【歴史】邪馬台国「大和説」、最有力候補地「纒向遺跡」調査の考古学者・石野博信さん「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」 ★6 [樽悶★]
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考古学ファンから邪馬台国所在地論争の盛り上げ役としても親しまれてきた石野さん=奈良県橿原市(柿平博文撮影)
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江戸時代からいまなお続く邪馬台国の所在地論争。歴史ロマンあふれる論争の盛り上げ役として知られるのが、畿内説を唱える考古学者の石野博信さん(87)。邪馬台国の最有力候補地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の最初の調査員だ。半世紀前の昭和46年、奈良県立橿原考古学研究所(橿考研)から出向していた奈良県庁で開発計画を知り、調査の必要を訴えて自ら発掘に乗り出した。若き日のすさまじい考古学熱が周囲を動かした。
前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半〜248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2〜3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4〜23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19〜26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST 2021/7/9 16:00
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
2021/07/10 19:18
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70
★1:2021/07/10(土) 23:20:25.25
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626093787/ >>67
スメル人と日本人の親和性を見つけたのは出島に来ていたドイツ人の
ケッペルでした それから大正時代に三島先生がスメル スメラミコトの関係性について書きました
日本ではその本が飛ぶように売れました
始めての世界文明と日本文明がほぼほぼ共通していること
日本文明を基礎として全ての宗教 科学 発酵食品 天文学が形成されている事が書かれていました
戦後アメリカはこの説を恐れ焚書扱いにしました。
そしてスメルだと天皇家と共通するのでシュメールと文字を変えて結びつきを断とうとやっきになりました
最近九州や山口を中心にシュメール文字が書かれた岩が出て来ており
それも神社の御神体にスメル語で書かれた岩が大量に発見されました
これをどう解釈するかが今後の私達にかかっています >>81
>九州から出ても全国を見渡せる大和に居住したろう
奈良盆地は最低最悪の土地だ。 墓地ぐらいにしか使い道がない。 @阿波 >>56
天理スタミナラーメンの悪口はそこまでだ!
妄想が妄想を産んで倭人伝の記載から大きく逸脱している
もう一度倭人伝を読み直せば邪馬台国畿内説など
あり得ない事が判る 日本武尊命が山門八女の兵力を率いたら
余裕で本州制圧できましたって、
記紀に書いてあります。 邪馬台国や卑弥呼は中国の書で記されてるだけだからね
日本の国造りには古代の神社に祀られてる神様が関わっている
ここに関係のない地域はそもそも候補地にもならない >>105
日本が金属器を使い始めるのはシュメールに遅れること数千年だ >>105
私もスメル文明なんて最古の文明で
宗教の大本ですから信じられませんでした
最近焚書扱いされていた文献が手に入りましたので読んでいるところです
それから岩刻の件は 私の母校の英語の先生が有名な方で 本を何冊も出されています 吉田さんと言います
彦島 宇佐神宮には間違いなくシュメールがありましたよ ヤマト王権は2世紀後半、ヒミコの推戴をもって始まった。
ヒミコ(陽巫女)は天照大御神のモデルであり、ゆえに皇室は天照大御神を祖先神とし、歴代
天皇はヒミコの後継者として、シャーマンとしての役割を代々継承してきたのである。
父系社会が強まっていく時代の圧力に抗して、女神を祖先神としたのは強力なパワーをもった
女性が皇室祖先として存在したことを示唆しており、それはヒミコ以外にありえない 稲荷山古墳出土鉄剣によると、
雄略天皇の時代には関東から東まではヤマト王権が制覇していたのは確実。
西暦418年御生れとなると、西暦250年前後、420-250=160〜170年
1つの王権が30年位として6-7代前?
仲哀天皇はほほ実在。
やはり卑弥呼と邪馬台国は九州地方の一地方の物語なのでは?
女帝が当てはまらない。武の権力の時代にシャーマン王権? 次も女帝?
ヤマト王権とはとても考えられない。 神武天皇だって実在してるよ
年代や業績がその通りだったか はともかくな >>103
堺を港にし金剛山地を砦に奈良に都を築く
天然の要塞じゃね? >>77
何か俺の習った日本史と違うのだがw
戦前の国史と比較しても、神武朝とやらの年代が500年新しくなってるし、そもそも紀元前に遡る宮殿跡は何処にあるの?
橿原神宮造営時に張り切って発掘調査したけど、あの辺りは紀元前には湿地帯で、集落跡さえ出なかったぜww >>115
実在するわけないだろ
史記で初代皇帝として架空の黄帝を置いたように、日本書紀でも架空の神武天皇を置いただけ 卑弥呼を天照大御神とすればだいたい記紀と整合性とれるだろ
そもそも畿内と邪馬台国は別勢力だが、両国統合を円滑に行うための同祖論を持ち出しただけ そもそもさぁ、大和説における邪馬台国王都の有力候補地が纒向遺跡な訳だろ?
九州説での候補地は何処なのよ?
そいつが発見されない限り、大和説の優位性は揺るがないんじゃないの? >>122
整合性なんてまったく取れねぇよ
そんなもん総合性が取れたら何百年論争しても解決しないなんて現状になるか
つーか記紀も三国史も読んだことないだろお前 >>101
時間軸が合いませんね。
シュメールは実在のウル王朝でさえBC2000は行く。
その頃の鉄剣、白内障の手術記録などが日本書紀、古事記にあれば認めますがね。
邪馬台国も九州の一部族の物語でしょう。
シャーマンで王権は創れない。 >>121
継体以降はともかく、それ以前の大王位が一系というのは完全なフィクションに過ぎないから、問題にもならない >>126
例えばそれが特定の人物ではなく国家や民族や一族のことを指しているとしたら? >>24
文字の無い時代の日本側は自分達の地を「やまと」と称した
大陸人は日本列島を倭と称した
日本に漢字が伝わり、じゃあ「やまと」を漢字で表すのに「倭」でいいじゃんと日本側
しかし「倭」という漢字は縁起がわるい そこで同音の「和」にした
「和」一字だけでは少々寂しい じゃあ「大」をつけるかとなった
それで「大和」になり ここで「やまと」を漢字で表す時は「大和」となった
日本人が自分達の地をどういう理由で「やまと」と称したかは色々説があって定かではない 烏帽子はサカのとんがり帽子にそっくり
とんがり帽子を被った髭もじゃでワンピースに腰ベルトの服装の埴輪が見つかっている
ラテン語では人を示す単語にイをつける
ラテン語でサカイはサカの人と意味
アサカは聖なる人という意味、サカ族の国家名、民族名そのものらしい
堺にはアサカの地名が残っている
オスのニワトリの頭にある赤いやつ、元はサカと呼ばれていた
今でもトサカのことを烏帽子と呼ぶ地方もある
烏帽子とサカ、何か関係があるかも >>114
>雄略天皇の時代には関東から東まではヤマト王権が制覇していたのは確実。
「忌部一族(阿波勢力)」だ。 @阿波 >>123
纒向を掘り尽くした纒向の研究者が、考古学的根拠を元に纒向は邪馬台国ではないと断言している スメル文明で話がそれましたが
本題に戻しますね
最近 古代中国語で読む魏志倭人伝という本がありまして 中島証文さんという方が書かれてます
かなりの歴史家や小説家の著名人の方が、古代中国語を無視して解釈しているので大きな間違いを侵しているとのことです
水行の定義ですが、川に限定で土手を歩くとのことです。
みんな海を渡らせていませんか?(笑)
邪馬台国は間違いなく福岡南部です
それから海人族ですから入墨を入れています
また卑弥呼は奴隷を朝貢していました
天照大神と卑弥呼は全く別人です
それから残念ですが邪馬台国は東征はしておりません
なぜなら神功皇后期までには邪馬台国の大半は土蜘蛛征伐で殺されました
邪馬台国が治めていた百済新羅日本府
に大和朝廷が攻め入るからです
邪馬台国を無実の罪で滅ぼしたとは
大和朝廷も流石に言えず神社を作り
上宮下宮にヒメ大神を祀っています
でも結局これで良かったのです
大和朝廷はシナに一度も朝貢してませんし立派な天皇陵も作られした
感謝感謝です
今神武朝の前のウガヤフキアエズ朝も
研究したら面白いですよ >>123
九州説の場合、遺跡が発見されてないだけだという言い訳を延々と続けるんでしょ 数字は単なる目安として応神を400年で固定して20年ごとに区切ってるだけだが
おおよそのイメージは掴めると思う
400 応神 ←倭の五王 讃か?
380 仲哀(神功) ←三韓征伐
360 成務
340 景行 ←九州侵攻
320 垂仁
300 崇神 ←箸墓古墳、四道将軍を東西に派遣
280 開化
260 孝元 ←台与、モモソの時代
240 孝霊 ←卑弥呼死亡(248年)
220 考案
200 考昭
180 懿徳 ← 卑弥呼が20歳で共立されたなら190年頃か
160 安寧 ← 卑弥呼が仮に80歳で死んだなら170年頃誕生か
140 綏靖 ← 146-189年頃、倭国大乱、後継者争い勃発
120 神武 ← 神武一族が東に放浪開始
107 倭面土国王帥升 ←これ九州ヤマトだろ
*57 漢委奴国 >>117
それを、最低最悪の土地と言うのだ。 @阿波 継体朝で糟屋屯倉の本拠地を取り戻したからな。
そもそも内陸部は必要の無い土地だ。
馬鹿だしな >>124
整合性なんて記紀の中でさえとれていない
創世神話から天孫降臨あたりなんかいろんな氏族を統合するためのでっち上げだから
卑弥呼が天照で、その子孫の神武が九州から畿内に入って両国が統合される、つまり邪馬台国は九州じゃないと話が合わない >>128
その時々の有力部族の王が大王位に就いたことを表現しているとしたら、まさに事実通りなんだろうけど、一所懸命系図を改竄して万世一系を創造した記紀編纂者の努力は無駄になるなw >>100
交渉なんかしてない。頼むからせめて倭人伝だけでも読んでから書き込んで 日印協会の講演会の抜粋
インド亜大陸のほぼ中央、マールワーの丘陵地帯のひとつサーンチー丘に、前 3 世紀アショーカ王が建立した仏舎利塔(ストゥーパ)を、前 2 世紀に直径をほぼ 2 倍に増広した塔と周囲の僧院跡が遺っています。
舎利塔とは、釈尊が亡くなったあと信者がその遺骨を納めて建立した、基壇上に覆鉢を置き頂上に傘を立てた巨大建造物です。
以後仏教教団の中心をなし、仏教が異文化圏に展開する場合の先兵のような役目をになった礼拝対象で、その起源には先住ドラヴィダ文化の樹神信仰も濃厚に関わっています。
時代と地域を経て法隆寺などに見られる五重塔や三重塔に変容してきたものです。
サーンチー大塔の北門の西柱に、完成した塔と上空を飛ぶ半鳥半神、その前で祝賀する一群の人物の彫刻があります。
13 人の群像の一人はとんがり帽子とワンピース風の服にベルト、すねに紐でまきつけた布という典型的な中央アジア騎馬民族で、一つの吹き口に二本のたて笛がつく逆V字型の笛を吹いているのが特徴的です。
その顔はなぜかしわが深く、目が落ちくぼんでいる点が他の人物とまったくちがっている不思議な存在です。
とんがり帽子の騎馬民族は、前 5 世紀のペルシア碑文やギリシア歴史書に出てくる、戦闘と交易に長けた中央アジアの移動民で、
前 2 世紀ごろからインドに進入、インダス水系のガンダーラ、ガンジス水系のマトゥラー、西海岸地帯などに政権を持ったサカ族で、イラン系の民族と思われています。
彼らが紀元前から仏教を信奉したことを物語る碑文や彫刻など、いくつかの痕跡がインド各地に遺されています。 >>133
纒向遺跡発掘割合は5パーセント程度なんだけど サカの服装は平安時代の烏帽子に狩衣姿にそっくりなんだよな
鷹狩りの埴輪も見つかっているから古墳時代には既に鷹狩りはあったようだ >>145
纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 >>136
未だに邪馬台国王都に相応しい3世紀の遺跡が一切発見されないって事実から、元々そんなものは存在しないという結論を導き出すのが合理的思考だと思うのだがな >>137
応神、仁徳天皇辺りを400年で固定するのはいかがなものでしょう?
雄略天皇が479没なのに。 >>146
古代の歴史書は聖書もヒストリアも史記も記紀も皆架空の存在を始祖に置いている
チミはノータリンだから知らないだろうけど >>134
北部九州と大和の地名の一致はどういうこと? >>145
掘れば掘るほど邪馬台国ではない証拠が出てくる 纏向は崇神朝の王都なのだから、
別の邪馬台国の都を探さないといけないぞ。 「やまと」
自分達の民族を「やまと」と称したのか
土地(当時の日本列島)を「やまと」と称したのか
その両方を「やまと」と称したのか これも諸説あって定かではないな >>133
関川の説は編年が余りにもおかしいから他の考古学者にまったく相手にされてないだろ
邪馬台国どうこうの話じゃなく、日本の古代史を根本的に否定してるようなもの サカ族は中国でいは塞
日本の塞の神はクナトの神
延喜式の道饗祭に、八衢彦、八衢姫、クナトが登場する
出雲地方の伝承によればサルタヒコは出雲の姫神の幸神と東から来て文物をもたらしたクナトの神の子
記紀によればサルタヒコが発見されたのは天の八衢
八衢は道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違幸大神が祀られている
伊勢でサルタヒコに関係するのが
阿射加神社、大阿坂、小阿坂
上町台地〜泉北丘陵
大阪オオサカ、浅香アサカ、小阪コサカが並んでいる
サカ、塞、クナト、八衢、アサカ、烏帽子、鳥
全部繋がるのだ
偶然にしろ興味深い >>139
まあ数字は意味のない羅列だからw
かりに崇神を250年として20年ごとに区切ってみるとこうなるかな
350 応神 ← 倭の五王 讃か?
330 仲哀(神功) ← 三韓征伐
310 成務
290 景行 ← 九州侵攻
270 垂仁
250 崇神 ← 卑弥呼死亡(248年)、台与、箸墓古墳、四道将軍を東西に派遣
230 開化
210 孝元 ← モモソの時代
190 孝霊 ← 卑弥呼が20歳で共立されたなら190年頃か
170 考案 ← 卑弥呼が仮に80歳で死んだなら170年頃誕生か
150 考昭 ← 146-189年頃、倭国大乱、後継者争い勃発
130 懿徳
110 安寧
107 倭面土国王帥升
*90 綏靖
*70 神武 ← 神武一族が東に放浪開始 >>120
スメルのことを書いてたら遅くなっちゃいました(笑)
皇統記と西暦の違いでしょうか?
2660年といいますよね
ただ私の立場でいくと春秋年で2年年取った天皇を一年に修整していきます
それから百済の年号との確認をしていきます
先程誰かが書いていましたが、紀元前に大阪は湖になります
その状態出ないと日本書紀の状態になりません。
そうして調整するとBC78年頃になります
その後ではダメなんです。
その後がスッキリします。 >>157
つーか、卑弥呼の墓は前方後円墳ではないのに箸墓に同定するのはあまりにもお粗末だよ 纏向遺跡は、12年前のまだ5%しか調査していない段階で早々と、
古墳時代前期に消滅したと宣告されたのは何故なんだろうか?
よほど、ショボい遺跡なのだろう。 わははははは @阿波 纏向はどこをどう切り取っても、
崇神朝の四道将軍を派遣した範囲の
王都である。
コレは考古学的に確定している。 >>149
私もそう思いますね。
何らかの卑弥呼大王墓の伝承が無くてはならない。
ない。
箸墓古墳と言われているが、では発掘調査してみるしかない。
卑弥呼の事が魏志倭人伝だけで、肝心の古事記、日本書紀に無い。
蘇我系を消すために編纂したとしても、卑弥呼はもっと古いので中臣、藤原家系には関係ないはず。
九州という狭い島国の中で奴国、邪馬台国、などがあった。
風土記みたいなものが、魏志倭人伝では? わりと崇神帝くらいからが本物の大王で、その前は全部作りモノ
ってことで通るんだよな 纏向遺跡の大きな特徴が、纏向大溝という巨大な水路が見つかったこと。
幅5m、深さ1.2mの水路で総延長2.6キロにも及ぶ
おそらく大和川につながり運河として利用されていた
こんな特徴的なものが、「魏志倭人伝」には一言も書いていない >>153
ヤマト王権のヤマトタケルの東征物語は本当の実話と言うことでしょう。
邪馬台国などは、九州地方豪族の魏志の風土記だったのでは? >>149
存在しない説も充分ありえると思います
それか新権力が完全に跡形もなく破却したか スメルは都知事が専門家だから
記者さんたちに頼んで一度聞いて見てはいかが? そして魏志倭人伝には
彌馬升=御馬城=崇神が、
邪馬台国の副長官であると、
ハッキリ明記してあるのだ。
吉備、出雲、丹波、越、伊勢、尾張辺を制していても、
邪馬台国から副長官の地位を与えられたにしか過ぎない。
それは、邪馬台国がチョチョッと遠征したら、
あっという間に制圧できた程度の勢力でしかなかった事が、
記紀に明記してあるのだ。
畿内説は終わった事。
早く纏向は崇神朝の王都としての発掘に
切り替えて、日本の弥生の考古学を、
次のステージに進めていかなければいけない。 邪馬台国が奴国や伊都国を統率していたのが邪馬台国ならば、3世紀の畿内には中国との交流の痕跡が決定的に欠けている 3世紀までは近畿地方に比べて北九州地域の発展が圧倒的だったのに、4世紀以降、一気に突然に近畿地域が大発展を遂げるという事の意味を解決しないといけない 邪馬台国は日本書紀もサラッとしか触れてないし纏向なわけないやんw >>125
神武朝から考えると無理がありますね
でも縄文文明 今の研究は凄いものがあり大分解明されてきてますよ
ウガヤフキアエズ王朝をちょっと入れるとすぐに埋まるんですね
その辺の文献を読んでくれると
邪馬台国問題は簡単に解けるんだがね >>171
うーん、、、、
シャーマンに操られた武力の王権がハッキリしていて、
本部のシャーマン卑弥呼王権が首都もハッキリせず、王墓の伝承も無い?
うーん、、
卑弥呼の王都と王墓はどこだとお考えなのですか? >>150
崇神を250年ごろにしてみよう
まあ数字に意味はないので深く考えることもないが
470 雄略
450 安康
430 允恭
410 反正
390 履中
370 仁徳
350 応神 ← 倭の五王 讃か?
330 仲哀(神功) ← 三韓征伐
310 成務
290 景行 ← 九州侵攻
270 垂仁
250 崇神 ← 卑弥呼死亡(248年)、台与(13歳)、箸墓古墳、モモソ60歳頃か、四道将軍を東西に派遣
230 開化
210 孝元 ← モモソの時代
箸墓って何年なんだっけ?桃の分析で西暦135〜230年なんだっけか? >>176
>東征ですか?
「忌部一族(阿波勢力)」が進出しただけだよ。 @阿波 >>173
家康が転封される前と後の江戸みたいなもんじゃね >>181
2世紀前半から2世紀後半ってなにがあったっけ?
↓
倭国大乱(146-189頃)やん!
↓
140年あたりに神武が東遷したんやろなあ・・・ 邪馬台国の王都は山門八女。
コレは6世紀に北部九州を制していた
筑紫の君磐井が都を置いていた事からもわかる。
そして筑紫の要害、高良山に
高良大社を開いた丹波氏が、
邪馬台国の支配者であり、
弥生後期に60人以上の殉死が推定出来る
祇園山古墳が卑弥呼の墓で間違いない。 >>175
では、ここは議論の場なので、仮説で行くと邪馬台国は何処で縄文時代とはどんな時代だったのですか?
私が不思議に思っているものは1点のみ。縄文土偶の目とシュメール人の目です。
この頃の物はなぜ世界的に目が強調されておるのか? 謎です。
https://i.imgur.com/7jhCNrM.jpg
https://i.imgur.com/6UVhP9d.jpg >>153
もともと九州の倭国連合は弥生時代から発生しています
神武の東征はBC100頃とは言え九州宮崎鹿児島エリアの出身で宇佐黒崎岡田
で各一年位は生活しています
それから畿内入りしたあとも人的交流や宗教上の繋がりはあったとみています
更に邪馬台国を滅ぼしたときに祭祀地名等は、畿内へ持っていき祟られないようにお祀りしたと考えられます
伊勢神宮は宇佐神宮の写しです 弥生時代から近畿は弥生時代最大級クラスの水田跡がゴロゴロあるからねえ
弥生時代前期末には2の累乗の重さの分銅も作られていたし数学的な知識もあったと思われる
木棺も灌漑設備も金属器を使った製板技術があった証だし
近畿は弥生時代からかなりの先進地域だよ >>181
コレは三角縁神獣鏡を漢鏡と嘘を付いている図だ。
抗議する必要がある。 >>190
それは全くの間違い。
大陸からの文化が畿内に伝わるようになったのは、
晋の時代以降の話である。 >>181
九州地方豪族の風土記が邪馬台国、奴国など。
日向から神武系部族が九州に飽き足らず、東征した。 地名の酷似はその名残り。
神武系、何処かで直系途絶える。
庶子流継体系が、大和本家と合流?
所詮この理論で行くと、邪馬台国は九州の一シャーマン部族であったと説明が付きますけどね。 >>188
どうかなぁ
卑弥呼は関係ない気もするけど 冷静に考えて『邪馬台国・卑弥呼女王』と『欠史○代〜万世一系』は全く別系統の話。そこに『記紀における神話』が絡んでくるので話がややこしくなってくる。
仮に邪馬台国が華やかなりし時代に九州に在ったとしても大和政権とは別世界。(日本と百済が主従関係の時代はあったようだが、)大和政権と九州が主従関係にあった可能性は低いと考える。
但しその後に大和政権が西征し邪馬台国を滅亡させた可能性はあるが、さらに年月が経ち菅原道真公を大宰府に送り込み最終的に『梅の神紋』大宰府天満宮を創建したのは何か因縁めいたものがある…
そこで『卑弥呼』と『桃』そして大宰府天満宮の『梅』の相関関係の有無を考えた時、「卑弥呼はピーチピチぢゃなくて梅干しババアだったのか」、と一人笑いした w >>191
苦し紛れにそんな幼稚なウソをでっち上げて難癖つけるんだから九州説は信頼されないんだ 邪馬台国になりたい!とか言って、必死になって”村おこし”誘致活動していた地域は本当に笑える(笑)
まぁ 記録に残ってるからいつでも見れるよw 魏志倭人伝には伊支馬=生目=垂仁が、
邪馬台国の長官であったと明記してあるのである。
崇神の子供が垂仁という記紀の設定が、
完全に崩れてしまっている事が分かるのだ。
生目は宮崎生目の豪族であり、
同時代に大和纏向では崇神が、
一方、日向、九州では生目が、
と記紀を読む必要があるのである。 後漢どころか前漢鏡ですら博多湾沿岸からは腐るほど出ているよw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています