《組織委員会の会長だった森喜朗氏(85)が、KADOKAWAの競合相手だった講談社について「絶対認めない」などと発言していたことが、「週刊文春」の取材でわかった。取材に応じた音声データが残っていた。》(週刊文春スクープ速報9月7日)

 読んでみたら想像以上。自分のことを「週刊現代」「FRIDAY」などであれこれ書く講談社の五輪スポンサー入りは「絶対認めない」と確かに発言していた。「『俺はこんなものを認めるなら辞めようと思う』と言ったら、みんなビックリして」とも。

早稲田大学に入学した経緯
 森喜朗先生が胸像を建てられるべき功績はまだある。それは「夢をあきらめない」ことだ。そもそも早稲田大学に入学した経緯が素晴らしいのです。もともと森喜朗青年は早稲田に入るには学力が足りなかった。

《父も学校に呼ばれ「あなたの息子さんは早稲田は無理ですよ」と言われて帰ってきた。父は反発した。「こうなったら仕方がない。意地でも喜朗を早稲田に入れてやる」と言い、早稲田ラグビー部監督・大西鐵之祐先生への紹介状を書いてくれた。》(『私の履歴書 森喜朗回顧録』日本経済新聞出版社)

 逆境をはね返す男・森喜朗。父・茂喜は町長であり早稲田のラグビー部出身だった。一般学生とは違う「縁」を利用した。こうしてまんまと早稲田に入ったが、わずか4カ月でラグビー部を退部。

 こんな経験があるのに『遺書 東京五輪への覚悟』(幻冬舎)では「途中で投げ出したらそれこそラグビーの敢闘精神に反する」と書いている。なりすまし……いや、なんと素晴らしい精神力でしょう。

産経新聞入社時にも…
 次は産経新聞入社について。森喜朗先生は大学の頃にすでに政治家になろうと決めていたのだが、そのステップとして新聞記者という職業に就くことを考えていたという。

《私は早稲田に入るときに父の力を借りたので、就職だけは自力で打開したいと考えたが、私の成績で新聞社に入るのは相当困難なことも事実であった。》(『私の履歴書 森喜朗回顧録』)

 もうイヤな予感しかしない。

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https://approach.yahoo.co.jp/r/QUyHCH?src=https://news.yahoo.co.jp/articles/40b75a50dbe955f13ceb662b43a06c530d015db5&preview=auto