【侵略】「文禄・慶長の役」で書いた、秀吉の書状見つかる 正室宛てに「当年中に明を取り、向こうへ渡ったら迎えを遣わせる」 [樽悶★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
豊臣秀吉自筆の書状が加治木島津家資料の中に残されていたことが分かり、27日、寄託先の黎明館(鹿児島市)が発表した。自筆書状は100通余り見つかっているが、県内では初めて。明(みん)の征服を目指した「文禄(ぶんろく)・慶長の役」のさなかに正室の北政所(きたのまんどころ)へ宛てた1通で、同館は「外征に臨む中での心情が伝わる」と解説している。
1592(天正20)年の6月3日付と推定され、縦28.4センチ、横42.1センチ。前線基地の名護屋(佐賀県)から出された。「当年中に唐国(明)を取り、唐国に遷(うつ)ったら迎えを遣わせる」と書かれ、末尾に「太閤(たいこう)」とある。「からこく(唐国)」の途中とみられる「こく」から始まり、前段部分はなくなっている。
同館の小野恭一学芸員(37)は「妻に対して、自身の野望を強気につづっている」と指摘。一方、明征服の時期を「当年中」と記すが、1カ月ほど前に出した別の書状では「9月」と伝えていた。秀吉は6月2日、朝鮮水軍の反攻などで渡海の延期を決めており、戦況悪化を認識していたと考えられるという。
書状は2020年1月、館に寄託された。東京大学史料編纂所(へんさんじょ)と協力し、筆跡などから秀吉自筆と確認。加治木島津家に伝わった経緯は手掛かりがなく「同時代の島津義弘らが入手したか、または後世に購入されたのか、現時点では不明」としている。(以外ソース)
5/28(土) 8:17配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/6eb07152fc186dfce626bce2404925fea2d15c4b 昔テレビでやってた戦国大名の達筆ランキングで秀吉が1位だったぞ 明を取るのが目的のシミュレーションゲームなんかあっても面白いんだろうが厳しいんだらうな
ガッツリ描いた大河とか映画とかあるのかね? >>198
ポルトガルスペインなにするものぞで中国を獲って肩を並べる国になっていたら、そのあと英仏あたりと勝負することになってたかも
このルートだと明治維新というイベントは発生しないし有象無象の品人を統治せにゃならんしキツいな チャンコロは数では敵わないが一人一人の士気は日本人より低く、己を捨てることはできないので弱い 侵略は相手の国民をどう手懐けさせるかが重要
前線の補給手段になるからね
あとやっぱり屯田とかそういうの無かったからイケイケドンドンでやったんだろうね この戦いで、前線で戦う加藤清正・福島正則ら武闘派と、
後方で物資の補給や戦況報告する石田三成ら文官派の間に埋めがたい対立出来た
この豊臣政権の仲間割れに乗じて、徳川が豊臣滅ぼした 秀吉や家康は信長と違って死んでちゃんと埋葬されてるから発掘すれば秀吉や家康の遺骨とかあるのかな?
あったら骨格から生前の姿の再現とか可能だろうから学術調査とかで掘り返してくれないかな。 >>234
京都の秀吉の墓からは人骨でたみたいね
また梅返したけど 秀吉が大陸出兵してなかったら何が起きてたかな
外様が疲弊せず、内戦勃発?
半島の焼き物文化が入り込まなくて、日本の焼き物文化が違っていた? AIに昔の字を覚えさせてガンガン読み取れるようになってきたから、これから解読が進むね 政権固めに入る時期にこんな外征やって、消耗したんだから豊臣政権崩壊の道筋を自ら招いた いったいどんな地図見ていたんだろ
絶対正確じゃ無く、中国の国力を見誤っていたよね
明の支援が無ければ半島は切り取れたかもしれないが、維持が難しかっただろう
貧困地帯で見入り無いし >>235
・講和交渉に同席していた前田玄以が交渉直後に秀吉は明国使節と筆談したと述べている
その旨が記載された前田玄以書状の原本も現存している
・史料には拠らず見た感じのたくったような文字(笑)だから文盲だったに違いない!
どっちが根拠薄いと思う?
と言うか文盲ならそもそも仮名文の書状すら書けないだろ
信長にしろ秀吉にしろ直筆書状が現存してることが既に文盲ではないことの証左になってる 秀吉は島津を屈服させた時に領地を奪わなかったので
恩顧の大名に恩賞を与えられなかった
だから豊臣政権存続のため海外の領土を奪って与えるしかなかった
結果、大失敗に終わって政権は崩壊した >>242
国力の差は絶対ではない。
国力の差が絶対なら女真が明を滅ぼすなんてできるはずがないし
明人から皇帝が万暦とかいう無能のデブだから勝てますぜとか聞いていたのかも知れん 中国に対して占領後、女真族は洗衣院、モンゴルは大虐殺、日本はどんな蛮行をするんだろう? >>173
やっぱり若い女の側室的な淀どのに生ませた子供に継がれるのも
女の嫉妬があったかもな
それにしても秀吉はかなりの女好きだったのになかなか子供はできなかったんだよな
秀吉は美女狩りとかもやってたみたいだけど >>244
秀吉が直接筆談?なわけねーだろ
あと文盲でもかんたんな言葉や文はかけるの
読めないんだよ漢字が
当時の人は特別な教育受けてなければ大概読めない書けない
教養という部分で信長秀吉にはそういうことがちゃんとできているか痕跡がない
守護大名家足利義昭徳川家康なんかの書状と比べてみろよ のたくったようなきったない字しかかけてないぞ 漫画の夢幻の如くでは、本能寺を生き延びた信長が世界を取りに海を渡る >>218
朝鮮侵略はともかく
WW2の時は侵略戦争は悪の時代だろ 武士の口減らしとか恩賞を与えるためじゃなくて、マジでやってたのかよ やっぱりこの頃から認知症になりかけてたのかな? >>254
WW2以降の認識だよ。
租界の権益守るために軍隊送り込むとか、どの列強もやってたし。 今のロシアみたいに側近が、上手くいってますとか順調ですとか進言してたのかね。 半年で明を落とすつもりだったのか
耄碌しすぎやろw 悪ではなく、良く無いよ程度。表向きと裏は違った。
言いかがりでもなんでも外交の延長でうまくいけばおkの時代。
侵略が明確に悪となったのはWW2以降。 >>255
明征服は信長の構想と1582年のイエズス会日本年報に書かれてる
秀吉の出兵の表明が1585年 秀吉の失敗だったように描かれることが多いが
このとき日本軍が大陸進出して強さを誇示したおかげで
日本は西洋の植民地にならずにすんだという見方もできるんだよね。 >>250
あんたがいくら違うと言ったところで史料に拠らなきゃただの妄想だな
現場にいた前田玄以が秀吉は筆談したと言ってる史料(文禄2年5月25日付駒井重勝宛前田玄以書状)があり、こっちはそれを根拠に文盲ではなかったと言ってる
それでも違うと強弁するなら確たる史料を提示して証明すればいい
足利義昭の自筆書状なんて一通もねーよ
義昭発給の御内書は全て右筆の手によるもの
家康にしても「当時の慣習」により女性宛や身内宛の自筆書状は仮名文で書いてる
>>192の画像見てみろ
当時の慣習や書札礼を調べてみたらいい
手紙を出す相手によって仮名文なのか漢文体なのか、または厚礼なのか薄礼なのかちゃんと書き分けてるから
学がないから仮名文しか書けないなんて言ってる研究者は一人もいない >>265
対する明や朝鮮も西洋の植民地になってない >>246
万暦帝の定陵を見学して、趣味が同じみたいだから秀吉とはプライベートでは良い友達になれたかもって印象を受けたw >>267
朝鮮はフランスの軍艦がウホウホ言ってる原始人の国とみて一隻で制圧しようと上陸したけど
対日本に備えて作られた城塞が堅固でしかも日本軍が残していった鉄砲を維持管理していてそれを使って撃退した
まあ相手は一隻なんだけど >>266
なんで筆談が根拠なのっ?(笑)
秀吉の言葉を中国語で書く人
↑↓
使者の中国語を日本語にする人
だよな秀吉と使者がお互い書き書きしあいっ子したーの?
足利義昭の直筆一つもない?サラッと嘘混ぜるなアホ
>>192
画像みた?仮名でもきれいだろ?のたくったのとは違うだろ
史料が大事なんだろ信長秀吉の達筆な直筆サイン入り史料だしんさいはやく! プーチンは国内では絶対的権力でも、対外的にはそうでは無いまま死にそうだったからヤケを起こしたんだろうな >>271
漢文で意思疎通できるだろ
豊臣秀吉文書集6には明の使節沈惟敬宛の秀吉書状写も収録されてる
当時日本で使われていた候文の漢文体とは少し違うが大きく異なるわけではない
前田玄以の書状には筆談したとしか書いてないからどういう状況だったかは断定できないが、
書状からは寛いだ様子で日本や明の様子を聞いたり話してることから、雑談での場のことを描写してると思われる
秀吉自ら筆談したからこそ前田玄以もわざわざ「一段筆もかろに申上候て」と表現して秀吉上げしてるんだろうし
右筆や通仕なら一段と筆もかろやかになんて言う必要はないからな
あと秀吉自ら使節と筆談して全ての交渉をまとめたなんて自分も思ってないぞ
ちゃんと通仕や右筆も同席してるし秀吉自らやるわけがない
あくまで雑談の中での余興のようなものだったと思われる
ただ雑談程度であっても筆談できる人が文盲はあり得ない >>271
足利義昭の自筆書状に関しては御内書は一通もないが、書状は改めて調べたらあったわ
小早川家文書に一通、吉川家文書に一通伝来してるようだ
どちらも文禄年間に出されたもので、小早川隆景宛の書状は隆景が朝鮮で病を患ったことを心配し、早々に帰国して養生するように言ってるもの
吉川広家宛の書状は朝鮮在陣の労をねぎらった内容
これに関しては適当なこと言って申し訳なかった
192は見たも何も俺が上げた画像だよ
達筆かどうかなんて個人の感じ方によるとしか言えない
北大路魯山人は日本の新三筆を良寛・一休宗純・秀吉として評価してるし
秀吉にしろ家康にしろ上手い下手はあっても同じ仮名文のくずし字であることには変わらん
字の巧拙が文盲かどうかの判断基準になるわけがない >>274
わかりましたいろいろな見方感じ方ありますが
文盲だという断定は乱暴過ぎたと反省します 秀吉の死に欲だわな
金持ちの死に際の誇大妄想は実現の可否や大小問わず昔からあるものだ >>263
秀吉の出兵表明は1585年と見る人もいるが、その根拠とされる(天正13年)1585年9月3日付一柳直末宛羽柴秀吉書状読むと微妙なんだよね
秀吉の蔵入地の管理を任されていた加藤光泰がそれを私物化したことに対して、
「20石取の者(加藤光泰)を500石、1000石取と度々加増して、今は要の城である
大垣城に2万貫を領地として与え、更に蔵入地7千石の代官を光泰に任せている。
このままでは秀吉は光泰のために日本全土は言うに及ばず、明国まで征服しなければならなくなるではないか。」
つまり秀吉は十分な恩賞を与えているのにもかかわらず、光泰はそれに満足せず蔵入地を私物化するという暴挙に及んだ
光泰が満足する恩賞を与えるためには日本全土はおろか、明まで征服しなきゃならんじゃないかという皮肉の中で唐入りに触れている
この頃には既に秀吉の心底に出兵計画があったとしても別におかしくはないが、
これを正式な出兵表明の初出史料として捉えていいものなのか正直微妙
正式に出兵表明してるのはもう少し後の天正15年(1587年)で、九州征伐が完了した直後 1990年代の秀吉のディスりは酷かったが最近は結構冷静に扱われるようになった方だな。 >>265
この戦争後にヨーロッパは日本を帝国と言うことに
なったからね
あの当時の西洋とは桁違いの軍事力を動員できる
東アジア諸国を植民地化できないと悟ることになった 戦術からして失敗してるもんなぁ。
なんで支配したらチョンをまず先兵で送り込まないんかって事になる。 小早川 加藤 小西が世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ >>223
確かに、日本による朝鮮やシナ征伐のシミュレーションゲームないよな。
あれば一回クライやってやっても良い。 >>281
そんな事したら奴隷ニサレニダ!賠償シロシロニダ!うるせーだろ
秀吉は未来のビジョンが見えてたんだよ 明のトップがあのニート皇帝徽宗だったので秀吉がもう少し長生きしてれば可能性はあった 秀吉がアメリカ大陸を目指していたら日本は世界最強の国家になっていた >>281
センジンは使えないからだよ。
元寇は日本侵略のフネをセンジンに造らせたタメ、センジン得意のテヌキ工事でフネが水没して失敗に終わった(日本では神風と言われた)と言われておる。 朝鮮人民は出迎えてくれたらしーな
お人好しにもそいつらに米渡して物資不足になるっていう 実際この頃の日本陸軍は世界最強レベルだろ
日本製の鉄砲半端ねー 例え朝鮮抜けても、万里の長城の天険がある
清のヌルハチも万里の長城は越えられなかった
清の三代目の時に、明が農民反乱で滅んだドサクサ紛れに長城越えた
豊臣軍も、明が健在だった時に万里の長城越えるのは難しかっただろう >>293
だとしたら勝ってるよ。結局負けてんだから弱いんだよ。 確か、明の援軍が大砲持ってきててそれで負けたとかなんとか。
基本的に明の方が技術力が上だったからまともにやったら勝てないとかなんとか。 >>294
後金は北から来たから山海関を抜く必要があったが
ジャップは水軍があるから渤海こえて北京に直行よ
(´・ω・`) >>297
司馬遼太郎も似たようなこと言ってた
秀吉が本気で明を取りに行くなら、明国に直接上陸してたと
朝鮮経由にしたのは、本気で明を取る気じゃなかったからだと >>296
明は日本と違って自力で大砲を作れたからね
それと日本の貧弱な軍船は朝鮮軍の亀甲船には歯が立たなかった >>296
兵器の質とか戦術よりも大陸の強い寒波と半島内の補給線を維持出来なかったのが大きいかと >>3
>>5
大韓民国の抵抗により
日本軍の補給部隊は全滅してる
ジャップは弱すぎる >>299
笑かすなよ
漆川梁海戦が完膚無きまでに壊滅したくせにw 清正ツッコみすぎ
補給とかまったく考えていない
三成が頭抱えたのも分かる
進めばいいってわけじゃない
朝鮮ごときに負けたのが情けない あのあたりの時代の日本は世界最強クラスの軍事大国
さすがにオスマン帝国が一番抜けてるがその次あたり
一方明は楽しい馬賊の皆さんと日本に挟まれた苦しい時代 >>293
軍事力は最強だったか知らんけど、アタマは悪かったみたいだな。
補給路を断たれてあえなく撃沈だもん(笑) ちなみに中華王朝最高傑作は異民族に支配された清朝
日本を除く周辺国を圧倒 別に明征伐に行ってもいいんだけどさ
秀吉にしては計画がずさん
もっと明・朝鮮の内情を調べてから行くべきだった >>300
これが大きな要因だろうな
軍監として現地入りした石田三成の書状にも、
・名護屋で現地からの注進で聞いていた状況と異なり、朝鮮は全く静謐になっていない
・兵糧が欠乏している
・戦線が伸び切っていて敵城を奪っても城に入れる守備兵が足りない
・このままでは勝ち続けてもその内日本軍は無人となろう
と名護屋に居た同僚の長束正家らに宛てた書状で報告している
これは朝鮮上陸から3~4ヶ月後に書かれた書状で、日本軍の快進撃が続いていた時期だが現状は既にこの有様だからな >>306
撃沈されたのは李舜臣な
秀吉が死んだから皆日本に帰っただけ >>302
亀甲船は射程距離約500メートルの大砲を14門搭載してた
当時の日本では到底作れない代物 >>311
韓国人の妄想によってどんどん強化されていく亀甲船
離陸する日も近いぞw >>311
史料がほとんど無いんだよな
日本側に至っては全く出てこない >>313
李舜臣を高く評価してたのは痛い目に合わされた日本人の方だよ
明治時代には海軍大学の教科書でその活躍を学んだほど 朝鮮が弱すぎて
懐に入り込みすぎて戦線が伸び、補給が絶たれる
朝鮮半島の戦争はどこもこの轍を踏む 自筆って凄いな。
ヨーロッパのアジアへの脅威もあったから秀吉も警戒してた。
宣教師は侵略の為の偵察任務だから実質。
当時の日本を見て、良く切れるソード持ってるわ鉄砲も世界の半分ぐらい日本にある、独特の文化、戦闘民族ぶりに簡単には取れないと報告してる。 >>317
秀吉は自筆の書状がたくさん残ってるよ
天性の人たらしだから、「自筆」の意味が良くわかってる
他の大名みたいに代筆させたりとかしない >>315
亀甲船の設定にミサイルが追加されたところまでは知ってるんだけど
飛行能力はまだなの? >>305
オスマントルコなんてポーランド以下やで 割と知られてないのは信長と出会った頃に、まるで猿のような容姿だなwと信長に笑われてガチギレした秀吉が人に向かって猿とはなんじゃー!と信長を殴ってる
それから信長は秀吉には何も言わず、書面で禿鼠と嫌味を書いた
意外と短気な秀吉の一面で信長マジでビビっちゃった話w >>317
勿論右筆が書いたものもあるが、自筆書状に限って言えば多い順だと
伊達政宗→1300通
毛利元就→200通
豊臣秀吉→130通
参考までにこの二人も
織田信長→数通
徳川家康→30通
信長の自筆は数が少なく、自筆と言われてる書状も研究者によって見解が異なるので数通 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています