恐るべき日本共産党のリンチ殺人事件(今も昔も変わらぬその暴力革命体質)

■宮本顕治らによる日本共産党リンチ査問事件
1933年 日本共産党中央委員であった宮本顕治、袴田里見ら日共【インテリ派】が、
当時、党内で権力争いをしていた【労農派】の中央委員大泉兼蔵と小畑達夫に
スパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日二人を
渋谷区内のアジトに誘い出し、いきなり「スパイ容疑で査問する」と告げた。

宮本らは針金等で二人の手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に
監禁した。宮本・袴田の他、秋笹正之輔、逸見重雄らが激しい暴行を行ったため、
小畑は24日外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。

当時共産党はスパイを摘発する目的で、波多然・大沢武男といった党員に対しても
「査問」と称するリンチを行っていた。宮本によるとスパイを行った場合には、
共産党規約により査問を受けることが予め承諾されていたという。印刷局副主任で
あった荻野増治も査問にかけられ監禁されていたが、このままでは殺されると考え、
逃走した。12月20日の深夜、荻野増治は警視庁特別高等警察課に出頭し保護された。
荻野の供述により、宮本らのアジトが割り出されることとなる。

12月23日、宮本らは小畑・大泉の両名を会合を開くと称して呼び出し、そのまま
「査問」にはいった。翌12月24日付の『赤旗』には「中央委員小畑達夫、大泉兼蔵
の両名は、党撹乱者として除名し、党規に基づき極刑をもって断罪する」との
党中央の声明が掲載された。警視庁は、この「極刑」という表現に注目、
荻野と同様のリンチが両名に加えられ、場合によっては殺害されている可能性が
あるということで、捜査を開始した。

逸見重雄の供述によると、彼らに加えられた暴力行為は以下のようなものであったと
される。まず最初に大泉に対して棍棒で殴打するなどのリンチを加え気絶させた。
その後小畑を引きずり出し、キリで股を突き刺したり、濃硫酸をかけるなどの凄惨な
拷問を加えた。最後に薪割で小畑の頭部に一撃を加えた。そして大泉を引き出して
小畑同様のリンチを加えた。大泉はこの拷問に耐え切れず気絶したが、宮本らは
死亡したものと早合点しそのまま引き上げた。大泉はまもなく蘇生した。

この頃小畑が死亡する。裁判では小畑の死因は外傷性ショックであるとされた。
小畑の死体はアジトの床下に埋められた。