【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」 ★4 [樽悶★]
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考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん=奈良県橿原市(柿平博文撮影)
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江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。
前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半〜248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2〜3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4〜23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19〜26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST 2021/7/9 16:00
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
2021/07/10 19:18
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70
★1:2021/07/10(土) 23:20:25.25
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1625984486/ 畿内説がなくなるのは寂しいね
でもそろそろ限界かな 三国志の記述によれば3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが記紀の記述では入れ墨族は
「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイワレビコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イワレビコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく 邪馬台国の大きさの目安になるかな
当時の対馬は発展いていたと思われる
今でいうと国債空港を有していたわけだからね
だからそのことも考慮しないといけないと思う
対馬国 (1000戸)
邪馬台国 (7万戸)
1:70
現在
対馬3万人
九州1400万人
1:450 邪馬台国って、盛んに言うけど、弥生人のような暮らしだろ?
誇るようなものではない
その頃、海外では、ローマ帝国最盛期で、ローマ市民は公衆浴場で温浴やサウナの娯楽施設で楽しむ生活の余裕があった
世界から見れば、日本は文明の遅れた島国のド田舎者と当然の扱い
恥ずかしくないの? 海に面してない奈良県が古代日本でどれくらいポテンシャルがあったんだろう
海面上昇で海に面してたのかな > 土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い
これむしろ九州が中心地だったのでは 邪馬台国、カラ出張説
実は、邪馬台国は存在せず
当時の中国の役人がでっちあげた
だから場所が明確にならない 魏志倭人伝はキングダムみたいな当時の創作ものでは? 朝鮮半島が2000年前から中華の属国というか中華の一部でしかなかったのに、邪馬台国はどのように生き残ったのか興味は尽きない 考古学者と言うのは、ポストのためなら自分の心を平気で曲げる無能集団いうことはよくわかった。 奈良の方がしっくりくる。北西の極一部以外秘境扱いだし。邪馬台ありそうって感じ >>9
面白い事言う奴だね
誰にでも赤ん坊の時代があるのだから
恥ずかしがるもんじゃないな。
今の日本の方が恥ずかしいw ひとつわからないのは、ヤマトタケルはアマテラスの子供だよね?
ヤマトタケルは地方の神々を倒してのけたけど、イズモタケルも地方は違うけど神の一人なんじゃないの?
イズモタケルの子孫はなんで現存してないの?
なんでアマテラス側の神の流れだけを重要視したんだろう?
クマソタケルだっていたわけでしょ?
逆に言えばイズモタケルがヤマトタケル倒して日本統一したらイズモタケルが日本書紀の主役になってたってこと? >>7
対馬は稲を作れる所は少ないでしょ
稲を作れると人口は何倍にも増える
後発の大和が九州を抑えられたのも稲のおかげ >>1
邪馬台国と卑弥呼の国は別じゃないかなぁ
それか邪馬台国と大和国、大和王権は別 バカだな、畿内説には3世紀以前の歴史がまったく存在しない
中国との交流は紀元年前後には始まってるんだが。 邪馬台国が九州から畿内まで広大な範囲を治めてた可能性はあるの?? >>30
ないと思うね
邪馬台国と大和王権は別だと思う >>1
何で魏にお墨付きを求めたか?
それは大陸からの渡来の末裔だからだろ、つまり長江付近の百越
それが弥生人
大和王権は縄文人、卑弥呼の国は無くなり大和王権は歴史を綴った
純粋な渡来系弥生人はいなくなったわけだ 東遷説とは簡単に言えば、 「北部九州にあった邪馬台国は卑弥呼の時代、若しくは台与に代わる時に今の大和に遷ってきた」というものです。 昨日
佐賀県大和町から大規模墳墓群と多数の銅鏡が出土したニュースがあった
奈良も何か出土するといいね なんで、瞬間冷凍されてるの?
瀬戸内海は盆地だったんだよね?古代は。 >>37
ヤマト王権は百越より後に渡来した扶余だろう
先住の百越系弥生人からお前らあっちに行けと言われて吉備、奈良に行ったんだろう
知らんけど 奈良は奈良時代以前はまともな城郭無い
奈良以前は福岡県にある
ペテン歴史が日本書紀と明治維新 モモソノヒメが卑弥呼だとしたら
三輪山に祀られている天照と大物主に新解釈ができるかも
モモソノヒメは大和の神武系統
大物主は実は在地ではなく九州から来た実権を伴った大王
ここからヤマト王権が作られた
卑弥呼は独身と言われていたがモモソノヒメも大物主と微妙な婚姻関係
箸墓は大和に王権を持ち込んだ偉大な女王ということで作られた
みたいな仮説も面白いな >>43
そういう弱そうな勢力が後に勝つとは思えないけどな 半島情勢と邪馬台国 その1(畿内に交流の痕跡は全くなし)
B.C.108年 前漢によって楽浪郡設置
30年 土着漢人の王調が反乱するも後漢が取り戻す
57年 奴国が金印を授かる
184年 黄巾の乱によって三国時代に突入
189年 公孫度が朝鮮半島へ進出
204年 公孫康が帯方郡を設置ほどなく魏へ恭順する
237年 公孫淵が呉の孫権と同盟を画策し独立宣言
238年 魏の太尉・司馬懿に滅ぼされる 半島情勢と邪馬台国 その2(魏志倭人伝に書かれてるのはわずか10年前後の出来事)
238年 出来立てほやほやの魏配下の帯方郡へ卑弥呼が朝貢
245年 辰韓八国が誤解によって帯方郡に反乱するも滅亡
247年 邪馬台国と狗奴国との戦闘が激化
卑弥呼死亡その後内乱が続く
十三歳の壱与を立てて王と為し、国中が遂に安定した 半島情勢と邪馬台国 その3
265年 西晋が発足
280年 中国統一
300年 八王の乱でまた荒れ始める
313年 高句麗が南下して楽浪郡を占領
5世紀前半 帯方郡が百済に征服される
5世紀後半 帯方郡が高句麗に征服される
5世紀 倭の五王との交流が宋の記録に残るが、日本書紀などとの記録と微妙に異なる
7世紀 遣隋使、遣唐使の記録と大和朝廷の記録がほぼ一致 半島情勢と邪馬台国 その4
大国が荒れると、倭国も荒れる。
奴国による100国連合時代は、半島から鉄を取り、九州から山陰の一部まで普及させている
ところが三国時代に突入すると、倭国も大乱になり、30国の連合国家として復権しようと努力してるころの記録が魏志倭人伝
倭国統一と大和朝廷発足に動き始めたのはどの時代のどこの勢力なのか?
倭の五王から推測できることは、倭国の権力がまだ一定ではなく統一的でもない
半島の利権にこだわりが高く、最終的に新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓の統治についての公認を得たということ >>51
そういうのを考慮すると
半島や黄河文明とは全く関係ない縄文人の国があったのは必然だね
元から住んでるんだからさ >>46
でもDNAから推測するに渡来の波は複数回あって日本全国に広がった弥生人(一般人日本人のタイプ)と近畿に集中して多いタイプの渡来人のが違うタイミングで来てるようなんだよね 大体、日本にもともと住んでた縄文人が大陸にお墨付きをもらいにいくわけがない >>53
つまり、近畿に集中してるのは王権の力で住まわせた可能性が高い
普通に渡来してきたなら九州だろう、しかもそこには既に住んでいる人がいるわけで 三国志時代ぐらいから地球寒冷化が進んで、民族の南下が始まったとか読んだ記憶があるが、日本でもあったのかね >>30
近畿説だけど無いよ。
まだ、そこまでの力がない。
水害から避難地で農業生産が飛躍的に伸びているぐらいじゃないかな?
開拓中ですね。 >>55
既に住んでる人がいるところに来ちゃったから倭国大乱という可能性もあるな
それで近畿に移動したとか >>56
その南下と渡来の関係はわからんが
大陸と繋がりが強いなら、古墳なんて作らないんじゃないか?
三国志時代の後の大陸と繋がりがありながら古墳とか時代錯誤だろう >>58
縄文人は九州は比較的少なめだっけど、本州は本拠地だよ? その後の遣唐使までのブランク考えたら
大和王権は完全に縄文人国家だね
渡来の弥生人は縄文人に併合された
それで古墳が全国に作られたわけだ >>58
戦乱から逃れた人や大陸、半島人も多数いたと思う。地元民との摩擦を避けて、奈良へ入る。 >>10
摂津は内海
河内の川で大和まで船で遡行出来たよ >>1
大和政権の元になったものが巻向にあった←わかる
だからここが邪馬台国だ←分からない
邪馬台国はこっちだあっちだ論者のおかしいところはこっちだという主張が先にあり必死に我田引水して主張するところ
邪馬台国であるという証拠は未だにどこも出てきていない
まだ文字が無かったこの国の時代で証明できるのは国内の土器の流れでも青銅器の流れでもばくただただ金印が出たところのみが邪馬台国と証明できるのにそれを忘れている
邪馬台国というネームバリューが欲しいだけで馬鹿になっている 【纏向遺跡とその近隣の遺跡】
@纏向遺跡は3世紀中頃、それまで弥生時代の遺跡のない所に突然出現し、4世紀後半に突然消えた。
A日本独自の墳墓である前方後円墳が出現。箸墓古墳は当時として破格の大きさである。
Bそれまで近畿にはなかった大陸の影響の強い遺物が出た
C多くの鉄器や木器などの製造に関わる職人の存在
D都市計画に基づき作られた最初の遺跡。環濠が無く、住居跡がない政治的色彩の強い都市と大型建築物。
E東海、北陸、山陰や関東までの広い範囲の土器
F初期前方後円墳から多数出土する三角縁神獣鏡は日本製か中国製か判明していない
纏向遺跡は近隣遺跡の状況を見ても、どのような過程を経て出来たのか解明されていない。
G纏向遺跡が出来る直前まで存在した奈良盆地の唐子・鍵や河内の池上・曽根遺跡には大型建築物はあっても、鉄器の出土がなく、銅鐸を除き、銅鏡など銅製品も少なく、纏向遺跡に直接繋がるとは思われない
H繋がりが濃厚と思われる吉備の楯築墳丘墓は2世紀末に突然出現し、その後、吉備に同類の古墳は続かない。
墳墓は双方中円墳で、木槨墓や埴輪のルーツと言える特殊器台などから纏向の前方後円墳に大きく影響したと思われる。
副葬品は一振りの鉄剣とヒスイの勾玉3連と、30 sに登る多量の水銀朱など大陸の影響が強い。 大和yamato
の名前は
邪馬台国yamataikoku
から来てるのでは? >>62
うんにゃ、近畿だったと思うが、入植弥生人が
水田耕作のお陰で急速に人口が増えて、縄文人を圧倒。
縄文人を虐殺した跡もあるそうだ。 似てはいるんだよね、響きが
邪馬台国、大和国
イズモとかクマソとかの響きとは全然違うし
そこは同じだった可能性あるね
アマテラスと卑弥呼って性別は女で一致してるけど名前が全然違うのが気になるけど 結局、桃のタネが革新的な証拠だったか…
まぁ、あれだけ桃のタネで邪馬台国論は決着と見出しつけてたくらいだから、もう揺るぎない場所として決まりなんだろうな 九州説って村の歴史自慢が本を売る為に言ってるイメージ >>66
「台」が「ト」と読むので
普通にヤマトだったと思う。
台与もトヨと読むし。
現代で「タイ」と呼まないと都合悪い
なんかがあったんでしょ。 古代は稲作で天候や季節を知るために太陽信仰があって卑弥呼は巫女だった
その伝説が天照大神になったのだろう
天岩戸は日食の比喩 >>64
金印が出たところのみ
それも早計すぎる。
どういう状況での出土なのか?
他の埋葬品も兼ね合いもある。
移動できるもんは慎重にならざる得ない。
災害等で古墳も修繕があり、新しいもんが混ざる場合もある。外周出土はよくある。 邪馬台国なんて無かった
当然卑弥呼なんてのもいない
邪馬台国は古代中国人が創作した国説が
俺の中では一番しっくりくる >>17
「韓国人は何処から来たか」長浜浩明 2014.1.20 展転社
半島は、BC10000年〜BC5000年の間、旧石器遺跡が(わずかしか)出土せず、
ほぼ無人だった。
BC5000年頃から、縄文人が列島から半島に渡り 定住を開始。
BC2000年頃から、大陸北方から人々が(先住の縄文人を駆逐するように)侵入し、
縄文人と交雑し、縄文人と入替わって、半島人が生じた。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
長浜浩明氏講演『韓国人は何処から来たか』(展転社刊)2015.5.24頑張れ日本!群馬県支部設立3周年
105,702 回視聴
日本の歴史学者は、朝鮮人をかばうからなのか、かばうためにうそまでついて朝鮮人になったシンパたち。
日本の歴史学会は、戦後、国学派の歴史学者を公職追放して、マルクス学派講座派の東大派閥で牛耳られてきた。
長浜浩明氏 ←もちろんこの人、九州説 道理のわかった人間なら当たり前!! >>62
これがげんざいの日本古代史の究極の至論 東京工業大学で建築畑を歩んできた人 哀れ、えせ歴史学者ども
そもそも、渡来人って、そんなに来てない 弥生後期、古墳時代含めても多くて数千てとこ 海があるから渡れないよ
北九州で稲作始めたのもなんと、縄文人
最新の遺伝子研究からも、チョンと日本人は縁遠い ↓ ↓@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
長浜浩明氏講演『韓国人は何処から来たか』(展転社刊)2015.5.24頑張れ日本!群馬県支部設立3周年
105,702 回視聴 https://www.youtube.com/watch?v=GLxyhtn7P-g&t=3428s
日本の歴史学者は、朝鮮人をかばうからなのか、かばうためにうそまでついて朝鮮人になったシンパたち。
日本の歴史学会は、戦後、国学派の歴史学者を公職追放して、マルクス学派講座派の東大派閥で牛耳られてきた。
↑この人の歴史書?は実にためになる 喧嘩売られた歴史学者?どもガン無視だけどな
東京工業大学で建築畑を歩んできた人 ただ、江藤淳の教え子だった 感慨
日本の誕生 皇室と日本人のルーツ 単行本(ソフトカバー) 長浜浩明 (著)
「神武東征」はあった! そして、「日本書紀」には真実が書かれていた!
第一章 日本人のルーツを解き明かす 『サイエンスZERO』と篠田謙一氏のウソ @@@@@@@@ サヨク系の学者の意見 要注意な >>65
被葬者は何体あるの?
不思議に思うこと
なぜかDNA調査しデータベースしないんだよね。
姻族関係などわかるのに宮内庁管轄以外
でできそうなのに。
学者に提言する人いるのかな? >>72
ヤマトという地名も北部九州から移った
考古学者・森浩一、最後のインタビュー(足立倫行「倭人伝、古事記の正体」2012)
伊都国の平原古墓は、すべての銅鏡が破砕して墓に埋納されていたことで有名ですが
奈良県桜井市の前期の外山茶臼山古墳でも、2009年の再調査で、実に81面の
銅鏡が埋納され、ことごとく破片だったことがわかりました、2つの墓は
100年ほど年代が隔たっていますが、弥生時代の近畿には墓へ銅鏡を入れる風習も、
その銅鏡を割る風習もなかったことを考えると、北部九州の強い影響は明らかです
また「魏志倭人伝」では、中国人が倭地の朱や丹に関心を持っていたことが記されていますが、
伊都国の平原古墓や井原鑓??溝古墓では棺の中に大量の朱が使われました
近畿でも、前期の前方後円墳では遺骸の周囲に朱を撒くことが知られており、
奈良天理市の大和天神山古墳では約40キロもの朱がキビツに埋納されていた
これなども、北部九州からの風習の伝播でしょうね
そもそも、ヤマトという地域名、いずれ国名になる名称自体が北部九州からの東遷の結果です 縄文時代の人口の中心は関東で次に東北と九州。
近畿はガラガラ。
弥生時代に大陸の戦乱から逃れてきた渡来人が最初みんな九州にいたけど
先住民の縄文人もいるので、さらに逃れて誰もいない近畿で根を張ったって事でしょ。 >>51
倭国大乱は、漢末の混乱期(2世紀末)の模様。
この大乱で大倭(奈良)が勝ち、邪馬台に覇権放棄を突きつけ、
漢の時代の列島覇権国・邪馬台は覇権放棄の証に女王を立てた。
そして、漢の時代に邪馬台が配下の奴国を朝貢に出した様に、
新覇権国の奈良が、邪馬台を魏に朝貢に出した。
倭の五王は、大和朝廷による「統一」が為された後の5世紀の話だ。
大和朝廷は、4世紀に日本を統一し、半島に進出したが、5世紀に
入った辺りで高句麗との戦争にボロ負け、半島利権に危機を感じて、
それまで無視していた南朝に朝貢し出した。
五王とは、歴代の五人の王の事で、権力が一定でない事を意味しない。 今月は近畿説、来月は九州説、とかで住み分けしてそう >>83
【稲作の分布】古代は九州のほうが圧倒的に大きい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E4%BB%A3%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E7%B5%B1%E8%A8%88
旧国 『延喜式』出挙稲数(束)
◆畿内 2,087,126
山城 424,070
大和 554,600
河内 400,954
和泉 227,500
摂津 480,000
◆西海道 5,990,581
筑前 790,063
筑後 623,581
豊前 609,828
豊後 743,842
肥前 692,589
肥後 1,579,117
日向 373,101
大隅 242,040
薩摩 242,500
壱岐 90,000
対馬 3,920
延喜式は10世紀だから、古代3世紀ごろはもっと差が大きいんじゃない
弥生時代の農業生産はおそらく畿内全域と九州で10倍くらいは差があったでしょう。@@@@@@@@@@@@@@@@@@@
九州に7万戸でも畿内には7000戸とかでしょう。
畿内の狭い見識を九州や他の地方に当てはめて論じています。@@@@@@@@@@@@@@ >>51
魏志倭人伝の「女王共立」の記述から日本の学者たちは
すぐ連投国家と言うが、これはとんでもない間違いで、
朝貢国が支那から問題無く「○○国王」の称号を貰えるよう、
そう言っているのであって、それは日本に限った話ではない。
「我々は弱小国の寄り合いで皆でこの王を共立し朝貢します。
ひいては、当地の王と認め、庇護をお願いします。」
ってな具合だ。
武力で国をまとめたとあっては漢/魏に睨まれる恐れもある。
逆に、「共立」とは国内に異論がないと示す事でもある。
「共立」とは非常に考え抜かれた効果的なセリフだ。
だが、日本の古代やってる学者たちは、日本に関する部分しか
文献を読んでいないので、朝貢を理解していないようだ。
もういい加減、「連合国家」という妄想から卒業すべき。
権力とは、そんなに甘いものでは無い。 >>84 80
必要ない 皇室の起源にメスを入れる?? 罰当たりなちょうせんじんめ!
第225回活動記録 神武天皇陵の謎 菊池山哉(さんさい:大正-昭和の郷土史家)
はその著書のなかで、洞村(被差別部落)の区長宅で多くの老人たちから聞いた
洞村内部の話を次のように伝えている。
洞村は神武天皇陵拡張のため平野へ移転し、今は
街路整然といしている。もとは畝傍山の東北の尾の上で ...
yamatai.cside.com/katudou/kiroku225.htm - 13k - キャッシュ - 関連ページ
↑うちらの先祖は九州から神武にくっついてここに来たという伝承をつたえる >>87
そりゃそう。弥生時代に稲作で人口が圧倒的に増えたから。
まず九州で水田稲作が始まって
それで鉄も燕から半島経由で伝わって来てるから、
どうかんがえても九州から古代国家は始まってる。 >>83
そういう事
縄文時代中期あたり
奈良盆地はほとんど湖と思う。
縄文時代出土はほとんど海抜40m以上の所から。
弥生時代に入り、土器の出土状況から東海地方
近畿に水害があり避難地であった。
又毛人の地域でもあったと思う。
木製仮面が出土、地消地産で作った木製道具の
出土。開拓地だよ。 >>85
2世紀末の畿内には大陸や九州との交流や争いの痕跡がないでしょ? >>84 80
必要ない 皇室の起源にメスを入れる?? 罰当たりなちょうせんじんめ!
山崎三郎氏(独協大学教授)の『ユダヤ問題は経済問題である』には興味深い話が紹介されている。
日産自動車の実質的な創業者で満州重工業の総裁であった鮎川義介氏(ニキサンスケ、田布施出身)がドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。
ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。
「貴方の国が如何に努めてみても、我がドイツが作っているような工作機械は作れないだろう。しかし、
ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。
それは貴方の国の万世一系の皇統である。
これはドイツが100年試みても、500年頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ」。
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^ >>90
そもそもこいつら(畿内説信者)、魏志倭人伝読んでない 読めていない 低知能だから??
>これに対して、この数年間に調査のおこなわれてきた大和古墳群での中山大塚、下池山、黒塚などの前期古墳の埋葬は
いずれも木棺を壮大な竪穴式石室で囲みこんでいたし、若い日の僕が発掘に加わった櫛山古墳は石棺を竪穴式石室の
おさめていた。
今回発掘されたホケノ山古墳では、木棺の外側に木槨と石室との2重の外部施設を備えていて、
倭人伝が記している倭人の葬法には合っていない。森浩一「関東学をひらく」より 2001 朝日新聞
「魏志倭人伝」には、倭人の葬式は、 棺あって槨なし。」 と、明記しているのだ。
木槨のなかに木棺があったのでは、「魏志倭人伝」の記述に合っていない。< >>92
争いはないけど、大陸や九州、日本海側からの
避難民とかはいただろな。 天皇と繋がってると勘違いしてるからこんな必死になるポンコツ学者
弥生人の集落がどこにあろうとどうでもいいこと >>92
あるよ
>紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡である。
本遺跡は、燧灘(ひうちなだ)に突出する岬上の先端にそびえる標高352メートルの紫雲出山山頂にあり、
絶好の視野と眺望とに恵まれている。
本遺跡は、弥生時代中期の初めごろから始まって、出土遺物の量から判断して、中期も終わりに近づくにつれて
集落の規模が拡大し、人口も増加したらしいが、中期をもって終わっている。政治・社会の変革は、
もはや不便な山頂に居住することを必要としなくなったのであろう
本遺跡から出土の石の矢尻や剣先が豊富な事実と矢尻の重さから、弥生時代に戦いがあったと佐原は考えた@@@@@@@@@@@@
@香川県善通寺市・旧練兵場遺跡 九州地方からの移住者住居跡
九州地方からの移住者の存在を県内で初めて確認した。
同遺跡は、弥生時代中期から古墳時代にかけての竪穴住居跡が多数発見されている県内最大規模の集落遺跡。
@紫雲出山遺跡(しうでやまいせき)は、香川県三豊市詫間町に所在する弥生時代中期後半の高地性集落遺跡
↑直線距離で8キロくらいだから、いい感じじゃね? 時代もぴったり合う
香川県善通寺市・旧練兵場遺跡に九州勢力が橋頭堡を築き、紫雲出山遺跡に籠もった原住系・銅鐸民との
血みどろの戦いが行われていた証拠だよ <@@@@@@@@@@@@@@ >>92
高地性集落遺跡については、倭国大乱の時期とほぼ同じ時期(弥生後期の第二期)のものが顕著な形で
近畿地方に残っており、これは神武の近畿侵入に対応する可能性がある。
森浩一氏は、その争乱の深刻さは自身で遺跡を踏破した人しか理解できないほどで
>集落の分布状況から、弥生中期〜後期にかけて、北部九州〜瀬戸内沿岸〜畿内の地域間で軍事衝突を伴う
>政治的紛争が絶えなかったとの推測もなされている。
>豊中市勝部遺跡の木棺から石槍が背に刺さった遺体や石鏃を数本打ち込まれたらしい遺体も発見されている。
>これらの遺体は争乱の犠牲者とみられる。 紀元前どころか紀元後の歴史すら分からないとは文明後進国の悲哀だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています