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魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の260年以降であり、司馬一族が王位を簒奪したのでなく正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏により「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり以下のようになっている。
229年 曹真  西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国   17,000里 親魏倭王   7万戸

曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。


〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
 西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
 また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。