【歴史】日本史最大のミステリー「邪馬台国論争」のユニークな新説 「邪馬台(やまたい)」ではなく「邪馬壹(やまとぅ=大和)」 ★3 [樽悶★]
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「邪馬台国はどこにあったのか?」は江戸時代から論争になっている日本史のミステリーだ。歴史の探究に書物の存在は欠かせないのだが、日本最古の書物とされる「古事記」でさえ8世紀に書かれたもの。邪馬台国があったとされる3世紀のことを書き記した書物は日本にはない。その意味では、歴史には「空白」がある。
■日本史最大のミステリー 邪馬台国に行った使節団の足取りを追う
だからこそ「邪馬台国論争」はなかなか決着を見ることがないのだが、一つのヒントとなるのが当時中国大陸にあった魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。
『魏志倭人伝と大和朝廷の成立』(藤田洋一著、幻冬舎刊)は、この「魏志倭人伝」を紐解きながら邪馬台国の立地と今の日本につながる大和朝廷の成り立ちを解説する。
邪馬台国が存在した場所については「九州説」と「畿内説」が有力だとされてきたが、近年注目を集めているのが「畿内説」の一つで、邪馬台国が現在の奈良県にあったのではないかとする「大和説」だ。
「魏志倭人伝」によると、今から約1700年前、魏の国の使節団が倭国(現在の日本)を訪れた時の描写に、「南至投馬國 水行二十日(船で南に20日航行すると投馬國に着く)」「投馬國の後、水行十日 陸行一月(船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く)」とある。
使節団は魏から九州に上陸し、近隣の国々を回った後、現在の福岡近くの不弥国から船で邪馬台国に向かったとされている。
実はこれが邪馬台国論争を難しくしている一つの要因だ。福岡から船で20日間も南に行ったら、太平洋に出て沖縄近辺まで来てしまうからである。ただ、いずれにしても九州から船で20日間行くのだとしたら「邪馬台国九州説」は説明がつかないことになる。
本書では、ここでユニークな仮説を立てている。
わざと魏の国が策略のため嘘を書いたのだと解釈すれば問題は解けます。
何故嘘を書いたのかというと、それは当時の魏のとある事情があったからです。(P23より)
つまり先述の邪馬台国までの道のりについての記述は、あえて嘘が書かれていたということである。
本書によると、当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。地形的に、呉からすると魏と親交のある倭がすぐ東にあるということになり、地政学的な脅威となる。逆に魏にとっては、倭は呉に揺さぶりをかけるのに都合がいい。そんな事情から魏は倭の場所をあまり知られたくなかった。
では「魏志倭人伝」の中で魏がついた嘘はどのようなものだったのか。
本書では「南に20日」が実は「東に20日」だったのではないかとしている。そうすると「20日航行」した先の投馬国は、山陰地方の出雲あたりとなる。そこからの「船で水上を十日航行、徒歩で陸上を一月歩く」は、「船で水上を十日航行=さらに東に十日航行すると、京都の舞鶴付近に到着」、「徒歩で陸上を一月歩く=舞鶴から徒歩で一月」となり、「邪馬台国=畿内説」に信憑性が出てくる。
本書では畿内の中でも現在の奈良県にあたる大和にあったとする理由として、「魏志倭人伝」のオリジナル版(写本ではない原本)の中で「邪馬台国」の「台」が旧字の「䑓」ではなく「壹(トウ)」を使って「邪馬壹国」とされていたことを挙げている。つまり「邪馬台(やまたい)」という読み方がそもそも間違いで「邪馬壹(やまとぅ=大和)」だったのではないか。
◇
邪馬台国はどこにあったのか。
おそらく結論が出る日はまだ遠いはずだが、本書で紹介されている「邪馬台国大和説」は「魏志倭人伝」の解釈だけでなく、当時の中国と朝鮮半島の情勢が織り込まれ、思わず引き込まれる厚みを持っている。
この邪馬台国がいかに大和朝廷に繋がっていくのか。ユニークな歴史解釈に触れられる一冊として、歴史が好きな人は楽しめるのではないか。(新刊JP編集部)
2022.07.16 15:00
https://biz-journal.jp/2022/07/post_307086.html
★1:2022/07/17(日) 08:07:46.68
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1658032059/ >>575
北九州の筑紫城の漢委奴国王
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)と
その息子の神武も、
魏の第2代皇帝「曹叡(明帝)」と司馬懿も
そう思っていたんだろうな
ところが
奈良盆地(天照大神の高天原)を追い出された建速須佐之男命と息子の五十猛は
出雲から新羅に渡り曾尸茂梨に行き
曾尸茂梨から船にのって東に渡り
石見国、島根県旧邇摩郡・現在の大田市五十猛の海岸に帰ってくるなど、古さでは対馬ルートに劣らない
しかも、宗像氏の祖先は、出雲王国の6代目王「臣津野」(八束水臣津野/ヤツカミズオミツノ)の息子、隠岐の島の吾田片隅(アタカタス)
【狗邪韓国】が【曾尸茂梨】
【絶海の孤島の対海國】 は【磯竹(五十猛イソタケル)島(鬱陵島)】
【末廬国~伊都国~奴国】が【古代出雲(葦原中国)】
出雲(島根県)、伯耆(鳥取県西部)、因幡(鳥取県東部) 卑弥呼時代は
たかだか10国程度の連合国家なのに
まだ畿内説とか言ってんの?w >>899
奈良を制圧した神武は
紀元前208年から220年まで
同じ血筋の人物によって維持された漢王朝
から印綬を賜り
160年間以上も代々「漢委奴国王」であった
北部九州の倭奴國(筑紫城)の皇子 だから岩手の八幡平が邪馬台国だって何度言えばわかるんだよ >>895
少なくとも現代の人類学者の推計した当時の人口から見ると、九州全域での総人口は10万人しかいない
たった一国でその数を超えてしまうような魏志倭人伝の記述はアテにできるものじゃないね 江戸の学者ごときが邪馬台国論争を蒸し返したお陰で面倒なことに付き合わされる西日本であった 南北朝時代ですら九州の親王を日本国王に任命するぐらい分かってないんだろ
てか中国から見ると九州の比重が凄く重いのかもな
九州の支配者=日本の支配者程度だったかも >>905
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
その子孫の奈良の第12代景行天皇は
息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させた >>914
だからって神武天皇の遺品を雑に扱ったらダメだろw
正倉院くらいには入れておかないと 倭国は中国語で日本人は自分の国を邪馬壹とか倭面土とか言ってたんだよ そもそも「邪馬◯国は存在したのか?」
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ >>893
中国語の発音に着目するのは正しいけど、現代の中国語と当時の中国語の発音の違いと言う差も考える必要がある
3世紀の中国は上古語から中古語に変化している最中とされ、今の所どう読むのが正しいのかわからない
この発音や読み方を専門に研究する、音韻学と言う歴史学の一つの分野がある モンゴル帝国軍の遺骨調べれば💀
イギリス人って一発判明するんじゃ無いの? >>689
畿内まで片道2か月の移動中、何か国あるんだって話だよ
畿内は九州制圧するのに途中の国々は無視してんのか?
しかも女王国以北は詳細を得てるがそのほかは遠くてよくわからないという記述から
奈良まで数国しかなく、奈良の先に20国あるという構図を妄想してるんですか?
お前ら常に妄想が前提となって書き込んでんじゃねーよ
記述の内容に沿って返せ。 >>917
女王国が見つかってもいいよ
現代日本人はそれを邪馬台国と呼んでいるだけだから >>884
魏史(三国志)が倭国を重要視している背景を考えると邪馬台国が17,000里と遠方の理由が見えてくる。
三国時代に魏呉蜀で争っており不安定だった情勢もあるが、それ以上に魏内部における「魏を建国した曹操の一族」と「後に軍事クーデターにより実権を握り禅譲により魏から晋を建国した司馬懿の一族」の勢力争いに注目すべきである。
三国志が編纂されたのは晋建国後の西暦260年以降であり、司馬一族が王位を簒奪したのでなく正当に禅譲されたと主張したいという思惑があった。
魏により「親魏〇王」の称号を受けた国は2つあり以下のようになっている。
229年 曹真 西方 大月氏国 16,370里 親魏大月氏王 10万戸
238年 司馬懿 東方 倭国 17,000里 親魏倭王 7万戸
曹真は西方諸国からの朝貢をうけており一番遠い大月氏国(クシャーナ朝)は首都から洛陽まで16,370里という遠方から来ている超大国であり親魏大月氏王の称号を贈っている(後漢書)。
一方で司馬懿は東方征伐での功績があり、呉と通じていた遼東・楽浪郡帯方郡の公孫淵を討ち東方諸国への道を開いた。
この翌年239年に卑弥呼の朝貢が訪れたのは偶然ではなく司馬懿による要請があったと思われ、
「大月氏国にも負けない規模の大国(7万戸)が大月氏国以上の遠方(17,000里)から訪れた。それは司馬懿による功績である」とする目的があり、後に三国志を編纂する時にも司馬の功績と皇帝としての正当性を表す必要があったのだろう。
〇TIPS
・三国志筆者の陳寿は皇帝曹髦殺害の経緯を隠匿し禅譲の正当化を図るなど晋のために筆を折っているとされる。
・後漢書など他の史書では東夷・北狄・西戎・南蛮の四夷それぞれの伝があるが三国志には東夷伝しか存在しない
西側(大月氏国)の功績は後漢書により確認できるが三国志では抹消されている
・魏志を読むと朝鮮半島北東部の濊については距離についての記述が一切なく、南部の韓(馬韓・辰韓・弁辰)は地域全体の大きさの記述や国名はあるが国々の方角や距離など詳細な部分は書かれておらず曖昧にされている。
また不弥国から邪馬台国までの距離も明記されず水行二十日・水行十日陸行一月と日数換算で首都までの距離を曖昧にした上で、まとめて「帯方郡から首都邪馬台国まで12,000里(∴洛陽から17,000里)」と首都までの距離を提示している。 >>689
日本全体ではそうだったとしても
魏は知らなかったんだろ >>920
制圧したなんてどこに書いてあるんだ?共立だぞ >>920
無視してる
水行20日で投馬国、水行10日陸行1月で邪馬壹国
それが行程 『広志』(『廣志』)によると、
「廣志曰 國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬嘉國百女國以北其戸數道里可得略載次 斯馬國次巴百支國次伊邪國安 西南海行一日有伊邪分國無布帛以革爲衣盖伊耶國也」
伊都國のすぐ南に邪馬嘉國があり、続けて、
斯馬國→巴百支國→伊邪國→西南に海行一日で伊邪分國とある。
この西南に海行1日の伊邪分國は、隋書流求國伝の「夷邪久國」である。
『隋書流求國伝』の記載↓
中国の官僚が小野妹子に聞いた。「流求に行って、この布甲を持ち帰ってきたんだが、どこの物か知ってる?」
すると、小野妹子は答えた。「それは、夷邪久國の人が使うものです」
夷邪久國は、屋久島である。 神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
その子孫の奈良の第12代景行天皇は
息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させ、返す刀で
対馬航路を完全掌握して用がなくなった出雲の一族も討伐しち舞う
で、第33代推古天皇が
607年
奈良の飛鳥京から「日出処の天子……」の国書を持参した小野妹子が遣隋使として派遣され
煬帝の勅使「裴世清」が同行して帰国
608年
煬帝の勅使「裴世清」が同行して
奈良の飛鳥京から再び小野妹子が遣隋使として派遣 >>922
帯方郡から約12,000里って言い切っちゃっている
盛りたいなら、ここから盛るし、途中に適当な国を捏造して並べれば信ぴょう性も増す >>931
東南の大海の中迄の距離が12,000里 >>915
金印持って対馬ルートで半島に逃げようとしたんだろね
で戦いの混乱で金印は行方不明になった
ちなみに
奈良の第12代景行天皇が
息子のヤマトタケルに討伐させた
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家は
神武東征のときに北九州に戻って
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の跡を継ぎ「漢委奴国王」になった
神武の兄の三毛入野命の子孫
まあ奈良の天皇家にとっちゃ、滅亡させなきゃならん黒歴史なわけだ 道程問題は300年研究されてても解決されて無いのに
いまだに道程を語ってるヤツってアホだと思う >>932
水行20日で朝鮮半島南端の投馬国、水行10日で日本上陸、陸行1月で邪馬壹国 『魏略』→伊都國
『広志』→伊都國
『魏志倭人伝』→伊都國
『梁書倭伝』→伊都國
『北史倭国伝』→伊都國
邪馬壹(シェイマーイー)※『魏志倭人伝』より
邪馬臺(シェイマータイ)※『後漢書』より
邪馬台(シェイマータイ)※台は臺の新字体
邪馬嘉(シェイマージャ)※『広志』より
邪靡堆(シェイミードゥイ)※『隋書』より
祁馬臺(シーマータイ)※『梁書』より
邪摩惟(シェイモウウェイ)※『後漢書』倭伝に唐の李賢がつけた注釈「今、その名前を案ずるに、邪馬臺というのは邪摩惟のなまりである」との記載から。
↑
伊都國はどの資料でも伊都國である。
仮に、卑弥呼がいた国が「ヤマト」という国名であったならば、「邪」(シェイ)を「ヤ」と発音するにしても、「邪馬都」と書けばヤマトと読めるのに、そうしなかった。
すなわち、ヤマタイとかヤマトなるものはただのこじつけに過ぎない。 >>926
出発点が九州だとその後の記述と整合性がとれないからお前らの負けって話をずっとしてるんだが? >>933
伊都国までで10,500里を使い果たしている まだ話してんのか…
興味深い話題ではあるけど、新しい遺跡でも出てこないと話すことないだろ >>872
その大国の連合国それぞれについて全く記述がない
九州の国々はそれぞれについて記述してるのに >>941
その行程不弥国でお終いだからなんも関係ない >>946
東南の大海の中迄が12,000里だって (ある程度精巧な)地図を各国が持っている、それはごまかせない
という感覚で捉えるからおかしくなるって話なのでは?
自分が邪馬台国の人なら、国境からまともな道程で首都まで案内しようとは考えない
何故ならその道は容易に進軍路に化けるし、国力の露呈でもある
なんつーか東京駅から新宿駅まで案内するとして中央線ではなく、京葉線で千葉まで行って
東西線に乗り換えてとかして欺瞞に欺瞞を重ねる感じ >>877
いや他にも見つかってないところがあった可能性は否定できないだろ
むしろ九州は全ての国に倭の○×国の王だという金印が渡されていた可能性が高い 日本は「倭(わ)=小さい」と呼ばれてたから
「大和=大きい和(わ)」と当て字をして表記を変えた
読み方は邪馬台(ヤマテ)をあてて「ヤマト」にした 中国魏晋南北朝歴史学会副会長・陳長崎(ちんちょうき)は、『魏志倭人伝』は、いくつかの時代の資料が混ざっていて、欠陥資料であると言う。
例えば、魏志倭人伝に「刺史」についての記述があるが、刺史を監察官(CIA、KGB)と書いているが、
刺史が監察官だったのは前漢の時代までで、魏または三国時代の「刺史」は行政官(県知事)だったのであるから、この部分は前漢、つまり200年〜400年前に書かれた倭国に関する竹簡であると言う。
つまり、一つに20数文字しか書けない竹簡をバラバラに集めて、それをパクって一つの資料に作り上げてしまったので、色んな時代のことが書かれていると言うのである。
陳寿がとにかく倭国や邪馬台国について知っていることをなんでもかんでも盛り込んでしまった為に、本来なら『広志』や『魏略』になかった部分も付け加えたのである。
よって、「南至投馬国」以降の部分は、ただの付け足しとし、邪馬台国は九州であると断言した。
※『魏志倭人伝』が、『広志』や『魏略』を丸パクリしているのは知識のある人にとっては当たり前の事実であるのだが、知らない人の為に書いておく。 昔の発音が違うとかいうのを聞いてヤマタイ→ハカタイ→ハカタって思った そもそも、ヤマトとかヤマタイなる国は存在したのか?
『魏志倭人伝』に登場する言葉の回数
・邪馬壱(ヤマイチ)→1回
・邪馬台、邪馬臺、邪馬壹→ゼロ
・女王国→4回
・女王→3回(場所として女王が使われているもののみ。例えば、女王の所など)
・倭女王→1回
・倭女王卑弥呼→2回
・親魏倭王卑弥呼→2回
『魏略』
・女王→3回
・女国→1回
・女王国→1回
・邪馬と付く地名→ゼロ
『広志』
・邪馬嘉国→1回
・女国→1回
・邪馬壱、邪馬台、邪馬壹、邪馬臺と付く地名→ゼロ
↑
ヤマタイと発音可能な資料の初登場は、432年の『後漢書倭伝』である。
432年までは、ヤマトとかヤマタイとか発音可能な資料は一切存在しない。したがって、ヤマトやヤマタイなどは単なるこじつけに過ぎない。 >>956
その通りだろうけど距離から日数に変わってるのは付け足してて
投馬国→邪馬台国はまとめてあったんでしょう >>956
やまとぅー国騒動は中国人の杜撰さと
日本人の律儀さが相見えて訳のわからんものになってる 海幸彦は隼人の始祖
山幸彦はヤマトの始祖
隼人の兄弟が奈良なんて所に居たとは思えない
かつては日向の地がヤマトで、そこから奈良へ引っ越した >>880
田油津媛の山門郡は盆地じゃないよね?
和名類聚抄の訓注は「夜万止」
大神、山門、草壁、鷹尾、大江の五郷を併記だから
場所の比定は間違ってないと思うが
盆地というより山の際の地形 >>884
塞曹掾史の張政は邪馬台国と狗奴国と和睦のために来たのに
邪馬台国に来てないの? ヤマトを大和、倭、日本と色々な漢字に当てはめようとしてるのみると、元々あったところから無理矢理言い換えようとしてる気がするんだけどね。 九州説はそろそろカルト宗教の工作員という事がバレ始めてるぞ >>966
どう考えてもヤマトと言う言葉がまずあってその意味に合う文字をあてたんだよ 邪馬台国は素直に沖縄だな
魏志倭人伝の記述を捻じ曲げて本土の何処かにあるとするのは、天動説の為の屁理屈こねてるのと同じ >>965
和睦のために来たって何の話?
そのことが書いてある記述を示して 呉の人間は魏書以外から倭国の位置を知る術がなかったという解釈なんだ 沖縄ルーツの宜保愛子は卑弥呼の末裔かも知れないわけだし
w 神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
その子孫の奈良の第12代景行天皇にとって
神武東征のときに北九州に戻って
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の跡を継ぎ「漢委奴国王」になった
神武の兄の三毛入野命の子孫の
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家は
滅亡させなければならない黒歴史
そこで景行天皇は息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させ、返す刀で
対馬航路を完全掌握して用がなくなった出雲の一族も討伐しち舞う
しかし、第14代仲哀天皇と神功皇后のとき
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家の残党が再び蜂起し、仲哀天皇が討ち取られてしまうが
神功皇后が反撃
今度は、逃げる漢委奴国王家の残党を朝鮮半島まで追いかけていって完全滅亡させる(三韓征伐) >魏の国の人が日本について書いた「魏志倭人伝」だ。
これがそもそも誤りで、正しくは晋の陳寿による作で成立は晋代だ。
>当時の中国は魏・蜀・呉の三国が互いに争っていた。
従ってこれも必然的に成り立たない訳で、統一国家たる晋王朝が倭の位置を秘匿する必然性がなくなる。 >>966
邪馬台国を何と読もうが日本側の地名の記録が残っていない以上名前も読みも邪馬台国の位置を示す決め手にはならないんだけどね 神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
その子孫の奈良の第12代景行天皇にとって
神武東征のときに北九州に戻って
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の跡を継ぎ、彦瀲の次の「漢委奴国王」になった神武の兄の三毛入野命の子孫の
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家は
滅亡させなければならない黒歴史 そこで景行天皇は息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させ、返す刀で
対馬航路を完全掌握して用がなくなった出雲の一族も討伐しち舞う
しかし、第14代仲哀天皇と神功皇后のとき
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家の残党が再び蜂起し、仲哀天皇が討ち取られてしまうが
神功皇后が反撃
今度は、逃げる漢委奴国王家の残党を朝鮮半島まで追いかけていって完全滅亡させる(三韓征伐) >>925
考古学的には纏向に九州の影響はないでしょ?
九州説だとまだ無関係だから当然影響はない
畿内説でも九州は共立する仲間じゃないと考えないといけないのではないの? 邪馬台国とは関係ないけど
九州南部に 呉の国の物品が出てくるんだよね 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本で邪馬台国だ。日本の聖徳太子は隋に手紙を送った。百済、新羅、高句麗は倭国で日本の属国」 >>976
体に入れ墨とか年中暖かいとか、海に潜って魚取とか、普通に読めば沖縄
シャーマン宜保愛子も辿れば沖縄 1140年『古今華夷総図』では、倭奴と書かれた島の下(南)に、日本と書かれた島があり、さらにその下に流求(琉球)がある。
1532年『四海華夷総図』では、日本國と書かれた島の下に、倭と書かれた島があり、さらにその下に大琉球(沖縄)があり、またその下に小琉球(台湾のこと)がある。
つまり、1532年に至っても、まだ倭と日本は別々であるという認識が中国人にはあったのである。
それはなぜか?
魏志倭人伝までの倭は九州弁を喋る九州人で、隋書からは関西弁を話し、かつ「その名前がきらびやかでない」という理由で、「日本國」と名乗り出した関西弁を喋る関西人が、中国と接触を始めたのである。 >>980
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家の痕跡など残すわけがない >>979
その時神功は山門郡の土蜘蛛姫もやっつけてる>>964 >>980
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
東征前に九州で
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った子タギシミミは
ぶっ殺してしまった
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家の痕跡など残すわけがない >>989
東征前に九州でタギシミミを産んだ
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」の子孫だからねぇ
そりゃあ滅亡させるよ 私は、卑弥呼がいた場所が「ヤマト」とか「ヤマタイ」なる発音をする国だったとは思わない。
上記の通り、邪馬嘉とか邪馬壱(ヤマイチ)の可能性はあったろう。
しかし、仮に「ヤマト」と読むならば、卑弥呼は九州にいた可能性が高い。
なぜならば、沖縄人は今でも、日本本土のことを「ヤマトゥー」と言うからである。
日本語族の人々が九州から沖縄に行ったのは明らかである。なぜなら、沖縄の港川人はオーストロネシア語族だからだ。 >>993
沖縄のヤマトが何らかの事情で本土に移動したから、沖縄に残った人々は本土人を指してヤマトンチュというのかも知れない 神武は
何代目かの「漢委奴国王」である
筑紫城
天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の
第4皇子
しかし
神武が死んだ後の、奈良の2代目「天の皇」は
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミ
東征前に神武が九州で
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った子タギシミミは、ぶっ殺してしまった
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家の痕跡など残すわけがない 紀元前1世紀に初登場する日本人の記録『漢書地理史』には、
倭人は「定期的に」、中国に貢物を持ってくるとの記述がある。
卑弥呼の時代は「倭国に牛馬なし」なのに、畿内から大阪→兵庫→岡山→広島→山口→関門海峡→伊都國→壱岐→対馬→狗邪韓国→楽浪郡や帯方郡(今の平壌あたり)
このクソ遠い行程を牛馬のない倭人が奈良県から「定期的に」に貢物を持って行ったとは思えない。
391年の倭・高句麗戦争の際の、中国側資料に、「倭人は歩兵だけ」との記述があり、倭人は391年までは馬がいなかったのは確実である。 そしてその
東征後に奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミの子孫の
奈良の第12代景行天皇にとって
神武東征のときに北九州に戻って
父の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)の跡を継ぎ、彦瀲の次の「漢委奴国王」になった神武の兄の三毛入野命の子孫の
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家は
滅亡させなければならない黒歴史
そこで景行天皇は息子のヤマトタケルに
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家を討伐させ、返す刀で
対馬航路を完全掌握して用がなくなった出雲の一族も討伐しち舞う
しかし、第14代仲哀天皇と神功皇后のとき
九州・倭奴國の流れを汲む漢委奴国王家の残党が再び蜂起し、仲哀天皇が討ち取られてしまうが
神功皇后が反撃
今度は、逃げる漢委奴国王家の残党を朝鮮半島まで追いかけていって完全滅亡させる(三韓征伐) レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。