【京都府】清水寺、足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉らの書状の原本など194点の古文書を発見したと発表 [マスク着用のお願い★]
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清水寺に尊氏、信長らの書状原本
応仁の乱後の天皇綸旨も
清水寺(京都市東山区)は7日、境内にある成就院の書庫から足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉らの書状の原本など194点の古文書を発見したと発表した。このうち53点は新発見。尊氏らの文書は写しがあり、内容は知られていたが、原本は所在が分かっていなかった。歴代天皇の書状も見つかり、清水寺と歴代権力者との関係をひもとく貴重な手掛かりになるという。
(リンク先に続きあり)
2021/7/7 20:52 (JST)
c一般社団法人共同通信社 >>1
有名な場所は調べ尽くしてると思ってたけど有るもんだねぇ 桶狭間の時はまさに清水の舞台から飛び降りる心持ちでした
なんちゃって
信長 尊氏のって例の「出家したい。果報は直義に」ってやつ? 書庫の管理はどうなってんだ
なぜ今まで発見されなかった
一部の人間だけ知ってたのか
もー眠れなくなっちゃう コロナで寺の収入減ったなあ、隠していたがやむを得ない
こうですね 書庫から新発見って多過ぎて解読が進んで無かったってこと?隠し部屋でもあったの?壁の中にあったとか? >>17
古文書や考古資料って弄くるだけ、どころか開くだけで劣化するから
環境整えて調査するまでは現状維持するのが吉 >>21
そういうことがあってからの「弟をコロしてしもうたぁぁぁぁ!!!」だと思うと… こういうのって、なんで今までわからなかったんだろ
と思ってしまう >>17
そりゃあ探せばお宝が出てくるんだろうから、寺に人が来すぎて困る状態だと後回しになるだろう
ヒマだから一部をあさってみたんだろ 何回も燃えてるのに凄いな
興福寺も燃えまくってんのになぜ史料焼けまくる >>2
お前には読めないだろ?
この手の史料はテキスト化されて公開されてる。
これもそうなる。 尊氏がネトウヨだった証拠が見られるのか
太平記の創作かと思ってたわ >>17
まあでも古い寺なんてそんなもんじゃんw だから毎年新発見がある
何かのきっかで開けたり、調査が入った時 >>1
(‘人’)
弥助と蘭丸の古文書だけだよ貴重なのは〜で見付かったのかよ?(笑) 「書庫」にあったのに今まで発見されなかったんだな。 清水寺「きよみずでら」
訓読みの寺院は日本でここしかない。
日本人なら必須の豆知識です。 足利尊氏と同じ時代に生きた誰かの書状じゃないのか
教科書に乗ってた足利尊氏の肖像画も
ただの騎馬武者だったんだろ 古い寺には借金の証文や地域関連含め文書が膨大にあるからいちいち調べることしない
実際大したことのないものがほとんどだし >>51
(‘人’)
義経と弁慶は鎌倉時代だよ(笑)
>>57
小出しにしてるだけだよ(笑) 京都に隣接する県の小寺で無名の古文書発見されることはあるけど
市内の東山というのがワクワクする >>59
字が読めないだけだよ。
解読すれば、すげーってなるのが最近のパターン 信長や秀吉の直筆は数えるほどしかないんだよな
そのかわり右筆が山のような書状を出している >>63
(‘人’)b
森蘭丸への恋文なら数千万
弥助への恋文なら億を超えるよ(笑)
>>66
大手書店へ行けば…したり顔で書かれた古文書入門の本が何冊も売ってるのにやはりそうか(笑) なんで今ごろわかるねん
今まで掃除もせずに放置してた開かずの部屋でもあったんか? 普通に寺調べればかなりの数見つかると思う
延暦寺高野山何かもかなり古くの物もあるだろうな
権力と近い >>56
阿弖流為の読みは定まるのかなぁ
分からないままでもそれはそれで良いけれども >>21
そうやって
執事、天皇、主君、弟、子供を殺しちゃうんだぜ
因果だなあ >>77
権威を示す為に出し惜しみする
そういう昔の習慣が残ってる >>7
めっちゃ暇なのか細かいことですぐ注意に来るようになった 今みたいな優遇とかじゃ無くガチで戦ってた
位財産土地武力権威まで持ってるので大名より羽振りが良かった時代もある
後は学問もかな >>27
こらwwwww
『境内にある成就院の書庫』って書いてるお >>80
普通の漢字が書いてあるとでも?
間抜けは古文書読んだことないだろ? 殆どの文書は祐筆が書いたもので、直筆は少ないだろう。
花押は本人が書いたと思われるが。
京都や奈良の古社寺には調査すれば、貴重な古文書が
出て来るので、驚きはしない。
天皇の宸翰なら国宝級の物もあるだろう。 >>1
まだありそうやなw
調査させてくれるだけでもありがたいな
拝観料はこのためにある >>92
基本は手紙とかはどうでも良いことが書いてある。
日常の話とか、この前頼まれたことはなんとかしてやるとか、そんな話。
でもそこに書いてあるその人にとっては当たり前のことが、他の史料と突き合わせることで新しい発見になる。 >>53
チラシの裏に意味がある
綺麗な歴史書より >>98
お前は日本の常用漢字が古文書に書いてあると思ってる日本のことが何もわからない似非日本人だがな。 >>95
都合よく隠してたんじゃねーのw
中国がすっ転ぶまで。
ウソつくから >>102
上手い!
昔のチラ裏は歴史資料の宝庫やもんな >>96
信玄が高坂さんに出した浮気の弁明みたいなのないんかな
そんなもんなら右筆通さないかも バチカン図書館とかもくまなく探せば散逸したすごい本とか見つかるんだろうな 旧家に眠ってる古文書を見せて貰っても、何書いてるかさっぱり分からない >>105
うん。
歴史やってる人は本当にジグソーパズルみたいなことを粘り強く解いていく。 観光減って人がきてくれないからそういうことにして集客を 毛利元就の手紙とかたくさん残ってるけど
愚痴っぽくて面白いんだよな。 >>105
奈良平安のもっと古い時代だと紙が貴重なもんで
使いさしの紙を使ったとかそんなんで裏の内容の方が資料価値高いとかもあるそうな 彦根で見た井伊の書状は読める
大津長浜で見た浅井長政、秀吉の書状は分からん
長政が信長との戦いに勝てば褒賞を与えますと言う書状は物悲しい >>123
まだ一般化されてないけど
一発で今の活字に変換してしまうアプリが開発されているから
5年後くらいには誰もがスマホでくずし文字を読める時代がくるで
ただそこからの読解は古文の素養が必要だが 管理側も数が膨大すぎて何が仕舞われてるのか把握してないパターンもありあり >>23
面倒?いからなかなか昔の書庫とか整理しないだろ
そんな感じじゃないか まあ普通にぱっと見じゃ読めんよね
古文書解読用の字典とか売ってるもんなぁ >>130
社寺へ奉納された無名氏の起請文なんて
字に気迫が乗り移ってたりする 京都は空襲を免れたから探せばいくらでと見つかるだろう 日本人は文章を残す民族で逆に数が多すぎて歴史家の研究が進んでいない
まだまだ腐るほど残っている状態 >>141
寺の権威次第だろ
値段には相場があるし >>144
漢民族も文章で歴史を残す民族だけど、たまに燃やすからなぁw >>134
そりゃ千年以上の歴史があるからなあ。
探せばまだまだ国宝級のお宝が出てくるだろうな。
あの鳥獣戯画でさえ京都のあまり大きくない寺の倉庫で
長い年月をひっそりと眠ってたんだし。 信長の直筆ではないにしろ本当に手下に書かせたものかいな、こういうの嘘くさいなあ。 >>144
早くして欲しいわw 俺が死ぬまでに戦国時代のだいたいのことは解明されないと
死んでも死にきれない 千年以上も首都だったわけだからな。
東京なんかとは格が違うわw >>112
それこそスマホアプリAIの出番だと思うわ >>130
そうなったら未解読の史料をどんどんネットに挙げてくれたら、みんなで解けるな
研究が凄い進むよ。学者の手柄争いがあるからそんなの無理なんかなw 国宝・重要文化財級の書がゴロゴロ出てくるとか、
どういう管理してるんだよ 1年以上前に行ったけど、コロナなんてすぐ収まると思ってたけど甘かった・・・
タクシーの運転手がコロナの事を長びくって言ってたけどほんとだったわ 禁制 清水寺門前
一 軍勢
一 放火 殺生 事
一 伐採山林 事
永禄十一年九月日 弾正忠
読めません。 むやみに触るより現状で放っておくほうが保存のためにはいいからな >>162
要するに敵に回らず言うことを聞けってことだな
延暦寺は無視して浅井朝倉に付いた 本当に足利尊氏や織田信成が書いたってどう証明すんの? >>162
3つ目は
一 相懸矢銭兵糧米事
かな?勝手に銭や兵糧を調達するな って感じか >>31
紙がボロボロだからそう簡単に出入りできないしペラペラ捲れないんだよな。
特殊なフィルムに加工したり前に古い書物を保存する技術をテレビでやってた。かなり気を使うし気が遠くなる地道な作業だった記憶 すーぐ贋作だのゴッドハンドだの持ち出してくるやつ
この先は素直な人生送りなはれよ
じゃないとモテませんよ 今頃見つかるって、どんだけ虫干しとかしなかったんだ?っていう 昔の紙は質が良いよな
レシートの印字は数ヶ月、小説の印字は数十年で消える 金払ってでも調べてあわよくば保管もしたい人なんていくらでもいると思うんだけどな
俺のもんだから自分で漁る予定だけど手が追っつかんってこと? >>17
我が家の近くにある世界遺産寺院なんか、俺が子どもの頃はお堂の床下に仏像がバラバラ状態で散乱してたんだぞ
お寺の金回りが良くなった今はそれらが綺麗に修復され、平安鎌倉時代の重要文化財として宝物館に恭しく展示されてる
手間暇金の条件が余程揃わない限り、文化財調査なんてできないんだよ 昔からなんかあったのはわかってたけど、専門家が見ないとよくわからないものだったんだろ。 >>50
あれは高師直像じゃないかと言われている
真の尊氏像は神護寺の伝平重盛像ではないかとも >>123
これは順徳院で上の句だけだから百人一首の歌だなとわかるけど
そういうとっかかりないとまずよう読まんわ… なにかがあるのはわかっててもそれがなんなのかはわからんもんなんだぜ
古い寺や神社にはそういうのがいっぱいある これはすごいな。
新たな大河ドラマのストーリーができるかも。 美味しんぼ寺流し、嘘倉が言うてたやむちゃってこれやろ
(-_-;)y-~
俺、清水寺行ったことないねん。 >>14
押し入れの奥に入れちゃうと、面倒くさくて見るのも嫌になるだろ。数年後に見つかる方が面白いじゃないか。 >>157
清水寺がわざわざ市井の学者に由緒書捏造を依頼する理由が無いから、その点は大丈夫だろう >>193
観光客も少ないし暇だったんだろうな。調査って面倒くさいからなw 襖の下張りに使っちゃったりわりと普通にあるから
中からわんさか 新発見って今更隠し蔵が出て来て見つかったわけじゃないだろうし
玉石混淆膨大な古文書があって順番に読んでいったら
こういう有名どころのだった、という話なんだろうか ついでにその古文書に埋蔵金の情報が書かれていれば尚よし。 (-_-;)y-~
Bショッククラブ…
カレーライス、楽やったわぁ。米がよおけ食うたわ。 >>123
一目で読める
「ももしきや ふるきのきばの しのぶにも」
読人は順徳院
この歌には続きがある (-_-;)y-~
京女に遊びに行ってるのに、清水寺行ったことないねん。
京都って、そんな感じやな。すぐ近くまで行ってるけどってのが多い。 ♪しょーこー しょーこー
書庫 書庫 しょーこー
成就院の書庫ぉー♪ 奈良の博物館で足利尊氏の直筆見た事あるけど達筆だった >>162
入京直後の信長が出した禁制だね
東寺にも同様の文書がある
治安悪化を恐れる寺社が挙って発布を求めた >>211
磯田は腰の低い感じで今やってるけど、古文書新選組を結成し寺社に打ち入って文章解読した方が早いな 無酸素の真空状態で保存する方法にした方がいいのでは? 結局、何で明智光秀は織田父子を殺したんだよ。結局自分もすぐに討たれてるし心中じゃねえか。 春日大社の天井裏から錆びた日本刀の束が出て来てなかったか
探せばあるもんだな >>222
信長を殺して信忠政権作るつもりがアクシデントで信忠死んじゃって引っ込みがつかなくなったんだろ 延暦寺や西明寺では織田信長はめちゃくちゃ嫌われてた
まあ、当然だが >>222
江戸時代までの日本人はナメられたらコロヌマンだし、今と違って血の気が多すぎ。喧嘩でコロコロしすぎ。
イッヌ将軍が生類憐みの令を出すまで無茶苦茶だぞ。 秀吉が所領安堵したようだけど、それ以前の動向はわからんな >>168
禁制と言って「ここで略奪や殺生や伐採を勝手にやるな」という自軍の兵に対する禁止通達
戦場や移動する軍勢の通り道になりそうな村や寺社がその軍勢の武将や領主にお願いして出してもらう
ときには合戦をやる両軍双方に出してもらうこともあって一種の安全保障策 信長の内容
織田信長が永禄11(1568)年に足利義昭を奉じて上洛した際に出した文書は、
自軍に対して清水寺への放火や殺生を禁じた内容だった。 >>214
元は法相宗の寺だから古い
京都の禅寺とは違う
(´・ω・`) >>222
光秀アルツハイマー説もアリなんかなって思っている おお、いいねえ。
大量に出てきましたか、VIPのお手紙なんかの原本が。
これはね、是非ね、続報を待ちたいもんだ。
どんな文書が出て来たのか。そこに何が書かれているのか。
ところでスレ民のカキコを見ていると「なんで今頃でてきた」とか
そういう話題が為されているけど、いや、諸君らのお部屋(汚部屋?)だってさ
なんか大掃除とかすると物置とかから「こ、これは…」みたいな
歴史的文書が発見されること、あるでしょ? 黒歴史かしらんけどさ。
いわんや実家のそれなぞ何が出てくるかわからないwww
たかだがね、数十年の歴史でもそういうことってあるわけですよw
なんかキッズの頃のノートとか出てきちゃったりしてねw
お勉強そのものより落書きの方が貴重な"史料"だったりねえ。
一冊のノートをひらけば忘れていたこもごもがビビットに思い出す。
そういうことってあるんだよ。
物置や押し入れはとんでもないタイムカプセルでやんすねえ。 小出し小出しに発表しないとネタ切れになって
お金引っ張って来れないからな (-_-;)y-~
戦国お見合いか…
10歳と9歳?とか恐ろしいなw 応仁の乱で焼失してから再建された寛永年間までどこにあったのやら 応仁の乱以前のものが京都で無事に残ってるのは結構すごいことだよ 尊氏と決めつけてましたが別人でした、という反省文。 そいや、暇つぶしに歴史探偵見てみたけど、清々しいまでに日本下げのクソ内容だったな
言葉選びとかが、いかに日本の歴史を貶めるかに注力してる
NHKの韓国化が止まらんな >>168
というより自軍兵士に寺社及び寺社領への実力行使を禁じたもの
これが無いと何されても文句は言えない
暴行略奪は末端兵士の特権だったからな >>240
旧家の蔵とかも、持ち主も何があるのか分からないような事もよくあるからな
それに古文書は、英語よりも読むのが遥かに難しいw
読める人が限られるので、何が書いているのか不明なものも多い 京都のお寺の書庫や宝物庫なんてそういう古い手紙とかいっぱいありそう。
東福寺とか南禅寺にもいっぱい出てきそう >>249
まだ韓国がらみの放送はないのに、そんな放送をしてんだな。
なら、NHK要らね。 >>244
神代文字ってのがあるにはあるが胡散臭さmax この寺は何年間蔵書の整理整頓リスト化をしていなかったのだろうか
いくらなんでも怠慢なのではないだろうか この発見で、本能寺の変が解き明かされるのか?胸アツだな 【尿路結石予防の四ヶ条】
@十分な水分を摂る
食事以外に1日2L以上の水分補給をすることで大幅にリスクを減少できます。
(コーヒー、紅茶等シュウ酸を多く含む飲料は飲み過ぎに注意!)
A動物性脂肪・塩分・糖分の過剰摂取はNO
腸内のシュウ酸濃度や尿中のカルシウム濃度を上げてしまう原因になります。
Bプリン体の多い食品や飲料は控えめに
過剰摂取したプリン体は体内で代謝されて尿酸となり、高尿酸血症や酸性尿を引き起こします。
C寝る前に食事をしない
食後2-4時間で尿中結石形成促進物質の濃度がピークになるため、寝る4時間前までに夕食を済ませるのが理想的です。 >>29
普通に寺領安堵の書状だろ
右筆が書いたただの公文書
やっぱり私人に宛てた直筆の書状が見つかってほしい
ねねにあてた信長の書状以上のはなかなか見つからんやろね >>222
自分が主導した四国政策が信長によって最終的に却下され、更には嫡男の織田政権内における地位保証にも失敗
遅かれ早かれ明智家の没落が見えた時点で、主家当主と後継者を抹殺して枠組み自体を変革する必要に迫られた光秀が打った大博打
信長父子が京に無防備に宿泊したあの日は、光秀にとって二度と訪れないであろう千載一遇の好機だった 平城京跡でガイドのじーちゃんが言ってたのを思い出したな。
掘ったら絶対貴重な発見があるけど今まで発見したヤツの分析が進まないうちに
むやみやたらと発掘しても劣化(酸化?)するだけだから埋めたままにしてあるそうだ。 >>1
いままで誰が隠してたんだ?
そいつをまず晒せよ >>126
それ正式名称ではないです。
小学校からやり直しですな。 >>266
平城京1300年イベントで文化財担当の方におなじようなお話聞いたな
まだ整理出来てないのにちょっとこんもりしたところ掘れば出ちゃうから迂闊に掘れないと >>259
神代文字関連文書は全て偽書、神代文字などは存在しないって結論で決着している
マトモな学者で話題にする者はいない >>49
嘘をこくな
鞍馬寺
善峯寺
秋篠寺
松虫寺
七寺
まだまだあるわ >>264
公式な文書は、大体、祐筆が書いてるもんな >>269
ああそうそう
埋めたままというより、迂闊に掘れない。っつー話してたw
どもありがとー。 岐阜の超名門の小石家が天皇家と同格だという証拠が出たということかな? 光秀の書状はないの?
アレの前に清水寺に相談してるかもしれないぞ >>162
禁制
清水寺
一 当年軍勢・・人等籠婦・・事
一 伐採山林竹木事
一 相懸矢銭兵糧米事
一 陣取事
一 向伽藍放鉄砲事
右條・・・・・・於・犯之単者速可・厳科考也・下知・件
永楽四年七月 日
弾正少弼 >>8
写本が残ってるものもあるとはいえ、原本発見は大きい
専門家がきちんと時間かけて探せばまだまだ出てくるかも
京都は太平洋戦争中でも空襲なかったし 文化財さわるのは費用が大変なんだよ
修理関わってるけど有名寺院の倉庫に鎌倉期の仏像がバラバラだったり普通
余裕が出来た時に修理してお堂建てて安置されたりする >>279
日本の中近世史の研究やってる平山優氏のツイートだけど、どうも京都奈良の寺社や旧家にとっては室町以降は「最近」なので史料にも歴史的価値がないだろうって認識らしい
K・HIRAYAMA
@HIRAYAMAYUUKAIN
京都清水寺での新史料発見の情報は、やっぱりというしかないですね。京都と奈良は、特に寺社は、史料が未公開なので、何が眠っているかわからない。しかも厄介なのは「うちは古いものはない」と言い張るのですが、奈良では奈良時代のものがない、それ以後のものしかない、という意味。京都も平安時代の
ものはない、それ以後のものばかりだから、参考にならない、という意味。アタクシたちから見れば、イミフな理由。奈良の旧家の調査をさせていただいたときに、室町時代の文書がゴロゴロ出てきたのには驚いた。でもご当主曰く「うちは新しいですから」だって。 >>2
リンク先の画像の文書は信長が清水寺に宛てた禁制だね
翻刻にするとこんな感じ
禁制 清水寺内門前
一 當年軍勢濫妨狼藉事(兵士による乱暴狼藉)
一 放火付殺生之事(放火、殺生)
一 伐採山林斎木事(山林や斎木の伐採)
右条々於違犯之輩者、速可處厳科者也、仍執達如件、(右の条々に違反するものは、速やかに厳罰に処す)
永禄十一年九月 日 弾正忠(朱印) >>278
「弾正少弼」の下に「天下布武」印が押してあるな 法隆寺と正倉院にはソグド文字の書かれた香木があるそうです。
↑
本当に中国人? ニダーに燃やされんようよく見張れ
虎ばさみぐらい使っても良し >>285
まさにそれ
近世以降のものは価値がないとの感覚で失われる危険が大きいのは問題だな >>43
精神を病んで入院し、当時の記憶は無くしたらしい
自分の指を斧で切断したという噂も 寺社に伝わってる古文書だと禁制と領知安堵状が多いと思う
後は戦に勝てる様にとか身内や自分の病気平癒の願文かな
大きな武装してた寺社なんかだと大名から出兵の依頼とか合戦の様子を事後報告したものなんかもあるね >>170
花押や朱印、筆跡で判断する
信成はこの前テレビで見た こういうのって何で今頃見つかるんだろう
今まで積極的に探す気なかったのか? 探さなくたってあるところにはあるんだよ
重要なものとして保管してても詳細がわかってないのはよくあること
古墳だってなにかがあるのはわかってるけど調べてないだろ >>123
(‘人’)
濁点半濁音って江戸時代からなんだよ(笑) >>281
ねねに宛てた書状は本物なのかってのはありますよね
信長が自分のことを「のぶ」と言ったのは本当かとか、なんか分からないですよね >>300
寺社に伝わる古文書は特に整理されずにそのまま残ってるものが多いな
武田氏や真田氏研究で有名な真田丸の考証もやってた丸島和洋氏は
高野山に残されてる古文書の解読と整理をライフワークにしてるみたいなんだけど、
量が膨大過ぎていつ終わるのか検討もつかないって言ってたな >>303
真贋で言ったら100%本物だよ
問題は信長の自筆かどうかだけど、例えばもう亡くなってるけど信長文書研究の第一人者・奥野高広氏は信長自筆かどうかは不明としてる
徳川美術館の見解だと信長自筆書状としてるね
この書状の最後に
藤きちらう
をんなとも のふ
(藤吉郎
女共 のぶ)
と書いてるから自らを「のふ」と言ってるのは本当だよ
ちなみに伊達政宗も娘の牟宇姫宛の自筆書状では「まさ」って書いてる >>244
聖徳太子の自筆とされる文書はかなり古いはず
誰が書いたにせよ >>285
京都は応仁の乱以後に引っ越して来た人は新参者 清水寺は坂上氏の氏寺
奈良檜前の小島寺も調べたらなんか出てきたりしてな >>115
女性でないということを証明しようとするとなかなかむずかしい。 こんなもん学芸員雇う金と時間がかかるから普通の寺は基本調査しない
文化財指定されたら保存とかで余計金が出ていくし
歴史好きにとってはうれしいかもしれんけど寺は所詮商売だからね 後土御門天皇は、応仁の乱(1467〜77年)で焼失した清水寺の修繕を進めるよう指示していた。
https://www.nishinippon.co.jp/item/o/766974/
清水寺が応仁の乱で焼失してたとは知らなかった 光秀の出家願いとかないの?あれば天海=光秀説が有力になる >>144
道長の日記とか、その他山のような藤原家に伝わる文書っって
全部読んだのかしら どっかの田舎の寺の蔵ならわかるが、清水寺みたいなところでまだ未調査なものがあるの? >>294
いや、本気でそう思ってるはずだよw
室町は新しい。戦国ならもっと新しい。
うちのど田舎にも戦国期の文書があるらしいが、
「なんだ、そんなもんか。もっと古い(平安期)ものはないのか?」
っていうのがw
国司の文書や手紙でも出てくりゃいいのにって >>325
京都人の裏表知らんな。
調査面倒くさいから帰ってくれと遠回しに言ってるんだよ。
余り粘ると最後はぶぶ漬け出されるよw >>244
日本で「紙」がそれなりに普及し始めたのは7世紀。
それより前はどれくらいあったのかもわからんね。
「木簡」がたくさん出てくるのは7世紀で、文字の練習帳みたいなも出てる。
日本で最初に「製紙」されたのが610年とされるから、
それよりまえは輸入品の高級品でほとんどないに等しいだろうな。 こういうの見ると
今まで何してたんだ働けボケって思う >>327
めんどくさい 国宝級ならいざしらず。。
本当にすごい値打ちがあるものはお公家さんの蔵にたくさんありますやん。
うちなんか新参者でそんな値打ちがあるものはあらしまへん。
なんで今になってそんなの大量に出てくるんだろうな
もしかしてぜんぜん書庫とか蔵とか調べてないのか? 周辺国の記録も出るから精査してヤバくないのだけ出すんじゃない
ストローですらないとか中国の一部とか 足利尊氏の清水寺願文なんかは
湊川の戦いで勝利して
さあ新しい体制で北朝を盛り立てよう!
ってときに
もう自分は早く遁世したいあの世の心の平安を望みますのでこの世の果報はみな弟の直義に与えて安楽に生きられるようにしてあげください
という弟への愛に満ちた願いとか
ブラコンかよ! 清水寺嫌い。早朝、観光してたら坊さんに「誰だ!勝手にこんなところにお香焚いたのは!」と訳の分からない事言いながら近くを通りかかっただけの俺を睨みつけてきやがった 実は渡来人でしたとかだったら見なかったことにするのかな? 194点てw
死海文書なみかもしれん
これは僥倖の前触れか? >>30
伊達政宗はそういうのが見つかってる
相手は男だけど >>334
ほとんどの寺社関係者は古文書読めるわけじゃないし、古文書があるのは知ってるけど誰の文書なのか
内容も知らんし時代すら分からんからそのまま置きっぱにしてる所が多いんだと思うよ
どこかの研究機関とか大学が調べさせて下さいってお願いに来るならまだしも、
自分らで大量の文書調べるとなると金掛かるからそのままなんでしょ
研究機関だって何時代の文書で、どう言った種類の文書があるくらいのことは
事前に分からないと調査に乗り出すこともしないだろうし 今まで何やってたの?
って素朴な疑問だけどこのスレ読むとさすが京都wって感想だわ 速記文字の平仮名を発明した人は凄い
漢字ばかりの書物の解読に困って思いついたんだろうな ふわっちでこの寺内で生配信したら永BANになった。 文化財の調査は自分持ち、その上一般公開しないといけない聞いたことある。知り合いの京都人が家改築した時「何か出たらかなんわ〜」と言ってた >>12
書状の発見なんて毎年ある
こういう大名、朝廷のよりむしろ紙背文書とか結願の胎内文書とかの方が歴史研究者は欲しがるだろ マスコミ「深夜に一人で忍び込み取材取材っと
中国「美術品観賞する仲間を集めるアル
韓国「信長尊氏は韓国人なので盗み返すニダ。帰り道は油をまくニダ >>343
山積みの書状の中から有名人のモノを発掘するのは大仕事
赤城山で徳川埋蔵金を探すようなもの 「今夜、テンプル本能でティーパーティーやで。久々のパーリーでHIGHだぜぇ ノッブ」 >>332
大して古くもない、武家連中の書いた(洛中の人にとっては)値打ちのないものを
わあわあと騒ぎ立てて調べるなんてみっともない、みたいな価値観があるんだろうか >>146
中国人はカタログマニアだから書名の一覧表みたいなのに名前だけ残って
本そのものは失われてるのが結構あるしね。 元弘の乱は結局失敗に終わり、倒幕計画に関わった貴族・僧侶が多数逮捕され、死刑・配流などの厳罰に処された。後醍醐天皇も廃位され、代わって持明院統の光厳天皇が践祚した。 1332年3月には後醍醐天皇は隠岐島に配流された。幕府は高氏の働きに、従五位上の位階を与えることで報いた 1333年後醍醐天皇は隠岐を脱出して伯耆国船上山に籠城した。高氏は再び幕命を受け、西国の討幕勢力を鎮圧するために名越高家とともに司令官として上洛した。このとき、高氏は妻登子・嫡男千寿王(のちの義詮)を同行しようとしたが、幕府は人質としてふたりを鎌倉に残留させている。 名越高家が緒戦で戦死したことを踏まえ、後醍醐天皇の誘いを受けていた高氏は天皇方につくことを決意し、4月29日、所領の丹波国篠村八幡宮(京都府亀岡市)で反幕府の兵を挙げた。
関東では、同時期に上野国の御家人である新田義貞を中心とした叛乱が起こり、鎌倉を制圧して幕府を滅亡に追い込んだ。 >>317
自分で言うのは少ないかな
でも全く例が無いわけではない
例えば北条征伐直後の伊達政宗書状に自ら諱呼びしてるものがあるな
「関白当会津江御下向候而、奥州・出羽仕置之義、政宗ニ可有御意見之由、御内意候」
関白(秀吉)は会津へ御下りになられて、奥州・出羽の仕置きについて
政宗に意見があるとの御内意だそうだ
第三者からの書状で相手から諱呼びされるのはそれこそ数え切れないくらい例がある
特に政宗は相手から諱呼びされてる書状が多いな 鎌倉幕府滅亡に大きな戦功をあげながら父に疎まれ不遇であった護良親王は、尊氏をも敵視し政権の不安定要因となっていたが、建武元年(1334年)には父の命令で逮捕され、鎌倉の直義に預けられて幽閉の身となった。
直義は鎌倉を脱出する際に独断で護良を殺害している。 >>17
京都の寺舐めすぎ。どんだけ膨大な量の書物あるか知らんだろ。 >>356
日本に結構たくさん残っているんだよな。 >>3
>>4
きよみず、しみずに加えてせいすいじもあるから割りと困るw なんで今?
おうち時間が増えて暇にまかせて捜索したのか? 尊氏は新田義貞を君側の奸であるとして天皇にその討伐を要請するが、天皇は逆に義貞に尊良親王をともなわせて尊氏討伐を命じた。さらに奥州からは北畠顕家も南下を始めており、尊氏は赦免を求めて隠居を宣言し寺にひきこもり断髪する 直義・師直などの足利方が各地で劣勢となると、尊氏は彼らを救うため天皇に叛旗を翻すことを決意し「直義が死ねば自分が生きていても無益である」と宣言し出馬する
この間、尊氏は持明院統の光厳上皇と連絡を取り、叛乱の正統性を得る工作をしている。 建武3年(1336年)正月、尊氏は入京を果たし、後醍醐天皇は比叡山へ退いた。しかしほどなくして奥州から上洛した北畠顕家と楠木正成・新田義貞の攻勢に晒される。1月30日の戦いで敗れた尊氏は篠村八幡宮に撤退して京都奪還を図る。 アーカイブっていうのが日本は全然進んでないみたいで
近世近代の古文書は膨大な量があるけど
まとめて段ボールに入って倉庫に眠ってるみたいな状態がほとんど
それを分類整理して保存する為の人、金、時間がまったく足りない
さらに地方の図書館とか博物館なんて縮小していくだろうし
政府の方針も学術はイラネってなってるからまあ絶望ですな だが、2月11日に摂津国豊島河原の戦いで新田軍に大敗を喫したために戦略は崩壊する。尊氏は摂津国兵庫から播磨国室津に退き、赤松円心の進言を容れて京都を放棄して九州に下った。
鞆で光厳上皇の院宣を獲得し、西国の武士を急速に傘下に集めて再び東上。5月25日の湊川の戦いで新田義貞・楠木正成の軍を破り、6月には京都を再び制圧した 京都って、探したらいくらでも国宝が埋もれてるだろ w 本能寺の真相は、
恐らく筒井氏関連の家に、
家康暗殺の令として残っているだろう。 >>379
保管マニアなくせに目録作らないこと多いよね。 出所不明の怪しい資料を清水寺がロンダリングしたという事だろう
ゴッドハンド坊主 >>338
わけのわからないことを言いながら歩いている君が悪い 地方の古刹なんて何百年もののゴミ屋敷だから空襲で焼けてなければこれからも出てくるよ。 まあ日本は中国のように権力者が代わっても焚書しなかったからな
いくらでも出てくるだろ 今さらの発見とかw誰でも知ってる癒着
これが仏教w >>321
応仁の乱の戦闘では京都市街地での陣取り火付け合戦が長期間続いた
洛中洛外の寺社で乱以前に遡る寺社建築は千本釈迦堂以外に残っていないと思う >>337
古今東西、尊氏ほど無欲な天下人は居ない
そもそも将軍なんかになりたくなかった
彼が希求したのは現世の富でも栄誉ではなく、来世の心の平安 >>345
元々神仏習合のお寺じゃないし、隣接する神社も名前変えただけで現存しているから、それはないと思う
単にお金が無かっただけだろうw 267 名前:ニューノーマルの名無しさん [sage] :2021/07/07(水) 23:11:50.14 ID:HluvW2M10
>>1
いままで誰が隠してたんだ?
そいつをまず晒せよ >>1
信長=敗者の頭蓋骨を綺麗な器に仕上げて酒を飲む。
秀吉=おいっこ一家を皆殺し。
鳥取城の中で人間を飢えさせて共喰いをさせる。
残忍なキチガイども。 >>396
毛沢東と比べるとスケールが小さい小物だな 未だにこんなのが見つかるんだな
日本人は今も昔も筆まめで収集癖だなw >>389
天皇という象徴をトップに置いてて旧政権を徹底的に抹消する必要もなかったからな >>400
江戸幕府は、大塩平八郎の檄文を
徹底的に取り締まったけどな(笑) 大塩の乱の対応は大分ヌルいと思うけどなあ
擁護しと官僚もいたし磔は半年前の死体だし >>395
そいつが亡くなったから出てきたらしいね
独占欲は歴史をも隠蔽する
同じようなケースはまだまだあると思うよ >>399
昔の人は筆まめみたいだな
戦国時代まで武士で江戸時代に帰農して大庄屋をやってた家があるんだけど、細かい事まで記録してたみたい
だからか、今の当主もすぐ写真撮ったりマメ
この家は重文指定されているので、教育委員会や文化財指定された当時に旧文部省が調査してるから記録が明らかになってる
古い文書は専門家じゃないと読めないから、一般の家で埋もれてる文書は多いと思う
商家だった家は特に多いね
主に商売の記録だろうけど、中には珍しい記録が混じってる事もあるんじゃないかな カーナビどおりに駐車場目指したらトンデモな道を案内された
アルベルなら詰んでた凄い細くて曲がれない道
みんな清水寺のでかい駐車場一発で行ける?? 京都は太平洋戦争で空襲されなくて良かった
京都の先の大戦は応仁の乱だから、600年分の古文書が燃えずに残ってそう 達筆を通り越してミミズがニョロニョロしてるのをよく読めるよな
書いたほうもわかってんなかよと >>389
記紀が出来る前に聖徳太子と蘇我馬子が作った歴史書が有ったが、
天智一派が大化の改新のどさくさに紛れて燃やしてしまった 京都奈良人の史料への感覚と他地域のそれの違いか面白いな
中世後期以降のものは扱いがぞんざいだし、近世史料など管理しきれないよ >>404
代理人が書いてるんじゃね?信長本人は描かないだろ。 >>29
秀吉の文書に関しては今回原本が再発見されたってことだな
文書の内容自体は写しが伝わってて前から知られてる
大政所殿立願之八木之事、重而被仰出渡被遣訖、早々相請取、造営急可相調之、
於由断者、追而渡被下間敷候也、
三月十日 (秀吉朱印)
清水寺
大意は
大政所が願掛けのため用意した米の件は、重ねて清水寺に渡すよう(秀吉が)命じられた。
早々に受け取り、急ぎ寺の造営に取りかかるように。
油断するようなことがあれば、米を与えることはない。 >>407
どんどん焼けとかどんぐり焼けとか
京都って結構大火で焼けてるよ >>412
大名クラスになると公式の書状や命令、所領安堵のような書類は祐筆という書記役の人が書札礼という書式のルールに基づいて文を作成清書し、偉い人はそれに花押(サイン代わりの書き判)を書くだけなのが普通
花押も公式の文書に書くけど、出す相手によっては判子で朱印、黒印とランクが違ってくる
大名が自筆で手紙を書くのは奥さんとか家族とかよほど親しい家臣ぐらい 清水寺だと東国はあまり関係なさそう
史料や通史みてても清水寺の寺領や荘園てみないもんね
>>317
書状の署名が諱なのは珍しくない
相手との上下関係で名字・仮名・官職が右肩についたり、諱が書かれなかったり、花押だけだったりする
起請文だと本文に諱・法名が書かれてることもわりとある(ほかに拙者・当方・我等・余など)
戦国武将の一人称は仮名・官職じゃないようだ 秀吉のは湯治にいったときに服をもらったお礼とかもあるな >>420
というか信長は当時から信長と呼ばれていたからね。
秀吉の手紙にも信長の時の如くうんぬんと諱で書かれていたし
長秀などの手紙にも信長とそのまま書かれている。 >>408
古文書文字の辞書があるから
OCR使えばポップ書体にでも変換できるんじゃないか 下手に新事実が判明したりすると都合が悪かったりもするんだろうなあ、古墳なんかと同じで >>422
信長と書いてたのは織田家中以外の他国の人に宛てて出す場合だな
家中内での書状のやり取りなら秀吉だろうと丹羽だろうと柴田だろうと全て上様呼び
秀吉が信長と呼び捨てにして話題になった書状は本能寺の変から3年後に脇坂安治に宛てて出されたもので、
時期的には秀吉の関白就任から1ヶ月後に書かれた文書だな
あと信長呼び捨ての秀吉書状はこの一通のみで以降はあまり書状で信長に関して触れることもなくなるけど、
北条征伐の前に氏政に宛てた宣戦布告文では「信長公」と呼んでる >>427
上様呼びになったのは義昭を追放後じゃなかったか?
信長公記でもこの辺りで信長から上様にかわっていたはず まずは徹底的に
「残念 釣りでした」
と書かれた紙が含まれていない事を確認しないと >>17
当時こんなもんいくらでもあるわでふすまの下張りにでもされちゃって
しばらく時代が下って修繕の時になんか見たことある名前だな
価値が有りそう とっとこう でも読んで整理までは面倒だな
いそがしいしで放置 山積みとか >>428
さっきレスでは殿様呼びについて触れるのを忘れてたわ
義昭追放が元亀4年(1573年)7月20日
天正改元が元亀4年(1573年)7月28日
秀吉発給文書に拠ると義昭追放後の天正2年(1574年)8月17日付や同年8月18日付の書状では「殿様」呼び
秀吉書状で「上様」呼びの初見文書は天正3年(1575年)8月12日付のもの
義昭追放後もしばらくは殿様呼びをしていて、家中内で上様と呼ばれるようになったのは義昭追放から2年後だな
義昭追放後に上様呼びになったのは間違いないが、追放後すぐに上様呼びに変わったわけではなく少し経ってからってことだね 花押だけ本人で、文面を書くのは、ほとんどは右筆なんでしょ?
花押も右筆が書くことがあるの? >>432
基本的には文面の作成は右筆が行い花押のみ本人だけど、花押も右筆が書く場合があるよ
上杉謙信や真田信之なんかは花押の印章が残されてるから、花押を手書きではなく押印して使用してたみたいだね 267 名前:ニューノーマルの名無しさん [sage] :2021/07/07(水) 23:11:50.14 ID:HluvW2M10
>>1
いままで誰が隠してたんだ?
そいつをまず晒せよ
403 名前:ニューノーマルの名無しさん [sage] :2021/07/08(木) 18:44:54.09 ID:eD14X9GA0
>>267
そいつが亡くなったから出てきたらしいね
独占欲は歴史をも隠蔽する
同じようなケースはまだまだあると思うよ >>362
高師直は平安中級貴族の高階の一族だよ。
先祖が京都から関東に下って足利氏に仕えた。
高階の高が苗字になった。
同様に以仁王の家人の長谷部氏が加賀で
有力地侍となって長と名乗り、子孫は加賀藩前田家や筑前藩黒田家の
家老となっている。一字苗字だから、渡来人と思うのは
認識不足。逆に桓武天皇の生母は高野氏出身だが、
この高野氏は百済王の一族で、日本に渡来し、
京都の太秦辺りに定着した。 >>406
俺なんか夜墓地の中の案内されたぞ
知らずに入っていったから血の気が引いたw >>437
知られている文書か知られていない文書化は専門家じゃないとわからない。専門家以外にとってはただの古い文書でしかない。
だが京都には腐るほど古い文書が存在しているので有象無象の古い文書をいちいち専門家に見せて確認するだけの余裕はない。 大河ドラマになると主人公の古文書がみつかるのは何故? >>396
鳥取城だけじゃなくて魚住城とか三木城とかも忘れないであげてね
もともと飢え殺しってこっちのほうが有名だったんだけど鳥取市が「かつえさん」で悪目立ちしただけ >>440
更に言えば、高階氏の先祖は長屋王
高師直は天武天皇の末孫ということになる 本能寺の変の動機は
光秀と信長の男色痴情のもつれだった
とかいう資料が見つかったら嫌だな
腐女子は喜びそうだけど >>449
信長も自分より10歳前後年上爺はノーサンキューだろうw こういうが後から後から次々に出て来るってあり得るのかなぁ・・・
本物なんだろうか? >>449
教養のある光秀が、信長たちの汚い尾張弁に耐えられなかったのが真相 >>452
寺の坊さんなんて日本史の学者じゃないし、古文書は読み方知らないと何が書いてあるかもわからない
数百年分あるから量が膨大で時間かけて調べないとどれだけ重要な文書があるかもわからない
研究者がお願いして所有者や寺社がOK出さないとそもそも調べようがない >>418
有名なのは原本が見つかっただけでしょ
同じ内容が書いてあったら時代測定して終わり >>455
「内容は知られていたが、原本は所在が分かっていなかった」だけだからな
なぜ原本が清水寺にあったのか、という清水寺についての研究にはつながるが、それ以外の価値はない >>454
坊主の資格と文学史学の研究員としての資格を同時に取得できる大学作れば研究進みそうだと思ったけど
若手に業績集中させるような枠組みを研究者自身が許さないだろうから結局無理そう >>456
今回発見された文書が全て清水寺に宛てられたものかは不明だけど
その中で既に内容が写しで知られていた信長や秀吉の文書は清水寺に宛てられたものだし、清水寺が所蔵してても別におかしくはないな
あと原本の発見って写しからでは分からない紙質や花押の形、朱印や黒印の形も分かるし、
花押や朱印の形が分かれば書状の年次比定や、写しによく見られる誤写の確認もできるから貴重な発見であることには変わらない >>7
そういやこの前は、扁額の裏から何か出てきたって言ってたような気がするな
暇つぶしに天井裏やら床下やら探検してるのかもね
>>34
要人からの文書はそれだけで機密のようなものだから、代替わりした時に存在自体知る人がいなくなってしまったのだろう メジャー級の資料がゴソッとでてくるなんて、さすが京都だな。
他の地方じゃないだろ。 ほとんど重文クラスだろ。
なかには国宝級もまじってるかも。 >>453 くんが明智謀叛に尾張弁堪難き説という新説を唱えているがw
てゆーか、明智光秀も尾張の隣の美濃岐阜のまあ国人あがりみたよなもんだし
人生五十年のあの時代に40歳になるまでさていったいどこで何やってたか
ようわからないっていうんだから、そういうことは言えないと思うけどねw
まあでも手に唾して足利将軍家と織田家の両属の家臣となり、
幕府滅亡後は信長の方面軍司令官という重臣に座したわけだ。
朝廷からは惟任の姓と日向守の官職を得て、
最後は三日天下と言えども天下人たる主君と世継ぎを打倒し
天下に覇を唱えたわけで、こりゃ確かに傑物ではあるだろうよ。 >>460
平安時代から同じ場所にあるんだから仕方ないとはいえ駐車場工事するだけで室町時代の食器とかが出てきて工事が止まるの早めてほしい >>53
俺の先祖が清水寺から借金しているのが
バレたら夜逃げしなきゃいけないだろ >>461
清水寺だけで、ほかの都道府県の丸々全部に相当するんじゃまいか。 >>464
徳政令何回も出てるから法的にも大丈夫だろ >>457
寺の仕事と古文書の研究は全く別物なので「坊主の資格と文学史学の研究員としての資格を同時に取得できる大学」を作る意味がない >>467
ご自分で仰ったことへの返答なんですけども… >>440
高氏、長氏は共に三河所縁だな
高氏所領
・三河国額田郡菅生郷、三河国額田郡比志賀郷、三河国額田郡政所、三河国額田郡矢作東宿、三河国下村中山郷雑役免(進退分十家名)
■高師氏
・父は高重氏
・右衛門尉、法名心仏
・三河国額田郡菅生郷・比志賀郷(三河県岡崎市)郷司
・永仁4年(1296)3月1日、他家に嫁していた娘の稲荷女房(法名心妙)に三河国額田郡比志賀郷を譲る(総持寺文書)
・正安3年(1301)2月15日に満性寺(三河県岡崎市)に菅生郷の土地を寄進する
■高師重
・父は高師氏
・三河国額田郡菅生郷郷司
・暦応2年(1339)に足利尊氏の命令で、三河国額田郡比志賀郷(三河県岡崎市)に八幡社とともに深恩院総持寺(現在は広祥院)建立する
■高師兼(室町幕府最初の三河守護)
・五郎左衛門尉、尾張守、刑部大輔
・父は高師春、母は高師直の妹。高師直の猶子
・高師直より、藤原冬房領三河国碧海荘三木今一色の知行保持を命じられる(建武4年(1337)5月13日付高師直奉書)
■貞円
・父は高師重、高師直・高師泰の弟
・滝山寺(三河県岡崎市)大勧進
■三郎
・父は高師秋
・滝山寺(三河県岡崎市)僧
■明阿
・父は高師泰、夫は高師冬(高師直の養子)
・観応の擾乱で一族の大半が滅ぶと、その菩提を弔うため、三河国菅生郷(三河県岡崎市)に総持寺を建立する
・三河国菅生郷(三河県岡崎市)の旧領は、一旦足利将軍家領となり、将軍家より総持寺に寄進された
■いち
・父は高師世(高師泰の息、明阿の兄)
・明阿が三河国菅生郷(三河県岡崎市)に建立した総持寺の初代住持 >>440
長谷部氏は、実は三河の古族、長谷部氏(三河国碧海郡長谷部)だろう
長谷部信連の親父は、三河国長馬に住んでいて、長馬新大夫と名乗っていたらしいな
親父は北面武士だったから、同じく北面武士だった、三河の藤姓大宮司家、ま足利義兼の祖父、藤原範忠との縁故だろ
信連の子孫は姓を長氏に変えたんだが、三河国富永保に所領を持っていた
何故かと言うと、貞氏に能登の荘園を寄進して被官(地頭代)となり、貞氏からは三河の所領を貰ったらしい
寄進した能登の荘園は、元は賀茂社領で、三河の賀茂社領と言えば安達氏本貫たる小野田荘だ >>452
古い土地や寺社ならあり得る
俺の住んでる町で町史作ろうと古文書募ったら、戦国期の所領安堵状から太閤検地に関する文書までが大量に持ち込まれて保管場所確保に大わらわ、しばらくは町史編纂どころじゃなかったw
少なくとも中世後期以降の古文書は、我々が想像するより遥かに多く眠っている可能性がある >>460
カーチスルメイにことごとく焼かれましたからね >>472
んなわけねーだろ
空襲なんて受けたのはごく一部でしかない。日本の大半は空襲されてないし、東京大空襲ですら東京の大半は無事だった >>445
地域おこしというスポンサーが貧乏学者に予算つけてくれるから >>460
尾張あたりでもどっさり出てもいいはずなのに
焚書されたのかな >>475
大した歴史も無いのに出るわけないだろ
それを言うなら三河
中世は三河無しでは語れない
日本の歴史(中世〜近世)
◆鎌倉幕府(1185〜1333年)◆
【勝者】源頼朝:藤姓熱田大宮司一族(本貫地/三河国額田郡乙見)
・藤原季兼(別号:三河四郎大夫、三河国額田郡に居住)→藤原季範(別号:額田冠者、三河国額田郡に居住、初代藤姓熱田大宮宮司)→由良御前(源義朝の室)→源頼朝
◆室町幕府(1338〜1576年)◆
【勝者】足利尊氏:三河守護
・足利将軍家以外では、足利一門として吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)、今川氏(本貫地/三河国碧海郡今川)、石橋氏(本貫地/三河国設楽郡石橋)が将軍継承権を有した
・守護職は本貫地を三河国にする者が最大人数
・奉公衆(江戸幕府の旗本に相当)は、本貫地を三河国にする者が最大人数、又三河国の奉公衆も最大人数
◆応仁の乱(1467〜1477年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・ ”東博本洛中洛外図”には当時の権力者として細川氏邸、額田氏邸(細川氏被官)が描かれている
◆明応の政変(1493年)◆
【勝者】細川政元:細川京兆家(本貫地/三河国額田郡細川)
・半将軍と呼ばれ、幕政を完全に掌握、事実上日本のトップに立つ
◆関ヶ原の戦い(1600年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
◆江戸幕府(1603〜1868年)◆
【勝者】徳川家康:本貫地/三河国加茂郡松平
・大名の5割が三河国出身
・附家老の8割が三河国出身
・旗本の4割が三河国出身、高家筆頭は吉良氏(本貫地/三河国幡豆郡吉良)
◆大坂の役(1614〜1615年)◆
【勝者】徳川家康、徳川秀忠:本貫地/三河国加茂郡松平 よくあることやん。
むかし、ジャッキーの「拳精」ていう映画でみた >>460
寺についてはまだまだ沢山残ってるだろうね
でも民間だとあまり残ってないと思う
うちは奈良だけど、ならまちは古いようで古い人はいない
商業地だから入れ替わりが多くて殆どが明治以降
家屋は古くても古文書などは処分されてる
京都も商業地なので同様だと思う
奈良でも中南部はガチ
賀名生の堀家は有名だけど、南北朝時代から延々と続いてる家は珍しくない
代々の家は色んなものが残ってる事もある >>472
そもそも江戸時代より前の資料なんてほとんどないだろ。 >>481
大化の改新の時に日本史上最大の焚書があったのが痛いよな
古代の本当の歴史は葬られた 隠してたわけじゃない
知り合いの古い寺
古文書が腐る程ある。
有名無名
年に数回読める人調査にくるだけ。
著名人がでて来たときは
ニュースになったみたい。
清水寺になると
数は半端ないと思う。
ほとんどがどうでもいい無名者 織田一族が使用する印判はどれも格好いい
信長→天下布武
信雄→威加海内
信孝→弌剣平天下 センゴク(笑)などどうでも良い
鎌倉期、日本の支配層が三河でどう活動していたが大事
◇元弘の変(1331〜1333年)室町幕府の支配層、三河武士◇
【三河県岡崎市】
・足利氏(宗家、鎌倉公方):大門屋敷、近辺(八剣神社内)に足利尊氏の墓あり
・斯波氏(足利一族):管領家、奥州管領家、奥州探題、羽州探題、守護職(安房、若狭、越前、越中、尾張)、屋敷(跡地に永源寺)
・仁木氏(矢田一族):幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、三河、遠江、武蔵、摂津、丹波、丹後、備後)、仁木城
・細川氏(矢田一族):管領家、守護職(伊賀、伊勢、志摩、摂津、和泉、河内、若狭、越前、越中、備中、備後、淡路、阿波、讃岐、伊予、土佐、日向)、細川御前田城、細川城山城、細川権水城
・上地氏(矢田一族、細川氏分家):上地城
・上地氏(矢田一族、仁木氏分家)
・高氏(足利被官):室町幕府執事、守護職(伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、武蔵、上総、和泉、河内、下野、丹波、石見)、屋敷(跡地に総持寺)
・上杉氏(足利被官):関東管領家、守護職(伊豆、武蔵、上野、丹後)、日名屋敷
・倉持氏(足利被官):奉公衆、便寺屋敷
・粟生氏(足利被官):奉公衆、秦梨城、秦梨城山城、梅藪屋敷、西熊屋敷
【三河県幸田町】
・大草氏 (足利被官):奉公衆
・大場氏 (吉良被官):深溝城
【三河県豊田市】
・上野氏(足利一族):守護職(丹後、石見)、奉公衆
・中条氏(足利被官):守護職(尾張)、奉公衆、金谷城
【三河県西尾市】
・西条吉良氏(足利一族):将軍御一家、西条城
・奥州吉良氏(足利一族):奥州管領家、守護職(因幡、但馬)、関東公方御一家、東条城
・一色氏(足利一族):四職家、九州探題、守護職(筑前、肥前、肥後、日向)
・荒川氏(矢田一族):戸賀崎氏分家)守護職(丹後、石見)、戸ヶ崎城
・饗庭氏(足利被官):奉公衆、饗庭城、饗庭命鶴丸
・小笠原氏 (吉良被官):幡豆小笠原氏、三河守護代
・大河内氏 (吉良被官):引馬荘荘官
【三河県豊川市】
・関口氏(足利一族):奉公衆
・星野氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
・萩氏(足利被官):藤姓熱田大宮司一族、奉公衆
【三河県豊橋市】
・石橋氏(足利一族):将軍御一家、守護職(若狭、伯耆、備後)
【三河県新城市】
・設楽氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆
・富永氏(足利被官):三河伴氏、奉公衆 お寺だけじゃなく民間の蔵にもまだまだ貴重な歴史的資料埋まってるんだろうなあ
中にはそれと知らず適当に扱われた挙句ゴミに出されて
人知れずこの世から消えた文化財とか絶対有りそう
何かの拍子で宇宙の法則乱れてある日消えた筈の歴史的資料が机の引き出か
押し入れから現れないかと正座で待ってるんだが >>23
幻のマスターテープが見つかった商法と同じ。 >>481>>486
江戸時代以前のものもまだまだ残ってると思う
知り合いの家でも室町時代の記録など残ってる
調査が入ったので明らかになっただけで、埋もれたものも沢山あるはず
でもそれは田舎の話で、京都中心部みたいに開発が進んだとこだとあまり無いか 磯田さんみたいに古文書読み通せる能力あったら歴史はもっと楽しいだろな
全然違う学部大学行ったけど、生涯学習で国学院とか奈良大で史学とかやったら幅ができるやろな だけど、古い家は古いものが残っていて、戦国時代からのものも普通に残ってたりする
住んでる人の先祖が残したもの
歴史は現実離れした世界で個人的には歴史に興味無いが、そういう家に行くと現実の世界という感じはする 有名人が出てこないような細々とした文書はニュースバリューはないけど、たとえばその寺社がどこに荘園を持っていたかとか、公家や在地武士とどういう関係だったかとか中世史の研究者にとっては宝の山だったりする 借用書や今でいう日報みたいなものも
古くからある有力者の家には現存していそうだよね >>493
郷土史は地元の名主や庄屋の蔵にある帳簿や文書類が研究や編纂の上で重要な史料になってる
地元の郷土史読んでたら江戸時代の記述で「祭りの晩に酔っ払った村の若衆が隣村の若者に喧嘩売ってボコボコにしたので隣村に詫び入れて賠償金支払いました」なんて書類が残っていて、昔からイキってやんちゃやってたバカがいたんだなってクスッとなった
ただこうした地道な郷土史の研究は地元の中学や高校の歴史教師が担っているけど、教師の業務がどんどん過重になってそうした研究をやる時間もなくなってるなんて話もある >>478,485
そういうウィキ的な情報じゃなく、、
三河か尾張か区別つかんからどっちでもいいけど
歴史がある=見つかった資料の多さを示してくれ
あるはず
焚書でないならば。 >>491
そうそう。素封家って言われる家で文化財指定されてる家とか。
テーマAで有名と思ったら、テーマBの有名人もいたとか聞かせてくれる
維持しながら住んでる人は大変だから
行政で助けてあげてほしいw 近年、デジタルアーカイブとかで古い絵や古文書を残してるけど。アーカイブとしては紙に劣るだろ
本気で残したいならデータを16進数におこして紙に数列として印刷したほうがいい >>498
デジタルじゃあかんのですよ
裏に貼ってあったり手間かかるから
それに見合う人員とお金が無限にあれば可能だけど >>495
区別がつかんとか、どこかの田舎猿なの?
武家社会に君臨したのが三河、尾張出自はいない
由緒正しい奴なら区別出来る
三河政権たる鎌倉幕府の支配層一覧(三河つながり優遇)
【鎌倉将軍】源頼朝(母方:藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
■将軍御一家(頼朝姻族、頼朝女系の一族)
・足利氏(下野国足利郡足利)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))の家系
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
・一条氏(藤原北家中御門流)←頼朝同母(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市))姉もしくは妹(坊門姫)の嫁ぎ先の家系
■御由緒家
・安達(小野田)氏(三河国八名郡小野田、三河県豊橋市)←安達(小野田)盛長は頼朝幼なじみ
・足助(賀茂)氏(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)←源頼家に室を出し、生まれた息が源実朝を暗殺した公暁
・比企氏(武蔵国比企郡)←頼朝乳母(比企尼)の家系←源頼家に正室を出す
・八田氏(常陸国八田郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系←八田知家の猶子である中条家長は高橋荘(三河国賀茂郡、三河県豊田市)地頭
・結城氏(下総国結城郡)←頼朝乳母(寒河尼)の家系
■門葉(鎌倉将軍と血縁関係がある源氏)
・源範頼(三河守)←頼朝異母弟
・源広綱(駿河守)←古井城主(三河国碧海郡古井、三河県安城市) ←太田道灌の先祖
・平賀義信(武蔵守)
・山名義範(伊豆守)←実父は矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・大内惟義(相模守)
・足利義兼(上総介)←母親が頼朝母と姉妹(藤姓熱田大宮司家(三河国額田郡、三河県岡崎市)
・加賀美遠光(信濃守)
・安田義資(越後守)
■執権・連署
・北条氏(伊豆国田方郡北条)←頼朝正室の家系、政子の父・北条時政の母は伴為房の娘(三河伴氏)
■政所(一般政務・財政を司う機関)
・大江氏←初代別当の大江広元は牛田城主(三河国碧海郡牛田、三河県知立市)
・二階堂氏(相模国二階堂)←初代令の二階堂行政は、母親が頼朝祖父(初代藤姓熱田大宮司(三河国額田郡、三河県岡崎市))の妹
■侍所(軍事・警察を担った機関)
・和田氏(相模国三浦郡和田) >>495
お前、区別出来ないのか?
三河政権たる室町幕府の支配層一覧(三河繋がり優遇)
■将軍御一家
【三代将軍足利義満時代】(3家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・今川氏(三河国幡豆郡今川、三河県西尾市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
【八代将軍足利義政時代】(4家)
・西条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・東条吉良氏(三河国幡豆郡吉良、三河県西尾市)
・石橋氏(三河国設楽郡石橋、三河県新城市)
・渋川氏(上野国群馬郡渋川)
■三管領(将軍に次ぐ最高の役職、将軍を補佐して幕政を統括)
幕府執事(管領の前身)(3家)
・高氏(三河国額田郡菅生、三河県岡崎市)
・仁木氏(三河国額田郡仁木、三河県岡崎市)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
管領(3家)
・細川氏(三河国額田郡細川、三河県岡崎市)
・斯波氏(三河国碧海郡矢作、三河県岡崎市)←初代足利家氏は、祖父より三河国碧海郡碧海荘を相伝し本拠とした
・畠山氏(武蔵国男衾郡畠山)←初代畠山義純は三河国生まれ
■七頭(管領家とともに幕政に参加できた七家)(7家)
・一色氏(三河国幡豆郡一色、三河県西尾市)(四職)
・山名氏(上野国多胡郡山名)(四職)←初代山名義範の実父は、矢田城主(三河国幡豆郡矢田、三河県西尾市)の矢田義清
・京極氏(山城国葛野郡京極)(四職)←京極高秀(佐々木道誉の嫡男)親子は三河国額田郡下和田郷(三河県岡崎市)の領主
・赤松氏(播磨国播磨郡赤松)(四職)←善住寺(三河県豊川市)に赤松円心親子の墓あり、赤松円心は一時、赤田和城(三河県岡崎市)に隠れ住む
・土岐氏(美濃国土岐郡)(五職)
・上杉氏(丹波郡何鹿郡上杉)(関東管領)←事実上の初代上杉頼重の屋敷あり(日名屋敷、三河県岡崎市)
・伊勢氏(出自不明)(政所執事)←活動を記録した最古の資料では、初代伊勢俊継は父、叔父、従兄弟と共に三河国額田郡賀茂郡(三河県岡崎市・豊田市)で活動 鎌倉期〜南北朝期の三河史は大変重要なんだが、廃寺になった大規模寺院が多いのが大変惜しい
これなんかもそうだ
大崎氏・最上氏の祖
http://www.inn-suzuki.com/info.html
>中新田城
>斯波家兼が奥州探題に任ぜられ、三河の国からこの地方に赴任
斯波家兼
父:足利宗氏
母:長井時秀(大江広元の曾孫、室は安達義景の娘(安達泰盛の姉妹)の娘)
空華集 「東海道三河州碧海荘,寔今政府左金吾(斯波義将)祖宗九京(初代から先代)之地也」
「三河国碧海荘は管領家斯波義将の先祖の墳墓の地である」
初代斯波氏である足利家氏は、祖父足利義氏から三河国碧海荘を相伝し本拠とした
永源寺
中世、三河国碧海郡碧海荘内にあった禅寺。管領斯波義将が1380年代に創建。南北朝時代の禅僧義堂周信の詩文集『空華集』に収める「贈雲谿首座赴永源命詩并序」にみえ、錘秀山と号した。
「序」に三河国碧海荘は斯波義将の先祖の墓所のあるところであるといっており、家氏以来斯波氏が伝領してきたのであろう。所在地は「碧海之東」とあるのみでどこであるか不詳である。
応永4年(1397)5月18日、のちに建仁寺61代住持となる玉岡和尚が将軍義満より住持職に補任された(『蔭涼軒日録』文明17年9月15日条)。 でも明治初期の廃仏毀釈で失われるまでもっといっぱい古い寺院には
残ってたんだろうなあ、残念だね
貴重なものは写しておかんと なんで寺がそんなもん保管してんだよw
やっぱり時代、時代で人がなんか貴重そうだからって持ってくるんか? 三河がなんか知らんが由緒があるのはよくわかった
結局、焚書ではないが、寺自体が残ってないことも。もったいねー >>13
いいね
僕は北条家の分家なので平家だけど、源氏の神社の清水寺に奉納するから
源氏名乗ってもいいよね。 >>13
延暦寺焼き討ちしたけど、味方してくれないと
次は清水寺を襲うからby 信長
みたいなことを信長の手紙に書いてたら怖いね >>509
直接手を下した訳ではないが、建武政権を崩壊させて後醍醐を吉野山中で憤死させたのだから、結果的には殺したようなものだろう
北条高時に続いて主君を死に追いやったことで、尊氏自身も心に深い傷を負うことになる >>496
文化財指定されてたら修繕費の補助は出るのでマシだけど、人知れず続いてる家は大変そうだね
将来的には、調査もされずに処分される運命だと思う
お墓も調べると新たな事がわかる事があるらしい
でもお墓は江戸時代中期以前だと風化して読めないけど >>505
江戸以前の寺社は自分たちの所領を持っていてそこからの収入で運営されていたけど、近隣の武士に土地を横領されたり戦乱が起きると田畑を荒らされたり略奪されたりされることがよくあった
そうした時のために土地の所有権文書とか武士との間の取り決めとなどの文書を保存しておき、訴訟に証拠として提出したり前例として幕府や戦国大名に提出して仲裁をしてもらったりした >>490
原文のくずし字読めるようになればそれが一番いいんだろうけど翻刻読めるだけでも面白いよ
各地の県史や市史の史料編に掲載されてる古文書や、豊臣秀吉文書集とか各大名家が発給した文書を集めた戦国遺文は
基本的に現代語訳や書き下しが掲載されてないから、それ読めるようになるだけでも結構楽しいぞ 尾張(今の名古屋近辺) 熱田に草薙の剣があり古来は東夷に対する畿内勢力=ヤマト王権の最前線だった
中世は熱田出身の頼朝、信長、秀吉を筆頭に北陸、西国治めた前田家、池田家、浅野家、山内家、蜂須賀家、清正を輩出
徳川時代は徳川御三家の筆頭
三河(豊田刈谷とか岡崎) 足利氏や吉氏や細川氏や今川氏は三河出身または三河守護といわれてる
徳川、松平も三河で家康や譜代もほぼ全員三河出身で関東周辺を支配開拓して江戸幕府を開いた
現在はトヨタグループの本拠地で日本経済の大黒柱でもある
この尾張と三河を悪魔合体させたのが愛知県
奈良京都に匹敵する格式のある土地だが東京マスコミと在阪マスコミに不当に扱われてる >>515
源頼朝が熱田で生まれわけない
源頼朝は熱田大宮司職を乗っ取った三河武士の家系であり
長きに渡り、宗徒と対立した
源頼朝は、嫡男の正室に曽祖父が開発した三河国の荘園の荘官をしていた足助重長の娘を選んだ
源頼朝の曽祖父は三河県豊田市民→三河県岡崎市民
源頼朝の祖父は三河県岡崎市民
源頼朝の嫡男の正室(辻殿)は三河県豊田市民
その嫡男の息子が鎌倉鶴岡八幡宮でやらかした公暁
・吾妻鏡では辻殿を妻、若狭局を愛妾としている
・源頼家(2代目鎌倉将軍)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫、伊勢権守令)→藤原季範(初代藤姓熱田大宮司、額田冠者(三河国額田郡、三河県岡崎市))→由良御前→源頼朝 →頼家→公暁
・辻殿
足助(加茂)重長(三河国加茂郡足助、三河県豊田市)→辻殿(母親は源為朝の娘)→公暁 全て三河だけで完結しており
尾張パゴヤが出る幕は無い
【三河最強伝説】
■源義家軍
総大将:源義家
本体:三河武士(郎党1 兵藤正経 三河国住人、郎党2 伴助兼 三河伴氏 三河国住人)
■源頼朝軍
総大将:源範頼(三河守)
本体:三河武士
■足利尊氏軍
総大将:足利尊氏(三河守護(但し当時は喪中))
本体:三河武士
■徳川家康軍
総大将:徳川家康(三河守)
本体:三河武士
■トヨタグループ
総大将:トヨタ自動車
本体:三河武士 信長が送った安土城を書いた屏風もバチカンの
奥底で眠ってるんだろうけどいつか発見されないかな 秀頼が九州に逃げたことを示す決定的な証拠とか、出てこないかなあ >>522
逆に音読みの神社も歴史の長い所だとほとんど無い 寺に音読みが多いのは経典が中国から伝わったので音読みがデフォで経典から開祖が名付けることが多かったから
地名由来の寺は訓読みそのままになったのかもだけど音読みを通名にしてる史料もある >>526
薬師寺って天皇が建てた寺だから
全国に二つしかないんじゃないの? どうせ領地上げますって偽書で
それをもとに不動産経営するつもりだろ 日本はこんなものが平気で出てくるから文系なんていう無駄な道に進む研究者が出てくる まあ文系など会社を儲けさせるのには何の役にもたたない
ノーベル経済学受賞者を雇用しても会社儲けさせるどころか
大損害を被ったからね
大学の文系学部の大半は潰してしまっても良い >>348
(‘人’)!
へえ厳しいんだね
>>514
ぼった栗が多いよ止めときなよ(笑) ねねへ
この前訪ねてきてくれて嬉しかったよ
お土産もありがとう。素晴らしすぎてお返し思いつかないから
今度またきてくれた時に返すね。
この前会った時、さらに美人になっていたね。驚いたよ。
あのハゲ秀吉が浮気してるだって?言語道断なんだね。
でも、あなたほどの素晴らしい女性、あいつにはもうもらえないだろうから
あなたは自信持って正室として、嫉妬せず堂々としてるんだよ。
何か思うところあっても、全部言わずに、半分くらいいうのが喧嘩のコツだよ
後この手紙は、あのハゲ秀吉にも見せてやってね。
天下布武( 公文書 )
信長
これが史実という ただただひたすらにすげーな
21世紀になっても倉庫からこんな新発見があるのか この中に信長直筆の文書があるといいな
信長の字は癖の強い字で好きだな
あと謎とされる濃姫に関する新事実があったら大発見だ
こういう文書から女性たちの本名がわかったりするからそれも楽しみ
当時の女性は○○(実家の姓や住んでる城)殿とか北の方とか言われていたので有名人なのに本名がわからない女性が多い
茶々は秀吉の文書に何度も登場してるけど実はねねは「ねね」「ねい」「おね」と諸説あっていまだに不明 研究する人に比べて残ってる史料が多すぎるんだろうな。おっつかない
人気ある戦国時代でこれだものw >>168
信長は山門領を不法占拠して対立した延暦寺に対して味方をするか、しなくても敵対するなって言ったんやで >>518
せめて、中途半端に写生するくらいならきちんと模写してくれればなぁ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています