普段、あまり聞き慣れない「拝察」という言葉が、各方面に波紋を広げた。拝察とは、人の心中などを推測するへりくだった言い方。
6月24日、宮内庁の西村泰彦長官が定例記者会見で「天皇陛下は新型コロナウイルスの感染状況を大変心配されている。
オリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか、ご心配であると拝察している」と発言したのだ。

皇太子時代から15年間、陛下を見続けてきた記者として、まず衝撃を受けたのは、「側近に拝察させる」という、
その「陛下らしからぬ行動」だった。

(中略)
記者は宮内庁担当の一員として陛下の趣味である登山に同行したこともある。
代替わりの前後には、少年時代からの登山の足跡をつぶさにたどり、陛下に接した多くの人からエピソードを聞き取った。
関係者はみな、気さくで飾らず表裏がない人柄と話す。
策を巡らすような政治性からはほど遠いと思っていただけに、今回の発言には驚かされた。

(中略)
 ▽開催「祝福」、悩ましい胸中

 一方で、陛下の心境を想像すると、同情を禁じ得ない部分もある。世界がコロナ禍に巻き込まれて約1年半。
4年に1度の世界の祭典が、1年遅れのこのタイミングで、日本で開催される。
五輪憲章により、国家元首として開会宣言を求められる陛下は、言ってみれば「世界と人類を代表して」あいさつを迫られているようなものだ。

 五輪憲章は、開会宣言で述べる言葉の文言まで定めており、それに従えば陛下は
「第32回近代オリンピアードを祝い、東京オリンピック競技大会の開会を宣言します」と、大会の開催を「祝福」しなければならない。

 全人類がコロナ禍の苦境にあるのに、それを無視するかのように手放しで開催を祝していいのか。
このまま何もせず大会を迎えていいのか。
開催が感染の拡大につながれば、大会にも皇室にも傷が付く。
両大会の名誉総裁としての責任感も、皇室の「危機管理」の意識もあったはずだ。

そんな中で陛下は、あらかじめ気持ちを示しておきたいとの意識に駆られたのではないか。
「皇室の危機管理」は宮内庁長官にとっても重要課題だ。2人の思いは最終的に同じ結論に達したのだろう。

(中略)

 天皇は「国と国民統合の象徴」であり、憲法が「国政に関する権能を有しない」と規定するため、政治的発言や政治への干渉が禁じられる。
また憲法には、天皇は「国事行為のみ」を行い、その行為は「内閣の助言と承認を必要とする」とも書かれている。
したがって「天皇は黙って内閣に従うのが筋である」との主張にも理がある。

しかし、私たちが、ほとんどの人権を制限してまで天皇を「象徴」として国の高みに置き、幼少からの「仁徳の涵養」を強いている以上、その「良心」は尊重されるべきだと思う。
そうでなければ、生身の人間としてあまりに気の毒だとも思う。

 陛下は今年元日にはコロナ禍に関して異例の「ビデオメッセージ」を発した。専門家からの進講でも感染拡大への憂慮を度々示してきたという。
憲法上の立場は重々承知の上で「拝察発言」にならざるを得なかったことを、誰よりも残念に思っているのは陛下自身なのではあるまいか。


 一方で、天皇の言動に過剰とも言える反応を示す国民の側にも課題がある。内閣は国会で多数を占める与党で組織され、
与党の議員は選挙で選ばれているのだから、内閣は民意を反映している。
天皇の思いがその内閣を飛び越えて、政府のコロナ対策への「満たされない民意」を代弁してしまうことを歓迎するのは、民主主義国家として健全とは言えない。

 拝察発言の反響は大きく、天皇の持つ圧倒的な存在感と言葉の影響力を見せつけられた。
インターネット上には「陛下の御心をお察しして即刻五輪は中止せよ」「勅命が下された」などといった物騒な書き込みもあった。

 天皇の意思によって政治が動かされれば、明らかな憲法違反である。「よくぞ言ってくださった」などと無条件にありがたがり、世間に一種の「熱狂」が広がるのは不気味でもある。
それよりも、人としての良心をコロナ禍でどう実現していくのか、一人一人が考えて実践することが求められていると思う。

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