公開された山上碑
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多胡碑の碑文、右から2行目の一番最後に「羊」の文字がある
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 「羊太夫」という人物を知っていますか? 群馬県にユネスコの世界記憶遺産「上(こう)野(ずけ)三(さん)碑(ぴ)」があります。上野三碑は上野国(群馬県)にある飛鳥・奈良時代に造立された三つの石碑です。三碑のうち、多胡碑(たごひ)を造立した人の名前が「羊」ということから生まれた伝説の人物です。「羊」は渡来人の可能性を指摘されているほか、古代キリスト教徒という説もあります。今回は謎の羊太夫のお話です。

(中略)

■多胡郡の支配を任された人物の名前は「羊」

 三碑がある地域は、高崎市の南西部、利根川の上流である鏑川の流域で、低い丘陵地になっています。多胡碑は高さ約2メートルの石碑で、上野国として14番目の郡として多胡郡が設置されたことを記念して建てられたものです。日本の正史である「続日本紀(しょくにほんぎ)」に和銅4年(711)に周囲の郡から戸数を割いて多胡郡を置いたという記述があり、多胡碑の碑文と一致します。碑文では「羊に給(たま)いて多胡郡と成せ」と書かれ、支配を任された人物の名前は羊となっています。

 残る二つ、山上碑は隣接する古墳の被葬者である母親の追悼供養のために681年に建てられました。金井沢碑は726年、地元の豪族が祖先の供養、一族の繁栄などを祈念して建てたものです。

■朝鮮半島からの渡来人か、石碑は大陸の文化だった

(中略)

 石碑が建てられた背景を調べると、朝鮮半島の動乱が関係しているようです。朝鮮半島の三国時代は、唐と結んだ新羅(しらぎ)により、663年に百済(くだら)が滅亡し、高句麗(こうくり)も668年に滅ぼされました。朝鮮統一を果たした新羅でしたが、その後、唐と対立するようになります。この間、百済、高句麗、新羅から王族や貴族を含む多くの人々が日本に逃れました。実際、武蔵国(埼玉県)に高句麗系渡来人により高麗郡が716年に設置されたほか、新羅系の人々による新羅郡もありました。石碑を建てる文化は、当時の日本にはなく、中国から朝鮮半島を経由して伝わったと見られています。このため、三碑の造立には渡来人が関わった可能性が高そうです。

 もともと三碑がある地域には、ヤマト政権の直轄地、屯倉(みやけ)が置かれていました。中央と関わりが深い経済的要地であり、そこに渡来人の知識・技術を導入し、さらなる生産性向上や経済発展を狙った可能性があります。奈良・平安時代には窯業、絹や綿布の生産などで有数の手工業地帯に発展していきました。

■地元に伝わる伝説「羊太夫」、朝敵として討伐される?

 羊の文字は人名が有力ですが、方角を示すという説もあります。ちなみに、地元に伝わる伝説では、昔、羊太夫という人がいて、神通力を使う従者に名馬を引かせて、空を飛んで、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている従者の両脇を見ると羽が生えていたので抜いてしまった。このため、従者は空を飛べなくなり、羊太夫は参内できなくなった。朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てているとみなし、軍勢を派遣し、朝敵として羊太夫を討伐したとされています。歴史書には討伐の記録などは見当たらないため、羊太夫が実在したのか、どういう人物だったかなど不明です。

■昔のキリスト教、景教(ネストリウス派)徒という説も

 また、古代キリスト教徒ではという説もあります。江戸時代の平戸藩主(長崎県)、松浦静山が当時の風俗、事件など様々な話をまとめた随筆「甲子夜話」では、多胡碑の近くから「JNRI」と書かれた銅板が見つかったという話が紹介されています。

 「JNRI」とは、ローマ帝国時代の言葉「ラテン語」で「ユダヤ人の王ナザレのイエス」を表す頭文字です。当時の中国では431年のエフェソスの公会議において異端宣告を受けたネストリウス派の信仰が伝わり、景教として広く流布していました。景教が初めて中国へ入ったのは635年と言われ、唐の都、長安には景教寺院もありました。このため、古代キリスト教徒説もあるのですが、銅板などの実物も残っておらず、「甲子夜話」の記述のみで真偽のほどはわかりません。(以下ソース)

4/27(木) 10:00配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/54e31ab9cb6448f33a77f95de7043a45fbb02588