畿内から見た邪馬台国  石野博信先生
庄内式土器

 土器は日常の道具であり、土器の移動は人が移動したことをを示す。
庄内式土器は、畿内で作られた土器だが、畿内から西、とくに九州で大量に発見される。
これは畿内から九州への人が移動したことを意味する。

 畿内からは、各地へ土器が移動している。厚甕とよばれる弥生時代の伝統的な土器は
東に広がり、薄甕と称する庄内式土器は、西に向かって九州まで移動した。

 3世紀の九州の土器はほとんど畿内に入っていない。
3世紀の九州の人間は出不精で、そのかわり外のものを寛容に受け入れた。
畿内人はでしゃばりだった。

 九州の庄内式土器は筑前型庄内甕といわれ、畿内の型式の土器を九州で製作したものである。

朝鮮半島南部で出土する日本列島の土器は九州や山陰タイプであり、
畿内の土器は半島に行っていない。
邪馬台国の時代に朝鮮半島と交流があったのは、九州であるといえる。

しかし、このことから邪馬台国が九州にあったと即断することはできない。
なぜなら、近畿の王が九州の人間に命令して半島に行かせたという解釈ができるから。