【歴史】「通説に不都合な事実」「畿内説に都合が悪いからだ」 邪馬台国、ヤマト王権…実は徳島に!? [樽悶★]
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日峰山頂の神社から見下ろす紀伊水道の小松島湾。舒明天皇もこの風景を見たのだろうか=井上英介撮影
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日峰山頂から見下ろす徳島平野。海原を眺め、後ろを向けば国原も見渡せる=井上英介撮影
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徳島赴任直後の4月、一冊の献本が支局に届きました。藤井榮「古代史入門」。パラパラ拾い読みすると「邪馬台国は阿波(徳島)にあった」と主張しています。3世紀前半に女王卑弥呼が治め、中国の史書にも登場する邪馬台国。所在地は学者たちが畿内(奈良)説と九州説に分かれて100年以上論争し、決着していません。
「まさか、徳島に?」
トンデモ本の類いだろうと投げ出しましたが、最近になって読み返すと、万葉集の冒頭2番目に出てくる「国見の歌」を引用した面白い記述に目がとまりました。卑弥呼の時代から約400年のちの7世紀前半、第34代舒明(じょめい)天皇が詠んだ歌です。
「大和には/群山(むらやま)あれど/とりよろふ/天の香具山(かぐやま)/登り立ち/国見をすれば/国原(くにはら)は/煙立ち立つ/海原は/鷗(かまめ)立ち立つ……」(現代語訳=大和にある多くの山でも外見の立派な天の香具山の頂に登って見下ろすと、国土には炊煙がしきりに立ち、海上にはカモメがたくさん飛んでいる……)
この山を万葉学者は奈良県橿原市の香具山(標高152メートル)としていますが、内陸の奈良盆地の低山から海やカモメが見えるのか、と著者は疑問を表明します。
なるほど……。さらに読むと、徳島県鳴門市の西山谷2号墳を紹介する毎日新聞記事の引用がありました。高度な石積み技術で3世紀半ばに作られ、畿内の初期前方後円墳の起源とみられる――という内容。「近畿の古墳、ルーツは阿波?」という見出しで1、3面にまたがる大展開です(2000年4月21日朝刊)。
それだけではありません。名前に阿波、安房、粟を冠した神社が全国各地にある。逆に大津や京都、奈良、吉野など歴史や故事に富む地名が多数徳島にある。吉野川南岸産の結晶片岩(阿波の青石)が畿内の主要古墳で使われている。
邪馬台国は徳島にあった。壬申の乱は徳島で起きた。3世紀から8世紀初めの前期藤原京までヤマト王権は徳島にあった……そう考えるしかない状況証拠を列挙。学校で習った通説が揺らぐ困惑、阿波説への拒否感がないまぜになり激しい知的興奮を覚えました。
ならば、冒頭に紹介した万葉集の「国見の歌」はどこで詠まれたのか。徳島、小松島両市の境の日峰山(ひのみねさん)(192メートル)だと書かれています。この山の徳島市側には「香具山」を思わせる「籠(かご)」「籠山(かごやま)」という地名があるのです。私は著者の藤井さんに連絡を取り、一緒に車で登りました。
彼は徳島県庁を12年前に定年退職して古代史研究に熱中。全国各地を訪ね歩いています。「私は奈良の香具山に2度登った。当たり前だが海など見えない。古代史家も国文学者も誰ひとり、この疑問に答えません」。道中、熱に浮かされたように語り続けました。
山頂に小さな神社があり、そこからの風景に私はあっと息をのみました。海原も国原も一望できます。「舒明天皇はこの場所に立って詠んだのです」(藤井さん)
先述の西山谷2号墳については、考古学者の石野博信氏が徳島新聞への寄稿で「4世紀大和政権の葬法が3世紀の徳島にあるとは何ごとか、と学会は騒然とした」と書きました。「学者が大挙して押しかけ大騒ぎしたのに今は無視されている。畿内説に都合が悪いからだ」。藤井さんは阿波説が顧みられない現状を悔しがります。
新聞記者はファクト(事実)に忠実であれ、と駆け出し時代からたたき込まれます。彼が足で調べ上げた数々の「通説に不都合な事実」は無視できません。
「ヤマト王権はここにあったに違いない」。私に阿波説の真偽は判断できませんが、日峰山の頂で胸にストンと落ちるものがありました。【徳島支局長・井上英介】
2022/9/26
https://mainichi.jp/articles/20220926/ddl/k36/070/278000c?inb=ra >>553
所有無與儋耳・朱崖同
敢えてこの記述を挟んでるのは論衡の倭人の記述を踏まえているものと解釈してる
周に朝貢した倭人は海南島に住んでいたものを指すと
事実関係は兎も角、当時の中国ではそう捉えられてたんではなかろうかと >>1
“大和”がどの領域をあらわすのかっていうことよ
“国見をすれば”ってところで律令制の令制国の大和国に相当する大和盆地のことじゃなくて
天皇の治める“日本”に相当する国の統治領域として大和の名前を出してるってことでしょう?
いわゆるヤマト王権の統治範囲であるヤマトだよ 天香山はヤマトにおける代表的な山として出したんでしょう
今でいったら富士山みたいな日本の代表的な立派な山として出してるだけ
当時は富士山も今みたいなでかくて綺麗な山じゃなかったし
ヤマト王権の統治範囲で立派な山と言えば天香山のほうが有名だったのだろう >>565
ハプログループNの植民地時代だって認めたく無いよな?
付隨って国名なのにwwww >>572
まず、三角縁神獣鏡はすべて国産なので三角縁神獣鏡を除いた図が必要
次に、邪馬台国は倭国大乱で衰退した地域なので威信財などの出土が「減った」地域 >>589
元々は中国の五胡十六国時代、南涼王の子の禿髪破羌が、南涼滅亡後に北魏に仕えた際、太武帝から禿髪氏と拓跋氏(北魏の帝室の姓)は源が同じであるとして源の姓を与えられ、源賀と名乗ったことに由来する。(二文字は異民族) >>589
清和源氏が🇭🇺セーケイ(清家)なのか?
あっ! >>548
全く別の話になるけど
これらインド系文字が古代世界においてはアジア全般で使われていたと思う
漢字文明の侵食で中国とその周辺国では漢字文化に上書きされていったが、影響の少なかった更に外側の地域では今でも残っていると
チベットや東南アジアの文字とかね
日本の神代文字は詳しくないけど、ひょっとしたらこれもインド系文字なのかもね 日本の城跡から見つかった謎の地下室 ユダヤ教の沐浴施設の可能性
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1663666163/
熊本県人吉市の人吉城跡敷地内に「謎の地下室」の遺構がある
遺構が発見されたのは25年前。なぜ、ユダヤ教なのか。
戦国時代から江戸時代初期にかけて九州などにいたキリスト教宣教師や
南蛮貿易商人の中には、欧州でキリスト教に強制改宗された改宗ユダヤ人がかなりいた。
地下室遺構については古文書などの記録が見つかっていないので推測になるが、
そうした人たちの手による施設ではないかという。 >>550
物部が滅んだときか、壬申の乱で首都炎上したときじゃないかと思うわ 北魏の事ボロクソに記錄しているんだよなあw
正史なのに 渡来人の殆どは朝鮮北部から、沖縄や北海道を除くほぼ日本中に分布したが
畿内、特に滋賀県や奈良県、関東地方に集中して住み着いている。 >>588
>邪馬台国は倭国大乱で衰退した地域なので
はあ???
そんなことどこにも書いてない
九州説だと魏にとって畿内は国名も知らない倭種の国だよな?
魏は邪馬台国を相手にせず、倭種の国と密接に交流してたわけだなw
苦しい言い訳www
小学生でもこんな言い訳しないぞ んー、つか石川弁に朝鮮訛りがあるだろw
🇯🇵日本の主流になれなかったみたいだな。 🇯🇵日本の主流になったのは
匈奴系渡来人?!
匈奴と高句驪と匂うごっちゃになってるんだろw 倭人伝に記載している数字は正確なものもあるが盛ったものも
あるから総ての数字をそのまま信用できんし、かといって疑う訳にも
いかんのでそのあたりの見極めが難しい 邪馬台国スレは知識欲を刺激して面白い
また立ってほしい >>602
そのあたり常に心中に留め置きながらだね >>595
書き手から見れば武力だけの蛮族だもんな
本当は記録にも残したくもないけど
仕方なく渋々ボロクソに書いた >>588
この画像って三角縁神獣鏡を入れた分布図かよw
畿内説ってこんなのばっかりだなw
https://i.imgur.com/96qEpxT.png 神代文字とハングルの類似性を指摘されたりしてるようだが
インド→チベット→モンゴル→ハングルとインド系文字の流れを汲むものなので、神代文字がインド系文字ならば似ていても不思議ではないんだよね >>609
後世に中央アジアの人が再利用した訳ではなくて、
扶風の隨蕃? >>606
500枚以上出土している三角縁神獣鏡
棺の外に無造作に置かれた数十枚の三角縁に
棺の中に1枚の画文帯という出方を鑑みれば
一例だけで価値が分かるだろう
さらに三角縁神獣鏡は中国で出ない
最近になってポツンと1枚いかにも怪しい形で出たと
いい加減に自戒自制しないのか
うんざりして離れる原因
壺カルトか >>588
2世紀後半~3世紀前半の図なんだから三角縁神獣鏡が入ってるわけないだろが
すぐバレる嘘で文句つけるとか見苦しい 倭人伝に記載した卑弥呼の墓の数字はかなり盛っていると思うので
素直に信じるのは間違い。墓の大きさも殉死者数も卑弥呼の偉大さを
示す為に大きく書いていると思う。あの大きさの墓で槨(石室)が無い
墓などあり得ない。大きさだけで考えれば箸墓古墳は大きすぎるし
槨はあるから箸墓は当てはまらんし、平原王墓は小さすぎるが
副葬品の豪華さを勘案すると卑弥呼の墓は平原王墓以外には
考えられん。 >>1
どこでもいいよ
なんなら富士山とか新宿2丁目でもいいんじゃないの >>231
>播磨風土記に、穴門豊浦宮御宇天皇が神功皇后と共に筑紫の熊襲国を平定しようと
はは。熊襲は筑紫にあったんですね。
筑紫は今の「福岡県の西・南部」「北部九州」「九州全体」を表す場合とがあるそうですけど、
いずれにしても、ヤマトに敵対する熊襲の場所を「筑紫」と言っている以上、邪馬台国=ヤマト筑紫/北九州説、
および日本神話故地の南九州説は、やはり嘘だったことになりますね。 >>471 いつも邪馬台国は阿波にあったとか吹聴してる@阿波馬鹿
何でこのスレに限って来てねえんだよw
マヌケw >>615
平原か祇園山だろうね
卑弥呼じゃなくて壹与かもしれんが、邪馬台国の首都は北部九州っぽいな >>598
そもそも魏の鏡だなんて誰が言ったんだ? >>301
神功皇后が居たのは、奈良桜井(三輪山や橿原の近く)ではないと思うなー。
海洋民族らしく、また新羅出征等にも適った、もっと瀬戸内海を西に行った方だと思うな。
かといって、安倍反日主義者等ゆかりの淡路や岡山や愛媛や山口でも、恐らくない。 >>349 >>619 >>620
もうだいぶ前から邪馬台国の話題に出てこない
〇んだかな? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています