【歴史】日本史最大のミステリー「邪馬台国論争」のユニークな新説 「邪馬台(やまたい)」ではなく「邪馬壹(やまとぅ=大和)」 ★3 [樽悶★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。
■日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う
だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。
『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。
邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。
「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。
使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。
実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。
本書では、ここでユニークな仮説を立てている。
わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)
つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。
本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。
本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。
本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。
◇
邪馬台国はどこにあったのか。
おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。
この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。(新刊JP編集部)
2022.07.16 15:00
https://biz-journal.jp/2022/07/post_307086.html
★1:2022/07/17(日) 08:07:46.68
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1658032059/ 呉を騙すためというより、魏内のライバルを意識して司馬懿グループが嘘をついた
司馬懿は晋の高祖だから晋の時代に書かれた三国志でも訂正されることはなかった
この説なら別に矛盾もないしあり得そうだけどな 倭、倭国は当時の倭人が下手な中国語で「我、我国」と言ってたのを四声が間違ってたから「ワ(Wo)」というのがこいつらの自称なんだな、と勘違いされた可能性大 ヤマトは山戸、山門、山外
山あいの峠の不毛とかその向こう辺り、みたいな意味で日本中にそんな地名はあったんじゃないかな
これだけじゃ九州とも畿内とも言えない 倭の音読みがワで訓読みがやまと(山門のこと)
元々は大倭と書いてやまとと読んだ
大は単にgreatの意味
倭の漢字が雅で無いのでこれを大和に変えた
だから大和をやまとと読むわけな
奈良(畿内)以外で邪馬台国を主張している勢力って明らかに日本転覆を狙っているよな。
チョンと変わらん 邪馬台国は現在の宮崎県宇佐にあった。
宇佐神宮が祀ってる謎の主女神が卑弥呼で間違いない >>105
そもそも卑弥呼のルーツの可能性がある苗族のグループが1箇所にしかなかったという証明はされていない
当時、卑弥呼と同様なシャーマンが日本各地に複数いたとしても不思議ではない 邪馬台国=山門国
奴国=那国
狗奴国=球磨国
投馬国=妻国
不弥国=宇美国
侏儒国=四国高知西部の幡多地方のこと
ワダツミとは「幡多つ宇美」のこと
海は宇美が語源で、元々は博多湾のこと
海の中道は宇美の中道のこと
裸国、黒歯国はハワイのこと
>>12
こういうのってよく見るけどすぐ近く、て言うのはずるくね?
きっちりと真ん中じゃないとなぁ 山人かも知れんし語源はどうでも良い
邪馬壹も倭面土もそんな意味じゃないから 邪馬台国の台は台与(とよ)の「と」
だと思っていたが 奈良県の大和朝廷と考えるから難しくなる。
播磨灘とか大阪湾岸にあった大和朝廷の前身なんでねーの。 >>108
卑弥呼の墓は円墳。
箸墓古墳は前方後円墳。
一致しないので無理がある。 トゥ?…だと!?
あーあやはりキリストが日本へ教えに来ていたか
ヤァマゥトゥ
アクセントに注意しろ!全く別の意味になるからな >>102
邪馬台国に先立つこと10年前に金印を授けた
司馬懿のライバル曹真が担当していた西域の大国、大月氏国に対抗して
報告盛ったんだろうな 日本の歴史を知るには、葦原中国の歴史を取り戻す必要があるかもねえ
卑弥呼の前、倭国大乱の前に男王の治世が約80年あった
天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
国の始まりは国作りで記紀でいう葦原中国の建国
大国主は葦原醜男
葦が散るはなにわの枕詞で、アシ引きのは山にかかる枕詞
葦原はアイヌ語でサル、山王の使いはサル
ひるこが乗っていた船は古事記で葦船、日本書紀で磐樟船
枯野伝説で楠から作られたのは軽船、播磨風土記でははや鳥という船
サルがつく神さまと言えばサルタヒコだが、もう1人いる
スサノオの子の八島士奴美神
イワナガヒメと同じと考えられているコノハナチルヒメとスサノオの子
八島士奴美神、又の名は清之湯山主三名狹漏彦八嶋、又の名は篠清之繁名坂軽彦八嶋手命
サル彦であり坂軽彦であり
ここで興味深いのは、湯山という言葉。湯の山
スサノオの眉マユから生まれたのが楠で用途は船と定められた
弥生時代末期に営みが終焉した池上曽根遺跡
弥生時代最大級の神殿、楠の巨大井戸、蛸壺、石器の祠、鉄工房、ヒスイの勾玉が見つかった大遺跡
池上曽根遺跡が位置するのはマユ摩湯丘陵の海側
摩湯丘陵には以下の伝承が残っている
摩湯の丘陵の下から温泉が湧き、摩湯千軒といわれて繁昌の地であった。だが、あるとき、馬子が馬をひいて来て、馬蹄を浸したので、湯が汚れて有馬へ飛び去ったと伝わる
正に湯の山
楠は古代の西日本では丸木舟の材料として、また、大阪湾沿岸からは、クスノキの大木を数本分連結し、舷側板を取り付けた古墳時代の舟が何艘も出土している >>110
宇佐は確かに怪しいけど卑弥呼の最終到達地なのだと思うわ
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が日田の古墳から出土したと言われているけどあれは本拠地を追われた卑弥呼たちが下したものかも
とすると筑後流域から宇佐まで移動した晩期弥生遺跡は邪馬台国の人民の痕跡だった気がするんだよね
あるいは出雲方面への亡命だったのかも
宇佐のある地が後に豊の国と呼ばれたのも感慨深いものがある 鬼界アカホヤ噴火で縄文後期の九州の人口が少なかったと過程すると、
弥生系の可能性高い卑弥呼が九州にいた気はする >>83
そいう話は聞くね
野々村みたいに我がーを連呼してたんかな
あとは単に小さい国(人)というあだ名付けられたとか 最後に一つだけ言っておく。
歴史の改変作業を許されるのは勝者側なのだよ。
これだけは世界中どこでも同じだ。そろそろ現実を見たまえ。 外国人が映画の予告で日本語を発音したようなヤマトゥ >>21
魏志倭人伝の作者(編集者)は複数の元資料を参照しているが、作者の解釈ミスおよび元資料の誤認から意味不明になってる感があるよね。 邪馬台国と天皇の関係はどうなんだ
4世紀に日本をおさめていたのは天皇じゃなく
卑弥呼だったのか?
卑弥呼が天皇を抑え込んでいたのか? 4世紀って歴史的資料がないんだろ
韓国にある石碑の碑文くらいしかないって聞いたが
のちの皇族が4世紀の日本の資料を破棄したんじゃないか
つまり4世紀皇室は邪馬台国によって制圧されていたとか 邪馬壹国の壹は台の書き間違えだと言う
なんの根拠も無い説がまかり通り
邪馬台国と言う言葉が広まってるが
「壹」を古代中国語読みで「とぅ」と発音するって
またまた捏造もいいとこ
発音は「yi」だから日本語でイかイーだ 日本神話の天地開闢で最初に生まれたのは葦の芽
日本列島で人々が暮らし始めたのは縄文時代よりはるか前の最終氷期
最終氷期の瀬戸内海は陸地で、淡路島と四国、四国と本州は陸続きだった
瀬戸内海ではサヌカイトの石器が作られていた時代
瀬戸大橋の建設時に数万点のサヌカイトの石器が見つかっている
サヌカイトの2大産地は香川と、奈良と大阪の間にある二上山
二上山の大阪側からは日本最古の竪穴式住居が見つかっている
今の瀬戸内海周辺で大繁栄した集団がいたんじゃないか?
これが日本人の最古層で磐根だろう どれもこれも男塾に出てきそうな地名だなあ
記録官「ええと對馬国、撲針愚国、壱岐国、羅惧美偉国、末羅国…あれ?何か?
羅惧美偉国 ・里数は5、6倍の数字になっている
・呉を牽制するために嘘をついた可能性がある
ここまで考えてだよ、
水行二十日、水行十日陸行一月の数字は正しく、方角だけ嘘だと思うのってよほどの馬鹿か知的誠実さの欠如したやつかって思うんだよね >>132
支持されないと思うけど記述内容から正しいのは末盧国まで
対馬国と一支国は対馬と壱岐で間違いない
その後は無いな
伊都国は詳しく書いてるから日本の何処かにあっただろうけど >>37
神功皇后の時から福岡にもヤマトはあるんだよなあ…
しかも伊都国の南側に 氷河期、バイカル湖付近から来たブリアート人が
カムチャツカー千島列島ー北海道ー本州ときて
南から沖縄や琉球諸島経由で弥生人が来て
名古屋当たりで弥生人と縄文人が戦争して
負けた弥生人が北へ敗走してアイヌになったって
NHK日本人遥かなる旅でやってたと思うが
そういやアイヌ人ってなんか南方系っぽいし
顔に入れ墨入れるのも北方系民族よりは南方系っぽい >>5
「南」が「東」の間違いだっていうのも畿内説の定番だね
「間違い」が「嘘」に代わっただけで >>23
倭人は顔に入れ墨
邪馬壹国に馬はいないと書いてあるからな
それに大阪から奈良県に入るのに
どうして紀伊半島の東側に回って険しい山地を越える必要があるねん > 本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
文字がないレベルの蛮族がなんの脅威になるんだよ 纏向は吉備と東海の影響の強い新興都市
そこで作られた前方後円墳は墳墓と祭祀の融合を示唆している
逆に考えると祭祀と墳墓は別形態であったものが統合された当時の新しい概念で、それは権力者の俗世的な偉大さを称えているように思う
天照の伊勢にその痕跡がないのはそもそも天照がその概念の外にあり、古墳とは別の神宮という形式で祀られていることが興味深い
要するに古墳文化とは祭祀的カリスマである邪馬台国の興亡を目の当たりにした人々が感じた前時代的国家観に対してのアンチテーゼなのかもしれない 宇佐神宮は欽明天皇の時代に、応神天皇を祀るところから始まってる
そして次に宗像三女神、三番目に神功皇后が祀られた
それが九州地方の土着の信仰と結びついた
欽明天皇というのは継体天皇の子供で3人目の天皇
26代 継体天皇(父) → 27代 安閑天皇(子) → 28代 宣化天皇(子) → 29代 欽明天皇(子)
継体新王朝が、前王朝の祟りを鎮めるために建立したんじゃねーのこれ 大和言葉の音に漢字を当てただけやろ。普通に同じやと思う。 >>5
これは江戸時代の国学者の説で、それ以前にはない
珍説や 卑弥呼は邪馬台国じゃなくて倭国の女王(事実)
邪馬台国には王も女王もいない(記録なし)
倭に属するただの小さな村島だから見つかるはずも無い 天照は馬に乗って降臨したんだっけ
当時日本には馬はいなかったんじゃないか
天照は半島系だろ
それにたいして大国主はもともとの日本の神だろ
邪馬台国って大国主の系統じゃないのか
4世紀に本来の大和の神の系統である邪馬台国が
一時的に天照系の皇室を抑え込んだんじゃないか
だから後年皇室が4世紀の日本の資料を破棄した
だからほとんど4世紀の資料が残ってないとか 倭人は黥面文身してるんだが
畿内のどこにそんな部族あるんや 建物が木造だと残りにくいのが難点だよなー
石造りなら結構簡単に見つかったかもしれん >>21
まあ、九州にある末盧国や伊都国、奴国まではおおよそ議論の余地はなく確定出来るのに、投馬国と邪馬臺国で急によく分からなくなる時点で大体の察しはつくよね
邪馬臺国が九州内で奴国や伊都国の近くなら何の争いもなく比定できてるはず
それが投馬国より先は急に文献で曖昧になる、何故なら投馬国や邪馬臺国は奴国などの北九州から遠く離れたところにあった、と >>149
そうだとするといろいろ繋がってくるけど
トヨの存在が神話に存在しないのは気になる そもそも稲も文化も文字も九州経由で来たのに機内に王朝があるのは無理がある
邪馬台国九州だろうが畿内だろうが大和王朝と関係無いと思うけど やまとは単に山の入り口の意味であって日本中にある。
何も、奈良県の大和の専売特許ではない。 倭の女王卑弥呼は中国語、日本ではヤマトの女王日巫女 この説ってなんか井沢元彦がだいぶ前に著書で言ってたような >>118
円墳じゃないよ
丸みを帯びた方墳
この当時はごくありふれた形 >>160
九州で入墨してたなら畿内説では九州まで勢力範囲なんだからヤマトの説明で九州のことを語っててもおかしくないだろ >>120
翰苑が正しい
已百支では無く巴百支国でハハキ国(伯耆国)のこと >>162
無闇にアンカー打つな読み方の話などしとらん やまいち説は聞いたことあったけどこういう説もあるんか >>30
隋書には魏志の邪馬台は邪摩堆(大和)の事であると書いてるよ >>174
府中、伏見、富士とかもな
土地名から推定するのは無理だと思う
古代日本では九州と秋津島は明確に別の島で国扱いされてるのに統一政権があるわけないと思うけど 高天原が高千穂なんだから九州以外にありえんだろーが
馬鹿な畿内爺が意地になってるだけだろ >>182
隋は聖徳太子の時代で大和王朝確定だからだろ 邪馬台国卑弥呼と狗奴国卑弥弓呼
狗奴国、クナ
クナが付く神さまが延喜式に登場する
道饗祭
高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
八衢比古・八衢比売・【久那斗、クナト】と御名は申して辞竟へ奉らくは、
興味深いのは湯津磐村、湯と磐
また延喜式には皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたと書かれている
下津とはなんなのかということだが、同じ延喜式にイザナミの件で以下のように書かれている
吾は下津国を知らむと白して、石隠り給ひて、与美津枚坂に至り坐して
イザナミが逃れたのは記紀では黄泉の国、延喜式では下津国
黄泉に逃れたイザナミの名は道敷大神
道の枕詞は玉鉾の
時鳥の別名はタマムカエ鳥で、時鳥は冥土=黄泉に来訪する鳥と言われている >>167
岩戸から出てきたのがトヨという解釈があるね >>182
記紀ですらわからない邪馬台国なのに
隋が同じ国かどうかわかるわけないやん
適当に憶測書いてるだけ >>184
それだと邪馬臺国は宮崎?皇室の祖先は狗奴国?
九州ってざっくりし過ぎやろ >>160
近畿から出る埴輪には、顔面に入れ墨が入っているものが多い
5世紀中ごろから人物埴輪が畿内に現れる
だからといって、魏志の卑弥呼が畿内にいたとは思わないが >>186
静岡で最近発掘された高尾山古墳は狗奴国の卑弥呼子ではとも言われとる >>160
アイヌに入墨文化が残ってたから、
縄文系に入墨があった可能性が高い
畿内に縄文系が多かったかは不明 俺が教えてやろうか?
邪馬台国の場所
いいか今から日本地図を広げてダーツで刺さったところが邪馬台国だ 漢委奴国王印も志賀島、君が代のルーツも志賀島なんだよなあ
だとすると邪馬台国はやっぱ九州かなあ >>194
その可能性より普通にその部族が多かったあたりの方が可能性高くない?個人的には宗像氏か秦氏だと思うんだけど >>1
珍説どころかアホ説だろ。
230年頃に呉は倭に人員不足の為、倭に人狩りに行ってんだろ?
場所を知られたくないとか、三国志の聞き齧り程度の知識でしかねーだろ。 ちなみに天照大神は纏向以後に確立された新興祭祀でその前は女神ではなかった伝承も多い
なぜ女神として確立されたかというところに面白味があるのだが、一つの考えとしては卑弥呼の持っていた権威そのものが大王の権威として利用され天照と融合した可能性がある
それが崇神の代で王権が確立し不必要になったので畿内から伊勢に遷された
その「遷す」という概念もそもそも九州から大和へ遷された権威だからと考えるとストーリーとして整合性が見えてくるんだよね
史実がどうかは別の話だけど
総合して考えると大和の王権は卑弥呼の邪馬台国をリスペクトして作られた新興国ということになる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています