>>357
冬戦争と継続戦争なんだけど、
フィンランドの白い悪魔、シモヘイヘ含む
スナイピング連隊が恐ろしい数を狩猟した
どっかで聞いたやり方

> 1939年11月26日午後、
カレリア地峡付近のソ連領マイニラ村でソ連軍将兵13名が死傷する砲撃事件が発生したとソ連側から発表された。
この事件はマイニラ砲撃事件と呼ばれており、ソ連はこの砲撃をフィンランド側からの挑発であると強く抗議した。
この事件は実際には、ソ連が自軍に向けて故意に砲撃したのをフィンランド軍の仕業にして非難し、
この攻撃を国境紛争の発端に偽装したものであり、
このことは近年明らかになったソ連時代の機密文書によっても裏付けられている。
ソ連は、11月28日にモスクワ駐在フィンランド公使に対してソ芬不可侵条約破棄を通告する文書を手交[3]。
11月29日に国交断絶が発表された。
11月30日、ソ連は宣戦布告なしに23個師団45万名の将兵、
火砲1,880門、戦車2,385輌、航空機670機[要出典]を以って、フィンランド国境全域で侵攻した。
ソ連空軍は、国境地帯の他、ヘルシンキ、ヴィープリなど数都市を空爆した。
ソ連は、白衛軍の流れを汲むフィンランド現政権に対する人民蜂起を期待していたので、
空爆には、爆弾のほかに武装蜂起を促すフィンランド語のパンフレットが大量にばらまかれた。
その日の夜、アイモ・カヤンデル政権で連立を組んでいた社会民主党のヴァイノ・タンネル蔵相は、
カヤンデル首相に退陣を求め、12月1日にカヤンデル政権は総辞職した。
タンネルは、フィンランド銀行総裁のリスト・リュティに首相就任を求め、リュティはこれを受け入れた。
また、タンネルは、自ら新内閣の外相についた。
新内閣の方針は、国際連盟、西側諸国、北欧諸国に働きかけるとともに、軍事面では可能な限りの出血をソ連軍に強いて、
早期にソ連を交渉のテーブルに引きずり出すことで、一致した。
キュオスティ・カッリオ大統領は、マンネルハイムに辞表の撤回と国軍最高司令官への就任をもとめ、マンネルハイムはこれを受けた。