三四三空司令・源田實大佐(左)と志賀淑雄少佐(右)。昭和20年春、松山基地にて。
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■三四三空を率いた司令「源田實」

 第三四三海軍航空隊は、昭和19(1944)年末、軍令部参謀として航空作戦を司ってきた源田實中佐(のち大佐)の、「精強な戦闘機隊をもって片っ端から敵機を撃ち墜とし、怒涛のような敵の進撃を食い止め、もって戦勢挽回の端緒をつくる」という構想から生まれた。

 源田は、海軍の戦闘機乗りの草分けの一人で、昭和7(1932)年から9(1934)年にかけ、現代のブルーインパルスの元祖といえる日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」を率いた名パイロットとして、また、昭和16(1941)年12月8日の真珠湾攻撃のさいは、作戦立案に参画、機動部隊の航空参謀として辣腕をふるったことで知られる。

 だが、源田が「名指揮官」で「名参謀」だったかと言えば、その答えには残念ながら疑問符がつく。華やかな印象とは裏腹に、戦闘機乗りとしての空戦経験は皆無だったし、参謀としても致命的な失策が目立った。

 源田の失敗のうち、戦後も関係者の間で語り草になっていた大きなものを挙げると、

 ●生粋の戦闘機乗りでありながら、昭和8年から10年頃にかけ、「戦闘機無用論」を主唱したこと。高性能な陸上攻撃機の登場によるものだったが、このとき戦闘機搭乗員の養成人数を大幅に減らした影響が、のちに重く響いてくる。

 ●昭和17(1942)年6月5日、ミッドウェー海戦で、機動部隊航空参謀だった源田の判断ミスから攻撃隊発進のタイミングを逃し、虎の子の主力空母4隻が撃沈されたこと。

 ●昭和19年10月の台湾沖航空戦で、敵空母の発着艦ができない台風の荒天を利用して攻撃をかけるという実現不能なアイディアをもとに「T部隊」を編成、ほとんど戦果を挙げられずに味方の航空兵力を壊滅状態にしたこと。

 ……などがある。また、「失敗」とは異なるが、軍令部第一部(作戦担当)で航空機による特攻作戦の採用を主導し、人間爆弾「桜花」の開発にも深く関わったことは記憶されていい。

 ――三四三空は、そんな源田にとって、それまでの失敗を帳消しにし、最後のひと花を咲かせる舞台でもあった。そのことは本人も著書に、〈精鋭な部隊を率い、思う存分に暴れ回り、冥途の土産としたい。〉と記している通りである。もし「三四三空司令」の経歴がなかったら、戦後の源田評は惨々たるものになっていたのではないだろうか。

■高高度性能とスピードを備えた「紫電改」

 川西航空機が開発した紫電改を、航空技術廠飛行実験部部員(テストパイロット)として、実用化の域まで育て上げたのは、志賀淑雄(しが よしお)少佐である。志賀は支那事変で敵機6機を撃墜、太平洋戦争では空母「加賀」分隊長として、真珠湾攻撃に零戦隊を率いて参加したのをはじめ、アリューシャン作戦や南太平洋海戦にも参加した、実戦経験の豊富な戦闘機隊指揮官だった。

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 三四三空は、愛媛県の松山基地(現・松山空港)に本拠地を置き、司令・源田實大佐、副長・中島正中佐(のち、相生高秀少佐)、飛行長が志賀少佐で、主力機となるのは、志賀が心血をそそいだ紫電改である。

 戦闘機隊は、戦闘第七〇一飛行隊(飛行隊長・鴛淵孝〈おしぶち たかし〉大尉)、戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長・林喜重〈はやし よししげ〉大尉)、戦闘第三〇一飛行隊(飛行隊長・菅野直〈かんの なおし〉大尉)の三個飛行隊で、それに偵察機「彩雲」で編成された偵察第四飛行隊、錬成部隊として戦闘第四〇一飛行隊が加わった。

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 「目標は敵戦闘機」

 という源田司令の簡潔な訓示は、一見、勇壮でカッコよく感じられるけれど、敵機による攻撃を阻止する「防空戦闘」の任務は、はなから放棄していた。航空作戦の勝敗は、撃墜機数や喪失機数の比較で決まるものではなく、いかに強力な戦闘機隊を編成しても、敵に目的を達成させてしまえば意味がない。

 源田實はこの点で失敗したとも言えるし、敵にやりたい放題やらせた上で、目標を絞ったこんな戦い方しか選べなかったのが、当時の日本海軍航空隊の戦力の限界だったとも言える。(続きはソース)

神立尚紀(カメラマン・ノンフィクション作家)

現代ビジネス 6/29(火) 6:02配信
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