【考古学】吉野ヶ里遺跡で青銅製の重りが出土 奈良時代のものか 奈良時代も地域の中心だった可能性高まる 佐賀 [ごまカンパチ★]
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https://www3.nhk.or.jp/lnews/saga/20221111/5080013193.html
弥生時代の大規模な環壕集落跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、奈良時代のものとみられる、重さをはかるための青銅製の重りが出土しました。
記者会見した佐賀県文化財保護室は、この一帯が奈良時代も行政の拠点だったことをうかがわせる重要な発見だとしています。
県文化財保護室によりますと、出土したのは「権(けん)」と呼ばれる重りで、円柱に傘をかぶったような形で、高さ2.9センチ、幅は最大で3.4センチで、
重さは82.541グラムあり、青銅でできています。
形状などから使われていたのは8世紀の奈良時代ごろで、行政機関などでモノを測るための重りとして使われていたとみられるということです。
この一帯では過去にも奈良時代の建物の跡などが見つかっていて、当時の行政の拠点である「郡衙(ぐんが)」があったのではないかと指摘されてきましたが、
今回の発見によって、その可能性が極めて高くなったということです。
石や土でつくられた「権」は各地で見つかっていますが、青銅など金属製のものは珍しく、佐賀県内ではこれが初めてで、九州でも10例目だということです。
佐賀県文化財保護室の白木原宜室長は
「吉野ヶ里遺跡は弥生時代が中心だが、奈良時代もこの地域の中心だったという可能性が高まっている。
吉野ヶ里遺跡はすごい可能性を秘めた重要な遺跡だということを再認識した」と話しています。
今回出土した重りは、吉野ヶ里歴史公園の展示室で今月20日から28日まで展示されます。
吉野ヶ里遺跡ではことし9月から、これまで手がつけられてこなかった遺跡のほぼ中央部で、10年ぶりの本格的な発掘調査が進められています。
【発見は一般向けの発掘体験場】
「権」が見つかったのは、発掘調査が始まる以前にあった神社につながる参道の石段から、6メートルほど離れた場所でした。
吉野ヶ里歴史公園では、一般向けの発掘調査体験でこの場所を使用する予定になっていて、当時、調査員による発掘調査が行われていたということです。
出土したとき、現場にいた職員は皆、手を止めて発見された場所に集まって喜び合ったということです。
当時、現地で作業をしていた佐賀県文化課の吉田健祐主事は
「吉野ヶ里遺跡では弥生時代だけでなく、ほかの時代の遺構や遺物も見つかっている。今後はさらに、奈良時代や中世の建物の跡も見つけていきたい。
まだまだ見つかる余地があるので、これからの発掘に期待してもらいたい」と話していました。
【高校生「使われ方気になる」】
福島市から修学旅行で訪れた高校2年生の男子生徒は
「米や収穫したものの重さをはかっていたのかなと思いますが、気になります。奈良時代のものが見つかったということは、この辺りは住みやすかったのかなと思います。
弥生時代のあと、一帯がどう使われていたのか知りたいです」と話していました。
また、熊本市から旅行で訪れた20代の男性は
「タイムカプセルみたいですね。どうやって使うんだろうという感じです。傘の部分にその時代の人々のセンスが見えますね」と話していました。 おお倭国と日本が別国家だった説に信憑性が増してきたな
この辺解明されてくると日本の古代史めちゃくちゃ面白くなりそうなんだが 奈良時代って言い方縁起悪いよな
佐賀時代に変えたらいい 絶好のPRになりましたね
ヤラセじゃなければいいが 吉野ケ里遺跡ってオレがガキの頃もあったけどまだ発掘してんのかよ(´・ω・`) オレ福岡出身だから先祖の一人位吉野ケ里遺跡に住んでたとしても不思議じゃないんだよなぁ(´・ω・`) そんな貴重な物出てくるところを素人に掘らせるつもりなのか? >>1
吉野ヶ里遺跡…ありゃ王家の谷だよ、墓地公園、あれだけ足の踏み場も無いほど沢山の瓶棺が並んだ死者の上で暮らすかな、、忌避するだろ
あそこは死者を弔う所だよ、其処から重りが出ても副葬品が、墓守りの道具じゃね 佐賀都を九州州の州都とすべき
福岡だの熊本だのいった近年のぽっと出は論外だ 古本屋えりえな
https://youtu.be/aF6NAHyMVDk
とうとう、卑弥呼の正体を突き止めちゃったな
公孫氏の家系 邪馬台国も九州あとすべて九州王朝説がいちばんしっくる来るだろ 言語学的には邪馬台国は大和にあったと解明されてるよね なるほど奈良は佐賀だったのか
権威主義を拗らせすぎて何言ってるかわかんねえな >>25
邪馬台国とかいうやつがあったかどうか、そもそも分からない。
なぜなら、魏志倭人伝では邪馬壹国(ヤマイチコク)なんで。 邪馬台国は纏向と教科書でも書いている。今さら何を言っているのか こういうのに税金違うなよ
今はクラファンがあるだろ 弥生時代前期に河内から石の分銅が見つかっているな
2の累乗の重さの分銅が2セット
1倍2倍4倍8倍16倍32倍 尖った方を下にして使う下げ振りでしょ
垂直出すやつ つまり奈良時代もああいう家に住んでたってことか。地面掘って上から藁被せた ずっと人がいればそらいろんな時代のものが出てくるでしょ 邪馬台国民「引越ししたのになぁ…」
とか思われてたりして 大体、太宰府だって独自の徴税権持ってたことが分かってるからね
九州には近畿の大和政権とは別の政治権力があったことは明らかなんだよ
独自の徴税権は独自の軍隊持って無いと有り得ないからね 魏志倭人伝によると、魏の使者は末盧(マツロ)国へ上陸している。
末盧は、現在の長崎県松浦(マツラ)、もしくは佐賀県唐津だろうとされている。
そこから伊都国へ行くのだが、これは福岡の糸島市というのが定説。
だがその根拠は伊都と糸の名前が似てるからというだけにすぎない。
魏使者の上陸地点が唐津ならそこから糸島へは山越え
https://www.google.com/maps/@33.4527812,130.0505965,94681m/data=!3m1!1e3
(今は海岸沿いに道路があるが当時はもちろんない)
そもそも船で唐津まで来てるんだからそのまま船で行ったほうがいい
倭人伝には伊都国は「東南へ500里」と書いてる。
だが唐津→糸島は北東。
そして地図を見ると、ちゃんと唐津から東南へ道が伸びてる。
素直に読めばこの道を東南へ進んだと思える。
そうして行き着くのが佐賀平野。ここなら国があってもおかしくない。
(吉野ケ里遺跡もすぐ近く)
さらに佐賀の南には、山門(ヤマト)、八女(ヤメ)、柳川(ヤナガワ)、山鹿(ヤマガ)といったあやしげな地名が並ぶ。
山鹿の南には菊池市があるが、邪馬台国の南にあった狗奴(クナ)国の狗古智卑狗(クコチヒコ)こそキクチヒコのことで、熊(クマ)本の菊池ではないかという説は根強い
山鹿・菊池あたりには、ワカタケル大王と記した剣を出土した江田船山古墳をはじめ鞠智(ククチ)城、チブサン古墳、岩原古墳、トンカラリンなど史跡が多く分布している
http://i.imgur.com/nC7wYC3.jpg >>49
川の記載もして欲しい地図だな…
太古の人達は何故ソコに居住したのか
解りやすくなる
(今と線形が違うが) 原文
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
直訳
「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、
自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。
宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」
「王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、
(指示もなく)自律的に仕え、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたり
するため、女王の住んでいる所へ出入りしている。宮殿や物見櫓には城柵が
厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」
※吉野ヶ里の風景と完全に一致する >>53
邪馬台国は御井な
吉野ヶ里じゃないよ
ただ奈良説がうんちなのは分かるよねそれで 邪馬台(山門)国は移動している
山門が発祥の地で、卑弥呼の時代は御井
その後甘木・朝倉へ移動し(安本美典の言う邪馬台国)
最後は恐らく奴国と融合して太宰府へ都を置き(倭京)
そこで滅んだ
吉野ヶ里は代々の王の墓が全部あり、移動していない
吉野ヶ里は邪馬台国ではない
御井が邪馬台国 邪馬台国は古代の大統領制なわけだよ
恐らく世界初のね
奴国が宰相で邪馬台国が大統領
「地」であるはずの奴国はずっとドッシリと博多に居を構え続けていて
「天」であるはずの邪馬台国はちょろちょろ動き回ってるわけな
歴史の真相なんて案外こういう皮肉なもの >>49
トンカラリンは邪馬台国に繋がる可能性あるからちゃんと調査してほしいな >>53
直訳で
一行目:王となりて~
三行目:女王の住んでる~
何で王→女王に変わってんだよ! 京都は確かに長い間ずっと日本の首都だったわけだが
行政の首都はあっちこっち動き続けてるだろ
京都の前も首都はチョロチョロ動き続けてるし
邪馬台国だって動き回っている
オレが東京を首都から降ろして関東外へ遷都すべきだと言う根拠の一つが
この邪馬台国にある
日本は古代史をウソを取り除いてちゃんと整理するべき
歴史から学べない、ウソの歴史から「学んで」しまうことの
恐ろしさに気づくべき >>49
糸島に軍事拠点置いて諸国を監視とか無理があるんだよね
この辺りで軍事拠点を置くなら大宰府以外考えられない 御井と邪馬台国は何の関係も無いのは明らかで
そもそも御井からは吉野ヶ里のような集落が出土していない
おまけに祇園山古墳は男王墓の可能性があるので、祇園山古墳
は学会からも無視されている 因みに御井の祇園山古墳が卑弥呼の墓で
背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の遺構ね
高良山神籠石遺跡は各地にある神籠石遺跡のセンター的存在だし
邪馬台国でバッチリね
猿はウソつき野郎だから騙されないようにね
ウソつき猿野郎「お、おう」
「猿はウソつき野郎だから騙されないようにね」
と猿に言わなければならないわけな
これが日本の困難さの全て
>>49
そもそも末盧国が「松浦(唐津)」だと言うのも名前が似てるだけなんじゃね? >>62
そこで伊都国=中間市周辺ですよ
関門海峡を守って出雲や吉備を牽制していたのです
「ウクライナはウソつき野郎だぜ
みんな気をつけなきゃダメだよ」
ウソつきの猿「、、、、お、おう」
みたいなw
祇園山古墳が女王墓の証拠は何1つ無いし、築造時期も判別が出来てない 平原女王墓(国指定遺跡)>>>>祇園山古墳(福岡県指定遺跡)
この違いも理解出来んキチガイがいる
「こうやってウソつきの猿の糞寝言ばっか聞いて来たから日本はダメになったんだぞ」
ウソつきの猿「、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、
、、、、、、、、、、、お、おう」
こんな感じ?w
祇園山古墳が卑弥呼の墓で無い証拠の1つは筑後川の南側に
ある事、卑弥呼時代の邪馬台国は狗奴国との戦いで狗奴国が
優勢だったから攻め込まれ易い南岸に邪馬台国や卑弥呼の墓が
ある訳が無い。猿にも劣る思考力だな 邪馬台国と認められる為の条件は
1.宮室(宮殿)、楼観(物見櫓)、城柵が出土している事
2.内乱が起きた形跡がある事
以上、僅か2つだけだがこれを満足するのは吉野ヶ里遺跡のみ >>67
まあ現時点で可能性の話でしかないのは確かだけど、地図見ると対馬壱岐と渡り呼子の辺りに上陸するのは自然な流れなんよね
それなら末盧から東南に進むことになるし草をかき分けて道なき道を進んだという魏志倭人伝の記述とも合う
魏志倭人伝の記述と照らし合わせて「この行程しかないだろ」ってルート上に記述と似た地名が今も残る
これを偶然で片付けてしまおう、って方が無理がある >>3
そうだよな。
九州は日本ではない。
朝鮮国。 >>75
それは邪馬台国が祇園山古墳より北側に位置した場合の話だな
例えば熊本菊池の辺りに邪馬台国があったとしたら国の北側に造ったことになるのでお前のその説は破綻する これって吉野ケ里最後の未発掘地帯だった神社の跡地の発掘かな?
だったら普通に神社が残ってたんだから、後の時代の物が出てきても当たり前だと思うが、、、 殷とか紀元前二千年前に文字使って歴代皇帝もわかるのに。
文字さえあればなぁ文字さえあれば >>83
木簡竹簡の類が出ないのは不思議ではあるよな
木簡竹簡は余裕で持つはずだから、文字があったなら出てきても不思議ではない
無文字社会だったのかも? そもそもミスター吉野ケ里の高島忠平も
九州説があまりにも弱すぎて議論にならないから職務命令で九州派をやっただけだからな
研究の金を引っ張ってくるためとはいえ、こじつけで令和まで頑張ってるのは凄いよね
https://i.imgur.com/iWIwqMb.jpg >>84
与那国島あたりでも交易の数表す縄の目印とかあるけど、行政中心なら何かしら記録物でないとおかしいな。
奈良時代ならなおさら >>84
無文字社会だった、ってのが定説だろ
文字は石や木にも記せるんだから当時文字があったのなら「必ず」どこかから見つかる
伊都国の中にはもしかしたら文字を使える奴もいたかもしれんが、いたとしても極々僅かだったと思われる >>85
九州説が弱いってんなら邪馬台国はどこにあったんだ? >>87
今、掘っているのは日吉神社の跡地で去年か今年になって掘り始めたから
何十年も掘っていた訳では無い。纏向遺跡のように何十回も掘って多額の税金を
使って何の成果も上げてないのとは訳が違う。 卑弥呼のいた場所がどこであれ
魏と活発な交流があったなら使者は北部九州〜朝鮮半島沿岸〜魏のルートを辿ってる
(出雲や南九州から北部九州を避けて大陸に向かうのは沈没のリスクでかすぎるし、何より、倭人伝に北部九州と思われる地名が記載されている)
つまり、邪馬台国または傘下の国は北部九州を含んでるのは間違いない
論ずべきは、畿内・九州説vs九州説だろう >>60
昔の首都が動きまわっていたというのはそうかも知れないが、それを今に当てはめるのは間違いだな。
昔の日本は西日本中心で北のアイヌやエミシは日本人ではなかったし、昔の日本は朝鮮半島に領土を持っており現地の王族と血縁関係すらあって、半島やシナ大陸と今より結びつきが強かった。
しかし今は日本列島にあまねく日本人がいて、シナ人や朝鮮人と日本人は外見は似ているが中身は全く違いむしろアメリカも含めた他の自由民主主義国人と合う。ゆえに、現状では日本の首都が東京というのが一番理に適っている。イマサラ首都を西に動かしても日本人を分断するだけだ >>89
高島が九州説をやらされる前は畿内説
「お前九州出身だろ?」の職務命令で高島が頑張って九州説も根付いた >>2
🇨🇳中国に配慮してるんでしょ?
大ウソだから
🧬遺伝子見るとバレバレ >>94
じゃあお前は邪馬台国が畿内にあったと考えてるんだな? どういう事?
奈良時代の人が弥生時代の吉野ヶ里にタイムスリップしたって事? >>97
俺の意見がどうとか関係なくない?
高島が研究の結果九州説を唱えたわけじゃなく、命令で唱えて補強していき当時弱かった九州説を一大派閥にしたという事実を書いただけで
強いて言うなら「自分で研究もしてないし、提示されたものも明確な証明にならないからわからない」でしかない
ロマンだと思ってる >>99
ちゃうちゃう
奈良時代になっても吉野が里の集落は健在で政治の中心(もしくはそれに近い位置)にあった、って話 >>101
お前は九州説が弱いと言うとるやん
もしかして何の根拠もなくただ他人の言葉で九州説が弱いとか言ってんのか? 畿内説は否定証明されてんのよ
それで「九州説はロマンだよな」言ってる自分の猿ぶりに気がつけば
人生無駄な周り道しなくて済むようになるよ
参考までに >>104
ん?高島が職務命令でやらされた理由が
「九州説が弱くて議論にならないから、お前九州人だからやれ」
画像に貼ってる邪馬台国サミット2021って番組で高島が語ってた話 >>107
つまりお前自身は九州説が弱いなんてことも思ってなくてただ個人叩きしたいだけか? >>108
変に行間読まないでいいよ
何と戦ってるんだ?
当時弱小チームだった九州説にトレードされた高島がミスター吉野ケ里というエースになって九州説を一大派閥にしたという話
文系の研究者としてはかなりの人物だろうと >>109
お前は九州説が弱いと思ってるのかどうなんだ? >>110
一体何と戦ってるんだ?
派閥としての強さは一大派閥になってると書いてるとおり強いと評価してるよ
派閥でなく中身についての評価は>>101に書いてるとおり「わからない」 >>111
一体何と戦ってる?じゃねーよ
お前の真意を聞いてんの >>112
俺の真意は書いてるとおりなんだよ
それをしつこく聞いてるから何と戦ってるのか聞いてる
俺は見えない敵じゃないぞ? >>111
つまりお前は九州説が弱いかどうかが本当かどうかも分からず馬鹿にしたような文言でその学者を叩いてた訳だな? 記紀がデタラメだらけなんてのみんな昔から散々知ってるよ
そんなの今更認めたからってどうもなりゃしないよ
単に惰性で畿内説言ってるだけだろ
そう言う知恵の無い猿みたいな真似いい加減やめとこうぜ
九州倭国は近畿日本に禅譲しようとしてたんだし
九州倭国王は白村江のとき一時近畿日本の臣下になってるし
近畿日本は十分良心的に対応してるしな
九州倭国の存在を認知したからって今更どうもなりはしないよ
デタラメ言い続ける不利益のほうを考えるべき
猿じゃないんだから >>114
ミスター吉野ケ里を叩いてないってば
日本語をそのまま読めよ 崇神は現代日本の基礎を作った人物だぞ
その墓を卑弥呼がどうの言うデタラメの罪深さを考えろよ猿ども 纏向を中心にした山名や地名が筑前町を中心にした山名や地名と重なるが
なぜ吉野ヶ里を中心とした地名とは重ならんのか?と考えたら、纏向の
風景は朝倉とは非常に良く似ているが吉野ヶ里の風景とは全く違うからだ
グーグルマップで纏向、朝倉、吉野ヶ里の風景を空からみたら
山脈の連なりが違うのが判る 吉野ヶ里遺跡行ったらあちこちに卑弥呼風のキャラの絵があったw >>116
じゃあお前は自分で>>85を読んでみて
お前は自分では九州説が弱いかどうかも分からないのに>>85のような書き方をしておかしいとは思わないのか? >>95
いやw
🐶プーリーをヨーロッパへ連れて行ったみたいだ
残されたアジアのプーリーは?まさか…😨 お前ら犬食うなよwwww
間違いなく君達のお父さんだな >>120
1960年代から70年代の当時九州説が弱くて議論にならず研究費を引き出せなかったから職務命令で九州説になって全て九州説にこじつけていったという本人が語る事実でしかないぞ
高島が責任者となった1980年代以降から今の九州説は一大派閥
畿内派やアンチ九州派のような見えない敵と戦ってるつもりなら
俺はそんなことを主張もしてないしお門違い いや、毛が欲しかったんだろう
食べてはいない、タブン 纏向考古学研究所もする事が無いし、発掘費用も出らんから又いい加減な
スレ立てして文科省に発掘費用を出させようと言う魂胆だが
文科省もお人好しのアホばかりじゃ無いからもう発掘は出来んよ、諦めな >>124
だからお前は自分のレス読んでみろって
>そもそもミスター吉野ケ里の高島忠平も
>九州説があまりにも弱すぎて議論にならないから職務命令で九州派をやっただけだからな
>研究の金を引っ張ってくるためとはいえ、こじつけで令和まで頑張ってるのは凄いよね
これを読んで誰が「自分は九州説が正しいかどうか分からないけど客観的な意見として書きました」なんて捉え方をすると思う? ところで祇園山古墳が女王墓の証拠はどうなっているんだろうか?
証拠を出せ 証拠を 何1つ女王墓である証拠が無いのに良くデタラメが
言えるものだと呆れ果てる >>127
変な行間読むなって…
傍観者として高島がテレビで公表したことを書いてるんだから
被害妄想激しすぎるぞ… >>129
行間読むな、じゃねーよ
お前の書いてるレスが全てだよ
お前は自分で書いたことが本当かどうかも分からず「〜なんだからな」なんて書き方してんだよ
それで自分がおかしいと思えないなら小学生に戻って国語やり直せ
このスレに書き込む資格すらねーよ >>128
また纏向の悪口かよ
お前らそんなんばっかだな
ウク馬鹿かよw >>131
捉え方がどうとか
そもそも変な被害妄想で>>85にレスしてきたのあなただけだよ?
お前はどうなんだとかいう書き口調で言われても
九州説を唱えるキチガイがいたという記憶だけ残った 祇園山古墳が卑弥呼の墓であることはまあ100%間違い無いよ
他に考えられないし、
かつここだと考えてバチバチ全部辻褄合うからね
猿が必死だけどw 邪馬台国論争はもう近畿パーって言う必死な猿が居ます
こいつらどうしましょう
って問題でしか無くなってるよ あとは弥生時代の時代区分を学会ぐるみで捏造していること
弥生時代の後期はほぼ卑弥呼の時代と重なるはずなんだが
ウソついて後期が始まる時期を前倒ししてる
以前歴博がウソついて更に前倒しに捏造しようとしたが
さすがに学会が「あんなもん知らん」言ってギリセーフになったが
そもそも歴博以前に学会が捏造やってんのよね
さっさと認めるべきだなこれも 認めたらオレがやった世紀の大発見っての喋るつったんだけど
認める気がないらしいから
闇に葬り去ることになるな
オレはそれで別に困らないがね オレがやった発見はこの世でオレ以外の人間が気がつくことは
まずないよ
モノももう崩れて見分けがつかなくなって来てるしね
永遠に闇に葬り去ることになるがそれでいい? 考古学者で卑弥呼の墓が祇園山古墳説を唱えているのは誰もいない
まともな思考力を持っているなら男王墓かも知れんし、そもそも王墓で
無い可能性も高い。そんなところを強引に卑弥呼の墓と喚くのは
キチガイの所業 >>151
阿蘇が噴火してた時期だから火の巫女と考える方が正しいかもしれない >>102
つまり、未来人が東京を発掘したら
江戸の遺物と令和の遺物が出てきたみたいな話か
そして東京が令和で滅びた謎が解き明かされる おしんを徹底的にイジメた佐賀は大嫌い
絶対に立ち入らない
飛行機で上空通過するだけ >>1
いや、でも今の日本をよく表してるんじゃない?
🎰👮♂正義ですらねじ曲げる
よくもまあ、こんな20年も30年も
「🇯🇵古代日本を支配していた!」
大ウソ言いふらせるなあ…とw犬食い ゴッドハンド藤村
ありまぁす小保方
トレパク古塔
上級佐野 >>90
やっぱ最後の未解明地と言われてた、神社の跡地の発掘をやってんだね
神社があったってことは、その周辺には人里があって然るべきだし、後の時代のものが出てきても不思議な事はないだろうね
そもそも遺跡は人が住むのに都合がいい場所だから、遺跡が残るわけで、時代区分を突き抜けるのはごく普通だしね
纒向遺跡は吉野ヶ里よりももっと掘りにくいよ
吉野ヶ里(36ha)よりも10倍広大(300ha)な範囲な上、寺社仏閣や民家、田畑が既に存在してる
発掘の協力を得られたところを順に掘り進んでいくしかやりようがない
そもそも発掘の資金が奈良県桜井市の教育委員会の予算と、奈良県の埋蔵文化財発掘調査予算しか無い
そんなに大規模にはできんのよ
※吉野ヶ里は初期の発掘は佐賀県の予算だったが、その後邪馬台国か?と騒がれたおかげで
文部省の発掘調査対象になったおかけで国の予算がついたから、一気に発掘が進められたし保存の予算もついた
かなりラッキーだったと思うよ こういうのはいっつも疑ってしまう
ゴッドハンドの罪は重いなw >>162
ゴッドハンドができたのは、旧石器時代だって言うのが大きいよ
疑問に思っても否定する根拠が無ければただのやっかみ扱いされる
今吉野ヶ里から面白いものが出てきても、大体が時代背景的にありえるかありえないか推測が立つ 祇園山古墳は荒らされて埋葬品全て無くなってるんだろ。大和朝廷に負けた時点で墓を宇佐に移設さたと思ってる。 宇佐は継体天皇の子供(欽明天皇)が継体朝の正当性を訴えるために神功応神親子を祀ったものだと思うが
穿った見方をしても簒奪の祟りを鎮める目的くらいかなと
もっと陰謀論的に考えると越前のイザサワケとか絡めると面白くなる 卑弥呼は邪馬台国連合の三十余国の中から話し合いで選ばれたと
倭人伝に記載があるので三十余国が北部九州から奈良まであるはずが無い
常識的に考えても北部九州内に三十余国はあったと考えるのが正しい
卑弥呼は伊都国女王だったが選ばれて邪馬台国女王になった訳だな。
そうなれば卑弥呼の墓は伊都国の平原女王慕となる。 >>166
とはならねーよ
飽くまで可能性の一つでしかない
そもそもとして「まだ卑弥呼の墓は見つかってもいない」可能性を失念してない?
別に今見つかってる古墳の中から卑弥呼の墓を選ばなきゃならない、なんてルールはないんだよ? >>167
お前の考えは大間違い、卑弥呼の墓は平原女王墓で間違いない
これ以上探しても何も出てくるわけが無い。寝言は寝て言え
起きて言えば笑われるだけ 大宰府で防人の人が使ってたブロンズゴーレムの一部でしょ 永井俊哉ドットコムを読んでみろ 「永井俊哉 卑弥呼」で検索 広志には伊都国の南に邪馬台国があると書いてあって
魏志には邪馬台国の北の伊都国に一大卒を置いているとあるので
大体の場所は確定してるんだよな
つまり吉野ヶ里近辺か旧山門郡しかないんだが
水行なら10日
陸行なら1日
これがヒントになるんだわ
水行なら有明海から長崎半島を回って伊都国までどちらも10日というのはわかる
だが山門郡から筑後川を渡ってはたして1日でいけるのかって話になる
もちろん1月は1日の間違いと仮定してな >>1
吉野ヶ里なら筑紫国でしょ
少なくとも白村江までは栄えてたよ >>172
川を遡上する場合、人足奴婢が引っ張るからさ >>173
吉野ヶ里は筑後川より西に位置してるので肥国 >>165
大宰府の真東
奈良と伊勢神宮の関係と同じだ
明らかに太陽の神殿としての立地 >>176
太宰府の真実
日本国内数カ所に置かれた、地域統括軍事拠点を太宰府と言う
筑紫太宰が有名だが、真実は吉備など数箇所に置かれてた
太宰(おほみこともち)というのは役職名である
決して特定一箇所の地名ではない
また文献によっては大率(おほそち)とも書かれている
神殿や神域とは全く違い、あくまでも地方統治者、地方当地拠点の名称でしかない どういう事だ?
平城京は奈良だし九州だけ独立してたのか 一大率の古代の発音はイツダドシュエみたいな感じなので
日本語発音が「いちだいすい」ならあり得そう >>178
どういうことだも何も、みんなが大宰府を唯一無二と誤解してるだけ
文書通信の伝達も、兵や物資の移動も遅い時代だから、地方統治拠点は当たり前に必要だっただけ
筑紫太宰しか存在しなかったわけでもなく、吉備太宰や周防や伊予にもあったりした
面白いのは太宰を大率と書いてる文献がある事
率が宰に変化したから、古い書き方が残ってたのだろう
地方監察官の大率が後の時代に太宰に変化してる
率とは兵士の事(兵卒とは今でも使う言葉)で元々中国の軍単位の意味
今で言う一個大隊とかのニュアンス
過去資料を読み漁ると、意外と面白い 捏造だらけでだーれも信用してないんだから古代史とか止めちゃえよ >>168
邪馬台国関連に限らないけど推測でしか語れない話を断言口調で話す奴はろくな奴おらんな >>178
伊都国の場所の話ね
糸島に一大率を置いて諸国を監視はないだろということ >>177
いやだから何が言いたいの?
3世紀当時大宰府なんて呼ばれているわけもなく >>185
筑紫太宰に神事的な意味を絡めるのは無理筋だというだけ 原文
自為王以來少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處
宮室樓觀城柵嚴設常有人持兵守衛
直訳
「王となりてより以来、見(けん)有る者少し。婢千人を以(もち)ひ、
自ずから侍る。ただ、男子一人有りて、飲食を給し、辞を伝へ、居所に出入りす。
宮室、楼観の城柵は厳く設け、常に人有りて、兵を持ち守衛す。」
現代訳
「王となってから、朝見のできた者はわずかである。侍女千人がいて、
(指示もなく)自律的に仕え、ただ男子一人がいて、飲食物を運んだり言葉を伝えたり
するため、女王の住んでいる所へ出入りしている。
宮殿や物見櫓には城柵が厳重に作られ、常に武器を持った人が守衛している。」
更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人
復立卑彌呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 政等以檄告喩壹與
「さらに男王を立てる。国中服さず。さらに相誅殺し、当時、千余人を殺す。また、
卑弥呼の宗女、壱与、年十三を立てて王と為す。国中遂に定まる。政等は檄を以って、
壱与に告諭す。」
「新たに男王を立てたが、国中が不服で互いに殺しあった。当時千余人が殺された。
また、卑弥呼の宗女、壱与(イヨ)、年十三、を立てて王と為し、国中が遂に治まった。
張政たちは檄をもって壱与に教え諭した。」 >>111
今では中国人学者も九州説だし、畿内説の方が圧倒的に弱まっちゃったな 数人のアホの自称考古学者が
大暴れするスレだというのは
読まなくてもわかるな 西日本中心としたヤマト連合国に、第7代孝霊天皇の皇女で倭迹迹日百襲姫命(日巫女)を祭祀として派遣した
これなら点と点が繋がるのよ
点と点が繋がらないストーリーは韓国のように、それはもう学問ではなくファンタジーなんよ >>186
つまりは的外れな指摘というわけですね
いきなり大宰府の言葉の由来の解説とか始めたから何かと思ったわ 九州とか単なる渡航前に使う拠点だったんじゃないの? ヤマトと呼ぶ地名
上山門、下山門・・・・福岡市西区
福岡県みやま市山門町(旧山門郡)
柳川市大和町
熊本県上益城郡山都町
飛鳥と呼ぶ地名
福岡県小郡市井上字飛嶋(旧飛鳥)
奈良と呼ぶ地名
福岡県田川市奈良(後藤寺駅の裏側
福岡県朝倉郡筑前町奈良
雲堤(うなて)と呼ぶ地名
福岡県朝倉郡筑前町雲堤(旧夜須郡雲堤郷)
奈良県橿原市雲梯町
※うなてと呼ぶ地名は全国で福岡県と奈良県の二箇所しか無い 纏向遺跡の掘った場所は掘る前から土器の破片などが頻繁に出ていたから
掘ってみたが、予想に反して大したものは全く出土していない。まだ手付かずの
広大な地域があるが、そこからは何も出土していないから掘っても出てくる
可能性は極めて低い。これ以上の税金の無駄遣いは止める事だな。 >>190
そんな実在も不確かな親子の名前もちだして
どっちがファンタジーだよ >>175
旧国の境じゃなくて属してるところの話
肥前佐賀なら筑紫国範囲内
卑弥呼の邪馬台国の影響下でもあり得る >>196
纏向の出土物はすごいよ
邪馬台国ではあり得ないだけで。 >>194
それは違う
朝鮮半島交易や中国に1番近かった
朝鮮南部に楽浪郡が置かれてるのはそれ 奈良時代もではなく
栄えたのは実は奈良時代だった
遺跡もその頃出来たもの
卑弥呼の時代はただの小さな集落だった >>198
律令国以前の初期の4国だった頃の区分が
筑紫、豊、肥、熊襲
吉野ヶ里は筑紫平野との間の脊振山系で区切られる肥国の範囲
九州全域を指して筑紫州と言うならあってるが >>49
糸島半島は昔は島だったよ。だから船で行ける。ちなみ、吉野ヶ里遺跡も海岸沿いだった。 元々は肥の国
それを肥前、肥後にわかれて肥後が阿蘇山のこともあり一発に火の国と名乗るようになった。 >>206
違うよ
元々吉野ヶ里に神社があって、そこだけ発掘調査ができてなかった
神社が移転して空き地になったから、発掘調査をできるようになった
んで、そこから後の時代のものが出てきたってだけの話し
神社がある土地の周辺には人が住むので、後の時代のものが出てきても、大発見というわけでもないけどね
大体の遺跡が更に掘り返したら、もっと古い時代のものが出てきたりする
人が集まるところは、時代区分に関係なく人が集まる所という、考古学の通説通りの結果が出た
奈良の平城京跡なんて、掘り返した結果縄文時代の遺物とか出てたりする
奈良時代が有名なだけで、人が集まり住むところはもっと昔から都合のいい土地だったというだけのこと 吉野ヶ里公園の見学は、体力不足の俺には辛かった思い出 実際問題、ここは邪馬台国の属国だったんだろうけど、、、中々ね。 纏向遺跡をもっと掘りたければ税金に頼らずにクラウドファンディング
をする事だが、ほとんど見込みが無い事業に金を出してくれるもの好きが
いるのかな? >>215
住んでる住民や寺社仏閣を立ち退かせなきゃ無理
吉野ヶ里でも神社が移転してくれるまで、この一角の発掘はできなかったくらいだからね
後、纒向は敷地内に古墳まで混ざってるから、そこの発掘が至難の業 >>178
白村江の戦いのあと、唐軍が九州に上陸して一時的に太宰府を占領してたらしい
そのときの遺構なんじゃね >>215
纒向の発掘に使われてるのは奈良県民税だけで、国税からは出てないぞ? ここのレストランで食ったカツ閉じ定食が美味しかった そっか、わりと古くからある街道がそもそも側を通ってるのか >>206
ゴットハンド
懐かしいな、埼玉の俺の故郷、ゴットハンドが発見した石器で、数十万年の歴史と騒がれたよ当時な。
ゆるキャラまで作られて凄く賑わったし、何より自分の故郷を誇りに思った瞬間だった。
あんなことになるまで。
今頃どうしてるのだろうか? >>222
アマチュアが功名心にあせると、ろくなことがなくなる なんか吉野ケ里って必死すぎて胡散臭く感じちゃうんだよなぁ そりゃ、地元じゃ中心的場所だろう。
九州北部は国邑と言って
小国の中心みたいな集落が
10キロ程度ずつ離れて存在している。
その一つに過ぎない。
おそらくは郡サイズの小国の痕跡だ。
確か吉野ヶ里では9世紀の木簡が見つかってたはずなので
その頃はもう平安時代くらいで
地方役場だろうね。 >>225
吉野ヶ里は必死じゃない
九州説が必死なだけ 奈良時代の郡衙跡だとしてそこからさらに400年以上前の卑弥呼の時代はどうだったんだろうな
遺跡の下にさらに何か埋まってる可能性もあるのだろうか >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図が無かった古代では方角や距離を間違える可能性は十分あり得るが、日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、この時点で方角に関係なく不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が真っ先に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめろ。 >>200
楽浪郡は半島北部
シナとの交通に難があり荒畑寒村として消滅した
現代の地図を見て古代を語るのはバカ者
当時の交通は海運がメインだった
半島にはマトモな都市や道路の遺跡がない
文化のない後進国から文化がくるわけがない >>228
もともと知られていた吉野ヶ里遺跡が3世紀の邪馬台国時代あるいは2世紀の倭国大乱時代で
今回発掘されたのが8世紀の奈良時代だから、地層としては浅い部分ということになるね
その辺が良く分からない
近隣の別の場所なんだろうが… >>232
元々神社があって、発掘できてなかったところ
神社が移転したから掘れるようになった もともとは果樹園で、土器のかけらくらいは
普通に出ていた。
工業団地を作る予定で遺跡調査をしたら
結構大きい遺跡だということがわかり
国営遺跡公園として申請した。
この辺はググると色々なお話がある。
他の地方は知らんが、福岡や佐賀は
必ず遺跡調査をする。
ただし一般家屋や倉庫のように
遺跡を壊す可能性が低い場合は
そのまま、上に家屋を建てる。
遺跡を壊すおそれがあるときは発掘するが
一般家屋程度の広さなら補助金で収まることが多い。 ついでに吉野ヶ里の9割は発掘せずに
再び1メートルほどの土を被せて保存している。 弥生時代と目されていた佐賀の遺跡から奈良時代の遺物
この間は鹿児島の遺跡から弥生時代に作られた縄文時代の遺跡
玄海灘に面していない地域は文明開化が遅れていたんだね(笑) 玄界灘といえば菜畑遺跡かな。
あそこは最も早い時期の稲作遺跡だね。 >>236
奈良時代の象徴とも言うべき、奈良の平城京から縄文土器や土偶の類が出てるんだが?
弥生時代の卑弥呼の居城跡と目されるからと言って、後の時代に使われてないと思う方が歴史を知らん >>238
そのような事例はどこにでもあるでしょ
そんなに言うのならカーシイ宮様に聞きましょうね(笑) 玄界灘の潮風に
鍛えし鉄器逞しく
疾風の如く颯爽と
東征目指し羽ばたけよ
いざ行け無敵の九州王朝
いざ行け炎の九州王朝
我らの我らの九州王朝 >>239
どこにでもあることを特別視するほうが間違い 奈良時代まで吉野ヶ里が遺跡じゃないなら、古事記・日本書紀・風土記になにか残るんじゃない? >>241
ここは佐賀の賢人様が誇る渡来人、徐福(自称)の遺跡では?
もちろん、渡来人の遺跡ごときの価値は皆無なのですけどね(笑)
なぜなら我が国は天皇陛下を頂点とする日本国なのですから ふと思ったが、1000年後に現代の遺跡ってないんだろうな。考えてみたら俺ら古いものはぶち壊して新しく更新する。 >>60
君の脳内にある歴史も正しいとは限らないだろ?
何で君だけは絶対的に正しいと言い切れるのかね? >>229
数字をふかすのは
ヨーロッパのプラトンとかでもなかったっけ? >>242
そもそも吉野ヶ里遺跡というのは遺跡のある地名からとった名前
本当の遺跡の名前が全くわかってない
これまで吉野ヶ里からでた木簡六点は、文字もかすれてるため判読不明な文字もあるが、地名と思える記述はない
日下部氏の誰かの名前は出てきてる >>242
そんな天智天皇以降に作られた都合のいい歴史書を持ち出されても
天智天皇以前の歴史は地方や近畿の豪族の歴史を都合よく取り入れてるだけだろう >>252
「天皇」である証拠、天智天皇以前と繋がっている証拠
は無いだろ
勝手に天皇の先祖に組み込まれてしまってる >>243
何を言っているのか意味不明だが現在の日本人の遺伝情報を国立博物館の
研究者が調べて本州の人の遺伝情報ゲノムのうち90%が3000年前から大陸からやってきた渡来人のもので10%が縄文人だと
判明している
邪馬台国のあった弥生時代は渡来人である我々の先祖の遺跡ですよ 纏向遺跡から出土したのは、近畿を中心にした土器の破片、大量の
桃のタネ、犬の骨、魚の骨。鉄製品や銅製品はゼロ。出土品の状況から
纏向遺跡は箸墓古墳を作るための労働者の休憩所と言う事であり、魏志倭人伝に
記載されている楼観、城柵の出土は無いし住居を取り囲む環濠も無いので
纏向遺跡は騒乱の無い時代(古墳時代)の遺跡であるのが確定しており
邪馬台国とは無関係の施設である。 >>254
なにを仰るウサギさん
邪馬台国は古墳時代でしょ >>3
都道府県で唯一時代の名前にされたのは奈良だけ
京都は平安時代だし
東京時代とか千葉時代とか何故無いのか謎 >>256
魏志倭人伝には邪馬台国と狗奴国との戦争なども書かれているから
邪馬台国は古墳時代ではなく弥生時代と言う事になる
古墳時代とは弥生時代の騒乱が終わった平穏な時代の事だぞ まだ掘ってるのか
こんなチンタラ少しずつ掘ってるのって、なるべく長く補助金とか吸い上げるためかね? 大泉のせいで吉野さん(女)がオヤジ狩りしてるイメージしかない >>253
雄略天皇の実在性はアマチュアが世迷い言を行った程度では覆りようがない
物証にまさる証拠は無いからな 邪馬台国は吉野ケ里で間違いないが、吉野ケ里には卑弥呼の墓は無い
卑弥呼は元々伊都国王だったから、お墓は伊都国にある平原女王墓 邪馬台国九州説を否定する訳ではないんだが
その後の日本の王権が畿内から全国に拡大していったことは確かな訳で
九州説を取る人はその辺りをどう考えてるのかな
神武東征のような王朝交代が事実だとするのか
畿内の王権が邪馬台国を征服したと考えているのか
その辺りはあんまり言及されないよね 天智天皇までは福岡で
白村江の大敗で、近江大津に疎開。
近江大津で天武天皇にクーデターを起こされ
政権交代。
大和朝廷を設立。
以上 >>267
陰謀史観で全部スルーするという頭の悪い選択しかできない >>268
竹内文書やウエツフミ、王年代記を真に受けるのは真性のアホ
文字の成立は紀元前3000年のメソポタミア
漢字の成立は紀元前1800年の殷王朝
口伝の最長伝承はアフリカの1500年
伝わるはずのないものを信望するおめでたい奴ら >>267
記紀によれば崇神の頃に東西に四道将軍を派遣して勢力圏を広げていったとある
また景行仲哀の頃になると盛んに九州討伐を繰り返してる
晋書によれば司馬懿の時代から繰り返し朝貢していた倭国は
晋の初代皇帝即位2年目(266年)に朝貢したのを最後にぷっつりと消息が途絶えた
その後もしばらくたくさんの東夷各国からの朝貢があったにも関わらずだ
倭王武によれば先祖は東に55国、西に66国、海を渡って95国を平定したとある
女王国30国連合の規模がどのくらいの大きさなのか想像できるというものだ
https://i.imgur.com/774JWjO.jpg >>270
普通に記紀と風土記しか使っていませんよ。 古墳時代は四百年以上もあるから、その間に奈良に住み着いた北部九州の
勢力が大和朝廷を樹立して、全国を支配していったのは間違いない
そのためには鉄の矢じりや鉄の刀が必要になるから全国制覇と同時に
鉄が採れる朝鮮半島南部の支配も重要だったと言う事だ 古事記によると、景行天皇(の元ネタの豪族)は
筑紫に拠点を持ち、久留米を攻めた。
当時は筑後久留米は肥後国の一部だったが
景行天皇が高良山を取り筑後国に変更した。
その後、肥後国、肥前国を従属させる。
九州のほぼ中央を取った景行天皇は、
肥前肥後の豊富な食料と兵力を使い
豊前、豊後、日向、大隅と侵攻して
九州を統一した。
これが4世紀辺りだろう。
5世紀から7世紀は独自の政権を持っているが
白村江で48000人で攻めたが唐に大敗した。
兵力をなくした天智天皇は、唐から逃げて
近江大津京を建てて疎開する。
だが、兵力を失った天智天皇に
天武天皇がクーデターを起こして
政権を奪取、大和朝廷を設立する。
そして中国がやるように、
前政権の歴史書である古事記、日本書紀を作る。 箸墓古墳が最古の前方後円墳と畿内論者は言っているが、福岡県の
那珂八幡古墳や光正寺古墳は箸墓と同じ帆立貝型、そもそも家や橋などの
建築物も初めから巨大なものは作らない(作れない)ので巨大な箸墓古墳の
後に那珂八幡古墳などが出来たとは考えにくい。最初の前方後円墳は
博多区の那珂八幡古墳で間違いない >>263
何回も言う
実在性は否定してない
雄略天皇とされる豪族は実在しただろう
それが天皇の祖先か、というと、ここに創作がプラスされている
切り分けて議論できないかな >>244
戦後の建築物でも重要文化財になったりしてるし、現代の建築物でも価値あるものは残すんじゃないの? >>267
自分たちが下に見てるはずの九州から神武天皇が来たなんてわざわざ伝説にしないだろうから
九州勢力が畿内を征服したのは事実だろう
だがそれは邪馬台国じゃない 邪馬台国は滅ぼされた それで痕跡がまったくない
九州を統一した別勢力が畿内まで支配
その後畿内勢力が強くなり、九州本国に反乱(イギリスから独立したアメリカみたいなもの)
逆に九州を征服した
それがヤマトタケルの熊襲征伐 >>277
タイムマシンがなければ信じないって輩はこんなスレに迷い込む意味がない 元ヤマトは筑紫だけど、神武の畿内引っ越しが天武ヤマトの始まりでつ。 >>267
九州の墓に見られた三種の神器の文化が天皇家に引き継がれている以上、なんらかの関連性はあると考えるのが自然だとは思う
随書にあるように当時の阿蘇山は活動期だったから阿蘇の噴火を恐れた当時の権力者が奈良に移り住んだ、ってのが一つの説として成り立つんじゃなかろうか 末盧国が松浦川を中心とした国だったとして、それが唐津(唐へ至る港)へと名前を変えたのは文字通り唐時代だろうから
奈良時代においても九州が中国との交易の起点になってたのは間違いないだろうと思う
まあ当時の航海技術じゃ他にルートないから当たり前と言えば当たり前なんだけど >>267
北九州にあった卑弥呼なき後の邪馬台国を
朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の天孫族が征服したのが天孫降臨でしょ
その騎馬民族の首長がニニギ
征服された倭の姫や武将がアメノウズメやサルタヒコ
その後東に進んで畿内を征服して出来たのが後の天皇家になる大和王朝
こんなの常識じゃない?手塚治虫の火の鳥にもそう描かれてる 九州の海外貿易港は唐津と博多がある。
博多は筑前、筑後の貿易港
唐津は肥前、肥後の貿易港
ここから鉄が輸入されており、
肥前と筑前、筑後の境界の鳥栖、
肥後と筑後の境界の大牟田、荒尾、
ここらは戦闘遺体や鉄刀や鉄鏃などが多く出る地域である。
あと、肥後と豊後の境界に当たる
大分県大野町から多くの鉄鏃が出ている。 玄海灘側の伊都や奴国の勢力が東に移動して畿内にヤマト政権を打ち立てただけでしょ
この一帯だけで能古島、日向峠、小戸、上山門、橋本、細石、志賀島全て揃っている
畿内に拠点を移した後の九州(吉野ヶ里等)の在地勢力は調子に乗って朝鮮半島と結託して悪さを始めたので畿内ヤマトが九州征伐を行った(神功皇后)
その後も熊本の磐井等が立つもあえなく敗退(笑)
ま、博多湾だけは特別なのさ 神武東征は筑紫ではない2つの理由
その1
瓊々杵命が天孫降臨の後、各地を放浪し最終手に落ち着いたのは吾田という所
今で言う鹿児島県南さつま市
瓊々杵命の妻は木花咲耶姫、別名が神吾田津姫
その2
神武東征のルートは、東に海に出た後、豊予海峡を通り、宇佐により、遠賀川河口まで北上する
筑紫を起点進んだとすると、とんでもないV字ターンになる 筑紫の日向の立花の小戸のアワギハラで
イザナギが体を清めた話ですね。
日向峠をよもつの平坂に見立てて
室見川沿いに小戸港の博多湾に行く話に見えますね。 神武天皇グループは定番の
日向から宇佐経由でいいと思いますよ。
筑、肥、豊、熊襲、
これらが統一される話があるのは
景行天皇になってからですから
それぞれ別の神話があってもいいのでは?
神功皇后は博多湾周辺
仲哀天皇は北九州から香椎宮当たりが領域でしょうね。
景行天皇は筑後久留米。 神武天皇は吉武高木遺跡
景行天皇は鷲尾愛宕神社が有名です
神功皇后は香椎
全て博多湾内ですね 詳しく知りたければ海幸彦の松野さんに聞いてみたらいいと思います 天武天皇の引越し説に不都合な真実
天智天皇以前の宮の地、飛鳥宮、大津宮、難波宮から全国から搬入された税の荷札の木簡が出ている
文字の書かれた木片を否定するだけ無駄 宮崎は古墳時代になって急に古墳が出来始めたが、弥生時代の遺跡は
全くないから邪馬台国とは何の関係もない。古墳が多いと言う事は
埼玉と同じで原住民(縄文人=熊襲)が大和朝廷に逆らったから
罰として古墳を作らされたと言う事だ、埼玉の場合は蝦夷になる。 >>297
引っ越しで近江大津宮に引っ越したのは
天智天皇ですね。
663年 白村江大敗
667年 近江大津宮へ遷都
672年 壬申の乱で政権交代
特に問題はなさそうですが? >>299
その更に前の飛鳥宮と難波はどう言い訳するんだ?
文字が使われだしてからの畿内はどうあがいても絶望しかないよ >>300
すみませんが意味がよく解りません。
畿内がなぜ絶望しかないのでしょうか? ちなみに私は畿内派というわけでもありません。
念のため。 >>301
もし物証の出てくる時代の畿内を否定するのは絶望しかないって意味やね 邪馬台国、卑弥呼がどこか?と言う話しと、ヤマト王権の成り立ちは全く無関係な話しだ
卑弥呼がヤマト王権に連なるのであれば、はっきりそう書いてる
逆説的に卑弥呼はヤマト王権と繋がらないという証拠でもあり、邪馬台国は畿内説ではなかったという話し >>304
邪馬台国の権力者が奈良に移動してそこで大和王権を築いた可能性はあるけど
そのことと魏志倭人伝に書いてある邪馬台国がどこにあったかって話は別問題なんよね
だから邪馬台国がどこにあったか、って話の中で天皇の話をするのはお門違い 邪馬台国の卑弥呼さんが大和王権の王に繋がってたら日本は中国の属国になるじゃないか。習近平に昔は中国だったから我が領土とか言われる。大和王権は邪馬台国と縁を切っとかないと面倒な国があるからな。 >>305
ヤマト王権に連なるなら、素直にそう書くだけ
ご先祖様は日向からやってきましたって書いてるぐらいなのに、邪馬台国をあえて隠す意味がない
>>306
倭の五王ってのがそもそも存在してるんやが? >>306
姫氏の末裔名乗ってる邪馬台国が天皇家に繋がるなら色々厄介な事になる可能性は有るね >>307
「邪馬台国がどこにあったか」を論じようと思うなら記紀の存在は無視するのがいいと思う
記紀は重要な歴史書だけど、あれのせいで逆に歴史の解明が進まないところもある 伊都国の平原王墓から出土した巨大な内行花文鏡と同じ銅鏡が伊勢神宮に
納められているらしいので、これが事実ならば大和朝廷の始祖は伊都国
出身者と言う事になる。 神武天皇グループは日向から。
景行天皇は久留米(筑後)から
神功、応神親子は福岡(筑前)から
時代で中心地がちがうのか、
実は別の豪族だったのかはわからん。
神武のときは、先発組にナガスネヒコがいて、
畿内で世話になってなかったかな? >>309
邪馬台国、卑弥呼の統治は記紀にはない
有力な地方豪族や後の貴族は記紀にエピソードが残るがそれすらもない
つまり邪馬台国や卑弥呼とは、その程度の存在だと言うこと
ある一定時期に存在した地方豪族集団の一つ程度のもの
可能性を書くなら、ヤマト王権が土蜘蛛と表す反抗集団のどれかに邪馬台国、卑弥呼が埋まってる可能性はある
あえて探すなら、時期的に筑紫の土蜘蛛田油津媛が該当する可能性はある 中心地で主流派から外されたり
新規勢力の若者が、外のフロンティアを
目指すのはよくあること。
神武グループもフロンティアを求めて
九州から旅立ったが、瀬戸内沿岸は
すでに先発組で埋まっていた。
奥へ奥へと進み、
なんとか先住民を追い出したり、
融和したりして住み場所を見つけたのが
奈良である。 記紀に記載のある神武東征の日向とは伊都国と福岡市西区の間にある
日向峠(ひなたとうげ)と言う説がある、ここを通って神武東征に
出発したと言う事だが、俺もその説に同意する。宮崎の弥生時代は
熊襲の地で原始的な暮らしをしていたと思っているから、東征するだけの
軍事力は無かったと思う。 >>313
なぜ奈良なのか?は考えれば簡単にわかる
東西の接続部として奈良が都合がいいからだ
文化的な先進地は関東以北であり
国外からの先進文化は九州から入ってくる
その中間接続部が奈良
東からの陸の縄文の道が松坂や名張から奈良につながってる
また大阪湾という内海の終端があり、盆地という周囲を囲まれた地形も都合がいい
奈良盆地から移転した都が今度は京都盆地に行く
東西の接続部かつ盆地と言うのが、うまし所の条件 >>314
それは100%ない
神武東征と言う単語は知っていても、その内容やルートを知らないから騙される
速吸之門、菟狹、岡水門、埃宮、高嶋宮、難波之碕、草香邑靑雲白肩之津、龍田、膽駒山
神武東征に出てくる地名がどこなのか?探せば九州南部から出発した以外の結論はない 神武東征のルートは既に全部調べられて石碑が建ってる
これを神武天皇聖蹟という
仮に神武天皇、または瓊々杵命の王朝というのがあったのであれば、その本拠地は瓊々杵命が住んだ笠狭宮と言うことになる
笠狭宮は瓊々杵命が吾田に行ったあとに居を定めたところ
現在の鹿児島県南さつま市加世田川畑に笠狭宮跡がある
吾田や笠狭宮近辺で高千穂を探すと、宮崎県と鹿児島県の県境にある霧島山の高千穂峰が最適解となる
筑紫日向峠説はこの前後の経緯との整合性が全く取れてない
あくまでも天孫降臨の場面だけを切り取ってこじつけただけの、お粗末な願望だとわかる と、九州南部の隼人が何かをほざいています
ハヤヒは奈良盆地で敗れた負け犬 覇者たる畿内ヤマト政権全国統一を正当化するために作られた創作をいつまでも本気にしておられる方ってまだいらっしゃるんですね(笑)
どうあがいてもヤマト政権の都は畿内であり、邪馬台国をヤマト政権に繋げるのであれば、その邪馬台国の都も畿内でしかあり得ないのです。 >>320
邪馬台国は地方の泡沫豪族
たまたま運良く金印をもらっただけ >>316
宮崎からは弥生遺跡は全く出土していない、そんな所に武力の強い集団が
いるわけが無い。神武東征は間違いなく伊都国から出発している。 >>321
ですね
邪馬台国はヤマト政権成立と何の関係も無い別勢力。
こんなものを崇める方々は日本国を陥れようとする反乱分子と見て差し支えないでしょう。 邪馬台国はやっぱりサフラン好きの鬼の国かなあ(笑) >>322
> 宮崎からは弥生遺跡は全く出土していない
嘘を付くと余計に持論の信憑性を蔑むだけ
地域:宮崎県、時代区分:弥生期に絞って、発掘調査報告書を検索すると557件の報告書が上がってくる?
この数は佐賀(480件)よりも多いくらいなんだけど?
嘘をついてまで広めたい幻の九州王朝 神武東征をあったものとするなら
もしかしたら神武は狗奴国の出身かもな
邪馬台国(倭面土国)の支配が気に入らなかったから九州から逃げ出した
女王国の東に海を渡って千余里また国々(出雲や吉備など)があって皆倭種である
神武の一族が倭地(倭人の住む地)の島々を巡り歩いて五千余里でだいたい近畿圏あたり
各地で神武一族が地元の有力者一族と婚姻を繰り返し
放浪の末についに奈良の山奥で国を立てたそれがハツクニシラス崇神
そして記紀には各地の豪族たちの歴史がごった煮でひとつにまとめられてしまった 奴国(海神族)、狗奴国(山幸彦)、邪馬台国(海幸彦、後の隼人)
こんな感じかな 金印貰ってありがたがるって、大陸の属国って証だろ? そりゃ後の人間は志賀島に捨てるわな。 邪馬台国の一族は金印の価値を知っていた朝鮮半島からの渡来人
委奴国の倭人はむしろその価値を知らずに持っていた縄文人
半島渡来人の邪馬台国は金印を所持している勢力を排除して成り代わろうと企んでいたのであろう
だが、狗奴国出身の山幸彦、後の畿内ヤマトの景行天皇、神功皇后、継体天皇の時代に征伐されているのだよ 佐賀に限らず筑紫平野地域は古来より日本の中でも気候に恵まれ相当に豊かな場所だったと推測出来る。
大きな力を保持するには相応に豊かな土地が必須だった筈で筑紫平野は最有力地だった筈。 >>231
魏志倭人伝に朝鮮半島経由と書いてある
当時の地図なら余計に奈良はない
バカすぎるから氏と姓と本貫ないやつは祖国に帰れ >>328
倭王武までは征東海、鎮東海将軍号もらって喜んでたけどな 漢を奪還した光武帝は周辺国と融和的に接していたと伝わる
奪還、融和
良い言葉だ 欠史八代の各天皇の漢風諡号の出典を調べたサイトがあってそれによると
神武、綏靖、懿徳あたりまでは「三国志呉志」に文字があるそうな
安寧は詩経にある周の詩から
この辺までは九州の南端で呉系の渡来系一族がいたのかもしれない
(九州北部にいたのは燕方面からの渡来系か)
続いて孝昭、孝安、孝霊、孝元と一転して「考」一族の時代になる
孝霊はみなさんごぞんじ吉備の大王(かもしれない)
モモソや桃太郎のパパ
開化は何かが変わることを予感させそして崇神は「神」がつく名前
神武、崇神、神功、応神あたりは王朝交代の可能性が見えてくる 奈良時代まで神崎郡の中心だったなら何が出てきてもあまり不思議はないじゃん >>334
欠史八代が欠史となった、記紀の編纂より後に漢風諡号されてる
欠史八代の素性がわかってるのなら、欠史にならずに済んだろうけどね 板付土器、遠賀川土器が全国に広まってるから筑紫平野は文明開花が遅れていたと思われる >>337
各地の豪族の歴史を取り込んで万世一系のストーリーをでっち上げたのだろうな
記紀には各地の豪族の歴史の名残が散りばめられてる >>326
逃げてきたやつが開祖として祀られるかな
神武は九州の全面バックアップを受けてたからこそ畿内征服できた
邪馬台国が魏に朝貢したのは狗奴国に負けそうだから助けてってこと
外国に援助を求めるほど追い詰められ、王が代わるたびに内戦が起きる弱小連合
台与が即位したあと、せっかく交流ができた中国への使者の記録もなくなる
これは邪馬台国が滅んだってことだろう >>1
山上憶良が反政権側の人間だったとか色々言われてるよな
やっぱり民族が違うんだろうな >>342
仮に神武なる立場のだれかが存在したとするならいつ頃の人だろうか
神功の三韓征伐を390年ごろとすると平均在位15年ほどで逆算すると
ちょうど倭国大乱の時代に近くなる
倭国大乱の前か後か
九州南部の勢力が九州北部の勢力と衝突し和せず新天地を求めて旅立ったのかもしれない
ちなみに神武東征説話は記紀編纂に携わった渡来人が持ってきた他所からのパクリかもしれない
なんもわからないからと適当コキまくってみた >>345
崇神じゃねえの?
崇神天皇(すじんてんのう、開化天皇9年または10年[注 1] - 崇神天皇68年12月5日[1])は、
日本の第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)=B
『日本緒窓I』での名は血芒ヤ城入彦五十珥B天皇。
祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えたとされる御肇国天皇。
実在した可能性のある最初の天皇[2]とする説があり、
考古学上実在したとすれば治世時期は3世紀後半から4世紀前半と推定されるが、定かではない。 >>342
> 神武は九州の全面バックアップを受けてたからこそ畿内征服できた
畿内ヤマトは考古学的にみて吉備の全面バックアップを受けてる気がする
九州のイロは少なすぎる気がするので九州→畿内ではなく
畿内→九州という西征ならあっただろうか
それはちょうど266年に倭国からの朝貢が消えた時期かもしれない >>339
でっちあげの証拠は?
奈良時代に日本各地を地面を掘り返して、捏造した証拠をゴットハンドしたとでも言うんか? >>347
吉備と奈良大和は強い関連はあるだろうね
吉備国に神武が滞在してる、吉備で養蚕と絹織物を教わる、
吉備が明らかに奈良大和より発展した国であるから、
朝鮮半島南部の楽浪郡ほかの影響も距離的に近い
同様に下関、関門海峡を隔てて縄文海進の影響あれば、
筑紫と吉備は別の国と捉えるのが相当
ヤマト王権の五大国でも別だしな
ただ箸墓はヤマトトトモモソヒメで終わると思うよ
ウラが吉備の旧王だったとしても、
この時期から奈良大和が全国に勢力持ったんじゃないかと
筑紫国は普通に白村江のときの磐井の乱まで。 >>345
倭国大乱てのは後漢書の造語で倭人の証言ではない
年代についても誤った机上計算である可能性が高い >>351
「争いがあった」とは書いてる
>
中国の正史、『後漢書』「東夷伝」、『三国志』(魏志倭人伝)、『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭などに、
倭国大乱(『後漢書』「東夷伝」)または倭国乱(『三国志』(魏志倭人伝)、
『梁書』諸夷「東夷諸戎」倭)として、概要次の通り記述されている。
倭国はもともと男子を王としていた(57年に後漢の都洛陽に遣使して漢委奴国王印を贈られた委奴国王、
107年に後漢に遣使した倭面土国王帥升等)。
70〜80年を経て、倭国内で大乱(国王の座を争う内乱)が発生した。
争乱は暦年(中国正史で歴年とは平均して8年±数年)続いた。
邪馬壹国が勝利し、邪馬壹国の一女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という。
『三国志』魏書 卷30 東夷伝 倭人(魏志倭人伝)
「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」
其の国もまた元々男子を王として70〜80年を経ていた。
倭国乱(倭国王の座を争う内乱。王位争奪は良く有る事だが、外国史書がわざわざ記すのは国王の座に交替があった場合のみ)。
8年±数年間も相互に攻め合った。
そこで、一人の女子を共立して王にした。名は卑弥呼という。
鬼(神)道を用いてよく衆を惑わした。
年齢は35歳を過ぎ(中国史書では35歳に達すると年長大と表現される)、夫は無かった。
問題は倭国の範囲だけ 外交音痴な国内のことで精一杯の勢力が統一
そして筑紫館、難波館の時代へ >>352
暦年の解釈はともかく
後漢書では七八十年を男王の統治ではなく大乱の期間と誤認して
かつその線で絶対年代を「計算」した可能性が高い
ここだけ見れば大勢に影響がないようにも見えるが倭人伝より後漢書を(根拠なく)鵜呑みにする連中が大勢いるのでね >>222
ナタで指を切断したという本人インタビューがあった >>355
後漢書曰く「桓靈間倭國大亂」
桓帝は146年から168年
霊帝は168年から189年
最長でも43年間の争い >>352
古代の男王、女王の問題は結構根が深そう
奈良朝に入るまでは相当怪しい
例えば推古天皇周辺
神功皇后事績との類似など >>359
推古代はわりとはっきりしてる
遣隋使来てるから文献にある
問題は遣随使第1号。
これが日本側の記録にない
そして聖徳太子の記述もおかしい
だからその辺は三国史記に転載された古い文献を頼りにするしかない
韓国頼りとは情けない
神功については怪しいなんてもんじゃないが、
公開度王碑に書いてあるから三韓征伐は誰かがやったんだろ
あとその息子の倭王武はワカタケル鉄剣がある応神天皇、
ホンダワケノミコトだから多分母親は実在した
なんで史実にしないかというと、多分うるさい国があるからニダ >>362
神功皇后も鉄剣が出てるぞ?
七支刀って言うんだ >>326
狗奴国または狗奴韓国の可能性もなくはないんだけど、
普通に考えて日田、つまり大分あたりの中九州の可能性の方がまだ高いと思うけどな
ウガヤフキアエズ朝の話でしょ?
>『ウエツフミ』によると、祖母山に天孫降臨したニニギの命は、
この山の周辺に最初の都「二上(ふたのぼり)の大宮」を建設し、
そこから大野川を下って大分市内の南大分あたりに「大分(おおきた)の宮」を構えて首都とし、
現在の霊山(りょうぜん)に八咫鏡を祀る社を建てたとある。
その孫である初代・ウガヤフキアエズの命の時代には、
この地からタケルと呼ばれる国司を任命して、ほぼ全国を統治しており、その地名と実際に任命された人物名までが正確に記録されている。
でもこれ自体文献として怪しいからねぇ
邪馬台国が奈良にあるとすると「どこから東征始めたのか」意味不明
二元王朝説取ると万世一系派が怒る
なんでだよ。海彦は薩摩隼人になったって書いてあるのに >>364
これまためんどくさい話なんだよなぁ
> 即位説
『新唐書』列伝第145 東夷 日本[13]に
「仲哀死、以開化曽孫女神功為王」、
『宋史』列伝第250 外国7 日本国[14]に
「次 神功天皇 開化天皇之曽孫女、又謂之息長足姫天皇」とあるが、
『宋史』には10世紀に日本から渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』の内容を掲載したと明記されている。
『新唐書』が編纂されたのも11世紀であり、やはり『王年代紀』を参照したと考えられる。
明治時代以前は、神功皇后を天皇(皇后の臨朝)とみなして、第15代の帝とした史書もあったが、
1926年(大正15年)10月の皇統譜令に基づく皇統譜から歴代天皇から外された。
女性天皇は存在して他のは外してないのに、神功だけなぜか外されてるんだよ
七支刀自体は現存するし、文献上とも矛盾はしないのだが。 福岡市元岡遺跡出土の庚寅銘大刀は大変興味深い
年号が印されている最古の大刀だろう >>366
新唐書や宋書のベースになっている王年代記は偽書だよ 佐賀とか奈良とかいわれると、「ラーメンズ」が頭にちらつくんだがw 魏の属国である邪馬台国を魏が滅ぼした呉からの難民 安曇系の大和朝廷が滅ぼして、後に聖徳太子が日沈む国と中華を馬鹿にして独立国であることを示し、怒った元が領土を取り戻しに九州にやって来たのが元寇。そこで元が壊滅して今日に至る。中華が日本は我が領土と言いにくい状態が今と考えてみた。 >>367
実は最古は奈良県天理市の東大寺山古墳から出た中平銘大刀
中平と言うのは、後漢の霊帝の治世の184年〜189年の元号 遺跡とか土器とか化石とか全部信じるに値しない
UFOとか幽霊と同じレベルだと思ってるわ 卑弥呼が暗殺されたとか、邪馬台国が狗奴国に負けたとか妄想を書いているが
卑弥呼が暗殺されたら、宗女の臺与が卑弥呼の跡を継げるはずが無い よって、大陸の属国である邪馬台国が何処にあろうが、何が解明されようが純日本人には面白い結果とならないのです。属国の証である金印など見つけて喜んでる方は何を目指してるのかわからんのですよ。よってこの邪馬台国ロマンは解決しない。 >>375
卑弥呼が殺された説は日蝕が起きたのは卑弥呼にもう神通力がなくなったからって話だから
新たに同じ能力を持ってそうな血筋が継ぐのはおかしくない 安曇族の精鋭部隊は飛鳥時代に起きた白村江の戦いまで福岡市の志賀島に
居た事は分かっている、神功皇后が三韓征伐から帰国して奈良に帰る時に
大阪まで同行し大阪に住み着いたのが博多区住吉を根城にしていた
住吉族。 筑前町を中心とした山名や地名が纏向を中心とした山名や地名と重なるので
神武東征は宮崎からではなくて福岡県からと言う事になる >>378
安曇氏は単なる海運業者や漁労民
日本海を中心として、漁業をしたり人や物を運ぶのが生業
当時は夜間航行もできないし、海が荒れても出船できない為、1日の距離毎に上陸して休憩できる宿駅が必要
その名残が各地に地名として残った
因みに太平洋側には別の一族がいて、名を隼人と言う
彼らが移動した痕跡が、紀伊半島と房総半島の地名の類似として残った
例:白浜、勝浦、加茂、田子、浮島など 三韓征伐とか言ってる奴は何を根拠にそんなもんがあったと言ってるの
記紀はあてにならんし向こうの記録にも半島側が負けた記録はない >>381
そもそも百済本記には、ずっと倭人がやってきて争いがあったと書いてるので、いつの時代のどれが三韓討伐なのか区別はつかない >>382
5ちゃんは嘘を嘘と見抜けない奴ばっかやな >>383
見抜けないのではなく、事実は二の次、願望が優先のやつがいっぱいいる >>383
朝鮮側の記録は信用出来んと思う、特に負け戦なら本当の事を書くわけが無い >>362
阿輩鶏弥がなんなのかすら未だはっきりしない
大君(オヲキミ)なのか天君(アマキミ)なのか
皇太子を含めて全員「大王」(たぶんオヲキミ)だったのは文献から間違いない
例えば聖徳太子の法大王、尾張皇子の尾張大王、山背皇子の尻大王、田村皇子の大王
等己彌居加斯支移比彌乃彌己等は大王だったのかどうか
推古に呼応するように女帝がうまれた新羅では
女帝は結婚せず子を持たず男の兄弟もおらず
自分の直系を皇嗣にするのに必死な推古や皇極と全然事情が違う
推古は西太后に近い >>382
百済本記は
百済から来た渡来人が
自分たちの半島内での権利を主張するために
日本との同盟的な関係を主張する意図で
日本に献上するために書いた史書ということが疑われている
だからやや百済渡来人寄りな可能性を念頭に入れないといけない >>388
ずっと侵入してきて荒らして困ってますと書いて同盟関係につながるのか?
斬新な説だな 隼人=海幸彦
海神ワタツミ族(後の安曇族)と山幸彦に滅ぼされた負け犬(笑)
その後、ワタツミの娘と山幸彦が結ばれて神武天皇が産まれる 分別がつかない馬鹿だから度々朝廷に反乱を起こしてきた隼人族
令和の時代になっても変わらない >>7
ここは元々工業団地を造成している際にたまたま色々と出土してきてそれから本格的に発掘が進められてきたんよね。まだまだ色々発掘されるんじゃないかな。 いまは徐福?の反乱分子は日本の北の方にいるよなあ(笑) >>389
百済本記に百済は倭に仕えてきたと書いてある
日本書紀の逸文にしか残ってないが 百済の王族を人質として倭に差し出して
百済の危機には倭から軍勢が助成に出る関係だよな >>381>>382
神功と推古は話が似すぎてる
なぜ半島との関わりが強い記述がある時に限り女帝なのか
飯豊青皇女(飯豊天皇)も謎が多い
半島との関係も深く葛城が本拠地で後に蘇我氏を排出してる
記紀は女帝の系譜というか女性皇族の役割がはっきりしない
皇后が天皇になったことは認めてるが
飯豊青皇女のように皇女が天皇になったことは認めてない >>395
最後に百済が滅亡した後は、日本に亡命して埼玉県に土地をもらって住んでた
高麗神社(こまじんじゃ)
高麗王若光(こまのこにしきじゃっこう) >>394
だから日本書紀はあてにならねーって
記紀にしか記録が残ってない大和政権にとって都合のいい話は何も信用できねーよ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています