【古代】「東アジアからみた邪馬台国九州説」…揺らぐ、中国が捉える倭の姿 ★2 [樽悶★]
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三部作を手にする小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さん
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■小郡市埋蔵文化財調査センター所長の片岡宏二さん
邪馬台国の所在地を巡る論争は今なお続く。シリーズの著書「邪馬台国論争の新視点」で、その論点を最新の研究成果に基づいて整理してきた。完結編となる3作目「東アジアからみた九州説」を刊行した。
2011年の1作目「遺跡が示す九州説」で遺跡調査と文献を精査し、北部九州の筑紫平野にあったクニの連合体を有力...
2022/2/16 17:30
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★1:2022/02/16(水) 23:08:17.09
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1645020497/ 新しいスレは決定的な証拠が出てからにして
九州でも近畿でもその他でも考察はもうたくさん 当時の中国にとって倭=中国から見て辺境の国であって=日本じゃないからな
ちなみに倭寇の倭も=日本ではないよ 場所とかじゃなくて、邪馬台国なんて本当に存在したのかも怪しい
倭の国の使者だって大法螺吹いてる可能性だってあるんだから、地方の小勢力だったかもしれないし >>11
馬韓(朝鮮半島南西部。のちの百済の版図)の東方にある。
辰韓の老人は代々こう言い伝えてきている。
「昔、中国の秦の代に、労役を避けて韓国に逃げてきた者がおり、馬韓が、東部の地域を割いてその人々に与えた。
それが我々である」
辰韓には砦がある。言葉は馬韓とは異なり、国を「邦」といい、弓を「弧」といい、賊を「寇」といい、
酒を杯に注いですすめることを「行觴」という。お互いを呼び合うには「徒」という。
これらは秦人の言葉に似ているところがあり、ただ燕や斉の物の名称が伝わったのではないことを示している。
(中略)今、辰韓を秦韓と呼ぶ者もいる。(後略) 邪馬台って結局大和を無理くり蔑んでよんだだけだろ 卑弥呼も姫子を無理に蔑んで充てた字
日本ではそんな文字は使ってなかったところから考えていかなくちゃ正解は得られないんじゃないかな? 新羅王族はギリシャ系で(ガンダーラ)
庶民は裏切った日系人と考えるが。
俺は。
>>17
山ほどいるよw そもそもアマチュア歴史家の邪馬台国論争なんか学術的な世界ではどう受け止められてるの?
数少ない記述から解釈加えて、科学的な論証ないまま争っても意味ないだろ >>18
そもそも倭人は文字をもたずと書かれているんだから
邪馬台国の時代に日本には文字がなかった
倭人の発音を無理やり魏の人が文字起こししたときに
適当な漢字を当てただけ
って理解できないのかよ? 邪馬台国より中国との交流の方が知りたいわ
邪馬台国てただの1部落の話だろ? 鎌倉時代の倭は九州だったから古代の倭も九州だ
ようやくすればこれだろw >>21
政治的理由にとらわれない議論が出来るから。
こんな事言うとあれだけど、日本列島で邪馬台国語話されていたのか?
明らかに違う系統の日本語ないか? >>22
だから今の文字で書くから誤解を生むけど ヤマト ヒメコに勝手に魏の人が字を当てた
言ってることは同じなんだよ この手の珍説はマスゴミには受けるが
歴史学的にはまったく相手にされない >>23
漢の光武帝の時に朝貢して
倭の奴の国王の金印を授かったのが
今でいう福岡県にあった奴の国の王
そう考えたら大陸との貿易がさかんだった
九州北部にあった国の一つが邪馬台国で
倭国大乱とは九州北部の戦乱だったと考えるのが合理的
まさか畿内説のような畿内ヤマトの地に女王がいて
その女王の神からの声とか鬼道とかで畿内から九州に至るような広域な国々の長が
従うなんて考えづらい
邪馬台国と倭国60カ国は九州北部の今で言えば
市町村単位が1つの国という小国家の話だよ 「爰襄(ヱンシャウ)国、牟水(ボウスヰ)国、桑外(サウグワイ)国、
小石索(セウセキサク国、大石索(タイセキサク)国、優休牟涿(イウキウボウタク)国、
臣濆沽(シンフンコ)国、伯済(ハクセイ)国、速盧不斯(ソクロフウシ)国、
日華(ジツクワ)国、古誕者(コタンシャ)国、古離(コリ)国、怒藍(ドラン)国、月支(ゲツシ)国、咨離牟盧(シリボウロ)国、
素謂乾(ソヰカン)国、古爰(コヱン)国、莫盧(バクロ)国、卑離(ヒリ)国、
占離卑(センリヒ)国、
臣釁(シンキン)国、支侵(シシン)国、狗盧(コウロ)国、卑彌(ヒビ)国、
監奚卑離(カンケイヒリ)国、古蒲(コホ)国、致利鞠(チリキク)国、
冉路(ゼンロ)国、兒林(ジリン)国、駟盧(シロ)国、内卑離(ダイヒリ)国、
感奚(カンケイ)国、萬盧(バンロ)国、辟卑離(ヘキヒリ)国、
臼斯烏旦(キウシヲタン)国、一離(イツリ)国、不彌(フウビ)国、
支半(シハン)国、狗素(コウソ)国、捷盧(セフロ)国、牟盧卑離(ボウロヒリ)国、
臣蘇塗(シンソト)国、莫盧(バクロ)国、古臘(コラフ)国、臨素半(リンソハン)国、
臣雲新(シンウンシン)国、如来卑離(ジョライヒリ)国、楚山塗卑離(ショサントヒリ)国、
一難(イツダン)国、狗奚(コウケイ)国、不雲(フウウン)国、不斯濆邪(フウシフンヤ)国、
爰池(ヱンチ)国、乾馬(カンバ)国、楚離(ショリ)国がある。およそ五十餘国。」
魏志韓伝 >>28
何が誤解なのか理解できない
そもそも文字がなかったのだから
倭人の発音を当て字にしたなんて常識だろ >>1
言語の発音の違いから、邪馬←大和ぐらい想像はつくと思うけど、よほど九州にしたい勢力があるのかな。 >>22
魏志倭人伝では倭人が文字を使ってたみたいな事が書かれてる
金印も貰ってるし多少は読み書きの出来る者が居たみたい。 >>31
金印を貰ったのが奴国であるなら魏志倭人伝でなんも触れないのはおかしいだろ >>36
魏志倭人伝に描かれた時代は
畿内ではなかった
邪馬台国時代は九州北部にあった国が
畿内に遷都したんだろうと思う
なぜなら
九州と畿内の地名の奇妙な一致がある
これは九州にあった王朝が畿内に引っ越したと考えるとつじつまが合う >>18
「邪馬台国」は江戸時代の学者が便宜上付けた
名称で本当は「邪馬壹國」。
正確な読み方は今でも不明。
「卑弥呼」は古代中国語の発音だと「ピミカ」。 どこにあったかすら分からない
要はその程度の国だったってこと >>37
どうおかしいんだよ?
金印を送った王朝は漢で
魏志倭人伝は、違う王朝の魏の話
時代も王朝も違うのだから
漢の時代に奴の国が漢に朝貢していたから
魏志倭人伝もそれに触れないと不思議だという意味がわからない
やんと後漢書のは触れられている
「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」 魏志倭人伝にしか邪馬台国って出てないんだろ
その魏志倭人伝がどれだけ真実を書いているのかも怪しいと思うんだけど
卑弥呼の頃には既に朝廷も存在していたし神功皇后も居られたのに勝手に外国と交渉をするとか有り得ないだろ それなりの規模の集団であれば遷都なり集団疎開なりするんでないの 卑弥呼前→倭国大乱
卑弥呼没後→更立男王国中不服更相誅殺
266年(トヨ31才?)→晋書から倭国の記述が消える
女王国連合ってろくにまとまりのない奴らだから内ゲバで自滅してるだろ
266年とか崇神→景行でちょうど畿内ヤマトの九州征伐が始まった頃なんじゃねーの 当時の中国人からみたら、倭人は顔に入れ墨をしているわ、服装は汚らしいわ、シャーマンが政治を仕切ってるわで
蛮族の地程度にしか見てなくて、あほらしくて記録も適当に書いていたんだろ >>47
馬鹿なのか?
なんで時代が違う旧唐書を出すんだよ
漢の光武帝の時の話しているんだろ?
めちゃクチャだなお前は 南方系中国人が直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州に上陸する。筑紫野の邪馬台国を併合し南下を試みるが、熊襲(熊本)に返り討ちに遭う。そこで東九州から再び南下するが、高千穂で隼人族(鹿児島)から逆襲を受ける。そこで北部九州の縄文勢力を制圧した、いわゆる弥生人が四国、瀬戸内を経由して(神武の東征)畿内を支配していた縄文系豪族を追い出し大和朝廷となり、畿内の縄文人は出雲に移り出雲族となる。 覇王の奈良王朝がなんで東征をでっちあげたんだろうか
先祖の出身(神話を含む)を九州にしなくても奈良でいいんではないか
どうも合点がいかぬ
東征が事実なら合点がいく
共立なら九州勢力をたてる為の東征捏造でも合点がいく 「これが出たら確定だ!」っていうゴールも定めずに
外国の研究者のプレッシャーもゼロで
日本語で作文書いて(仮に外国人研究者が目覚ましい成果を出しても
日本語話者じゃないあいつに何がわかる!といって疎外して)
永遠と言い争ってりゃテニュアなんだからこんな楽な学問もないな 魏志倭人伝によると倭人は文字を使用していた
北部九州や山陰からは硯、机、削刀等の文房具が出土するが他の地域では文字使用は5世紀以後
従って北部九州、山陰以外の地域は邪馬台国の候補地からは外れる。 >>39
中国の史書に邪馬臺を間違ったって記述があるし邪靡堆もある 邪馬台国の場所て知りたい?
なんかどうでもいいけど
日本のどっかでしょ? >>36
>>38
九州と畿内の地名の奇妙な一致
「九州」と「近畿」の地名類似についても有名です。
単に似ているのではなく、「連続的」に同一の地名があるのです。
「筑紫」の周辺で言うと、北の笠置山から始まって、
春日→御笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→小田→三輪→雲堤→筑前高田→長谷山→加美(上)→朝倉→久留米→三潴→香山(高山)→鷹取山→天瀬→玖珠→鳥屋山→上山田→山田市→田原と続く地名連鎖が存在します。
もう九州説唱えてる人は意固地になってる人だけだろう。
それ以外の識者は畿内でほぼ固まってるだろう >>36
>>38
「畿内」でも全く同様に「笠置(笠置山)」→春日→三笠山→住吉(墨江)神社→平群→池田→三井→織田→三輪→雲梯→大和高田→長谷山→賀美(上)→朝倉→久米→水間→天の香山(高山)→高取山→天ケ瀬→国樔→鳥見山→上山田→山田→田原と連続しているのです。これらも同様に反時計回り円周上に連なっています。
そして、現在は存在しない邪馬台国(ヤマト)と近畿の大和があります。 >>48
東夷伝序文に「世界のはてに礼に厚い国がある、連絡が絶えて詳細のわからなかった国だがこの度詳細がわかるようになったので詳しいことを記す」
と暗に司馬懿の功績を仄めかすようなことが書かれている
だからなのかろくに分かってない癖に時代も場所もデタラメに
倭人に関係ありそうな情報をあちこちから切り貼りしてきて情報増し増しに捏ねくりだしたのが魏志倭人伝
魏が親魏○王として金印贈ったのは大月氏国と倭国しかないのに大月氏国についてはほぼスルー >>39
そもそも中国の文献に載ってるのに「ヤマタイコク」と日本読みするのが間違いだからな >>57
九州にあった奴国が畿内に移動したかも知れない
理由はこれ>>58 >>60 九州で中国の属国として奮闘していた
これが邪馬台国 >>64
倭の奴国ではなく倭奴国でしょ
なんで集落に金印くれるんだよ >>66
この時代は市町村レベルの人口をもった狭い地域が
1つの独立国家だったってこと マスコミネタとしては面白いから定期的に記事になるんだろうけど、
史実的にそこまで重要なもんなのか
勝手に外国と交流してた豪族なんて戦国期まで幾らでもあっただろうに >>69
勝手にというか
この時代はまだ日本列島全域を統一している国なんてなかった 邪馬台国の時代は日本では考古学が対象だけど
考古学が息してないから >>65
まあ朝鮮半島から北九州まで公孫氏の属国なのは確かだが
邪馬台国は別枠
だから使節団を送ったわけね 呉と争っていた魏が大きく書いたから不明になっただけ
詳しい記述はすべて九州であれば張政はそも九州を出てない
九州北部中部の都市国家で、楽浪まで行き鉄の公益をしてた国だわな 九州はあり得ない
畿内もあり得ない
邪馬台国は九州でも畿内でもないところにあった
俺はその場所を突き止めた >>66
集落では金印は貰えないから
倭を代表する国として倭奴国は認められてたのは間違いないな。 この時代どころか鎌倉室町になっても地方豪族〜大名は割と好き勝手にやってたらしいし
九州は京都より朝鮮と結びつきが強い時代が長かったらしいじゃん
どうも学校で習った「正史」は明治にでっちあげた奴臭い まぁ巻向は、誓約によって倭国大乱が終わった際に諸国総出で作られた新しい都だね 古事記だと神話が終わるととつぜん半島出兵みたいな話が始まる
文章では防衛のためみたいだ
つまりこの時点でヤマト王権は朝鮮半島南端を領有していたということ
これはヤマト王権が半島を渡って日本にやってきたということではないだろうか
ヤマト王権が半島の一部でも分捕ったならその記述が残って然るべきである
無いのは最初から南端を持っていた
つまり半島南部の集団がヤマト王権を形成したということ >>79
だからその根拠はなんだよ?w
お前の思い込みで集落ではもらえないとか言ってんじゃないよw
別に漢の役人が日本に来て金印を授けるための条件を厳しく審査したわけじゃないだろうがw
どこかの小国の主の使いが貢物をもってきて朝貢してくれた
漢の君主が機嫌が良ければ、返礼の品とともに金印授けるくらいしたんだろう >>84
納得して貰えないかも知れんけど場所が倭の極南界でしょ
これ朝鮮半島も倭に含んでて日本列島の事だろう そもそも卑弥呼の逝去のあたり又は直後になぜ張政が来たかと言えば
朝貢国なので後継者が万一でも逆らわないように監視と采配しにきた
いわゆる保護領みたいなもので自分らでは国の首長を決められない国だったのだ
そこまで魏(司馬氏)がこの九州のあまり大きくない国にこだわったのは、晋の帝室を開く司馬懿の特筆すべき大功績だったからである
つまり晋の帝室を司馬氏が開くか、無理か、という帝位レースの駒だった
故に晋の帝室が開かれると実質的お目付け役である張政はすぐに帰国してる
このように見ると帝室の関心が薄れ、さらに八王の乱で帝室が大混乱したときに、晋の庇護を失い邪馬台国は消えたのである >>86
いやいや都市レベルじゃ金印もらえないという
ソースもなしに市町村レベルじゃもらえないって断言しているほうが
どう考えても思い込みだろ?
日本語の定義から議論しなきゃいけないか?そこの馬鹿は 朝鮮に古代日本語圏というのがあるのをネットで知って、韓国では知られていて日本で黙殺されてるのも読んだ
倭寇の話でも九州の連中は朝鮮中国まで日常的に行ってたというのが出てくるし
割と近世まで日本と朝鮮は国境すら曖昧で繋がった地域だったと
二次大戦後、日本も韓国も相互に断絶していたと思い込みたがったので、歴史認識がおかしくなった >>89
金印ではなくて銀印とか銅印とかしか貰えなかった国の規模を見てみなよ >>91
例えば?
反論するなら自分でソースだして
反論しろよ >>84
金印なんて簡単に貰えるのもではないよ
印には玉・金・銀・銅とランクがあって
朝鮮とか銅印だからな。 金印はねぇ
長い間どこかで保管されたね
少なくとも土の中ではない
金印は金の純度が高くて柔らかいんだ
土中に長く埋まっていると土の圧力で土の粒子が押し付けられて表面がボコボコになる
それがないとこを見ると少なくとも外に置かれていたもの推測はできるんだよ >>88
司馬懿には諸葛亮の侵攻を悉く撃退して敗死に追い込んだ大功績が有るんだから、
倭みたいな東夷の蛮族を朝貢をさせても何の功績にもならんわ
そもそも魏の朝鮮征服事業は司馬懿じゃなくて毌丘倹の手柄だ >>83
魏志倭人伝
韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓。
後漢書東夷伝
馬韓在西、有五十四國、其北與樂浪、南與倭接。辰韓在東、十有二國、其北與濊貊接。弁辰在辰韓之南、亦十有二國、其南亦與倭接。
どっちもとも帯方郡の南に弁韓辰韓弁韓がありみなみは倭と接していると書いてある 九州説はどうにもならない、卑弥呼は鬼道。鬼道とは当時の中華が用いた蔑称であり、漢中に張魯が一国を築いた老子道徳経教団であり、その後曹操に吸収され曹操の死後指導者達は解放され、卑弥呼は列島に向かう、倭国大乱主無し、上善如水、水は天地に従う。天地水が前方後円墳と呼ばれる物の正体、道教の象徴。記紀云うところの百襲の大市の墓、大市とは大一(たいいつ)の偽称。天皇太一。太一を補佐助ける者を台と呼ぶ。列島最初の大王、初代天皇太一は、五斗米道巫女以外にあり得ない。して比定者は歴史上実在する者のとして張魯の娘張h瑛しか存在しない。またこれを隠したかったのが700年に日本の皆さんはこれを信じてね、とされた本。 >>84
邪馬臺国が朝貢したときの貢ぎ物がくっそショボいもんな
奴隷10人布少々、以上終わり
これ極東の大国のやるこっちゃ無いですわ 文脈にそって考えると、金印なのは、
太伯の子孫を自称して、見に来た人も
ゲイメンモンシンとかその通りだねって話になったから。
後の中国の人たちも、日本を東海姫氏国(姫は太伯の姓)と日本を呼んでいる。
中華皇帝の分家として金印なんだね。 考えてみればごく近世まで日本の陸路というのは通行が大変で、現代よりはるかに水運に頼っていた
長距離は船で移動するのが当たり前の時代、朝鮮や大陸は今の感覚よりむしろ近い存在だったと思う
朝鮮や中国と交流するのは大変、という思い込みは実は二次大戦以降の刷り込みだね
2ちゃんの島国根性は戦前は無かった >>43
神功皇后は、卑弥呼の100年後に、筑後国山門郡の田油津媛を誅殺した側
この田油津媛が卑弥呼の子孫である可能性がある >>80
つか、国衙領が、残ってる。
国衙領がどんどん武家に取られて半独立していった形。 やはり小倭列島は古代大韓の一部だったということですね >>83
ヤマト王権は8世紀以後だから
朝鮮半島南部から北部九州地域が初期の倭の領域 >>104
朝鮮半島にも統一国家はなかったので
朝鮮半島にも倭人が多くすんでいる狗邪韓国は
倭国の一部と捉えられていた >>95
公孫氏征伐で一族虐殺を実行してしまい司馬懿の世評が大きく下がったとされる
このときにその更に向こうの大きな夷蛮がわざわざ魏帝に朝貢に来たのは
魏帝(この場合東方征伐の責任者である司馬懿も含めて)の徳の功績である
このようにして卑弥呼は史書に特筆される次第となったわけ アベノマスク
布マスクはヨーロッパが発祥の地とされていたが、その源流は遥か神代倭国に遡ると言う説がある。このマスクは、白糸で丹念に織りなされているため、わずかな力で、素早く肺胞の隅々まで空気を行き渡らせることができる。
これを鬼道と融合させ、数々の秘技を編み出し、海中から出て三韓を成敗したのが初代倭王阿度部磯良であり、その布マスクがアベノマスクの由来である。
半島の広範囲に倭人が住んでて徐々に削られていったのかもね >>110
朝鮮遠征の責任者は司馬懿じゃなくて毌丘倹
毌丘倹が高句麗を朝鮮半島から駆逐したお陰で半島南部諸国と邪馬台国が魏に入朝するようになった 107年倭国王帥升の時ですら生口160人なのに
邪馬臺国の貢ぎ物は生口10人班布二匹二丈
たったこれだけ
これぶっちゃけ燕の公孫淵に朝貢してるだろ
237年 公孫淵が燕を建国
238年 魏が帯方郡に密かに軍を送り制圧
その年6月、難升米が燕に朝貢
その年12月、魏から詔を授かる >>87
Wikipediaもこう書かれているから
オレの想定のほうが世の中の常識なんだよ
>1世紀中葉の建武中元2年(57年)になると、北部九州(博多湾沿岸)にあったとされる倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)の首長が、後漢の光武帝から倭奴国王に冊封されて、金印(委奴国王印)の賜与を受けている。
この時代の国とは市町村レベル >>114
司馬懿の功績に公孫氏征伐が数えられるのは常識と思うが
指揮下の同僚がヤッタから司馬懿の関係なしは貴殿の独自説だわな >>118
公孫淵遠征後、司馬懿は曹爽一派に指揮権を剥奪されて政界から引退に追い込まれる
邪馬台国が魏に入朝したのは司馬懿が引退していた曹爽政権の時代だ
どうして司馬懿の功績になるのか >>84
邪馬台国が倭を平定していないことは魏にも伝わっているけど金印をもらえてる >>120
公孫氏滅亡の直前又は直後に卑弥呼の使節団が来てる
これが実質な朝貢の始まりだろ >>119
九州も畿内も、どちらもあり得ない
九州説の根拠って、畿内はあり得ないから九州だと主張してるんだよ。論理的におかしいでしょ
畿内説の根拠って、九州はあり得ないから畿内だと主張してるんだよ。論理的におかしいでしょ
九州でも畿内でもあり得ないなら他の場所に有ったってことなのに >>117
Wikipediaとか根拠にするなよな
恥ずかしい奴w >>117
つまり畿内説論者とは
畿内にあった邪馬台国が畿内から九州に至るまでの
国を支配していたという誇大妄想型論
九州論者とは、いやいやこの時代にはそんな広域な領土をもった国じゃなくて
市町村単位が独立国として存在していた
邪馬台国もそんな市町村レベルのクニの一つが
複数の同じような小国家の連合の長として担ぎ上げられただけという説
どう考えても畿内説の誇大妄想のほうがこの時代とはかけ離れた妄想
現実のこの時代の国とは倭奴国(ここで云う国とは、中国で云う国邑すなわち囲まれた町のこと)
なんだよ
国という言葉の概念をこの時代に合わせられないから
畿内説などというトンデモ論が出てくるってこと そもそも魏志倭人伝が捏造だからな。
邪馬台国なんか無かったんだよ。 >>126
お前の脳内からでてくる妄想を根拠にするよりも
客観性がある >>127
っ 方形周溝墓
本州広域から九州まで、一つの文化圏で統一されてる
平原も吉野ケ里も方形周溝墓 何を担保して中国の文献を信用してるんだ。
アホだろ。 >>131
文化がいっしょだとしても統一国家があったという証拠はない
まだこの時代、弥生時代に統一国家が生まれるほどの
強大な軍事力や政治力の格差がついていない
どんぐりの背比べ状態で国々が併存していた
だからこその倭国大乱であり
その大乱に疲れた国々が女王を担ぎ上げたってこと 人は記憶型と思考型に大別できる
『晋書』
266年・・・・・・倭人來獻方物 ←←(女王国、最後の朝貢)
276年・・・・東夷八國歸化 ←←(東夷諸国、最初の朝貢)
291年・・・東夷十七國
│
100年空く
│
382年・・・東夷五國遣使來貢方物 ←←(東夷諸国、最後の朝貢)
413年・・・・倭國及西南夷銅頭大師並獻方物 ←←(倭の五王、最初の朝貢) >>52
争いなんて邪馬台国は大和国でとっくに終了してるよ
今は九州説が一人で争ってるだけ >>135
うん?強大な統一国家があったと考えるほうが
思い込みでは?
魏志倭人伝の記述に合わない思い込みだろ?
そんな強大な国があれば倭国大乱後の終息のために
実力があったためではなくて、話し合いで女王を担いで納めたりしないで済む
卑弥呼死後は男王が立ったがまた大乱になった
13歳のトヨを立てたら大乱が収まった
この記述と畿内から九州まで至る広域国家が存在していたという概念は
とんでもなく乖離しているとなぜわからないんだ? >>133
強大な軍事力とか何言ってるの?
最後の行におまえ自身が答え書いてるじゃん >>139
そもそも統一国家をつくるのには
軍事力は必要不可欠だろ
もしかして話し合いで九州から畿内に至る統一国家ができたとか思っている
お花畑脳の馬鹿なの? 足利義満でさえ日本国王に認定されてるんだよね
密貿易でも中華に利益をもたらした奴が親○倭王なのよ
天孫族はいつも国際的には蚊帳の外だったろうな >>100
日本が古代から海洋国なのは当然のことだけど、日常の農産品とかの取引量と、
大陸との貴重品の取引量はスケールが違いすぎる。
日本の経済全体における輸出入品の量ははるかに小さいわけだから、陸路が圧倒的だよ。 >>140
魏志倭人伝に卑弥呼を共立したと書いてるのよ
勿論共立する下地はあったんでしょ
いきなり知らない者同士が集まらないだろうし >>72
そんな事ないよ
炭素年代測定法でホケノ山古墳が3世紀前期から中期のものとわかったり
三角縁神獣鏡を蛍光分析機で分析して魏の銅鏡と同じ銅で作られている事がわかったり
科学的な測定も取り入れて前から言われてた前方後円墳は3世紀から畿内で作られ始めたとか
三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡で卑弥呼が皇帝から貰った鏡の可能性が高いという事が
従来の畿内説の主張が確実になりつつあるところ >>37
後漢書の東夷伝には後漢が奴国に金印を贈ったことが書いてあり
魏書の東夷伝倭人条(魏志倭人伝)には魏が卑弥呼に金印を贈ったことが書いてある
何もおかしくない >>144
だからさ
その記述からはごく狭い範囲の国々ならば
共立で連合はできるだろうと空想できるだろうが
畿内から九州という広域では非現実的だと言っているんだよ
物分かりが悪いやつだな >>146
論点が違う
倭の奴国ではなく倭奴国だと言っている >>83
対馬国境を確定したのが、白村江以降の記紀であって、
歴史的に日本の領土と言うのは、これ以降の話。
馬韓、弁辰韓諸国に、日本人領土が混ざっていて、
軍事統一国家と言うものが存在していなかったというのは中国史書が証言している。
15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
17 官有 伊支馬 次日 彌馬升 次日 彌馬獲支 次日 奴佳? 可七萬餘戸
18 自 女王国 以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
19 次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
20 此 女王 境界 所盡
21 其南 有 狗奴國 男子為王 其官有 狗古智卑狗 不屬女王
22 自郡 至 女王國 萬二千餘里
倭人伝で、判るのは当時の日本の国家と言う概念は
筑紫平野の21国が共立した、
参問 倭地 絶在 海中 洲?之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
しかない、女王国程度の範囲での、国家なのである。 >>108
上級国民が、日本の富を不良債権とレッテル貼りしてアメリカに二束三文で売り払った。
そのあと、上級国民が民営化と騒ぎ立てて国有資産を二束三文で買い取った。
30年日本人だけが停滞して、貧乏国民になった。
日本人のなかに、日本人じゃない何かが紛れているとしたら、説明がつく。みんなその正体を知りたくて源流をたどっている。 卑弥呼の墓は箸墓しか有り得ない、また女王国は30ヶ国の大国だよ。広範囲でもない。蜀漢劉備は、もっとでかいぞ。広範囲過ぎるはあたらな
い。 >>148
そりゃあ漢文にひらがなが使われないってだけが論点なのか?w >>148
奴国の金印に魏志倭人伝で触れない件についてだろ? >>147
だったらどういう経緯で統一出来たんだ?
倭の五王は東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國と言ってて
朝鮮半島全部の権益寄こせと言ってるんだぞ >>155
別の国を指してるなら触れないのは当然だろ >>23
連合国全体ではもちっと大きいんじゃね?
せいぜい筑紫平野全体程度だろうけど >>157
奴国の金印は魏の歴史ではないから、という考えに至らないんだな >>150
廣志によると伊都国と斯馬国は近い
伊都国は現在の糸島市の南東部(旧怡土郡)
斯馬国は現在の糸島市の北部(旧志摩郡)
で確定だ
>15 南至 投馬國 水行二十日 官日 彌彌 副日 彌彌那利 可五萬餘戸
>16 南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
この部分は別資料から挿入されたもので
基の資料では伊都国、奴国、不弥国と繋がっていたと考えて間違いない
>参問 倭地 絶在 海中 洲?之上 或絶 或連 周旋可 五千餘里
これは奴国から不弥国を経て、傍国諸国、奴国一周が5000里くらいだとの説明だな。 >>156
東征毛人五十五國・・・中国、関西、四国
西服衆夷六十六國・・・九州
渡平海北九十五國・・・朝鮮半島南部
朝鮮半島全部の権益寄こせではなく名目上の支配権 日本の軍事統一は、信長が最初だろ?
大和朝廷ってのは、各地の豪族集めて
源氏物語にあるような後宮性事やってたんだぞ?
武人嫌いだから、京都に馬入れるなよ、って、牛の車でwww
推古天皇だったはずのwww
アマノタリシヒコの後宮だって
全国の豪族から集った女給700人とかだぞ?
日本人治めるやめに、日本の天皇に軍事力必要かよ?
軍事は、自衛隊や同盟国の将軍に任せるだけなんだよwww >>109
狗邪韓国とは
狗邪 kuja >>>>>> kœje 巨済島 だね。
なお、韓国の「韓」とは北方言語の khan のこと。
ジンギスカン/チンギスハンの khan だ。王/大王の意。
○○韓国=○○王国。
彼ら今ではこの意味を忘れてるけどw 邪馬台国でいろんな人が偉そうに説を唱えてるけど
全部妄想や願望なんだよなあ >>90
いや南蛮船が南から来るようになってからは、朝鮮半島との繋がりは薄くなっていく
黒船が太平洋を越えてやって来るようになるとさらに疎遠になる
それに古代にしても半島に行ってたのではなく半島を経由して山東半島に行ってたんでしょ
鑑真のころには上海あたりから直接日本に来てるし、
対馬海峡の往来が盛んだった時期はいうほど長くない >>162
それ以前に天皇だって軍事力使っていることが窺われるだろ
崇神天皇の四道将軍を各地に置いたとか
ヤマトタケルのクマソタケル征伐とかイズモタケル征伐
関東への遠征とか
軍事力を使わないで、朕は神の子孫なるぞ
したがえ蛮族どもよ、はは〜と従ったと思っているのかよ?w >>160
伊都国から、奴国2万戸、不弥国は各100里。
奴国は福岡筑紫平野でも広大なはずで、不彌国は湾岸で港町だろ?
判るのは、伊都国の半径が100里を越えないという事。 >>168
つまり景行天皇の時代は
まだ日本は統一国家じゃなかったということが
古事記を読めばわかる >>160
廣志では倭国を東南に陸行500里で伊都なんだから、海岸の集落では記述と矛盾しているのでダメだろう。
この倭国は出雲、丹波地方の情報になる。
廣志だと伊都の直ぐ南側にヤマイチ国だから、山城、山背地方がピッタリになる。
傍国シマ国は河内国分、信貴山辺りの事だね。
廣志の記述、方角や位置関係が畿内説でないと説明出来ないから。 >>83
逆
だから南の一部だけしか出てこない
それより北は高句麗で、広開土王碑でも日本は負けてる
負けてることは書いてないがな
朝鮮半島から日本に渡るのは縄文海進の影響がなくならないと無理
だから朝鮮半島の文明の痕跡は日本に比べて開始がとっても遅い >>172
また1里400mで計算している
パプア君かよ また信貴山には龍田神社があるのだが、ここの祭神は昔はシナツヒコ。名前のとおりで中国へ向かう港の意味だからな。
シマ国とは武内宿禰や蘇我の本拠地である近つ飛鳥でもある。 >>170
は、じゃないだろ?
諸豪族から出た皇統の源氏や平氏が軍事統一できてないから
戦国領主諸国は全部、源氏の子孫で八幡明神祭ったりなんだろ? >>59
あなたが言う識者というのは、
いまだに吉田証言を真実と言ったり、毛沢東が演説で逆のことを言っている南京大虐殺があったと言ったり、でもそういう人たちが教科書を書いて、それが正しい事になっている
畿内説もそれと同じ
記紀神話を否定するために同じことをしているだけ 扶余は鹿を神獣とするのに、古代の日本人はこの国を一貫してコマと呼び続けた
コマは熊に通じ、檀君神話に関わると予想される
扶余にとっては母系の祖だと思われるのだが
鹿は日本人にとっても聖なる動物であり、とりわけ銅鐸に多く描かれ
春日大社では鹿島大神の使いとされている
百済はともかく、扶余と日本は対立することが多かったので
これを討つという文脈で扶余に言及することを控えたのかもしれない >>170
鎌倉幕府も足利幕府も諸豪族連合に過ぎないからなぁ >>174
廣志の文書だけ別資料なら問題ないだろう。
伊都の次に奴国がない以上は北部九州の話ではないのは確実だよ。 中国に近い方が文明が伝わってきやすいから西日本にあっただろね >>168
まあ、軍事力は諸国に、警察力程度には、そこそこは有るはずだが?
基本的には、諸国領主の自治であって、
朝廷は取り纏める中央の後宮で、性事してたんじゃね?
源氏物語からは、そう読めるけどネw >>169
魏志倭人伝の記述から分かるのは
末盧国は現在の東松浦半島から二丈まで
伊都国は現在の糸島市の南東部(旧怡土郡、二丈を除く)
奴国は現在の早良区南部、那珂川市、春日市、大野城市、筑紫野市方面
不弥国は現在の早良区北部、城南区付近 そもそも、他の烏丸鮮卑東夷でも国々は並べてあるだけで正確性はない、大体、倭人伝では初めて渡海、対海国で次の一支国との間に翰海と呼ばれる海があり対海国はそもそも半島から見た国であり半島人が興した国とも言える訳で倭人の国かどうかもわからない。次にマツラから500里×400m=200キロ歩くと伊都国があり、必ず立ち寄る所。必ず立ち寄る場所がいきなり200キロ歩くなんて拷問だろ、間違ってんだよ、地理わ また倭人の都として本来出雲を指すと考える事は、ある意味当たり前の事なんだからな。
今までが九州メインで考えすぎだっただけの話だった。記紀の記述に欠けているは出雲、欠史八代の歴史だからな。
邪馬台国の話が記紀に無いなら当然そこに本来の話がある。 >>172
魏使が上陸したと考えられる呼子付近から500里(40km)で現在の糸島市の南東部の西の端に着く
そこから100里(8km)で糸島峠付近で、そこから先が奴国
更に100里(8km)で早良区北部、城南区付近へ 銅鐸の分析から、
出雲は大国主命の都で間違いなく、
また大和の大物主命と手を組んで国造りをしたことも間違いないようだ。 廣志における倭国の入り口が出雲地方、おそらく籠神社のある宮津から南下して亀岡の出雲大神宮のある場所辺りが伊都。
亀岡には一夜にして盆地が出来たなんて話もあるが、これが三保津媛の伝承で、まるで治水の神でもある百襲媛の話そのまま。
保津川を経て山城地方へ向かうと記述どおり南側にヤマイチ国になる。百襲媛の出身地が奈良県田原本の保津、宮古遺跡辺りだよ。 1日歩けば100里という事だよ
朝日が登ってから活動を開始し、夕方になって日が沈めば寝る
という事は
日が昇ってから朝食
そして歩き始め
暗くなる前に寝る準備をする
そうすると1日で約8キロ程度の移動距離となる
時間による距離計測を無理やり里数で換算するから短里というアホな屁理屈が出てくるだけだよ >>184
だからw
そのような体勢をつくる前の時代の話
それは諸国の倭人たちに天皇って偉い人がいて
その人に従うのが筋という常識ができた後の話でしょ?その状態ってのは
でも天皇なんて知られなかった時代に
いきなり天皇は朕は神の子でおじゃるよ
だから地のいうことに従えって軍事力もない人がいきなりやってきて
言うことをきくか?wって話
最初は軍事力で支配したのが当たり前だろうがw >>186
千里は対馬と壱岐の距離。
伊都国は247年の張政が常駐させられた一大卒の軍事基地。
博多湾に入港せず500里を歩かせたのは、
張政が今後敵対するであろう魏の査察官だったから。
日本は、245年の帯方郡の韓制圧戦への参戦
其六年 詔賜 倭難升米 黄幢 付郡 假授
を、蹴って、筑紫と大和朝廷は競合での対魏防衛への道を選んだ。
邪馬台国が九州で本州統合が、畿内じゃないと、倭人伝が247年で終って、
魏と邪馬台国国交が終わってる説明が、旨く行か無くネ? 出雲は大国主命の都であり、
女王卑弥呼とはなんの関係もないだろう。
そして記紀に書かれた大国主命と大物主命の連帯も、
銅鐸の分析により実際にあった事が証明された。 韓伝読めば九州は半島の祭祀の影響が強く鳥居や沖ノ島なんてのはいい例で、そとの最たるもの、女人禁制だしな、卑弥呼の老子道徳経の痕跡はない。単なる通過地域、陳寿が中華人向けに鬼道ですって書いているんだから鬼道なんだよ。九州説は知能指数が低いとしか思えん、まあ皇国には寄与してるよね、それだけ しな人がどう考えても、関係ないさ。
日本は日本で探索すればよい。
ある日何の説明もなしに日光を奪われる、高層建築で暗闇を創造する企業
【権力】日蝕の積水ハウス【日蝕】 低脳すぐる、自己紹介www
半島史の話もしようか? >>53
近年の発見では紀元ごろの硯や木簡の出土が確認されたので、文字はかなり前から使ってたと
推測できるらしいよ >>199
例えるなら
学校の先生が「魏志倭人伝」というテスト問題を出したのに
畿内論者の生徒は、問題を無視して
どんどん持論の「答え;を書き続けている状態
おいおいwどうでもいいけれどお前らの書いている解答って、
問題の答えじゃないぞ〜ってと言っているのが九州論者ってことw 支那人が書いた人物を探索してるのに400年後の百済人の書いた物で探索するのか? 鳥居のモデルは寺院のゲートだよ
インドのサーンチーの仏塔には鳥居にそっくりなゲートと狛犬にそっくりな像がある
文献に残る最古の鳥居の記述は四天王寺の鳥居
四天王寺は創建当時から鳥居があったと言われている 紀元前からインド人が日本に来てたんじゃないのかな? >>202
分かるwww
魏志倭人伝の文章を読んで導き出される邪馬台国の位置はどこかという問いなのに
全く関係のない条件を付け足して魏志倭人伝を曲解してるのが畿内説だよなwww 畿内説支持の考古学者が00年代初頭に書いた本を読むと畿内説の根拠としては
@出現期古墳の畿内の箸墓古墳、吉備の浦間茶臼山古墳、九州豊前の石塚山古墳などが竪穴式石室等、造営に共通点が見られることから政治的連合がうかがわれる
A西日本一帯の古墳から発見される三角縁神獣鏡からそれらの古墳の出現年代が3世紀半ばだと推測できる
B西日本に前方後円墳が出現した時期に濃尾平野以東は前方後方墳が作られており西日本とは異なる勢力があり、これが狗奴国だと推測できる
とだいたいこんな感じだった
今でも畿内説の根拠は当時とあまり変わっていないのではないかな それを言い始めたら鳥居や旭日旗に似たものも古代エジプトの絵にあるよ >>166
鑑真は唐王朝の許可を得ていない密出国だったので正規のルートを取れず、
上海から直接日本に向かう危険なルートしか選択肢がなかった >>21
そもそも日本の考古学なんて世界で学問とは認知されてない。アニメマンガの同類。 >>204
鳥居にそっくりなものは東南アジアでは村の入り口に普通にある
朝鮮半島には中国のような門はあるが日本と同じ鳥居は無い
狛犬はかなり後年に神社に置かれるようになった
あなたの言うように仏教の影響で神社に狛犬を置くようになったんだろう >>208
三角縁神獣鏡は国産
西日本の前方後方墳さん涙目
がばがばやな >>21
数少ない記述しかないから
本職ですらまともな研究はできない訳で
それはつまり
歴史学者の多くは畿内説だという素人畿内説派の屁理屈も通用しないという事になるんだよね 卑弥呼は三河の姫なんじゃないの?
アマテラスのモデルでしょ
伊勢内宮神前祝詞に天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある
撞はつくという意
疏は塞いでいるものを取り除いて通すの意
伊勢の向かいは渥美半島
塞いでいたものを取り除き天を通した伊勢の向かいの津の姫 鳥居といえば
鳥居の形式は多種多様だが
ある程度の系統に分類することはできる
しかし
どんな祭神だからどの鳥居を使うべきかというのは
はっきり言って全く厳格ではないし、もっといえばどんな鳥居にしても自由だということが言える
そんな日本の伝統から鑑みれば
古墳の様式など
その当時の流行でしかなく
どこかの勢力の影響下にあったと決めつけるのはおかしいのではないか
とも考えられるんだよ 当時の情勢
・朝鮮半島北部の高句麗(紀元前37年から7世紀) 首都は卒本城→丸都城(-427年)→平壌城(427年-668年)
・朝鮮半島南部の三韓(紀元前2世紀末から4世紀)
言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる馬韓・弁韓・辰韓の3つに分かれていたことから「三韓」といった。
朝鮮半島南西部の馬韓52カ国〔後の百済〕、朝鮮半島南部の弁韓12カ国〔後の任那・加羅〕、朝鮮半島南東部の辰韓12カ国〔後の新羅〕
(346年):百済は国際舞台に初めて登場する。それ以前の歴史は同時代資料では明らかでない。蘇我氏の出自は半島南西部の全羅道とされている。
『三国史記』(1143年執筆)では紀元前18年建国になっており、韓国・北朝鮮の国定教科書ではこれを引用している。
歴史的な建国時期に関しては、三国史記の記述自体に対する疑いもあるため、韓国でも紀元前1世紀説から紀元後3世紀説までさまざまな説がある。
またその当時に書かれた中国・倭等の文献と後年になって書かれた三国史記の内容には隔たりがある。
中国の史料で百済という国号が明らかになるのは4世紀の近肖古王からである。
(369年):百済から倭国へ七支刀を献上している。
4世紀後半以降、倭国(ヤマト王権)が朝鮮半島南部へ進出したことを示す文献史料・考古史料は少なからず残されており、
史実として立証されている。〔広開土王碑・七支刀などの考古物や中国朝鮮の文献など、全く別の史料によって実証されており研究がすすめられている。〕
(413年から478年):倭国(ヤマト王権)の倭の五王〔允恭天皇、安康天皇、雄略天皇など〕は、
東晋→宋〔中国南北朝時代の南朝〕に断続的に朝貢を続け、朝鮮半島南部での倭国の支配権の国際的承認を求めた。
南朝は朝鮮半島南部の徴発権、軍事指揮権、裁判権は倭国(ヤマト王権)にあると認めた。
(7世紀中葉):倭国が白村江の戦の敗北により大陸での影響力を完全に喪失する。百済、新羅の滅亡。国号を「日本」と改める。 三韓征伐(4世紀後半)について
・中国側の視点
宋書(479年)等の記述は、倭国が朝鮮半島南部の小国家群に対して支配力を及ぼしていた傍証であり、
南朝梁の梁職貢図(469年〜530年)には、新羅が或るときは韓の属国であり、或るときは倭の属国であったと記載されている。
・朝鮮側の視点
朝鮮側の史書三国史記(1145年)からも度重なる倭の侵攻や新羅や百済が倭に王子を人質に差し出していたことが知られる(倭・倭人関連の朝鮮文献)。
また、韓国南部の旧加羅(任那)地域の前方後円墳の発掘で倭国産の遺物が出ていることも証拠の1つとなる。
・高句麗側の視点
広開土王碑文(414年)には、4世紀末に倭国が朝鮮半島に進出して百済や新羅を臣従させ、高句麗と激しく戦ったことが記録されている。
・日本側の視点
日本書紀(720年)等の史書では、百済が倭国に対して複数回朝貢し人質を献上していたことが記述されている。
391年、倭が百済と新羅を破り臣民とする。393年には倭が新羅の王都を包囲する。397年、百済が倭国に阿シン王の王子腆支を人質に送り国交を結んだ。
いったん高句麗に従属した百済が、399年高句麗を裏切り倭と通じる。400年には倭が新羅の王都を占領していた。
高句麗の広開土王が新羅の要請に応じて軍を派遣し、倭軍を任那・加羅に退かせ、高句麗軍はこれを追撃した。
402年、新羅も倭国に奈忽王の子未斯欣を人質に送り国交を結ぶ。404年には高句麗領帯方界にまで倭が攻め込んでいる。 卑弥呼の時代(3世紀中頃)
狗邪韓国(3世紀中頃)朝鮮半島南部〔後の任那・加羅〕にあった国。中国正史の『三国志』や『後漢書』に見え、『三国志』では「其(=倭国)の北岸の狗邪韓国」とある。『後漢書』では「倭の西北端の国」とする。
・『三国志』「魏書」東夷伝韓条には、 韓は南方では陸続きに倭と接すると述べている。倭国(または倭人居住地)の領域内とする説、領域外で対岸とする説、倭の海と岸が接する意味とする説の3説が挙げられている。
・『後漢書』東夷伝(列伝第七十五)は三韓の位置関係をより具体的に、「韓」の西岸に馬韓が、東岸の北部に辰韓、東岸の南部に弁辰(辰韓)があり、馬韓と弁辰が各々その南方で「倭と接する」と述べ、ここでも朝鮮半島の南海岸部から「倭」の領域であるとしている。
・『後漢書』東夷伝倭人条では、邪馬台国は楽浪郡から「一万二千里」、倭の西北端である狗邪韓国は楽浪郡から「七千里」と記されている。 1世紀 奴国王が後漢より金印を授かる
2世紀 倭国王師升が後漢に朝貢、倭国大乱
3世紀 倭国王卑弥呼が魏より金印を授かる、邪馬台国と狗奴国が対立
4世紀 奈良纏向遺跡の出現、崇神天皇が四道将軍を派遣 北陸出雲吉備会津を征服、仲哀天皇が九州遠征で熊襲に敗北 宇佐神宮に奉られる、神功皇后が香椎宮で神託を受ける 三韓征伐
5世紀 奈良の大和王権が任那〜熊本〜岩手を平定 雄略天皇「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」
6世紀 継体天皇即位、大伴氏が半島にあった領土を割譲、筑紫磐井が大和王権に反乱
7世紀 聖徳太子が軍隊を半島に派遣、乙巳の変、歴史書を新たに編纂
8世紀 隼人の乱、藤原広嗣が大和朝廷に反乱
9世紀 最後の朝貢を持って隼人の名が消える、北海道と南西諸島を除く日本統一 産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。
遺構は、すでに埋め戻されており、現地説明会は開かれない。
(証拠隠滅) 記紀の大国主命の国造りの記述が、
銅鐸の型式と時代編年と分布によって、
正しいことが証明された。
スクナビコナとの連帯は、
紀元前1世紀の時代のようだ。 天照は宮中に祀ってたのに祟ったから追い出したんだろ
どこも嫌がられてあちこち転々とした結果おちついたのが伊勢だった
てか地図みてみると伊勢もそこはかとなく宇佐っぽい場所なんだな で纏向遺跡で1番多い外来系土器は東海
卑弥呼は渥美の姫でヤマト政権邪馬台国は東海勢が中心の政権かもなあ 三角縁神獣鏡なんて国産で当たり前なんだが。
神仙思想を倭人が理解してるということは、それは鬼道が浸透してるに他ならない話だから。
畿内説だから三角縁神獣鏡を国産説否定と思うのならそれは間違い。
私は昔から畿内説で国産説。
なので呉の職人の力を借りて鏡を国産したとたいう事は、倭人は呉の太白の末裔を自称したのと矛盾しない話だろう。 >>226
東海ということは前方後方墳の狗奴国やね 邪馬台国の外交上の拠点として、
魏志倭人伝に明記されている伊都国の、
卑弥呼の死亡時期に作られた平原遺跡から出土する、
舶載鏡の数々の中に、
三角縁神獣鏡が1枚もない事で、
三角縁神獣鏡が数多く出土する畿内が
邪馬台国なる畿内説は、
理論上完全崩壊した。
最早畿内説を取ることは不可能なレベルで、
何人たりともこれを覆すことは不可能である。 卑弥呼は渥美の姫、アツ姫かもなあ
歴史は1500年後にも繰り返していると思うとロマンがあるな 平原遺跡の墓の形状が方形周溝墓な時点で、畿内東海方面から所縁のある、もしくは派遣された人物なのは確実だろう。 考古学的には弥生終末期の西暦200年前後には日本は以下のような状態になる
@各地で排他的で個性のあった土器や祭祀が畿内から広がる庄内式土器、纏向型前方後円墳にとってかわる
A上記の状態は畿内からはじまり関東から九州にまで現れ、特に北部九州に色濃く畿内の影響が広まる
B大和に巨大な祭祀場と古墳の集中する纏向遺跡が出現する
Cこれらの状況は時間を追うごとに強化拡大され、箸墓のできる布留式土器の段階になるとかなり明確な畿内中心の影響の拡大が見いだされる
となっている
このためその前段階の各地域のクニの領域を超えた、畿内を中心とする全国的な連帯が出現したと考えられている
この時期がちょうど邪馬台国の時代に当たるために、その中心地である畿内にそれに該当するものがあると指摘される 卑弥呼の死亡時期に作られた、
平原遺跡から出土する、
豪華な舶載鏡の数々の中で、
方格規矩四神鏡と内行花文鏡が、
日本からおよそ100枚出土する事で、
魏から贈られた100枚の銅鏡が、
方格規矩四神鏡と内行花文鏡(国産の大型以外)である事が確定した。 まあ卑弥呼の墓が円墳な時点で、東海系の人物の可能性はないよ。
箸墓は間違いなく瀬戸内海勢力の影響が強い。 邪馬台国の超重要拠点である事が
魏志倭人伝に明記されている伊都国の
卑弥呼の死亡時期に築造された平原遺跡が、
ただの方墳であることで、
邪馬台国は初期の前方後円墳の築造を
権威の象徴とする勢力なる
畿内説は完全に崩壊した。
最早畿内説を唱えることは不可能なレベルである。 前方後円墳体制は理屈ががばがば過ぎるから
心ある研究者はとっととこれを否定しとけよとは思う 方格規矩四神鏡には、
青龍三年鏡があり、
魏志に記録がないにもかかわらず、
近年その存在が明らかになった年号が
銘記されている事で、
方格規矩四神鏡が、
魏から鏡が贈られた数年前に
実際に作られた鏡である事が判明した。 >>227
同意する
三角縁神獣鏡は畿内の勢力が各地域に生産して配布したものだと思う
畿内の中心性がより明確に浮かび上がる証拠であると言える
おそらく卑弥呼の次の定型化以降になって配布されたものと思われる
卑弥呼が魏王朝から下賜された鏡は画文帯神獣鏡だろう 箸墓の前段階となる、類似性のある古墳のある場所は、現時点では九州の宮崎、讃岐、阿波、奈良盆地の橿原に存在しているよ。
まあ規模や被葬者が百襲媛、日女命と名前の女性という点で箸墓が卑弥呼の墓の可能性がかなり高い。 この平原遺跡から出土する甕棺墓と
同時代の甕棺墓が、
高良山の祇園山古墳から出土し、
更に祇園山古墳は66人の殉死が想定できる遺跡であり、
コレと平原遺跡の16人の殉死と合わせて、
82人の殉死が卑弥呼の死亡時期と同時期の遺跡から認められる事になり、
最早祇園山古墳が卑弥呼の墓である事は、
疑いの余地が無い事になった。 >>241
和歌山→淡路島→徳島→高知→宮崎
の沿岸航行の痕跡を示す弥生時代末期頃の遺物が見つかっているな
東瀬戸内海の海人の活動エリアやね
海人の墓がなぜ内陸の方形周溝墓のエリアだった奈良に現れるのか? 箸墓は布留0式段階だから卑弥呼の時代とズレる
台与か崇神天皇だろう
卑弥呼の墓が現存してるとするなら石塚以降の纏向型のどれかだろう 元々、纏向の箸墓が卑弥呼の墓なる畿内説は、
Intcal13の改定による、C14放射性年代の
一本足打法だったわけだが、
今回のIntcal20の改定によって
脆くも根底から崩れ去ってしまったのである。
最早、畿内説を取る学者は存在せず、
情弱が無知をさらけ出して、
ネットに書き込んでいるだけのものになった。 >>240
その三角縁神獣鏡の古いタイプがあるのが奈良県田原本の鍵作神社にあるというしね。
(鏡自体は和歌山から出土という話もある)
田原本は孝霊天皇の宮の近くで百襲媛の出身地でもあるからな。
まあ画文帯神獣鏡をへて三角縁神獣鏡を国産するのは間違いない。でも初期の三角縁神獣鏡で出来の良い奴が呉職人オリジナルの可能性はあると思う。 >>1
去年夏からなぜかいきなり右翼に転向した高市早苗も実は、同じ奈良の辻元清美や山本太郎(宝塚=ほぼ大阪の創価在日朝鮮)
や維新(竹中小泉スガ創価同和系)に似て、もともと小沢一郎や米民主党系のゴリゴリ左翼、しかも強硬増税派なんだよなあ
高市早苗wiki
>1987年、アメリカ合衆国 へ渡った。米民主党下院議員...の個人事務所で、Congressional Fellow として勤務
>1993年(平成5年)、第40回衆議院議員総選挙に奈良県全県区から無所属で出馬し、得票数トップで初当選。
>1994年(平成6年)、政策集団「リベラルズ」に参加。リベラルズを母体に自由党(...)が結党され
>同年7月、自由党は自由改革連合(...)に参加し、さらに同年末に新進党に合流。
>1996年...衆議院議員総選挙では、小選挙区比例代表並立制導入に伴い、奈良1区から新進党公認で出馬し、2選。
>同年11月に新進党を離党し自由民主党(自民党)に入党。 新進党を離党した理由としては、「総選挙前、新進党の
>税制調査会で徹底的に議論した上で『大規模な減税は不可能』という結論を出したにもかかわらず、新進党党首の
>小沢一郎が総選挙の公示日に突然、十八兆円の大規模減税策を公約に掲げたこと」を挙げた[14]。 邪馬台やもと→ひもと日本
シンプルにこれでいいだろ
なんで、ややこしくかんかえるのか
理解できん >>245
だからって九州に有ったという結論にはならないんだけど
ちゃんと論理的思考は出来ますか? 我々は余裕を持って、
畿内説など未だに言ってる情弱を
嘲笑し嘲笑うことが出来る。
持っている情報の質と量が違いすぎるのだ。 記録に基づけば、近畿説は妄想の塊だとすぐわかる
【基本概要】
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
魏志倭人伝にける謎の水行陸行は、魏に朝貢に来た卑弥呼の使者から得た最新情報であり、その行程の起点は帯方郡である。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D女王国の南には敵対する狗奴国がある
E女王国の東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
行程図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
なお、帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里とのこと。
魏志倭人伝では1里が約75mであり、日本書紀の崇神記にも同様に任那-筑紫間の距離は2000余里と記載されている。
参考)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示していた(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国 何故みんな、九州と畿内の二択でしか考えてないのか、凄く不思議なんだけど >>245
intcal20はまだ保留だわ
いろんな研究者の意見を聞かないと判断できない
学会は今のところ無反応なのか?
全く影響が無いということなのかそれとも誰も改定に興味が無いのか >>243
最近藤原京の下、瀬田遺跡からも箸墓より古い、類似性のある円墳が見つかってるよ。
まあ百襲媛の墓なら元々は瀬戸内海で活躍してたのだから、別に矛盾はしない。
古墳上には吉備の特殊器台の破片が散乱していて、それが元で三世紀中頃という比定にされたんだからな。 南に行っとるからな
でも離島とは思えない
じゃあ九州しかなくないか >>246
三角縁神獣鏡が定型化後に出てくることから後継勢力の物と考えるのが妥当と思う
卑弥呼の遣使の年号を記載することからその遣使の事実を知っていて、それを重視している勢力であることの証拠だと考えられる
三角縁の文様が多分に呪術的なのは指摘の通り南方の影響があるからではないかと思う >>255
漢時には100国を支配してた国が、奴国の南に狗奴国が有る、倭国大乱中はそんな状況に分裂してたんだと思うよ
でもね、高地性集落の分布から、瀬戸内海を挟んで南北に分裂してたんだと思うの >>240
三角縁神獣鏡の紐を通す穴の特徴が魏の皇帝直属工房の特有な技法と一致する珍しい形でそこらの銅鏡とは違う
似せて作るにも魏から貰ったオリジナルを元にしている >>226
外来では多いというだけで最多は言うまでもなく大和の土器だよ
東海がメインであることにはならない >>256
私は三角縁神獣鏡が国産だから邪馬台国は畿内じゃない!と叫んでる連中が本当に信じられなかった。
鬼道使いの意味を判ってるのかと。三国志位は読めよと半ば呆れてたよ。
崇神天皇の墓なら個人的な推測だが桜井茶臼山の方が相応しいと思う、あの古墳内部は凄いよ。 いいぞ畿内説、恥を曝せ。
自分達が如何に無知で傲慢であるかを、
自ら表明して悪びれないのだ。
てか、キミら、そんなに畿内説が正しいと思うなら、
なぜ畿内説の総本山、纏向学研究センターの
クラウドファウンディングを
支援してやらなかったのか?
全世界で最早98人しか、
畿内説を支持する人間は居ない事を、
世に知らしめてしまったのだよ。 >>240
三角縁神獣鏡等の紀年鏡は日本オリジナルの鏡だから卑弥呼の魏への入朝の事が知られていた時代
4〜5世紀頃に作られたものだな。 みんな魏志倭人伝を誤解してるけど、あれは北部を抑えられて呉との交易を北側勢力に独占されてた南側勢力が、呉の敵である魏に同盟を申し入れに行ったというお話ね >>256
紀年銘鏡って数が少ないのに意味あるんかな?
100枚全部に景初3年入れるならわからんでもないが
存在しない年号使ってみたり適当なんじゃねーのていう 近畿から出土する魏鏡に比定する贋作は
卑弥呼に下賜されたとされる鏡の数を遥かに上回る500枚の鏡が出土し、そして調査を進めれば更に増える可能性がある
古代より数による優位性意識が潜在的にあったのだろうが複製し過ぎて完全に鏡がハイパーインフレを起こしあろうことか近畿は鏡が出土するたび贋作を証明することになってしまったのである 大和は近畿
出雲は中国
でも不思議と朝倉あたりの山と奈良の山が同じなんだよ
でも出雲系だと思うの 九州は >>265
畿内論者って
その三角神獣鏡をなんとか魏から送られた鏡にしたくて
日本から一枚持ち出して洛陽の骨董屋に預けて
中国からも一枚発見されたって自作自演したんだろ?w 画文帯神獣鏡も三角縁神獣鏡も、
魏志倭人伝に邪馬台国の
外交上の拠点として
大陸からの贈り物を管理したと
明記されている伊都国の
卑弥呼の死亡時期に築造された
平原遺跡に埋葬された
数々の舶載鏡の中に
1枚も存在しないことで、
卑弥呼の死亡時期に流通した
鏡ではないことが確定してしまった。
何回言ったら理解できるんだ?
アホか? 大体使者が草深き獣道を通って寒村で舟を調達して帯方に渡ったってのは、敵地を忍んで通って行ったからだってのは、冷静に考えればすぐ分かることなんだけどな 半島に近い北部九州で力をつけて東進する
この流れが幾度かあったと思う
出雲もそのひとつだよ 親類の墓が真美ケ丘にあるのだが、近くから画文帯神獣鏡が出土したが、あの辺りはまだまだ怪しいよ。
だがニュータウンや中和幹線が既に出来てしまいかなり地形が変わった場所も多い。
でも昔の地形図を見てもあの一帯はまだまだありそうだ。石舞台級の彦人皇子の古墳もこの辺りだしな。 邪馬台国ってのは、倭国大乱で呉との交易を断たれた狗奴国側の国で、呉の敵である魏に同盟を結びに行ったというお話ね 平原遺跡から数多く出土する
方格規矩四神鏡は、
青龍三年鏡が存在する事で、
235年に製造されていた鏡である事が
確定してしまったのだ。
240年に魏から贈られた鏡が、
方格規矩四神鏡であることは、
最早疑いの余地はない。 >>273
それは正しい見方だろう。百襲媛だと狗奴国出身の媛で邪馬台国の女王となった立ち位置になる。それで微妙なバランスをとって抑えていたという事。 現在確認されてる古墳の中で一番、卑弥呼の墓の可能性の高いのは平原古墳
二番目が祇園山古墳だな。 >>264
確かにその通りだと思う
遣使の年号を書いた鏡はほんの少数に過ぎない事から絶対視してるわけではないと思う
重要なのはこの鏡を配布した勢力が「遣使の時期を知ってる」という点
つまり三角縁神獣鏡を生産配布した勢力が卑弥呼の勢力と関係がある、もしくは関係を意識してると理解できる点にあると思う 九州の勢力が本州進出するに当たって中華から認定された倭王であること誇示するための鏡
九州の勢力が本州に拠点を置いて周囲を威圧するために作った巨大前方後円墳
大和は誇示された側
大和は威圧された側
それらを転倒させて大和が中心だと言い張ってる感じ 漢時100国→奴国と狗奴国に分裂→奴国は呉との交易を独占→狗奴国は魏と同盟を結ぶことに成功→誓約によって奴国と狗奴国が再結合
こんな流れね >>278
三国志には公孫淵は魏に向かう外国の使節を留めおいてその財物を自らのものにしていたという記事がある
なので何度か魏王朝へのアプローチをしていた時の記載なのではないかと思う 現代人のDNA形質で畿内を中心に同心円状に離れるほど中韓から遠くなる
日本の歴史の中心人物が渡来勢力で逆に平定され取り込まれた土着勢力が神になった
PCAプロット
https://i.imgur.com/HlqyGCG.png
中国南部----北京----韓国----------愛媛----本州--福岡----出雲---------沖縄
ADMIXTURE解析
https://i.imgur.com/voa7cFW.png
Midland(岩手県花巻市、東京都、愛知県北名古屋市、兵庫県尼崎市)n=840
Fukuoka(福岡県)n=198
Ehime(愛媛県)n=158
Shimane1(島根県大田市)n=77
Shimane2(島根県出雲市)n=82
Ryukyu(沖縄県)n=184
日本人集団の微細な遺伝的構造と進化
竹内文彦(京都大学)、勝谷友宏(大阪大学)、木村亮介(琉球大学)、並河徹(島根大学)、磯村実(島根大学)、大久保孝義(東北大学)、田原康玄(京都大学)、山本健(九州大学)、横田充弘(名古屋大学)、加藤規弘(国立国際医療研究センター) 史学やってる奴らって、何でアホばっかなんだろ?
まぁ、文学部自体が学問界の落ちこぼれで、その中でも歴史学科に進むような奴らは落ちこぼれの中の落ちこぼれだからなw 平原は女王国に抗った伊都国の勢力なんじゃないの
各国の使者が駐留していたおかげで細々と王と国の存続を許されていたんだろう
九州北部は吉備など瀬戸内海勢力が母体の一大卒の管轄下の国々
博多からは大量に瀬戸内海の土器が出ている
卑弥呼の都とされた奈良と同じ境遇やね
伊都国も狗奴国も倭国大乱前に栄華を誇っていた旧体制側でしょ
当時の博多湾一帯からは吉備や尾張の土器は見つかるが畿内の土器はないんだよ
近畿は女王国に抗っていた側でしょ 奈良は支配下に置かれたが
纏向遺跡と同じ吉備などの外来系土器で構成されているのが滋賀の愛知川の南の斗西遺跡
愛知川の北の稲部遺跡は対照的に在地系土器の集落跡
女王国の前線の一つなんじゃないかな 去年面白い母系遺伝子の研究が発表されていた
母系遺伝子から見ると日本人はかなり地域性のある8つのグループに大別されるらしい
古代は母系社会だからかなり意味深い研究結果
九州沖縄、高知、徳島、新潟福井香川、島根鳥取、奈良滋賀、三重〜静岡、東北富山石川和歌山
畿内の大阪京都は東北グループに1番近いという結果だった 東海に広がる前方後方墳の勢力が狗奴国と考えられる
畿内の勢力が誕生したことに対抗して後だしで生まれた様子が見える事からさほど強い連合ではないと思われる
もともと畿内と東海は元から盛んな交流をしていた相手なので対抗もそれほど強力な物ではないと考えられる
この勢力は箸墓ができる頃になると次第に畿内の勢力に順次吸収合併されていく様子が見える
魏の仲介でもって停戦が勧められた記事に似通った動きを見せている >>288
東海は巻向造成に参加した最大勢力ですが? >>283
それわざわざ鏡に年号残すほどのことなのだろうか 九州王朝説と言うファンタジーさえなければ九州説でもいい 内乱で魏の軍旗を与えられるなんて完全に属国だからな
内政に介入してる訳で敵国とか対等な関係じゃないから >>285
キミのレスは恥ずかしいよ?視点が朝鮮人ぽい。 >>289
書いた通り畿内と東海の勢力の関係は強力な敵対にないからね
あくまでも畿内に成立した強力な勢力に対抗して産まれた連合だと考えられる
もともとの両者の関係から最初から融和を摸索していたと思われる
魏の仲介はその最終的な手打ちの決め手になったのではないかと思う
もしかしたらそもそも遣使は狗奴国との融和の仲介を求めたのかもしれない >>290
三国史記に233年頃に新羅に使節を送ったという記事が見える
ちょうどその辺りから魏王朝との交渉を始めたんだろう
なので邪馬台国の記念すべき最初の遣使の年号なのかもしれない https://dotup.org/uploda/dotup.org2726807.jpg
前方後方墳の分布図を画像検索したらだいたいこんな感じの分布だったぞ?
これ狗奴国説どころか前方後円墳体制て存在しないのと違うか? >>295
張政は黄幢を授けて檄を飛ばしたと
魏志倭人伝に書かれている以上、
融和をはかったですかとかは、
全くの魏志倭人伝に基づかない
根拠のない妄想でしかない。 そもそも纏向遺跡の位置関係からして東海勢力との和解を考えて作られた拠点ではないかと思う
重要な祭祀遺跡でありながら、すぐ横に敵対勢力があるのに防衛の意志が見えない
そしてそこには多くの東海の土器が見つかる
この事から纏向遺跡は両者の中間に位置し両者の祭祀による合流を目指した遺跡なのではないかと想像する >>298
卑弥呼が倭の王だと魏は言ってるんでしょ 実際に、博多祇園山笠は、
倭姫命が大幡主に、
夷狄との戦いで旗を授けたという
伝承がモチーフになっている。
コレが実際に、張政が授けた黄幢で
間違いないだろう。 >>299
巻向は吉備勢力が作った遺跡だからね
どちらかというと怖いのは出雲なので
出雲からなるべく遠いところに作ったんでしょう。 俺は東海勢力とか思ってないけど
魏が任命してる倭王は卑弥呼だと言ってる訳でしょ 説のある地域の遺伝子の分布からなんらかのヒントはないんかえ
大陸の血が濃いところが正解なんじゃね 纏向は記紀に書かれた崇神朝の王都で間違いないだろう。
四道将軍の派遣の範囲が、
外来土器の出土範囲と一致する事で、
考古学的にも、四道将軍の派遣が事実だったことが
証明されたと言える。 纏向遺跡で東海の次に多いのは山陰の土器だな
吉備の土器は3番目に多かったが3世紀後半突然纏向遺跡から姿を消す
卑弥呼亡き後の男王の時代に仲違いしたんでしょ
その後の吉備津彦の吉備討伐に繋がるのかもね
卑弥呼亡き後の男王って吉備の温羅の王なんじゃないの? >>302
まぁ記紀をそのまま当てはめる事はあまり好ましくないが、崇神天皇、垂仁天皇の時期では徹底的な出雲つぶしが行われているからね
四道将軍の遠征は特に何の問題もなくアッサリ全国を巡ってる事から、出雲以外の地域へは征服戦争というよりも同盟の確認に回っただけだろう
畿内の勢力にとっては出雲の勢力が最初期には最も脅威であったのだろうね また、四道将軍の派遣の範囲に、
北部九州が含まれず、
外来土器も北部九州の土器が無い事から、
考古学的にも崇神朝が、
北部九州に進出していなかったことが確定し、
纏向は邪馬台国で無い事が、
文献上も考古学上も確定している。 文系教授とか文系研究者って妄想で
飯食ってる詐欺師にすぎんわな。
証明不可能な事例をあーだこーだ
言ってるだけでマンセーされるとか
どんだけぬるい仕事だよ。 >>307
むしろ崇神は狗奴国の出身かもしれない。たいした証拠はないけど伊勢神宮といった大切な神社を
敵国と隣接するような地域には建てないと思うんだよな。
自分が考える最も安全な場所つまり出身地域に建てるんじゃないかと ヤマトタケルの本拠地は尾張だしヤマト政権の母体は東海でしょ
ヤマトタケルはヤマタノオロチの神霊が眠る伊吹山でぼろぼろになる
伊吹山の麓の彦根には鉄工房のあった稲部遺跡があるな
このエピソードは草薙剣の因縁の一つかもな
伊吹山にはヤマト政権に最後まで抗った伊吹山の荒ぶる神がいたと日本書紀にある 北部九州については景行天皇の遠征を読んでみればわかるが征討の相手になってない
最初から服属している地域
筑前、日向付近が大和朝廷に服属している地域で、征討されたのは熊襲地域となる
実際にこの地域は考古学的に畿内の強い影響下にあるのが分かってる
日向は皇室に強い関係がある土地だが、
筑前は朝廷と縁もゆかりもない外国人の国で従属した地域という扱い
一大卒に監視され怯えている外様の姿そのままと言える 俺が言いたいのは魏の皇帝の代理で来てる使者に対し
敵国だから卑弥呼と会わせないとかそんな権限は属国に無い 景行は生目垂仁の息子であり、
生目は魏志倭人伝に
邪馬台国の長官伊支馬として登場する。
また副長官は彌馬升と書かれ、
コレが御間城崇神であることも分かる。
記紀では直系の親子であるのに、
魏志倭人伝では地位に逆転現象が起こっており、
崇神と垂仁は直系の親子関係で無い事が分かる。 イメージとして
邪馬台国(吉備を中心とした連合体)が豊臣秀吉で
大和朝廷(東海を中心とした連合体)が徳川家康なんじゃないかと 狗奴国の系譜は仁徳天皇の時代かもね百舌鳥古墳群
その後また長く隠れてしまう
2世紀末まで畿内は巨大銅鐸と勾玉の地域だった
仁徳天皇の時代考古学的にまた勾玉のブームが起きる
伊吹山の神さまの系譜は舒明天皇とかかな
国津神の元に留まったアメノホヒの後裔土師氏たちが守っていたのかもねえ >>310
狗奴国と考えられる東海地域はあくまでも畿内勢力に対して吸収合併される立場なので主体ではないと思う
繰り返し書いたように両者はもともと敵対的な地域ではないので、そもそもが和解を目的として宗教的な融和を目指していたのではないかと思う
指摘の通り伊勢神宮の設立に関しての倭姫の動きを見ると、
両者の重要な地域をめぐっているので両地域の和解を目指した宗教的なアプローチではないかと思える また、崇神は吉備の豪族との関連が深いのに対し、
生目は日向生目出身の豪族である事が分かる。
コレが景行の時代に、吉備津彦の姫、播磨稲日大郎姫と婚姻して、
大和に進出していった事が分かる。 西都原に仮宮を設けて諸県君が娘を差し出してるな
日向神話に山岳信仰と海幸山幸の異なる文化が混ざったのは日向が大和と隼人の交流拠点だったから 狗奴国は元々畿内の国で大和川の南の河内和泉だよ
東海はヤマト政権邪馬台国の母体 崇神朝纏向は文献上も考古学上も、
九州に進出していなかったことが
明らかであり、
纏向が邪馬台国なる説は取ることが出来ない。 伊支馬は出雲風土記にある生馬神でしょ
生馬寺のあった奈良の生駒も同じ
火の神さま
イザナミが上津国に産み残した火の神のモデルかもね >>321
纏向遺跡の構成地域吉備と東海が博多に進出しているよ大量に 狗奴国の長官は狗古智卑狗であり、
コレは久々知・鞠智の豪族のことで、
現在の菊池のある隈・球磨の国が
狗奴国である事が分かるのである。 考古学的な弥生時代終末期の状況は>>232に書いた通り
畿内に登場した勢力は関東から九州に至る地域に強い影響力を見せている
特に北部九州はもっとも色濃く畿内の影響を受けている
中国史ではそもそも邪馬台国は大和で一大卒が派遣されて支配されてる地域であると書かれている
これは魏志と旧唐書に明記されている
そして記紀では九州は四道将軍や景行天皇が遠征するまでもなく支配地として安定した地域として描かれている
九州、特に福岡周辺の地域は畿内勢力の強い干渉下にある事は文献、考古学ともに明確
ここに畿内の影響を受けない独自性力など存在しえない 魏志倭人伝においても、
彌馬升崇神は邪馬台国の副長官である事が分かる。
纏向は邪馬台国を支配する側ではなく、
邪馬台国によって役職を与えられる側であった事が分かる。
つまり御間城崇神が軍隊を派遣出来なかった北部九州に、
軍隊を派遣出来ない様な、
強い勢力があった事が分かるのである。 >>24
いや鎌倉どころかこの人の説だと南北朝時代(日本の)だってさw
九州を統一した懐良親王を明が日本国王にしたのは九州の王=倭国の王だからとかw
実際のとこは倭寇討伐を懐良親王に促すためなのにw 九州の渡来人が東に進んで行った(東征)
邪馬台国=大和 実際、北部九州の丹波氏をバックに持つ大和武尊が、
熊襲征伐を果たしたあと、
あっという間に出雲熱海焼津関東福島新潟まで征した様に、
その北部九州の軍事力は強大であった事が分かる。 漢に奴国が朝貢、倭で唯一漢の臣下「漢倭奴国王」になる。が、魏志倭人伝で奴国は邪馬台の配下と判る。
つまり、邪馬台は配下の奴国王の名で朝貢し、倭で唯一王に任じられ、倭(≒列島)内で覇権を握ったと推測される。
が、邪馬台は漢末の倭国大乱に破れ覇権放棄(男王禁止)。
この大乱、邪馬台内三十数ヶ国の内乱ではなく列島の大乱。内乱ならその勝者が、漢の時代と同様、奴国の名で魏に朝貢する。奴国の上の邪馬台の名で朝貢することはしない。
つまり、大乱で邪馬台は外部勢力に敗れ、大乱の勝者が軍門に下した邪馬台の名で魏に朝貢したと判る。
大乱の勝者は何処? 邪馬台の力の源泉博多港を支配する謎の勢力「大倭(ダイワ)」だ。邪馬台の配下のふりをしてるが、嘘はバレバレ。この大倭(ダイワ)、奈良で間違いないな。 四道将軍の地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21595221.jpg
北陸道および山陰道東部の横穴墓の分布は、いわゆる四道将軍の派遣先と合致します(第10図)。
『日本書紀』では崇神天皇10年10月に大彦命(おおびこのみこと)を北陸(くぬがのみち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦を西道(にしのみち)へ、丹波道主命(たにはのちぬしのみこと)を丹波(たには)に派遣しています。
翌年の11年4月には各地の賊を平定したことを天皇に奏じています。西道以外の派兵先は横穴墓が造られた地域となっています。
山陰道中央部にも横穴墓が稠密に分布していますが、この方面にも派兵がなされています。『日本書紀』崇神天皇60年に、出雲振根(いずものふるね)が弟の飯入根(いひいりね)を殺したことに対して、吉備津彦と武渟川別を遣わしています。
『古事記』にはこの記事はありませんが、倭建命が熊襲を平定した帰途に出雲に立ち寄り、出雲建(いずもたける)を誅したとしています。
このように、中央から地方にたびたび征討軍が派遣され、征討軍が派遣されたルート上や目的地に横穴墓が濃密に分布しています。両者には何らかの関係があったと想定されます。
中央から地方へ征討軍が派兵された結果、新たな階層が生み出されたと考えられるのです。 中央政権による地方制圧
https://pds.exblog.jp/pds/1/201907/20/25/f0300125_21581552.jpg
中央から地方へ派遣された征討軍のルートが、横穴墓の分布と近似しています。以下、中央政権による地方制圧の記事を『日本書紀』『古事記』から見ていきたいと思います。
九州島は横穴墓が広範囲に分布していますが、景行天皇の九州行幸ルートとほぼ合致します(第8図)。『日本書紀』には、景行天皇12年7月に熊襲が朝貢しないため、景行天皇は九州行幸(西征)に発っています。
その経由地・滞在地を記すと、娑麼(さば)から、豊前国長峡縣(ながをのあがた)、碩田国(おほきたのくに)、速見邑(はやみのむら)、來田見邑(くたみのむら)、日向国高屋宮(たかやのみや)に移り、そこに留まって襲国(そのくに)の熊襲梟帥(くまそたける)を討ち、
その後、子湯縣(こゆのあがた)、夷守(ひなもり)、熊縣(くまのあがた)、葦北(あしきた)から海路で、八代縣の豊村、高來縣(たかくのあがた)、玉杵名邑(たまきなのむら)、阿蘇国、御木(みけ)、八女縣(やめのあがた)、的邑(いくはのむら)を経て大和に還っています。
第8図のように、横穴墓の分布とほぼ一致しています。しかも、佐賀県や長崎県、宮崎県以南に横穴墓が分布しないという点でも合致しています。
東海道から東山道の太平洋側の横穴墓の分布は、日本武尊の東征ルートと合致しています(第9図)。
若干の異同はありますが、『日本書紀』『古事記』共に記されています。『日本書紀』で見ますと、日本武尊は景行天皇40年10月に都を出て、伊勢神宮から駿河の焼津、相模を経て馳水(はしるみず)を渡り、上総国に入り、海路で葦浦、玉浦を巡り、「蝦夷の境に至」っています。
陸奥国の竹水門(たたのみなと)で蝦夷の賊首(ひとごのかみ)、嶋津神・國津神等を制圧・虜とし、日高見国で転じて常陸に戻り、新治(にひばり)・筑波を経て、甲斐国酒折宮(さかおりのみや)に入っています。
そこから北に向かい武蔵国、上野国を経て碓日坂(うすひのさか)から信濃国に入り、信濃坂を越えて美濃国・尾張に還っています。
このルート上では、静岡県の焼津から甲斐国酒折宮の間が、横穴墓が稠密に分布する地域となります。
焼津は最初の戦闘地域であるのに対して、酒折宮で日本武尊は「蝦夷の凶(あ)しき首(ひとども)、咸(ことごとく)に其の辜(つみ)に伏(したが)ひぬ」と当初の目的が達成したと述べています。
このように、焼津から酒折宮までの間で征討行為がなされていたと考えられ、横穴墓が稠密に分布しているのです。 池田次郎『日本人のきた道』より
大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。
古墳人骨がほとんど出ていない東海・中部地方・東北北部を除く日本列島を九地域に分けると、古墳人集団は三群に分けられる。
第一群は畿内集団だけで、これには畿内現代人が入る。
第二群は南九州・西九州・北陸の三集団で構成され、これには津雲縄文人、西北九州弥生人が属す。
第三群は第一群と第二群の中間に入るが、第一群により近いグループである。これには北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部の五集団が北九州・山口弥生人とともに含まれる。
第一群と第三群を渡来系古墳人、第二群を在来系古墳人とよんでおく。 第一群の畿内古墳人は、高顔と鼻根部の平坦性が古墳人のなかでもっともいちじるしく、身長ももっとも高いなど、渡来系古墳人のなかでも渡来形質がとくにきわだっている集団である。
また、短頭性がもっとも強いが、この頭形は現在までうけ継がれている畿内人の地域的特性である。
古墳時代・奈良時代の人口密度がもっとも高く、大和王権の拠点であった畿内は、古墳時代になっても朝鮮半島からの移住者を大量にうけ入れた地域だった。
畿内古墳人が、韓国・朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属し、縄文人からもっとも離れているのもそのためである。
資料の約半数が筑前・筑後・豊前から出ている北東九州・西中国古墳人の中心は福岡の平野部にあり、そこから南へむかっては南九州古墳人の、西へむかっては西九州古墳人の縄文人的特徴への傾斜を示すが、
豊後の山間部だけは特別で、そこには古い体質を保持しつづけた古墳人が居住していたのである。
資料の約八割が関東地方から出ている関東・東北南部古墳人は、顔面平坦度や頭蓋小変異の出現頻度で縄文人と大きく異なる。
身長は畿内古墳人とともに古墳人のなかでも高身長の部類に入り、頭蓋・四肢骨のすべての特徴に大陸的・農耕民的要素が認められる。
頭蓋計測値で第二群に入る北陸古墳人は、鼻根部の平坦度がやや弱く、低身長で、四肢骨の特徴にも縄文人的要素がみられる。
しかし、縄文人との距離は畿内現代人と同じくらい遠く、むしろ第三群の関東・東北南部古墳人に近いので、同じ在来系古墳人でも南九州・西九州の古墳人と同列に扱うことはできない。
頭蓋計測値(11項目)の形態距離に基づく古墳人集団の関係(男性)〔池田次郎〕
渡来…畿内
縄文…南九州・西九州・北陸
中間…北東九州・西中国、東中国・西近畿、四国、南近畿、関東・東北南部 古墳時代から奈良・平安時代にかけて、政治・文化の中心部と辺境部の住民のあいだに明瞭な違いがあることは、各地の古墳人の特徴からも明らかである。
奈良時代、大和人にとって言語や風俗習慣の異なる異様な存在は、『古事記』、『日本書紀』など古典にあらわれる隼人・熊襲・肥人・土蜘蛛・国栖・蝦夷など古代の異族であった。
『古事記』、『日本書紀』、『風土記』によれば、土蜘蛛の分布は九州から東北地方までの十〇ヵ国にわたり、そのなかには大和も入っている。
水野祐によれば、『風土記』に記載されている北部九州の土蜘蛛の半数は肥前国西北部の沿岸に居住し、アワビなどをとっていた潜水漁労民で、『魏志倭人伝』にいう倭の水人とはこれらの土蜘蛛だったという。
西北九州弥生人が漁労を主生業とし、縄文人的な形質をもつ在来系弥生人であることを考えると、肥前の土蜘蛛はこれら弥生人の体質を守り通した漁労民だったかもしれない。
残り半数の北部九州の土蜘蛛は、豊後の山間部に住んでいたと伝えられているが、この一族は古い体質を残している豊後古墳人となんらかの関わりがあるのかもしれない。
隼人・熊襲・蝦夷・土蜘蛛は、いずれも辺境の地に割拠していた異族であるが、大和にも国栖とよばれる異族が住んでいた。
吉野川上流域の山岳地帯で狩猟民として独自の文化伝統と体質を守りつづけていた国栖は、大和人と接触する機会が多かったために、その異様な習俗と風貌がとくに目をひき、異族として扱われたのだろう。
池田の説明では弥生から古墳時代にかけての渡来集団は連続的に捉えられています。また、縄文人の形質を残す集団もいます。
なお、池田の扱っている古墳時代の人骨の多くが5世紀以降のもの。 邪馬台国の長官は日向の豪族生目であり、
四道将軍を日本各地に派遣しながら、
邪馬台国の副長官に留まった纏向崇神朝は、
邪馬台国への影響力は相対的に小さかった事が分かる。
結局、邪馬台国での力関係が、
日向の豪族>纏向の崇神朝
であることからも、
邪馬台国が九州の勢力であることが分かるのである。 各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 三輪山信仰の奈良大和はアマテラスの祟りを恐れて伊勢神宮を各地にたらい回しにしている 伊都国1千戸になぜか王がいて行政の中心を担っている
隣の奴国は2万戸で1−3世紀の数々の出土品から漢の奴国王がいた女王国連合の中心的な場所だと考えられる
そしてその先に不弥国「千余家」有という不思議な記載で行程記録は終わり
投馬国や邪馬壹國の日程記載へと変化する。
伊都国には王がいて諸国が畏怖するのになぜ1千戸なのか
伊都国で到となり、使者が滞在する場所であるのにその先のわずか「千余家」の不弥国がなぜわざわざ記載されているのか
魏志倭人伝をしっかり読めば専門家でさえ指摘に至らない重要な情報がまだまだある 畿内からオンドルが沢山あるからオンドル人が沢山居たんだろ 畿内説はほんとありえん
なんで一気に畿内まで飛ぶんだよ?
卑弥呼は八女だわ
九州が当時の倭国 ヨーロッパ(A集団)→アジア進出→極東(B集団)
↓
↓
↓戦争でアジアから逃げる
ヨーロッパ(A集団)+(B集団)
こういう事か?
極東から逃げたB集団はハプログループNか。 火山
毎年のように強い台風が来る
時には冬に豪雪
北九州って現代の頑強な家屋でもたまに被害が出るのに
1800年も前の建物の技術で自然災害に打ち勝つのは無理なんだよ
そんな厳しい土地に都は作れない >>252
史学や考古学じゃ畿内説で確定してるけど
そこに悪意持つ九州説が九州は中国に近いから騙せそうという理由で工作してるからだよ 前なにかの番組で中国の学者たちが九州説を支持してたな
中国人いわく「中国の歴史書では距離や数値はいいかげんな事が多いが、方角に関しては割と正確だから」
とかなんとかという理由づけしてた >>345
九州に上陸したあと瀬戸内海を船で渡って畿内に行ったんだろ
魏志倭人伝にも邪馬台国に行くには九州上陸後に水行何日と書いてるし >>350
それで正体分かったわ
九州説は中国の工作員だな 文字を持たない馬鹿民族だからね
記録が残って無い
漢字に感謝だよ まだ諦めないのか
何度読んでも女王卑弥呼は鬼道なんだよ。韓伝の鬼神とは違う、道なの。老子道徳経。祭祀は太一と斎、伊勢は斎宮、太一がはためく。初代天皇太一は卑弥呼だよ。記紀は崇神に置き換えてる。 で、あるからNHKスペシャルでは取り上げることが出来ず、いつまでも九州だ、畿内だ、をいい争わせてる国なんだよ。卑弥呼は中国人巫女、歴史上実在する比定者は張h瑛。 もともと九州と畿内の地名が不自然なくらい一致してるところがあるんだっけ
つまり、どちらかがレプリカ
畿内は箸墓古墳が卑弥呼の墓なのかどうかってとこだけど、あれは伝承では百襲姫(桃太郎のモデルの姉)の墓ということなんだから
百襲姫(霊感あり)と卑弥呼が同一人物の可能性があるかどうか時代があってるのかどうか 266年〜280年に書かれた郭義恭の『広志』に「到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載」←伊都国(福岡県糸島市辺り)からまた南に行くと邪馬嘉国に至るとの記載がある。
もうこれで終了。
九州以外あり得ない。 >>351
末盧国が門司とかならそれでもいけるけど >>350
漢文を正しく読めない日本人が魏志倭人伝を誤読した結果が畿内説だからな。 正しく読めなかったから畿内説になったというよりも
九州説が嫌で嫌でたまらなかったから正しく読まなかったんだよな >>357
地名の類似性は九州と畿内に限ったことではないよ
近畿の紀伊半島と関東の房総半島でも類似性がある
この類似性はレプリカ云々ではなく、古代の漁労民の移動によって起こったと考えられてる 宋史や明史の日本の記述を見る限り、魏志倭人伝の政治や地理の記述が正確だとはとても思えない。 「魏志倭人伝」の文章を読んで導き出される邪馬台国の位置はどこか?
という設問なのに
場所を畿内にするために曲解や決めつけをしてるのが畿内説なんだよな
単純に、読解力が超絶に低い奴が畿内説って事だよ
記述通りだと海の上になるとか言ってるのは、頭が悪い証拠
彼らは
・なぜか直線距離で考える
・現代の正確な地図で考える
という超絶馬鹿な奴らですwww >史学や考古学じゃ畿内説で確定してるけど
>九州説は中国の工作員だな
このように嘘をついたりレッテルを貼る奴らはマトモに議論することから逃げてるカスwww 「畿内だけど倭人伝は正確じゃないから」
「倭人伝が正確じゃないなら九州でもありうるよね」
「ねーよ1億パーセントありえない」
「何で」
「オレらがそう言ってる」 >史学や考古学じゃ畿内説で確定してるけど
という嘘に対してのカウンターとして
・畿内説を主張してる奴らはゴッドハンドの共犯だった奴らだよ
と言えばいい
もっと言うと、
そのゴッドハンドの共犯たちが
週刊文春に嘘情報を送り「聖嶽事件」を起こしてライバルだった人物を自殺に追い込み
その後裁判で文春が完璧に負けて謝罪記事を掲載する事になった
そういう奴らが支持してるのが畿内説
>九州説は中国の工作員だな
畿内説は、万世一系の天皇家を否定したいための工作員だな
と言えばいい
畿内説が行うレッテル貼りは、畿内説の奴らと同じくらい低レベルの反論で通用するわけだよ >>367
そういう事じゃないんだけど里数から日数に変わる投馬国と邪馬台国はおかしいよねって言うと
放射説とか言って誤魔化して結局話しを元に戻すよね
だったらどう考えても九州を指してて倭人伝の記述が間違ってると言えよ >>364
邪馬台国はこの世の南の果てにあるはるかな遠い国という
当時の政治的宗教的なバイアスで書かれてるからね 紋様や形態が魏の鏡のもので洛陽でも出土があって
銅素材の科学的な調査でも魏の鏡とわかってる三角縁神獣鏡を
国産と言い張らなければ成立しないから九州説は終わった >>342が言ってる通りで魏志倭人伝にはおかしいと思う記述があるのよ
そこ誤魔化すんじゃなくちゃんと向き合えよ >>371
邪馬臺国の南には狗奴国があるし
東に海を渡ればまた倭種の国がある
東南に船で一年行けば更に国があると書かれているよ
邪馬臺国は南の端っこでも世界の果てでもなかった >>375
邪馬台国は大和国のことでそれがあったのは畿内
魏志倭人伝に書かれてる邪馬台国の場所は想像上のもの
後漢書に奴国は倭の極南界とあるように
漢の時代から倭とその王都は南の最果てにある国という事になっていて
魏の時代に祖先は大切にしないといけないという儒教思想によって
漢の時代から伝わる倭の王都は南の最果てという伝承に邪馬台国を当てはめて書いてあるのが
帯方より南に1万2千里という魏志倭人伝にある邪馬台国の位置 >>365
中国人の学者じたいが中国の歴史書を参考に
中国人の距離や数値は間違ってることが多いからあてにするな、って助言してるから
日本に到着してからの記述はあまり信用しないほうが良いよ
伝聞で書いただけで邪馬台国に行ってない可能性すらあるw ・旧唐書の「日本伝」には、日本は倭国の別種で、日本が倭国を併合したとも言われている。と書いてる。
・旧唐書の「倭国伝」では、倭国はいにしえの倭奴国のことである。
つまり、紀元前に貢物を楽浪郡に持っていった倭人や、57年、107年にも中国に行った倭人は、九州弁を話す人であり、卑弥呼も九州弁だった。
ところが、608年に裴世清が奈良に行ったら、関西弁だったので、何を言っているのか分からなかったので、「日本は倭国の別種」と書いた。 >>376
南ではなく東南の大海の中で日本列島を指してるのよ
極南界は朝鮮半島を含めて見てるからこれも日本列島を指してる >>378
後漢書には桓帝・霊帝の治世の間(146年 - 189年)に
倭国で大乱があったと書いてる
これが神武天皇が九州の日向から出発して
畿内に大和国を建国したという記紀の神武東征と見れば
邪馬台国が魏に朝貢に来たと魏志倭人伝にある景初2年(238年)には
邪馬台国は畿内にあったという事になる >>376
魏志倭人伝には
邪馬臺国の南には狗奴国があるとはっきり書かれているのに
南の果てだとかいいはるのが畿内説 >>379
朝鮮半島を含めて見てるとはどういうこと? >>381
現実の地理で書かれてないからさ
そもそも後漢書に奴国は倭の極南界と書いてるし
それに邪馬台国の位置を当てはめて書いてるのが魏志倭人伝の邪馬台国の距離方位
なので倭国からの報告で南に狗奴国があるという情報を載せたら当然矛盾も出る
邪馬台国の実際の位置が書かれてないのだからな >>381
狗奴国と言うより卑弥弓呼なんだけど魏の権威の及ぶ中に居るから
領土を奪おうとしたんじゃなく同じ組織内に居る権力争いだと見ている >>382
後の任那で渡平海北九十五國の事
当時は朝鮮半島の広範囲に倭人が住んでたんでしょ >>383
後漢書にあるのは委奴国では?
それなのにと言うが200年前の別の国なのだからその場所も勢力範囲も当然異なる >>386
後漢書には倭奴国に金印をあげたと書いてあるから倭奴国だね
これは九州の博多あたりにあった奴国のこと
その付近の志賀島で漢倭奴国王の金印も見つかってる
つまり九州は魏志倭人伝によれば邪馬台国ではなくて奴国だった >>387
奴国と委奴国が同じ国とも限らんし
200年経ってればその勢力範囲も場所もあてにならないのでは? >>357
近畿は中野大江と言う倭国の残党官職が再建した国だから九州と同じ地名と伝記をトレースしたのは当然。
倭王は代々天氏だが中野とか中津とかいう奴等は冠位十二階官職に過ぎず邪馬臺代々の倭王では無い。
近畿ではその素性を渡来人として差別化を図る天日矛も天氏であり半島も手中に納めた九州王朝を嫌い近畿に勃発した後の大和以降新国家は渡来人と蔑称を込めて改竄されたものだろう。
白村江の敗北で倭王として拉致された薩耶馬こそ倭国最後の王筑紫君。筑紫は後に近畿大和がその祖とする神武由縁の地として唐外交に利用するが筑紫のキミとは本来大陸に代々知られた倭王でありその威光を利用したに過ぎない。 集落に金印なんてくれない
だったら倭国者古倭奴国也で倭国の事だと解釈すべきだと思うがな
極南界は日本列島の広い範囲を指してる 新唐書には、倭王は代々筑紫城に住んでいたと書いてある
天皇という称号を名乗るようになったのは天武以降
その頃、大和に移ったと書いてある >>389
金印は漢委奴国王だよね
後漢書の倭奴国とどちらの字が正しいのかは知らんが
中華の史書は勝手に漢字を書き換えるから読みも意味もずれてしまうことが多々ある
それはさておき、57年の委奴国と238年の奴国が同じ国かどうかはわからないのでは? >>391
後漢書の極南界は倭国の極南界のことね
場所で言えば会稽東冶の東という事だろう
会稽東冶とは中国の会稽郡東冶県のことで今で言ったら福建省福州市
その東は沖縄とか台湾の辺り
文献からすると古代の中国ではその辺りに倭奴国や邪馬台国があるという想定だった >>394
倭は朝鮮半島も含んでるのよ
当時の中国から見れば倭人てのは主に朝鮮半島に住んでる人だと認識してたんじゃないか 唐に日本は倭の別種と認識させることで大陸王朝から敵対関係を改善するに至った経緯は
倭王朝を切り捨て過去の歴史を消し去ったということなのだが日本史に残る蘇我氏の乱は正に
焚書と同時に過去に関わる倭王朝を朝敵としてストーリーを作り上げ葬り去った隠蔽なのだろう。 弓を「弧」といい、←漢の文化では無くて秦の文化なのか? 平原遺跡って2世紀だろ、卑弥呼の時代より前じゃないの? 史書の話をするなら最初から邪馬台国は大和と明記されてる
九州など全く関係ない
『所在地』
@アメノタリシヒコは用明天皇(新唐書)
Aアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書)
A用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後の天皇なので都は大和(新唐書)
↓
邪馬台国は大和
『一大卒』
@一大卒は中国の刺史と同じ(魏志)
Aアメノタリシヒコは属国各地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書)
↓
一大卒のいるところは大和の政権の属国
『日本と倭』
@日本の皇統は神武天皇から当時の桓武天皇まで断絶なく継続(新唐書)
A日本は小国なりとも王も家臣もずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史)
B改称については日中の史書共に登場する粟田真人が国号を誤解された件が記載される(日本書紀)
C白村江の戦いの当事者の唐が皇統がずっと続いていると記載(新唐書以降)
Dアメノタリシヒコ(用明天皇)は白村江の前の天皇だがその後の系譜に連なるものとして記載されてる(新唐書以降)
↓
改称は壬申の乱後の日本号の正式採用の事
九州の邪馬台国も九州王朝も最初から存在しない >>393
漢委奴国王の委は委ねるという意味
倭には小さいという意味があるので贈り物をするに当たって減筆して
委ねるという好字にしたんだろう
博多辺りは昔は那(な)の津と呼ばれていて
後漢書に倭の奴国に金印をあげたと書いてあってその通りに金印も見つかってるから
魏志倭人伝の奴国は九州博多にあった那の津で後漢書の漢倭奴国というのは
疑う人はあまり居ないね >>395
朝鮮は朝鮮で魏志韓伝に馬韓弁韓辰韓と書かれてる >>392
それは日本書紀の記述を参照に書いただけだよ。そこには女王も出てこないし記紀の狙いもそれだからな。 >>400
津と港の違いってなんだろう
港が水戸でミナトであるならツって何? 弥生時代を探るに、弥生の独特文化がある
それはタコと蛸壺
タコは古代エジプト、古代ギリシャ、古代ローマで食べられていた文化で、アジアにはなかった
日本最古は大阪と兵庫、共に弥生時代
弥生時代の大きな勢力が関西か九州かはわからぬが、次の古墳時代は間違いなく関西に権力が集まっているよな
その古墳時代でも蛸壺は出てくる
つまり大阪兵庫の弥生集団は途切れず継続している事になる
そして現代タコを多く食べる都道府県、大阪府は言うまでもないのだが、面白い事に奈良県も大阪と並ぶ勢いでタコを常食している
海がない奈良がタコを沢山食べている
奈良はやはりこういう事実が大阪と共に古代を生きてきた感じがするんだな
京都は大阪とリンクしないからね、大阪が古すぎて…
歴史は今日まで続いているよ >>394
後漢書の情報も交えてこうしてみると
魏志倭人伝の地理的感覚はそんなに狂ってるわけでも無さそうだが
https://dotup.org/uploda/dotup.org2727027.jpg
江南から海流に乗って東に行けば済州島に着くわけで
少なくともよくある奈良時代の行基図を持ち出す意味はなさげ アベノマスク
布マスクはヨーロッパが発祥の地とされていたが、その源流は遥か神代倭国に遡ると言う説がある。このマスクは、白糸で丹念に織りなされているため、わずかな力で、素早く肺胞の隅々まで空気を行き渡らせることができる。
これを鬼道と融合させ、数々の秘技を編み出し、海中から出て三韓を成敗したのが大君倭王阿度部磯良であり、その布マスクがアベノマスクの由来である。 >>400
ヤマト朝廷と室町幕府はどちらも京都にあるから同じ組織。みたいな話か
倭の奴国なのかそれとも倭奴国なのか
いにしえのワナ国と書かれたりもしてるようだが >>399
大和はずっとそこにあってそれとは別に九州に小国があったように見えるが 京都もあったわ
大阪は鯨漁もしていて平安貴族も食べてる
タコ食は弥生時代だが、クジラ食は縄文時代から続く文化
大阪は両方もってる >>406
結果論的だけど
邪馬台国は大和国の事だったから魏志倭人伝の距離方位はまるで外れてるという事になる 当時の日本にあった国のうち魏との関係が深かったもの
にすぎないからな >>409
魏志倭人伝に奴国とあるから
倭の奴国だろうね 中国からしてみたら大笑いだろな
邪馬台国なんか中国属国を意味するからな
古代から日本は属国だったと笑いが止まらんだろう
まあ大阪はどう頑張っても中国人やアジア人と食文化が違うから、関係ないけど >>405
お姫様が👸インドの方からやってきた伝説ある >>413,415
室町幕府は京都にあったから結果論だけどヤマト朝廷のことだ。みたいな話だな まんま、ギリシャって呼んでるし、(新羅は無い!)
東アジアの何処かにギリシャ人住んでたんだろうけど。 素人は魏志倭人伝の字句の解釈にこだわる
プロは大局的に考古学の成果と論理的妥当性をもとに考える >>420
卑弥呼前は大乱してて
卑弥呼没後は相誅殺してて
晋の初代武帝が即位して二年目のトヨ31才頃には晋書から記述が消える国だぞ
合理的に考えてみなよ >>251
帯方郡から12000里の距離にあるのは邪馬台国ではなく女王国
12000里の距離にあるのが邪馬台国なら女王国でなく邪馬台国と書く
それと邪馬台国は女王の都そのもので
邪馬台国内に女王の都があるのではない 「倭人伝の記述はおかしいよね」
「いやちゃんと畿内だって書いてあるよ」 なにブツブツ言ってんだ?
畿内説は糖質になったんか?w >>251
行程図にある対馬国や伊都国は女王国じゃないよ >>5>>6
それ現在の中華人民共和国の覇権主義と同じ危険思想
世界を戦乱と恐怖に陥れる中華思想という名の覇権主義思想、中国式軍国主義 >>430
九州説が都合の悪いものを見なかった事にしてるだけだろ
結果何もないように見える 考古学的な弥生時代終末期(200年前後)の状況>>232
日中の史書による日本の状況>>399
これらを考え併せてちょうど邪馬台国の時代に当たる時期に畿内を中心とする関東から九州に至る影響力の拡大が裏付けられている
他の地域は畿内の影響を受ける形であり畿内以外の場所に日本的な中心地を見出すことは困難
畿内を中心とした全国的な連帯のような物が出来ていることは疑いない >>431
出土資料に「邪馬臺」なんて文字書いてあったか? >>433
たとえ書いてあったとしても
九州説は見なかったフリをするか畿内説の自演と言って絶対に認めないだろ >>432
だから西晋の初代武帝二年目を最後に中華の史書から存在が消えたんだろう
再び歴史の表舞台に現れるのは東晋第10代安帝の5世紀になってからだ ゴールポストが動くこと動くこと
「畿内説以外は論理的妥当性がない」 >>251
行程図に朝鮮半島から日本へ行くのに水行10日と書いてあるけど
水行とは陸に沿って船で移動すること
朝鮮半島から日本へ行くのは水行ではなくて“海を渡る”と言う
だから魏志倭人伝には「海を渡ること千余里で、対馬国に着く」と書かれている >>420
大局的に考古学の成果と論理的妥当性
が北部九州を湿しており、
プラス魏志倭人伝の一字一句が北部九州を示している。 >>435
書いてたら畿内説は大はしゃぎですでに発表してるだろ
してないって事は発見されてないという事だよ >>9
倭と書いてヤマトと読むんだぜ
天智天皇皇后は倭媛王(やまとひめのおおきみ) そもそも卑弥呼に「親魏倭王」の金印を(実質的に)贈らせた、
司馬懿が細かく記録してないのが悪い 記述が間違ってると解釈してるなら誤魔化さずにそう言えよって話しだわな 「倭人伝のこの記述は邪馬台国が畿内であることを示しています」
「でも倭人伝のこっちの記述はむしろ畿内じゃないことを示」
「あー倭人伝ってデタラメばっかりですから」 まともな研究者や学会では九州説はほぼネタ扱いされてる
ネットではネタが大人気だけど 普通に考えて九州だろ?
近畿とか学者がお金欲しくってでっち上げてるだけ 投馬国は5万戸、邪馬台国は7万戸
シンプルに考えると投馬国は出雲か吉備で、邪馬台国は大和に思えるんだよな
距離もやたら遠そうだし
九州北部は奴国ですら2万戸と少なすぎる 魏志倭人伝をには倭人が文字を使用していた事が書かれている
考古学的に3世紀に文字使用の痕跡が確認されているのは北部九州地域と山陰地方だけであるので
考古学的には邪馬台国の候補地は北部九州地域と山陰地方に絞られてる。 @纏向は4世紀の遺跡。
A三角縁神獣鏡も画文帯神獣鏡も卑弥呼の時代に流通していなかった。
B前方後円墳はトヨの時代以降の墓の形式。
Cホケノ山から槨が出た。
D箸墓から馬具が出た。
E鉄鏃が出土しない(九州からは多数出土)。
F鉄の武器が出土しない(九州からは多数出土)。
G絹の産地ではない(九州は沢山)。
H北部九州の土器が出土しない。
I大陸との交流を示す出土品が殆ど無い(九州は沢山)。
J100人規模の殉死を示す遺跡が無い。
K倭国大乱を示す遺跡が無い。
これら考古学的な証拠を元に
理論的に邪馬台国畿内説を考察した結果、
可能性はゼロである事が分かった。 まあ間違いなく邪馬台国は畿内ですよ。魏志倭人伝の記述は複数の資料を混同してるので、色々矛盾した内容があるのは事実ですが。 司馬懿がライバルの曹爽が西方を攻めたのに対応して、東方の日本をもてなす(旗下におく)必要があったからじゃん
宮廷の権力争いに勝つためにさ
その結果司馬懿は権力を保ち、いずれの晋王朝に繋がったわけで
それならもう少し邪馬台国を大事にして、性格で細かい記録を残せってんだ
そんなんだからいつも諸葛孔明に負けてるんだよ >>450
魏志倭人伝の記述内容と3世紀から出土する資料とは余りにもかけ離れているので
考古学者の多くが九州説を支持し始めているな。 >>346
https://youtu.be/dLKdnFIsv0A
N1a1a1a1-P298はい。バカw
胡雪巌N-M231、リューリク1世/ゲディミナスN-P298
お母さーん🇱🇹👩 元々倭の伊都は出雲、北部九州にあるのは奴国で、伊都の出張所が伊都の島、糸島になります。
倭人伝編纂の資料にもなった廣志ではマツラ国、奴国も登場しません。
倭、出雲から東南500里に伊都(丹波亀岡、出雲大神宮所在地)があり、その南にヤマイチ国、つまり山城、山背地域が該当します。
廣志の記述なら畿内説で方角や位置関係も全く矛盾がありません。 >>412
畿内説は先に結論があって、後で理由をこじ付けようとして無茶苦茶な事を言ってるだけ
最後には肝心の魏志倭人伝まで完全否定しようとしてるw リューリク1世/ゲディミナスと唐の王族は
直系子孫?! 学界は倭国を日本列島の国だと思い込んでるから間違うんだよ
この時期の倭国は半島南部から九州にかけての国
もちろん本州四国にも倭種はいるけど中国の正史は気にかけていない←これが弥生人
のちに倭国の版図が広がり畿内に拠点を移してから本州四国まで含めて倭国と呼ぶようになっただけ
国号の混乱などは全てこのせい ウイグル人と🇭🇺ハンガリー人も血の繋がりある
直系子孫みたいだぞ?(混血しているが) 魏志倭人伝を否定とかもう近畿説は邪馬台国自体否定しているようなもんなのにな >>452
私も考古学関係の人でしたし、知り合いは多数いますが殆んど畿内説ですが?
魏志倭人伝に描かれた風俗で一番合致するのは紀伊半島南岸か四国東南部しかありません。
朱丹を普段使っていた痕跡が九州では皆無ですし、丹山もありません。 >>459
ばらばらの資料を繋ぎ合わせたものだから矛盾があると言ってるんだから
それをまず否定しろよ >>460
嘘臭いなぁ
私も考古学関係ですが
畿内説はS原やS川がいるから従ってただけですよ 単に司馬懿の権力闘争のための書物だから、現実の正確さより、目的のために誇張したり嘘かいたりしてる可能性 >>460
朱丹を普段使っていた痕跡とは例えばどんなものなの? 知りたいのは真実であって記述内容に間違いがあると考えるのは当然
逆に一切間違いが無いと考える方がおかしい訳で 「畿内説の人じゃないと知り合いになろうとも思わないよね」 >>460
そもそも九州説って何だよって話なわけで
邪馬台国日本説並みに範囲広すぎだろと
邪馬台国日本説となえずに九州に限定するわりに、
九州のどこ?って話になったときに特定しようとせず、
九州のそれぞれが一方的に機内説に突っかかってる構図になるという まあ九州説の方が昔は廣志の記述を理由に北部九州説を説明してましたが、よく読めば畿内の事しかありえないのがよく理解できますよ。
ヤマイチ国の傍国がシマ国だと、シマは芝山のある河内国分あたりから近く飛鳥のある二上山山麓辺りになります。
蘇我や武内宿禰の出身地でもあり、浦島太郎のモデルです。
芝山は元々 河川の中に浮かぶ嶋状だったのでシマ山と呼ばれていました。
ヤマイチ国(山背)とシマ国(近く飛鳥)は聖徳太子が使った太子道でも繋がりがありますね。
まさに廣志の記述にある位置関係です。 で、だ。
胡人(ロシア人?)や匈奴(ウイグル人?ハンガリー人?)と同祖が倭人って記録ないか?
阿知使主渡来の話の事では?
倭国を日本国が併合したって。
じゃ、ハプログループN出る?
山形県辺りに出る!
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-17570192/ >>467
では畿内説はどこ?
箸墓古墳でいいんですか?
箸墓が卑弥呼の墓じゃないと確定したら畿内説は終わりでいいんですか?
無駄に特定してるのが畿内説 >>464
紀伊半島沿岸部では弥生時代中期以降、辰砂、水銀朱を精製していた痕跡である土器辺が出土しています。
また河内の久宝寺には水銀朱を計測していた秤まで確認されましたからね。
冬温暖で普段朱丹を白粉のように使えた痕跡はこの紀伊半島南側や四国東南部エリアだけですよ。 >>470
だから同じように九州の自分が指定してるところ以外も突っかかれって話だよ >>471
で普段使っていた痕跡ってどんなものなの? >>472
畿内説も同じじゃないか?
箸墓だと言い張る人とそうではないと言い張る人がいるだろ
お互いが潰しあえばいいじゃん
なんでしないの? 水行20日陸行一月もしくは日は
里数を知らない倭人の行程基準を記述したのは明らか
そもそも倭人は全ての距離を日没までの時間で測り
一年などは収穫時期で解釈すると言う曖昧なもの
逆算すれば1日の移動距離など5km前後でこれをマップで合わせれば女王国は大凡宇佐辺りに収まる
邪馬臺関連の史書を総合的に見れば近畿なんて論外 >>475
魏志倭人伝を書いたのは中国人なんだが。 例えば侏儒国や黒歯国は山海経から引用してるのは明らかで
そこには倭国なんて書いてないのよ
なのに侏儒国や黒歯国の場所を真剣に考えて辻褄を合わせようなんてあまりにバカバカしい いやいるならその人がすればいいが?
ここにあなたがいるから聞くけど、他の九州説は叩かない理由は何? >>462
私が現業で関わっていたのは約20年前まででかなり以前ですよ。
でも考古学関係者は鬼道等、宗教的なアプローチが欠けていましたね。
私は当初から三角縁神獣鏡は国産説の立場でした。 >>478
畿内説か九州説か
という話なわけで
九州説のどこなのかという話にはなっていないからだよ
それに俺は
放射説も短里もおかしいと考えている
その件についてはちょくちょく書き込んでいるよ >>480
じゃあもう特定せずに日本説でいいんじゃない?
何でそれは嫌なの? >>481
なんで九州説が嫌なの?
魏志倭人伝の文章から伝わるのは九州だからだよ
畿内ではない >>473
古墳の石室内部に用いられてるのではなく、沿岸部の集落で土器や秤に水銀朱が付着する痕跡が多数確認出来たのは、普段使いの証明だという判断です。
山中でも良いなら吉野辺りにも多いですし、有名な採掘跡なら四国若杉山にあるでしょう。 >>483
中途半端だから
特定するならいい加減九州のどこか突き詰めてくれよって思う
そこから特定する気ないんならもう日本説でいいだろと >>483
俺も最初はそう思ってた
陳寿は明らかに九州を指してるし矛盾があっても目を瞑ってた
でも陳寿が間違ってると考えるとこれは九州では無いと思うようになった 歴史学というのは複数の資料を突き合わせて裏を取る学問
「一つの本だけを解釈する」
など歴史学と呼ばない
位置論争と称する話のほぼすべてが倭人伝の解釈とやらで成り立っており、どんな尤もらしいことを言おうがこんなものは一顧だの価値もない
巷間でイタズラに語られる邪馬台国の話のほとんどすべてが無意味なもので見るべき物は一つもない >>486
神仙思想が云々のいつもの人ならお断り
もう論破済みだから >>487
だからこそ、
マトモに考古学をやってる人は邪馬台国の位置が畿内だとか言えないんだよ
裏取り出来ないから
なので、考古学関係者は畿内説が多いというレスは嘘だと決めつけていい 短里はおかしくないが、北部九州だとおかしいという話は私もちょくちょく書いているが 魏志倭人伝を単なる先入観や思い込みで語るから、九州が一番記述にあうという勘違いをしているんですよ。
魏志倭人伝であり邪馬台国伝ではありません。
また魏志倭人伝には邪馬台国に鉄が豊富なんて記述は何処にもありませんね。
邪馬台国と女王国は別として描いてあります。
これを捏造的な解釈をしているのが九州説の方に多すぎます。 >>492
倭人伝だからこそ
丹の記述や鉄の鏃などは、邪馬台国の話ではなく倭人の国にあればいいという事
それが理解できてますか? 北部九州から鉄の武器が多数出土し、
畿内説からはほぼゼロなのに、
畿内が北部九州を支配していた(キリッ( ・ิω・ิ)
とか言っちゃうキンパーは脳が破壊されていると言う事。 >>488
だからあっちは特定しようと頑張ってるじゃん
九州のどこかすら特定すらせずに何十年も同じこと繰り返してる
昔は九州説面白いと思って興味持ってたけどバカらしくもなるよ 邪馬台国と女王国が別なら、今畿内説として畿内にあったと論じられているのはどっちの話をしてたんだ >>484
沿岸部で土器や秤に付着していたなら他所と交易していた可能性あるね
産出地に拘る必要なくなったのでは? >>495
頑張っても無駄だから同じ事だよ
バカ騒ぎしてるのが畿内説
三角縁神獣鏡が出土するたびに、ここが卑弥呼の墓だと大騒ぎしてたのがその証拠だ
馬鹿すぎるじゃん畿内説って 無理なものを無理を重ねて特定しようとするのは、科学的な態度じゃないよな >>494
支配なんて書いてないし鉄の工房が近畿にある 上でも書いた通り
弥生時代終末期(200年前後)の考古学的状況>>232
日中史書における大和と邪馬台国の関係>>399
当時、畿内を中心とするそれまでの排他的な領域を超えて全日本的な連帯が登場したことは疑いの余地はない
まともな学者は邪馬台国探しなどしていないが、
少なくとも『この時代の中心は畿内以外にあり得ず北部九州は特にその影響を強く受けている場所』であることが明らか
邪馬台国があるとするならそれは畿内となり、他の場所にそれを見出すことはほぼ不可能
今の段階は弥生終末期に現れた畿内の勢力の実態とその把握であって、九州中心説など議論の対象ですらない
いまだに40年も50年も前の感覚で一論争とやらがあると思ってるのだから、そもそもがズレているといえる >>451
そもそも九州の中小国なので最大級に大きく書いても(はっきり言えば版図は捏造)
あのような記述にしかならんわけ
台与の国王選びを手伝うほどの張政がワザと曖昧にした苦労を考えなされ(笑) 九州説方は単なる畿内説アンチに成り下がっているのがね。
昔何かの説明会で、「邪馬台国は畿内以外ならどこでもよい」なんて発言された先生がいたのがすべてを表していると思います。
私はそれで九州説を辞めたきっかになりました。 当初、纏向から大規模な弥生の遺跡が発掘されたときも、
学者は邪馬台国とは無関係な遺跡と言い切っていたからな。
ソレを邪馬台国畿内説のキャンペーンを張ったのは、
メディアや一部の学者達。
と言う事で、誠実な学者の皆さんが
活躍できる考古学界にするためにも、
悪の畿内説を我々の手で潰さなければいけないだろう。 >>492
そもそもの話「弥生時代の鉄器」を現実を無視して過大評価しているのが問題
それこそ60年前くらいの弥生時代の感覚で考えているのだから話にならないね
弥生時代の鉄器は稚拙な石器の代替品でしかない
富や先進の証拠でもなんでもない
弥生の鉄器の実態についての知識が全くないのが分かる
新しい知識を一切仕入れていないのだから論外と言える 纏向が邪馬台国なんていうのは、
そもそも吉野ヶ里で大規模な弥生の遺跡が
発掘された事に対する嫉妬から始まったもので、
そんな嫉妬心の塊の纏向学を、
邪馬台国畿内説なんて、
まともに取り合うべきモノではない。 >>501
晋の初代武帝の二年目で消息が途切れた国なんだからそんな国を想定したらいいだけだよ
消息不明になって次に表舞台に出てきたのは「西に66国平定したやったガハハ」と言う国だ >>497
中国人がそのエリアに来て様子を見ていた証拠にはなりますよ。
弥生時代中期の秤なんて中国との交易があった証拠ですし、貨泉も近くから出ていたりしますね。
そもそも河内の東側にある信貴山なんて元の祭神がシナツヒコですよ。名前のとおりで中国への港の意味です。 わかったわ、九州説は違う倭人伝を読んどるな、卑弥呼は鬼道となってないやつだろ?何処で売ってるんだ?作者は陳等となってないか >>503
まぁ実際の話ただの陰謀論者と大差ない
ただ因縁をつける事だけは熱心なのでその指摘に対する考察については説を補強する一助となるので全く無意味とは言わない
それこそ三角縁神獣鏡や、纏向遺跡の実態などについては見直すきっかけとなっている
その点に関しては役に立ってると言えるかもしれない >>501
纏向の年代測定が変わると全てのストーリーが崩れる
本州の中心地は出雲か吉備で畿内が中心になったのは4世紀前後かも知れない >>492
先入観と思い込みで語ってるのは貴方では?
客観的に見れば、記述が畿内とは程遠い事など容易に判断できるでしょうに >>511
そんな大層なもんじゃないだろ
纏向なんて半信半疑でしょ >>506
いつまで吉野ヶ里の話を。既に弥生時代の大規模な遺跡なら西日本各地にありますから。
山陰の妻木晩田遺跡なんて吉野ヶ里以上の規模だと言われてますし、近江の伊勢遺跡や出雲田和山遺跡なんて他に例を見ない遺跡もあります。
水田跡で最大級なら今は奈良盆地葛城地方です。 マイチン)害ザー75年後公開予定ワクチンデータ今年公開裁判所命 (2レス)
上下前次1-新
2: 01/09(日)17:28 ID:c8LBOUzi0(2/2) AAS
衆名乗り、犯行に及んでいたことが、13日新たに判明した。
亀岡容疑者は、いき氏の演説中に、「ふざけるな!」と叫び、長さ約50センチの棒で殴りかかろうとした。これを止めに入った運動員の男性(56歳)が、右腕を棒で殴られた。
目撃者によると、犯行の直前に、亀岡容疑者は「俺は学会の者だ」「学会をなめるな!」などと大声で叫んでいたという。
犯行時、創価学会男子部に所属していることを示す「創価班」のワッペンつきの青いブレザー
4: 11/02(火)22:20 ID:bzj9hnIyd(3/4) AAS
公明党は「創価学会婦人部」の意見を無視できない
このような理由が、集団的自衛権の行使を認めようという動きの背景にあるわ
けだが、実際にはどんな場面で集団自衛権を行使しようと考えているのか。そ
こが大き問題だが、僕が司会をしているBSの番組に、安保法制懇の中心メン
バーである北岡伸座長代理に来てもらって、くわしく聞きたいと思っている。
集団的自衛権の行使を認めると、なにが変わるのか。それは、日本が「戦争を
する国」になるということだ。戦後に作られた新憲法のもとで、日本はずっと
5: 11/02(火)22:22 ID:bzj9hnIyd(4/4) AAS
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レス検索(2件)
0063 名無しさん必死だな 2018/04/01 20:26:54
>>55
ちなみに日野は創価
聖教新聞でインタビュー受けてたし、福岡で地区部長やってる
ID:(63/268)
0070 さん必死だな 2018/04/02 08:27:08
>>63
創価というと、スクエニのCGデザイナー後藤宣広 そもそも、纏向は吉備に関連が深い、
特殊器台埴輪や、桃の種、犬の骨、
四道将軍の範囲に一致する外来土器の出土を持って、
纏向は御間城崇神の王都なんだなと分からなきゃいけないのに、
邪馬台国畿内説とか言っちゃう時点で、
考古学の素養が無い事がさらけ出されちゃってる。
そいうところがもう許されない訳です。 >>491
魏使が上陸したと考えられる呼子から40kmで伊都GC付近
1里80mとして丁度500里だから北部九州でも短里だよ
更に8km(100里)で糸島峠付近だから
伊都GC付近と糸島峠付近の間が伊都国だ
糸島峠付近から先が奴国だね。 >>514
そんなことを言ってんじゃないよ。
吉野ヶ里の発掘に嫉妬した事から
纏向の畿内説が始まったと
言っているのはつい最近だからな。 >>512
貴方がまともに文献を読んでいない証拠ですね。少なくとも北部九州にあるのは倭人の国では奴国だとわかるはずです。
廣志を読むと畿内しかないのもわか
りますね。 >>508
日本に「シナ」の音が伝わったのは仏教伝来以後なのでは もし畿内なら、畿内から伊都國という一大率を置く国までかなり広範囲の地域を支配しているのに、
狗奴国ごときに勝てなくて、魏に貢物を持って行かないと勝てないという、どう考えてもおかしい設定になってしまう。
よって、邪馬台国は九州北部の広くない領域で、熊本か鹿児島辺りの狗奴国に苦戦して、魏の権威を利用して狗奴国を倒そうとしたという他ない。
畿内説なんて300%あり得ない。 近つ飛鳥、これが河内はおそらく正しい。大倭が巻向、大和と飛鳥百襲姫。箸墓は卑弥呼の墓以外にあり得ないのだよ、大市は太一の偽称、初代天皇太一の墓であり、その後天某になりあまのタリシヒコまでは続いていたんだろ、タリシヒコの使いは、夜は祭祀を行い昼は弟に任せるとある。彦巫女は継続してる。 >>522
奴国が北部九州なのに伊都国は出雲という主張なのか >>520
まあ吉野ヶ里の復元については私も協力した側でしたが。畿内には池上曽根や鍵唐古、河内平野にも注目すべき遺跡が沢山あらはましたからね。
別に嫉妬なんてする理由も無いですね、必要以上に騒いだのはメディアの方ですよ。 日本の古代史に造詣が深い考古学者なら、
秒で纏向は吉備出身の豪族、
御間城崇神朝の王都だと分かるはずだ。
そこが畿内説の学者マスゴミ連中には
無いわけですよ。
そこがもう許されない訳。
国民の80%も、邪馬台国畿内説は支持していないのは、
国民全体の認識としてソレがあるからだ。
邪馬台国畿内説マジで恥ずかしいから。 新しい発見など無意味
>>232に示した当時の考古学的な状況は一遺跡の話ではなく全日本的な劇的な変化を示してる
それまで排他的で各地域別々のクニが分立していた状態が畿内を中心とした連帯の上で斉一性を持ち出している状態を示している
畿内にこの時期に全国的な中心が表れており、他の地域はそれに連動する形をとっており他の中心地など見いだせない
なので仮にこれから纏向遺跡の倍の規模の遺跡がどこぞに出現したところで何の意味もない
「まだ見ぬ遺跡が出れば全てがひっくり返るはずだ」などという感覚自体が何の知識も持ち合わせていないことの証拠と言える 当時からしたら昔の事記した史料じゃなくリアルタイムの資料
邪馬臺国にせよ邪馬壹国にせよ敵に回ったらそれを参考に戦争するんだから
距離や方角に間違いや誇張が許されるわけない 第3者から邪馬台国論争見ると中国語で書かれた魏志倭人伝なのに、不思議な事に中国史から読み解くや中国人学者の見解が皆無の件w
これ例えると古事記や日本書記を外国人があれこれ議論するみたいで意味ないと思う 廣志を読んだ奴がいるらしいぞ
一体何をどう読んだのだろう >>528
そうです、伊都は本来は出雲の事で北部九州にあるのは海側にある出張所という認識です。
また出雲大社自体も本来は杵築神社であり、本来は丹波亀岡にある出雲大神宮の方が古いでしょう。
なので魏志倭人伝は北部九州へ渡る話と資料が混同されているという意見です。 吉野ヶ里で弥生の大規模な遺跡が発掘された、
マスコミが邪馬台国だと騒ぎ立てた。
じゃあ畿内は纏向が四道将軍の
御肇國天皇崇神朝の王都です、
桃太郎伝説ですー
ってやりゃあ良かったのに、
イヤ、纏向が邪馬台国やー
とかやっちゃったわけ。
全くセンスゼロ、日本の古代史の素養が無い事が、
露呈しちゃったわけ。 馬具?関係ない、呉の援軍の鏡があったとかもあっただろ、司馬懿に敗れ逃げて来た者もおるだろ >>533
単に頭が固くて新しい情報に付いていけない糞爺w 金印は宝物としてどこかに移されてるかもしれないな
出るとしたら銀印の方がありそうか 『広志』では、伊都國の南に行くと、また邪馬嘉国があると書いて、これより北の地域は詳細を書くことができるとあり、
続けて、「次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也」とあり、
伊邪分國は、屋久島のことである。
これは『隋書流求國伝』に小野妹子に中国人が「これはどこの国のものですか?」と聞いたら、小野妹子が「それは夷邪久國のものです」と答えたのと同じ。
『広志』を読めば、屋久島のことも書かれており、邪馬台国はどう考えても500%九州である。 >>533
だから邪馬臺国というのは晋の初代武帝の時に消息不明になる国だよね
消息不明になってから100年以上後に
「西に66国平定してやったガハハ」と連絡してきたのが
考古学的に明らかな畿内勢力なわけだ >>539
吉野ヶ里は騒がれた方だ
滋賀の伊勢遺跡なんて全く騒がれない
あれがなんなのか興味あるけどな >>538
出雲は大国主命の王都。
これはもう銅鐸の時代編年と分布密度の分析から
結論が出ちゃってる事なんで、
出雲が伊都国など、
全くお話にならない事です。 >>535
中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官と書いており、魏の時代は刺史は行政官だったのに、監察官として書いているので、この部分の竹簡が書かれたのは前漢代であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった、
「南至投馬国」以降の部分は、ただの付け足しとし、邪馬台国は九州であると断言した。 >>538
伊都国の比定がアクロバット過ぎてついて行ける人少なそう
せめて出雲は投馬国じゃだめなのか そもそも考古学の発展によって日本全国に大型の遺跡が多数見つかっている
当時最大の水田を持つ中西遺跡
大型の環濠集落である唐子鍵
当時の最大の規模を有する妻木晩田遺跡
九州に特別突出した物があるわけではなくそれ以上の大型の遺跡は多数見つかっている
九州の最盛期は弥生時代中期で卑弥呼の時代の150年は前の段階
終末期の九州にはむしろ鏡は古い時代の鏡片しか見つからず、絹に至っては激減の1遺跡で麻布よりも質の悪い物しか見つからない
集落もこれといった大型のものもない
むしろ邪馬台国の時代の考古学的な九州は明確な衰退期と言える
そのうえで北部九州は畿内から広まる土器や祭祀に塗りつぶされていく状態となりその有様は時代を追うごとに強くなる
九州に独立王朝など見出す要素は皆無
九州を中心地と考える要素は「九州は先進で最も栄えていたはずだ」という思い込み以外のものは何もない 箸墓を始まりとして大仙まで巨大前方後円墳は確実に目の前の実在として存在するんだよ。九州説は、違う倭人伝を読んどるな。 何故馬具で大騒ぎするのかよくわからないよね、硯や伊勢遺跡の煉瓦技術のように過去の年代比定に全く合わない発見例なんて普通にある。
九州説の連中はいつまでたっても頭が固い。
中国にしたって数百年単位で過去の年代比定と変わる事なんてあるのだからな。 大国主命が、スクナビコナと共に国造りを始め、
後に大物主命との協力に切り替えたという
その記紀の記述が、銅鐸の時代編年と分布密度にハッキリ現れちゃってる訳。
この切り替わった時代が、
紀元1世紀の話になる。
記紀の記録が、記紀1世紀から、
かなりの精度で記録されていることが分かった訳よ。 台湾大学の教授、周徳望教授は、古代中国の里数は中国内のものはある程度正確だが、
外国に関する里数は、現地の案内人に影響される為、全て疑うべきで、例えば梁書における中国→日本までの里数をそのまま当てはめてしまうと、メキシコまで行ってしまうので、魏志倭人伝の里数も無視して良いという。
その上で、「倭国に牛馬なし」との記述を見て、牛馬が無ければ外国との貿易品の運搬が相当に大変であったはずであり、
また馬がいないのであるから、人が移動するのも相当に大変であったはずで、
邪馬台国を伊都国から遠くに置くことは考えられないと話し、邪馬台国は九州であると結論づけている 伊都国の場所に疑問を持つのは良い事
俺も博多近辺で確信を持ってるわけではない
対馬国一支国は確実で末盧国までは間違いは無いと思うけど >>549
卑弥呼の時代って倭国大乱でボロボロになってる時代だろ
157年倭面土国帥升は朝貢の際、生口160人を献上してるが
卑弥呼の女王国は生口10人布少々だけだぞ
むっちゃ小規模勢力だわ >>548
そうだろう、私も最近ここで九州説の廣志の発言を見て再認識して思いついた位だから。
でも傍国の存在がどう見ても畿内の位置関係が一番はまる。シマ国が近つ飛鳥、巳百志が三輪山周辺、伊邪が伊賀か伊勢と連続して説明可能だから。 >>555
しかも、南にいる狗奴国ごときを倒せなくて、魏に朝貢(冊封)して、狗奴国を倒そうとするほどのザコ国家。
狗奴国ごときも倒せなくて魏の権威を利用するほど、ザコ国家なのに、畿内から九州までを支配する超大国なわけがない。 我々一般国民の認識は、
既に、大国主命がスクナビコナや大国主命と共に、
国造りを行った事が、
銅鐸の分析により明らかになったなと。
そのレベルにまで達している訳よ。
考古学者もマスゴミも、
あまり一般人を舐めないほうがいい。 出雲の国は大阪にあったかもねえ
色々謎が多い地域だよ
島根から黄泉に逃れた人々、これが出雲なんじゃないのかな?
出雲と在地の人々が協力してできたのが芦原中津国なんじゃないの?
なにわは芦垣、芦が散るなにわ
散った芦は何処に逃れたのか?
芦は茅、渟は留める
茅渟は意味深な言葉 邪馬台国を当時の中国の発音で読むとヤマトに近い音になるらしいね
大和朝廷の大元が邪馬台国で、奈良にあったと思う >>455
魏志倭人伝を完全肯定するなら
邪馬台国は帯方から南に1万2千里つまり韓国のソウルの辺りから南に約5000kmと書いてるので
邪馬台国はパプアニューギニアにあったと主張しなきゃいけないよ >>554
魏使の上陸地点を呼子付近とし
呼子を起点して短里(1里80m)で考えると
東松浦半島から二丈までが末盧国
糸島市の南東部が伊都国
早良区南部、那珂川市、春日市、大野城市、筑紫野市方面が奴国
早良区北部、城南区が不弥国
でドンピシャ
魏志倭人伝の記述はかなり正確だ。 荒魂は本来の地と別の場所に祀るという風習がある
三輪山の大物主という名の八咫の鏡も伊勢に祀られている
出雲の神は元々何処にいたのか? 出雲の国の大国主命は
色男を武器に勢力を拡大していった訳よ。
一方、大物主命は文字通り、
イチモツ大物主命として、
勢力を拡大していった部族になる。
全く魏志倭人伝につながる要素はないし、
記紀の国造りのパートが、
考古学の発掘と一致する事が明らかになっている。 >>555
後漢書では、倭面土国帥升ではなく、倭国王帥升な。
倭面土国と書かれるのは、ずっと後世の話だ。
日本が大和(やまと)と名乗るようになっていた唐の時代で、
『翰苑』の中で後漢書を引用した部分に書かれている。
つまり唐の時代の常識で書いた結果だ。
今日の日本人が、漢や唐のことをまとめて「中国」というのと同じ。 >>563
対馬国一支国末盧国と伊都国では記述内容が違うでしょ
俺はあそこで資料が途切れてると思ってる 女王国は宗教国だよ、倭国大乱や、第二次世界大戦中に布教が拡がることはない。戦後混乱期に拡がるんだよ、ナチスでさえそうだろ。 これほど調べても分からないんだから大宰府が邪馬台国じゃないか説がしっくり来てる
大宰府は調査出来ないだろうしな 大国主って芦原醜男って名前なんだよな
醜い神の話は道祖神祭のストーリーに出てくる
長野の道祖神祭のストーリーは、
結びの神である醜い八衢彦と八衢姫が結ばれて男の子が生まれた。新しい宮を建てる。宮を守る人々が竹でしばかれて宮に火を入れ燃やす。
むすびの神である醜い八衢彦と八衢姫から生まれた男の子
これが本当の大国主なんじゃないの
むすびの神はカミムスビ、神魂のイザナミさんかもねえ >>569
俺の大阪説と同じだな
大阪城の下に全部埋まってる 倭人は「定期的に」、中国に貢物を持ってくるとの記述がある。
卑弥呼の時代は「倭国に牛馬なし」なのに、畿内から大阪→兵庫→岡山→広島→山口→関門海峡→伊都國→壱岐→対馬→狗邪韓国→楽浪郡や帯方郡(今の平壌あたり)
このクソ遠い行程を牛馬のない倭人が奈良県から「定期的に」に貢物を持ったいけるわけがない。
どう考えても伊都國からかなり近いところしか有り得ない。 >>567
どこが違うの?
俺は投馬国と邪馬台国の記述が後から別資料を差し込んだものだと考えてる。 >>573
勿論そこも別資料だけど対馬国一支国末盧国は地形や住民の生活の様子が
書かれてるのに対し伊都国にはそれが無い >>574
それ縄文時代だしそれでもあそこは岬で沈んでない 出雲地方の伝承によれば出雲の姫神の幸神と東から来て文物をもたらしたクナトの神の子がサルタヒコ
道饗祭の神さまは八衢彦、八衢姫、クナト
道敷大神は黄泉に逃れたイザナミ
サルはアイヌ語で芦原の意
大国主、芦原醜男、サルタヒコは同じなんじゃないのかな?
茅はかや、すすき、芦のこと
時代は違うが茅渟王の妻、吉備姫王の墓の周辺から猿石が複数見つかっていることにも関係するかもねえ >>476
ほお中国人がこんな古文書も書いてるのか >>577
猿田彦はスクナビコナの方が可能性が高いし、
大国主命はかなりの男前で、
色男を前提に勢力を拡大したので、
猿などという名前にはなりようがない。 倭人伝と廣志と比較して、奴国なんて二万戸もの国が廣志には邪馬台国の前に存在しない。
これは別ルートの可能性が高いだろう。しかも廣志には末裔国も登場しない。
またヤマイチ国には女百国なんで文言があり、三輪山辺りに比定した巳百支国なんて百襲媛と蛇の化身とされた大物主を連想してしまう。
記紀の編纂者は知っていて漢字を充てたり逸話にしたのではないか?
また出雲の田和山遺跡からは硯が出ており、墨書土器が伊勢の手前、松坂辺りから出土例が多いからな。
つまり出雲地方から伊勢へ向かう話が廣志には書かれている。考古学の出土品でもそれは証明できる。 >>580
大阪城の直ぐ傍に縄文時代から人が住んでた痕跡がある 学会的には畿内説確定だから、最近の歴史教科書では纏向遺跡の発掘結果より、邪馬台国畿内説が有力と記載。 >>572
魏志と後漢書を読めば、邪馬台と奈良の関係が解る。
漢の時代は邪馬台が配下の奴国の名で朝貢していたと判る。
魏の時代は、漢末の倭国大乱で邪馬台を下した謎の勢力「大倭(ダイワ)」
が博多港を支配(伊都国=糸島に置いた代官「一大率」が担当)し
軍門に下した邪馬台の名で朝貢している。
この倭国大乱、邪馬台内の内戦ではなく列島の大乱と読み取れ、
九州邪馬台を奈良の大倭が下したということで間違いないだろう。
( >>331に詳述) >>582
貝取るために住んでたんだろう
それだけのこと
周りは海なのに他の国との比定がない >>494
畿内は古墳一基から鉄剣が十数本見つかったりするよ >>584
それは全くの間違い妄想であり、
107年には奴国に代わって倭国の覇権を握り、
倭面土国王師升として漢に、朝貢している。 大型古墳の時代のことが載ってる「倭人伝」を読んでる奴がいるようだな 畿内説っていうのもまやかしなんだよね
奈良説かヤマト説が正しいんじゃないか?
結局は畿内の歴史を隠蔽する方弁だろう >>590
卑弥呼のいた時代の3世紀の
椿井大塚山古墳から見つかってる >>588
バカw >>566読んでから書き込め。 やっぱあれだ
南を東に読む大問題を無視して色々屁理屈こねたって馬鹿みたいにしか見えんw
考古学者の多くがそんなものを支持してるなら考古学者全員クビにしていいわw 刀子は日常的な用途のナイフ・小刀のことで、出土数も多い。その分布は、倭人の鉄の使用状況をよく示すと思われる。
西日本の博物館に行くと、長いさびた鉄の刀に混じって短い10−20cm位の鉄の棒が並んでいるが、これはたいてい
刀子である。刀子も、畿内より九州から圧倒的に多く出土する。福岡県では210本も出土しているが、奈良県では一本
も出土していない。
上記のような考古学上の成果に対し、邪馬台国=畿内説を唱える学者たちの大半は沈黙しているが、中には良心的な学者
もいて、橿原考古学研究所の寺沢薫氏などはすなおにこれらの事実は認めている。「鉄器が、弥生時代を通じて九州地方
で多く出土する事実は変わらない、鉄器は腐食すると言っても、近畿だけが錆びてなくなることは無い。」「(弥生時代
後半に)近畿勢力が出雲の鉄生産ルートを掌握していたとか、(近畿勢力が)九州とは独自に鉄入手ルートや外交ルート
を持っていたというような近畿勢の巻き返しにはとうてい同調できない。あまりにも恣意的である。」
(日本の歴史02「王権誕生」2002年講談社刊) >>553
これが合理的な解釈だろう
降り立った地の近場だとすれば大宰府がしっくり来る >>584
そんな超大国が、狗奴国ごときザコ国家に苦しんで、魏に朝貢(冊封)しに行くわけがない。 九州説は魏志倭人伝どころか
考古学や科学調査や魏の歴史まで否定しないと成り立たない説 >>305
この説って九州説では一般的なのかな?
原秀三郎という歴史学者もこういう説を唱えているけど魏志倭人伝、記紀、考古学的成果からみて一番納得できる説なんだよなあ
神功皇后が征伐した九州の田油津媛なんてまさに卑弥呼の後裔といえる存在だろ 文字についてだけど、畿内の弥生遺跡からそれまでは砥石と考えられていた石器が硯だと判明している
当時の日本に文字はないので文字を使うという事はそのまま大陸との関係が深まったことを意味すると言えるだろう
余談になるがこの硯の調査をしたのは考古学者では珍しく九州説的な立場をとる柳田康雄氏
石製の硯、150例以上 - 弥生時代から文字文化浸透か/国学院大の柳田客員教授「纏向学」紀要で発表
https://www.nara-np.co.jp/news/20200424090514.html >>598
鉄器なら畿内では古墳から大量に見つかってる >>600
降り立った力水行30日陸行1月で邪馬台国と書いてるよ 居住地跡から鉄鏃が大量に見つからないと何とも言えない >>606
文字のない倭人に聞いて書いてるだけだしな 中国人の学者が1800年前の日本について書かれた読んでも無駄だよ。
連中が日本の古い伝承や旧地名を知ってる訳もないからな。 >>608
やまとと聞いて邪馬台と表記したんだろうね >>578
そういう屁理屈以下のレスでお前のバカさ加減が解るんだが。 >>602
そもそも魏志倭人伝を鵜呑みにし過ぎなんだよ。
邪馬台国の人口数十万人(7万戸)が本当なら
世界有数の巨大国家。 >>612
隋書には大和は魏志にある邪馬台の事と書いてある >>595
それは間違いだ。
卑弥呼の時代に流通していなかった事が確定している
三角縁神獣鏡が出ちゃっている以上、
椿井大塚古墳は、
4世紀の古墳で間違いないだろう。 >>614
だから俺は当時の日本の人口だと考える
ヤマトの国だ >>615
400年もあとに書かれたものを根拠にするのはさすがに厳しい >>601
日本の歴史を考えろ。
中央政権にとって、常に九州南部は頭痛の種だ。
南方に独自の交易路を持っているから、つおい! ヤマタイコクなるものが存在したか分からない。
魏志倭人伝では、邪馬壱國が1回で、女王國が5回。
『魏略』でも、女國1回、女王國1回。
『広志』では、邪馬嘉國1回、女國1回。
つまり、3つの資料全てで邪馬台国が存在しない。
魏志倭人伝は『魏略』をパクっているのは明らか。
なぜなら、魏略曰く〜というフレーズが登場するから。
ヤマタイコクなんて、ただのこじつけで、邪馬壱國か邪馬嘉國の方が正しい。
もしくは、女國か女王國が正しい。 近畿の弥生遺跡てのはどちらかといえば隷属する側の集落ばかりで戦乱の跡はない
近畿の弥生銅鐸には神殿に跪く者の絵や武器でしばかれる絵も描かれており魏志に書かれる大倭を恐る住民の姿がありありと描かれている。
倭国大乱の痕跡として殺傷された遺体が出るのは北九州と山陰のみ
隋書には邪馬臺の位置は魏の時代と同じ九州と書かれている >>9
大和王権と魏じゃ時代が違うだろw
神武東征で九州から近畿を征伐したんだよw >>618
400年過ぎて倭国の正確な知識が判明したから。
卑弥呼の後の倭の五王、遣隋使遣隋使の交流の成果。 >>605
それは間違った情報だ。
黒塚も椿井も古墳時代の遺跡だぞ。 >>620
それでいい
その女王の住処は大宰府がしっくり来てる >>622
最新の鉄器持ってた九州の国の方が人口多い近畿の国より強いからなw >>621
「九州と近畿の地名が同じなので同じ場所」みたいな話だな >>625
鉄の工房跡があるのに鉄製品が手に入らないなんて有り得ない
今後も見つかるでしょう >>618
しかも、隋書には「邪馬臺」は「邪靡堆」のなまりであると書いてる。
「邪」はまず、「や」と発音せず、「シェイ」である。
それを前提に、
・邪馬台→シェイマータイ
・邪靡堆→シェイミードゥイ
つまり、
「シェイミードゥイだって?じゃあ魏志倭人伝のシェイマータイはちょっと違うんじゃね?シェイミードゥイが近いだろ」って思って、漢字を変えた。 >>628
そんな事思ってないんだけど
中国名が倭で日本名がヤマト 史書の話をするなら最初から邪馬台国は大和と明記されてる
九州など全く関係ない
『所在地』
@アメノタリシヒコは用明天皇(新唐書)
Aアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書)
A用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後の天皇なので都は大和(新唐書)
↓
邪馬台国は大和
『一大卒』
@一大卒は中国の刺史と同じ(魏志)
Aアメノタリシヒコは属国各地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書)
↓
一大卒のいるところは大和の政権の属国
『日本と倭』
@日本の皇統は神武天皇から当時の桓武天皇まで断絶なく継続(新唐書)
A日本は小国なりとも王も家臣もずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史)
B改称については日中の史書共に登場する粟田真人が国号を誤解された件が記載される(日本書紀)
C白村江の戦いの当事者の唐が皇統がずっと続いていると記載(新唐書以降)
Dアメノタリシヒコ(用明天皇)は白村江の前の天皇だがその後の系譜に連なるものとして記載されてる(新唐書以降)
↓
改称は壬申の乱後の日本号の正式採用の事
九州の邪馬台国も九州王朝も最初から存在しない >>176
八幡明神ってなんぞ
八幡菩薩ならわかるが
明神社は平家だろ
神田明神しらんのか
つまり鎌倉幕府も足利幕府も江戸幕府もしらんわけね
了解
金氏とか鄭氏の方が詳しそう
>>180
じゃ、織田信長も統一できなかったんだね?
162 ニューノーマルの名無しさん[] 2022/02/18(金) 21:40:39.45 ID:q0NtCb4W0
日本の軍事統一は、信長が最初だろ?
大和朝廷ってのは、各地の豪族集めて
源氏物語にあるような後宮性事やってたんだぞ?
武人嫌いだから、京都に馬入れるなよ、って、牛の車でwww
推古天皇だったはずのwww
アマノタリシヒコの後宮だって
全国の豪族から集った女給700人とかだぞ?
日本人治めるやめに、日本の天皇に軍事力必要かよ?
軍事は、自衛隊や同盟国の将軍に任せるだけなんだよwww >>596
その推測は間違っている。
倭面土国王と書かれた後漢書の方が古い。 隋書によると、「倭国」の版図は東西5ヶ月南北3ヶ月の超大国なんだな
或いはこの1ヶ月の旅程というのは今の我々が想像するほど長距離ではないということか >>632
全部魏志倭人伝より後の時代の話だね
魏書は一個しかない
最後だと矛盾しちゃってるから。
> この「アメノタリシヒコ」は今現在確定した説はありません。。。
推古天皇以外に、用明天皇、厩戸皇子(聖徳太子)、蘇我馬子、蘇我入鹿
と、この辺りが有力とされていますが、どれもはっきりとした確証がありませんorz
てことで確定ひとつもしとらんよ >>635
彦根と淡路島に国内最大級の鉄の工房跡があるのよ
しかも淀川は古くからの交易ルート >>455
逆
九州説が結論ありきだから九州に邪馬台国を押し込めるために放射説みたいなトンチンカンな解釈をしたり
九州を一周水行する説を用いる >>613
お前の時代錯誤思考に真面なレスなどする気もねえわ >>616
三角縁神獣鏡には景初3年(239年)と年号が入っているものもあるので
その辺りに流通していた鏡だね
もっと細かく分類されていて出てくる古墳の年代測定にも使われている >>605
ワカタケル鉄剣は上毛国行田から出土してる
天皇の名前書いた鉄剣はこれだけね
てことをお前の理論でいうと、
グンマーが邪馬台国になるんだが。 >>623
だから東遷なんて無いんだっての。
東遷前を神代にしている。つまり西の権威を滅ぼしたということ。
東に行ったのは、権威だけ。
歴史的権威九州邪馬台(やまと)を奈良の大倭(ダイワ)が滅ぼし、その権威を継いで「大倭(やまと)」になったんだわ。 >>642
群馬の王国も邪馬台国に属してたのかもね
統属してた伊都国のように しらない
認めない
は説でも何でもない
これを何かの説だと思って平気で言ってくるようなものを相手にする気はない >>630
倭人がシェイマータイなんて言わないだろ
やまとを邪馬台と音写したんだよ
それと邪靡堆は他の史書では邪摩堆となってるから
邪摩堆の誤記ね >>642
ワカタケルは雄略天皇とされてるから
それは5世紀のものだね 1532年『四海華夷総図』、1140年『古今華夷総図』でも、倭と日本は別々の島で描かれている。
すなわち、中国人は16世紀になっても倭人(九州弁)と日本人(関西弁)は別々だと認識していたということ。
それは19世紀に琉球を訪れたペリーらが、「琉球語は日本語の亜種である」と書いたのと似てる。 三国魏より後漢の方が古い王朝だが
そういう意味じゃないよな 岩波文庫に載ってる魏志も後漢書もたぶん宋版だが
そういう意味でもないよな >>648
本当は、『広志』の通り邪馬嘉か、魏志倭人伝の通り邪馬一と発音したのだろう。
ところが、608年に裴世清が奈良県に行くと、「邪摩堆と発音してる。なんか違う」と思って、漢字を2字変えた。 関西説を信じてるのは関西とその近県だけ
これは皮肉にも維新の得票率とそっくり
このことを維新奇人伝と呼ぶ
>近畿派呆然? 「邪馬台国はどこ」意識調査で「九州説」大勝の謎 Jタウン研究所
>政党の得票率、あなたの市町村は?:日本経済新聞 邪馬台国とか卑弥呼の歴史的存在って万位一世のスタンスの保守にゃ都合が悪いんよなw >>654
隋書じゃ大和は魏志にある邪馬臺と書いてあるので
魏志倭人伝にも邪馬臺と書いてあったんだろ 邪馬台国とか古墳時代とか、日本の伝統文化や美術とはほとんど関係ない歴史にばかり興味がある奴は全く理解できない
例えば文学・歌舞音曲・着物・刀剣・甲冑・建築・絵画・金属工芸・彫刻とか明らかに日本風の面白いのが出てくるのは平安時代以降なのに グンマーの大王、豊城入彦命は、豊国の豊がついてるのだが、山国の上毛下毛と関係あるのか? 裴世清は本当に今の奈良県まで連れて行かれたのだろうか >>614
何度も何度も教えてあげてる事なんだけど
「有」と「可」の違いだから
九州説を否定するために戸数の件を持ち出す奴は
その程度の事すら理解できない低能だと分かる >>615
嘘を吐くなよ朝鮮人!
隋書には大和は魏志にある邪馬台の事となんてかかれていないよw >>657
江戸幕府も日本だし明治政府も日本みたいなものかもしれない 邪馬台国は北部九州
魏志倭人伝には邪馬台国は鉄を道具に使っており絹も生産していると書いてる
北九州と近畿では鉄製品の発掘数が100倍くらい北九州の方が多い
絹にいたっては近畿では発掘すらされてない >>657
魏志倭人伝では、邪馬壹國である。
陳寿がパクった『広志』でも、邪馬嘉である。
したがって、それはこじつけにすぎない。
隋書より後に書かれた中国の正史『旧唐書』では、
・旧唐書の「日本伝」には、日本は倭国の別種で、日本が倭国を併合したとも言われていると書いてる。
・旧唐書の「倭国伝」では、倭国はいにしえの倭奴国のことであると書いている。
つまり、卑弥呼の倭国とヤマト王権は別の存在である。 >>661
漢文を全く読めない人は邪馬台国論争に参加しないで欲しいよね。 https://dotup.org/uploda/dotup.org2727201.jpg
つべの古代語の動画をソースにざくっとまとめると
倭語の祖先はこんな風に移動してる可能性があるそうだが
紀元前1000年頃には九州の地名が近畿にコピペされてても不思議は無さそうだなと思った >>636
>東西5ヶ月南北3ヶ月の超大国
これが事実なら倭国はユーラシア大陸超級の大国ですねw
普通に考えて東西5ヶ月南北3ヶ月は東西5ヶ日南北3ヶ日の誤記ですね。 で、なんで、
⛩始皇帝の神社が🇯🇵日本にあるの?中国ではなくて 夫余8万戸
高句麗3万戸
東沃沮5千戸
濊2万戸
馬韓十余万戸 >>670
それはそれで大変な韋駄天か、
でなければ物凄く小さな版図だということになる 日 = 阿度部磯良丸の旗印
私は日の神の子孫として日に向かって(アヘキミに楯突いて)戦うのはよくない
アヘ皇女の在位時に式年遷宮が行われ
文武天皇の朝賀の儀に関する記述において、「正月元旦に儀式会場の飾りつけに『日像』の旗を掲げた
「日の丸」の幟を用いること
老中阿部正弘により布告された
やはり下痢三、クソタレシヒコ 裴世清は筑紫から難波津まで約500kmに約2ヶ月かかってる
紀貫之は土佐から和泉の灘まで約250kmを39日かけて移動してる 畿内説が有力なんてのは2020年以前の話だよ
IntCal20が全てを覆してしまった
俺もこの前までは畿内説だったがこれ以後九州説に転んだわ 畿内説を否定しても、九州説が有力になるわけではない。
九州説の比定地から考古学的発掘成果が出ないのでは話にならない。 >>662
仮に嘘をつくにしても
ちょっと調べればすぐにわかるような嘘なんてつかないよ >>666
しかも中国語の7割は日本語、医学薬学用語に至っては9割以上が日本語だっていう んー、誰だろうね
🇯🇵日本人に漢字を教えたのは。
普通に考えれば倭人なんだろうけど。 >>665
邪馬壹國は12世紀に魏志倭人伝に生じた誤記
それ以前の魏志を引き写して書いた倭人伝はだいたい邪馬臺國という表記 >>676
仮にIntcal20の修正がなかったとしても、
纏向が邪馬台国なる物証は全く無かった。 考古学会的にintcal20のインパクトてどんなもんなの?
全く無風で影響皆無なのか、誰も興味がないから完全無視なのかどっち 近畿説なんてそもそもが破綻していて
神武は筑紫にいたと海外に吹聴した史料があるにもかかわらず
九州王朝を容認できない上に近畿3世紀以前の物証でもある銅鐸を続日本紀以降オーパーツとして記述してしまうと言う前史完全否定倭の別種を証明してしまってるからな。
ついでに700年代奈良を大倭と記されるが大倭とは邪馬臺から市へ派遣されるどさ回り士官のことでその意味も知らず国名にする辺りが近畿の土人らしい まだ諦めないのか、魏志倭人伝は中国人が読むために書かれた物で九州の為に書かれたもんじゃあ
ないの、九州説の倭人伝には卑弥呼は鬼道となってないのか?何処の読み物だ、中華のインテリが読み『おい陳寿、卑弥呼の鬼道とはなんだよ?。』なんて訊かないの。九州には鬼道の痕跡、その後も続く或いは新たに生まれた所がないでしょ、九州説は終了です。 >>680
現代中国語の話とごちゃ混ぜにするなよなw >>661
それぞれ何人位よ
そこを誤魔化すからダメなのよ
個人的には陳寿は書き写してるんだし元記事を書いた人は別だろうと思ってるけど >>639
俺は九州説だけど放射説や九州を一周水行する説なんて否定してる
俺の考えはシンプルで里数は帯方郡から伊都国、奴国までで12000里が終わり
投馬国、邪馬台国は帯方郡からの日数の説明で同じ行程を二度距離と時間で説明してるってこと。 >>682
嘘はいけません
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。 >>688
>それぞれ何人位よ
何が?
>そこを誤魔化すからダメなのよ
そことは何?
>個人的には陳寿は書き写してるんだし元記事を書いた人は別だろうと思ってるけど
そういう事
ぶっちゃければ元記事を書いた人の感想みたいなもんでもある
だから戸数を理由に九州説を否定するのは馬鹿だけって事だよ マツラから200キロだろうが40キロだろうが呉王扶差だろうが正北低新羅だろうが、卑弥呼は鬼道なんだよ。鬼道が芽生えたであろう場所が邪馬薹女王の都とする所でしょ、畿内説にも色々といるでしょ、その1人として箸墓が卑弥呼の墓以外にあり得ず、前方後円墳は道教の象徴であり、皇帝曹叡から我甚哀汝と称賛され親魏倭王を戴いた列島最初の女王は、張魯の娘張h瑛である。と言っとるのだよ。 >>688
俺が変わりに「有」と「可」の違いに付いて説明してあげるね
「有」が付くのは確認された数字、「可」が付くのは推測した数字
「有」が付くのは自分が体験して見たものだな
「可」が付くのは何らかの情報を基に算出した数字で全てを確認したのではないので間違ってる可能性もある。 >>691
あの数は九州だけじゃおかしいだろと言ってるのに都合の悪い事をそうやって誤魔化してるからダメなのよ 中国は海洋民族はない
なぜ海洋国家としての歴史を封殺するのか
多くの遺跡や伝説、言葉が残っているのに
完全に無視されている >>693
都合のいい解釈で構わないと言ってるんでしょ
それじゃ納得されないよ >>673
日の行程は最大40kmくらいだから
東西200km、南北120kmかな >>695
誤魔化してるのではなく、お前の質問の仕方がふわっとしすぎて理解できないんだよ
お前の文章力が低すぎるのが原因だ
お前こそ誤魔化して逃げるつもりだろうにwww >>695
>あの数は九州だけじゃおかしいだろと言ってるのに
白髪三千丈
怒髪天を衝く
中国の事だから、数字は大げさだと考えるのが自然なんだわ
おかしくて当たり前 >>697
お前が馬鹿だから納得したくないだけだろ >>699
出てる数だけで14万戸余り
まだまだ国はあるのにあまりにも過大でしょ
そこがおかしいと言ってるのに都合よく解釈して構わないってのは納得されないよ 邪馬台国は、邪魔な馬のいる台地の国から来たんだよね。 >>702
誇張してるから実数ははるかに少ないだろう
という考えで十分なんだが
過大だと考えるのなら、畿内説でも過大だろうにwww
お前に質問
当時の日本に戸籍のようなものが存在してたとでも思ってる?www
14万戸も誰が管理できたんだろうな?www
>>703
たくさんwww >>695
対馬国・・・1000戸
一大国・・・3000家
末盧国・・・4000戸
伊都国・・・1000戸
不弥国・・・1000家
合計10000戸・・・平均2000戸
傍国20か国・・・1国2000戸として20か国で40000戸
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、不弥国、傍国20か国の合計で50000戸
これに奴国の20000戸を加え70000戸
邪馬台国の可7000戸はこんな感じの計算だな。 オレ関東人だよ。しかもど真ん中皇居が横にあったよ。 >>702
14万戸余りは邪馬台国の人口を二重にカウントしてるな。 俺だって戸数を勘定したなんて思ってないけど九州説を支持してた頃も
何故過大な数字になったかは考えたよ
それを都合の悪い事はすっ飛ばして考えろってのは無理
まだ書き間違いをしたって理由の方がましだよ ジャップは古代から虚言、捏造、文書改竄の総合商社のような民族だから
歴史が胡散臭いことこの上ない。
特にウヨ史観の入り込みやすい古代史は欧米のジャパノロジー学者達を国が招聘し
その曇りなき目で編纂してもらった正史を奉る形にしたほうがいいよほんと。 >>689
>投馬国、邪馬台国は帯方郡からの日数の説明で同じ行程を二度距離と時間で説明してる
これも帯方郡を起点とした放射説
伊都国を起点とした放射説と違うだけ
さらに伊都国を起点とした放射説はまだ「郡の使者が往来し、常駐する場所」を根拠としているが
帯方郡を起点とした放射説はその根拠すらない
そして朝鮮半島から対馬まで陸がなく千里ある航海を水行とは言わない
海を渡ると言う
だから魏志倭人伝には「海を渡ること千余里で、対馬国に着く」と書かれている >>710
馬韓10万だから邪馬台国の7万は大した数字じゃない
北部九州地域全体の戸数だよ。 もし仮に、239年にすでにヤマト王権が畿内から九州まで支配していたのならば、それはかなりの超大国になる。
そんな超大国・邪馬台国が、南にいる狗奴国とかいうザコ国が言うことを聞かないから、「魏皇帝の権威を利用して倒そう!」と考えて朝貢するわけがない。
7万戸の超大国が狗奴国とかいう、ザコ国に手こずるわけがない。 >>710
それはお前がアスペだからだよ
>それを都合の悪い事はすっ飛ばして考えろってのは無理
数字は全てそんなもんだ
朝鮮から対馬までの距離はどうやって測ったんだ?
測れるわけないだろ
という事はテケトーだったわけだ
1日で渡れる距離なら一律で千里
そう考えれば済む
都市間の距離も同じ
なぜ百里単位なんだよ?
これも距離を測りながら歩いたわけじゃないだろう
そうやって考えていると
お前のように数字を必死になって考えるのは馬鹿な証拠
だから畿内説に陥る
馬鹿だから >>713
放射説ではない
里数と日数の基となった資料が別なんだと考えてる
里数の資料からの引用の途中に日数の資料からの情報を差し込んであるだけ
投馬国と邪馬台国の記述は別に考えるべきもの。 倭人は一年を収穫時期で判断するいい加減で適当なカウントしてたんだよ。
数万もの人数を帯方からの使者が一々住居者をカウントするわけねえし現地の倭人から聞いたいい加減な人口といい加減な日数を面倒臭いから書いたんだろうな >>717
詳しく聞くとレス付けてるからそれぞれ思う事があるんでしょ
それを可と書いてるからいくらでも構わないなんて考えるなと言ってるのと一緒じゃん ちょっと調べればすぐにわかるような嘘なんてつかない
と思っていたら、閣僚も官僚も学者もみんな嘘ついてました >>715
奴国2万戸は「有」で長期滞在した伊都国とも近いから
実際に確認した大国
筑前の内陸部の殆どが奴国だったんだ
投馬国5万戸は朝鮮半島南部地域の倭人の居住地域
狗邪韓国を中心とした地域。 >>718
最初の説明では投馬国が出てこずに不弥国が終点になるけど
そもそも朝鮮半島から九州へ行くのに水行という言葉は使わない >>720
・「可」五万戸
あぁ、多いんだね
・「可」七万戸
それよりも多いんだな
・「有」七万戸
なるほど、大きな国なのか
このくらいの違いだぞ >>722
俺も九州説支持の頃投馬国5万戸は朝鮮半島だろうと思って
どうすれば行程と整合性が取れるか考えてた >>713
根拠は里数から日数に単位が変わってることだな
里数(距離)と日数(時間)は異なった概念だから説明の途中で変わる事はあり得ない
実際に続けて読むから目的地が何処だか分からないだろ
壱岐、対馬の外寸の方400里と方300里を距離に換算すれば12000里の説明は終了してるから
日数の説明は帯方郡からのものだよ。 狗奴国はな、一様河内なんだよ、卑弥弓呼、弟だな。卑弥呼の統治を左けていたから、救いを魏に求めたんだな、根幹からゆらいだ時だな。その後不人気の王が立つが名も出さないだろ、魏のゆかり、卑弥呼と関係ない人物だからだよ。 >>727
伝聞だからな
そして中国人の記述なら大げさになって当たり前
白髪が三千丈も伸びるのか?
あり得ないだろ?
あり得なくてもいいんだよ
そんなものなんだから
数字に拘り過ぎるから間違いを犯す >>725
陸行1月が陸行1日の誤記なんだよ
3世紀の日本で陸行1月も出来る道なんて整備されてないからな。 行程とは整合取れないね
道なき道を歩かなければならないから1ヶ月もかかるんだな >>727
投馬国や邪馬台国は韓での馬韓や辰韓、弁韓みたいなものだな。 >>731
古代に於いては船旅が普通だから道も整備されて無いのに陸行1月は無いよね。 >>730
道が整備全く整備されてないとは思わないけど
無理矢理理由を付けるより書き間違いと言った方がましだよ 確実に言える事は遺跡からは当時の日本国内最大勢力は奈良盆地にいたという事だけなんだよな。 1日で行けるなら、さすがに距離で記載しそうなものだな 公孫氏政権の本拠地遼東に邪馬台国の遺物はなにもないのかな。 太古の昔から「日本」というまとまりが今と同じ範囲で有った、と思ってるから全てを誤る >>731
>>734
現代の舗装されてまっすぐでアップダウンも少ない道路で考えるから間違えるんだよ
石畳の道路なんてまずありえない
獣道よりちょっとはマシなのが大半だろう
川を渡る橋は少ないから川を渡るために何キロも遡上したり
トンネルを掘る技術は無いから山を超えるために九十九折で登っていき
夜間は街灯など無いのだから
暗くなる前に宿泊場所を確保し
朝は日が昇ってから出発の準備をする
もちろん食事を作る時間は必要だし
そうやって考えると1カ月でもそんなに進まないよ >>735
邪馬台国は最大勢力ではない
共立された女王が卑弥呼だったという事から導き出せる
つまり、奈良盆地の勢力は邪馬台国ではないことが確定する >>725
魏志韓伝に朝鮮半島のことは記してある。そこに記載がないので日本だろう。 >>634
バカw
後漢書には「倭国王「と書いてあんだよw
ずっと後の唐の時代にその後漢書を引用して
倭国王のところを「倭面土国王」と書かれてんだよ。
当たり前だろ。唐の時代には、日本は統一完了で
大和(やまと)と名乗ってんだからw
何勘違いしてんだw >>741
それはその通り
ただいつも人が通って踏み固められた幹線道路みたいのはあったと思うけどね
弥生時代も江戸時代も大体歩いて移動してたんだし大差無いでしょう >>745
大差あるよ
曲がりなりにも戸籍が整備されて
どこにどの程度の人が住んでるのか把握できてる江戸時代と
戸籍って何?美味しいの?
ってレベルの弥生時代なら
幹線道路の規格自体が全く違う
江戸時代なら木製の橋なら結構作られてる
弥生時代にはまだないだろうな
道路を造る土木技術も違うだろう
江戸時代と同レベルと考えてるのならやはり認識が違い過ぎるな
だから畿内説に陥るんだよ >>641
三角縁神獣鏡の鈕孔 の形がその辺に流通していたものでなく魏帝由来のもの
その辺で流通していたのは九州でよく見つかる銅鏡
だから九州でいくら銅鏡が発見されても考古学者はぴくんともしない >>744
ヤマトの言葉は先にあって後から大和をあてたんでしょう まあ九州説の先生方は鬼道=道教なのを完全に無視してるよね、そりゃそこに触れたら畿内説否定できないから仕方ないが。 卑弥呼の時に、「私たちの国の名前はヤマトです」って言っていたというのが畿内派の言い分だが、
まずそれがあり得ない。
こじつけもいいところ。
邪馬壹(ヤマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(ヤマータイ)※『後漢書』より
邪馬嘉(ヤマージャ)※『広志』より
邪靡堆(ヤミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(ヤモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
※今回は特別に、邪を「や」と発音することにする。
つまり、卑弥呼以前の倭人は「我々はヤマトです」って言ってないんだよ。
伊都國だけは、どの史書でも伊都國。
梁書でも北史でも伊都國。 3世紀にもしヤマトというクニがあって、それが今の奈良盆地を指すのだとしたら、その版図はやっぱり今の奈良盆地だろうな >>730
巻向に各地から土器搬入されてるんだから畿内に行く道はあったんじゃね? >>753
北陸山陰の土器も出てるが関門海峡通って船で来てたの? >>742
(横だが)
共立じゃねンだわw 自分で原文読んだら直ぐ解るぞ。
倭国大乱は、多くが勘違いしてるが、邪馬台内三十数か国の
内乱ではなく、列島の大乱だわ。(詳しくは→ >>331)
共立もクソもない。邪馬台は大乱に負けて覇権放棄させられ、
その証として女王(=権を持たぬ王)の即位だ。
で、なんで「共立」とウソを言ったかもよく考えればわかるぞ。
ヒントは、前の時代の「漢倭奴国王」と「親魏倭王」の違いだ。
「倭王」の称号を得るためのウソだわ。 >>754
全部が全部船とは言ってないんだがな
そりゃ陸路もあるだろ
整備されてるとは限らないけど
でも、船が使える場所なら船だろう >>755
お前が自分の言葉ですべてを説明するのなら話を聞いてやってもいいぞ 道が整備されてなければ土器を運ぶのが大変だと思うが 海路中心で奈良盆地に向かうとすれば
末盧国で上陸した後、伊都国から不弥国まで陸路寄る必要は全くない
伊都国には何か挨拶が必要だったのだとしても、また末盧国の港まで戻って水行して大阪湾に向かえばいい >>758
だから出来るだけ船
そして
当時牛や馬は日本に存在しなかったんだろ?
だれが運ぶんだ? >>743
狗邪韓国は朝鮮半島に在るが倭人伝に記載されてるかわ倭だね。 >>690
後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧は邪馬臺國という表記
邪馬壱國や邪馬嘉國などは書いてるのがその史書のみの場合がほとんどなので
史書を手書きで複写していく内に生じた邪馬臺國の誤表記という事で説明がつく >>756
瀬戸内海航路を整備したのは平清盛で
それ以前は唐物は博多で荷揚げされてた。 >>763
清盛は
宋からの船が直接瀬戸内海に入れるようにしただけで
日本の船は昔から瀬戸内海を通行してたんだよ >>762
邪馬壱(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
邪馬台国なるものは、全く一貫性がない。 >>750
ヤミードゥイ国やらヤモウウェイ国とやらは倭のどの辺にあった国なの 交流があるって事はそこに繋がる道が作られてたと思う
獣道のようなものだろうけど道はあったと考えるのが自然 遼隧の戦い後すぐに朝貢しているから馬のない時代に奈良から対応できないと思う。 >>767
つまりさぁ
陸路は思っている以上に日数がかかるという事
陸行一月でもたいした距離にはならないだろうという話だよ >>766
知らない。
中国語翻訳にかけたら、シェイミードゥイ、シェイモウウェイとなる。
翻訳にかけてみたら? >>765
それらは邪馬臺國の誤記ね
コピー機のある時代と違って手書きで複写をしていたころは書き間違いなんてざらにあった
後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧では邪馬臺國と表記されてるので
多数決で正しい表記は邪馬臺國 >>761
狗邪 kuja →→ kœja →→ keoje 巨済島 だね。 そして、牛馬がいないのなら
当時の道路は人間さえ通れればいい道路だったという事 >>770
倭のどこにある国か知らないでシェイミードゥイとかシェイモウウェイとか言ってるのか >>771
それは書き間違いではない。
邪馬臺と書かれた史書を見て、唐の人・李賢が「邪馬臺じゃなくて、邪摩惟のなまりだ」と書いているのだから、書き直している。 >>764
瀬戸内海は難所が多く中世になっても海賊が水先案内しないと通れない
海を良く知ってないと日本の船でも通れなかった
自分の近くの海は知っていても遠くは知らないから
日本の舟でも同じ船では西から東までは通れない >>769
陸行一月も掛かるんだったら舟でまわるな。 >>777
途中で中継すりゃいいじゃん
歩くより速いんじゃないか? >>775
伊都國を中国翻訳にかけると、「イートー」そのまんま。
→のところが中国翻訳にかけた時の発音
・チンギスハーン(成吉思汗)→チョンギスハン
・テムジン(鉄木人)→テムジン
・イト(伊都)→イートー
・対馬(都斯麻)→トゥイスーマ
・阿蘇(阿蘇)→アースゥ
・日本国(日本国)→ジーベングゥオ※ジパングの語源
・博多(好古都)→ハクゥトゥ
・菊池彦(狗古智卑狗)→クゥクチピィーコ
・羽地(怕尼芝)→はねじ※琉球三山時代の山北王・はねじがそのまんま読みが一致
・サバチ(尚巴志)→シャンパージ※琉球三国を統一した中山の王
ヤマタイコクなるものはただのこじつけ >>780
そう言う交易はあったけど
同じ舟で通しての交易はない 九州説はヤミードゥイとかシェイモウウェイとか
変な呪文を唱えるのをやめてくれないか 河を航行するのは、両側から引っ張ればいいのだが
沿岸を航行するというのが案外難しいのかもしれない
簡単に座礁するし >>783
ではなぜ同じ船で通した前提なの?
違う船で中継すれば運べる
それでいいじゃん
それで、箸墓へ九州の品物が運べたら問題ないんじゃね?
絶対必ず陸路じゃないといかんのかね? 記紀にスサノオが馬を投げ捨てたという話があるが
魏志倭人伝によれば倭国に馬はいないと記録されてる。
また考古学的にも当時の日本に馬はいなかったのがわかってる
つまりスサノオは邪馬台国の後の時代の人間がかんがえた創作物
記紀ってのはそういうフィクションのうんこ 現代でも海用の船と川用の船は違うからな
川用の船を海で使うと波に弱い
海用の船を川で使うと座礁する もし、ヤマトなる首都があったのなら、伊都國に使った「都」をそのまま使って、「邪馬都」と書くべきだった。
ところが、邪馬台国にはたくさんの漢字が当てられているが、ヤマトの「ト」を「都」と書いたことはないのである。 箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないことが確定してるから、畿内説はそれで終了だよな 『広志』の記載、
「東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載」
伊都國又南至邪馬嘉國と書いている。
イトコクの次の国がヤマトなる名前であったのなら、「邪馬都」と書くべきだった。
つまり、卑弥呼がいた場所はヤマトとかヤマタイとかいう名前の首都ではなかった。 >>745
3世紀だと川に橋も掛かってないから陸行1月はあり得ない
絶対に陸行1日の誤記だな。 結局は決めては丹になるよね、丹生の神社は紀伊半島に集中してますよ。
こればかりは間違えようがないですね。
しかも朱丹を普段から使用している海人、冬も温暖という条件、真珠がとれる環境ならもう紀伊半島の南部しかありませんから。
廣志の行程でもピッタリはまります。 >>745
弥生時代は歩いて移動してないけど
もししてたならかなり高度な文明があったことになる
お前が近所の野山とかぬかるみや水溜まり、工事現場を
忍者のように走り回れるなら話は別だが
整備されてない野山は今でいう登山道以下
歩いて行けるわけがない >>795
魏志倭人伝の丹の記述は
倭人の様子の項だよ
邪馬台国の様子ではない
つまり、
邪馬台国で丹が産出しなくてもいいんだよ
という事で
丹は決め手にならない
これも何度も何度も指摘していること >>795
『広志』の記載、
東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也
↑この伊邪分國は、隋書流求國伝では、夷邪久國となるが、どちらも屋久島のことである。 >>792
これなんてまさに亀岡を伊都にするとピッタリですね。伝承では保津川は三穂津媛が開墾して水を流し盆地を作った伝承がありますから、
正に女王國。 陸行一月が可能なのは日本海側から畿内へ抜ける道くらいだろうね ピンインだと
・チンギスハーン(成吉思汗)→cheng ji si han
・テムジン(鉄木人)→tie mu ren
・イト(伊都)→yi du
・対馬(都斯麻)→du si ma
・阿蘇(阿蘇)→a su
・日本国(日本国)→ri ben guo
・博多(好古都)→hao gu du
・菊池彦(狗古智卑狗)→gou gu zhi bei gou
・羽地(怕尼芝)→pa ni zhi
・サバチ(尚巴志)→shang ba zhi 昔角川春樹が倭船復元して九州から韓国まで47日近く掛かってんのに
九州から近畿まで船で20日で行けるわけねえだろ
3、5ノットしか出ねえ船で現実見れば近畿説なんて有り得ねえんだよ >>800
だがそれはもう魏志倭人伝とは無関係な話になってしまう
日本海を通るのなら
呼子に上陸して伊都国まで行った後、
呼子に戻って元の船で日本海を通るはずだよ
そのような記述ではないから日本海ルートはあり得ない >>793
考古学的には弥生中期から橋の遺構は残ってる
まあその時点でそれなりに勢力圏や同盟圏が判断できる
異界の地には交通手段がないからな >>684
考古学の主流は卑弥呼は庄内期であって布留式に入る箸墓は卑弥呼の後のものという考え
寺澤氏などは最初から「箸墓は台与か崇神天皇で卑弥呼の墓があるならその前のもの」と言ってる
その考えが追認された形で別に何の驚きもない
それがあろうがなかろうが200年前後の状況は>>232で書いた通りで、
邪馬台国の時期には畿内の勢力が全国的な影響を拡大してることも変わらない
まぁそうだろうねと言う確認がされただけの事 中国の学者たちが、投馬國とか水行20日とか陸行1月とかを完全無視して、「邪馬台国は九州」と言っている。
中国の学者は、昔の史書がテキトーなことを書いている例をたくさん知っているから、「投馬國、水行20日、陸行1月」を完全に無視してる。 >>795
海に潜る民が日常的に白粉みたいに使うなら赤土だろう
アフリカの部族が日焼け止めに土をまぶすようなものだろうか
朱丹なら交易目的であちこちに流通させてたのかもね 対馬国(対馬)までは方角も行程も矛盾なさそうだけど、
そっから先がなんかむちゃくちゃでおかしいんだよな
伝聞で適当に書いてる可能性おおいにあるよ ん−でもやっぱ九州だろうな どうみてもこのルートで畿内までいくのは厳しい >>757
基本は>>331。漢が「漢倭奴国王」を倭で唯一王に任じた意味は、
@倭は漢のもの。奴国は、倭の中の一国に過ぎない。
A倭でお前だけ王にしてやんよ=倭内での覇権は認めてやる
Bだが、奴国が倭全体を統治(統一)することは許さん てこと。
しかし、倭国大乱で倭(≒列島)をほぼ手中に収め「大倭(ダイワ)」を名乗った奈良、倭全体の統治権のお墨付「倭王」の称号が欲しい。
それを得る為に「共立」という嘘ついた。
「倭は、魏を脅かすことのない弱小国の集まりです。皆で異論なくこの女を王に決めました。『倭王』の称号を頂けたら、倭はまとまって全力で魏を支持しまっせ!」と。嘘も方便。 数十万人くらいいたでしょ
頭の中どうなってんだ
過剰に原始時代扱い
ヒストリカルコンプレックスやね >>808
伊勢周辺は水銀朱の産出地でもあるが、後年は白粉の産地でもあるね。
まあ水銀朱は毒でも赤ちんだって水銀入りだったからな、防腐傷に用いる目的もあったかもね。
朱丹という表現ならこれは赤土、水銀朱のどちらの意味も含む。 倭奴国だろ
倭の中の奴国なんて
無駄な自尊虐史観のたまもの >>815
魏からお宝として下賜されるようなものを平民が日常的に白粉代わりに使うのはさすがに厳しいと思う
貴重品を交易品として流通させるなら十分あり得ると思う 2000年の属国?
違うんだなあw
己州己婁 コスコル?!ドイツ人かな… 石器時代人はどうやって黒曜石の石器を運んだんでしょうかね >>818
いや、貴重な水銀朱を日常的に使うような場所だからわざわざ中国から遠方を目指して来る理由がある。
現に出土品の流れ、古墳内部に水銀朱を撒く風習も北部九州から東側に向いているだろう。
現在最多の水銀朱量は桜井茶臼山古墳なんだしな。 >>812
まず弥生時代に列島を手中に収めたのはあり得ないだろ
九州内すら治めてもいない
卑弥呼は天皇の血筋じゃないだろ
年代が合わない >>821
九州の方式が全国に広まったなら
これもう九州の支配下に入ったことにしていいんじゃないかな(畿内説脳 まあ素晴らしい前方後円墳であればあるほど、それは邪馬台国とは時代の違うところの話になるわな 女王国はあったが、邪馬台国ではなかったのだろう
邪馬台は初めから大和であり、九州の地名が遷移したという見方を支持しない
魏志は継ぎはぎなのだ。だからこう書いてある、では史実の説明にならない >>816
バカw
列島内での九州邪馬台の力が限定的だったということ。
実際、九州が全国支配した形跡どこか有るかんか?ん?
それに対して、奈良の大倭(ダイワ)は、すでに博多港を直接支配
してる。倭を手中に収めたから大倭(ダイワ)だ。(後世の大和だ。)
大倭は魏に正体を隠してるが、俺が魏志読んだだけでも全部
簡単に判るんだから、そりゃ魏も全部わかってたさw
要は、漢代の邪馬台と漢末以降の大倭(奈良)の実力の差ということ。 知らない
認めない
は説ではない
子どものダダでしかない
もう少しまともなことを言うべきだな >>826
中国魏晋南北朝史学会の教授によると
古代中国にも地名の移動はよくあったそうだよ
紀元前1000年辺りから日本に倭語話者が増えてきて次第に列島に広まっていくにつれ
九州の地名が畿内にコピペされたとしても不思議は無さそう どうでも良いが、Twitterで「邪馬台国 アンケート」で検索したら、全部のアンケートツイートが九州支持だった。
意外とみんな賢いんだな。
俺も邪馬台国について調べ始めた去年の8月までは、「九州説なんて村おこしだろ。悪質すぎる」と思っていたが、1時間調べただけですぐに九州に鞍替えした。 >>830
ちなみにどういった理由で九州説に鞍替えしたの? >>829
おおむね、大勢はその通り
そして邪馬台もそうなのだろうと言いたいが
なぜ女王国と邪馬台国が注意深く使い分けられているかという疑問が解けない
経路上、全然違う場所を指していながら、最後の最後で
「邪馬台国、女王の都とす所」この一文で強引に両国を繋ぎ
結果的に意味不明なことになっている >>822
九州邪馬台は列島を手中に収めていない。漢の権威と交易の独占で倭の覇権(マウント)を握っただけ。覇権による安定の下、奈良や出雲が密貿易とかで台頭。おそらく、三すくみに。
2世紀末の倭国大乱で奈良が勝利(おそらく出雲が滅んで)邪馬台は覇権放棄だ。
奈良は新「覇権国」になった訳じゃない。博多を実効支配してる。事実上、倭を手中に収めたわけだ。
で、4世紀、華北崩壊で朝貢による秩序が東亜から消えた隙に、奈良の大倭(ダイワ)は九州邪馬台(やまと)を滅ぼし、その権威を継いで「大倭(やまと)」と名乗る。これで名実ともに"倭国統一"である。 >>831
魏志倭人伝をよんで、不弥国まででもう9割進んでて、「どう考えても九州出ないじゃねーか!」と思った。
次に『広志』を読んで、即、九州説に鞍替え。 正式採用されて添削を繰り返している中国の正史に邪馬台国は大和と記載されてる
断片の不採用の史書を特に信じる理由はない
九州など全く関係ない
『所在地』
@アメノタリシヒコは用明天皇(新唐書)
Aアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じ(隋書)
A用明天皇は筑紫城から大和州に都を移した神武天皇の後の天皇なので都は大和(新唐書)
↓
邪馬台国は大和
『一大卒』
@一大卒は中国の刺史と同じ(魏志)
Aアメノタリシヒコは属国各地に一大卒を派遣して支配してる(旧唐書)
↓
一大卒のいるところは大和の政権の属国
『日本と倭』
@日本の皇統は神武天皇から当時の桓武天皇まで断絶なく継続(新唐書)
A日本は小国なりとも王も家臣もずっと変わらないと皇帝が称賛(宋史)
B改称については日中の史書共に登場する粟田真人が国号を誤解された件が記載される(日本書紀)
C白村江の戦いの当事者の唐が皇統がずっと続いていると記載(新唐書以降)
Dアメノタリシヒコ(用明天皇)は白村江の前の天皇だがその後の系譜に連なるものとして記載されてる(新唐書以降)
↓
改称は壬申の乱後の日本号の正式採用の事
九州の邪馬台国も九州王朝も最初から存在しない >>832
九州全体→倭国
本州→倭種の地
女王国連合30国→女王国
邪馬臺国→女王国連合の中の国
でいんじゃねーの そもそも地名が変わることがあるってことはみんな認めてるはずなのに
末盧国=松浦、伊都国=糸島なんて無条件に信じてるのはおかしい 魏志倭人伝の殆どの部分が創作でっち上げじゃないのかな。
本国に帰国した時に「こんなに一生懸命に各地を調査してきました」と云う為のな。 もし断片の史書の方が信用するに足るというのであればその信用性を証明しなければならない
それもなく「都合よくそう読めるから」というのであれば議論の対象にすらならない >>822
それに、九州南部は日本の歴史で常に難しいところ。
南に独自の交易ルートがあるから簡単につぶせない。
江戸幕府だって、結局、薩摩にひっくり返された。 不彌国からちょっと行ったら女王国なの
「ふーん
伊都国には検察がいてね。女王国より北側の博多諸国を監視しているの
「ふーん
伊都国から舟で20日で投馬国なの
「ふーん
そこから舟で10日と(あるいは)徒歩一月で邪馬台国なの
「ずいぶん遠いのね
この邪馬台国がね、女王の都なの
「??ふ、ふーん >>834
不彌国の次に水行20日で投馬国
その次に水行10日陸行1月で邪馬台国と書いてるから九州からは出るね
九州にあるのは邪馬台国ではなくて伊都国や奴国 魏志倭人伝では倭人は長寿で80〜90年は普通で百歳超えも珍しくない
と云うようなことも書かれてるらしいけどこんなことは有り得ないでしょ。
つまり魏志倭人伝は殆ど信用に値しないという事でしょ。 >>843
九州の端にある不彌国の次に
船で水行20日して投馬国に行くと書いてるから >>837
世界の地名の9割は古代から変わらないという研究がある。
沖縄という漢字を初めて使ったのは薩摩の慶長検知長で、読みも「おきなわ」だが、沖縄人は今でも「ウチナー」である。
1500年代、沖縄と台湾の区別がついてきた中国では、琉球のことを「倭急拿」と書いている。
これは現代中国語読みでも、「ウォーチナー」と聞こえ、精度が高い。少なくとも薩摩のインチキ「おきなわ」とは、レベルが違う。
そして、沖縄の地名は昔から今までやっぱり同じ。ほとんど変化なし。 これはまともな分析なのか、それともテキトーな推理なのか、どちらですか? >>841
いきなり日付になる部分は別の資料の情報を切り貼りしてきたんだろう
翰苑には廣志曰くとして
「倭国東南陸行五百里、伊都国に到る。また南、邪馬嘉国に至る。女国より以北は、その戸数、道里を略載できる。」
とあるから、これに日付情報を無理くりくっつけたのかも 俺がそう思った
とか論でも何でもない
こんな事しか出てこないんじゃ議論にもならない >>847
「ウチナー」は地名や国名ではなく、沖縄弁で標準語で言う「我々」という意味なのでは?
朝鮮語の「ウリナラ」みたいな。 >>838
少なくとも、陳寿は絶対に倭国に行ってない。
魏志倭人伝では、『魏略』曰く〜と魏略を丸パクリしたり、
刺史が監察官であった漢代の竹簡をそのままパクって、魏志倭人伝にくっつけてしまったりしている。(魏の時代には刺史は行政官になっている)
だから、とりあえずいろんな竹簡を丸パクリしているのは明らかであるから、『魏略』や『広志』を読む必要がある。
竹簡というのは、一つに20文字程度しか書けないそうで、今の紙(ペーパー)のイメージを捨てて、バラバラの竹簡をそれっぽく繋げて書いたと見るべき。 >>842
それは、陳寿がどこかから持ってきた竹簡をそのまま、前の竹簡にくっつけただけ。
しかも、他人の竹簡をだ。
だから、『魏略』と『広志』には、不弥国も奴国もない。
あるのは、対馬、壱岐、末盧、伊都、邪馬嘉のみ。
それと、女国と女王國。 認めない
俺が思った
俺は知らない
少しくらいまともな事を言ってくれないと議論にならない >>849
そう。日付情報を入れた。これは多分瀬戸内を渡るルート
けれど方角は南のままなので、結局は不彌国の南に邪馬台国があると、
別の資料を援用して、中国側ではそう記録されていると結論できる >>851
ウチナーの意味は、「大国」という意味。
沖縄の周りの島々の住民に沖縄本島のことを何と呼んでいるのか研究した人がいる。
すると、粟国島や久米島、伊是名島、伊平屋島、渡嘉敷列島などで、
「まぎぐに」→まぎは方言で大きい、ぐにはそのまま国。よって大国。
「うふなー」→うふは方言で大きい。なーは、国の意味。沖縄の地名には「なー」とつく地名がたくさんある。
例えば、「かでなー」「いじなー」「うんなー」など、他にもたくさん。よって、意味は大国。
これは奄美大島にも見られる。
奄美大島が首都だから、「大島」。
ハワイ島は首都ではないが、「ビッグアイランド」。
すなわち、ウチナーとは周りの国から見て「大国」を意味する。 斯馬国から2回目の奴国までの20カ国余りがどこのどれなのかさっぱり分からない以上、地名が変わってるものが多数含まれると見ざるを得ない >>859
つまり”ウチナー”は国名ではないという事だよな。 >>846
>船で水行20日して投馬国に行くと書いてるから
それは帯方郡から船で水行20日して投馬国だよ
7000里行くのに20日掛かるんだ。 >>860
傍国は順番とかも混乱してる可能性が高いね
倭人が思い付いた順番かもしれない。 巴利国は播磨だろう。支惟国は、椎根津彦の墓所保久良山のある摂津莵原郡
その先は分からぬ。おそらく摂津国内に含まれる
あの地名総覧に奈良盆地が入っていない。これはいつ頃の「断片」だろうな >>849
里数での説明が終わったので再び帯方郡から掛かる日数を書いたんだ。 >>861
国名だよ。
ずっと、唐の時代からずっとウチナーと言っていた。
他称だけどな。
また、別の他称である琉球も使った。
これは中国につけられた名前をそのまま使った。
が、沖縄人は今でも「ウチナー」という。
ウチナーンチュ同士が、会話の中で「今の琉球は良くないよねー」とか言っていたはずがない。 >>858
畿内説瀬戸内ルートは珍しいな
裴世清は筑紫から難波津まで約500km
を約2ヶ月かけて移動したが
水行30日だと広島の呉辺りから陸に上がって陸行1月か >>859
でも沖縄本島ではない石垣島の人も自分達の事を「ウチナンチュー」と言うけど。 >>841
女王は伊都国で、女王国より北側の諸国に一大率を置いて検察させて治めているの
「ふーん >>867
7世紀には未だ瀬戸内海航路は通れないよw
裴世清九州内を移動している。 >>866
キミ、自分の言ってることが矛盾してるだろ。
↓
859 返信:ニューノーマルの名無しさん[] 投稿日:2022/02/19(土) 18:31:46.37 ID:SzK01RL+0 [31/32]
>>851
ウチナーの意味は、「大国」という意味。
沖縄の周りの島々の住民に沖縄本島のことを何と呼んでいるのか研究した人がいる。
すると、粟国島や久米島、伊是名島、伊平屋島、渡嘉敷列島などで、
「まぎぐに」→まぎは方言で大きい、ぐにはそのまま国。よって大国。
「うふなー」→うふは方言で大きい。なーは、国の意味。沖縄の地名には「なー」とつく地名がたくさんある。
例えば、「かでなー」「いじなー」「うんなー」など、他にもたくさん。よって、意味は大国。
これは奄美大島にも見られる。
奄美大島が首都だから、「大島」。
ハワイ島は首都ではないが、「ビッグアイランド」。
すなわち、ウチナーとは周りの国から見て「大国」を意味する。
861 自分:ニューノーマルの名無しさん[sage] 投稿日:2022/02/19(土) 18:33:57.08 ID:ZrG6M+R/0 [6/6]
>>859
つまり”ウチナー”は国名ではないという事だよな。
866 返信:ニューノーマルの名無しさん[] 投稿日:2022/02/19(土) 18:41:52.57 ID:SzK01RL+0 [32/32]
>>861
国名だよ。
ずっと、唐の時代からずっとウチナーと言っていた。
他称だけどな。
また、別の他称である琉球も使った。
これは中国につけられた名前をそのまま使った。
が、沖縄人は今でも「ウチナー」という。
ウチナーンチュ同士が、会話の中で「今の琉球は良くないよねー」とか言っていたはずがない。 >>862
帯方郡から倭国に行くのにまず船で向かうのは
投馬国じゃなくて狗邪韓国と魏志倭人伝にはある >>851
朝鮮語は、実は、日本語のベースに高句麗語が乗っかったもの。
日本語うち(私、我々、家)→ 朝鮮語ウリ(我々)
「うちなー」の「うち」は、この日本語の「うち(我々)」。 もし、邪馬台国が畿内なら、畿内から九州に至るまでの大帝国、または超大国と言える。
そんな超大国の邪馬台国が、南にいる狗奴国とかいうザコ国ごときが従ってくれないなんてあり得ない。
その為に、魏の皇帝・曹叡様に朝貢してもらって、その権威を利用して邪馬台国を守ろうとした。
邪馬台国が畿内超大国勢力なら、そんなことするはずがないんですよ!
さっさと、九州、四国、中国地方、近畿から兵隊を集めば、超大国なんだからすぐ滅ぼせる。 >>873
魏志倭人伝を読む限り、ハッキリしちゃってるw >>876
「東に55国、西に66国、海をわたって95国を平定したから将軍にしてくれ」
とのたまった国と同じ国とは思えんな ああ成る程久留米から水行20日で薩摩に行くわな
投馬国で合ってんじゃねえか。
太宰府からこの辺まで邪馬臺で九州と結論出たな ちなみに私は邪馬台国=日田市→大和(奈良)、宇佐→伊勢説を唱えたい 卑弥呼は呪術のカリスマで共立によって即位している
どこにも軍事的な征服を果たしたなど書かれてない
実際に畿内から全国に各地の祭祀や葬送をすべて合体させたような前方後円墳が広まり各地域がそれを採用する形をとっている
そしてその中心地に巨大な祭祀と古墳の遺跡である纏向が出現している
倭人伝の記載と考古学的な発見に合致する
むしろこれほどそのままの当てはまる状況に何の疑問があるのか分からない
そして定型化以後はこの中心地がさらに強化されていく流れが見え後の大和朝廷へとつながり武断的な勢力へと変化していく
これは副葬品が呪術的な物から武装に変わる様子からよく指摘される さらに宇佐神宮は卑弥呼の墓であり、伊勢の天照のモデルとなった説を提唱したい。 >>874
投馬国は韓の馬韓や辰韓、弁韓みないなもの
狗邪韓国は投馬国の中に在った。 縄文時代には、すでに北九州の人々は自分達のことを「ヤマ」と呼び、それを聞いた中国人が邪馬壹(ヤマイ)の漢字を当てたとする説を大阪教育大学準教授・張莉氏と、世界漢字学会会長ゲンコクワ教授が唱えている。
つまり、こうだろう。
中国人「ここは何という国ですか?」
倭人「ヤマったい」※九州弁の語尾◯◯たい
中国人「ああ、ヤマタイか!」
こういう例はたくさんある。
イギリス人「あれは何という名前ですか?」
豪州の先住民「カンガルー」
イギリス人「ああ、カンガルーか!」
※カンガルーは、豪州先住民の言葉で「分からない」という意味。 寺澤氏などが指摘してるように大和は別に最先端だからとか最強だから中心になったのではない
おそらく大和、吉備、摂津、河内、讃岐などの瀬戸内海の勢力が連帯して位置的な関係で中心となったのだろう
その証拠に弥生時代の大和と、纏向の頃の大和では文化的連続性が薄い
大和がそのまま成長して中心になったのではない
これは考古学的に指摘されている事 >>817
アーソン・グレブスト(スウェーデン語版)の『悲劇の朝鮮』によれば、「牛糞を塗る」「ヒマワリの種を湯がいて食べる」「患者がモモの種を二つに割り、一方に『日』の字、もう一方に『月』の字を書いて一気に飲み込む」「小さな蛙を三匹生きたまま丸飲みする(腹痛に即効)」「重症の場合は焼いた犬の足を四本食べる」「じっくり沸かしたお湯に四十歳の女性の頭髪を入れて飲む」といった方法が採られており、大韓帝国の最後の皇太子(純宗)の妃・純明孝皇后は、腹が腫れる病気にかかったため、国内一の名医の診察を受け、腹に悪霊が棲みついたと診断され、城門の戸板をはがして煎じて飲まされ、死亡した。
それが、なんでこんな国にw おれが知らない
おれが認めない
おれが思った
本当に話にならないな >>885
それよりも昔はトモの国と呼ばれてた
瀬戸内海の鞆(とも)の浦の方が投馬国っぽいよ
狗邪韓国より >>886
後漢書によれば倭国と呼ばれてたらしいよ またこの3部作でスレが立つのかwwww
好きだなお前らwwww 魏志倭人伝を見るに対馬や伊都国など邪馬台国までに通る地名は合ってる
方角が東なのを南としているだけだな >>882
地政学から言って、邪馬台の起こりは日田しかない。
そこから筑紫平野を支配し強国になり、博多港の支配権を
宗像から奪い、鉄輸入に加え漢への朝貢まで握ったことで、
列島の覇権(※統治ではない)を握ることに。
(注:漢への朝貢は、配下の奴国王の名で行っている。)
なお、博多を奪うプロセスは、海幸彦・山幸彦の神話に書いてある。 何処にあったかはよ決めないと朝鮮から来た説が定説にされちゃうぞ >>898
もう畿内で決まってるからその心配はないね 何度も同じこと言って手応えなかったらもう黙っとけよw
自分のブログにでも書いとけ 短里説とか放射読み説とか邪馬壱国とか
九州説が積み上げた嘘が崩れていく >>817
ヨモギとニンニクは神農本草経には記載されていない
→独自の医学書があった?!
慶州にちょびっといるような国では無い。 あと箸墓の埋葬者とされてるヤマトトモモソヒメはオオモノヌシの妻で、
大和朝廷の大王の祖先とされるアマテラスとは敵対関係にある立場でしょ? 邪届伊都傍連斯馬
これ完全に太宰府が邪馬臺の都だしな
あの下に倭京跡が眠ってるわけか
ある意味天智の遷都で邪馬臺を歴史から消し去った痕跡でもあるし
邪馬臺2000年の怨みを鎮めるため大津に比叡山を建てたが今尚天智が眠る大津では怪事件が起こるわけか
そら呪われるわ >>901
唐突に変わってはないけど
九州から向かう方角を瀬戸内海を渡って東とすれば
投馬国が昔はトモの国と呼ばれてた瀬戸内海の鞆(とも)の浦で
邪馬台国が大和国で魏志倭人伝の水行記事と実際の地名に合致する >>906
そもそもアマテラスってモモソのことで宮中に祀ってたのに
祟ったからオオモノヌシと一緒に追い出して伊勢まで流れ着いたんでしょ(適当 >>908
東とすればって唐突に方向がねじ曲がるわけだが
その曲がる理由は何よ? ヤマイチ国は山城、山背の事ですね。生駒山東側には壱分なんて地名もありますが、由緒ある神社の所在地だったりしますね。
内陸部にある伊都の南側が奴国ではなくヤマイチ国なら、この場所しか候補はありません。
二万戸もある奴国が消えてるようじゃ北部九州では無理ですね。 実は邪馬台国は飛騨に存在した!!
キミは古代飛騨王朝を知らないのか? >>902
東夷伝では1里は約80m
里数行程と日数行程は同じ行程を距離と時間で説明している
この二つを認めないと魏志倭人伝の内容は理解出来ないよw また生駒山の北には交野辺りまでは色々と興味深い場所もあるね。
邪馬台国問題とは関係ないが、天ノ磐船でニギハヤヒが天下りした場所であったり、磐船神社には古い磐座があるのだが、
この場所はジブリのもののけ姫で山犬のモロが居た場所のモデルにもなっている。
基本的にもののけ姫は出雲地方が舞台の話となってるのだが、モロがいる磐座で山続きのタタラバといえば実は信貴山の大和川、亀の瀬が舞台になっているかも知れないね。
そこは金山媛、金山彦神社の所在地でもある。
中々本当の事は言わない宮崎監督は色々知ってそうな気もする。 倭(日本)の中に女王国(女王連合)や女王国に服属する国やその他倭種の国があって
女王国の中に邪馬台国(女王の都とする場所)がある >>910
唐突に曲がってないよ
なぜなら邪馬台国は大和国で
南じゃなくて東にある国だからな >>913
魏の1里は約430mだったので1里80mという単位はないね >>915
この場合の都は名詞ではないのでミヤコの意味じゃない
都は全て又は統べるの意味だよ
女王の全ての所又は女王の統べる所。 >>917
1里80mは魏の里ではなく東夷でのみの里だね
公孫氏が使用してたローカルな里なんだろうな。 >>919
東夷は里を知らず日数で距離を表すと唐書にあるね >>917
魏の里ではなくローカルな里だから
行程の日数も併記したんだ
これは魏の里ではありませんよと分かる様に。 畿内説はバカ学者が飯の種にするための作り話なんだよ
【基本概要】
中国の史書は古い記録をベースに新しい情報を追記する形式で編纂されている。
魏志倭人伝にける謎の水行陸行は、魏に朝貢に来た卑弥呼の使者から得た最新情報であり、その行程の起点は帯方郡である。
@魏志韓伝によると韓国領土は東西は海に面し、南は倭と接するとのこと
A後漢時代に朝貢していた倭国は100国だったが、魏の時代に朝貢に来たのは女王国30国のみ
B女王国以北(女王国北部)は距離や戸数まで確認できた(対馬〜邪馬台国)
CB以外の国は遠いので国名のみ紹介(次有斯馬・次有已百支・次有伊邪〜)
D女王国の南には敵対する狗奴国がある
E女王国の東には海があり、その先にまた倭種の国がある(魏に朝貢しなかった70国)
行程図:https://i.imgur.com/jMwIArA.png
なお、帯方郡から邪馬台国内にある女王の都までの距離が12000里とのこと。
魏志倭人伝では1里が約75mであり、日本書紀の崇神記にも同様に任那-筑紫間の距離は2000余里と記載されている。
参考)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を示していた(隋書)
・伊都国の又南至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・馬韓は50国、倭は30国、その他倭種の国などが70国 唐突に曲がってないよ
対馬から壱岐島の方角も右に少しずれてるし
唐津から糸島の方角も右に90度近くずれている >>921
東夷は里を知らず日数で距離を表すと唐書にあるね
つまりローカルな里なんてのはなかった 卑弥呼がアマテラスのモデルなら孫の代のニギハヤヒは卑弥呼が亡くなった後の男王の時代だな
ニギハヤヒは神話では一瞬しか登場しないから、卑弥呼亡き後の男王ならニギハヤヒのモデルにぴったりだな >>922
公孫氏は漢の人間なので
使ったなら魏の里とほぼ同じの漢里 戦後に行われた出雲大神宮と籠神社の宮司の対談の記事を見たことがある
戦後なんだからぶっちゃけ話をしましょうとお互いの秘密を語っていた
籠神社には隠してある主祭神がある
出雲大神宮の祭神は大国主と三穂津姫だが中央の祭神は空位になっている
という内容だったな
色々隠されているんだなと思ったよ 東夷伝の1里=75mなのは公孫氏時代の記録を参照したからとも考えられる。
つまり魏志倭人伝は魏以外の様々な記録を含み、魏の使者による現地調査した記録ではないので。同じ国でも様々な呼び名があって当たり前ということ。
その一例が半島南部=投馬国や倭奴国=女王国=邪馬台国であり、倭人がそう説明したが魏は知らないので遥か南方にあると誤解した可能性がある。
一大率が監視していたのは様々な国が交易していた対馬海峡一帯であり、普段は伊都国に住んでいた。
それが倭王(のちの天皇)である可能性もある。 >>913
前者は疑いないが、後者は一説に過ぎない 大勢に人が邪馬台国のことを議論するうえで大いなる勘違いしていることがある
魏志倭人伝に出てくる邪馬台国の記載は1か所のみ
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳? 可七万餘戸
あとはすべて女王国という記載になっていて、邪馬台国=女王国であると解釈できる根拠は何もない
というか、わざわざ女王国と書いたことに何か意味があるような気がする。 >>931
チェリーピッキング乙
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
日本と倭国は別の国という認識は持っていたのは確かだな 邪馬台国は海洋民族で、沖縄から千葉県、新潟県まで、イワシやら追いかけてた民族で熊野神社。
その家来が久米氏で住吉大社。 邪馬台国≠女王国であったとしたら、突然湧いてきた「女王国」がどこにあるどんな国なのか意味不明 弥生時代を示す遺物「鉄」に注目すれば当時の倭の領域も一目瞭然だ。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
弥生時代の鉄器出土量
https://i.imgur.com/UKtbTwc.png
史書によると、倭はもともと100国あったが魏が交流できたのは30国とのこと。 中国側にはヤマトという地名はない
ヤマトは国や民族集団というより都市名なんだよ
ヤマトという町(国)が拡大して日本を支配した
一方でエミシ(毛人)やエゾ(蝦蛦)は古くから知られた集団
ヤマトは倭奴や毛人の中の一都市が拡大したものだと推察できる >>935
女王国とは中国側から見た呼び名であり、投馬国や邪馬台国は倭人が魏に具体的に説明したことで判明した名称。 >>940
チェリーピッキング、だろばか
偏差値の低い童貞が持論を展開する時に必ず持ち出すネタってのがあるんだよ 孝霊は後漢の霊帝、孝霊皇帝から取った名だろう
霊帝の時代と同じことが起きたんだろうね
卑弥呼亡き後の男王の時代のことでしょう
魏志倭人伝には新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった
当時千余人が殺されたとある
孝霊天皇の時代古事記では吉備平定
卑弥呼が亡くなった後の3世紀後半纏向遺跡から突然吉備の土器が消えるんだよね
孝霊天皇の時代、伯耆国の鬼住山で笹で誘き出した牛蟹を倒したり、上石見では石で牛鬼を倒したという伝承が残っている
仲間割れでしょうね
牛は天神さまの使い 中国から見て東方はいろんな島があって国がある、というような認識
一番東の方にあるのが「日本」これは方角を表す東のどん詰まりのことだから
それ以外が「倭奴」と「琉球」
離れるに連れて「毛人」や「蝦蛦」がある
このくらいの認識だな
それぞれで同じ島であるものや、東と北の正確な地理認識とか、
これらは持ってない
自分たちから近いか遠いかのみ
あとはバラバラだ >>935
突如湧いたって
女王国の記述が先にあって邪馬台国の記述が後にあるんだよ
伊都国の記述の部分で「みなは女王国に統属していた」とある
邪馬台国は女王が都とするところという説明で女王国の記述の後に出てくる >>942
宮中で祀られていたアマテラス(モモソ)が祟ったとして急においだされた理由がそれか >>941
チェリー‐ピッキング(cherry picking)
1 収益の見込める顧客だけを選び取ること。 2 自説に都合のよい根拠だけを選び取り、こじつけること。
自説に都合がよい、ってなんだ?
俺は自説なんて無いぞ
"ヤマタイ国の場所なんてどうでもいい"派だからな
ジジイ達の宴は邪魔くさい
ただ魏志倭人伝みたいないい加減なもんを
「ああでもないこうでもない」とこねくり回してるのが情けないだけ ちなみに陸行一月とは、上陸してから女王の都に入るまで伊都国で待たされる日数だろう。
実際モンゴル帝国の使者も大宰府で何か月も待たされた記録がある。
その後鎌倉へ連れていかれて北条氏に処刑された話な。 若草山の山頂に5世紀頃の古墳、鶯塚古墳がある
かつては牛塚と呼ばれていた
若草山の麓の東大寺二月堂の修二会では椿の造花がお供えされる
修二会は8世紀から続く悔過作法
牛鬼は古い椿の根、古い海神と言われている
にほ鳥という息長川にかかる枕詞がある
にほ鳥は牛留鳥の字を当てられることがある >>947
待ってる日数なんて普通含めないでしょ
使者も馬鹿じゃないんだから >>946
> ただ魏志倭人伝みたいないい加減なもんを
一文一文は正しい、として読むんだよ。
それを倭に行ったことも無い陳寿が構成したわけだからミスは多々あるはずだ。
だがすべてを無視できる文献ではない事は確かだ。 >>949
倭人の説明を中国側がそう解釈しただけだろ。
上陸してから一月はかかりますよ、という説明を陸行一月とな。 中華文明の影響下にあったという事実がそんなに嫌かね >>950
言葉通りで捉えりゃいい話だが
わざと百パーセントのド嘘を書いてる可能性も考慮すべき
とにかく距離を記述するのに"寝てた日数まで足した"とかアホな解釈はやめろ
そんなことまで区別付かない馬鹿は石器時代にだっていない
東西南北の地理感はほぽ全く無いから
東と言って北だったり南と言って東だったりは普通にあるだろう
日本国内でも中世まで青森は北の果てではなく東の果てだったからな 方向を東にねじ曲げるならねじ曲げるでそこに合理的な理由が欲しい
理由もなく創作しましたとか言い出したらもう邪馬臺国自体が作り話ですで終わってしまう >>942
箸墓の上には吉備系の特殊器台の欠片が散乱してるからな。箸墓の三世紀半ば比定はこれが基準になっている。
よく九州説の連中がいう四世紀以降比定では、かなりおかしな話になるからね。 >>926
有りえるなあ。
邪馬台は、倭国大乱で奈良の大倭(ダイワ)に敗れ、覇権放棄の証に女王(=剣を持たぬ王)卑弥呼が即位した。
卑弥呼の死後、邪馬台の覇権復興を賭けて男王が立つも、また破れ、邪馬台は大倭に恭順、女王(壹與)に戻した。
神武に抵抗した那賀須泥毘古が奉じる神で、後に大和に恭順する神ニギハヤヒ、このモデルが上記の男王というのは、有りえるなあ。 方角なんて壱岐の時点でねじ曲げられてるからな
実際は南東にあるのに南にねじ曲げられてる 糸島だって実際は北東にあるのに南東にねじ曲げられてる >>51
本当に在ったか無かったかは別として
己等の正当性を担保するには東征と言う
出来事が絶対に必要だったんだと思うね。 明治まで日ノ本の意味を読み違えて秀吉の
出羽・奥州・日ノ本之果迄モ被相攻、御仕置等堅可被仰付候
を日本統一宣言と誤読していたことがある
日ノ本は中世まで日本列島の東端つまり都加留あたりを表す言葉だった
秀吉は奥州仕置軍を進めて北東北まで進軍している、このことを指した言葉だったんだが
明治にそれがわからなかった
戦国から明治までのたった三百年で地理認識を表す語の意味が変わったんだな
そんなもんだ >>958
九州説を否定するいつもの理屈が
畿内説を肯定する理屈に刷り変わってるのはなんでだろー >>927
公孫氏は密かに独立の準備をしていたんだ
自分の勢力圏を大きく見せる為に魏の1里よりも短い里を使用していたんだ。 >>958
末盧国への上陸場所は呼子付近だったんだよ
東松浦半島内を南下して唐津市街地付近から東へ向かったから東南と記されたんだ。 >>944
>「みなは女王国に統属していた」
「倭の国々はみなは女王国に統属していた」って意味だな
伊都国の説明文だから伊都国が女王国だ。 >>951
末盧国へ上陸して伊都国までが陸行1日で
陸行1日を陸行1月と誤記されただけ >>952
おもろそうし変態仮名
王→わ 者→は 爾→に 可→か 志→し 多→た 里→り 連→れ 満→ま 本→ほ
三→み 屋→や 他人事の人間からすると
人口希薄地帯の近畿に九州人か東北人が入って
各地の外来人の混ざった連合政権で
周辺地域を席巻していった、という話は
別に違和感はないんだけどね
もちろん九州説でも構わないんだけど
普通の人はこんくらいの感覚だと思うよ 後漢書では「使訳通じるのは30国、みな王を称しており、大倭王は邪馬臺国にいる」となっているが
陳寿は参照資料をどう切り刻んで引用したのやら 個人的には大和という土地があまりにも便が悪くて
あれが日本の都の発祥地とは到底思えないんだけどな
あれ隠れ里やろ
奈良は最初から祭祀の土地だったんじゃないの
瀬戸内に実際の勢力があったんでは 気多大社の謂れも興味深い
孝元天皇の時代(孝霊天皇の次、台与の頃かな)オオナムチが化鳥の大蛇を退治して海路が開けたとある
2世紀〜広島と島根の境界から広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山と広がった四隅突出型墳丘墓がオオナムチ勢力かもね
四隅突出型墳丘墓は若狭周辺にはないのが興味深い
若狭辺りが化け鳥の大蛇の勢力圏だったのかもねえ
孝元天皇とオオナムチが同時代というのも注目ポイント
オオナムチは国作りをした大国主とは別なのかもしれないね 気多大社の謂れも興味深い
孝元天皇の時代(孝霊天皇の次、台与の頃かな)オオナムチが化鳥の大蛇を退治して海路が開けたとある
2世紀〜広島と島根の境界から広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山と広がった四隅突出型墳丘墓がオオナムチ勢力かもね
四隅突出型墳丘墓は若狭周辺にはないのが興味深い
若狭辺りが化け鳥の大蛇の勢力圏だったのかもねえ
孝元天皇とオオナムチが同時代というのも注目ポイント
オオナムチは国作りをした大国主とは別なのかもしれないね >>966
いや、伊都国には王ありと書いてあるが
女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帯方郡諸韓国及郡使倭国
皆臨津捜露 傳送文書賜遺之物詣女王 不得差錯
魏志倭人伝において王と女王は明確に使い分けている 奈良は芦原中津国平定大阪側平定の前線基地でしょ
ヤマトを征伐しヤマト政権を樹立する前に大阪で大敗したらしいし
ヤマト政権の初期はまだ大阪側と対立して睨み合っていたんでしょうな
邪馬台国卑弥呼と対立する狗奴国卑弥弓呼
狗奴国は大和川の南の河内和泉でしょう 畿内が広大だと思ってる畿内説は井の中の蛙
しかも「大」という文字を付けたがるのは某半島系民族の名残w
可住地:人が住むことの出来る土地
https://i.imgur.com/b6pzfwV.png >>975
5世紀頃まで大阪は河内しかなかったから
『仁徳期の治水事業により、河内湖の水域が減少するとともに、流入している大和川枝川等が河口に三角州をつくります。
そして湿地・草原あるいは堤防敷となり、その後、河内低地の陸地化が始まります。』
https://www.suito-osaka.jp/history/history_2.html 後漢書
使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國
漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る
魏志倭人伝
丗有王 皆統屬女王國
代々王がいたが、皆、女王国に服属している >>975
どこかのタイミングで移転したということか
それもありうるな
世界史的にはそういうパターンはある
ヤマトという地名の元は九州にもあるの? >>954
九州説は魏志倭人伝の方角は東が正しい説を否定したくて必死だな
考古学では畿内で魏志倭人伝の行程も畿内となったら九州説は完全破綻だからな
けれど現実的には魏の年号の入った銅鏡や大きな古墳など
魏志倭人伝に書いてあるものは畿内から見つかっていて
行程も不彌国から水行20日でトモの国と呼ばれてた瀬戸内海の鞆(とも)の浦が投馬国
邪馬台国が大和国とすれば行程は南じゃなくて東の方が正しかったという事になる
魏志倭人伝に書いてある行程が東じゃなくて南とあるのは
魏では邪馬台国ははるかな遠くの南の国という想定だったから
実際には東の国で途中に通る国名を見れば
九州から東に瀬戸内海を水行して大和に至るという経路が適合している >>974
魏から任命された倭王卑弥呼がいるのに倭国内に他に王が居たらそれは卑弥呼に対する反逆だよw
反逆者は自称王の狗奴国男王卑弥弓呼
魏志倭人伝に出てくるのは倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑弥弓呼の2人だけだよ。 いまだに土地すら確定出来ないって
本当にあったのか邪馬台国は?
実はそんなモン無かったんじゃね
卑弥呼も存在してない >>981
考古学でも九州説が主流になりつつあるんだよw >>981
低偏差値がその妄想作文しか書けないのは有名な話w >>985
いや考古学でも行程でも畿内説が主流になりつつあるね
魏志倭人伝に南と書いてる行程は実は東が正しかった >>983
公孫氏は自国の情報が敵対する国に漏れた時に備えていたんだよ。 >>987
畿内説の行程の説明とか人によってバラバラじゃないかw >>986
九州説はすでに破綻済みの放射読みとか短里しか書けないだろ >>988
魏は帯方郡の大きさくらい知ってたと思うよ >>990
バラバラになるわけない
邪馬台国は畿内とするなら九州から東に瀬戸内海を通るしかないんだから >>992
魏は三韓の大きさを知っていただろうか? >>992
知ってたら魏志倭人伝の記述韓が方1000里とかになってるよ。 >>994
朝貢して印綬もしてるから知ってただろうね 九州説最大の弱点
途中の国名から見ると魏志倭人伝の行程は南じゃなくて東が正しい このスレッドは1000を超えました。
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