【歴史】モンゴル帝国の衰退は寒冷化→免疫力の低下→ペスト大流行(パンデミック)→基軸通貨たる銀の不足 [かわる★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
■気候変動から崩壊へ
しかし、残念ながら「モンゴルの平和」は長くは続きませんでした。教科書などで言われる経済政策の失敗や、モンゴル貴族のぜいたくなども理由と言えますが、避けがたい世界的な気候変動に原因がありました。
全地球的な寒冷化は世界各地で凶作や天変地異を引き起こします。人々の抵抗力が低下すると共に、モンゴルによる統合でヒトの交流が促進された結果、14世紀半ばには黒死病(ペスト)の大流行が各地で見られるようになります。いわゆるパンデミックの始まりでした。
そして、モンゴルの経済運営も限界を迎えます。最大の要因は、ユーラシア規模での経済を回すには基軸通貨たる銀の不足を解決できなかったからでした。銀で繁栄したモンゴル帝国は、銀によって衰退していったのです。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/292206 >>377
これ、モンゴル史の専門家の本で読んだことあるような気がするけど、
でたらめだったの? 当時の国際ルールを破ったのは鎌倉幕府だったとか何とか。 >>379
モンゴル史の専門家ってのが誰だか知らないが、少なくとも自分は読んだことがないが
モンゴル史に限らず、歴史の専門家が書いてるもので読んだことも全くない モンゴル帝国崩壊の原因は貴族化したイスラム商人が好き勝手やって重税を課しまくった事だろ
初期から問題になっていてイスラム系の宰相が処刑された事もあったけど抜本的な解決が出来なくてそのまま
イスラム商人達が貴族化してやりたい放題やってた
モンゴル帝国は組織ごと、そして民族ごとに階級社会を作っていた訳だけど漢民族なんてのは一番最下層に置かれていたから特に不満が大きかった
漢民族から出世しても枠組み的に最下層でモンゴル王家を頂点とした制度の中ではしょせん利益にはあずかれず
旧来からの世襲的貴族が好き勝手やってたから不満が解消されなかった >>316
主犯モンゴル兵は戦場でブッコロ。
逃げた奴も鷹島で全員ブッコロ。
南宋兵しか助けてないってだけ。 怖いよね
神風がなかったら、俺たちみんな今頃はストッキング被っていたかもしれないと思うと >>382
モンゴル兵は丁重に送り返してたのは常識だぞ
朝鮮人とかは全部処刑したけど >>221に書いてある通り
分割相続の伝統が短命の原因 帝国としては元、つまり中国の領地を失って実質崩壊したけど基本的にモンゴル王家によるゆるく結び付いた帝国はずっと存続していく
元の崩壊でなんで実質崩壊かというと、そのあたりは左翼王家(だったと思うが右だったらすまん)、つまりチンギスハンの兄弟系の王家の利権地域だった
なので帝国を支える王家の半分の利権がばっさり失われてしまった
こうなるとそれまでの帝国秩序は保てない チンギス・ハンは、末子相続をせずに
分割相続をした
イスラムの王朝と同様、分割相続は短命王朝に
なる傾向が強い
今のサウド家なんかみてみ
王子が2000人弱 >>384
そんなの常識どころか初耳だけど
捕虜の処遇についてよく引用される歴史書の一説には
蒙古人、高麗人、漢人(華北民)が殺されたと書かれていて、
助命の対象になったのは南宋人とある
文永の役の後に征服されるまで元と戦い続けてたし
日宋貿易などでの交流もあった南宋人ならともかく
主犯で交流もなかったモンゴル人を助命する理由もないし >>307
わざわざ助命されずに殺された人に蒙古人を入れてるんだから蒙古人もいたんじゃないかな 分割相続なんて世界中のどこでもやってるよな
神聖ローマ皇帝家のハプスブルク家も分割相続をやってスペイン・ハプスブルク家とオーストリア・ハプスブルク家に分裂して衰退してる
でもモンゴル王家の場合は争いあっているとは言え基本的に分裂はしていない
一つの帝位があってそれに左翼王家が従う体制だった
左翼王家はさっきも言ったけどチンギスハンの兄弟の末裔な
直系は右翼王家
故に中国から追い出されたら左翼王家が力を失い帝位が弱くなった >>1
モンゴルの皇帝って、代替わりのたびに凄まじい権力闘争で疲弊してたから
それが原因じゃないんかな?
一年くらいで退位させられたり、暗殺されたりした皇帝の多いこと多いこと >>379
普通にデタラメ
専門家はそんなこと書かないと思うが誰? 20世紀にモンゴル人民共和国ができるまでずっと続いていただろ >>380 >>393
モンゴル史の専門家ではなかったけど、東洋史の先生です。
「まずモンゴル側が派遣した使節、もたせた国書に対する日本の姿勢である。
国書に対する黙殺からはじまって、使節の処刑に至るまで、鎌倉幕府の行動は
およそ常識外れというべきものだろう。現代世界はいわずもがな、当時の
標準・慣例からみても、まるで逸脱していたといって、まちがいではあるまい。
黙殺・処刑を相手との交渉というには、あまりにもほど遠いからである。」 >>395
これ文永の役前に限った対応じゃなくて、文永の役後も含めた対応のこと言ってるように読める
「国書に対する黙殺からはじまって、使節の処刑に至るまで、鎌倉幕府の行動はおよそ常識外れというべきものだろう。」
という文には時期の区切りがない
記事は
>「しかし、当時の日本の政治を担当していた鎌倉幕府の執権である北条時宗は、モンゴルからの使者を切り捨ててしまいます。
>これが「文永の役」(蒙古襲来)を引き起こしました。」
と文永の役前に使者を切った、それが文永の役を引き起こした、とはっきり
時期を区切って明言してしまってるからそれとは違う >>396
まあ他国でもあったし日本だけでもないが、
日本ではモンゴルからの使者処刑については文永の役後、弘安の役前に来た2度に限ってて、
そんなによくモンゴルの使者を処刑してたわけでもない >>395
「日中関係史 「政冷経熱」の千五百年」( 岡本隆司)だよね?
読んでみたけど
>日本の側は、この国書にあえて返書を出さず、使者も追い返した。
>以後くりかえし来る使者・国書に対しても同じ態度を持し、まったく黙殺したのである。
>その間にモンゴル側の戦備もととのって、高麗との連合軍が壱岐・対馬に攻撃をくわえ、博多にも上陸した。
>これが文永の役である。
>戦火ののち、ふたたびモンゴル帝国から使者が来たものの、鎌倉幕府はかれらを処刑した。
>まったく交渉のないままに、モンゴル側は大規模な遠征軍を組織編成し、ふたたび日本を攻撃する。
>弘安の役である。
という文章の後に>>395だから、やっぱり「使節の処刑に至るまで」の部分は文永の役の前じゃなく後の
>戦火ののち、ふたたびモンゴル帝国から使者が来たものの、鎌倉幕府はかれらを処刑した。
を指してる ワーって押し寄せて焼き畑略奪してるだけだし
一回焼き畑すれば旨味ないからヒャッハーはモチベ低下しまくりだし
ヒャッハーたちのほとんどは外様だし
どうしようもないだろこれ >>379
少し前にも東大の本郷和人氏の鎌倉幕府の対応へ批判的な記事があってそのスレもここに立ってたが
それだって「文永の役の前に返書しなかったこと」と「文永の役の後の使者を殺したこと」の批判で
文永の役前に使者切ったなんて書いてなかった
この記事読んでもわかるように本郷和人氏はかなり北条時宗に対して批判的な人物だから、
文永の役より前に使者が処刑されたなんてことがあったらこの記事や著書で取り上げて批判しそうなものだけど
記事だけじゃなく著書の方でも読んだことないな
【ダイヤモンド】北条時宗はモンゴルから日本を救った英雄に非ず 非礼を重ねて無闇に国を危険にさらす★6 [みの★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1622806348/ 子弟が都市化して今更羊を飼って移動なんてできるかってのになっちゃってね
最大の強みであったどこにでも移動していき侵略できたって強みが失われて
世代がすすむほど貴族化してるもんだから生活レベルどんどん上げていき
侵略すればするほど貧乏になっちゃって膨大な借金抱えちまった 初期の構想みたいに
倒した地域の人間は皆殺しにして、家畜用の草原にするっていうことを押し通してたら、どうなってたのか興味がある >>405
チンギスハーンやオゴタイハーンに仕えていた遼王族の子孫の耶律楚材
が、征服した中国の住民を殺戮して、遊牧に適した
国土に変えるなど不可能で国の滅亡を招くだけだと
諫言していたね。チンギス・ハーンもそのような愚行を
犯すような馬鹿ではなかった。 禁じての歴史if設定だが
モンゴルが日本の御家人をどれだけ寝返らせられるかが勝敗の鍵。
仮に二月騒動で異母兄の北条時輔一派が粛清を逃れ、モンゴルの協力下で鎌倉幕府打倒を掲げて立ち上がり、文永の役の恩賞に不満を募られせる九州の御家人をまとめ上げたなら、あるいは勝機が見えただろう。
そして、来たら弘安の役。
モンゴル軍の先陣として九州から破竹の勢いで京に攻め登る九州御家人。
それに呼応する鎌倉の名越北条一派が関東の御家人をまとめ上げ、鎌倉に雪崩れ込む。
震えがった朝廷は降伏。
神武天皇以来続いた、日本の歴史は幕を閉じた。 蘭渓道隆や無学祖元の存在をガン無視して北条時宗の外交政策を批判する今日の元寇スレはここですか >>406
「徹底的な破壊と殺戮」って単純にカロリー消費するからなあ
不要な消耗を闇雲に繰り返すのは疑問
一方で牧草地の重要性も疑う余地はないけど >>93
ロシアあたりならともかく南北に移動する降水帯対策のインフラ整備と蒸発散量の増加に伴う砂漠化&塩害対策の灌漑整備が出来ないで詰む国がアフリカ諸国や中央アジア頻発しそう。内モンゴルも水害でてたし。 仮にモンゴルが日本を制圧した場合
朝廷は首都大都へ朝貢使節を派遣、臣下の礼を則り、弟分の証として天皇の后としてモンゴル王族の公主を嫁がされるだろう。
そして生まれた王子はモンゴルへ人質として預けられ養育。
十数年後、傅役兼重臣を伴って帰国。
完全なモンゴル人として日本の朝廷を動かし、日本のモンゴル化を計る。
水田は牧草地へ転換、日本の風景は草原と放牧された羊たちへと変わる。
客人へのもてなしはお茶では無く、馬乳酒。
住まいはパオ、国技はモンゴル相撲。 >>92
結局日本に攻め込んである程度は侵略出来ても、だだっ広い大陸と違って山がちな島国じゃ得意の騎馬戦術も使えるところが限られてるし、地の利があって起伏のある地形での戦いに慣れてる武士が勝ったんじゃない 朝青龍や日馬富士みたいなのがこん棒持って何万人も攻めてきたらかなわんだろ そんな奴らが黒王号みたいな馬に乗って集団で攻めて来るからな
最初はイスラム諸国と戦う伝説の王・プレスター・ジョンの軍勢と言われて
大歓迎されていたのは今となっては笑い話だな >>407
ifというより願望書き連ねているだけになっているが
全て上手くいって元に征服されても元もすぐに滅びているからな
日本の歴史を終わらせるにはifのスパゲッティコードになるぞ >>92
三別抄という私兵団の内乱制圧、周りを襲撃するアイヌ盗賊軍団を犬ソリや小船で懲罰した他に
シンガサリ王国の内乱期、程度の戦力なら、船団送るだけで元が一応は勝てた
ただし平安時代の体制で数万以上に来られるとまずいかも
・刀伊の入冦(1019)の略奪軍:3000名(50隻)ほどの相手に大損害
・平将門の乱(939)の合戦:兵は多くても両軍合わせ数千名程度
「防人」廃止、外国勢から襲撃される九州…今にも通じる“平和ボケ”
http://www.iza.ne.jp/kiji/life/news/140504/lif14050413000007-n1.html
すると、
対馬、壱岐、九州各地の沿岸に新羅や高麗などの外国の海賊がたびたび出没し、
襲撃や略奪を繰り返すようになった。
歴史の表舞台にはあまり登場しないが、記録に残るだけでも数十回にのぼる。
防人制度が崩壊したことによって「力の空白」が生まれ、
外国の海賊の跋扈(ばっこ)を許す結果となった日本は、平安時代最大の対外的危機に直面することになる。
■突如対馬を襲った正体不明の外敵 トゥルイ家のモンケが4代を継いでから分裂が進んで5代フビライの時にカイドゥの乱を経て分裂が決定的になった 激しい温暖化でも免疫力落ちるだろ
暑さによる消耗と疲労で >>408
>>1の記事は批判通り越して北条時宗が文永の役の前に使者斬って文永の役を引き起こした
という意味不明な捏造がされてる >>407
文永の役の後から弘安の役までの使者は殺されてるのに
どうやって九州御家人を寝返らせる交渉するんだ
仮に北条時輔や名越北条一派を粛清の際に取り逃がしたら
追討命令が出るだろうから彼らも日本に入っても自由には動けない 寒いとむしろ免疫力が上がるんだけどね(苦笑)
免疫力低下の原因は栄養不足 モンゴルの使者を穴に放り込んで処刑してたよな
映画で見たよ
デイスイズスパルターって叫んでたのが北条時宗? >>417
モンゴルの蒙古馬は日本の木曽馬などの馬とそう変わらないよ
どっちも体高147cmない分類上はポニーになる >>384
>餘二三萬爲其虜去、九日、至八角島、盡殺蒙古、高麗、漢人、謂新附軍爲唐人、不殺而奴之、?輩是也」
>久之、莫青與呉萬五者亦逃還、十萬之衆、得還者此三人耳
元史にもモンゴル兵は殺されたって書いてるよ
唐人と呼ばれて命は助けられた新附軍は旧南宋人の軍のこと ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています