08月16日 18時48分

大手製紙メーカー「日本製紙」は、およそ100年前に操業した釧路工場での紙・パルプの生産を16日で終えました。基幹産業の撤退で地域経済への影響が懸念されます。

「日本製紙」釧路工場は大正9年に操業を開始し、およそ100年にわたって新聞用紙などの生産を続けてきました。
しかし、デジタル化の進展や新型コロナウイルスの影響などで紙の需要が落ち込み、去年11月、紙・パルプ事業から撤退する方針を決めました。
そして、16日午前、紙を作る「抄紙機」2台を止めて、生産を終えました。
今後、発電などを行う新会社を残して9月末に完全に撤退するということです。
従業員およそ250人の雇用は別の工場などへの配置転換で維持されますが、関連会社の従業員およそ250人の中には釧路に残るため退職する人も多くいて、再就職支援が課題となります。
また、およそ80ヘクタールの工場跡地の活用方法は決まっておらず、会社と市が協議を続けることにしています。
製紙業は炭鉱、漁業と並ぶ基幹産業として釧路の経済を支えてきただけに、撤退による地域経済への影響が懸念されます。
西口恭彦工場長は「生産継続に努めてきたが経営環境は悪化の一途をたどり、今回の決断に至った。地域の皆さまに長期間支えて頂き、御礼申し上げます」というコメントを出しました。
釧路市内に住む60代の男性は「100年の歴史があり、釧路とのつながりが深かった企業なのでさみしいです」と話していました。
30代の男性は「工場は市民にとって大事な存在だったのでショックです。知人が工場で働いていて、『仕事が無くなってしまう』と話していたので心配です」と話していました。
「日本製紙釧路工場OB会」の藤原厚会長は「社会人1年目から勤めた工場なので、生産終了は悲しく感じます。撤退で地域にも大きな影響が出てしまうことを心配しています」と話していました。

【釧路工場の歩み】
釧路工場は大正9年(1920年)に「富士製紙」釧路工場として操業を開始しました。
国産の木材と水が手に入りやすい立地を生かし、紙の原料となる「パルプ」などを生産しました。
戦後、「十條製紙」と名前を変えて新聞や雑誌用紙などの生産拠点として業績を拡大しました。
従業員はピーク時には(昭和36年)1300人となり、地域の雇用も支えました。
平成5年(1993年)には「山陽国策パルプ」と合併して、現在の社名である「日本製紙」に改称し、その後、連結の売上高が1兆円を超える業界トップの会社となりました。
しかし、新聞用紙の需要の低迷で平成18年をピークに収益に陰りが見え、洋紙の生産量は最盛期の年間50万トンから去年は18万トンに落ち込みました。
デジタル化の進展や新型コロナウイルスの影響がさらなる打撃となり、紙・パルプ事業からの撤退を決めました。

【雇用の確保は】

【跡地利用は】

     ===== 後略 =====
全文は下記URLで

https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20210816/7000037435.html