂っていたら
そらいずれ台風来るに決まってるよね >>520
小船でせめて行ったんだよね
それで勝ってる >>289
ネトウヨの主流、いわゆる戦後保守界隈も
この考えだろ >>521
それを日本に教えたのが韓国の軍師
こう着状態を作るための知恵を日本に授けた記録もある >>516
名乗ると言うか相手日本語わからんだろと普通に思うし
ほんとに名乗ったなら脳筋バカすぎる ノルマンディー上陸作戦じゃねーんだから
大群押し寄せたら普通に負けるだろ。
オマエラ当時の弓兵のお願いショットで勝てると思ってんのか?w >>507
当時の高麗は元の従属国で王はフビライに従順な娘婿 >>521
そそ
ま、上陸させなかったのが勝利なんだよ
鉄則やね
>>524
だから日本に教えてないで、自国救え、って韓国はないけどなw 若い頃は、歴史上の偉人美化主義者の童門冬二の歴史本をよく読んでた。最近、流行りの※諸説有りって信じても損した気分になって萎えるからやめねぇか?今は、甲賀(こうか)と読ませるのもやめれ。 >>2
実はモンゴル人は殆ど来てなかった
中身は宋人と満洲〜高句麗辺りの連中 >>530
そんな事を言う奴もいるが、絵姿見るとモンゴルやね
指揮官は明らかにモンゴル それに思うけどな。
台風で弘安の役が終わるにしても
そこまで深刻だったら仕掛けないんジャマイカ?
日本とモンゴルが目と鼻の先で睨み合ってるところに
台風来て窮地を逃れるって現実的に考えて有り得ないだろ。 >>531
そういえば、日本に知恵を授けてくれた韓国の軍師も絵描かれていたな >>500
昔の日本人って「袖振り合えば皆〇し」「ただの喧嘩に背後の寺社武士総動員」ってくらい血の気の多い民族だもの。
徳川綱吉の時代まで辻斬り喧嘩暴れ放題だったし。
綱吉がいなかったら今でもその時代を引きずってたと思うわ。 >>532
韓国から招いた軍師が、モンゴル軍を長期間海上にとどめさせ、台風で一網打尽とする知恵を授けてくれた >>524
だからその軍師ってのは一体誰でその記録はどこにあるんだ
>>533
どこに?
出てくる名前にそれらしきものはないし
詞書にだってそんなこと書いてない 結論:右翼に論理なんて無い。問答無用で不正やりたいだけ。 >>510
当時韓国なんて国は存在せんやろと...w
ネタにしてもしつこいと嗤えんわよ。 鎌倉武士の戦闘力が尋常じゃなく高かったとかだっけ
戦前は神風云々より武士の働きが凄かったと教えてたとか
二度目の元寇では防塁+疫病+蒙古南方軍の遅れも重なり鎌倉主力6万の九州到着前に台風で壊滅的な被害を受けたとか何とか >>526
動力船なんか無かったから集中上陸出来たワケもなく
山口から長崎・平戸辺りまでバラけて上陸して指揮系統は繋がらず
各地で野営中に鎌倉武士のゲリラ戦で徐々に疲弊していき
嵐で物資を積んでた船が沈んで元と高麗の指揮官が逃亡して敗北 ちょっと昔の不良の抗争といっしょだよ
よそ者に対する闘争心だけはすごいあったと思うよ 何が韓国の軍師だよw
嘘でもせめて三別抄の名くらい出せ >>355
首都の北京は制圧したけど国民国家を理解できない蒋介石とかいうキチガイが降伏しなかったから余計な被害が出た主に中国と中国人に ノモンハンは小松原と辻の暴走で負けたんだよ
ただ、日本側がシナ戦で戦慣れし、ソ連がポーランド戦を行うため停戦に同意せざるを得ず、どうにか戦線崩壊だけは防げた
あと1週間停戦が伸びていたら、特に日本陸軍飛行隊の当時の主力戦闘機97式戦闘機が工場生産分を除いてすべて破壊・撃墜されていたほどかつかつだった
第一次 第24戦隊24機+第11戦隊24機+α → 被害0機
第二次 第24戦隊・第11戦隊・第1戦隊各24+α機 → 全損51機、97戦での補充ができず95戦を投入
小松原はソ連と繋がっていた事実が判明して秘密裏に消されたけど、辻は顔の広さでどうにか左遷だけで済んだ >>28
大正天皇の和歌は優れている
少なくとも文才はあった >>540
出ないから聞いてるんだが
本でも全く読んだことがない
ソースは? 女は手のひらに穴を開けられて紐で括られて連れていかれた 似たような歴史の歪曲やったオワコン国家あるけど
「あの国みたいにならなくて良かったね」って話に俺が持って行っても
アホウヨは未だに遠慮無しだからな。これからの未来も透けて見えるようだ。 >>550
最新の研究だからうまく出ないのかもしれないが、今では1番有力な説
韓国の軍師がいなければ、今頃日本はモンゴル帝国の一部となっていたと考えられている 神風が嘘だったら日本軍は凄かったということになるな。 こんな時代から
朝鮮王による告げ口外交の被害
法則で滅んだ元
千年たって今も変わらぬ韓国人 鎌倉武士ってそもそも弓騎兵だから一騎打ちとか無いだろ >>327
捕虜人質に取る知能はあるということだなと学習してこっちも積極的に捕虜を人質にしたぞ >>96
若狭から京都はどうやっても山越えしなきゃならない、
琵琶湖から南下したとしても比叡山は超えなきゃならない
土地勘の無い山岳部で囲まれたら終わりだろ
さらに対馬海流に逆らって戻る航海術が無い
当時の船は風上に向かって帆走できない
対馬海流が弱まる夏頃に仕掛けるとしても冬場にしけるまでには勝負をつけなきゃならない。
釜山から片道10日はかかるだろから兵站供給もコストがかかる
戻りだと2週間はかかるんじゃねぇかな
それよりもまず九州を支配下に置いて数年がかりで支配地を広げながら本土を
北上したほうが確実じゃねぇかな。
俺がチンギスハーンならそうする やあやあ我こそは
なんて侵略者にやるわけねーだろ。どんだけアホなんだよ。昔の人馬鹿にしすぎだろ >>555
だからサイトならURL、本や論文なら題名と著者名は?
どうせ釣りなんだろうけど変な最新の研究コピペみたいに根拠皆無でも拡散されることあるからなあ >>561
正々堂々戦うほうがなんかカッコええやん >>563
韓国の軍事の指摘した点はまさにその点
遠方からの進軍なら、補給には限りがある点は克服できない
その点を突いた >>544
むしろ上陸バラけた方がゲリラだと思うけどな。
そもそも、モンゴルが白昼堂々と台風に晒されて上陸するわけねーが 一騎打ち戦法が通じなかったという記述が創作だとして
その戦法はダメで苦戦したわけだから
日本アゲになってないと思うけのだが、じゃあ何で書いたんだろう?
苦戦から神風で盛り返したというコントラストが欲しかったから
一旦日本サゲしたのか? 歴史学は答え合わせのできない学問なので
面白いよね それまでは天皇が自らを神と名乗る事は無かったのに、明治になって急に神を名乗りだした
明治になってから色々とおかしい、間違いなく天皇制をカルト宗教化し、担ぎ出した奴らが居る 基地をつくらせないように防戦し続ければ
その内に、嵐や波の荒い日も来ると、
日本人なら誰でも考えるでしょ >>559
それなんJかどっかの奴が遊びで作った嘘打線のやつだろ
人質殺したってのとセットでどっちも嘘だよ
江戸時代の講談どころかここ何年かで
ただ5chのそれもなんJみたいな所に書きこまれだけのものが
なんでこんなに広まってるんだか >>570
天皇は、自らを神と名乗ったり、人間宣言したり
したことは無いよ >>546
じっさい、鎌倉から江戸時代まで、日本は韓国人から色々教わってたけどな
寺子屋の先生もほとんど韓国人だし、日本で学問と言えば儒教の本を読むことだったし >>2
実際船で北のはほぼ高麗軍だから、強くないよ 確かに元寇とか令和前後の日本とか韓国と変わらん状況だもんな。
ココに李氏朝鮮の話まで絡んだら「さもありなん」ですよ。 >>570
明治も神とかいっていない
平安時代から天皇の呼び名でつかってる御上(オカミ)を、アメリカ人が神と勘違いしただけ
オカミは偉い人ぐらいの意味しかない >>96
目と鼻の先?
間にある山々が凄いから今でもJRの路線も直線では通ってないのに
グルーンと山を迂回して石川方面に進むか兵庫方面に進まないといけないから若狭湾から京都に行くのに電車で4時間くらいかかるよ >>561
これまで穏やか表情した仏像が戦乱の荒波で金剛力士象に豹変する時代だしな >>577
寺子屋の先生は普通に日本人だが
儒教は中国のものだし儒教教えるのも中国人じゃなく基本日本人 >>548
小松原師団長とソ連に情報漏洩していた(主導的なスパイではなく、ハニトラされた結果だが)ことは、
戦後になって判明したことで、当時はそんなことは疑われてない。 どうしても国の健全経営を邪魔するってんなら
海外に金銭供与してでもピンポイント爆撃してもらいたいんだけどね。
ソレを拒否してまでコイツラを担ぐメリットって何だろうね。 台風はすぐ来たわけじゃない。
侍の防戦で、モンゴルは数ヶ月経っても、
陸に基地を作れなかった。 >>576
神の子孫という位置づけるだよね
史実的には 後半の戦いでは季節風が来ることをある程度把握してたのに
上陸できなくて同じ目にあったという フィリピンにもラプラプがそんな伝説あるよ
何か近いような元ネタはあるんじゃない というか、平安末期から鎌倉時代の国内の戦って、
戦力みるとなんかショボいし、
組織的な軍なんて桓武天皇が廃止ししてから、安土桃山時代までないだろ
中世日本の兵はずっと警備隊、自衛団、薬剤費みたいなもんにしか思えない
元寇は、そりゃ島国の利とかじゃないん >>577
そもそも日本が統治するまで朝鮮の人々の99%は奴隷だったんだよ
抗日してたのは奴隷を失った支配層 >>545
単なるよそ者ってだけじゃなく侵略者だからな
南宋人は国内に住んでた人もいる程度にはある程度受け入れてた
といっても現代と違って殆どは貿易港でもある九州だろうが
>>430
中国アゲというか元、フビライに好意的な?記事は多いな
しかもかなり無理のある論法の >>580
明治政府が憲法で神格化し、自身もそう見えるように振る舞ったから名乗っているのと同じだよ
そしてその結果が、天皇機関説も弾圧する、今の北朝鮮のようなカルト国家へ向かった >>24
日本の武士は重装弓騎兵だから平原だったらモンゴル軍ボロ負けだよ
武士が大人だとしたらモンゴル軍は子供
そもそも戦にすらなってない一方的な殺戮になっただけだよ >>548
ノモンハン事件と張鼓峰事件の意義は1945年8月までソ連の対日参戦を遅らせた事だよ 合戦前に名乗りを上げるのは習わし
これをしないと一番槍の手柄がもらえない
その後に弓合わせ 高麗人・宋人「なんでモンゴルの為に船作らなあかんのや、そや、手抜いたろ」
フビライ・ハン「お前らが乗るんやで」
高麗人・宋人「」 >>580 アメリカ人に責任転嫁しないようにな。
天皇を神とする思想は、戦前(特に昭和初期)の日本で、政府が主導して広めた思想だからな。
文部省編纂『国体の大義』133頁より
>天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、
>現御神として肇国以来の大義に随って、この国をしろしめし給ふ
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880826/72 蒙古襲来絵詞の絵師らは誰も前線に出て写生していない。
竹崎季長らがこもごも自分たちの手柄を語って、絵師が想像で描いたもの。
そもそも絵詞では蒙古兵が立って弓矢を放っているが、明らかに絵師の間違い。
中国大陸の兵が使用するのは弩弓である。
これは座って射たり、あるいは立膝で射た。
日本では古来より、刀や槍は戦場での攻撃の道具ではなかった。
戦死者のほとんどは弓矢によるものであった。
戦国時代末期、南蛮渡来の鉄砲が登場してからは、銃弾による戦死・負傷がほとんどであった。
刀は倒れた敵の首を切り取るための道具である。戦の手柄として本陣に提出した。
名刀とか銘刀とか、芸術品としてちやほやしだしたのは戦のなくなった江戸時代からである。
名刀や銘刀は帝国陸・海軍で上級士官の礼装用となった。
環境の悪い戦場ではすぐ折れたり、錆びたりして、実用性に乏しい。
日本政府は戦闘用の刀剣としてステンレス製の「昭和刀」を大量に製造し、軍に装備した。 >>96
六波羅に幕府の主力がいるのに無茶言うなや
元軍の上陸が九州近辺のみと分かるまでこの部隊は
動けなかったから弘安の役でも間に合わなかったのに >>596
日本で本格的な騎兵が生まれたの明治じゃないの
というか、あのモンゴルが騎馬で来れる立地に日本がいたら
やべーよ、一度日本なくなってるよ
中国も国土と文化を一度リセットさせられたし、
かの150万都市バグダードも廃墟にされられたし、
昔の先進的地域がモンゴルのせいでいくつか消えただぞ
まじ海があってよかったわ >>1
日本で作られた日本の歴史は捏造だらけ
歴史を美化するために嘘の上塗りを繰り返した まあ当時の合戦は
公式昼休憩や公式定時のあった時代なので
武士側も最初戸惑ったと思う 朝鮮人の悲劇は元寇の役の敗北だけで終わらなかった
元寇の役で手柄をもらえなかった武士や
身内を惨殺された漁師や豪族は
その後何世紀も朝鮮南部を荒しまわった
朝鮮人が欲に言う「倭寇」である 日本は昔から人口がくそ多いから常識的に考えて海渡ってくる外国勢力が勝てるとは思えん >>599
大日本帝国の戦略目標を北進論から南進論に変更させて、
独ソ戦ソ連勝利のアシストをしたのがノモンハンの意義だろw 元軍「敵大将らしき奴の首獲ったので首を吊るして威嚇したらその首奪い返しに突撃してきて大損害が出た。
意味がわからない」 >>606
鎌倉武士は騎兵だよ、戦国時代にしても武田の騎馬隊は
織田方に警戒されてるし普通にいただろ >>606
武士は騎乗してなかったのか?
初耳だからソースお願い 主力である騎馬が使いにくいところでは弱かったんだろうね
確かベトナムにも撃退されてたでしょ >>584
でも、小松原はノモンハン直後(たった1年後)に「病死」となっている
予備役編入も4か月後だし 少なくとも文永の役は真剣に攻める気なかっただろモンゴル
南宋滅ぼしてないのに辺鄙な島国攻める理由ってなによ
戦略的におかしいだろ >>577
韓国経由で来たものは、奈良まではあるけどないよ
寺子屋教師とか
アホいつまで書いてんの >>615
歴史をコリエイトするなよw
元の主力は蒙漢軍で歩兵と弓兵が主力だぞ >>596
だから、日本の馬は駄馬と言って、かわいらしいポニーの一種なんだよ
足が太くて力強く、農具や荷車を引かせるのには向いてるけど、人を乗せて駆け回るのには全然向いてない >>578
あいつら本当はやる気なかったんだよねw
だから指揮官殺された1回目はさっさと引き上げた >>617
その南宋と日本に繋がりがあると考えてたからだぞ
そもそも当時の日本は東方見聞録で語られるように
資源輸出国だしおかしな話ではない >>620
足が太くて力強い馬じゃないと重装の武士を載せられないだろ馬鹿かよお前はw >>620
は?日本の馬は蒙古馬系列でモンゴルと差は無いが
あとポニーってw取り敢えずポニーの定義調べてこいよ
モンゴル軍の馬もポニーの範疇だからさw >>1
一騎討ちしたかどうかはわからないが名乗りは上げてるだろ
それが当時の武士の誉れだからだ 今の価値観で物を言うな馬鹿が >>607
逆だ
恩賞狙いで、相手を手ごわく書いた >>622
本にそう書いてたw
とにかく日本に南宋攻め邪魔させたくないからとあったな >>476
ネットでみたらモンゴルもポニーみたいだよ。
>モンゴル騎馬隊のポニーは小さかった
>
>しかも、サラブレッドよりも大きなポニーではなく、日本の木曽馬と比べても小さいものだ。
>体高は130cmほどで、体重は200sから300kgと明らかに軽い。
> このくらいの体格の馬でも、人間を乗せて戦場を移動していた。2021/04/21 >>626
蒙古襲来絵詞なんて恩賞貰った後に書かれてるのに何いってるの? >>591
見方の差だな
日本の武装軍は強かったのよ、特に戦国は
世界の銃器の半分は日本にあったらしい
>>620
言い過ぎだよ
それなりに使えた
源平の時にも乗ってたし >622
でもその両方と同時に戦うつもりはなかったって話でしょ。日本は小手調って目的だと言ってんだよ >>614
馬(というかポニー)はあくまでも戦場までの移動手段で、騎馬武者はみんな馬から降りて戦ってた
もちろん武田の騎馬軍団も だから騎馬軍団による集団突撃なんて勝手な妄想に過ぎない
って言われてるけど、島津の退き口はどうなんやろね? >>611 アシストを受けたのは、日本側も同じでな。
米ソ二正面戦争をずっと遅らせるという意義があったのだよ。 >>633
鎌倉時代と戦国時代は別だぞ
お前頭大丈夫か? >>623
ポニー=子馬さんだぞw
日本の馬を馬鹿にしてるわけじゃないけど、足が遅くて軍馬としては役に立たないんだよ
当時の騎馬兵をそのまま再現したらまるっきしコントだ 鎌倉武士が乗っていた馬は縄文時代にモンゴルから連れてきた馬を弥生時代に日本各地で
生産繁殖させてもの
当時の武士は早くから馬の軍事利用の重要さを分かっていた >>617
だから二万位上送ったんだろ
あっさり降伏すると思って
そいじゃないとわかったんだよ
対馬では全滅するまで戦うし >>632
神風で撤退したのは事実でけど、それまでに元軍を追い詰めている >>591
朝廷に歯向かう連中を片っ端から族滅で滅ぼしてるし隣接した領地同士の土地争い水争いも常態化してたから警備も自衛も常に命懸けだぞ って、いうか。中世の頃はヨーロッパの馬も小さかったみたいだね。
今見たく大きなったのは品種改良? >>636
鎌倉武士が乗っていたのは中馬
サラブレットなんて足が細くて戦に使えない >>616 そんな状況証拠だけで疑われてもな…
日本側が、小松原からソ連に情報が洩れていることを把握していた証拠など残っていない。 >>631
だから高麗方面軍だけで一回目の侵攻したわけだろ
日本が人口が多くて武士が強いなんてのは後世の人間だから
分かることであって当時のフビライが島国一つ降伏させるくらい
四万の大軍なら十分と考えてもおかしい話じゃない >>620
戦争用の馬だから足を簡単に折られるような細いのはダメで、さらに気性が荒いから敵兵に噛みついたりするように調教されてた。
小さいからこその使い方を戦場ではしてたそうな >>145聖徳太子はいなかったと主張する人と、同じ類で客観的じゃないんだよな。確かに昔の書いているのを盲信しない姿勢は必要だけど、きちんと根拠を出して論じないと >>636
アジアの馬なんてそんなものだろw
モンゴル軍の馬のサイズくらい調べろよks 佐賀・長崎の日本海側なんて直ぐ山間地になるから元の騎馬兵の出番なんか無いし
鎌倉時代に元々人もそんなに住んでたと思えないから、あっちの方に上陸した元軍は現地不案内でそこに張り付く事になって
戦力としては分断されて役に立たなかったと思うわ >>635
馬の種類は同じだろ?
大丈夫か?
>>641
アラブ馬入れてからだろうね 現実は鎌倉本軍が到着する前に九州勢だけで蹴散らしたからな >>645
なるほどね。まあ、確かに舐めすぎてたのかもしれんね >>636
再現してるの見たことあるがコントってほどじゃなかったぞ
現代の成人男性が武装して乗ってもちゃんと格好がついてた
というか当時なら大陸の馬だってポニーだろう >>650
無知を晒して恥を恥で上塗りするのやめろや
バカチョンみたいでみっともない 元寇も元側でクーデターが起こって戦争どころじゃなくなったって説があるからね。
船の中で戦闘が起こってたとか、どう考えても到着した兵士が少なすぎるとか証拠らしきものはある 日本の文化はその殆どが朝鮮から得たものなのです
わたしが知るかぎりの話では天皇は元々朝鮮王族です
日本刀も朝鮮半島で発明されましたが日本人は学ぶと教えてくれた素晴らしい朝鮮人を皆殺しにして日本文化としました
織田信長と豊臣秀吉も朝鮮人でしたが織田信長は朝鮮人と知られて明智光秀に迫害、差別をされ最後は殺されました。豊臣秀吉は死にたくないから自分は朝鮮人であると知られないように朝鮮を滅ぼそうとしましたが悪の日本人に毒で殺されました。
日本語も朝鮮から伝わりました。日本人は頭が悪く言葉を持たず字も使えないのです。だから哀れに思った高僧が朝鮮から頑張って海を渡り日本に言葉と文字を伝えました。
日本はそれでも感謝する事なく今日も韓国を尊敬しません。 なんやかんやで上陸させてないんだから立派だよな
船に戻っちゃったから台風なんかでやられてるわけだし 武士は馬に乗って戦ってたぞ
その証拠が太刀の「ソリ」
歩兵同士で戦うなら直刀で突くのが断然有利
弥生時代、白村江の戦いで直刀で戦ってただろ >>633
蒙古襲来絵巻では竹崎季長は騎馬のままで先駆けに突撃して騎乗のまま戦おうとしてる
後から追いついて竹崎を助けた白石という武士も騎馬のまま弓を射てる
>>629
その絵巻にまさに竹崎が恩賞もらった所も描かれてるが
というか恩賞もらう前の竹崎は貧乏御家人であんな絵を絵師に依頼する金はない WW2のフィリピン戦時に満州から大連を経由してサン・フェルナンドへ陸揚げした普通の馬牽き編成部隊の馬は、
たった一週間の船旅にもかかわらず、再度大砲などを牽くまでの体力を取り戻すのに1か月程度かかった
青函連絡船があった頃、シケが予想されたときに打つ車載制限電報でよく使われたのが「ウマツマヌ」
競走馬が貨車で青函連絡船を使って本州と札幌を行き来していたため、輸送後に弱っていたら馬主が船長宛に苦情を言うからだそうで
数日間シケが続いていた時に「ウマツム」と打電した船長の便は全て馬が乗った貨車だったと言う笑えない実話もある >>654
厨房でしょ
モンゴル馬も知らない奴に何言っても無駄 博多湾は遠浅の海で海岸が長くて広いから上陸は容易くても常に丸見えで橋頭堡を築くのは難しかったのではなかろうか ID:dhBhg4oT0「小さい馬はポニーだから騎兵に向かない(キリッ」
厨房は学校で歴史の勉強しとけw 神風じゃなく実力で元寇を駆逐したってことだから、逆にサムライすげー!ってなるだけだよな。 >>660
蒙古襲来絵詞は恩賞奉行への追慕というのが最近の説だね >>656
朝鮮王とか日本の部下だぞ
半島の、三国史記読んでみ
>>658
台風強調したのは朝廷らしいね
武士のお陰で助かったってイメージを低下させるため
>>665
そんなことは書いてないぞ >>620
ポニー=体高147cm以下
次いでに在来馬といってもモウコウマの血を引いてるものもいるし
当時の軍馬は体高130以上のものもいる
>>622
正式な国交や同盟こそ結んでないが民間貿易は盛んで
金や硫黄を南宋に輸出してた >>611
ノモンハン事件によって日本が南進を決定したとか新説だな >>646
気性が荒いってのは軍馬としては最低だぞ むしろ普通に考える体高の馬だな
競走馬みたいなのではない
ああ言うのの方が戦いには向かんよ >>674
時代によって馬に求められるのも違うんじゃね
もちろん言い切るからにはソースはあるんだよな? >>633
平安後期から鎌倉時代に活躍した武士の装備は大鎧から和弓、太刀にいたるまで馬上で騎射して撃ち合う為の装備であって歩行用に出来てない 幕府はガチムチの軍事政権だからな
流石に蒙古がナメプしすぎた 福岡いきゃわかるが
まああない狭い狭い所に
騎馬うんぬん関係ねえわな
海岸で押し留める作戦がまああたりだったと
太宰府決戦でもしてりゃ負けてたんかしらんが >>2
>でも何らかの方法で押さえ込んだのは事実なんだけどな
どうだろうね。
モンゴル軍はヨーロッパでも勝ち逃げしちゃったケースが
いくつかあるし、日本が南宋を支援しないようになれば
別に構わなかったんじゃないかね? >>673
赤兎馬も当時の馬のサイズ的に恐らくポニーの範疇だぞ 元寇で元と高麗の弱さが分かったから倭寇の時代になったんだよね。 サラブレッドをイメージしてるのかね?
あれは元々速い馬を作り出す為にイギリス人が交配を繰り返してる最近の馬だよ
その速さを確かめる為に始まったのがダービーだよ >>633
日本の騎馬武者は下馬して徒歩で戦うっていう説は
長篠の合戦を観戦していた戦には素人の宣教師が書いた資料がもとになっているだけなんだよな
長篠の合戦そのものが織田軍は騎馬のままでは責めづらい野戦築城していたので
武田軍も下馬して徒歩で攻めただけ
平原での野戦だったら、わざわざ下馬して戦うようなバカな戦術はとっていない
もしも平原での野戦でも下馬して、徒歩でしか戦っていなかったら
流鏑馬という武術があるわけがない >>660
だいたい「一騎」っていうと供回りの足軽
含めて7、8人ぐらいが普通だったはずだね。 そもそもモンゴルはヤギの乳を飲んでるから人も馬も大きかった >>682
交易で西から流れてきた重種の原型
って線もないでもない >>689
重種の馬は長距離を駆けるなんてのは苦手だから
ヨーロッパの重種系ではないな
軽種の王様、アラブ種だろ >>676
気性の荒い軍馬なんて役に立たないから、わざわざ去勢する訳で ポニー程度のモウコウマでモンゴル軍はドイツ付近まで攻め込んだ
粗食に耐え持久力のあるモウコウマは軍馬として最適
大食いで持久力のないサラブレッドより、モウコウマの方が実戦向き >>681
使った兵は反乱の危険性ある宋兵や高麗兵だしな >>688
はい、ダウト。
モンゴル馬は小型でポニーに分類されてます!! モンゴルは鎌倉武士に全く太刀打ち出来なかった。
その後の倭寇も元や高麗が滅ぶまで大陸や半島を略奪し続け、およそ100年間猛威を振るった。
元は太宰府を攻め落とせなかったが、倭寇は寧波府を攻め落とした。
高麗では釜山、蔚山、塩原に倭館と呼ばれる拠点を作り一世紀あまり半島の南部を支配した。
元寇なんか倭寇と比べたらたいした事ない。 >>690
普通にフェルガナの「汗血馬」と言われていたアハルテケじゃないの? >>686
後醍醐天皇に追いかけられて逃げ惑ってたじゃんw >>691
ところがどっこい鎌倉時代は気象の荒い馬が
いい馬とされていた。 2、3年前のブルーバックスの日本史サイエンスで同じようなこと言ってたような >>690
まあ所詮指揮官の見せ馬なので
能力なんて別に
>>692
歴史学は答え合わせ不可能なのでロマンよな
無限に考えられる >>698
後醍醐天皇の皇子である懷良親王が明から倭寇の頭領と見做され日本国王認定受けてるからな、 >>674
気性が荒くないと肉弾戦の戦場に出てけないでしょ。鉄砲撃ちあって馬は荷物運ぶだけの時代と違うんだから。
実際、当時の戦場での馬は相手に噛みついたり蹴とばしたりしながら闘ってた >>697
アハルテケも軽種に分類されるからな
重種の馬とはこういう種類の馬
https://www.minnano-jouba.com/mame_chishiki05.html
日本でいえば、北海道のばんえい競馬で何百キロのそりを引いて
競争しているような馬体重が1t近くあるような馬たち >>695
ポニーでも栄養がいいから、日本の馬より大きく育った 騎兵同士の戦いなら、馬が大きい方が有利かもだが
騎兵と歩兵なら、逆だろうね
上からの攻撃が届かないなんて、的でしかない >>701
どうせ大袈裟な表現だろうけれど
赤兎馬は一日に千里走ったと言われているから
そこまでいかなくても、長距離を走っていたことは確かだろう あの時代に騎馬軍が海渡って勝てると考えるとか、頭お花畑だよな
なぜ元軍ともあろう者がそんな無謀な策を取ったのか
日本の無礼を咎めないと大陸で威厳が保てないから、負けるの承知で突撃したのか >>707
体高120台から130台だから大差ないよ 「オレの教えを信じないと日本滅びるぞ、元寇はその罰だ」
って主張してた日蓮やその系譜のイカれた連中が
元軍の残虐行為とかも含んで創作しまくり…
ホント、日蓮宗ってろくなことしねェ。その後の歴史みても >>710
大元ウルスの軍は別に騎馬軍じゃないからね
蒙漢軍が主軸だからバトゥの遠征軍とかとは違うよ 案内人が半島人らだから九州上陸したところでそっからが遠すぎて止めときましょうで帰っただけだよ >>709
そういうのは
そのままうけとったらためなやつだとは思う
あんなに勇壮な姿だからそれくらいできそう
的なやつな気がする >>710
高麗史によると倭寇の騎馬300が高麗全土を荒らしまわったらしいのだが。 >>691
ソースはないのか
妄想だけで時代背景を無視した断言は慎むべきだぞ 日本の固有種?在来種?という馬の代表が
木曽馬だろう
木曽馬ってこんな感じ
https://www.youtube.com/watch?v=ErFK_bzytL4
全速力で騎馬突撃してきたら、歩兵は転ぶくらいの威力は十分あるだろ
まあ、騎馬突撃のような使い方よりも日本の武士は騎馬に乗りながらの弓矢の射撃攻撃が得意戦法だったそうだから
騎馬突撃ような戦法は使っていなかったかも知れんけれど >>716
騎兵同士の話ではあるけど官軍の矛が蝦夷の蕨手刀に苦戦したのが
太刀誕生日に影響してるから太刀が馬上で使いやすいのは間違いないと思うよ 日本の武士は、騎射が主戦術
太刀は身分の象徴か、せいぜい射落とした相手の首をとる道具にすぎん
「坂東武者はなぜ強いのか」ということに対して
「あいつらは従者にも弓もたせて撃たせてるから」
と身も蓋もない答えを返した史料があったはず…公家の日記だっけ >>715
九州上陸したけど征服できてないから九州から先を目出せてもないし
帰った文永の役の後でまた弘安の役で着て今度は上陸できてないのに
台風まで2か月粘ってる 研究してる教授が変わるたびにコロコロ変わる歴史に意味あるわけないだろ教授が自分の名前残したいだけだぞ >>720
原付レプリカみたいなかわいらしさがあるね 日本の騎兵に機動力は期待できない。兵科分離できてなくて遠近両方の装備持ってたから重装備すぎる
だから元軍は九州本土に拠点さえ確保できれば後は蹂躙できたのだ
だから八代港を狙うべきだった。貿易港で南宋人はよく知っていたはずなんだから
隈本はまだ未開発で隈府(菊池)までの平野はモンゴル騎兵にとって展開して編成するのにちょうどいい >>3
記録に残る最古の歴史なんてどこでもそんなもん。
お笑い朝鮮史に限らず旧約聖書だってそんなもんw >>725
50ccバイクでも時速30キロ程度の速度で歩行者に突っ込んできたら
歩行者はコケるだろうし、そういう意味では
ポニー程度の馬だから騎馬は戦闘の役に立たないって言っているのは
想像力が足りないんだよな
敵もポニー程度の馬しかもっていなければ
ポニー程度の馬でもかなりの戦闘力になっていたと思う >>699
日本史で騎馬武者が活躍した事例は有っても、
騎馬隊が活躍した事例がほとんどないのは軍馬の気性の荒さのせいなんだろうな >>726
隈本なんかに展開したら九州三大勢力の少弐大友?島津に袋叩きにされるだろw >>728
ポニーというと現代のポニーを思い浮かべますが平安時代の平治物語絵巻なんかに描かれている騎馬武者の姿とか
騎乗してる武士に比較して馬がそれほど小さいような描写でもないんですよね >>728
原チャどころか
ままチャリでも突っ込んできたら怖い >>1
名乗りがあるにしても平家物語を考えれば歩兵が槍や刀、弓でもって陣形組んで集団で挑んでぶつかってるし、
その後の尊氏や新田の鎌倉攻めにしても白兵戦だろw
勝ったのはあちらさんお軍勢が船旅で疲れて訓練でもできてない。上陸してもこれといった地図もないから
どこをどう攻めていけばいい不明。ことにモンゴルの軍を指揮してる連中には高麗や趙 良弼から直接、
上陸予定地域の地理の情報はもらってないだろう。
よくわからない敵地に船で上陸したらそりゃ不利だわな。 >>732
ポニーはサイズの幅が大きいから勘違いされるけど
一般的に想像するふれあい広場のポニーは
シェトランドポニーっていう特に小さいポニーだよ 当時の日本人の平均身長が低かったと仮定するとポニーくらいの馬が適していたと思う >>732
いや、小さいよ。サラブレッドみたいな大きさでは描かれていなくて、せいぜいが体長が人間の背と同じかむしろ小さいくらい。 >>726
蒙古襲来絵詞見れば分かるけど当時の元軍は
騎兵主体の軍ではないよ、そもそも文永の役でも
本来平野まで誘い込んでから戦うつもりだったわけで >>710
豊臣軍は海を渡ってあっという間に半島制圧したのだが。 で モンゴルに支配されて 数百年間も辮髪強要されつづけた
無能和白痴的喫猫漢人どもがなんだって? ゲラゲラ 好笑
☆日本版超音速旅客機開発へ 更にリュウグウサンプルから大量の有機物
https://blog.goo.ne.jp/axxxxxa0000/e/2f30e5ed593203d44fca1ce758c57557 >>709
話だけの赤兎馬まで持ち出して必死だなww 五毛吗? >>738
小さいことは小さいが
木曽馬でこの程度
https://www.youtube.com/watch?v=ErFK_bzytL4
現代人が想像しているポニーがこの程度の大きさ
https://www.youtube.com/watch?v=MHNIpX9-sSU
かなり大きさが違うだろ?
さすがに現代人がイメージしている、ポニー乗馬体験くらいの馬だと
戦闘力はあまり期待できそうにないが
上の木曽馬くらいなら、十分な戦闘力になっていただろう >>742
おまえは喫猫のチンク野郎か? と聞いてるんだよ うすのろ >>741
その辮髪を見て「まあかっこいい!真似しよう!」として、間違えて逆に頭の真ん中を剃って500年過ごした我が国の立場は? >>748
辮髪なんてつながった大便 かっこいいとか言うのは 人んちの猫盗んでくってる
臭ぇ チンク野郎しかいねぇよ ゲラゲラ
☆慶賀 文化大革命50周年 これが人肉宴会だっ!
http://militarymatome999.web.fc2.com/satu1.html
#文化大革命 #人肉宴会 #虐殺 #中共 #共産党 #毛沢東 #中国 #文革 #人食 #虐殺 #喫人 >>10
殺人に対して異常な執着心を持ち24時間戦えるバトルマシーンだから >>2
モンゴル軍の船がショボかったのと、海を渡った戦いをほとんど経験していなかったことで補給路が駄目だった。
海を渡ったのはサハリンの先住民を制圧しようとした戦いぐらいだろう モンゴル軍全兵力を凌駕する兵力を日本は有しており、
和弓や日本刀等、世界最強の武器があって、
源平合戦以降、戦に次ぐ戦によって、
戦い慣れした世界最強武士団がそこにはあった。 >>752
インドネシアやベトナム、ビルマも攻めとるぞ
上陸出来ないというのは稀だが裏切りや地の利で負けとる >>37
「この国のかたち」や「街道を行く」で史実の考察をしたから、フィクションをフィクションと読めない読者が続出した。 >>749
明らかに頭の真ん中を剃る方がおかしいだろw
辮髪は今でもツーブロックとして受け継がれ、世界中で人気の髪型
逆に現代でちょんまげしてる人っている? >>491
ソ連の損害はかなりのものだったから継続も出来なかったよ
戦車も航空機もほとんど破壊されたから そういやモンゴルってベトナムにもボコられてたっけなw
中央アジアから東欧にかけての包子料理の分布が
そっくりモンゴル帝国の支配領域とかぶるって有名な話がある。
ジョージアのペリメニや、ポーランドのピエロギは見た目が餃子そのもの。 >>754
結局モンゴルの拡大の最大の原因って
ヨーロッパが弱すぎただけ説が有力 実際海を越えて来たのなら陸に上がった時はぼろぼろやったと思うぞ
元が負けたのは戦意の差だったと思うな >>762
薙刀って、槍と太刀のいいところどりな感じがするけれど
薙刀といえば、城で留守を守っている女性の武器ってイメージしかないな
薙刀は本当は野戦でもすぐれた武器だったんじゃないのかなあ? >>756
いつも時代劇とか見るたびに思うんだけど、あのツルツルをキープするの無理と思うんだよなすぐ生えてくるし
殿様とか人にやってもらえる人はいいけど一般人は毎日剃るなんてそんな面倒な事してたんだろうか 憎しみの連鎖はやがて怨恨に変わり、我々は果てることのない争いを繰り広げる
双方が消耗し続ける限り、この戦いを生み出した人々の利益は増え続ける
それでも我々は愚かな争いを辞めることができない
バカバカしいことだ 承久の乱は北陸道4万騎、東山道5万騎、東海道10万騎だぞ。
奥州合戦は藤原氏17万騎、鎌倉幕府28万騎の合計45万騎。
モンゴル軍など敵ではない。 >>764
山田洋次や黒沢明とかのリアルな時代劇だと、生えかけて無精髭みたいになってるね >>763
集団戦では危なくて使えないだろ
突くか上から叩く槍で十分 じゃあモンゴル本隊がメインで押し寄せたらどうかっていえば
湿度でやられるし騎馬による集団戦術使えないし
まあ南宋よりも普通に弱いと思う 騎兵が強い強いって言ってるけどモンゴルが強かったのは情報の伝達の速さな
今も昔も情報が重要 >>636
ナリタブラリアン(森安)なら戦力になる >>769
実際の近世の武士は浪人とか病人はともかく
ちゃんと働いている人は毎日きちんと剃っていたらしい
考えてみたら現代のサラリーマンだって
毎日ひげを剃るしネクタイもする
慣れればなんてことないんじゃないの ちなみに、モンゴル軍は総兵力僅か10万騎(笑)
コレで日本に攻めに来た
クビライがバカだっただけなのだよ。 皇国史観だと上皇を島流しにした北条泰時とか
悪政の天皇から再度権力を取り上げた足利尊氏は
戦前は悪人扱いだったみたいだからな >>252
日本で一番シェア率たかい教科書をアレっていう時点で…
お前はなんの教科書なら信用してるんだ?
検定落とされまくったあの教科書とか? >>772
現代のサッカーだと
日本代表は個人の身体能力よりも
集団戦法に強いと言われているけれどw
鎌倉時代の日本の武士は、集団戦法よりも
個人の身体能力頼りな感じがして面白いな
モンゴルが集団戦法頼りで個人の身体能力が劣っているように感じる >>460
優秀な韓国の軍師・軍人をモンゴル軍が雇ったおかげで勝てたってことか納得w >>743
日本馬は足首が強いから日本の地形に適している
大型であったらすぐに骨折してしまう
大きさだけで判断している人は馬にも乗ったことがないんだろう モンゴルの騎兵は1人に対して
5頭の馬が用意されてたんじゃなかったかな?
その能力がフルに発揮されるようにどうやって馬を運ぶか?
海渡っては物資費用がかかりすぎるな 要するにモンゴル軍が敵を見くびっていた上に、アウェイで不得手な戦法に持ち込まれて完敗したということ
極東の笛 >>763
薙刀は主に歩兵の武器じゃないかなあ
五月人形の飾り見ても判るように
太刀、刀、弓が騎馬武士の基本だと思うわ
太刀を佩いて刀を差しても弓は持てるしね >>783
その5頭の世話をして、武将が乗るまで手綱を引く者の人数がわからない
パドックを2人引きするどころではない しかしあれだよな
剣道も薙刀もある程度メジャーたけど
槍道ってマイナーすぎるよな >>777
10万騎だと
日本の数え方だと
1騎の騎馬武者に5人くらいの兵を連れているから
日本式だと60万人の兵力だぞ
けっこうな兵力になるじゃないか? >>735
どうしてもポニーっていうと身近にいるあのポニーを想像してしまいますもんね
平治物語絵巻では騎馬武者は間違いなく馬に騎乗してかけてる描写ありますし
絵巻のあれから現代人の想像するポニーとはちょっとかけ離れてますもんね
種は同じでも別物というか
人との対比は後ろ足で蹴られでもしたら命の危険があるだろう大きさに思いますし 743さんがupしてくれてる映像の馬がまさに平治物語絵巻なんかに出てくる馬の大きさにまさにしっくりくる
現代のサラブレッドよりは小さいだろうけど
だけど間違いなくポニーより大きいだろうみたいな >>10
日本刀に関しては、刀としての性能が相当優れてたらしいね
なのでまだ鉄砲もない時代だから、武器に限定すれば、意外と強かったのかも 歴史学界もパヨが多いからな
元寇が高麗主導であった事実が人口に膾炙しつつある中で
韓国が悪かったということにはできないという圧力やな >>785
騎乗して太刀や打刀振ったら自分の馬に刃が当たっちまうんだわ
だから基本的に騎馬武者の武器は槍と弓。刀は騎乗した状態では使わない
時代劇なんかでは無理に騎馬に刀使わせようとするから立ち止まって片方にだけブンブン振り回す隙だらけの絵面になる >>759
鎌倉武士の戦法
壱岐対馬は敵の様子を見るため見殺し
人質が居ても平気で攻撃
略奪されそうな都市は先に略奪
船に馬の腐乱死体を放り込む
死ぬのが怖くないのでそこら中で特攻かます
元寇の兵は人間じゃなくて魔物か何かと戦ってる気分だったろうな ポニーって馬の品種じゃないからね
馬を体高で大まかに括ったもの
日本の在来馬もアラブ種でも体高が低ければポニー >>787
槍術は江戸時代は結構メジャーなんじゃないの?
あくまでも明治以降はあまり聞かなくなったってだけで
それに槍は接近戦かそうじゃないかで戦い方が全然違うじゃん >>784
戦力の大きさ的にも見くびってはいないと思うよ
実際クビライは死ぬまで日本攻略に拘っていたし
ガチでやってガチで追い返されただけそれ以上でも以下でもない >>798
日本側も元に攻め込む算段をしてたが鎌倉が止めたので、松浦党を中心に九州の武士だけで攻め込んだ。
その結果が倭寇であり、懷良親王の日本国王。
九州だけで一世紀以上、世界と戦っていた。 >>797
いや現代の話
薙刀ある程度人口あるなら同様くらいには
槍道も人口あってもいいもんなのにな
みたいな あほか、日本が元を撃退したのは事実
日本を貶めるようなこと書くなよカス >>798
渡海して戦う経験値は高めようが無いから
日本攻略は無理だった
なお、神風は台風じゃなくてちょっと強めの風で海が荒れてボロ船が沈んだと考えるのが自然 >>785
時代が違うけど、武田の騎馬武者は長い槍で敵兵の頭頂部を長さを利用した重みで思い切りぶん殴り
脳震盪起こしたところを顎に槍を引っ掛けて、膂力で弾き飛ばすという戦い方をしていた
あの時代の兵士の骨から、頭蓋骨が割れて、脳内出血で死んだと思われる事とかがわかってるらしい
時代劇だと馬に乗った武者が短槍で敵兵を突き殺し、次々と打ち取る演出があるが
実際の騎馬武者の戦闘は頭ぶっ叩く方がメインっぽいよ 結果から明らか、優勢な側が船に戻ることは有り得ない ゴーストオブツシマじゃオープニングで誉、ホマレ言って突撃してたのに >>760
あのさぁ元朝の時は実質的にモンゴル帝国じゃねーから
元朝、チャガタイ汗国、キプチャック汗国、イル汗国で戦争やってるから
オゴデイ時代のモンゴル帝国は同時代に対抗しうる国家や勢力がない
矛先がヨーロッパだっただけでインドやマムルークが標的だったら粉砕してるよ 実は元寇なんてなかったりして
当時鎌倉で上映されて大ヒットした舞台演劇「元寇」が史実として伝わってしまった
今から1000年後には、アルマゲドンやインデペンデンスデイのストーリーが史実として語られるかも 気象学的にも11月に台風なんて来ないからな
単に船の構造がヤワすぎてシケで沈んだんだろう >>788
残念だがそれは間違いだ。
僅か10万騎(笑)で日本に脅しをかけてきたので、
驀直進前で撃破すれば良かったのである。 >>794
太刀や大太刀は元々馬上で抜く様に作られた武器だよ
振り回すんじゃなくて馬の走っている勢いで斬るんだよ 元寇の一騎打ちは、早々に無視されて無断だと悟った!と習ったろ?
本当に山川の編集の凋落ぶりは酷いな 当時の高僧の無学祖元の分析によると、
鎌倉武士は驀直去すれば良かっただけであった。
そのくらい、やはり戦力に差があったという
当時の分析だろう。 元は1241年のワールシュタットの戦いでヨーロッパ諸侯連合軍を打ち破っている
ヨーロッパ軍は重装騎兵でロングランスの一斉突撃の前には蒙古軍など相手にならないと信じられていた
ところがいざ戦ってみると機動力をいかしたモンゴルの騎馬弓兵にナイト軍はなすすべもなく敗れている
騎乗して弓を射るということは鉄砲のない時代にはとてつもなく脅威だった
おまけにモンゴルは威力が少ない短弓の欠点を毒矢で補っていたから尚更だった >>778
今の陛下は持明院統の系譜なのに
大覚寺統の後醍醐天皇から政権奪った尊氏が悪人扱いってのも変だよな
尊氏や道誉がいなかったら今の陛下は居なかったのに >>795
パヨクの無学者に洗脳されているおまえかわいそ >>809
実際は冥人が裸足で逃げ出す外道ぶり。>>795
日本人は親兄弟で数百年の間小さな島国で殺し合ってた戦闘民族だぞ。
誉ってのは自分たちがやられないように対外的に見せてるだけで、それが通じない相手なら何やってもOK。 創作?とか言われたら戦国から以前ほとんど創作歴史だろ
確実に信用できるの江戸時代も末期からじゃね? 日本の和弓は世界最長であり、
射程距離も世界最長、
しかも正確に狙う事ができた。
モンゴルの弩は弾幕程度のものでしか無かったのである。
それでは勝てないのはアタリマエの事だな。 >>813
いや、11月以後に日本に上陸した台風は気象観測開始以後いくらでもあるぞ 日本の下が短い和弓は、
既に魏志倭人伝に登場しているぐらい歴史が長い。
元寇の時点で、
既に1000年の武器としての歴史があった。 一騎打ちは兎も角、地上戦でボコボコにされたのは本当 >>9
モンゴル軍が引くぐらい一えげつなかった。
モンゴル軍が人質を先頭に置いても関係なく、人質ごと容赦なくモンゴル兵を叩き潰しに行った。 >>831
でもこの戦法
>>807を考えると
兜の中に髪の毛があると髪の弾力性で
頭蓋骨をある程度守られて、敵の第一撃で死ぬ確率が激減して
逆転勝ちする可能性も上がったんじゃないか?と感じるけれどな
髪の毛剃らない方が良かったと思ったわ >>823
史実は時代に寄らず
真実の答え合わせをするのは不可能なので
史実はロマンであって真実とは別のものだよ >>827
元史にはもっと凄惨な事書いてるけどな。
元史・巻二百八
五日、文虎等諸將各自擇堅好船乘之、棄士卒十餘萬于山下
方伐木作舟欲還、七日、日本人來戰、盡死
5日、文虎ら諸将は各個に堅牢な船に乗り逃げ帰った。
十万余りの士卒は捨てられ、木を伐採して船を作って帰ろうと試みたが、7日日本人が戦を仕掛け、皆殺しにされてしまった。 >>825 親補職を暗殺すると思ってる方がおかしいわけだが。(´・ω・`) 「東方見聞録」では、相当元寇の事、出鱈目に書いてあるぞ >>349
準備不足なんて文献は全く存在しないからな
「官軍整ず、亦矢が尽きる」
古今東西、軍事文書では戦闘の密度を弾薬消費量で表す。
「激戦でした」では主観すぎてどの程度か分からん、だから矢の消費量で示す。
「矢が尽きる」とは戦闘継続が困難なほどの激戦だったという意でしか見られない。
だいたい矢が尽きるまで射たら体力が尽きる。腕力使うからな。準備の話とかないw
そして矢の消費量と必ずセットになっているのが死傷者数。これは必ず。古典軍事文書の必須。
それが「官軍整ず」
「軍が整わない」とは漢文では死傷者が出て編成が崩れた意しか見られない。
軍備が整わないって解釈とか、漢文の素養が無くて恥ずかしすぎる。
ちな、「軍備」と言った教授は高麗史金方慶伝の孫子の引用部分を誤読している程度。 >>2
気候の違うところに長期遠征すれば疫病が流行る可能性が高い 朝鮮戦争もアメリカ軍の反撃無ければ、元寇の二の舞になるところだった >>844 海が渡れんかったやろ。当時、ソ連も中共も海軍は弱い。 モンゴルの短足の馬が日本の海岸や山地を駆け回れるようには思えない。 仮にモンゴル最強の騎馬部隊が渡海できたとしても
日本は水はけの悪い沖積平野ばっかりで大規模な騎馬部隊が疾走できる場所なんて限られてるからな
となるとモンゴルは歩兵で日本を制圧しなきゃならなくなるが
モンゴル歩兵はそんなに強くないしな 鏑矢はモンゴル軍も使ってるんだよな。どっと笑うはずはない。
八万愚童訓は信用できない。 元寇ってさぁ
チョンコロだろ、何やっても必敗だろw >>834
打撃は通常横からだろ?
上はいいんでない? >>852
それな
シナチョンは日本に何回負ければ気が済むんだよw 元寇から学べる事は、
最新鋭の武器を揃えて、
実戦を積み重ねておく事だな。 志賀島で負け、壱岐島に逃げても負け、鷹島沖海戦で負け、鷹島で十万人以上虐殺される。
このどこにモンゴルの強さがあるのか。
元寇は元軍が大虐殺された記録でしかない。
十万の衆、還る事の得る者3人のみ。
残りは骸骨の山になった。 ちなみモンゴルと言っても、元祖のモンゴル人はそもそもいなかったしね
周辺の民族を飲み込んでいっただけ
今だと大きく感じるが昔はほんのわずかの民族だから >>126
でも左翼曰く、騎馬民族がやって来て日本を支配したらしいぞw >>859
数の問題だし
対馬では80騎だけね、モンゴルと戦ったのは >>682
なわけねーだろが
ポニーサイズなら関羽の足が着いてしまうわ >>858
文永の役は赤坂の戦い辺り以外はまともに勝ててないでしょ >>726
モンゴル馬と日本の馬は同じ種類だぞ
馬としては同じ大きさ、
但し、日本は軍馬と農耕馬に分けて繁殖させたから軍馬は大きい
全部軍馬としてたモンゴルの方が小さかった
文献でも「蒙古の馬は小さい」と書かれている
小さいから、現在モンゴルでは大人が乗って全力で駆けるのは法律で禁止されている。
あとモンゴル得意の戦法は使ってる。
先遣隊が赤坂に進出し、祖原の本隊に誘い出すのは常套の機動戦法。
ただし本隊が負けた 当時の武士は既に馬上で長弓を操る集団戦法が確立していた。 ゴーストオブツシマおもしれえわ
史実にしてもいいくらい 違う文化圏で一騎打ちは無かったと思うわ
一騎打ちにも共通のルールが必要だろう 実際は九州の武士団が皆殺しにしたんだよ
僅かな捕虜を残して逃げ切れなかった奴は皆殺しだ
オブラートに包んで神風にしたんだろ >>868
金田城とかとっくに廃城になってる何百年も前の城を本拠地にしてるとんでもストーリーが史実て狂ってるなぁ 確かめようもないから
みんなの説がみんな正解ってことで
いいとは思う >>821
元寇の功労者の少弐景資とか安達とかも霜月騒動で殺してるし絶えず内部で殺し合いしてる民族だぞ >>821
鎌倉時代の武士のお触れに旅人を襲うなとか直ぐに武力抗争するなとかあるんだぜ?
このくらい普通にやるだろ >>864
上陸軍のくせに祖原守り抜いたって激賞してんだからボロ負けじゃん
しかも日本側では百道原に駆け落としたって書いてるし
祖原防衛で激賞ってことはつまり副将重症の蒙漢軍はそれ以下ってことだ 現代の価値観で物を見るな語るな
皆殺し、耳剥ぎ、鼻剥ぎは当たり前だからな
武士の作法よ >>831
平安時代後期から鎌倉時代にかけての鎧
つまり大鎧の兜は頭頂部に髪がないとかぶれませんよ
どうしてかは自分で調べて見てください 博多湾沿岸に20キロメートルに及ぶ防塁の跡が残っている
伝説に伝わる神風による勝利も簡単に上陸させなかったからだね うちの田舎の河野後ろ築地の河野さんは
今でも有名人だぞ。
もう700年以上前の話なんだが。 逃げ切れなかった高麗兵は皆殺しにされた
わっはっは >>879
赤坂の松原に陣を敷かれてるのに守り抜いたとは?🤔 九州の御家人は、
実際、元寇前後に、
九州に散らばっていったのが多いだろう。
オレも、元寇でチョンを切り捨てた
祖先の血が騒ぐぜ。 👳🏾♀インドさんでしょ?
司令官
北魏〜モンゴル帝国辺りまでインド系いたのかな?
極東に >>1
八幡愚童訓がおかしいのは認めるんだが、
なぜ
「手に穴を穿ち、船のへりにくくりつけ」を即座にデタラメとするのかよくわからんな
https://www.google.co.jp/amp/s/www.sankei.com/article/20140614-FJZLXDHVAVP7JFWJC4F27EL25A/%3foutputType=amp
> このような行為は博多の前の戦場だった対馬と壱岐でも同様で、
高麗の歴史書には、「入対馬島、撃殺甚衆」と、
キム・バンギョンの高麗軍が対馬で島民を皆殺しにしたとする記録が見られる。
日蓮宗の宗祖・日蓮が当時、関係者から聞いた出来事をまとめた文書にも同様のことが書かれている。
生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通されると数珠つなぎにされ、
日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられたという記述は残酷で生々しい。
日蓮はこれを高麗の仕業と断定しているが、伝聞をもとにした記述のため、異論も出ている。
奴隷の手に穴を開ける行為は高麗以前から朝鮮半島にはあったとして、
壱岐でも同様の行為があり、元・高麗連合軍が暴れ回った後は武士だけでなく一般島民の死体の山で埋まり、
生存者はわずか65人だったともいわれている。
さらに、元の総司令官が帰還後、日本から連行した少年・少女200人を奴隷として高麗国王と妃であるフビライ・ハンの娘に献上するといった拉致同然の行為が高麗側の記録で確認されている。
高麗側の史料とも一致するんだが。 武士道も江戸時代の創作
戦国時代に武士道なんて概念はなかった >>843
兵士の維持には大量の水と食料が必要
拠点を築けないと 船上に備蓄してある分で補う
∧∧ それ全部 うんこまみれにされた・・・
( =゚-゚) でもその水を飲んだり
.(∩∩) うんこまみれのご飯を食べる・・・地獄 頑張って戦った後は
美味しいご飯食べたいのに
全部うんこついてる
∧∧ 悲惨
( =゚-゚)
.(∩∩) >>877
そういえば昔の武士って今のヤクザと近いくらいの荒くれ者集団なんだっけ
身内を殺された場合、たとえ殺したのが主家だったとしても、敵討ちで主家を殺すのが美徳とされたとか
かなり残忍だったとも聞くし 実際、現在の九州の集落は、
元寇前後に、九州の守備を固める為に
住み着いた人達が多いだろう。
今でも元寇が社会に影響をもたらしてんだよ。 >>64
やべー。侍チョーつえーっよ。ざけんなよ。
って書いてあったんだっけ? >>897
∧∧ それでトンスルとかの文化が芽生えた
( =゚-゚) のかな?
.(∩∩) 小島に避難して身動きできなくなった奴らも
降伏勧告とかなしで皆殺しだ。ざまあ
放置してても死にそうな奴らも皆殺しだ。ざまあ 弘安の役では大規模な野戦自体ないみたいだし、よっぽど水際作戦で撃退できていたんだろうな
文永の役では日本各地の水軍は出陣していなかったけど
弘安の役は水軍も結集させて海戦主体となりモンゴル軍に上陸される前に勝敗を決している 江戸時代でも浄瑠璃坂の決闘とか無茶苦茶
新木又右エ門もキッカケは衆道とか。口あんぐり 元寇の学説で一番笑えたのは
孫子からの引用「少敵の堅きは大敵の禽なり」の解釈だな
「少ない兵力で意地になって戦っても大軍の餌でしかない」なんだが
これを京大教授が
「少ない敵には堅く戦い、大軍の敵には勇猛に戦う」と解釈して通説になっていた。
この「禽なり」ってのは肉食獣の餌食になるってこと
日本では「牙にかかる」という慣用表現が一般的だが
漢文では「猛禽類の爪にかかる」という。禽とは爪のことで、猛禽類とは「猛々しい禽の種類」
これを杉山教授は「猛禽類の禽だなあ」と思ったのだろう「猛」の方で解釈してしまった。
「勇猛に戦う」w
孫子だぜ、杉山さん孫子知らないんだよ
「敵」を軍じゃなくて敵味方の敵で解釈しているし。
あっ、この誤解釈のせいで金方慶伝が漢文苦手な高校生みたいな意味不明な解釈になって
「謎の退却説」になってた。
この孫子を知らない「勇猛」教授wが威力偵察説を提唱した。もちろん根拠になる文献はない。 >>858
本隊じゃないしねー
>『元史』には日本侵攻の困難性について「たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても、倭国は地広く、徒衆が多い。
彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、ただちに海を飛んで渡ることはできない」[197]とあり、
軍議における戦況認識にあるように、日本側が大軍を擁しており、集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、
戦況が不利になった場合、渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを日本侵攻の困難理由に挙げている。
元軍は海戦にクソ弱いからベトナムにも負けてる
そもそも元というか、モンゴル軍が強いのは
後衛含めてパオを担いで嫁子供と羊ごと移動するからであり、
軽騎兵、重騎兵、歩兵の三軍を用いる
ワールシュタットでドイツ騎士団が負けたのは軽騎兵が騎射してくるのを深追いして掘った穴に落ちて欧重装騎兵失った後に蒙古重騎兵に駆られたから。
これを学んだのがのちの16世紀最強のポーランドフサリア >>160
お前みたいやヤツが精神論で突撃命じるんだよな。 >>850
当時のモンゴルは、高麗や南宋の水軍(海軍)に頼れたけれども、
朝鮮戦争当時の共産陣営には、高麗や南宋に相当する国がないんだわ。 >>3
捏造したことのない歴史を持った国があるというなら教えてください (´・ω・`)
例えば中国韓国なんて酷いもんです >>906
面白い
禽
@とり。鳥類の総称。「家禽」「猛禽」対獣
A鳥や獣類の総称。
Bとらえる。いけどる。とりこにする。いけどり。「禽獲」類擒(キン)
家禽という通り、単なる鳥です。
その通り、足の爪のこと ソグド人の記録がユダヤ人そっくりな説
クリミアにもユダヤの聖地があった?! 遠からん者は音に聞け、近くば寄って目にも見よ
我こそは○○国の住人、○○なり >>850
モンゴルはね、自前で技術持たないの
モンゴル軍って機械苦手なんで、カタパルトがないわけ
でもそしたら城攻めできないじゃん
だからね?現地人をとっ捕まえて、刀で脅して作らせるの
同様に地図も現地人にかかせる
一人捕まえたら通訳にするし、ロシア方面、キエフの人間は西ヨーロッパから中央アジア行き来してたしね
だから中国でも文章書けないんで中国人の役人に頼りきりで占領者のくせに蒙漢5:5の役人構成比率だからどんどん乗っ取られる
てわけで、モンゴルで一番偉いのが書記長。
書記長が偽命令作ってもわかんないから。
人事案とかで飛ばし放題。
この結果、モンゴルに征服された国で書記長が一番偉い国が生まれる。
てわけで、カタパルト作らせるだけ作らせて、
あとは病没死体を投げ込むわ、水源に死体投げるわでペスト広がる
そら元寇だよこんなの >>102
早い話、痩せた土地の朝鮮半島には何の興味も無かったと言う証左だよな まぁ尾ひれはヒレ付くのは古今東西通常だよ
撃退したって事実は変わらないし >>895
昔の、って雑
鎌倉武士だと清和源氏の新田とか、源氏源家とかは嵯峨天皇の嵯峨源氏
貴族が土着の東夷、アラエビスと交わってできた半農半兵の屯田兵
肉食ったら野蛮とか言ってる都人からしたら野蛮だろうな
猪とか鹿狩らないと農作物食われるから当たり前
平安時代には梓弓、長野の梓川から取れるのを神事に使ってた
あと刀は奥州藤原が産地で、ここにやたらに刀工集めて蕨手刀から反曲刀である小烏丸などの古刀作ってる
それから馬は厩橋ことグンマーなどで生産してたから
重曹騎馬弓歩兵は東国で生まれた
将門に負けて軍事上の維新がおきたのが平安末期 一騎討じゃなくて合戦の作法で名乗り上げからの鏑矢やろうとしたら無視されたって話じゃないの?
戦は元から普通に集団戦だろ 鑑真にもソグドついて来たんだろ?
やってる事ユダヤ人そっくり >>140
実は沖縄にも攻めて来ているんだよな、もちろん失敗したが >>886
日本側
赤坂は緒戦で菊池が落とし、鳥飼潟を竹崎が追撃、祖原で諸隊が戦闘、
百道原に駆け落とし、百道原、姪浜で戦闘、夷賊駆け落とす(海へ)
高麗側
上陸し分かちて進む、日本軍が突撃し、中軍を衝くに至り混戦となる。…以下大将の方慶まで衝かれている。
つまり鳥飼潟を干潟と浜に分かれて進撃し、赤坂で日本軍が突撃した。
中軍、すなわち祖原の本陣を衝かれるに至り終日混戦となった。
蒙漢軍の方は姪浜まで戦場になっているので崩れている。
そりゃそうだ大将が射られてるんだから。 >>202
和弓はイングランドのロングボウより性能は良かったらしいね >>922
そもそも一騎打ちって文化はどこでもあるわけじゃないだろうしな
は?なにやってんの?こいつバカジャネーノってフルボッコにする画しか思い浮かばん >>2
実際に戦ったのは元じゃなくて高麗の人と聞いたが…
高麗人はいやいや参加していたので士気が上がらなかったとかなんとか
あと、元が強かったのは遊牧しながら遠征してたので、食べ物に困らなかったからとか、
馬を4頭立て位でやって来てあっと言う間に
街を破壊したとか、
馬を食べたり、血は水分として摂ったり、
馬の尻尾を弓の弦にしたりしていたらしいが、
これ全部日本では出来なかったのではないかね… ロングボウは曲射。和弓は直射
しかも矢が重くて精巧。モンゴルの盾を貫通 一騎打ちなんか、いかにも後世の講談っぽいとは思っていた >>133
元だろ?中国王朝。
北に女真族の金、南に遷都した南宋。
>同じ1211年からは金朝に遠征して中国の東北地区(満州)と華北を席捲し、
金朝皇帝宣宗は先代衛紹王の公主をチンギスに嫁がせて和睦を結んだが、
1214年には首都の中都(後の大都)を放棄して河南の開封へ遷都し、金朝は河南のみを支配する小国に転落した。
金を追い落として皇帝宣言
金は華北に斉を置いて傀儡としたが、禅譲させた
そのあとモンゴル帝国を部族の掟に従って分割相続して、
中国全土を元、又は大元として独立させた
その理論だとGHQに占領された日本は征服されてることになるので、日本には都合が悪い >>216
それも史実の捏造らしいよ。
植民地にするのに働き手を殺すのは愚策だからね。実際に傘下に収めた軍隊を使って次の侵攻に利用しているし どんな妄想をしようが日本は元に勝ったという事実は曲げられんわな。 >>934
それもまた史実なので
真実とはまた別のものではある 中学校の歴史で習ったけどこの時代には惣領制が破綻したしまったんだろ。
もう弱肉強食・一所懸命。手柄立てて領地獲得しかない。 >>927
決闘ならヨーロッパで大流行り。
騎士道時代はランスチャージ、
サーベルの時代にはハンカチ投げつけてフェンシング
銃の時代にはピストル
ロシアでは20世紀まで貴族の息子の遊びでロシアンルーレットしとったわ
日本の場合の一騎打ちも武士の礼儀にかなうものではあったが、
鎌倉時代はともかく室町にはやってない
平安時代でこれ↓
https://www.chunengenryo.com/kamakura_battle_manners/
> 平家軍の富士川の合戦で軍使を斬る行為や、
源頼朝が平家打倒挙兵時に伊豆目代の山木兼隆を奇襲したり、
一ノ谷の合戦では義経が平家を奇襲するなど、「ルール違反」が数多く行われていました。 >>927
鎌倉武士にとって先懸はボーナスアップのチャンスだからな
敵に対して有効とかの次元じゃなくてあくまで味方の士気を鼓舞して
のちの集団戦を優位にするための布石で先懸が恩賞対象となった
集団戦での士気を上げるための一つのデモンストレーション
戦国時代の一番槍だって先懸から派生した恩賞だし
そもそも源平時代ですら万単位の軍勢が衝突していたわけだし、集団戦は集団性としてやっていた 「当時の日本馬はポニーサイズだった、そんな小さな馬で騎馬戦するのは無理」
と言う人がイメージしてるのはポニーではなくミニチュアホースなのでは
ポニーに近い木曽馬なら鎧着た乗せて流鏑馬やってる >>319
絵巻なんて書いた本人は皮肉なんだろうけど、後世がそれを信じる馬鹿ばかりとは思わなかっただろうなw >>928
> 高麗人はいやいや参加していたので士気が上がらなかったとかなんとか
それもある。ほとんど船乗りとして参加させてる雑兵、
つまり集めてたので、後ろから元軍が弓で狙ってるからってのはある
> あと、元が強かったのは遊牧しながら遠征してたので、食べ物に困らなかったからとか、
パオを担いで女子供も馬に乗り、時速60kmで移動する都市だからな
しかも兵力は街が服属するか、女子供と牛馬と金出すか、
燃やすのとどれがいい?で断ると全部焼く。
何個も街が消えてる
> 馬を4頭立て位でやって来てあっと言う間に
> 街を破壊したとか、
四頭だてつうより、5人だけ派遣するのよ
街の知事、通訳兼書記官、護衛が3人。
でもこれ叛逆してぶっ殺して便りが途絶えると地平線の彼方から燃やしにくるのね
> 馬を食べたり、血は水分として摂ったり、
> 馬の尻尾を弓の弦にしたりしていたらしいが、
追加すると馬の骨で弓を作る、コンポジットボウなので、
単弓のくせに長弓の射程があって、手綱握らないで回り込みながら包囲して打ってくる
無理ゲー 朝鮮ってどんだけ弱いの?
元寇も中身朝鮮人だったってなると納得の弱さだわ >>941
1人だよ、ただの長弓
クロスボウと勘違いしてるかも >>912
今現在捏造がバレて裁判で負けてる安倍政権の太鼓持ちw >>620
間違い
道産子並びに木曽馬はアラブ産の馬の血入れて人工的に作ったサラブレッドとは違って、
足が太くて折れにくい
でないと総重量20kgの鎧に人体60kg乗せて崖から駆け降りるとか無理
武田騎馬隊幻説は木曽馬の墓を暴いて小馬のサイズを測った説が濃厚
江戸時代でも120cmの人間なんて貧農しかおらん
徳川将軍は最小で140cmの14代、
最大で160cmの秀忠
これ日光輪王寺にある位牌が本人の身長にしてあるから確か
というわけで、蒙古騎馬もきみからしたらポニーです >>928
ぶっちゃけ、領土拡張速度が速すぎて領土に対するモンゴル人が少なすぎて日本に派遣できなかっただろうな。
モンゴル軍の強みは3日で250km移動可能な神速なのだが、平原の少ない日本じゃ難しいだろう。
ベトナムじゃ負けてるしな。 壱岐より実戦記録を持たせた兵を福岡へ逃している
これで応急だけど、文永は辛勝
だって、文永はたった1日しか蒙古・漢軍は博多湾に上陸していないし
上陸して前線陣地構えたものの、日本軍が奇襲攻撃してこれとその次の本陣を攻略
しかし、橋頭堡まで攻撃したら、艦船からも弓で弾幕射撃されて破れず、撤退
でも、夜間の大時化で座礁転覆が相次ぎ、大量の溺死者を出してしまい、戦争ではなくなる
このため、撤退
弘安に至っては、
戦力の逐次投入。そして日本軍の疲弊目的攻撃ですっかり大陸軍が疲労困憊したところへ台風
ほとんど兵器を流されたにも関わらず、兵だけ放置して逃げるまあいつものことをやらかし、遺棄兵は降伏した者を除き全滅 >>951
文永の役は一週間くらい頑張ったみたいですけど >>950
モンゴル人は草原の無い土地はいらない
日本に来たのはよっぽどやることなかったからだろうな
もう戦う相手がいないから
インドネシアにも出兵して負けてるね 昔の戦は取っ組み合いの末みんなで取り押さえて首取ってたしな >>941
一人で引けないと武士じゃないから、この時代
戦国時代の弓兵になると腕力強いやつ選抜してたけど。
生まれた時から仕込まれる
徳川慶喜も弓矢の名手
右手を馬手(めて)左手を弓手(ゆんで)という。
ちなみに○人引、○人張かいう弓矢があるが、これは馬力みたいなもの
弓矢の弦を張るときにたわめるのに必要な人数
運動エネルギーの蓄積だから引くのが重いほど遠くに飛ぶ
NHKに「平安時代のモビルスーツ」と大河の公式紹介された源為朝くんで五人張。 >>956
へー、で、大統領選不正の証拠は見つかったか?
愛知県知事リコールの不正は見つかったけどwバカなお前を洗脳して食い物にしてる自称保守と口先だけ愛国者って詐欺師と金の亡者しかいないの?www 元寇もランドパワーとシーバーワー併せて持ち合わす事が出来ない一例に過ぎなかった
しかし、巨大なランドパワーの勢力がシーバーワーも保有しようとすると海洋国家も少なからず被害を受けるから油断は禁物 向こうの記述で嵐に巻き込まれたのは事実なんだろ。
半島製の船が欠陥だったらしいが >>928
元軍の一軍はモンゴル高原で起きた反乱鎮圧の為に不参加 ナポレオンの馬も小さかったよ。
サラブレッドはこの事態に存在しない >>950
日本は山城の攻防が多いから騎兵の出番が少ないんだよな
攻城兵器だって山に重たい投石器を運搬するのはほぼ不可能だから
日本では投石器が発達しなかった
加えて平野すら泥の沖積平野が多い
日本の国土はモンゴル軍の長所を全部潰す >>938
流行ってたのとみんながやってたかは別だろ
鬼滅の刃流行ってる!←見てないやつのほうが多いわ >>891
チャックノリスなめんま!
youtu.be/-GJgCqKuIgI
サムライ、サムライ、ブッシドー!
冗談はともかく、「道」は存在して、
新渡戸稲造がBushido: The Soul of Japanを記して世に知られた
または弓馬の道という 楽しい歴史雑談スレが終わってしまう
次スレあるといいなぁ 船旅で自慢の馬が使い物にならず、「寄せ来し敵こそ健気なれ」で最終的に10万も捨てて逃げた 太刀って本当の戦ではほとんど使えないんだろ?
その辺からリアルに説明してほしいなぁ >>957
モンゴル人の勢力下にはいった前線の民族が 隣の民族に喧嘩吹っ掛けて
どんどん領土広げていったわけ。
つまり 日本に喧嘩吹っ掛けてきたのは 朝鮮人。
ちょーせんじん「おらのバックは モンゴルだぞ。 オラの支配下につけ!」
日本人「なめとんか しねや ゴラー」
ちょーせんじん「こんなはずじゃ・・・」 >>942
日本以外の軍馬のサイズもポニーなんだよな
ユーラシア大陸を蹂躙したモンゴルの騎馬もポニー
そもそも日本の馬の血統はDNAでモンゴル平原由来だと分かっているし
日本の馬が特に小さかったというわけではない なんだかんだいってもチョーセン人は勝つことはできないんだよw >>970
時代にもよるけど、接近戦の主武器は槍。 >>30
通州事件でそんなのあったよな
そういう文化が向こうにあるんだろ よくできてるなー
聖地クリミアを取り返す戦いだ!
(エルサレムで我慢しなさい!) >>966
みんながやってないとするデータの方が少ない
> 決闘はゲルマン民族の伝統が由来と考えられている。恐らく、6世紀には制度として決闘は存在した。ゴート族は決闘を行わなかったと考えられている。イングランドには最初期には決闘はなく、ウィリアム1世によってもたらされた[2]。
^ F・W・メイトランド『イングランド憲法史』創文社、1981年、P.13
> このように、正式な制度としての決闘裁判は15世紀までに廃れたが、その後も私闘としての決闘はしばしば行われた。フランスでは16世紀終わりから17世紀はじめ、
アンリ4世の時代、年平均235人が決闘によって命を落とした。
申し込まれた決闘を受諾しないことは死に値する不名誉と考えられていたこともあり、決闘はしばしば行われた。
具体的には、貴殿は勇敢だという噂を聞いたので決闘を申しこむというような理由での決闘がしばしば行われた。
ないなら三銃士に同時代からツッコミはいる
コンモドゥスの時代からやっとるわ 手に穴開けるのは朝鮮戦争でもやってる
朝鮮人の悪癖 >>970
>>975
よく言われることだし理論上はそうかもしれないんだけど
敵側の元や高麗の歴史書の記録だと圧倒的に刀が驚異とされているのは興味深いんだよなー
現代日本の分析だと和弓は外国の弓と比べて超優秀という評価されてるけど
相手側の記録だとうちらのと大して変わらないとか微妙な評価だったりする >>981
なわきゃない。和弓の矢はパイプで矢じりが重くて鋭い
モンゴルの矢はただの木の棒。矢じりも軽い。 >>978
やってる事象だけピックアップされやすいだろ
しかも私闘の話だし
なんで国対国みたいな戦いでやる理由があるんだよ >>970
いや
刀は斬る、太刀は「薙ぐ」
馬上から足元切るのに長さが必要なので、
薙刀または長刀を使う
江戸時代に薙刀禁止されたので、
打刀に柄をかえたものが金沢武家屋敷に現物ある
薙刀直し、という。
柄の部分を切り詰めたのが長巻。これも長巻直しがある
太刀は馬上において横に薙ぐために曲刀なのだが、
腰の回転だけでぶつけられるからな
これがソリ。
平安時代の国宝小烏丸は先端が直刀になってる
東夷が使ってた蕨手刀を模したもの。
坂上田村麻呂が取り入れた
なにせ騎馬民族なんで、東夷 決闘のある文化同士ならまだしも、よくわからん土人がいきなり攻め込んできて一対一の決闘とか考えにくいわ >>970
太刀に対抗出来武器が元や高麗に無かったから倭寇は好き放題できた。
その恐ろしさは中国の文献に残っている。 乱戦になると結局刀が強いんだよね
近代戦でも銃剣とかあるくらいだから、小回りの利く刃物が勝つ
というか何かしらの形で刀を持ってないと乱戦の時に一方的にやられちゃう 日本刀 → 鍛造
朝鮮刀 → 鋳造
勝負にならない >>982
ちゃんと理解してね
和弓は優れているはずなのに敵側の評価は低いのは紛れもない事実
俺は和弓が糞だなんて思ってないし言ってない
敵側には評価されてないって言ってるんだ
そしてサブウェポンに過ぎないはずの刀についてはメッチャ評価されていて恐怖の対象になっている
元史とか高麗史ですごく言及されてる
元側で日本遠征に反対している人も理由の一つに日本刀の恐ろしさを挙げている
この現象を君は「面白い」って思わないの? >>983
そこら中で一騎打ちしてんだよ
名前大声で言わねえと記録係が書けねえから、
のちの官位争奪戦で目立たねえだろ!
i.imgur.com/637MDvT.jpg
ああ、○さんが×さんを倒しましたよって首級あげるのに、
でかい声でいわねえとわかんねえの!
今でもプロレスやレスリングでコールしてんだろうが
ローマケンタリオも名乗ってやってるから記録があるの!
ローマ軍は大将が戦闘前にスピーチするの。じゃないと退役した後に選挙してもらえないから
スターウォーズでもこれ取り入れてんの
ロードオブザ・リングでも。史実!
武士の一族は血縁的統制のもとに、本家を首長と仰ぎ、本家以外の分家との結束を重視していました。
この本家と分家の集団は、一門・一家と称され、本家の首長を惣領(あるいは家督)と呼び、その他を庶子(しょし)と呼んでいました。
戦時には、一門・一家は団結して戦い、惣領が指揮官となりました。
平時(戦争がない時)でも、先祖の祭や一門・一家の氏神の祭祀は、惣領の権利であり、義務でもありました。 >>955
そこは服部さんのミス
大宰府管区の戦役終了だから対馬奪還の日。博多湾の戦闘ではない >>989
日本刀は倭寇が主に使ってて、
朝鮮出兵でも李氏朝鮮軍は刀では勝てなかった
そらまあ鍛造の日本刀と鋳造の直剣じゃあなぁ
日本刀歌が作られたのは北宋。元よりまえ
>『日本刀歌』には、
「魚皮にて装貼(そうてん)す、香木の鞘、黄と白の閑雑(かんざつ)す、鍮(ちゅう)と銅」といった対句が記されていることから、
彼の太刀は精巧な透かし彫りが施され、鞘は鮫皮をもって巻かれていたことがわかる。
加えて、「佩服(はいふく)すればもって妖凶をはらうべし」とも述べられており、太刀の魔除け信仰についても11世紀の中国に伝わっていたことがわかる。
このことは、日本刀が単なる美術品としてのみ輸出されたわけでないことを示す資料ともなっている。
前期倭寇は日本人サムライ崩れだが
後期倭寇は朝鮮や中国人
でも日本刀使ってたからつおい ジャパンって名前は諸説あるがやはり野蛮から来てると思う
現代の日本人DQN層を見てるとそう感じる
あの動物みたいな連中の祖先が元を撃退したんだろう
日本のDQN文化はやっぱりある意味凄いんだと思う >>991
目立つことよりリスク避けて確実に勝つほうを選ぶやつがいてもおかしくないし
世の中そんなに男気ある(ある意味ただのアホ)ばかりじゃないよ
見てたらわかるだろ
宮本武蔵の悪口はそこらへんにしとけよ >>990
古代の槍は矛だから槍ではない。
構造に違いがあるよ 槍は密集隊形じゃないと強くない武器だから、あんま鎌倉武士には向いてなかったんだろう >>992
大太刀を振りかぶって一斉突撃、盾や剣も一撃で粉砕され防ぐ事ができない。
これに元や高麗の兵は蹴散らされ、踏みとどまることは出来なかったそうな。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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