【山形新聞】鶴岡市で旧庄内藩主酒井家の入部400年記念事業の開始式 初代・忠次の企画展が開幕 [みの★]
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旧庄内藩主酒井家の入部400年を記念する事業の開始式が14日、鶴岡市の致道博物館で行われた。酒井家初代・忠次に焦点を当てた特別展が同館で開幕するなど、歴史・文化の継承、魅力発信に向けた取り組みが本格的に動き出した。
記念事業実行委員会(委員長・皆川治市長)が各種企画を展開していく。式には関係者約40人が出席。皆川市長と18代当主の酒井忠久館長があいさつし「庄内の歴史ある風土を未来につなげる」などと誓った。荘内藩甲冑(かっちゅう)研究会の演武に続き、全員で勝ちどきを上げた。
同館の特別展「徳川四天王筆頭酒井忠次」は節目にちなんだ企画展示の第1弾。戦功を上げて徳川家康を支えた忠次関連の品々を紹介している。同館所蔵の国宝の刀、重要文化財の甲冑や、ゆかりの地・愛知県岡崎市から借りた資料計63点を展示。イノシシを切ったとされる刀剣などが勇ましさを伝える。有力武将との外交交渉を担ってきた側面を伝える古文書もある。
…続きはソースで(動画あり)。
https://www.yamagata-np.jp/news/202204/14/kj_2022041400333.php
2022年4月14日 21時59分 >>1
日本一の地主だったのにキチガイクーデター明治政府にほとんど没収されたんだよな >>6
本間氏って佐渡国の守護(守護代だったか?)の家系って聞いたが。 先週長野行ったら、真田信之が松代に転封されて400年もやってたぞ 本間家の没落は明治維新ってより農地開放のときじゃろ 初代藩主は孫じゃん。そうなると当地と海老すくい名人との縁なんて無いようなもんだろ。 彦根藩は幕末速攻寝返ったのに、
コイツラ最後まで抵抗してなかったっけ? >>12 負けた会津と違って、庄内は勝ったままで戊辰戦争を終えたんだよね。 庄内入りしたとき忠次は故人だし
酒井家としては初代でもない
なんだかなあ >>15
それ言い出すと小田原駅前に北条早雲像があるが当人は北条早雲と名乗った事無しい
小田原を本拠にしたのは息子の代からだしって事になる。 東京まで車で9時間ぐらいだっけ?
こんな不便なとこも珍しい 酒井家が領地替えされそうになったとき
前代未聞の「藩主いかないで運動」を行った地域 >>1
本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に >>20
彦根は別格としても神君四天王家よりも上に見られる商人頭オカシイ 最上家改易が1622年で山形県内の諸藩は大抵入府400年になるんだろうけど、酒井のように幕末まで続いたところはそうはないんだろうな 堺とか助左衛門や4鍛治や、武家とは違う権力があったし
大阪は本願寺と御堂が令和の時代の御堂筋に堂々とあるし >>22
フラッシュに「あんたの能力は?」と聞かれて「金持ちだ」と答えたバットマンみたいな感じ? 忠次幕府できる前に氏んでるし、庄内は孫からだろうよ >>1
ちなみに、この家は大老にはなれません
(大老の酒井家は、姫路藩・小浜藩の方の酒井家(酒井忠世の子孫)) >>26
マリウポリに露助の新しい市長がきましたみたいなもんで新市長のじじいで住民が盛り上がれるか?
こんなすげー人出すなんて愛知県すげー愛知県つえー愛知県かっけーって話だろ なるほどなぁ
だからウチの佐藤勉センセイは加藤派から始めたのか ウチは徳川十六神将のひとり鳥居元忠公を祖とする鳥居宗家が幕末まで150年間藩主を務められた下野国壬生藩ね >>39
当主が急逝して取り潰されるところを吉良上野介の倅を急遽養子に迎えて30万石から15万石の半減で済ませてもらった
これでただでさえ貧乏がだったのがさらに貧乏に
表高がほぼ同じ庄内藩の景気の良さとドえらい違い >>22
鎌倉時代の初めから守護代の家で、格から言ったらどこの馬の骨か分からない織田豊臣家康なんかより上だっての。 >>38
旧主を慕う地域もあればそうでもない地域もあるな
山梨の武田、新潟の上杉と山形の最上、静岡の今川とは随分温度差がある こいつの子孫が新政府軍に盾付かなかったら、今ころ酒田か鶴岡が県庁所在地になってて、羽越新幹線はとっくに開通していただろうに。 >>32
米相場で藩の財政立て直した本間宗久ほんとすげー
邪道だと言われて失脚しちゃったけど 徳川四天王の世間での知名度は
井伊直政>本多忠勝>酒井忠次>榊原康政だよな?
松本潤が家康役の23年大河「どうする家康」での四天王の演者は
酒井忠次:大森南朋
本多忠勝:山田裕貴
榊原康政:杉野遥亮
井伊直政:板垣李光人 >>49
てか
我が下野国旧壬生藩主鳥居宗家の祖
鳥居元忠:音尾琢真
鳥居忠吉:イッセー尾形
って凄くね?w あと半年前に我が栃木県壬生町で開催された『全国藩校サミット』に酒井忠久氏もいらしていたみたいだなw
https://i.imgur.com/vx65OD9.jpg 仮にも酒井は徳川四天王筆頭といわれていたので、
信康自刃事件がなければもっと大藩に転封されていただろうな 米がいっぱいとれて豊かだったのに
城の改修を命じられて、その費用負担で赤字だったって聞いたことある 鶴岡で生まれ育ったけど歴史を真面目に勉強したことが無いので昔のことはさっぱりわからん 山のつく県名は下記の通り
山形県
山梨県
山口県
意外にもたった3つしかないのです 鶴岡なんかずっと酒井の殿様なんだから勉強も楽だろうに
山形とか左遷先みたいな扱いでころころ変わって、覚えるのも大変よ >>46
地方によっては、○○藩旧家臣団の会があったりする。
特に会員だからといって特典もないけど、先祖は武士と言い張れるわな。 酒井忠次が、後4年生きてりゃ家康が覇権握る所を見られたのになあ
死ぬギリギリまで、現役だったら、もっと石高も多かったろうに 石川数正がいなくなってから大忙し
本多正信が台頭してきて一気に閑職に
筆頭家臣の座は長くなかった印象
若い頃の恩はあっても信康問題で味噌つけてたから重用はしたくなかったか >>47
新幹線なくて良かったかも。
庄内は風光明媚な良いところ。
何より人が良い。 >>52
幕末、徳川御三家が薩長軍に寝返る一方で最後まで徳川に忠誠を尽くした譜代や会津藩(初代藩主が秀忠の愛人)などの様子を徳川家康が観たとしたら、何と言うのだろうか。。。 >>64
× 会津藩(初代藩主が秀忠の愛人)
◯ 会津藩(初代藩主が秀忠の愛人の子) >>64
水戸藩がS級戦犯、朝廷や薩長側から見ればMVPであることは明らかですよ >>64
部下捨てて敵前逃亡した慶喜には何と言うんだろうな >>63
現役引退後、庄内から外に出る必要もなくなれば、
悠々自適に余生を過ごすには絶好の場所かも >>64
関ヶ原後に120万石から30万石に大減封
さらに15万石にドン
長州毛利が徳川にこの恨みはらさでおくべきかと260年もネチネチやっていた一方、同じ境遇の米沢上杉は義理堅くも奥羽越列藩同盟に加わっていたりするのであった
梟雄元就と義将謙信の藩祖の性格の差がモロに出たと思える >>5
おまえテキトー杉だろw
大名家は支配権の保有だから「地主」などじゃない。本間家と勘違いしてんだろうけどw
そもそも大名を地主としてカウントするなら、日本一は徳川家になるはずだ。 >>72
それは酒田民が言ってることで鶴岡では禁忌
本間家は酒井様に仕える家来という扱いだった かつて仕えた
徳川宗家は、立憲民主党から選挙に出馬
だからなぁ >>75
東日本、旧佐幕地域、旧華族が民主党支持が強いのは常識だが? >>26
旧最上領内なら新庄藩(戸沢氏)が同じように1622年入府で幕末まで続いてるね
というか他に最上氏改易時の1622年に立藩してるのが山形藩上山藩ぐらいしか無い
まぁ、大名家1個潰して藩4つできるなら多い方かもしれんが >>76
東北は比較的自民強いところ多い
例外は支店経済進んだ宮城と小沢の岩手ぐらいでしょ
もっともTPPあたりからだいぶ崩れた感じだけど 鶴岡銘菓「きつねめん」の由来話が好き。
酒井家どんだけ領民に愛されてんだよと。 >>78
御一新で大名家は華族となり、明治大正と時代がたつにつれ多くの家が没落していったが、上山松平の零落ぶりは小説かのようだ
世が世なら姫君がダンサー、女給、さらには芸妓から酌婦
哀れ極まる >>36
それを言うなら老中だろ
大老は臨時の職ではなかったか? >>78
酒井は本当は庄内ではなく山形に行きたかったみたいだな
庄内は外様の押さえとして重要な地だから、と説得されたそうだ
山形のほうが伊達や上杉の押さえになりそうな気もするがw >>83
大老になったのは井伊・土井・堀田・酒井の四家 >>83 老中はいろんな譜代大名がなれるけど、大老を出せる家は限定されてたんだよ。
井伊家と酒井雅楽頭(姫路藩・小浜藩)家からはよく出ている。
堀田家と土井家にもその大老就任の資格のなる家ということになってるけど、それぞれ一人づつしか出てないから、家としての資格があったのかどうか疑問ではあるが…
ともかく、庄内藩酒井家からは大老は出てない。 幕府の役職につける家っていうのはそれほど厳格に決まっていたとは思えない
間部や柳沢、田沼のように引き立てたければ幾らでも出世させられる 堀田家もその口だろう
公家もこの家は大納言までとか左右大臣までとか言うけど結局ご都合的に例外がゾロゾロ出てくる 姫路の酒井家は断絶してお墓を管理する人もいなくなったらしいな >>10
ゲバゲバ将軍の家系は前橋→姫路のようだ
庄内藩は藩祖が徳川四天王の一人なので
実は大老や老中を出してるゲバゲバ将軍のところより家格が高い >>86
大封を持つ大名は幕政に関与させない、というのが江戸幕府の方針だった
井伊家は例外だけど、大老は名誉職的な地位でもあったし
井伊家は直弼以外には権力を振るうことはなかった
これは非常に賢い措置で、大封を持つ大名は政治的な抗争を武力で解決する可能性もあるし(足利幕府の細川、畠山、山名や豊臣政権の諸大名)、武力闘争は将軍の権力を危うくする
実際、幕末に島津だの山内だの水戸だの越前だの会津だの大藩がでしゃばってきたのも幕府が滅んだ一因だろう
家康が功臣に大封を与えるかわりに政治から追いやったのは歴史をよく研究していたからだと思う >>74
だが、本間様が私財を投げ打って当時は高級な鉄砲や大砲、質の良い武具を大量に揃えて庄内藩士に使わせたお陰で他所の藩が攻めてきても無勢でも相手藩をフルボッコ出来た歴とした証拠があるからね。 薩摩の私学校に家臣と一緒に留学し、西郷に学んだ当主がいたよね。 >>90
譜代で大封と言っても家康家臣にドケチで井伊の他は十数万石にすぎない あんまり意味のある措置とも思えないなあ
柳沢吉保なんか加増加増でその大封になっちゃってるし >>92
西南戦争の際は西郷側で参戦したい旧藩士たちの説得に苦労した
結局当時薩摩留学中だった2名がそのまま参戦、戦死
そのうち一人は兄が政府軍側で参戦し兄弟共に田原坂で戦死している >>86
柳沢吉保が「大老格」であったことから、土井・堀田も「家として資格があった」で差し支えないかと >>94
西郷側で亡くなった元藩士も荘内神社に祀られてるね
維新後、多くの元藩士たちが郊外の荒れ地を開墾して農業や養蚕で生計を立てた
戊辰戦争に敗れ一家離散してもおかしくない状況にありながら、故郷で堅実に生き抜いた彼らは立派だと思うよ >>1
うち900年祭りとかやったのかな
聞いたことない >>86
そもそも臨時職なんで。
ローマの独裁官みたいなもんだよ
割と知られてないが3代家光から綱吉までの元禄文化の時期に幕府体制が一回崩れかけてる
だから6代では無役の新井白石の正徳の治をやるほど一回緩んできた
>大老(たいろう)は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職である。
より広義には、大名家・執政機関の最高責任者群を指す(豊臣政権の五大老などがよく知られる)。
> 記録で明らかな所では、寛永15年(1638年)に3代将軍・徳川家光が土井利勝・酒井忠勝を大老に格上げしたのが始まりとされる。
その後、徳川家綱の時代に酒井忠清・井伊直澄が就任し、
5代将軍・徳川綱吉が任命した堀田正俊の時に最高職としての体裁が整った。
大老職に就けるのは井伊・酒井(雅楽頭流宗家)・土井・堀田の4家に限定された
(ただし、雅楽頭流酒井家はさらに宗家の前橋藩
→姫路藩と別家の小浜藩に分かれた次の代でともに大老に就いているので、事実上5家と数えることもできる)。 土井利勝は家康のご落胤だろ
ポッと出なのに周りから妬まれてなかったみたいだし、家康とそっくりだったらしいから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています