太平洋戦争の終結後も過酷な労働を強いられた「シベリア抑留」。いつ終わるやもしれぬ、寒さや空腹に耐える日々。「生きていたら、いつかは帰れる」。旧ソ連のウクライナで抑留生活を送った福岡市中央区の伊藤康彦さん(96)。一般財団法人「全国強制抑留者協会」福岡支部によると、福岡近郊で生存する唯一の経験者。終戦の日を前に10日、協会による後世への証言の収録で語った。「これが僕のウクライナ物語です」

 1945年8月15日。その日は朝鮮半島の平壌で迎えた。カンカン照りの下、暑さで気を失い、玉音放送は聞こえなかった。前年に19歳で徴兵。上官は「この地を一歩も動いてはいかん」と命令した。ソ連軍に連行され、捕虜生活が始まった。

 「ダモイ、ダモイ」。「帰国」を意味するロシア語に期待したが、連行されたのはウラジオストク。兵舎横の原っぱに100人ほどが素っ裸で並んだ。女医たちが身体検査を始めた。尻をつまんでみたり、背の高さや体つきを確認したり。身長157センチの伊藤さんは、同じように身長の低い者や体が細い者と一緒にされた。「重労働に耐えられないと思われたんでしょう。いわゆる“弱小部隊”ですよ」

 今になって振り返れば、それが運命の分かれ道だった。行き先は極寒のシベリアではなく、比較的待遇が良かったとされるウクライナ東部のアルチョモフスク。「小さく産んでくれたから助かった。親に感謝しました」。生き別れた戦友とは、それ以来会うことはなかった。

 恵まれていたとはいえ、真冬の気温は氷点下25度。食事は雑穀でできた黒パンと塩味だけのスープ。飯ごうのふたによそうと表面に目が映り「目ん玉汁」と呼んだ。独ソ戦で崩れたがれきの片付け、土掘り、石炭運び…。衣服は兵隊時代からの着の身着のまま、何度も縫い直した手袋は野球のグラブのようになった。「ダワイ、ダワイ(働け、やれ)」の声が今も耳にこびりつく。夜は帽子をかぶり、毛布1枚で身を寄せ合った。

 同部屋の「アカギさん」は岡山出身。兵隊では老齢とされる40代で、5、6人の子どもがいた。「『一番下の娘がかわいくてね』って子どもの話ばかり」。ある朝、目を覚ますことなく亡くなった。栄養失調と思われる。

 「帰国を諦め、腹いっぱいになることを諦めて…」。それでも生きる望みだけは失わなかった。炭鉱のぼた山が見える現地の風景に、故郷の福岡・飯塚を思い起こした。

 終戦から2年2カ月。突然、その日はやってきた。繰り返し聞かされた「ダモイ」に当初は「また始まったか」。今度はどこに連れて行かれるのか。本当だと思えたのは、京都・舞鶴港が見えた時。夜が明けると、山に神社の鳥居が見えた。「はぁー…帰ってきた」。その光景を思い出すと今でもガクガクと体が震える。当時と同じように。

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 仲間は一人、また一人と亡くなった。「抑留時代のさみしさとは違う孤独感。長生きも良しあしですな」。家族にも話さなかった経験を語り始めたのは、年老いてからだ。

 戦後76年。猛威を振るうコロナ禍で先が見通せない。「外見は豊かになったが、精神的にはどうだろうか。心から国のために、と思う人はもういないと感じる」。それ以上多くは、収録でも取材に対しても語らなかった。

 高齢化で一時途絶えた抑留者協会支部は、子ども世代を中心に昨年7月に再結成され、映像記録の制作を進める。父親がシベリア抑留を経験した理事の藤勝徳さん(72)は「実像を直接聞くことのできない日がもうそこまで来ている」。協会は抑留経験者の所在に関する情報や体験談を募っている。情報提供は西日本新聞社会部【ファクス】092(711)6246【メール】syakai@nishinippon.co.jp

(梅沢平)

西日本新聞 2021/8/15 6:00
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