【福岡】伊都国「王墓」のガラス玉、弥生時代と同時期に栄えた騎馬民族・匈奴の墓の出土品と一致 「半島を経由してもたらされた」 [樽悶★]
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福岡県糸島市の平原遺跡で出土した青い重層ガラス連珠=伊都国歴史博物館提供
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210918001625_comm.jpg
モンゴルの匈奴墓で出土したガラス連珠(モンゴル科学アカデミー考古学研究所所蔵)=奈良文化財研究所提供
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20210918001626_comm.jpg
福岡県糸島市の弥生時代末の墳丘墓・平原(ひらばる)遺跡で出土したガラス玉が、ユーラシアのシルクロードの一つ「草原の道」を旅してもたらされたとみられることが、奈良文化財研究所(奈文研)の田村朋美主任研究員らの分析で判明した。日本や東アジアに類例がないガラス玉で、どこからもたらされたか不明だった。
18日にオンラインで開かれた日本文化財科学会大会で報告された。ガラス玉の成分が、モンゴルやカザフスタンで出土した類似品と一致した。
平原遺跡は「魏志倭人伝」に邪馬台国とともに登場する伊都(いと)国の王墓とされ、1960年代の発掘調査で銅鏡40面や多数のガラス玉などが出土した。今回分析されたのは、その中の青い2層構造のガラス玉が複数つながった「重層ガラス連珠(れんじゅ)」。
田村さんは、古代のガラス交易路の調査で訪れたモンゴルで、弥生時代と同時期に栄えた騎馬民族・匈奴(きょうど)の墓で出土したガラス連珠が平原遺跡のものと色や形がよく似ていることを確認。また、奈文研とカザフスタン国立博物館の拠点交流事業でも、同じ連珠がカザフスタンの遺跡で出土しているのを見つけた。
そこでモンゴル、カザフスタン両国の研究機関や平原遺跡の出土品を収蔵する糸島市立伊都国歴史博物館と協力し、3遺跡の連珠の成分を蛍光X線分析装置で測定。
その結果、どの連珠もナトロンという塩類を使ったソーダガラスで、アンチモン、マンガンなどの微量成分を含んでおり、同じ場所で作られた可能性が高いことが分かった。
ナトロンを使ったガラスはローマ帝国の領域だった地中海沿岸が原産とみられ、田村さんは「この連珠は、当時のユーラシアの東西を結ぶ交易路の中でも、中央アジアからモンゴル高原を通る『草原の道』で東アジアへ運ばれたのでは」と推定している。
東アジアの考古学を研究している西谷正・九州大名誉教授は「弥生時代と同時期、ユーラシアでは東の漢帝国と西のローマ帝国を結ぶ交流が活発化していた。国際的な交流拠点の一つだった伊都国には、朝鮮半島を経由して海外の様々な物資がもたらされたのだろう」と話している。(今井邦彦)
朝日新聞デジタル 9/18(土) 16:47配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20210918-00000043-asahi-soci >>96
カザフスタンやモンゴルのものと同じだろ。>>1
地図でカザフスタン→モンゴル見てみろよ。 >>97
騎馬民族は航海技術が皆無だから海流に流されてあらぬところに行き着く
それは本州の日本海側だよね >>94
CORONA新しい生活様式で女子コンクリいじめ隠匿していじめプライバシー侵害してること? >>1
中国の出先植民都市の楽浪では漢人のなどの技術者が
倭国好みの物を用意してくれましたし三角縁神獣鏡などは
楽浪制作とも言う学者もいますし、そういうポイント経由で
珍しい物を北九州中心に豪族は手に入れていたでしょうね
何せ半島南端部などは倭系遺物が多く出土ですから
古墳時代には朝廷は韓地遠征する豪族に騎馬武具を配ってました
また豪族が帰還するときに馬具をたくさん持ちかえっていましたね
5世紀頃から大和朝廷は騎馬戦術の研究を始めていましたからけっこう
馬具は出ます
新羅王子は天皇に馬飼い係をさせて下さいって自分から願い出てる時代
です 倭国軍が高句麗に大敗したとき、はじめて騎馬軍団を見たんじゃなかったか
歴史学者の磯田がそう言ってた記憶がある >>100
邪馬台国には阿蘇山があるとまでは書かれてないだろ。
だが、宮崎県都城が弟王のいた都で球磨と対立し、日南に卑弥呼のいたとは思う。
このように軍隊のいる都と呪術的な女王のいる地が分かれているのは、日本書紀に出てくる土蜘蛛「田油津媛」の死を知り、兄が組織した軍が腑抜けになってしまった例にもある。 日本で出土の装飾馬具とか実戦用じゃないからね
日本の豪族はイモガイやらゴホウラやら釧も好み馬具も集めるからおもしろい >>106
まあ本格的な遊牧民族の騎馬軍団を見たのは初めてだったんだろうね。
朝鮮征伐の時の加藤清正も女真族の騎兵に手こずったようだし。
日本の軍馬は戦国時代でさえも物資輸送任務が主な役目だったからね。 常にマウントを取りたがる人たちの正体が今、明かされました >>111
馬の骨が出てないからなw騎馬民族来てないから。 >>109
倭人(邪馬台国の人間)のことを話しててその人々が住む場所に阿蘇山があったと書いてあるんだから他にどう解釈するんだ >>113
馬上巧者の関東武士から馬から下りて戦う(笑)畿内武士まで色々だよ 平原の墓制は弥生時代早くから日本列島にある墓制
方形周溝墓に木棺
国内の方形周溝墓地域から移動してきた、交易で財を成した商人王の墓じゃないか >>117
魏志倭人伝には邪馬台国の東の海の向こうにも倭人が住むと書かれてるだろ。
「倭」には広義がある。 >>3
大陸からの交易海路の一つに朝鮮半島沿岸を経由するルートもあったらしいよ ヤマトに反乱起こした筑紫の磐井さんは熊本出身だったな >>120
九州の西に別の陸地があるならその一文にも意味が出てくるけど
そうではない以上そのレスに大した意味はないな つまりさ、磐井とさきたま(笑)
論破王とエモンさんの対決を望みます 伊都国の王様が匈奴出身とかそういうのはないのかね? 邪馬台国は熊本
南方の敵対していた熊襲は宮崎含む
神武の出身地は宮崎で大和に行ってからも熊襲と仲良し
なので日本書紀などには邪馬台国は出てこない
古事記では邪馬台国の関係国を征服したと思われる記述はあるが
古事記とかを読めば、普通に大和朝廷が誕生したころには
九州は別の国が治めていたとかいてあるわけで
奈良=邪馬台国とか鼻で笑うわ 卑弥呼のように常に女性が王に指名されていたのではなかろうか
男はデブ(糖質)で魅力ないから人心を掴めない >>3
日本海を経由した、ってのと同じくらい無意味な接頭辞 拓跋語で狗を意味すると伝えられている語の再構築音は *ɲaqan であり、契丹語の犬を意味する語の再構築音は *ɲaq となり、モンゴル文語の犬は noqai となる。
同様に、雲は拓跋語では *eulen 、契丹語では *eul 、モンゴル文語では egule-n である。 まぁ日本人のご先祖様が朝鮮人なら、朝鮮人はとっくの昔にノーベル賞取ってるよ >>115
つまり任那日本府(楽浪郡)なんてなかったんやな だからさ
古の倭奴国(博多湾)→大倭国→大和国(奈良) これこそが日本国として時代変換
邪馬台国は倭奴国(男王)から簒奪をした侵略者 半島は蒙古・満州族に支配されていて、日本への街道になっていたということだろ。東京から京都へ行くとき新幹線から眺めるだけの三ヶ日や関ヶ原みたいなものw 魏から送られたなら、楽浪郡・帯方郡経由ってことか? って言うか、魏書
↓↓↓↓
昔黃帝有子二十五人,或內列諸華,或外分荒服,昌意少子,受封北土,國有大鮮卑山,因以為號。
自分の事を「鮮卑」って呼んでるんだぞwwwww
意味分かっているのか? >>24
あと奴国は那の川、那の津という地名から博多周辺の地域に痕跡がある
伊都国は怡土郡、不弥国は宇美町との関連性などどれも北九州沿岸にその名前を見ることが出来る 航空、航海網が発達した現在でも20万人程度しか日本に来られてないのに、遥か昔のまともな航海術すら持ってなかった朝鮮人が日本に来られるわけ無いじゃない >>147
魏からなら、朝鮮半島経由しないと呉が邪魔で倭国には行けないだろ ただの交易品の可能性のほうが高いのになぜか民族論争になるんだよな ハッキリ言って邪馬台国は馬鹿の集まりだから
”魏”の曹睿から金印貰ったらしいけど、その当時の中国は三国鼎立時代だからそれは無価値だよ >「半島を経由してもたらされた」
ストローの話は別に要らないんでは(´・ω・`) 日本はみずほの国
みずほ銀行のように神様が色々なシステムを
連結して作ったのだ
そして開発担当者の神はもういない 経由したはずの半島に何一つ残っていないのは笑うところなのか >>139
日本人の祖先が朝鮮人とか誰か言ってるの?w
カルデラ噴火で縄文人の数が減っていた九州に
中国南部から九州に入ってきた連中とモンゴル辺りから九州に入ってきたきた連中が
ともに九州に住みついて、その後、鉄と稲作を持って日本各地に散らばって
縄文人とも混ざって日本人というものが形作られた
まあこんなとこじゃね、卑弥呼、神武天皇がどっちの子孫か知らないが
伊都国の墓の人はモンゴル方面から来た連中の子孫だったのかもね シルクロードを通って伝わったと同レベルの表現だな
出所がわかったっていうのはすごい >>3
韓国でも出土しているなら経由している可能性もあるが
例がないなら別ルートの可能性が大きくね >>156
だってそのころの半島には独立国なんて存在しないんだもんw >>156
その頃、海の中で半島なんて存在していなかった
可能性もあるのではなかろうかw 通り道なんかどうでもいい。
そこに同じ物が無い以上、そこに人が居なかったか土着の動物しか居なかったということ。
朝鮮人なんてそんなもんなのに起源を主張するんだろ。うざったい哀れな支那属国め。 滅びた倭奴国(志賀島)
伊都国(海幸)
邪馬台国(山幸)
これでおおよそ間違いないだろう >>157
まぁ日本人のご先祖様が中国南部の中国人なら、中国人はとっくの昔にノーベル賞取ってるよ 邪馬台国や伊都国に分断されたが、倭奴国と狗奴国は元は一つだったと思うよ NHKを見ていたら福岡の現地の人が
博多湾は貿易が盛んな場所で
福岡の可也山
朝鮮半島の南端にかつて存在した国、伽耶
読みが同じなので関係があると思うと言ってた >>165
お前は何ももらってないから、中国人以下だけどね。オレもだけど。 >>168
中国人の人口とノーベル賞の数
日本人の人口とノーベル賞の数
書いてみなよ土人 なんか渡来物はなんの検証もなくなんでも半島渡来になるのか不思議 そろそろ博多湾沿岸地域と奈良を繋げてよ
フェンネルのオールレンジ攻撃にこれ以上耐えられない 匈奴(東端は内モンゴル) →遼東半島(朝鮮の外縁) →朝鮮半島 →九州
これが近道。 >>166
倭の奴の国王というのに狗の奴の国とは言わないんだね >>19
うん、わかったから1日も早く兄国貢献のため
勤労、納税してくれたまえ >>99
黒歯国が越の国、裸なんとか国が出雲か大和だな 匈奴って中国の人間からどんなに恐れられ蔑まれてたんだよって呼ばれ方だな。 三十余国の首長達が吉野ヶ里の宮殿に集まって話し合いで伊都国女王の
卑弥呼を邪馬台国王に決めた、卑弥呼は吉野ヶ里に行ってそこで宮殿に
閉じこもり毎日1日中占いをしてしたが亡くなったから生まれ故郷の
伊都国の平原王墓に埋葬されたと言う事になる。あんな豪華な副葬品の
墓は卑弥呼以外には考えられん。 >>176
西暦57年頃に倭奴国王(歴代天皇のどなたか)
その後九州北部と九州南部は邪馬台国に分断され、分断された南部は狗奴国として邪馬台国から見て敵扱いされたんだと思うよ
一方、北部は奴隷地域になったのかもね
>>1
>朝鮮半島を経由して
朝鮮云々はさておきて、なんですぐに「半島」直結するのかが謎…… んで、博多湾の倭奴国の一族は畿内に拠点を移していたのか
それとも、もともと畿内が拠点だったのか
良くわからない 大陸は直接船で行き来してたのに半島経由で
わざわざ半島で船作って来たのか? 平原王墓は歴代の伊都国王墓から南にだいぶ離れているらしいから
伊都国王とは認められていなかったと思う、邪馬台国女王卑弥呼が
生まれ故郷の平原に埋葬されたと思っている。王墓の中でも
スペシャルクラスの王墓だった。 >>187
まぁ日本人のご先祖様が朝鮮人なら、朝鮮人はとっくの昔にノーベル賞取ってるよ 邪馬=八女だろうかね
八女津媛伝説もあるし、志賀海神社との不思議な関係もあるし
広大な平野ってここら周辺しかないでしょ。
周辺国を統率するのだから熊本平野や阿蘇を含めてもいいし。 今の朝鮮人や韓国人は朝鮮半島に現住してた民族を滅ぼして居座った連中の末裔やろ 匈奴はコーカソイド系の顔立ちなんだよな
今のウイグル人みたいな感じだったんだろうか
当時は遊牧民がついでに交易してたんだろうかね
それとも交易のためにキャラバン隊がいたんだろうか
ソグド人なんかはキャラバン隊で交易のために移動してたようだけど 朝鮮半島を経由しないなら、五島列島や奄美大島と中国南部の間の海上航路がおすすめ。 >>188
キミの先祖に受賞者がいなければキミは朝鮮人ということ? 知らないね
だけど向こうにも側にも事情があるんじゃね
地理的に袋小路だし色々あったんでしょ
九州みたいにね でもその頃の半島って漢の植民地だったり棄民だったりだよね よく勘違いしてる奴がいるが現代において日本人の美徳とされる気質が出来上がったのは江戸時代の中期以降だからな
それまでは戦闘民族かよってレベルでキレやすく喧嘩っぱやい気質だった
たまに先祖帰りしてる奴いるだろ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています