【歴史】邪馬台国と卑弥呼の謎を解く「弥生人の大量人骨と脳」が発掘!「鳥取・青谷上寺地遺跡」が示す「倭国大乱」の証拠 ★2 [樽悶★]
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
鳥取県鳥取市にある弥生時代最大級の集落跡「青谷上寺地遺跡」で、県による本格的な発掘調査が始まった。
この遺跡は山陰自動車道の建設により発見され、第一次調査が1998年から3年3カ月の期間をかけて実施。約5500平方メートルの発掘現場からは、建物や火を使用した跡、大量の土器や木製の容器、鉄製農工具に貝塚などが出土し、約2200年前から約500年間にわたって栄えた大規模集落の存在が明らかになった。歴史研究家が解説する。
「しかもこの遺跡からは日本で初となる、弥生人の脳が3人分発見された。21年には採取されたDNAによって復元された、弥生人の顔が公開されています。さらに集落中心の東側からは、弥生時代後期の人骨が100人分以上発見されており、少なくとも10人には殺傷痕が見つかっている。そのため、大規模な戦があった可能性が指摘されているんです」
そこで歴史マニアの心をくすぐるのが、弥生時代後期に起きたとされる「倭国大乱」との関連性だ。
中国の複数の史書に登場する「倭国」は当時、日本で大勢力を誇っていた国家だが、これが「大乱」を起こしたと記されている。これは日本初の大規模内戦とされ、その原因は倭国の王位継承に端を発した争い、はたまた寒冷化による食物不足によって起きた襲撃など、諸説ある。その後、卑弥呼が王の座に就くことで戦争は終結し、邪馬台国連合が成立するという流れなのだが、
「青谷上寺地遺跡の集落で見つかった大量の人骨の年代と、倭国大乱が起きた時期が2世紀後半で重なります。しかも集落ではその後、急速に遺構跡が減少し、古墳時代には終焉を迎えている。そのため新たな発掘により『倭国大乱』との関係の手がかりが見つからないかと、専門家は注視しているのです」(前出・歴史研究家)
すでに発見された人骨の殺傷痕は何を意味するのか。卑弥呼誕生までの経緯、さらには邪馬台国の場所についても、手がかりが見つかるかもしれない。
2023年5月14日 09:58
https://www.asagei.com/excerpt/260066
https://cdn.asagei.com/asagei/uploads/2023/05/20230514_asagei_tottori.jpg
★1:2023/05/17(水) 22:47:39.87
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1684331259/ 邪(シー)馬(マー)台(タイ)=志摩たい 伊都国の隣。 鳥取みたいな大陸交流盛んそうな場所で全ての日本人語るなや たまたま起こった争いで付いた傷で、倭国大乱とは関係ありません。
想像(創造)するのはやめましょう。 邪馬台国なんてそこまで大きな力を持っていたとは思えんな
単なる地方の独立豪族の領地にたまたま魏の斥候が辿り着いてだけなんじゃねーの? 卑弥呼って本当にいたのかただの架空の言い伝えなのかどっちなの >>2
当時の志摩は伊都国だろ。
伊都国の王は女王で弟もいて・・・あれ? >>1
邪馬台国も卑弥呼も文献の中だけにしか存在してないけど事実かどうかを証明する手段ってないよね
オレが適当な物語を書いてそれっぽい合成写真とかも作って
世界が滅亡しそうなときにどさくさに紛れてそれを国会図書館の近くに隠して死んだら
未来人がそれを発掘して「由緒あるっぽい図書館の遺跡の中でみつけたからこの文献は本物」ってなるのかな そしてそれをよく調べてみると、
卑弥呼が韓国人であることがわかったニダ!
邪馬台国は、百済の属国であることもわかったニダ!
まで見えた 日本考古学って文献学に依拠し過ぎてて
雲を掴むような論争を延々してるよね
まあ暇なんだろうけど 弥生人の顔ぐぐったら
わりと現代にいそうな顔だな
似てる俳優は思いつかんけど
ドラマのモブ役にいそう ヤマタイって九州弁じゃん。
奈良にあったとしたらヤマヤンになるはず。 >>18
考古学者は依存してない
依存してるのはアマチュア考古学ファン 日本の古代史って考古学者にむちゃくちゃにされた後どうなったん?
未だに何が本当で何が嘘なのかよくわからん 邪馬台国じゃなくて邪馬国な
Q.ここはどこ?
A.邪馬たい 邪馬台国も卑弥呼もわずか2ページ?の魏志倭人伝にしか出てこない
日本の位置や習慣の記述は不正確
肝心の日本国内には邪馬台国や卑弥呼の痕跡は一切ないらしい
つまり… 単に半島からの渡来人が隔離されてただけなんとちゃうん >>18
邪馬台国関連は考古学じゃなくて文献学らしい 青谷は3方を山に囲まれてる土地で入りにくいけど出にくいんだよね
集落には良いけど国はどうかな 田中英道氏の「邪馬台国は存在しなかった」面白いよ
パク教授という韓国人が魏志倭人伝読むと「日本は百済の植民地だった」という解釈になるんだって
えーかげんなもんやな ナチス集団ストーカー達は脳と結構関係してくるかも知れません歴史から現代科学まで御存知の皆様へ集団ストーカーナチス論のお知らせです
「targeted community(標的にされた地域社会)」と「危機管理としての人文学」
2020年、国連の人権機関(OHCHR)では「拷問等禁止条約」を背景として、拷問・虐待に関する意見募集が行われました。その結果、世界各地に蔓延する「ギャングストーキング」についての情報が多数寄せられ、精神上・身体上の深刻な被害の実態が浮かび上がってきました。「ギャングストーキング」とは、集団で一人の人間を対象に様々な嫌がらせを行う拷問・虐待的犯罪の一種で、「コミュニティーストーキング」「オーガナイズドストーキング」とも呼ばれます。その嫌がらせ行為は狭義のストーキングに収まらず多岐に渡るため、総称的に「targeted individual(標的にされた個人)」とも呼ばれます。最終的に被害者は死に至ることもあります。
https://www.shudo-u.ac.jp/research/doors/furukawa.html >>18
邪馬台国に限れば
魏志倭人伝にしか出てこないので文献学になる >>34
それは現代の神社にいる職業としての巫女だろ
ミコ(女)とミコト(男)がセットで尊い身分の女ってことだろ 卑弥呼って鬼道だよね?
ナチス集団ストーカーは人食い鬼まで繋がる感じ有るんですよ 昔の小学館の日本歴史漫画でも弥生時代は戦乱の時代として描かれてたな。 学習漫画で読んだな
卑弥呼亡きあとはおっさんが国を治めようとしたけどうまくいかずまだ小ちゃな女の子に変わったらうまく行くようになっただとか 海側にも山あるから楽に出入りできるのは川だけだね
隔絶されてるし外敵より内紛かな >>3
ネトウヨがまた発狂してる。
最近、ネトウヨが発狂するニュースが多いね。
ネトウヨ(=食口シック) 縄文人はあんなに穏やかだったのに弥生以降は争いばっかしてんなw
何が原因なんだろ。稲作? >>43
連合体で王(女でも可)を共立する邪馬台国
一方で
中央集権で男子の世襲であるヤマト政権
別モノ >>23
2010年くらいからの分子生物学でトドメ刺されたんじゃね。教わった古代史はほぼ全部覆ってる。 銅鐸と準構造船、人骨の半分はC1a1(旧石器時代の集団の遺伝子タイプらしい)が特徴か
青谷上寺地遺跡の人骨から復元した人物のそっくりさんに柏原市の人が選ばれたと去年辺りにニュースになっていた
『和名類聚抄』には「河内国大県郡鳥取郷」とあり、古代の 寺院・集落跡があって「鳥取千軒」とも呼ばれてきた、柏原市青谷(あおたに)の周辺であろうといわれている
柏原の鳥取や青谷と青谷上寺地遺跡は何か関係がある可能性がある
柏原は興味深い。徹底的に調査してもいいんじゃないかと思う
近くの二上山は旧石器時代からのサヌカイトの山地で、二上山の麓からは旧石器時代の日本最古の竪穴式住居が見つかっている
また安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
青谷辺りや生駒山地にはカタの地名が残っている >>45
田んぼが豊かな国の象徴だからな
江戸時代までそうだった
そりゃぶんどり合戦になる >>1
ネトウヨがまた発狂してる。
最近、ネトウヨの発狂が止まらないね。w
ネトウヨ(=食口シック) 銅鐸についてだが
出雲地方の銅鐸の集落跡である加茂岩倉遺跡は紀元前後に営みを終えている
その後加茂岩倉遺跡の銅鐸が、奈良の上牧、堺の陶器、和歌山の黒田などから見つかっている
イザナミが根の国から黄泉の国、上津国から下津国に行った話も実話をモデルにしている可能性もある
奈良や大阪の治水を行なった龍神かもな
陶器の隣の狭山池には龍神が棲むという
河内に伝わる龍神の話は興味深い
柏原は一時龍神が治水を行う拠点だったらしい
むかしむかしそのまた、むかしの事だそうです。大阪平野は河内湖といって陸の少ない所だったそうです。そこで大和の龍が河内湖の中を駆けめぐって、湖底を交ぜて低い所は川、高い所は陸となって、河内湖がなくなったそうです。しかし人間が住むにはまだ水面部が多く、動植物が生活するには不便な状況であったようでしたが、年月と共に川は一層深くなり、陸は一層高くなって、湿地帯ながらも人間が住めるようになったそうです。
やがて年月は人間が住みやすい地形へと、どんどんと出来上がり、広い広い平野となって、動植物が生活を始めると、人間も定住し村落が出来ていったそうです。
こうした変動をご覧になった龍神様は、大和から柏原まで降りてこられて、大和発祥の水を川を伝って柏原へ集め、ここから大阪平野へ八つ手の葉のように支線川を広げて、淀川へ流れ込むように、しっかりと整理なさったそうです。そして、龍神様は、そのまま柏原から堺へ向かって走られたそうです。この時まだ川にはなっていませんでしたが、龍神様はこうして柏原から堺へ向かって低地をおつくりになり、新しい川の構想をお考えになっていらっしゃったそうです。 その後村が形成されなかったのは、本来なら住みやすい場所じゃないから
弥生人と決めつけるのではなく、先ずは半島からの不法移住を疑うべき
ならば老若男女虐殺と散乱した骨の説明もつく >>3
まっすぐ鳥取や新潟を目指せるようになるのは、もう少し航海技術が発達してから
邪馬台国の時代は有視界航行、島影が見えるところしか目指さない 倭人伝の投馬国は但馬だと言う人もいる。
だがそれでは但馬の手前の鳥取に
邪馬台国があったはずがない。 >>55
古代にも統治機構はあった
成文法はなくても統治に従わずとなれば不法に等しい 青谷上寺地遺跡は神が乗る鳥船の拠点、日本海交易の拠点の一つだったかもしれない
出雲の銅鐸の集団は出雲を離れ本拠地を近畿地方に移し、ここを新たに日本海交易の拠点にしていた可能性も考えられる 人は記憶型と思考型に大別できる
巫女とは?
神の言葉を伝える女性
漢字とは?
神の言葉を記す文字
漢字の発生は殷の時代と言われてる
卑弥呼を語るなら卑弥呼が生きた時代から更に2000年以上前に遡らなければならない 弥生人の脳やら木製品が出土したのは川近くの田んぼの下からで泥土で真空パックのように保存されていたかららしい
散らばってるのは普通に洪水の被害にあっただけとも考えられる 出雲は大国だから、いずれかのタイミングでヤマト政権とぶつかっただろうな
出雲大社は、虐殺した出雲支配層の呪いを封じ込める意味もあるのかもしれない 出雲の有力者をヌッコロして国を支配下に置き
その後
出雲は国を譲ってくれただから大社を作った
という話を創作して、出雲の権力者の荒ぶる魂を鎮めようとしたんだろうな 記録では半島で飢饉が起きる度に難民が来ており、古代だから無かった、とは言えない >>46
別の王国という印象があるけどな
ヤマト王権が九州の諸国を征服していく話が日本書紀にも載っているし
纒向遺跡は実在した可能性が高い垂仁天皇の都という記述があるんだから素直にそういう事にしておけばいいと何時も思っているわ >>56
縄文の昔から日本海を自由に航海していたのが縄文人だから >>67
自由にというか、危険を承知で新天地を目指して渡来したんだろ
魏からのお客さんに、同じことはさせられない >>24
1800年前の九州の言葉と現在の九州弁は果たして同じなのか?
と言う疑問はもたないの??? ヤマト政権が存在した形跡が無い
隋書でもヤマタイと記されている
しかしそれは中国が自身に言い聞かせて納得してる場面だ
中国に対しヤマトと名乗ったのであれば邪馬門または邪馬都と記録されたはず
もし意図してヤマタイと名乗ったのであればオレオレ詐欺かもな
中国側の認識としては邪馬台国は3世紀末に滅びた幻の国なんだってさ >>66
日本書紀が書かれたの720年だしねぇ
書いた人は大和朝廷の正統性を強調しなければならないわけで 半島の民の集落だったかもしれない
という可能性が無視され、これぞ弥生人でございますと注目を集めている
なにか学問とは違う歪んだものを感じる >>71
台与(壱与)と書いてトヨと読むなら、邪馬台と書いてヤマトと読んでも不思議じゃない 弥生人の古代日本語って、まんま韓国イントネーションだよね
なんで? 2200年前の鳥取は栄えてたのか
最近スタバができたバッカのくせに生意気な! >>56
だったら、なんで台湾から見えない与那国島とかに人が行けたんだよ 九州の大国が近畿に移って出来たのが大和朝廷
この九州の大国の一部に邪馬台国があった 500年後も邪馬台国どこだろって言ってんだろうな
もう日本の古代にロマン感じなくなってきた >>76
今の状況で考えるとイメージできんぞ
東京なんて何もない湿地帯だったころの話だ
出雲とか吉備は大国だ >>74
アホですか?
邪馬台をアホがヤマトと読んだから台与をトヨと読んでたんだが
臺(台)はトとは読まないし、隋書では邪靡堆と改められ語尾がタイと読む事が強調されている >>77
台湾から与那国は見えるぞ
むしろ沖縄本島から宮古島にいくのが大変だっただろう >>78
邪馬台国ができる遥か以前にヤマト王権は移住済み 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 ちなみに魏志倭人伝には邪馬壹(壱)国と書かれており、臺与についてはちゃんと臺の字が使われている
ヤマトという言葉は万葉集から出てくるそうだが、もしかすると邪馬壹の壹を勘違いしてトと読んでいたのでは無いかな?
文字文化が始まった頃だから >>87
その倭国が邪馬台国の直系の末裔だろうね
おそらく日本は関係ないよ >>90
それは九州説の中の邪馬台国東遷説、卑弥呼=天照説はの妄言
もしそうなら、わざわざ高天原とか神武天皇を持ち出して誤魔化す必要がない >>73
一緒に出土した物から文化を特定するでしょ ギリシアも倭国大乱のような暗黒時代あるよね
その間にドーリア人がアカイア人退けて支配層になってた 魏志倭人伝では
邪馬台国には、卑弥呼の官として
纒向珠城宮 第11代垂仁天皇一族の名前が書かれていて
・・官有 伊支馬(いきま)
垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」
イクメ・イリビコイサチノミコト
・・次曰 彌馬升(みます)
皇后「氷羽州比賣命」
ヒバス・ヒメノミコト
・・次曰 彌馬獲支(みまかし)
皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」
ミカハシ・ビメノミコト
・・次曰 奴佳醍(ぬはだい)
皇妃「沼羽田入毘賣命」
ヌバタノ・イリビメノミコト
日本書紀「第九巻:神功皇后(第14代皇后)」では
神功皇后摂政三十九年は、魏の景初三年
神功皇后摂政四十年は、魏の正始元年
神功皇后摂政四十三年は、魏の正始四年
と書かれており
隋書倭国伝では
遣隋使を派遣した日本の都の所在地は「邪靡堆」魏志の言うところの「邪馬臺」である
と書かれている >>1
ネトウヨが【天皇陵を発掘】させないんだよね。
何かがバレルとヤバいから。
ネトウヨ = 日本会議(戦前の大政翼賛会)
大政翼賛会の元は大本営(大本教)、その元は隠れキリシタン、その元はセム教(食口・シック)と。(系統図はググれば出てくる) 魏志倭人伝に書かれた倭国の政治的出来事
①倭国大乱
②卑弥呼女王共立
③狗奴国との戦争
④男王を立てるも内乱勃発
⑤台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)
畿内説の主張内容はすべて無関係 >>96
魏志倭人伝に合わせて日本書紀が書かれたんだろう。
魏志倭人伝にある邪馬台国は大和朝廷のことですよ
と背のりしようとした。 青谷上寺地は邪馬台国と全然関係ないだろ?
無意味な便乗で、結果の出てる邪馬台国論争煽りかw
DNAであっちこっちの渡来人が出てるってことは
縄文弥生変化以降の渡来文化の傾向が見えるんじゃないのか? >>100
いやヤマトは邪馬台国の事を何も知らない
しかし太安万侶は魏志倭人伝を読んだ事がある
しかしヤマトの伝承とは辻褄が合わない
という狭間で編纂されたのが日本書記 >>102
単に弥生時代最大の戦乱の跡地があるって話し
倭国大乱の可能性があるかも~って程度には騒ぐ人がいる
100体規模の戦乱の遺骨が出てくるような遺跡って中々珍しいのは確か
※埋葬された遺骨ではなく、戦乱でその場で倒れてる
でも、よくよく考えたら倭国大乱は静まって、そこから安定期に入るのに
遺骨をそのまま放置しておくのはちょっと変だとわかりそうなもの 権威付けだな。
中華料理じゃないけど中華料理ってことにした方が泊が付くから
冷やし中華とか天津飯とかの名前を付ける。
イタリア料理であるかのように泊を付ける為にナポリタンと名前を付ける。
ウチらの政権は中国の歴史書にも書かれてるあの邪馬台国の末裔ですよ
長い歴史を誇る由緒ある国ですよ
そういうアピールの為に日本書紀は魏志倭人伝のエピソードを導入しながら書かれた。 脳どんな状態に成ってるんやろか
なんとなくすす状かな?と思った >>9
箸墓古墳とか調査すればいいけど、宮内庁が霊魂とかオカルトを信じてるみたいなので。 かつては宮崎も島根も鳥取も時代下って奈良も栄えてたんだな
今じゃ目も当てられいくらいのド田舎だけどw
ただ出雲大社に観光に行く人は少なくとも大国主命や白兎伝説に触れるからまだ救われてる方か
江ノ島に遊びに行く人で足利成氏のこと考える人はいなそうだしなwどちらも歴史が動いた場所ではあるが 九州、畿内何て小さい地域にこだわるのがそもそもの間違い >>110
本当に天皇家が邪馬台国の末裔なら
あの卑弥呼の家系なわけで
そういう家系ならオカルト的なしきたりがあってもおかしくない
というか無い方がおかしい。 >>110
調査したからって期待するようなものはどうせないぞ?
平原王墓も祇園山も既に調査済みだけど別に大したものはでてない
出てないってことを即ち卑弥呼の墓ではないとするなら
両方とも違うということになる
墓を暴いたら万事解決するとか、ありえんのよな 【ヒント】IQ 130を下回るやつがいくら妄想しても無駄
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>101
日本の記録には残ってないが、旧唐書にはそれっぽい事が書いてある もう一つ倭人伝無かったっけ。隋の頃に書かれたやつ
邪馬台国が出てこないせいかそっちはいまいちマイナー扱いだよな。飛鳥時代だってかなりあやふやなのに >>113
宮中神事みたいな儀式は残ってる家系だと思うけどね
でも、邪馬台国とは関連性はない
日本書紀にも一部書かれているにはいるが
『魏志云~』と、出典元になんて書いてあるか要約しているだけ
本当に神功皇后が行ったことの書味(文体)と見比べたらぜんぜん違う
他人の行動について書く場合は
時、忍熊王、共出菟餓野而祈狩之曰~とか
百濟王、使久?・彌州流・莫古、令朝貢~とか
ちゃんと固有名詞を付けて書いてる
一文だけ抜き出してきっとそうに違いないと早合点するから読み誤る >>118
後漢書以降は大体倭人伝、倭国伝、倭伝の類はあったと思うけどな
時代が進めば日本伝とかになるけど(元書とか) >>118
隋書倭国伝だっけ
タリシヒコ?日本書紀に無い名前が大活躍してるけど
アレが聖徳太子なんじゃあるまいか。 >>113
天皇家は卑弥呼の子孫ではないよ。卑弥呼は子供いないから。
台与の後継の男王から奈良の地を奪い取った。それが380年頃では?
>>114
意外と神社の禁足地にお宝とか刀が埋めてある。
奈良の石上神宮の禁足地を明治維新になって神官が掘ってみたら七枝刀が出てきた。これは国宝になってる。 ちなみに、七枝刀には「泰□四年」の年紀があるが、「泰和」と解釈して「太和4年(369年)」に比定する説がある 私は昔から、鳥取島根にはなんかあると思っちょりました。
そうでなければ、人口五、六十万人の県になるわけがありませんから。
八王子とほとんど同じ人口で、県としてなりたっておるわけです。
信じられんですたい。 既出だろうけど鳥取砂丘から人骨が出て来たニュースあったよね(´・ω・`)
続報は知らないけど >>56
メキシコの存在を知ってたんだから太平洋一帯は航海してたんだろ
魏史倭人伝にも記述があるしな >>123
七支刀は、禁足地に埋まっていた訳では無いけどね、
由緒は忘れられ、田植えの儀式の時神を下す刀として使われていたらしい。
百済がヤマトに朝貢した際に貢物として献上された刀そのもので有ると言う説が有力。 三十九年、この年、太歳己未
魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、
倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
四十年、魏志にいう、正始元年。
建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
四十三年、——魏志にいう、正始四年。
倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。 鳥取砂丘の人骨は古くても江戸時代みたい
ごめんぽ(´・ω・`) >>128
その説って説と言えるのか?
言い伝えは説とは言わんぞ >>128
石上神宮というのは大和政権の軍隊である物部氏が祭祀をしていて大和政権の武器庫だった。 >>134
冷え込む地域だしあの有名なアイスマンみたいなのかもな(´・ω・`) >>110
ネトウヨが【天皇陵を発掘・発表】させないんだよ。
何かがバレルとヤバいから。
天皇を利用し続けたいカルト宗教団体だからね、ネトウヨ。
ネトウヨ = 日本会議(戦前の大政翼賛会)=カルト宗教団体。
大政翼賛会の元は大本営(大本教)、その元は隠れキリシタン、その元はセム教(食口・シック)。(系統図はググれば出てくる) 日本書紀「第九巻:神功皇后」
九州平定のため奈良の大和から進軍した仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御したあと
神功皇后が九州を平定して、さらに朝鮮半島に進軍して
九州ー対馬ー新羅の往き来の道を開き
三十九年、この年、太歳己未
魏志倭人伝によると、明帝の景初三年六月に、
倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢を持ってきた。
太守の鄧夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
四十年、魏志にいう、正始元年。
建忠校尉梯携らを遣わして、詔書や印綬をもたせ、倭国に行かせた。
四十三年、——魏志にいう、正始四年。
倭王はまた、使者の大夫の伊声者掖耶ら八人を遣わして、献上品を届けた。
ってことになっている
つまり、奈良の大和政権は、
魏に反旗を翻した後漢の残党の
公孫氏と
朝鮮半島南部の韓と
北部九州の漢委奴国王の倭奴國
の討伐を命じられた司馬懿に呼応して奈良から挙兵して
北部九州の漢委奴国王の倭奴國を討伐して朝鮮半島に攻め上り
燕王を称して魏からの独立を宣言し挙兵した公孫氏を、朝鮮半島で挟み撃ちにしたんだ >>133
言い伝えなら普通は『伝承』っていうよな 邪馬台国の場所がわかると
何か歴史に大きな変換点になるの?
それとも
場所がわかったやったー!で終わりのやつ >>80
日本人の祖先は37000年前に来た人たち。磨製石器の分布から北海道から沖縄まで同一文化圏であること。その人達の痕跡は現代日本人の4割に残っている。大陸系の流入規模もわかってる。2800年前と紀元後以降。半島の先住民は7000年前の縄文人。半島からの帰化人は帰ってきた縄文人。なので帰化人と縄文人と弥生人はDNA的に同じ。戦前日本人と現代日本人の体格が全く違うのと同じで食料事情で体格が変化。稲の伝播についても大陸から日本。日本から半島へと稲の全ゲノム解析で判明している。その他現在進行形でめっちゃたくさんあるよ。 >>121
隋書倭国伝を読むと、日本側から九州をヤマトだと騙されて案内されてる感じがする
阿蘇山が有るとか、真冬でも木々の葉っぱが青々と繁ってるとか明らかに奈良県の記述じゃない事が書いてある 七支刀で盛り上がってるところ申し訳ないが
七支刀のあった石上神宮と同じ、奈良県天理市の東大寺山古墳には
中平銘大刀ってものもある
中平、つまり後漢の零帝の時代の元号(184年~189年) >>143
単に場所がわかっただけなら後者
どうやってわかるかによるんじゃない? >>9
写真が広まるまでの人物は文献の中にしかいないぞ?
複数の文献に出てくるかどうかの違いでしかない 奈良は鉄が無かったのによく鉄のある国々に勝てたなあ不思議 >>145
去年の冬、博多のイルミネーション行ったけど、街路樹なんてみんな枯れてたぞ? >>145
近世まで大陸での認識は日本=博多あたりまでという認識でそこより奥のことは大体伝聞資料
だからごっちゃになってる >>71
「中国側の認識としては邪馬台国は3世紀末に滅びた幻の国」
というのは何ソース? >>67
沿岸航行だろ
ウラジオストックまで日本海を渡って直接行った証拠なんかないぞ ヤマタイコク ジャマタイコク
どっちが正しい読みなのか
どっちでも変換出来る 唐の人々って、🇸🇪スウェーデン人とか🇱🇹リトアニア人とかに近かったのかな?
外見 魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている >>1
弥生人ですらJR青谷駅近くで生活していたのに、
現代において山奥の集落に住んでいる人たちって何なの? >>150
福岡は寒いが、
熊本の沿岸部なら冬でもめったに氷点下にならないので冬でも木々が葉を付けてる
おそらく隋の使者は有明海周辺に上陸して阿蘇山の麓を抜けて宇佐神宮に向かったんだろう >>165
そういうレスが畿内説がガセである事を周知してるわけで 邪馬台国はインドネシアのジャワ島で間違いない
表記は、三国志通りの邪馬壹国
読み方は、インドネシア語で邪(Ja)馬(wa)壹(wut)
Jawawutの意味は、粟とか、黍とか雑穀の総称
日本に阿波国(徳島県)や吉備(岡山県)小豆島(香川県)があったのといっしょ
ちなみに、インドネシアやマレーシアで小豆を、Adzukiと表記し、発音もアッズキ つか魏志倭人伝に邪馬台国は30国ばかりの連合だ。と書かれてるに北部九州とか近畿とかアホかと
昔日本という国家あり天皇がいた所はどこか東京か京都と言ってるに過ぎない >>149
本拠地の奈良には殆ど無かったけど
出先機関の北部九州の枝国にはあった
義姉倭人伝に載ってる鉄はこれの事 >>163
世の中には常緑樹と落葉樹って二種類がある
落葉樹は気温が氷点下になったから散るとかそういう話じゃなく
1年毎に葉は散るのが当たり前なんだ
逆に常緑樹は氷点下になろうと葉がついてる
冬に葉がついてることで気温を推し量るってのは無茶な話だぜ? >>169
卑弥呼時代の大和は市場の監視役だ>>160 >>163
君は照葉樹林という概念を知る必要がある
詳しくはネットでググってくれ ■卑弥呼の時代を見てきたクスノキ(樹齢1800年以上)たち一覧
樹齢3000年
・柞原八幡の大クス:大分県大分市八幡
・川古のクス:佐賀県武雄市若木町川古 日子神社
樹齢2000年
・衣掛の森(クスノキ):福岡県粕屋郡宇美町宇美八幡宮
・武雄のクス:佐賀県武雄市花島
・老松神社のクス:山口県防府市お茶屋町 老松神社
・阿豆佐和気神社のクス:静岡県熱海市 来宮神社
樹齢1800年
・未確認 >>149
寺澤氏などが指摘してるように奈良は最強だからとか最先端だから中心になったんじゃない
この当時に出現したならを中心とする勢力は経済的宗教的連合
奈良が中心になったのは弥生時代から銅鐸などの文化の中心として存在してた事と、地勢的な理由だろう
ついでにいうならこの時期の鉄器なんて石器の延長程度の意味合いしかない
「奈良が最強だったから」「鉄が凄い」なんてのは昭和の大昔の認識
考古学的にとっくに否定されてる >>177
そういう説を唱える人がいる
ということと
その説が真実かどうかは別の話 >>177
全てにおいて奈良が中心となった要素は存在しません >>158
杜甫や李白がイラン人やトルコ人じゃないか?と言われてるね >>177
■畿内説学者(松木氏)の見解
北部九州では紀元前1~2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について「鉄が権力をつくる」との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。
北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。
イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。
「イメージしやすいのは、みんなで豊かになる「共和制」だ。」←突然希望的妄想の展開を始めるのが畿内説特有の霊感商法 >>85
うむ だから本島と宮古島の方言は別言語と言っていいくらい違うようだな >>181
畿内説がまず結論としてあって
それに合わせて理屈をこね繰り回してるように感じる >>181
意味分からんよね
仮に共立できても占いしかできん指導者なんぞ攻め込まれたら滅ぶ
軍事に強かったとしか思えん 畿内説とか論理が無理矢理すぎて馬鹿みたい
日本人はすぐ歴史を捏造するよね そのくらいの時代なら権力者によって簡単に殺されとか儀式の生贄とか人身御供とかありそうな時代だし
100人中10人くらいじゃ大乱かどうかわからんなぁ 考古学は妄想で語るものじゃない
出てきたのものを見て語る
奈良は元々それこそ最強でも最先端でもない
そして当の邪馬台国の時代に周辺地域の文化の集合体のような文化が成立し弥生時代の奈良の文化は上書きされ消滅する
奈良→周辺国ではなく、周辺国→奈良で集大成
と言う図式が明らかになっている
なので奈良は瀬戸内海地域に成立した連合の名目的な中心地として形成された場所とみるのが自然
この流れには軍事的な物を伴ってないので外交的合意のもとで成立した連合と考えられる 鳥取説か
西日本はほとんどウチにあったとか言ってるんじゃね 出雲と邪馬台国との関係性はわからないけど北部九州が邪馬台国と仮定して、倭国大乱で敗れたか戦を嫌って複数ある王族の一派が亡命政権を打ち立てたのが大和王権でこれが東遷神話の原型になったのだろうと思う
地名の相似度が他地域に比べて高いのは二つの地域が当時から密接にリンクしていたのだろう
https://miyakawa2-co.net/chimei03.jpg 70〜80年ほど男王の時代が続き
(倭国の中心地は九州北部の時代)
倭国大乱で10年くらい互いに攻め合った
(おそらくここで国力が相当落ちてる。この時代に衰退したのがまさに九州北部)
そしてその倭国大乱があった地域で共立されたのが卑弥呼
(107年倭面土国王師升が送った生口160人に対して卑弥呼の送った生口はたった10人)
距離が5倍近く盛ってあるのだから戸数だって相当盛ってあっても不思議はない
(むしろ戸数だけは正しいと考える方が不自然なくらい)
その後しばらく続けて朝貢していたのに266年を最後に空白の4世紀に突入する
(その後も他の東夷各国はずっと西晋に朝貢しているのに女王国だけ消息が途絶えた)
そんな時代を記した記紀には崇神の四道将軍派遣やその後の九州侵攻が書かれており
倭王武は先祖が西に66国平定したと主張した
(畿内から見て西に66国なら女王国連合の30国がどのくらいの範囲なのかおおよその検討がつく) 今まで、弥生式時代、特に3世紀頃の遺跡が発見されると、
マスコミは必ず「邪馬台国卑弥呼の~~~」と見出しをつけて報道する。
その時代の遺跡の全てが必ずしも邪馬台国と関係があるわけでないのに。 邪馬台国畿内説ありきであれもこれも3世紀に編年してしまって空白の4世紀ガーとか言ってる学者って学位剥奪処分でもいいんじゃない? >>190
奈良の利点というのは、東北(蝦夷)を除いて関東から本州西端までのちょうど中間地点
東北の三丸から南下した勢力が関東や東海にいたりしたし
だから東海から奈良へ抜ける古道が整備されてたりもする
(伊賀や名張を通った縄文の古道が伊賀街道だったりね)
同じように吉備を集積地とした西日本の物資が奈良に届く
それこそ纏向から出てる流入時の分布でわかるはず
邪馬台国/卑弥呼みたいな九州北部の30程度の邑とは規模感が違いすぎる >>195
東遷は邪馬台国の時代よりももっと前だよ
時代考察が無茶苦茶だな オモシロ九州説まとめ
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を示唆する物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:水行十日陸行一月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示唆する物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!! >>198
空白の四世紀というのは、中国の文献に何も書いてない時代って意味だよ?
文書記録が見当たらないからそう呼ぶ(白紙ページ、空白) >>200
神話の世界の天皇たちが平均的な寿命だと仮定して計算すると、神武天皇は卑弥呼と同じ世代かちょいと後の人 >>200
あくまで考察だし批判は結構
でも皇紀元年橿原で即位した神武天皇とか127歳まで生きたと本当にそう信じられるの? 邪馬台国も卑弥呼も魏志倭人伝のでっち上げなのにいい加減目を覚ませよ 畿内こそ邪馬台国っぽい遺跡ないじゃん
纏向とか倉庫か、古墳つくり職人のキャンプ地にしか見えないしw >>198
蛇行剣も盾形銅鏡も卑弥呼のものだなんて言ってないって >>203
そういう話ではなく、神武東征は紀元前でないと当時の地形と辻褄が合わないんよ? >>196
生口160人が10人になったことからの国力とか、倭王武が西に66国平定から女王国の30国の領域を推察するとか、妥当な推論に思えるな。 >>210
河内湖のことだろ?
古墳時代前期でも河内湖はあったから >>196
戸数も確実に盛ってるわな
当時の壱岐島に3000戸もあるはずない
5人家族なら15000人
当時の推定人口は70万人ほど
現代でも3万人だ
現代の人口は1億2千万
もし戸数が本当ならどれだけ壱岐に集中してたというのか
比率がおかしい >>205
人間がそんなに生きるはずがないのは当たり前
だからってそのまま縮めれば正しいってのも安直だよ
そして>>210
600年代の人が知るはずもない、紀元前の地形を記載できた理由は?
なぜ都合よく橿原の畝傍山の麓に紀元前の7世紀の遺跡がある?
奈良時代の人間の土木技術や、年代測定が現代に匹敵した?
以上から、紀元前に神武東征はあったんだろう
年齢がおかしいのは、間に記録に残ってない天皇が挟まってたり、不在位期間が存在してるのかもしれない >>212
その時代はもう土砂の堆積で草香邑まで行けないよ? >>214
神武東征はない
何故なら紀元前の事など誰も憶えてないから 筑前国博多津再興事聞召候、然者帰着之者家事、何方雖有之、
彼津へ可引越候、地下人還住候様可申付候也、
正月廿三日 (秀吉朱印)
安国寺
黒田勘解由とのへ >>215
ぼく「土砂の上を行けばいいのでは…?」 >>186
抑、都督府って単語は日本語じゃねーの??
😂🙊🤣 >>216
全部ソンにしておけば分かりやすかったのに
神武孫、ん? >>216
覚えてないから口伝ってので残したんだろ? >>220
辻褄が合わん!
😂🙊🤣
自分たちの歴史のように記録したんじゃ? >>221
子なんか分かりやすいのに。
二代目神武レンコとか。ん? 神話時代の天皇の年齢が正しいとしたら(あり得ないが)
神武天皇即位はおよそ紀元前600年
バビロン捕囚紀元前598年
同時期に『3本足のカラス』をシンボルマークにした"キュロス"という国がメソポタミアにあった。
3本足のカラスに道案内されて東へ東へと移動して(逃げて)きたのが天皇家の先祖
神話時代の天皇の名前や年齢は紀元前600年頃を起点にして後付けで作られたもの。
だったら面白い 神武東征は考古学的に完全に否定されてる
東遷に付いても同様
九州から奈良への文物の伝播は須玖式と言うかなり古い段階の土器の破片が出てくる程度でしかないので東征などない
弥生末期の文化の動きは畿内から九州への一方的な伝播
なので東遷も無い
こんなものをまともに語ってる考古学者などいない 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>227
草香邑って、今の東大阪市よ日下町やで? 魏志倭人伝に邪馬台国には鉄はあると書かれてるのに、邪馬台国時代の鉄は奈良からは全く出ないんだよな
九州北部では農具にまで鉄が使われていたというのに
こういうことを言うとキチガイ畿内説達が「魏志倭人伝は偽書」と言い出すのでお話にならない >>231
東京大学の大橋順教授らは、ヤフーが2020年まで実施していた遺伝子検査サービスに集まったデータのうち、
許諾の得られたものを解析した。
1都道府県あたり50人のデータを解析したところ、沖縄県で縄文人由来のゲノム成分比率が非常に高く、
逆に渡来人由来のゲノム成分が最も高かったのは滋賀県だった。
沖縄県の次に縄文人由来のゲノム成分が高かったのは九州や東北だ。
一方、渡来人由来のゲノム成分が高かったのは近畿と北陸、四国だった。
特に四国は島全体で渡来人由来の比率が高い。なお、北海道は今回のデータにアイヌの人々が含まれておらず、関東の各県と近い比率だった。
以上の結果は、渡来人が朝鮮半島経由で九州北部に上陸したとする一般的な考え方とは一見食い違うように思える。
上陸地点である九州北部よりも、列島中央部の近畿などの方が渡来人由来の成分が高いからだ。
大橋教授は「九州北部では上陸後も渡来人の人口があまり増えず、
むしろ四国や近畿などの地域で人口が拡大したのではないか」と話す。
近年の遺伝学や考古学の成果から、縄文人の子孫と渡来人の混血は数百~1000年ほどかけてゆっくりと進んだとみられている。
弥生時代を通じて縄文人と渡来人が長い期間共存していたことが愛知県の遺跡の調査などで判明している。
どのような過程で混血が進んだのかはまだ不明で、弥生時代の謎は深まる一方だ。
今回の解析で見えた現代の日本列島に残る都道府県ごとの違いは、弥生時代の混血の過程で起こったまだ誰も知らない出来事を反映している可能性がある。
書物にも残されていない日本人の歴史の序章は、ほかならぬ私たち自身のゲノムに刻まれているのだ。 大和国風土記に婚姻に纏わる記述がある
石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこととある 埴輪じゃないホントの復元写真の元になった頭蓋骨の人は父が縄文系、母は渡来系だそうな 近畿地方に邪馬台国があったとして伊都国の一大率が諸国を監察していた様子がどうしても想像出来ない
その場合に邪馬台国の南にあったという狗奴国は何処にあったというのか?
東に海を渡った先にあった倭人の別の国とは?
邪馬台国が九州にあったとすればそれらの疑問は自ずと解決できる >>241
現代人の頭蓋骨使って復元させて
その復元がどれくらいの精度なのか確認したいところだ。 >>240
そんな色白で肌のきれいな縄文人ってあり得るか? >>242
伊都国は畿内から派遣された一大率により監視される国
狗奴国は久努国か?主として前方後方墳が築造された地域
東に海を渡った先にあった倭人の別の国は存在しない
倭種云々の記述は魏志倭人伝のなかで最も信憑性が低い記述だから無視でいい
あえて当てはめれば伊豆諸島
で、九州説だとどうして疑問が解決できるの? >>233
無理だな
グーグルマップで、神武天皇聖蹟孔舎衛坂顕彰碑とか調べてみ? >>245
一大率は一人の大率、大率が変化して太宰となる
太宰は一人だけでなく、筑紫太宰以外にも吉備太宰なんて役職もあった時期がある
役職名は太宰帥(だざいのそつ)
意外と繋がってるもんだ >>245
その通りだね
と言うか中国の史書にハッキリと「邪馬台国は奈良」「九州は奈良の勢力の派遣する一大卒に監視されてる属領」って書いてるからね
最初から論争も何もないんだけどね
もうこの系の人って考古学とか歴史とかじゃなくてUFOとかの話してる人と同じだからね
事実とかどうでもいいんだろ >>244
あり得るだろそりゃ
復元の肌色なんて勝手に作ったイメージだぞ >>235
偽書って偽物って意味なんだけど、大丈夫か?
頭とか 声がでかい方が勝つ世界になってるから
実際は山陰とか四国じゃないかな >>252
ティラノサウルスも、本当は体毛で覆われてた説ってあるよな 渡来人のゲノムは四国が一番濃くて次が畿内
という>>237を踏まえると
天孫降臨は四国で東征して畿内だな
東征の地名に四国が一切無いのは四国が出発地点だから。 >>213
奈良時代でも9000人いるけどな、壱岐。
平地も多いし、当時の方が交易で栄えてそうなこと考えると、15000人はあたってるんじゃねえか? >>2
断定の博多弁~タイは弥生時代から使われてたのか! 母系遺伝子の研究では東北富山石川和歌山が同じグループで大阪京都が一番近かったのはこのグループだな 9世紀初頭まで朝廷に抵抗していた地域の真ん中霧島に天孫降臨とか神話にしても無理筋だわな
芦北◆◆◆球磨◆◆◆
出水◆◆◆◆◆◆◆◆
◆伊佐◆えびの 小林◆◆
薩摩◆姶良 霧島 曽於 都城◆
◆鹿児島□□□□□鹿屋◆日南
枕崎 指宿□□□□大隅 志布志 江戸時代までは神功皇后で確定してた話し。(本居宣長も逸話は神功皇后で間違いないが朝貢したのはそれを装った九州の女酋長だと主張しこれがなぜか九州説の拠り所)
戦後になって、半島から来た九州勢力が畿内を征服したと話がなぜか膨れ上がり、明らかに三韓征伐を隠したくて作った朝鮮人らしい造り話をGHQがサポートした。
まずは日本書紀で年代も一致する神功皇后でそうでないとするやつはその証拠を提示できなくては単なる虚言。魏志倭人伝の卑弥呼物語は神功皇后がいたという傍証にしかならない。 桃太郎の物語が示す通り西に追いやられてた卑弥呼たちが
鬼退治して山陽山陰から畿内を取り返したんだろ? 邪馬台国論争は宮崎康平ブームの時代の老人がややこしくしてる感
あとは村おこしで自称卑弥呼の里乱立とかw >>257
奈良時代の人口爆増時期の数字を持ち出してもな
下手したら、その1/10の900人が妥当とか言われかねないレベルで爆増時期の数字じゃん
島だからそんなに増減が激しかったわけではないだろうけど
吉野ヶ里歴史公園の研究員、学芸員の話としてだけど
当時の吉野ヶ里の環壕内部で1200人
環壕の外の周辺住民も合わせても合計で5400人ぐらいだと推計されてる
離島がそれを突き破ることは多分ないよ 卑弥呼は魏に朝貢してたからな
それを認めたくないあまりに邪馬台国九州説なるものが生まれてきたわけだ
ネトウヨは知らないかもしれないが足利義満が既に明に三跪九叩して明の属国として日本国王に封じられているんだからな
今更ヤマトの女王が朝貢してても問題ないだろ この記事もそうだけどすぐに倭国大乱に結びつけるのがおかしい
拠点集落の崩壊は弥生時代末期から古墳時代にに掛けて日本中で起こってる
当然、これは大和も同様
大和の有力な拠点集落がこの頃に沢山消滅してる
これは戦争によって征服されたり破壊されたというわけじゃない
衰退、放棄されてるに近い
要は弥生時代までは「クニ」は柵で囲まれた範囲の数百から数千の規模の人間の村レベルでしかなかった
これが広域の連合の登場で柵で囲う必要が無くる規模の「国」が出現した結果拠点集落の存在が無意味になったと考えられてる
この小規模な村レベルの拠点集落の消滅が、広域の数万単位の「国」の出現を意味してると想定できる おんなのこを戸板に乗せて 馬の交尾見せて板が濡れない子を巫女にしたとか…/// 対立勢力(例えばパヨクとネトウヨ)を煽り金をばらまいて対立させ本質を見えなくしてアイデンティティを希薄化し手懐けるのが植民地手法。戦後の米国は朝鮮人を使ってまさにそれをやった。
九州説は人物を特定できず朝日がヤマトモモソ姫を喧伝して対立し。神功皇后の功績と実在性(日本の歴史)を隠すのが目的だった。 >>270
倭人:「えっちな娘は巫女にしちゃいけないと思います!」 邪馬台国九州説はネトウヨ学説
Twitterでは安倍信者や差別主義者や暇アノンが熱心に主張しているようだ
YouTubeの極右配信者もそうだな
なぜか維新や自民党清和会を支持している不思議
文が鮮明に統一されているな(草
崇神陵の行燈山古墳が四世紀始めの築造
恐らく崇神の崩年は318年説でほぼ正しいのだろう
そうなると卑弥呼のいた時は決史八代の時代だから記紀に記述がない
もし崇神の前に9人の天ころがいたのなら卑弥呼は孝昭あたりの斎王だろう
西暦150年から180年頃に唐古・鍵遺跡の人たちは畝傍山方面にある大福遺跡の人たちに征服されたのだろう
この大福遺跡の支配層は鏡を祭器としており唐古・鍵とは宗教が違う
唐古・鍵の民の一部は改宗して大福遺跡の民に合流している
神武がヤマトをコンクエストした時に弟師木が磯城の民の一部とともに降伏し反抗した兄磯城の同類は殺されたとされている
この話は唐古・鍵の民が神武に反抗した側と降伏した側に分かれていたという歴史的事実の反映だろう
大福遺跡では従来と明らかに宗教の違う人たちによって銅鐸が壊されていて武器の鏃に打ち直されていた
恐らく神武の柏原の宮というのはこの近くだろう
纏向は記念すべき神都として神武のコンクエストのあと間も無く建設に着手されたと考えられる
考古学的に大福遺跡が出来た少しあとに纏向の建設が始まっているからだ
崇神というのは神武の孫かひ孫くらいの人物だろう
偉大な巫女である卑弥呼を旗印に纏まった西日本の銅鏡祭祀属が畿内の銅鐸祭祀族を制服したのだろう
卑弥呼の実家が天皇家だろう
ネトウヨは八紘一宇という右翼用語大好きだろ?
原文を見てみろ。
神武は当時の日本についてこう言っている。
秩序がなく村々で争い攻伐しあって血が流れ、これが長年続いていて誰も争いを抑えるものがいない。八紘一宇を実現してヤマトに都をおいて平和を実現したいと
神武は西暦160年から180年の人物で倭国大乱を終わらせた偉大な王だったのだろう 聖徳太子隠しもひどい話でそうかの仏敵である浄土真宗の教義(親鸞が聖徳太子から啓示を受けたのが始まり)を潰すために画策したことで、自公政権になっってそれが持ち上がりパヨクや朝鮮が乗って始まったこと。そして米国の手先の自民党メンバーが推し進めた。
キリスト教徒にとって日本最大の仏教教団を潰すことはプライオリティーが高い。 色んな部落があってそのうちの一つが邪馬台国なんでしょ 生口という奴隷を他国に差し出したし
多くの生贄を出した
朝鮮人の仕業
日本人ならこんなことはしない MITをありがたがってスパイ組織の可能性も否定できない米国の大学を国費投入&東京の一等地をただで貸すとかアメポチここに極まれり。
岩国基地にやってくる植民地に対してするような非礼な来日とかいつまで日本人は許容してるんでしょう。 まあ、
日本書紀「第九巻:神功皇后」に
『魏志倭人伝』に出てくることは神功皇后がやったこと
って書かれているし
隋書倭国伝に
遣隋使を派遣した日本の都の所在地は「邪靡堆」魏志の言うところの「邪馬臺」であると書かれているし
なにより『魏志倭人伝』には、卑弥呼の官は第11代垂仁天皇一族だって書かれてるからねぇ >>267
倭の五王は朝鮮半島の支配権を名目上でも認めさせたからOKなんだよ。 欠史八代の王宮が葛城にあったという説は信じがたい
例えば孝昭は御所の掖上にいたことになっているが古事記では磐余の安倍山を掖上と書いている
用明天皇陵は磐余の池の陵に葬られたがこれを掖上の池としている
恐らく御所の掖上と磐余の安倍山の旧名の掖上が混同されていつの間にか葛城の人になってしまったのだろう
安倍山の周りには桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳という崇神陵より古い被葬者不明の大王墓がある
孝安や孝昭の墳墓は掖上にある事となっているがもしかしたら桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳がそれかのかもしれない 天皇家が日本の歴史研究の邪魔してるよなw
なにが神武じゃいw 別に陛下が邪魔してるわけじゃない
今や国有財産だから陛下が私的に許可なんてできない Qアノン:アメリカにおいてディープステートが世界を裏で支配してると主張する陰謀論者たち
九アノン:日本において邪馬台国九州説という俗説を信じてる陰謀論者たち 漢字を発明したのは殷王朝
殷王朝を作ったのは日本人 オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:シナで見つからず、魏志倭人伝に記載がなく、実在しない年号が記された三角縁神獣鏡ってなんですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知りまへんのや!!
Q:纒向遺跡から大陸系遺物は出土しましたか?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知ったことかいな!! 婚姻に関係するかもだが
アイヌの古語では男根をクナト、女陰をアラハバキと言ったらしい
クナトは延喜式の道饗祭の神さまでもある
狗奴国と似た音だね
卑弥呼より少し前の時代の遺跡に滋賀の伊勢遺跡がある
伊勢遺跡は各地の首長たちが集まって祭祀を行った場所と考えられている
伊勢遺跡では夜に水の祭祀が行われていたらしい
欠史の三代目安寧
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
伊勢遺跡の特徴や大和風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわい、婚姻の記述とも矛盾しない諡号だね
伊勢遺跡は安寧天皇の時代に作られたのだろうか?
各地の首長たちが集まり、宴を開き水の祭祀を行い、婚姻を結びあったというストーリーも考えられる >>289
卑弥呼が賜ったとされる100枚の魏鏡は九州で見つかりましたか?
100枚全部は無理でも、2〜30枚ぐらいは見つけたいですよね。 >>291
そういえば、数百枚ものパチモンが見つかった地域があったな
しかも親魏倭王印が見つからない場所からな 本物の鏡の近くならあるんじゃないのか?
ぱパチモン鏡だけやたら大量に出てくるのは不自然だ 国産の仿製鏡の話は別の話しでしょ。
卑弥呼が魏からもらった100枚の銅鏡、全部卑弥呼の墓に一緒に埋まってる訳でもないでしょうから、
相当する魏鏡はどこかで見つかっても不思議は無いと考えます。 隠したにせよ略奪したにせよ近くにあるだろ
パチモンの氾濫とは全く別の話だよな 再度質問しますが、卑弥呼が貰った魏の鏡は、九州地方近縁で出土あるいは、保管されていると言う事実は有りますか、
有りませんか?
有るか無いかでお答えください。 >>291
つーか滅んだ国の宝物がまるまる揃って見つかるってまずないぞ??
そりゃ見つかれば決定的な証拠になるが
侵略者が奪ったり滅ぶどさくさでちりじりになるのが自然だろw >>297
見つかってないな
親魏倭王印が見つからないのだから、無理もない話じゃないか
それがどうかしたのか? >>269
後漢もこの時期に飢饉なんかで崩壊しているからな
東アジア全体で天候不良で飢饉が発生して社会が崩壊していたのだろう うちの爺ちゃんの切手コレクションも見つからないのに
そう易々と弥生の宝物が全部まるっと見つかるほうが不自然だw 親魏倭王印は一つしか無いと考えられますから、
全く見つからなくても仕方ないと思います。
一方で最低100枚有った筈の魏の鏡、
一枚も出てこないもんですかね? ネトウヨは判を押したように九州説
YouTube動画を見てろ
ネトウヨ芸人は文が鮮明に統一されたように邪馬台国は九州と言ってるぜ それはこちらが質問してます、九州近縁で、卑弥呼が貰ったと推定される魏の鏡が出土した、
あるいは何処かで保管されていると言う事実は有りますか? 魏志倭人伝をなんの先入観ももたずに読んで、九州以外と考えるほうが無謀だが >>302
掘ってない場所の方が多いんだぞ??
日本全国の古墳だって全部発掘できてないのに
目印もない場所に埋まってたらお手上げだよ >>306
一度答えました
今度はこちらが質問する番です
1枚でも見つかったところがあるのですか?
逃げずに答えなさい 竹○宮とかの動画見たら纏向は邪馬台国ではありませんとか言ってて草
ネトウヨは縄文文明(草)とか信じてるんだよなー
ジャップは西遼河起源のありふれたアジア人なんだがネトウヨの脳内では選民らしいぜ >>310
馬の蹄鉄が出てきて、笑かしたところのことか? 卑弥呼が直接貰った物がどうかはわかりませんが、
魏の年号が彫られた鏡は数枚見つかっています。
そのうちの一枚は、存在しない景初四年の銘のある鏡です。 >>312
数百枚も出てきたパチモンのことじゃないか 三角縁神獣鏡にも本物とパチモンがあったんだろ
ロレックスの時計みたいなもんだ
ネトウヨにはパチモンがお似合いだな >>314
本物が見つからないんだよな
シナからさえもww 実は魏志倭人伝がでっち上げ報告書でない証拠もないw >>313
魏の年号が刻まれた三角縁神獣鏡は全部で四面、
一枚が景初三年、残り3枚が正始元年の銘です。
正始元年は西暦240年、疑惑の景初四年と同じ年になります。 >>320
なんで大量に出てくるんだよ
シナでは出てこないパチモンが >>318
一応ちゃんと日本の事を書いてるんだと思うんだよね
でもいいかげんに書いてる部分がかなりあるからまるまる信じちゃダメだと思うよ >>322
書き方が途中で変わってるからな
使者が見聞した部分と、又聞きの部分な >>323
とりあえず適当に布告しとけ
って感じが漂ってるじゃんw
はっきりしないとこは絶対でっち上げてるよw >>324
そんなことする動機がない
皇帝の勅令だからバレたらクビじゃすまんぞ
あくまで○○からは聞いた話ですからと逃げ道は用意してる >>326
途中までは実際に見聞した書きぶりになってる
その後急に書きぶりが変わる
邪馬台国としても、手の内は全部晒したくなかっただろう >>321
画文帯同向式神獣鏡 大阪府和泉市 和泉黄金塚古墳出土 〔中国製・景初三年(239)在銘〕というのも有ります。 >>24
それじゃヤマタイコクじゃ無くてヤマコクタイになっちゃうだろ >>330
魏から送られた可能性の高い鏡の例として提示させて頂きました。 和泉黄金塚古墳のある信太山には葛の葉伝説が伝わる
謂れを推測しやすい古墳だな
信太山の葛の葉伝説は、配下の者が迷惑をかけたお詫びに、ウカノミタマが黄金の箱と水晶玉を授ける話
信太山の和泉黄金塚古墳からは日本最大の水晶玉が見つかっているから、実話に近い伝説かもな
配下の者がかけた迷惑が倭国大乱、卑弥呼卑弥弓呼の対立なら鏡のこととも結び付く 卑弥呼が魏に遣いを送ったころ
魏の皇帝は病気で崩御しかけてたか、まだ8歳の皇帝が即位したばかり
権力争いもあっただろうし、遠方の島国とか正確に記録に残す余裕がなかったんじゃね? 九州から大和に移った勢力の代表は「日の御子」と呼ばれ領域を拡充しつつあった。
かたや九州の残存勢力は魏と結び大和を凌駕しようと画策し巫女を立て「ヒミコ」と僭称し大和を狗奴国と偽った。 19世紀でも薩摩藩を「国」として扱っている(国際政治の力学でわざとだけど)
これと同じで、畿内の大きな勢力=纏向、九州の地方勢力=邪馬台国 ちなみに信太山の北側が石津川の流域
石津川の辺りの浜寺にある現役の墓地は、敷地の一部を学校建設の為に調査したところ、縄文時代から絶えることなく使われ続けてきた墓地だったらしい 信太山の近くには古墳時代の始まりとともに営みを終えた池上曽根遺跡がある
二上山産のサヌカイトの石剣石槍、紀ノ川の石で作られた数千点の石包丁、石器の祠、銅鐸、ヒスイの勾玉、巨大神殿、楠の巨大井戸、木製の男根、山の女神と考えられる二股に分かれた柱、蛸壺などが見つかっている
石器作りの大集落跡だね
摩湯丘陵の麓の海岸線に近いところにあった集落跡で、摩湯丘陵には湯が湧き栄えたがアリマに去った集落の伝承が残っている >>230
三種の神器は東に東に伝播してるけどあれはなんなん?
支配者層だけ東に移っていったってこと? 池上曽根遺跡は道饗祭に出てくる湯津磐村のことかもな
堺から和泉にかけての海岸線は井戸を掘れば塩湯が湧いた
奈良時代以降も、奈良や京の都から堺に湯浴みに来ていたという記録が残っている
明治時代においても奈良から婦人たちが列をなして堺に湯浴みに通っていたという >>337
日本書記では神功皇后の熊襲征伐
九州を平定後神功皇后は朝鮮半島に出兵し、北から攻める司馬懿に呼応する形で公孫淵を南から攻めて挟撃し、
魏が後漢の残党の公孫氏を滅亡させることに協力して、その功績を認められて親魏倭王になった >>139
追加
やっぱり明治維新でカルトが乗っ取ったんだな。
明治天皇(現天皇家系)の出自もあやしいしね。
150年前のこととはいえ、偉いことをやらかしたもんだ、カルト。
維新から75年で終戦。そこから75年たったのが現在。
現体制を見直したほうがいいよ。
怖すぎてできないか、日本人。 シルクを発明したのは夏王朝
夏王朝を作ったのは日本人 >>246
これは長髄彦が迎え討ったところで上陸したとこではないよな?
こんな生駒の山奥は縄文時代でも山奥
ついでにいうとこれかなり時代が下ってから作られてる石碑 >>257
それ鬼頭の推定人口だろ?
知ってると思うが900年には4500人に激減している
この時期だけ突出して多いのは白村江以降、東国からの防人の大量移住が資料から裏付けられるからで
中央政権が人と食料を供給できたから実現した人口
良田無しと書かれた当時ではまず不可能だろうよ >>350
日下町西端は外環状線あたりなんだから余裕だろ >>318
その三つは間違いない
逆に言えばそれ以外は怪しい >>350
この地図でも寝屋川や恩智川の東まで当時河内湖があったことになってる
そのまんま日下町の西端と合致している
https://suido-ishizue.jp/nihon/10/03.html >>352
西の端ではなく草香邑の白肩之津だからほぼ生駒山の麓 >>355
それが日下町の西端だろ
外環から1kmぐらいで生駒山の麓やぞ
地図では外環より東まで河内湖なんだから描写にぴったりだろ >>357
どこなん?
そんなピンポイントで比定されてないやろ
とりあえず当時生駒山麓1km未満ぐらいまで河内湖があったのは事実や
日本書紀と何ら矛盾しない 纏向の後、墓がある大阪にデカいのが埋まってる気はする コノハナサクヤヒメが当時抵抗を続けていた阿多隼人族という設定も、日本平定の正当性を示したかった、と色んな文献に書いてある。 魏志倭人伝にはヤマトについても書いてあるのに無視する考古学
飯の種にしたいがために曲解こじつけでヤマタイに成りすます詐欺ども
卑弥呼時代の大倭
魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている 大倭は身分の高い倭人というぐらいの役職名だろ
大老や大使と同じ
国を表すときは女王国とか伊都国とか倭種の国とかちゃんと~国と書いてる >>363
畿内説特有の希望的観測で決めつけて現実逃避かい 長い先史時代の間には明治で天皇が京都から東京に移ったようなこともあったのかもしれないな 記紀を作るときにいろんな捏造をしたせいで日本の古代史が分からなくなったんだよな
日本の捏造体質はいい加減にしてほしい >>365
俺は畿内説じゃないし(むしろアンチ畿内説)、魏志倭人伝の記載の整合性を言ってる 奈良が大和になったのは713年以降だから時代が違いすぎる 天皇家のDNA調査をしてみろ
あいつら日本人じゃないよ 九州はヤマト王権に制圧された後武人化された
そして朝鮮半島進出への足掛かりにした >>375
ヤマト政権だってルーツは九州(宮崎)だろうに >>376
キリスト教を曲解したセン人のインチキ宗教と違い、日本では原始、女性は太陽だった。 あれれ
半島から来た
朝鮮人
乗っ取りが見えてきたぞー🤗 なんで弥生人てわかるんですか?
脳みそが発見されるってすごくないですか?
バビル二世のコンピーターみたいなのが存在したんですかね? >>368
倭人に国という概念があったかわからない時代だ
倭人は単に伊都、邪馬台などと説明し、国というのは中国側で付与してる文字かもしれない >>365
大倭ってのはダイワ?ダーワ?デーワ?
中国人が日本語に文字をあてたんだよな? 神武が実在してないにせよ、わざわざ東征したとねつ造する理由はない
東征したと書くなりの事情はあったことになる
宮崎から大量の前方後円墳が出土してるしな
渡来系を軸にした集団だっただろうが、勢力を拡大する過程で地方の有力者らと融合していった >>387
クニという概念があったから、クニ同士で内乱を起こしたり、連合したりしてるんだろ 卑弥呼の死んだ時期は西暦248年であり、
一般に弥生時代の終末期、
あるいは弥生時代から古墳時代への移行期とされる。
日本書紀による近畿ヤマト王権の年代観では
崇神天皇治世の少し前となる。 戦国時代みたいなものだったんだろ
邪馬台国は武田でヤマトが織田徳川連合みたいなもの 大倭は倭国大乱の負け組だったのだろう
卑弥呼時代の大倭
魏志倭人伝より『国国有市 交易有無 使大倭監之』
「大和」は、魏志倭人伝では女王国で市場の監視役として使われていた「大倭」と記載されている 三種の神器あるくらいなら天皇の墓発掘調査すりゃ答え出る可能性あるんじゃないの?どうしてしないの? 卑弥呼の没したとされる近辺に、247年3月24日と248年9月5日の2回、北部九州で皆既日食がおきた可能性があることが天文学上の計算より明らかになっており(大和でも日食は観測されたが北九州ほどはっきりとは見られなかったとされる)、記紀神話に見る天岩戸にアマテラスが隠れたという記事(岩戸隠れ)に相当するのではないかという見解もある[36]。ただし、過去の日食を算定した従来の天文学的計算が正しい答えを導いていたかについては近年異論も提出されている[37]。 >>400
監視役の役職名だろ
クニの名前だったら邪馬台や伊都のように当て字になる >>402
自分の先祖の墓を他人に掘り返されたらどう思う? >>400
何わけわかんない事言ってんだよ
中国人に理解できるわけねえじゃん 卑弥呼がアマテラスだとすれば、
邪馬台国は天(『日本書紀』)または高天原(『古事記』)ということになり、
九州にあった邪馬台国が後に畿内へ移動して
ヤマト王権になったとする(邪馬台国東遷説)。
それを伝えたのが記紀の神武東征であるとしている[40]。 >>404
違うよ
役職名なら地名同様当て字になる >>404
なぜヤマトは「大倭」という文字を選んだのか?
倭人伝を読める時代に
自分たちが大倭の末裔だと認識していた可能性もあるだろ >>406
こんなしょうもない争いが収まるなら先祖を誉れに思うし
掘り返されてもどうも思わん何個墓地がなくなってんだよ… アマテラスは九州の卑弥呼のことではないから
そこごっちゃにしないで
シャーマンみなアマテラスになってしまう >>411
役職名は当て字にしない
一大率とか、シナ人の感覚に合う職名が使われる 天照はヤマト王権でずっと信じられてきた土着神だから
卑弥呼の時代よりずっと前からね >>409
天皇家は存続している
クフ王の子孫がいない=所有者がいない 岩を念力で動かせるくらいだから
日本にはバビル二世のコンピータも存在したかもしれない >>412
大倭と書いてヤマトと読ませるのは日本人だけで、シナ人は耳でヤマトと聞いても大倭とは書かない >>419
でも
神武の子供かどうかわからないよね?
文字すら無いのにどうやって証明するの? >>1
倭国といっても5人の王がいたんだよ
一文字姓の。
しゃべってた言葉も現代とはかけ離れて
理解不能だと思われる。 阿毎多利思北孤(西暦600年)=天照大御神だよ
記紀編纂や伊勢神宮創建と時代の整合性が取れてるでしょ >>408
卑弥呼とアマテラスなんて、共通点が女性というだけ
そんなものを結びつける精神構造は、卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命と結びつけるのと変わらんぞ? >>415
そのシャーマンが沢山いる国というのを中国語で表現すると
シャーマン多国(シャーマンダーゴ)→シャマダ国→邪馬台国
のもアリだ >>417
大倭は中国の役職名かよ?
中国にそんなんあるのか? 卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある[41]。
卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、
共立されて女王となったが、一方で、
天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、
イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。
『日本書紀』の本文ではイザナギ・イザナミの協力によって、
日の神「大日孁貴」が誕生している。
魏志では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里[42]』と記述されており、
短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる[43]。
そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、
卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、
卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。
新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている[44]。 >>384
朝鮮の血が入ってるぞ。
朝鮮人とは言わんけど。
百済と新羅は倭国の属国だったからなあ。 アマテラス=卑弥呼+トヨ
ツクヨミ=奴国王
スサノオ=出雲王
だな >>412
俺は中国と交易するために大倭を名乗った方が都合が良かった、と考えてる
俺はまだちゃんと読んでないけど「こいつら大倭を名乗ってるけどなんか怪しくね?」
と大和政権の使者を訝しがってる記述があるとか 百襲姫はアマテラスに習合されてる部分あるけどね
ヤマト王権の姫だから当然だけど >>421
つまり卑弥呼時代にはヤマトなんて国は無かったということよ
ヤマトという言葉が出てくるのは万葉集以降 >>430
大人(ターレン)は高官の尊称
倭人の高官を大倭と呼んでもシナ人の感覚なら不思議じゃない >>442
東征は無いよ
記紀の捏造なあれは
むしろ記紀は東征を捏造するために書かれたもの 旧約聖書は、紀元前1400年頃から約1000年間にわたる神とイスラエル民族との関わりの歴史と、救いの約束を描いた書物です。ヘブライ語で書かれ、ユダヤ教の経典でも ... >>439
それはコレの勘違いでは?
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
◆倭国条 ~631年 (倭国時代末期)
「倭国者,古倭奴国也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
※漢委奴国王の金印は福岡で発見されている
◆日本条 701年~ (畿内ヤマト政権時代)
「日本国者,倭国之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小国,併倭国之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
これは遣唐使に倭国と日本が別国だったという認識が無ければ出てこない言い訳だ。 >>444
卑弥呼を倭迹迹日百襲姫命にあてはめるやつと、まったく変わらん精神構造してる奴に何と言われても鼻で笑う >>446
そんな感じでしょう
読んで中国人にも理解できなきゃいけない 邪馬台国は大和のわけないw
大体女王は世襲制じゃねぇしw
邪馬台国自体も北部九州の連合国家である >>443
だから邪馬台なんだろ
現代日本ではヤマタイと発音するが、シナ語的にはタ・イと2音節で発音するわけじゃなく、タィと1音節で発音する
当時はトじゃなくタィに近い発音だったのかもしれない >>451
大倭=九州倭国と中国では浸透してたのか? 人に委ねると書いて倭になる。亀甲文字なら尚更に意味が深い。 >>463
中国の歴史書に倭国は九州だとある
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。 >>459
アマテラスの実在性、卑弥呼である根拠
頑張って証明してね 邪馬台国九州説を唱える奴らはネトウヨが多い
Twitterを見てみると差別主義者や暇アノンがいるよな
文が鮮明に統一されてて草
縄文文明とか言ってる奴らもいて大爆笑
世界文明の発祥地なんだそうだぞ
安倍晋三の支持者の頭の悪さがよくわかるぜ
お前らウソつき猿に騙されてるだけで
邪馬台国は九州だと中国の歴史書に書いてあるんだからな
知らなかっただろ?w
シュメールに文字あるのに残す文化や技術的に難しかったはあるかもだが文字が無いと考える方が難しい
現に神代文字やらあるんでしょ?なんで発掘調査しないのか不思議だわ 大宰府で発見された
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国~(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 古代ユダヤの失われた17支族その頃はヘブライなんだけど難民は、現韓国と現日本まで
渡ってきた。韓国はしらんが、物部氏がユダヤ系、蘇我は大和奈良のご豪族、葛城と
婚姻関係を結び権力を拡大し、朝鮮半島から渡来人を拉致し傘下にした。
ユダヤ系の物部氏は生き残りのために8支族に名前を変え生き残りを図る。
政治の実権は蘇我氏に移る。 年代測定が科学的に行える様になって来て最近だと箸墓古墳の倭迹迹日百襲姫命を卑弥呼と見る説が有力らしいが、はてさて
崇神天皇の叔母だとすると神話と歴史を繋ぐ大発見だけど、絶対調査しないだろうなw 邪馬台国は倭国では無い。
中国では王というのは今の体制で例えると
大都市の首長に相当する。その下に軍制と民政があった。
倭国の王と言うからには中国の属国扱いの一首長の大都市という区切りでしか無いのだが?なぜ倭国だけ当時の中国王朝が支配していた大都市と区別をする学者がもてはやされるのか意味がわからん。 邪馬台国九州説の連中の9割は自民党清和会か維新の信者だろうな
世界文明の発祥地が日本とか信じてそう
狂惨党とか不思議な造語生み出すんだよな >>474
それ典型的千絵オクレの妄想だから恥かくぞ >>475
倭人伝の中で、倭人の国として紹介されてるのだが >>476
逆だろ
九州説だとヤマト政権に滅ぼされたことになる
畿内説だとヤマト政権の前身みたいな扱いになる 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>474
その発想は、卑弥呼とアマテラスを同一人物だと言ってる連中と変わらんのよ
女性という以外に共通点がない >>478
当時の中国側(後漢朝)が倭として認識してた証拠
後漢時には既に倭国が存在してる。 >>467
あとその辺の記述に「邪馬堆には阿蘇山あり」のもあるよね
この一文は結構決定的だと思うんだけどな 例えば、弥生後期から奈良時代までの500年間、形を変えず存続して作られていた南九州の成川式土器はある時期を境に途絶える
これが9世紀初頭、抵抗していた隼人の名が最後に記録された時期と重なる
まつろわぬ民と呼ばれた者たちは日本に組み込まれていく訳だ(公地公民)
記紀の編纂が8世紀
https://i.imgur.com/VEpyZQS.png
https://i.imgur.com/Jm7IBDy.png 大阪に百済駅とか百済川こういう名称が残っている。
なぜ変えなかったか、そこが疑問。
高句麗のなごり高麗川もそう。
だから、韓国人は日本は兄の国に対してどうのいうんだろうな。 >>482
そりゃずっと倭国はあったろうさ
倭国があるから倭国大乱も起きる 「成川式土器」と呼称されてきた土器群を現在の編年観にてらすと、弥生時代後期から古代(9世紀)にまで及ぶが、
様々な編年案を経て、現在は弥生時代終末期以降の南九州在地土器を「成川式土器」と呼称するのが一般的である。
成川式土器終焉までの過程をたどってみると、徐々に古代土師器や須恵器が取り入れられるとともに、成川式土器を使用していた人々の生活が変わっていく様子を垣間見ることができる。
https://i.imgur.com/aNcGvNT.png
時期別に器種組成を見ると、大きく2段階に分けることができる(図4)。
弥生時代終末期から古墳時代前期の中津野式・東原式の特徴としては、大型の高杯が安定的に出土するようになり、同時に小型丸底壺や鉢類などの食器類の器種が充実する。
食器類が増加するのは、弥生時代中期後半の大隅半島に分布する山ノ口式(入来式縄文土器の系譜)や弥生時代後期の川内川下流域の松木薗式(曽畑式縄文土器の系譜)に見られたが、
それが全域に普及するのは東原式段階である。
https://i.imgur.com/b4StvHE.png 食器組成として見ると、少量の大型高杯と多量の小型鉢類が多いことから、共用器である置食器と銘々器の手持食器を中心として構成されていることがわかる(図5)。
古墳時代中期以降の辻堂原式・笹貫式を見ると、薩摩半島から鹿児島湾岸地域は東原式段階の機種組成をほとんど引き継いでいるが、高杯は土師器系高杯へと変化し、小型化・多量化する。
小型の鉢類も多く、また、須恵器𤭯模倣品や在地的な坩など、飲用器の発達がみられる。坩には大型のものと小型品2種類が認められる。
したがって、共用器である大型飲用器と銘々器である置食器と飲用器、および手持食器がセットとなっている。
この様相は、少なくとも7世紀まで続くと考えられる。
https://i.imgur.com/CmHWv6B.png
8世紀段階では大壺が消失する一方、須恵器杯などの食膳具が安定的に加っている。
9世紀段階になると土師器食膳具の他、土師器煮沸具も加わって、成川式土器としては甕だけが残る。
もともと成川式土器の甕底部は脚台か平底を呈し、補助具なしに自立できる事が特徴だが、最終段階の甕にも
その特徴は残っている。紫コラ層直下から検出される建物には竃が確認されているが、同時に炉のみの建物も検
出されており、炉で使用する煮沸具として残った可能性が高い。 ちなみに箸墓古墳の年代というは不明なんだよ
発表されたのは周濠に落ちてた土器の年代であり、それが意図的に印象操作に使われてるだけ 現代風に区分すると
倭国が日本国であって、
邪馬台国が倭国の首都があった地(現代では東京都)と普通は解釈するでしょ。かっぺがクニクニ(故郷、出身地)とうっせんだからわかるものだが。 卑弥呼と天照大御神の登場の境遇が類似しているという説もある[41]。
卑弥呼は倭国大乱という激しい争いの後、
共立されて女王となったが、一方で、
天照大御神も国産みをしたイザナギ・イザナミの激しい争いの後、
イザナギの「禊払え」により、高天原の支配者として登場する。
『日本書紀』の本文ではイザナギ・イザナミの協力によって、
日の神「大日孁貴」が誕生している。
魏志では、邪馬台国の支配地域は、『女王國以北』・『周旋可五千餘里[42]』と記述されており、
短里説で換算した場合、概ね、九州北部地域が支配地域と考えられる[43]。
そのため、「熊襲・出雲国」は支配地域外と考えられ、
卑弥呼の時代背景としては天岩戸以前の時代背景となり、
卑弥呼は天照大御神と人間関係が類似する(弟がおり、嫁がず)。
新唐書や宋史においても、天照大御神は筑紫城(九州)に居ると記述されている[44]。 >>468
アマテラスの非実在性、卑弥呼で無い根拠
頑張って証明してね 東アジアの新モンゴロイド大和朝廷からしたら異形の鬼か化物扱いされてもおかしくない容貌
■南西諸島・南九州沿岸部タイプ 縄文ゲノム~100%
・長墓遺跡(縄文後期) 宮古島
・面縄第1貝塚(縄文後期) 奄美~沖縄本島
・柊原貝塚(縄文後期) 大隅半島海岸端
・広田遺跡(古墳後期) 種子島 157体の人骨
・立石土壙墓(古墳後期) 薩摩半島沿岸部 390体の人骨 ★蛇行剣
この地域の人骨は、長方形眼窩や鉗子状咬合、強い鼻骨彎曲など縄文人頭蓋と共通するアイヌに匹敵する立体的な顔貌を持つものの、
著しい低顔・広顔・短頭性を持ち、身長が低く体躯が華奢である。
本土縄文人とは形態差が見られるが、宮古島の長墓遺跡ゲノム(2021)を見る限り本土縄文人と遺伝的に均一だろう。
■西九州・南九州タイプ 縄文ゲノム60%~100%
・地下式横穴墓(古墳後期) 熊本県南部~宮崎県南部~鹿児島県東部 宮崎県内だけで600体以上の人骨 ★蛇行剣
・地下式板石積石室墓(古墳後期) 長崎県~熊本県西部~宮崎県西部~鹿児島県北西部 ★蛇行剣
この地域の人骨は、典型本土縄文人形態である。
■南西諸島・南九州沿岸部タイプ 広田遺跡C-8号男性人骨
■西九州・南九州タイプ 町田掘遺跡60号地下式横穴墓男性人骨
https://i.imgur.com/0ct0mKi.png
鼻骨平坦示数が47以上と、縄文人どころかコーカソイド(白人)に匹敵する数値。
ちなみに現代ロシア・スラヴ系白人の鼻骨平坦示数平均は45程度。 >>483
ウソつき猿には何を言っても無駄ってことですな >>463
中国の歴史書に倭国は九州だとある
『隋書』
>倭國、・・・・・都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
>倭国は、・・・・・都は邪靡堆、魏志の説に則れば、邪馬臺というなり。
『唐会要』
>倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。
>北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。
>倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼(ヤコ(屋久島)、ハヤ(隼人)、タニ(種子島)の三国がある。いずれも倭に従属している。
>北は大海が限界、西北は百済と近接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相見える。
>北は大海が限界
>正北は新羅と抵触
この箇所より、少なくとも邪馬台国は近畿では無いことが確定する。
なぜなら、近畿から見て、日本海が「北」で新羅が「正北」なわけが無いから。
これは明らかに九州+任那を倭国とした表記である。
またそのほうが耶古、波耶、多尼が倭国の従属国であるという記述とも合致しやすい。
宮崎県都城市歴史シンポジウム「古墳をつくった人々~墓制から文化の多様性を探る~」
令和2年3月
【竹中正巳】
骨の研究や最近ではDNAの研究で、縄文人の遺伝的な要素、DNAを色濃く残しているのが北海道のアイヌの人々だということがわかっております。
アイヌの人々の軟組織を見れば、眉が濃かったり、髭が多かったり、そして目は二重であったり。そして耳垢が湿っていたりという特徴があります。縄文時代の人たちもそういう顔つきや体つきをしていた。
縄文人は基本的に日本列島全域でほぼ一緒の特徴を持っていたと言われております。近年では、DNAの研究で東日本と西日本の縄文人の中には、DNAのタイプとしてちょっと違うものがあるという面白い研究等もあります。
私はDNAの専門家ではありませんので、またの機会に譲るといたしまして。縄文時代の終わりから弥生時代にかけて大陸から、朝鮮半島や今の中国の地域から人がやってきます。
そのような人たちは顔が長くて、面長で平べったい顔で、毛は薄い。そして目は一重ということになります。縄文人とは違っていますね。
こういう人たちがやってきて、生活も弥生時代になると、金属の道具とか水稲耕作とか、色んな形で生活も変わってまいります。もう日本列島の人々にとっては大革命です。こういうことをもたらした人たちが、地元の縄文的な人たちと混血をしていくことになります。
そしてどんどん広がって、この人たちの特徴がどんどん後の日本列島の色んな所に広がっていくというのが、現代日本人の成り立ちの大まかなストーリーであると、大方の研究者が認めております。
~~~
最後になりますけれど、都城盆地の古墳時代の人々、多様な古墳がいっぱいありますけれど、
今わかっているところでは地下式横穴墓と箱式石棺墓から出てきている人骨から言うと、本土の縄文人に近い顔つき、体つきの人たちがこの都城盆地の古墳時代の主な住民だと思います。
隼人の故地にあたる南九州地方(宮崎県南部・熊本県南部~鹿児島県)における古墳時代の墓制 には、南九州にだけ認められる地下式横穴墓、地下式板石積石室墓、土坑墓・立石土坑墓があります。
地下式横穴墓は、竪穴を垂直に掘り込んだ後、横方向に水平に掘り広げて、墓室を造ったものです。
最も古いもので4世紀末頃の土器を出土するものがあり、5~6世紀に築造 の最盛期があり、7~8世紀頃まで存続して造られています。 古い時代の人骨というものは中々残りません。良い状態で出てくるということはほとんどないのですが、地下式横穴墓というものは、天井が落ちなければ空間が保たれるものですから、非常に良い状態で骨が残ります。
南九州ではこういうお墓が、宮崎から鹿児島にかけての東半分の地域に認められます。ですから古墳時代では有数の、残りの良い古墳時代人骨が出てくる地域であります。
ですが、たいていの土を被せて埋めてしまうお墓ですと、日本は酸性土壌、火山灰の土壌ですので、体が溶けて骨も溶けてしまっています。中々残らないのが実情です。
それで南九州の縄文時代、古墳時代の話なんですが、南九州では縄文時代に少し人骨が出ます。南九州で縄文時代の保存の良い人骨というのは、残っていても10体くらいです。
その次の弥生時代になると、ほぼ皆無であります。南九州の本土で1例だけで、それらはもうボロボロの状態の人骨で、そこから特徴を探るのは中々厳しい状態です。
そして古墳時代は地下式横穴墓をはじめ、人骨がたくさん出てきます。地下式横穴墓からは非常に良好な遺存状態で古人骨が出土し、その数は宮崎県内で600体を超える。
これほど大量の古墳時代人骨資料が出土しているのは全国唯一であり、考古学のみならず人類学研究においても重要かつ不可欠な資料群と言えます。
お前らウソつき猿に騙されてるだけで
邪馬台国は九州だと中国の歴史書に書いてあるんだからな
知らなかっただろ?w
>>479
それは「邪馬台国はどこにあったか」の議論においてはどっちでもええわ
大事なのは「魏志倭人伝に書かれている邪馬台国がどこにあったか」だ
その後の変移についてはまた別の話 弥生の末
島根を中心に治めていた素戔嗚尊
国内を治めきれず混乱期にあった
対馬の天照大神が九州を固めた後
素戔嗚尊を倒した
鎮魂のため高層出雲大社を建立
姫と呼ばれた(支那当て字卑弥呼)天照大神は
やまとの国(支那当て字邪馬台国)とした >>501
実際に何処なのか証拠が無いので諸説になります(´・ω・`) やたいこく ひみこ
邪馬台国の卑弥呼て読み方おかしくね?
どう読んだってジャバダイコクのヒメコだろ?
無理矢理歴史捏造すんのやめや、クソジャップ >>479
九州説の場合
・邪馬台国が九州にありました。
・邪馬台国が畿内に入りヤマト王権になりました。
大体この2パターン
畿内説の場合
・卑弥呼はヤマト王権の孝霊天皇の娘の倭迹迹日百襲姫命
最も厄介なのは九州説の東遷とか九州王朝にロマンを感じてる連中
理屈や物証なんかも無視するから、ほとんど宗教のようなもの
ウエツフミや王年代記が聖典のような扱い 竹○宮とかの動画見たら纏向は邪馬台国ではありませんとか言ってて草
百田の解説動画でも邪馬台国は九州やとゆーとったわ
ジャップは西遼河起源のありふれたアジア人なんだがネトウヨの脳内では選民らしいな
九州説の連中は反韓のネトウヨでうじゃうじゃ
日本会議や暇アノンや統一信者の巣窟だ >>491
倭(やまと)は日本列島のことで、その中にいくつも国があった
漢書地理志にそう書いてある
これは現在も同じで、ヤマトとエゾと琉球を合わせたのが、今の日本という国家 卑弥呼やはり邪だな
中国の歴史工程に案の定使われてる
九州のただの女酋長がここまで利用されるとは
やはり売国奴の走りである卑弥呼 耶馬渓は、大分県中津市にある山国川の上
邪馬台国は九州説が正解だろ。 >>505
卑しく
弥股(八股)
呼ばれる、呼ぶ
(´・ω・`) >>506
全然違う
宮崎から畿内に入って勢力を拡大したヤマト政権が、九州土着の邪馬台国を滅ぼした
一大率が伊都国(糸島)にあるんだから、あまり遠いところに邪馬台国の中枢があったら伝令が間に合わない 邪馬台国九州説の起源は日本の天皇が中国に朝貢してたなんてありえへんと江戸時代の国学者による歴史修正主義が大元だからな
ネトウヨとの相性抜群 >>510
単に女王国30国は親中派、その東の倭種の国70国は独立派だったというだけ
卑弥呼時代の倭国:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png 阿弥陀如来の弥とも解釈できるから
弥というのは女王を意味するでしょ。
だったら卑弥呼というのは
和式で読むと
卑しき女王と呼ばれる者
と普通は解釈するでしょ。 学説では何十年も前から邪馬台国は畿内で確定済み
九州説は日本の歴史を憎んでるらしい統一や創価が出鱈目を言って攻撃を加えてる可能性あり 共産党員は高句麗系の流れだろ。
朝鮮総連の連中は日本共産党から離れて起こした組織。
民団の思想は自由民主主義。 弥生時代古墳時代の歴史が解明されると宮内庁が困っちゃうでしょ
永遠に謎のままだよ >>516
大和となったあたりで倭国は消滅してるから
独立したんじゃね。もしくは中国と一時期国交を閉ざしたか、中国側が倭国に派遣する交易船すら
出せないほど経済的に苦しかったかという考えもある。 >>523
当て字にしても意味を持たせるのが中国式 >>516
その通り
というか奈良県の「大倭」の字って
魏志倭人伝に登場する倭国の支配者層の「大倭」が由来だよね
魏志倭人伝は中国の正史の一部であり
当時の倭国でも最重要文献のひとつであり
偶然の一致はありえないので 要するに畿内説というのは今で言う特殊詐欺の一種みたいなもんよ
歴史捏造して公金チューチューするだけの簡単なお仕事 >>528
魏志倭人伝に書いてあるのは
「大倭」は女王国で使われていた市の監視役だ >>514
邪馬台国から遠くにあるから
占領軍の一大率を置いたんだろ
奈良が邪馬台国で
伊都の一大率(マッカーサーみたいな存在)を置いたんだよ 歴史修正主義界隈で「縄文を捉えなおす」とか「世界に冠たる縄文文化」とか異様な縄文アゲしてるよな
しかも、そういうことの多くは中国韓国との歴史的・遺伝的近さを否定する文脈の中で出てる
こないだも現代ビジネスで宇山が、日本人は中国南方苗族の末裔です、遺伝的にも近似していますと与太記事書いてた
まあこれは縄文主体説とは違うんだが根っこは同じ
日本人との遺伝的類似性は半島人が一番高くて、北方中国人、南方中国人と順に低くなっていくというのは明白な事実なんだが
韓国中国(華北集団)との関係を否定するために、その中で一番遠いはずの南方中国人が遺伝的に一番近いとか書いちゃう
で、Twitterでそれを真に受けたアホがリツイートして「教科書が書き換わる日も近い」とか吹け上がってる。クラクラするわ >>531
だから市の監視役っていうのは
財務大臣みたいなもんで邪馬台国の支配者層だろ >>532
現代でいえば入管だぞ
怪しい大群が押し寄せても、中枢に知らせる前に占領されてる 縄文時代はずっと続いてるでしょ
日本の文化の根源だよ
弥生時代も縄文時代の延長であるのだし >>536
お前がおかしい
公取にそんな権限はない
当時の経済の中心地である市場を監視する権限があるのは
財務省だ やっぱりヤマト王権は邪馬台国の継承国では?
禅譲なのか権力争いでそうなったのかは知らんが >>537
発掘調査されてる古墳も多いよ
発掘調査の結果により
99パーセントの学者は、畿内説だとテレビのそこまで言って委員会で
九州説の学者が言ってた >>542
GHQによって調査済み
中身はボストン美術館かどこかに飾ってある >>543
女王を共立する連合国である邪馬台国と、男子が世襲する中央集権のヤマト政権では、国としての理念が真逆 >>543
そりゃそうでしょ、別の国なら対抗勢力として記紀に記述されるはず、一切の記述がないと言うことは邪馬台国→大和朝廷でしょ >>538
少なくとも最後に日本に組み込まれた南九州にはなごりがある
日本人の主流である大和民族は古墳時代にほぼ完成(西遼河流域古人)して、現代人は古墳時代まで遡れるけどな >>544
考古学って底辺だから学者と言っても偏差値40以下よ
一般人より頭悪い連中だ(飲み屋談)w >>535
伊都や筑紫などは邪馬台国(奈良)の支配下なんだから
変な奴きても守れるだろ >>547
それも逆だろ
記紀が編纂された時点で、編者は邪馬台国の存在ぐらい知ってたわけで整合性を意識したはず
それをまったくなかったことのように書いてるのは自分たちが別モノだから >>550
電話どころか手紙すらない時代に、どうやって援軍だすんだよ
畿内に伝わる前に、とっくに占領されてる 九州説は反韓のファシストだらけ
ヘイト禁止法反対率99パー超えてそう >>549
そう思いたいのか?笑
平原古墳など北部九州の主要な古墳は発掘調査済みで
邪馬台国時代のものではないことがはっきりしてるんだよな
邪馬台国時代には北部九州が衰退してることも発掘調査で判明済み >>555
吉野ケ里は邪馬台国時代のものと確定してるが 八岐の大蛇
8人の男のナニ
大蛇を沈める
卑しい女王と呼ばれる
あっ(´・ω・`) >>552
援軍必要なのか
当時の北部九州最強は筑紫で
筑紫は邪馬台国(奈良)に味方してるんだから
多少変なやつきても援軍必要ないだろ 弥生時代に人口が増えたのは流れ込んだ人達が増えたのではなく食糧事情が良くなっただけ
流れ込んだ人達はすぐに混血しながら溶け込んでいったし数も多くはない
むしろ縄文に溶けていったようなもの >>556
倭の五王の中の一人はヤマト政権の人間(雄略天皇)だが、他の4人にまつわる記述なんてないぞ やっぱり天皇の祖先てさあ・・・
村長のナニを咥えてきた巫女じゃねえのかよ(笑) 卑弥呼=アマテラス
神武東征→九州から畿内に引っ越し
これで全部辻褄合うやんか >>557
吉野ヶ里遺跡は、明らかに大王の遺跡じゃないでしょ >>559
畿内説は順番が逆なんだよな
畿内に邪馬台国があったというのが全ての前提になってる
単独で半島からの侵略を排除できるだけの力があるのなら、畿内に隷属する意味なんてないじゃないか 日本の天皇の祖先は周辺の村長のナニを咥えて
子供を沢山産んでは、その子達にも同じ事をさせてきたカルト宗教の世襲巫女だったんじゃねと今までの日本の天皇の行動と実績を見て確信を持ってる(´・ω・`) >>549
>考古学って底辺だから学者と言っても偏差値40以下よ
お前みたいなのが、東大京大なめてんの? >>564
近くに王がいた証拠
そもそも、ヤマト政権に滅ぼされたから都は焼き払われて残ってないんだろ >>566
伊予は天岩戸(卑弥呼死亡)後のアマテラスじゃね? >>565
半島からの侵略などあるわけない
当時の半島に九州を侵略する戦力はない
それに伊都国に倭国と友好関係のある漢や魏の役人がいたんだから
なおさら朝鮮が九州に攻め込めるわけない 天皇の伝統としては
皇族の女共は各時代における権力者の性奴隷になって子供を儲けては領地や食糧や財産をもらい続けて居たんじゃね。
そうでなければ大和王朝以降の皇族達の淫乱ぶりを説明できんわ。(´・ω・`)あれらの行為は皇族の伝統であったのだと。 >>506
つまり箸墓が卑弥呼の墓じゃないと確定したら畿内説は消滅するって事よな >>570
もしそうだとすると記紀はデタラメってことになるね
年代的に卑弥呼は神武のずっと後だし >>575
まぁ古代天皇寿命長すぎだから年代当てにならないよね >>574
現時点、箸墓は卑弥呼の墓じゃないと確定してる状態
年代は墓の年代ではなく、周濠で拾った土器の年代だ 九州は小顔長頭型、近畿は大顔短頭型
中橋孝博によれば古墳時代、少なくとも江戸時代から現代までその図式は変わっていない
埴原は、現代日本人の頭蓋形態の地域差を分析し、近畿地方人の特異性を指摘した。
現代の近畿地方人は、比較的短頭で、頭蓋全体は大きいが脳頭蓋最大長はきわめて小さい。そして、その特徴によって近畿地方人は他地域の集団とかけ離れた位置をとる(埴原)。
また、生体計測学的研究の結果からみると、近畿地方人の頭形は、同心円状の地域分布の中心となることがわかっている(小濱)。
近畿地方人が最も短頭で、関東地方人、北九州地方人がこれに続くという地域関係は、現代のみならず、近世でも成立していた(長岡,2005)。
※近畿地方の現代人は、(欠田,1959)の現代人のデータを利用した。
頭蓋長幅示数
現代 近畿80.7>関東78.5-->北九州76.6
歯冠サイズの地理的変異 長岡朋人2003
現代 近畿>関東>九州 両地域の相違は、短頭傾向を持つ近畿の集団と長頭傾向を持つ九州の集団との違いにみられるように、頭蓋計測値でも認められている(Nagaoka.2003)
したがって、両地域の相違は歯冠サイズに限定した現象ではない。
同心円的構造の背景として、外来集団の渡来は不可欠ではあるが、もう一つの重要な要因として近畿の歴史的・社会的環境要因を考えた。
近畿は歴史時代における政治・経済・文化の先進地域であり、そうした地域に特有な社会環境が遺伝子頻度の変化、例えば渡来人遺伝子の増加をもたらした可能性があると指摘した。
本研究の結果は長岡・熊倉(2002)の結論と矛盾しない。
近畿地方の特異性の解明にはさらに近世以前の資料の蓄積を待たないとならないが、本研究の結果は、日本人形成史の研究に寄与する重要な知見であると考える。 >>575
記紀の年代がズレてるのは常識でしょ
卑弥呼の時代でなく、もっと後でズレてるから
比較すること自体がもはやナンセンス あの時代無防備に中国から奈良にまで来るの無理だろ
道も整備されてないし鬼呼ばれた盗賊みたいなの沢山いたし途中で野盗に襲われてる >>543
倭国九州邪馬台国が日本ヤマト王権に滅ぼされたのが濃厚
旧唐書には、倭国伝と日本伝が別れて存在し、日本伝では「日本は倭国の別種である」「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」などの記述もあり、これが実態なのだろう
「その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。」とも書かれており、九州邪馬台国を滅ぼしたヤマト王権では、当時邪馬台国との関係性を正しく伝えるか定まってなかったのだろう
その後記紀編纂を期に方向性が定まったのでは >>506
そして
過去に何度もあった、三角縁神獣鏡が出土するたびに
ここが卑弥呼の墓だと大騒ぎしてた畿内説は、畿内説ではなかったという事だね
そして
神功皇后が卑弥呼だという主張も畿内説ではない
畿内説は箸墓のモモソヒメが卑弥呼であるという事のみを主張してるという事でいいんだね? 卑弥呼とは今で例えるとパパ活してる若い女性達の事だと思います。(´・ω・`) シナは大体、商の時代から分かる
三皇五帝時代ははっきりしないが
禹が始まりの夏王朝は存在してたことが明らかだ
周代時代なんて紀元前だがこの時代にほとんどの
人間の思想が出尽くしていて未だに影響を及ぼしている
こいつらが未開の地だった日本に対しどう書いてるかの方が
信用できるのは間違いない
第三者的にもなるから余程正しい
古事記や日本書紀は嘘の歴史なのは間違いないな
欠史七代は神代からの伝統で国津神、天津神でもそうなってる
33代天皇一活の漢風天皇号までの歴史は偽造だらけだろうな >>547
九州の土着勢力は畿内ヤマトに三種の神器を差し出して降伏したら助かるが
服属しなかったら土蜘蛛として討伐されたことが記紀に書かれてる
景行のころ神夏磯姫という土着勢力は仲間の土蜘蛛を裏切って畿内ヤマトに密告し
三種の神器を差し出して畿内ヤマトに恭順した
倭国大乱で互いに攻め合い、卑弥呼亡き後はまたすぐ仲間割れするような邪馬台国連合は
裏切り上等な結束力皆無な弱小勢力ではなかっただろうか そもそも畿内に広大な勢力(ヤマト政権)があったのは確かで、遺跡が出てくるのも当たり前なのだが、それが邪馬台国の遺跡かどうかは全く別の話なんだよな >>586
邪馬台国が対抗勢力で滅ぼされたのなら、誇らしげに記紀に記述しないわけがない >>583
記紀がデタラメなのは俺も思ってるがただ邪馬台国とヤマト王権は直接の関係はないと思ってる
天照って別にシャーマンじゃないし >>588
卑弥呼は30過ぎてて、当時としては婆さんだぞ 畿内の勢力が強かったのなら
卑弥呼を共立する必要がないんだよ
共立されてる事から分かるのは
卑弥呼が所属している国は、その国家連合の中でも中位から下位の国力しかないという事
国連事務総長が先進国ではなく途上国から選ばれるのと同じ
EUの大統領が中途半端な国の人であることと同じ >>593
土蜘蛛だの妖怪扱いして叩き潰したと誇らしげに書いてるじゃないか >>593
神武からの継続性を重要視してるのに、当時倭の代表だった邪馬台国との連続性を仄めかさないわけにはいかないだろう
連続性と実際との妥協案であのような内容になったと解釈 >>591
九州邪馬台国→東遷→畿内大和→九州の蛮族退治(邪馬台国の旧敵)って流れじゃないのかね? >>595
其人壽考或百年或八九十年
現代と変わらん 崇神は東西に四道将軍を派遣した
仲哀景行は九州侵攻して土蜘蛛を討伐した
倭王武は西に66国平定した
邪馬台国30国連合は倭国大乱で互いに攻め合い卑弥呼亡き後またすぐに仲間割れを起こすような
結束力皆無で狗奴国一国に手こずるレベルの弱小連合 >>2
普通にヤマトの音を漢字にしたらそうなったんだろ そもそも邪馬台国とか卑弥呼の実在した可能性って
今のところ85%くらい? 倭国連合の一員で、卑弥呼を共立した国々の中に大和王権が所属してて
卑弥呼が共立される前の大乱や
卑弥呼没後の争い、台与以降の権力争いを経て畿内大和王権が他国を服従させ支配下に置き始めたって事じゃろうな >>601
いやほんと、倭王武が西に66国平定というのはまじで邪馬台国30国の規模感を表現するいい例だわな
邪馬台国女王国連合は畿内から九州北部までを支配するような広さの国ではないのは間違いない >>592
俺が邪馬台国に興味持ったのは「纏向が邪馬台国」って話を聞いて
「へー、そうなんだ。何か邪馬台国に繋がる何かが見つかったんだな」
と、ちょっと調べたら「こんな立派な遺跡なら邪馬台国に違いない」なんて話で開いた方が塞がらなかったこと
その時「ああ、考古学者って馬鹿なんだな」って思ったよ
それから邪馬台国のこと調べていくうちに俺の中ではほぼほぼ邪馬台国は九州で固まってるな
一応九州説をひっくり返すほどの何かがあればいつでも掌を返すつもりではあるけど
今んとこ畿内派の話はアホ過ぎて話にならない 九州から移ってきたヤマトがまた九州に攻めてるってのがおかしいんだよ
移ってきたなら九州は既にヤマトの支配地なはずだろ >>603
卑弥呼の使者が魏の皇帝と謁見したという記録が捏造とは思えないので、場所はともかく存在したということは間違いないのでは? 倭国内に無数の国家があっていつも戦争してたんだろ
戦国時代と全く同じ状態があったということだ
ヤマトなんて取るに足らない小さい国だろ
大陸にあった魯みたいな国だと想像できる >>604
そんな規模の大戦争が10年も続いてたら、青谷上寺地遺跡レベルでは済まないよ >>600
それは統計とって調べたわけじゃないだろ
シナ人にはそう見えた、あるいは現地の人間がそう証言したというレベルの話 >>9
フロイトの本にこんな感じの事が書いてあった(うろ覚え)
アレクサンダー大王が居たことをどうやって証明するのか?過去の歴史家がみんなを騙そうと捏造したものではないのか?
これを調べるには複数の歴史の記述をしらべ、それらを記述した人の間に利害関係や影響が無いかどうか(記述者の住んでる地域が離れすぎてるとか)を調べれば、
どうやらアレクサンダー大王は本当にいたらしいと推察できる >>610
争いと言っても戦争である必要はない
暗殺でもいいしな
女に化けて支配者の家に行って寝首を掻くのはよくある話だろ >>604
纏向に九州の影響がなさすぎるから
畿内ヤマトと九州勢力はほとんど交渉が無かったと思う
単純に勢力拡大した畿内ヤマトが九州女王国連合を飲み込んだと考えるのがスッキリする
仮にもし東遷というものがあったとするなら別の時代の話かもしれない >>603
そこに関しては嘘では無いと思う
限りなく100%に近いのでは >>607
九州に嫌気がさして九州から出ていった奴が畿内で一大勢力築いて九州を支配下に収めたのなら整合性は取れるだろ
まあ当時畿内から九州に軍を派遣するなんて不可能に近いだろうから
戦争以外の手段を用いたとは思うけどね >>607
九州のヤマトは南九州の勢力と争ってたんだから、東遷したあと、改めて九州全土を攻めるってのは別に矛盾してないと思うけど >>612
そう
一次史料が魏志倭人伝しか存在してない時点で
検証のしようがないんだよな 卑弥呼
邪馬台国
この字を見ても邪馬台国を侵略した者がつけた名前だな >>615
畿内大和王権が九州にある倭国連合を征服してその指導者たちをヌッコロし
その荒ぶる魂を鎮めるために、彼らが畿内大和の始祖であるという伝承をでっち上げた
それが東遷じゃないかな
と考えてる ここまでの話を総合すると
邪馬台国や卑弥呼が実在した可能性はほぼ100%で
それが日本だったかどうかは若干確率が下がる感じかな 隋の史書では使者が九州から上陸して海や川から船で畿内まで渡ってヤマトまで行ったて記述があったな
西から畿内に差し掛かる時に秦氏の勢力圏を通過した記述もあった >>622
朝鮮半島から海を渡っているから、まず日本だろうね >>607
おかしくないだろ
そのままじゃ勝てないから勢力を拡大してから攻め込む
戦国時代にも見られた戦法 >>615
全然時系列がおかしい
邪馬台国の時代の九州は畿内から発する影響に飲み込まれてる地域
なので九州があとから畿内の影響下に入ったんじゃない
九州は邪馬台国のまさにその時に畿内の影響下にある
むしろ一番先に畿内の影響が強く出てる場所 >>611
別の縄文時代の遺骨が法医学部で鑑定されたことがある
結果、古代人も現代人も寿命は変わらん事が証明されてる
平均寿命が低くなるのは、乳幼児死亡率が高いから
人間が一番死にやすいのは乳幼児期
平均の計算に0歳や1歳の死者を計上するから、当たり前に平均は下がる
90歳でなくなった人が5人、0歳で亡くなったのが5人の場合
10人の平均をとると45歳 >>622
内戦期みたいなもんで戦国時代に近い感じだったかもしれない
その中でも強かったのがヤマトで3世紀頃には一大勢力を形成していたって事だろう 人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
ネトウヨが思うような世界に冠たる選民ではないのがジャップなのだ
江戸時代の歴史修正主義が作り上げた邪馬台国論争など笑止
邪馬台国は奈良県であり天皇家は中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ >>613
それを大乱、大いに乱れた。と、表現するかな? >>630
時系列って?記紀の時系列なんてあてにならんよ >>631
30で婆さん扱いなことは、江戸時代にもさんざん言われてきたこと >>630
「影響下」を何を根拠にしてるのか知らんが、畿内系土器の北部九州流入は、物流状況を表すのみで支配関係を表すものではない
もうこれテンプレに入れていいレベルだな
倭王武が西に66国平定とある以上、邪馬台国連合30国は畿内から北部九州までを支配する国ではない >>616
少なくとも朝鮮半島→対馬→壱岐→松浦の流れは偶然では説明しにくいよな
膨大な記述量がある三国志の中で僅か数行にしか満たない倭人伝が嘘であるとも考えにくい
邪馬台国がなかった可能性を追求しようと思うなら
魏志倭人伝が嘘であった可能性より倭国からの使者が卑弥呼という女王をでっち上げた可能性の方がよっぽど高い >>634
するやろ
指導者が変わるんだから、民衆も混乱するわ
年貢の納め先も方法も分量も変わるかもしれないんだから 日本の考古学者や考古学マニアは邪馬台国と卑弥呼が好きすぎ
魏志倭人伝などという実にいい加減な歴史書のことなど一度脇に置いといて
ありのままの発掘結果を検証すべき >>58
勝手に統治機構(笑)を名乗ってただけだろ
馬鹿かよ 考古学的な流れを見ると
弥生時代後期
・福岡中心に北部九州に広がっていた勢力が消滅
・九州は鏡も出ない大きな勢力も無いバラバラの状態になる
弥生時代終末期
・瀬戸内海中心に広域の文化的連帯が大和を中心に出現し北部九州も最初期段階から影響を受ける
と言う流れになってる
九州は邪馬台国前夜にはまともな勢力は存在しない状態で、邪馬台国の時代には畿内の影響に入る
だから「九州にあった邪馬台国が畿内の大和朝廷に滅ぼされた」などと言う話は日中の史書、考古学的に全く成立する余地が無い >>640
だがしかし、そこにワンダーはあるのかい? >>630
纏向は伊勢東海や北陸山陰に河内吉備などの勢力で構成されてるが九州系はまったく関係がない
畿内ヤマトの勢力範囲(崇神の四道将軍派遣領域)がモロに出てると考えられる >>640
魏志倭人伝にしか出てこない邪馬台国のことを調べるのに、魏志倭人伝を脇においてどうすんだよ >>636
それは結婚出産が速かったから
30代で孫がいたりしたからだろ
16歳で産んだ娘が、同じく16歳で孫を出産すると、32歳でお婆ちゃん イギリスの植民地だったアメリカが世界一になるようなもんかも 縄文人は2種類居るからな
長江文明の方から後期の縄文人は来たからな
弥生人は遼河文明人だというのなら分かる
すでに縄文時代に稲作はあったし
日本には前代の間氷期に最初の黄色人種が
定住したこれが5万年以上昔のことだ
日本人は三層構造だ >>643
ワンダーなど不要
韓国人のファンタジー史観でもやらせとけ >>649
遺跡の上に立ち目を閉じて思いをはせるのが考古学なんだよ
ワンダーを否定するのはただの考証マニアでしかない >>645
邪馬台国ではなく「国」を調べるべき
狂った先入観を捨てよう >>603
九州北部の土蜘蛛に女酋長が多い
当時の遺骨から赤色顔料ベンガラを塗りたくる風習があったので蛮族感を引き立てる
田油津媛が征伐された山門は邪馬台国有力比定地
各地方風土記逸文の土蜘蛛
筑後国山門郡・田油津媛(タブラツヒメ)夏羽(ナツハ)
豊前国田川郡緑野・土折猪折(ツチオリ)
豊前国田川郡高羽・麻剥(アサハギ)
豊前国下毛郡御木・耳垂(ミミタリ)
豊前国宇佐郡菟狭川上・鼻垂(ハナタリ)
豊後国日田郡石井郷・土蜘蛛の築いた堡
豊後国日田郡五馬山・五馬媛(イツマヒメ)
豊後国直入郡禰疑野・打猿(ウチサル)八田(ヤタ)国摩侶(クニマロ)
豊後国大野郡血田・鼠石窟の土蜘蛛
豊後国大野郡網磯野・小竹鹿奥(シノカオキ)小竹鹿臣(シノカオミ)
豊後国速見郡・青(アヲ)白(シロ)
肥前国小城郡・堡を作った土蜘蛛
肥前国松浦郡賀周里・海松橿媛(ミルカシヒメ)
肥前国松浦郡大家郷・大身(オオミ)
肥前国松浦郡値嘉郷・大耳(オホミミ)垂耳(タリミミ)
肥前国杵嶋郡嬢子山・八十女(ヤソヲミナ)
肥前国藤津郡能美郷・大白(オホシロ)中白(ナカシロ)少白(ヲシロ)
肥前国彼杵郡速来村・名無しの土蜘蛛
肥前国彼杵郡浮穴郷・浮穴沫媛(ウキアナワヒメ)
肥前国彼杵郡周賀郷・欝比表麻呂(ウツヒオマロ)
肥前国佐嘉郡川上・大山田女(オオヤマダメ)狭山田女(サヤマダメ)
肥後国益城郡朝来名の峰・打猿(ウチサル)頸猿(クビサル)
日向国臼杵郡知鋪郷・大鉗(オホハシ)小鉗(ヲハシ)
薩摩国風土記 日向・大隅・薩摩の土地の人は皆 隼人である。 >>637
独自の生活様式、祭祀様式をすべて上書きされてる状態を「ただの文物の流通」と言うのは不可能
特に祭祀は九州にかなり独自の物があったのにも関わらずにそれを畿内式に変えられている
九州の勢力が根本から変化してる事が読み取れる
逆にごく一部に取り囲まれるような形で伊都国周辺に畿内の影響がない部分がある
もし「ただの文物の流通」と言うならそんな不自然な形にならない
政治的な意図があると読むのが自然
この時代の畿内からの影響の拡大を支配関係と完全に無関係と主張するのは不可能 >>644
書いているように「九州は畿内の影響を一方的に受けてる場所」
この事からも畿内と九州の力関係が分かると言う物だろう >>642
紀元前の日本の5箇所くらいの遺跡からは交易用に使用されていたであろう
文字入りの文書作成に関した道具類も発見されているから
特定地域で勢力を持っていた豪族なんかは点在してたとは思う 卑弥呼という朝鮮から渡って来た詐欺師が
日本に騒乱を起こして結局殺されたというお話だろ 1国の女王田油津媛を兄の夏羽が補佐していたと記述がある >>659
むしろ逆で、先入観を捨てて魏志倭人伝に目を通すことだな
奴国まで正確に現地の状況を描写してる >>639
横レスだけど暗殺なら「倭國亂相攻伐歴年(互いに攻め合う)」なんて書き方はしないと思うの >>656
纏向は伊勢東海の影響を受けてるところでいいな お前ら魏志倭人伝な内容ぐらいしっかり把握してから書き込めよ >>653
遠賀川式土器が西日本一帯に広がっているからと言って、西日本一帯が九州勢力の支配下にあったというだろうか
言うわけがない
祭祀様式はなにを指しているのか知らんが、銅矛銅鐸文化圏があったとしてそれが支配関係を表すだろうか
表すわけがない
単なる物流状況を示すものであるという前提で考えるのが妥当
一方で前方後円墳は物流という枠組みでは考慮できず、それなりに協力な精神的上限関係の変更があったと考えられるが、それを支配関係とするにしても九州北部における前方後円墳はせいぜい3世紀後半からだろう YouTube動画をみるとネトウヨ論客はみな九州説だよな
崇神陵の行燈山古墳が四世紀前半の築造だから崇神の没年は318年説でほぼ正しいのだろう
となると卑弥呼は欠史八代の頃の斎王ということになる
九州瀬戸内の銅鏡祭祀族が卑弥呼なる巫女を旗印に畿内の銅鐸祭祀族を制服した歴史でもあったのだろう
その証拠に二世紀末に銅鐸祭祀の磯城の唐古・鍵遺跡は廃れて銅鏡祭祀の大福遺跡など磐余の近くに政治の拠点が移っている
卑弥呼は倭国大乱を制した神武が神輿に担いていた斎王か何かだろつ
彼女は80以上まで生きていたようだから5代孝昭か6代孝安くらいまで存命していたはすで男弟なる一族が天皇家になるのだろう
天皇家は中国に朝貢していて中華の属国だった
真実の歴史を目を背けるネトウヨに笑える 保守の立場だと
魏志倭人伝よりも記紀の方が史料も多く正確なので
邪馬壹國も卑弥呼も創作か日本以外の伝
卑弥呼が魏に使者を送ったとされる
西暦239年は神功皇后39年であり皇紀899年ですでにヤマト王権が成立していたので
邪馬壹國は存在しない 支那大陸や半島に
現代DNAを持つ日本人が全域で
暮らしていたが北方遊牧民との争いの
中の乱交配で消えていった
チベットやウイグルの辺境地にのみ
遺伝子は受け継がれた
天照大神は日本列島の民族を護るため
対馬に降り立った 魏志倭人伝に書かれた倭国の政治的出来事
①倭国大乱
②卑弥呼女王共立
③狗奴国との戦争
④男王を立てるも内乱勃発
⑤台与女王共立
そして「やっと」平和になった(AD266年頃)
畿内説の主張内容はほとんど作り話であり
魏志倭人伝とは無関係な話ばかり >>653
伊都国が畿内の影響下にないとしたら、邪馬台国は九州で終了だな >>613
倭国大乱に関しては
181年にニュージーランドのタウポで破局噴火が起きたことが科学的に判明して以降は
倭国大乱(180年代)や黄巾の乱(184年)の原因は
タウポ破局噴火による世界的な大飢饉が原因と考えられている >>666
纏向の性格上瀬戸内海地域の連帯を示す祭祀の場所と考えられる
纏向の文化様式は瀬戸内海系の物で、東海の勢力はむしろその影響を受けて独自化を強めてる流れ
纏向に瀬戸内海中心の勢力が誕生した事で、東海に対抗する勢力が出てきたと言う動き
しかしながらその後にほどなくして東海の勢力も畿内勢力の影響下に入っていく
この事から東海勢力もその畿内との連帯を模索する祭祀に参加しているとみるべきだろう >>675
女王国東渡海千余里復有国皆倭種
伊勢湾を取り巻く伊勢東海地域は畿内ヤマトの主要勢力であり
畿内説をとるのであれば海を渡るとまた倭種の国があるどころか
むしろ女王国の中心地域であるといわなければならない 結局内宮の祭神と外宮の祭神を魏志倭人伝の
卑弥呼とトヨにしてるからな
天皇の祖先にしてるから九州説になってしまうんだろうな
こういうのを一切消すとどうなるのか 邪馬台国=ヤマト国
卑弥呼=神功皇后、のちに天照大神と同一視された
ヤマトタケル=雄略天皇
以上だろ
中国で歴史書を疑問視する擬古説は考古学調査ですべて歴史書の通りだったと証明されている
封建制が始まる以前の時代に血統や家名を誇る必要がないので
わざわざ嘘を書く理由がないということだろうな >>668
遠賀川式の伝播は「文化だけが伝言ゲームのように移動してるだけ」
だから発信源の九州に全く連動しない
弥生時代末期の文化の伝播は「畿内が変わればそれに応じて九州も変わる」という連動性を見せている
この事からそこには政治的、継続的な影響が背景にある事が明らか
また、祭祀と言うのは勢力の根本的な力の根源を示す重要な儀式
弥生時代後期に各地域に独自性の強い祭祀が生まれたのはそういう支配者の権力基盤示すための儀式だったから
特に弥生時代後期までの福岡中心に広まった祭祀はかなり独自性が強くそこにかつて金印を貰った九州王の存在を見ることができる
それが失われてた勢力の物に塗り替わったと言うのは支配者の変動があったとみるのが自然 >>676
確かにそのとおり
あなた色々と鋭いね
前スレで倭王武が66国平定邪馬台国連合30国という記述からの邪馬台国の規模感の指摘と言い素晴らしいわ 義歯等遺伝の原文の著者は女王国までは行っていない
当時の伊都国の人間は瀬戸内海通運を
ヤマト方面が南であり伊都国は北にあると思い込んでおり
ヒアリングした結果が記録されているだけにすぎない >>669
倭の五王の一人は雄略天皇だから、ヤマト政権だって朝貢してる
歴史を学ぼうな
それとも日本の歴史は学びたくないか ネトウヨ大好きな例の八紘一宇の原文をみると、どう見ても倭国大乱のことを書いているとしか思えないよな
日本中の村々が互いに攻伐しあう無政府状態が続いているから、私がヤマトに都を置いて八紘を一宇とした平和を実現したいとか神武が言っている
神武が実在したとしたら倭国大乱の頃の人物で、卑弥呼は彼が担いだ巫女だろう
神輿は軽くて何とかが良いというし、まだ童女だったから西暦247年まで生きていたのだろう
彼女の出身地は九州だったかもしれないが、魏志倭人伝に出てくる頃には纏向にいたんだろ >>681
太陽が昇る方向が東だ
間違えようがないだろ ヤマト王権が大概的に日本を名乗るのはかなり後になってからだしな
なにせ21世紀の今になっても日本の読みがニッポンなのかニホンなのかゆらゆらしてる始末だ >>665
そりゃ、戦争も行うだろ
暗殺ばかりだとは言ってないんよ >>678
邪馬台国=ヤマト国
卑弥呼=神功皇后、のちに天照大神と同一視された
上の2つは同意するけど
ヤマトタケルは3世紀に狗奴国(熊襲)と戦った皇子じゃないか
大英雄なのに男王制度は完全に廃止されて
台与などの女王制度に移行したため男王になれなかった >>679
畿内からの伝言ゲームで九州が変わって何が政治的な影響なのかさっぱり理解できない
儀式の変化についても何も応えてない
全く説明が足りない >>684
ヒアリング相手の伊都国人だって自分でヤマトまで瀬戸内海通運で旅したことがあるわけでもないのだろう
イキって聞き齧りでにわか情報を教えてしまったのが魏志東夷伝に残っただけ >>676
史書の話をしたいなら邪馬台国は大和しかない
そして九州は大和の属国である事も確定してる
当然、九州王朝など存在しない
論争など最初から存在しない
①新唐書に歴代天皇の系譜が乗りそこに「アメノタリシヒコは用明天皇である」と明記
②用明天皇は「筑紫城から大和州に移った神武天皇」の子孫なので都は大和
③隋書にアメノタリシヒコの都は邪馬台国と同じとあるので場所は大和と確定
④唐書に大和が白村江で滅ぼされたとも、アメノタリシヒコの後も系譜が続いている事からも九州王朝など存在しない事が確定
⑤旧唐書にアメノタリシヒコは各地に一大卒を派遣して地方を支配してるとあるので魏志にあるように一大卒のいる九州は属国が確定
⑥宋史に日本は小国であるが王も家臣もずっと同じ系統であると皇帝が称賛してるのでこれも九州王朝など存在しない事の証拠
歴史と言うのは複数の史書を読み合せて妥当な姿を探るもの
「倭人伝だけの独自解釈」などそもそも学問ですらない >>689
それって、
畿内説ありきで、畿内説を成立させるためにどうやって魏志倭人伝の記述を捻じ曲げるか?
という手法だろ
そういうのはよくない >>689
瀬戸内海なんて通ってないだろ
一大率を通じて入手した緊急情報は伝えなきゃならん
太陽が昇る方向とは違う方向に伝令したんだろうな >>687
神功皇后の夫仲哀天王が熊襲に破れたのが4世紀だぞ 馬がいない時代にどの程度の領域を統治できたか
ネットも電話も地図も無い時代にな 当たり前だけど瀬戸内海通運を利用して伊都国からヤマトまで行く場合
まずは関門海峡を通ってから大分あたりまで南下するだろ?
伊都国の人間は自分でヤマトまで行ったことないもんだから
南へ行くと女王国があるとイキっててきとーなことを
東夷伝の著者にしゃべってしまったわけよ >>682
五王の時代は、中華帝国と交渉して半島の権益を認めさせたからギリセーフで認めるのだよ。 ニッポンという国にしましたと宗主国に文書で報告したから
二ホンは明かな誤りだが固定化して二分されてしまった まあ>>653も言及しているように、伊都国には畿内の影響は全く見られない
物流は支配関係を表さないが、物流がないなら少なくとも支配はないと判断できる
そんな場所に畿内が一大率をおいて監視してたなんてありえないだろう >>688
考古学の基本的な話
この時期の大和からの影響は「斉一性」として大和からの影響が連続的に伝わり続けている様子が分かっている
遠賀川式の文化の伝播は書いたとおり発信源の九州がその後に変化しようが伝わった先に影響がない
各地域で独自の変化を遂げて完全に別物になる
つまり、遠賀川式の影響は技術だけが伝わった物
大和から九州への文化の伝播は「大和が中心となって連続的に九州に影響を与え続けている」と言う物だと分かる
この影響はドンドン強くなり九州の独自性は消滅する
むしろ遠賀川式の伝播との差を考えればこの時期に起こった大和から影響がただの文物の移動出ない事が理解できるだろう
祭祀については長くなるので分けて書く >>694
当然ショートカットしようとすれば海運となるよな
今で言う新幹線とか高速道路のようなもの >>690
記紀に影響を受けているだろう記紀と同様の引用をしているようじゃ話にならんな >>699
当時、大和が存在した証拠も文献もなく、奈良を中心に広がった文化は何の痕跡も無い
思い込みは学説じゃ無いぞ 宗像大社の本社である沖ノ島をどう見るかだな
東遷以前のヤマトの残滓とみるか >>690
天皇の系譜は後世の創作が大陸に伝わったものが記録されてるだけ
また隋書と同じ時代に書かれた後漢書李賢注には「ヤムァダイとは邪馬台の発音が訛ったものだろうか?」と推測していることが書かれており
「ヤムァダイと邪馬台は同じものである!」という認識がその時代に無かったことがわかる >>700
魏志倭人伝の記述から、当時は海を渡る事は危険であった事が伺える >>699
全く理解できんな
当時畿内の銅鐸ですら、九州で作っていた事実があるのにもかかわらず、土器の独自性が無くなったから伝言ゲームとは違うと判断する根拠がわからない 中国朝鮮で勢力争いして負けて逃げて来た連中だろし
そいつ等が俺が上お前が下の俺ルール適応させ統治を目指すんだから当然殺し合いはある
日本は基本的には中国文明から伸びた枝に過ぎない
箸を使い飯を食い、道徳や儒教が色濃く、漢字により情報を外部記述と外から見りゃ兄弟だからな 日本の土師器は西遼河の偏堡文化の土器の系譜になる
書物のない時代は土器の製作ってのは言語で教わらないといけなかった
つまり土器の製作が同じということは使っている言語が同じだったという事を意味する
遼河偏堡文化の土器→韓半島の松菊里式土器→九州の遠賀川磯城土器→古墳時代の土師器
遼河流域の粘土帯文化の土器→韓半島の三韓の土器→半島三国時代の土器
ネトウヨが認めたくない事実を言おう
つまりジャップは西遼河発祥。
ついでに言うと
縄文土器→続縄文土器→アイヌ土器
わかるよな
ジャップはアイヌを滅ぼした側だ >>688
続いて祭祀に付いて
九州では弥生時代中期から福岡を発信源とする甕棺墓と銅矛の祭祀が北部九州全域に広がる
これは福岡から各地域にその方式を採用させると言う「中心と地方」の関係が色濃く出ている
この事から中期から後期にかけて北部九州には福岡を中心とした勢力が各地域を影響下に収めていた事が見て取れる
また出雲でも四隅突出型の墓が日本海沿いに広がり同盟関係の現われとして共通の祭祀を使っていた事が読み取れる
ほかにも台状方形墓なども近江や丹後などに広まり共通の勢力の存在を見出すことができる
これ等の事から弥生時代の祭祀と言うのは地域勢力の連帯や支配の証として存在してる事が理解できる
祭祀の伝播と上書きと言うのは単なる流行り廃りではなく、政治的な動きと不可分である事は言うまでもないだろう
ところが九州の勢力は弥生時代後期に入った辺りで突如消滅し、祭祀の共通性が無くなる
そしてその後に畿内から発信された「今までと全く違う」前方後円墳の祭祀に上書きされてしまう流れになっている
九州の勢力が畿内の勢力の政治的影響下に入ったと理解するのは自然
むしろ全く関係ないと言う方が考古学的な研究を一切無視した無根拠な話と言える >>709
単純に畿内方式が流行しただけじゃないかな? >>705
今ざっと魏志倭人伝に目を通してみたけどそれらしい記述は分からんかった
参考までにどの部分にそんな事が書いてあるか教えてくれるか? >>709
まるで宗教だなw
論理性のカケラもない
こじつけ論を自然だとか妥当だとかゴリ押しするのは詐欺の典型 >>711
倭の者が中國に詣るのに海を渡るときは、いつも一人の男子に、頭を櫛けずらず、虱が湧いても取らず、衣服は垢で汚れ、肉は食べず、婦人を近づけず、喪人のようにさせる。これを持衰(じさい)と名付ける。もし行く者が??善であれば、生口や財物を与えるが。もし病気になり、災難にあえば、これを殺そうとする。その持衰が不謹慎だったからというのである。 >>693
神功皇后が卑弥呼どすると
夫の仲哀天皇も3世紀になる
つーか、女王制度に移行してるから
男系の天皇は途絶えてるな
15代の応神天皇が390年頃の人なので100年くらいは男王不在だったはず
100年以上続いた女王制度が廃止されて定説通り応神天皇は新王朝 >>709
そりゃ倭国大乱があったのに、祭祀用銅鉾なんて作ってる場合じゃないわな
貴重な銅なのだから武器に使ったのだろう
>>668にも書いたように四隅突出型墳丘墓が消えたり前方後円墳が広がったりするのは支配関係と考えることができるが、問題はその時期でせいぜい3世紀後半ではという話
だとすれば邪馬台国は北部九州と考えるしか無い 例えば現代の日本では
中国製の安い食器が増えている
家電製品でもいい
この事実をもって、日本は中国に支配されてると言えるのか?
という事
その他の理由で支配されてるという主張は可能だが
「中国製の食器が広まっている」という観点だけでは不可能だよな?
つまりそういう事なんよ >>701
肝心の部分であるアメノタリシヒコの系譜は記紀を完全に無視している
記紀の記載なら遣隋使は推古天皇になる
中国は独自の記録を元に日本の歴史を記述している
記紀の丸写しでは全くなくむしろ最も重要な部分に差異がある >>716
子供もいないしな
なので神功皇后とは別人だという事よな 魏志倭人伝の記述だと、地名と行程の距離以外は九州っぽいんだよな
近畿のヤマトの話と九州の話が混ざったのか
あるいは卑弥呼の時代の後に九州から近畿へ移動があったのか >>668
それなりに協力な精神的上限関係の変更
それなりに強力な精神的上下関係の変更 >>721
クシャーナ朝のへの距離も無茶苦茶だからそういうものと解釈した方がいい >>721
国と国との距離が百里単位
海を渡ると千里
実際に距離を測定してるわけじゃないだろうから
数字の誤差は大きいという事で読むと、九州だろうなって思えるんよな 神功皇后は高句麗や百済の史書をもとに創作された人物だろう
倭王権が韓半島に対する領土主張権の根拠を捏造したのだ
同じ事は明治時代にも行われている
日韓同祖論など政治的学説が生み出されていった
有名な好太王碑文などの事件も発生している
歴史は繰り返すということだな >>714
要は中国へ向かう時は吉凶を占った、って話よね
海を渡る事が危険と捉えることもできるけど、中国との交渉(取引)に関して吉凶を占ったとも取れる
微妙なとこだな >>710
考古学の基本を学ぶべきだろう
弥生時代の中期から後期にかけて土器や祭祀は各地域でかなり独自性が強くなった
祭祀は上述のように勢力のあり様と密接に連動している
そして生活土器と言うのはその地域の人間の移動範囲を示していると言える
つまり「各地域に他勢力を受け付けないブロックが出来ている」と理解できる
これは各地に排他的な「国」が誕生したと見ることができる
そして弥生時代末期の大和の文化の拡大はこのブロックを無視して拡大し大和の勢力に一方的に塗り替えている
これは単なる流行などではなく「各地域に存在していた国の壁を消滅させて大和の影響下に一本化していく流れ」と見ることができる >>708
縄文土器の轟式→曽畑式→山ノ口式→東原式と変遷を辿った成川式土器(制作者は縄文人)に、
全国で作られていた土師器の影響が見られるのは8世紀後半からだけどな >>727
吉凶を占うのじゃなくて
船が難破しないように祈祷するような行為がこの記述だというのが一般的な認識だよ >>730
倭国大乱を平定したのが邪馬台国
ヤマト政権ではなかったのだろう
だから書けない >>728
という思い込みをあたかも考古学的見解であるかのうように広報してるのは村おこしの主催者だけ
桜井市教育委員会からお越しですか?w >>45
農業の発展は軍事衝突を生む
これはすべての文明に当てはまる >>728
他の勢力の食器が使いやすけりゃそっちを使うし
使いやすさは同じでも安いならそっちを選ぶ
そういう事もあるわな
>>718だよ >>715
史実の三韓征伐に当てはめるなら4世紀から5世紀 >>728
目を閉じて思いをはせるのが考古学の基本だぞ 畿内からは卑弥呼の時代の
中国から渡来した魏鏡がたくさん見つかってる等
考古的に見たら九州説は成立する余地ないよ
論より証拠と言ってな >>730
それも邪馬台国が畿内勢力に滅ぼされたと解釈できる根拠の一つだわな
九州の話なんて知りませんわそりゃ >>740
部下に下賜するのが鏡だからだよ
だから国内でたくさん複製して部下に与えた >>740
100枚しかないはずの本物じゃなく、数百枚ものパチモンが見つかってるよな 畿内説の思考を見てると日本がオワコンと言われるのもうなずけるよな
特に人文系の論文はほとんどが思い込みでさ、誰にも引用されず消えていく日記なんだよ >>744
しかも奈良で発見されたのはコピー品一枚と破片だけ >>717
君が言うように大乱で共通の祭祀を出来なくなったと言うのは勢力の崩壊をそのまま意味している
銅矛はその後に復活することなく他の道具に鋳つぶされている
大乱を示しているかどうかは不明だが、弥生時代後期から「そのあとずっと」九州にまったくまとまった勢力が無くなったと言うことを示している
前方後円墳の出現とその伝播は九州説寄りの久住編年でも200年前後で卑弥呼の時代に当たる
そして九州は纏向型とほぼ同時期にそのシステムを採用している
仮にその時代を後の時代に移動させたとしても、上述のように九州にまともな勢力などこの時期に存在しない
そして上で書いたように「弥生時代後期の崩壊以降北部九州にまとまった勢力などその後も含めて出てこない」
なので考古学的に見て多数の国を従えた邪馬台国の存在など九州に見いだすことは不可能 どうも邪馬台国九州説の連中を見てみると伊都国が倭王権の半島に入ったのが景行天皇の時代だからおかしいという事らしいな
伊都国王は倭王権戦っておらず景行の到来を大歓迎してもてなしている
倭王権下の一国として熊襲に脅かされていたから景行の援軍を喜んだのだろう >>728
>そして生活土器と言うのはその地域の人間の移動範囲を示していると言える
いやいや物流は基本人が移動するからでしょうよwwwww
それが支配関係を表すのではないという話で
基本的に主観的な主張すぎるな >>707
文化的影響はあっただろうが文明論的には別物だぞ
北方系、南方系、大陸系とDNAのルーツも3系統あって島国て事もあって
大陸とは隔絶された文化の土壌もあった
土器に関しては世界最古だし縄文から独自の文明圏であったと思う >>748
>伊都国が倭王権の半島に入ったのが景行天皇の時代だからおかしいという事らしいな
いいえ違います
読解力がない人が幾ら妄想しても無駄ですよ >>737
何度も繰り返し書いた通り
ただの食器の移動ではない
勢力を示す祭祀も独自の物を塗りつぶして拡大している
そしてそれ以前は「他地域の生活様式も祭祀も全て拒絶する領域」が存在していた
この事からこの時期の大和からの文化の拡大は政治的、勢力的背景を持った物であると理解できる
考古学者で庄内式の拡大について評価には差があるもののそれは程度の物であってただの流行であると評価してる人はいない 魏志倭人伝で邪馬台国の南にあった狗奴国が、それより後に成立した後漢書東夷伝では海を超えた東に位置するように書かれている
狗奴国が神武王朝と考えるとしっくり行きそうなんだが >>747
九州北部の前方後円墳が200年前後であるというソースは >>752
祭祀の方法にそこまで強いこだわりがなきゃ成立するんだよね
他の地域の祭祀の方法の方が、目的は変わらずに
やり方が勘弁だったり理にかなっていれば、それを採用することもあるわな
現代日本で土葬が減り火葬が増えていったのと同じようなもんだ >>752
いずれにせよ政権とは関係ない
銅鏡だって民間交易で入手できてた時代
なお卑弥呼時代はまだ倭国大乱の余韻が残っていた時代であり狗奴国と戦争になってる
倭人伝にも書いてある通り宗教的統治ができたのはせいぜい台与の時代以降だ >>708
遼河といえば公孫度の燕だが魏の前に卑弥呼が朝貢していた先が燕だった
燕が魏に滅ぼされたので魏に朝貢することになって賜ったのが親魏倭王というわけだ これ人類の起源って新書に載ってた話題だな
タイトルは地味だが面白いよ
特にヨーロッパの白人の由来についての話はクソ面白い 邪馬台国って日本なのかね?
こんなに見つからないと台湾とかじゃね?とか思うわ 魏志に書かれた邪馬台国が「王朝」なのか、「王権」なのか、魏に冊封された「王」なのか、で話が違ってくるな。
まず、王朝ではないな。
一つの家系が世襲で王を輩出している気配がない。
王朝ならば、始祖は誰か何代目かなどが記述されるはずだ。
次に、王権なのか。
ある地域の人々を経済的軍事的に支配した権力なのか。
魏志には、30余りのクニに共立された女王、と書かれている。
倭人のクニは100余り、それぞれが帯方に使者を送ってくるが、うち30か国が女王を共立していると。
どうも、卑弥呼は権力ではなく権威に思えるがどうか。
最後に、冊封された王か。
これは確実だ。
親魏倭王として魏に冊封されている。
世襲王朝でななく、王権でなく、王だ。 >>756
>>757
上で書いた通り
他の地域の人間を受け入れない排他的領域と祭祀の領域は一致している
無関係どころか密接に関係がある事が読み取れる
特に弥生時代中期から後期にかけて各地域でこの傾向が強くなっている
各地域に明確な他と違う国の領域が祭祀と言う紐帯を元に成立したことが理解できる
現代の政治勢力と無関係な個人の埋葬方式と一緒にする事など全くできない
銅鏡は民間交流で手に入るのは九州で見つかる経10センチ程度の位至三公鏡程度
また自分で作る?製鏡は明らかに格下の扱いでこれも重視してない
つまり、大型の新式鏡は中国の政権との交渉によって入手する特別な物であると言える
勘違いしてる人が多いが九州は「鏡が全然でない地域」
弥生時代後期でとだえた後に出現するのは4世紀以降の古墳出土鏡
なので九州は中国とまともに外交関係を構築できてない事がここからも読み取れる
だから狗奴国との戦いで魏に応援を頼むと言う事も出来てない 九州王朝など存在しなかった。
しかし、邪馬台国の女王卑弥呼が九州にいてもおかしくはない。
卑弥呼は一代限りの共立された女王だ。
帯方に邪馬台国の卑弥呼が使者を送ったころ、
奈良盆地に大和王朝が誕生していたか、しかかっていたかしたかもしれない。
だとしても、その王が卑弥呼とは限らない。 >>763
>他の地域の人間を受け入れない排他的領域と祭祀の領域は一致している
その排他的領域って君が勝手に思い込んでる奴だろ?
祭祀の方法が排他的ってどうやって決めつけたの?
今の日本人も土葬と火葬にこだわりはない
それと同じようなものだ >>615
普通は、畿内は神武東征により九州支配圏に入り銅鐸を作れなくなったと考える方が自然だろ >>764
いわゆる九州王朝説は無かったと思うけど
九州を中心にした勢力があったとは思う >>744
九州で魏鏡が出土しないのが残念ですよね。
畿内でも魏の年号が入った鏡は和泉黄金塚古墳出土の画文帯同向式神獣鏡一面しか出土してませんから、
まあ、そのうちどこかから出てくるのでは? >>768
鏡は下賜するもの
下賜されるものなので、主人がいるところに存在することは少ない
下賜されたはずの鏡すら出てこない
つまり、外敵に侵略され散逸した
邪馬台国は滅んだ
という事なんだろう >>767
そうだよな。
九州王朝の存在が証明できないから、卑弥呼は九州にはいなかった、とはならん。
後漢書や魏志の示すとおり、倭人領域の数十か国がバラバラに帯方に使者を送ってるんだ。
使者を送り奴隷を献上すること自体は、「倭国内を統一したうえで」「魏と外交関係を確立」する、みたいなたいそうなことではない。 外宮の豊受は九州のトヨとは違うよ
外宮の豊受は丹波の籠神社の豊受神 「卑弥呼は神功皇后、邪馬台国は大和国」としながらも「日本の天皇が中国に朝貢した歴史などあってはならない」という立場から、「馭戎概言」において、九州の熊襲による偽僭説を提唱した。
本居宣長
これが邪馬台国論争の原点。
戦後になって妄想膨らました話が多すぎる。 >>748
畿内ヤマトが九州進攻のときにイソ国と名付けたものが後になまって伊都国になったという逸話があるが
それだと魏志倭人伝とは時代があわないので
なにか他の話がそういうエピソードに刷り変わったのかもしれないという話じゃなくて? >>765
書いた内容をよく読んでほしい
生活様式土器も祭祀の様式と一致して排他的傾向を持っている
つまり、他地域の人間を受け入れない領域と祭祀の領域は一致している
両者には明らかな連動性がある
その領域の支配者が自らの権力と同盟の関係を示すために共通の墓制を採用させている様子が見える
現代のように政治権力と無関係の墓制とは比較できない 東にも倭種の国があると言ってるのだから本州の訳ない >>763
とにかく主観的すぎる
漢鏡が入らなくなるのは倭国大乱後で、倭国大乱で北部九州の国力が衰え、大陸へ行く余裕がなくなったと解釈できる
この間畿内が力をつけて九州勢力を上回ったと解釈するのが妥当 >>777
民衆は、便利な方を選んだって事だな
民衆がそっちに流れりゃ、
徐々に為政者もそっちを使うわな
民衆が使ってるという事は、そっちの方が便利だという事だし 「墓なんてただの流行りだ」
と言うのであればそれこそ全国思い思いの墓が出来続けるのが自然だろう
弥生時代のように各地域に好き勝手な墓制が行われている事になるだろう
ところが古墳時代に入ると全国的に規格が統合された古墳が中央に準じて築造されている
形や大きさ、副葬品に明らかな序列の存在を見ることができ鉄剣の文字などからその背景にそれを統合する権力者がいることが判明してる
この事からも墓制と言うのが単なる趣味や流行りではなく、政治的権力と密接に関わっていると言うは疑いの余地はない 文化は基本的に強い方が弱い方の文化を潰して乗っ取る >>771
読んでも良く分からんが、これは論文として発表されて査読済みという話なのか、単に説を発表しているだけなのかなんなんだ 縄文人(日本人)は大麻吸って入れ墨入れてヒャッハーな民族だった。
そこに弥生人(韓国人)がやってきて支配し、「文化」や「文明」を伝えた。
天王が韓国人なのもこれが原因。
日本神話で明らかだろ? 畿内に邪馬台国があったとすれば、強力な王権が確立していたとみなければならない。
なぜなら、1か月の距離にある北九州の一大卒を支配下に置いている、公孫滅亡と帯方復活の報に接して即座に帯方に使者を送っている、
というように、強力な軍事力と情報網をもっていなければいけない。
九州勢であれば、さほどの王権でなくとも(世襲王朝である必要もない)、糸島を抑えて、
大陸半島情勢に機敏に対応することは可能だ。 >>786
邪馬台国当時の三韓も倭国もタトゥーにピアスだよ。 >>787
つまり神功皇后以外に比定できる人物がいない。 >>764
王がいて朝議が行われてたらそれは王朝
今で言えば福岡県知事みたいなもん
それ以上でもそれ以下でもない
と言うのが、古田武彦が書いた、幻の九州王朝の趣旨で、多元王朝論につながる考え方
そこからどんどん解釈が歪んでいき、弥生時代の日本は九州が支配してたかのように刷り込まれる事案が湧きまくった
王がいて朝議があれば王朝は出来上がる
日本中に複数の王朝が並立していたんだよ >>789
8世紀に書かれた日本書紀の編者たちは、魏志に登場する台与を神功皇后とした。
卑弥呼を日本書紀や古事記の登場人物の中から探さねばならない理由はないと思うが。 >>790
古田武彦という人を知らないが、自説の都合で用語の定義をずらす人物を学者だとは思わない。 それって、複数のクニがありそれぞれに王がいた、ではいかんのかね?
わざわざ王朝(一つの家系から世襲で王を出す)という理由はなんだろう。 >>791
まずは日本書紀を正としてそれを否定するなら証拠とともに提示しないと単なる妄想。学問にはならない。
今から400年前と言えば信長や秀吉の時代。彼らの逸話に脚色があったとしても存在を否定するバカはいない。 韓国 統一教会
必死だわ🤗ワラタw
中国 儒教で
男偉いんだー
それだけwww >>799
日本書紀の編者・舎人親王は、魏志に登場する台与を卑弥呼とした。
このことを否定するつもりはないよ。 >>778
しかも海を渡った先の東、だもんな
この時点で奈良はない >>801
観光ガイドをを日本の正史としているレベル。その観光ガイドも神功皇后のことはのせてたんだ。しかし卑弥呼とかの名づけは放漫が過ぎるという話。 >>799
文書が残ってる時代の記録と文字そのものがなかった時代のことを書いた記録を一緒にするなよ 伊都国って怡土郡でしょ
奈良時代には吉備真備が怡土城造ってる 鳥取島根あたりも有力な豪族がいた可能性が高いし
発掘調査に注目だな
なんでもかんでも実在性すら怪しい卑弥呼につなげるのはあれだと思うが >>808
文書は捏造が多いんだろw
その考えだったら日本書紀は否定するなよ。 >>498
頓珍漢なレスは要らない
魏志倭人伝を読んだ中国人が大倭で九州倭国とわかるのかと聞いている
読者に理解できない事を陳寿は書かないから 邪馬台=やまたい
台与=とよ
なぜ?
単純に考えれば邪馬台国=やまと
だろ… >>799
400年前の事を誰がどうやって憶えてるんだ
天皇なんか居ねえわ 信長にしたって信長公記とルイス・フロイスの書籍ぐらいでかつ一般人は知らない。
多くの逸話が言い伝えられそれが信憑性の原点。
神功皇后の逸話は九州に大量にあり神社が伝承している。
それらを否定できなければ、その論には何の価値もない。 魏志に書かれた通りに、倭人の領域には100前後のクニがあり、それぞれが帯方に使者を送ってくるが、
うち30のクニが卑弥呼を共立した、のであれば、邪馬台国の位置を探すのは無理。
古事記や日本書紀の登場人物に卑弥呼を比定するのも無理。
まだ古代国家が出現しておらず、バラバラのクニが対立したり共闘したりしている状態。
そのなかのひとが邪馬台国だが、共立されるために最大最強である必要はないので、どこにあってもおかしくはない。 日本は元々統一されていて出雲に王権があった
それを朝鮮から東征した神武に支配されたんだな
天皇は朝鮮人で朝鮮族
現代の半島は女真族 >>817
土着の宗教が統一的な神道にまとめられたのは奈良時代以降。
神功皇后のいつ話はそれらの別々の土着の宗教が別々に伝えていたので信憑性が非常に高い。 >>816
今でも神社に人が住んではいけないという話があるが、祭祀の中心が都市国家ではない可能性もあるからな
伊勢遺跡なんか好例だが >>819
九州の神社には、神功皇后に関するどんな伝承が残っているの?
俺は、日本書紀と古事記しか読んでないから、興味ある。 阿毎多利思北孤(西暦600年)=天照大御神
記紀の歴史はここから始まったんでしょう
伊勢神宮創建の時代も整合性が取れてる >>824
ありがとう
記紀に記されていない伝承もあるんだね。 >>786
高天原って、地上の楽園、朝鮮のことだったのかよorz >>817
一応阿蘇神社が記録上では2000年前から存在してた
九州にいた巫女衆は阿蘇山の活動を鎮める為に存在してたと思われる
ついでに言うと阿蘇神社に属する健軍神社の歴史が1500年程
その健軍神社は文字通り軍を建てる為に作られた神社と言われてる
もし阿蘇山を神と信仰する一族が邪馬台国と仮定すると
狗奴国との争いが古墳時代に入っても続いていて狗奴国との戰のために作られた神社とみることもできなくはない >>781
一部での流行りだな
実際古墳時代の墓は多種多様だ >>786
まあ釣りなのは解ってるがあえてレスするが
稲作のルートにしても古墳の伝播からしてもそれは無い
白村江の戦い当時は日本が駐留して支配してたのは中国の史記からも解ってる事
日本が半島に遠征して文化を伝えてたって方がまだ説得力あるわ
朝鮮半島に関しては地政学的要因が古代から適用できると思う 後の大和朝廷に繋がるのは畿内勢力だけど、後漢書にある邪馬台国は九州の勢力です。 今たくさん神社があるのに遺跡が無いってどういう事よ? >>820
そうなんだよね。
祭祀の場は、最大最強の王のひざ元にあるとは限らん。
魏志によれば、卑弥呼は鬼道をなす女王で30余国に共立された。
王朝の継承者でもなく、王権を確立した人物でもなく、祭祀の長だな。
権威と権力の分離は奈良時代以降に常態化したものと思っていたが、
魏志の時代にすでに確立していたのかもしれない。
権力が鎌倉にあって、権威が京都にあり、外交は権威が司ったように、
魏志の時代も、権力が大和盆地にあり、外交は卑弥呼(大和にいるとは限らない)が司る。 >>831
神社の遺跡?
少なくとも俺は知らんよ
もしかしたら金剛が何か知ってるかもね 天皇は朝鮮人なので伊勢神宮は信仰すべきじゃないよな
日本人は出雲や宇佐を参るべきだな >>836
寺はあるよな
神社が無いのは古いのが無いんだよ 魏志倭人伝の読者は中国人。文書を書くときにその受けを狙うのは当たり前。
現在でも欧米の観光ガイドの日本を日本人が読めば違和感ありまくる。なぜなら読者の文脈や地理感覚に無理やり当てはめる。 >>837
朝鮮人というのは正確ではないな。
朝鮮半島からやってきた勢力の子孫だ。
日本列島への移民のうち、朝鮮半島経由は最も太いルート。 >>838
神社の場合その場所に意味があるから基本同じ場所で建て替えだろ
だから金剛が何か知ってるかも、と言うた >>794
九州説の関連書籍をいっぱい書いてた人だよ
もう亡くなってるけど、現代の邪馬台国ブームの火付け人の一人 >>843
そうなのか。
コケにしてしまって申し訳ない。
書籍をたくさん書く人は尊敬する。 日本書紀の神功皇后の存在を否定する右サイドの人たちはえせ右翼。これはガチ。よいフィルターの一つ。 神社なんてずっと後の時代のもんを妄想根拠でこじつけるな
それ畿内説のやる事だぞ? 神社の古いのは小さいまんまでそれほど立派なものは無い
日光東照宮のような時代の浅い物はそれは立派だが
縄文時代以前よりあるものは単なる祠
変な字と思われるものが刻まれてはいるが誰も読めないし
興味も示さない
大体村の人間もどうしてそこにあるかも知らない >>815
そんなアホな
様々な文献に名前が残り、手紙も出てくる信長と、記紀にしか出てこない神功皇后の実在性を同列に扱うとか馬鹿もいいところだろ 邪馬台国がどこにあったのかよりも、
当時の日本の支配構造はどうだったのかが面白い。
少なくとも外交の代表が女なんだよ。
王朝の継承者でもなく、王権の確立者でもないけれども、倭国代表として魏に使者を送るのが女なんだよ。
いったいどういうことかな。 卑弥呼の死後、男の王を担いだらクニが乱れたので、再び女王を掲げて落ち着いた。
しかも女王は十代の少女だ。
面白い国だな。 >>824
こんなの何の参考にもならんな
徐福伝説なども多く残っているが、徐福なんて100%日本に来ていないし伝承が多いからといって実在性が高くなるとかまじで無い 大和の国(邪馬台国)とは
日本のこと
首都ではない >>848
手紙とかたいしてないですよ。坂本龍馬は多いけどw
多くの場所で整合性のある伝承を根拠なく否定する態度は日本を否定する態度に等しい。 GHQはそのやり方で日本を否定した。その尻尾が多くいる。 史書を解読することもせず妄言ばかり垂れ流すのは韓国人と畿内説だけ
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>813
豊前豊後が「豊の国」で、筑後の卑弥呼から豊国の台与にヤマトの首長が移ったのだろうな
その後に国乱れて、内乱が起きたのか、畿内の土人国が攻め込んできたのか
倭国大乱が、神功皇后の三韓征伐の事だったりしたら面白いけどな >>852
邪馬台国(大和国)は女王の都と
魏志倭人伝に書いてる >>842
出雲が鎌倉からだからってそれ以前に神社がないとは限らない
勿論当時は神社なんて立派な建物ではなかっただろうが
その阿蘇神社がある場所が日本最古の祭事が行われた場所だったとしても不思議ではないと思う >>856
倭国大乱は邪馬台国内の権力争いだよ
それはほぼ確定
それを否定することは史書の記述を否定することだから倭国大乱そのものが無かったことになる 隋書には魏志の邪馬台はいわゆる大和のことと書いている >>787、特に前段を明確に説明できる畿内説派はいないよね。
あと纏向が都なら、西にだけ勢力があるのは不自然だから東も越前は当然で白河の関に近い範囲を勢力圏にしていると考えるのが自然だ。
本当にこれが可能かね。 >>853
そもそも寿命が無茶苦茶なのに整合性もクソもねえわ >>813
読み方は、「やまたい」かもしれないし「やまと」かもしれないし
「じゃまだい」かもしれない 揚子江文明を作ったのは日本人
揚子=燕=日本人
揚子江の上流はチベット
日本人のDNAが1番近いのはチベット人 >>857
そりゃ遣隋使の数十年後に1300年の連続性を重視した記紀を編纂したのだから、そういうことにしたい人物も遣隋使として中国に伝えたやつも多いだろうな >>866
浅い知識だなw。その解答は中国の歴史書にありますよ。
>>862
隋書に書かれてる聖徳太子まで否定し始めたからな。
そうかとキリスト教徒の仕業。 >>837
道鏡事件で宇佐の神託が絡んでるのは、宇佐も半島系ってことだろ >>862
そう、大和から来た使者は邪馬台国の者と同一だと隋書では書いてある
この事から考えられる可能性は
1) 邪馬台国が女王制をやめ男王を立てて大和政権になった
2) 大和政権が邪馬台国を支配下に収めそれをいいことに自分らは邪馬台国の者であると騙った
3) 支配下に収めてもいないが邪馬台国の者じゃなきゃ信用しないよと中国に言われ適当ぶっこいた
4) 中国側が同じ言葉を話すからと勝手に勘違いした
って感じかな
ちなみに大和の者は邪馬台国の者と書いてあると同時に
邪馬台国には阿蘇山があり阿蘇山を鎮める為の神事を行っていたとも書いてある 遣唐使「日本は邪馬台国」
唐「倭国と日本の関係は、どうなってんの?」
遣唐使「ヒデブ」
唐「何やコイツ?」 >>844
本人は考古学者ではなく、親鸞が専攻の中世の思想学者なんだけどね
邪馬台国は本人の趣味かもしれないけど、名が売れたのはこっちだろうな
その人が九州王朝に言及してたりしてたんだけど
ベースに有るのは多元王朝論
要するに邪馬台国、卑弥呼を唯一の王朝とは考えていない
ところが、この人の後、邪馬台国九州説はおかしな方向に舵を切り
九州の邪馬台国がヤマト王権の元だとか、筑紫城があったとか
神武天皇は筑紫の日向から旅立ったとか、よく見かけるおかしな人らが生まれた
現代九州説論者の古田武彦の発想からかけ離れていった 邪馬台=やまとだったとしてもそれが奈良になるわけじゃないよな
奈良が後からパクったかもしれんし >>873
宇佐と伊勢
名前も似てるし立地も似てる 3世紀前半の日本列島の言語(と概念)は、さまざま未分化だったのじゃないかな。
「ヤマト」とは、山のふもととの意味の地形名であり、全国各地の山のふもとの固有地名であり、国名でもある。
当時は河口付近の湿地帯を稲作に利用する技術がないから、稲作共同体といえば山のふもとにあるものだ。
九州にもあれば、畿内にもある。いくつも。
「ヒミコ」とは、ヒメミコなど、雲の上の女性くらいの意。
「山のふもとのヒメミコ」
当時の人にはこれでだれのことなのかわかったのだろうが、いまとなってはどこの誰かわからない。
7世紀に入って隋の使者を迎えるころには、ヤマトとは大和盆地の固有名となり、国名となり、民族名となっていた。
隋の使者は魏志を読んでいるから、邪馬台国と大和政権の関係を問う。
たぶんうちの先祖だと答えたとしても、おかしくはない。 ああ、九州にも地名「ヤマト」は結構ある。
畿内の地名をぱくったのか、当時は一般的な単語で普通に同時発生なのか、九州が先なのか、今となっては分からんね。 >>876
それ、日本書紀や古事記を読み解くと九州説そのまんまになるだけやん
畿内の大和朝廷が「魏志倭人伝に記述された邪馬台国」の正統な後継であると主張するために作られたわけだし 皇族の方々のやんごとなき御顔を見れば
大和王権の支配層は朝鮮半島由来なのは明らか やまとは国のまほろば
やまとという言葉が都とか京のような感じで使われていた可能性もある
帥升の倭面土国も、やまとと取れなくもない >>863
だよな。
纏向が北九州を支配するような軍事力を持てたのかと。
いちいち半島情勢の変化に対応せねばないほど、半島との関係が濃かったのかと。
纏向が稲作にものすごいよい土地であることは間違いないんだよな。
誰もが支配したかったろうよ。
三輪山から穏やかに川が流れ込み、適度の平野を形成し、水はけもよい。
唐子・鍵遺跡からわかるように、弥生時代から大人口を擁した土地だ。
それでもさ、九州に出兵すんの? ネトウヨ大好き九州説
安倍信者や維新支持者や暇アノンの巣窟
ネトウヨ芸人なんか文を統一したかのように鮮明に九州説 >>881
邪馬台国の後継、というより日本に存在する唯一の王権である、と主張するためのもんだろ
国々を統治してたのは昔っから我々だけですよ、と 天武天皇
「デカイ古墳作ったのあれ、俺の先祖な」
「九州にある伝説、あれも俺の先祖な」
「出雲地方にある伝説、あれも俺の先祖な」
「北陸の豪族?もちろん俺の親戚」
「諏訪?よく知らないけど俺の親戚」
「鹿島、香取?あー糞中臣の地だからあれは俺に関係ない」
「そんな感じで歴史書よろしく!」
こうしてできたのが記紀 >>881
全然違うと思うけど、具体的に何がそのまんまなの? 天武朝は滅んだから伊勢神宮とやらは参る必要無し
あれは天武朝の遺産 少なくとも奈良県のヤマトは三輪山の麓の意味
昔の倭では聖地の麓ならとりあえずヤマトだったのかもしれんな
ネトウヨ芸人は纏向が邪馬台国だと気に食わないらしい 五胡十六国時代の時の中国大陸は日本を気にする暇なんてなかったしな >>894
説明に困ったら「藤原が闇に葬った」で流せると思ってるからなw 藤原氏の捏造というのもネトウヨ論客の手口だよな
どこかにマニュアルでもあるのかと同じ事を言ってる 埼玉県高麗郡高麗神社
天皇陛下や歴代総理大臣が参拝する理由
ここが全ての謎を解決させる 邪馬台国が北九州で、天皇が武寧王の子孫であることから
朝鮮半島の百済系が日本に渡り倭国大乱をおこし
日本を掌握したと考えるのが妥当だな、うん >>876
解説ありがとう。
おもしろいな。
邪馬台国が当時の唯一の王朝ではない、というのは資料から言えることにとどめる学者ならそういわねばならない視点だよな。
後に続く人たちが、飛ばしていったのか。
俺は、九州王朝東遷説とか一体なにをいっとんのかと思ってた。
東遷説をいうには、まず九州に「王朝」があったことの証明をせねばならん。
が、そこはすっ飛ばす。
古代国家確立以降の概念を3世紀に当てはめていくことに一体何の意味があるのかと。 まいどまいどトンチンカンな事言ってる人がいるのが凄いな
「大和朝廷が邪馬台国の後継を名乗ってる」
とか完全に見当違いも良いところなんだけど
中国も大和朝廷も邪馬台国と大和朝廷の関係なんて論じてない
系譜見ても分かる通り始祖は神武天皇で卑弥呼も台与もどこにもいない
神功皇后はあくまで皇后でこの記述をしたのは日本が朝鮮半島を支配する権利があると言う話でしかない
邪馬台国の後継なんてどこにも名乗ってない >>871
浅いも何も寿命が異常という時点で絶対的に信憑性はないよ >>893
本居以降の伝統だな。
ねじれにねじれている。
(1)現在の皇室の祖が、歴史を通じて唯一無二の王朝だったはずだ。
したがって、邪馬台国は現在の皇室の祖であり、本拠地は当然に奈良にあったはずだ。
(なぜそう思う?)
(2)だが、本邦の皇室が魏の臣下に下るわけがない。
(なぜそう思う?)
(3)九州勢が邪馬台国を騙ったにちがいない。
学問ではなく、思想的にこうだったらいいなという思いの表明にすぎない。 >>892と>>893で点と点が繋がったわ
三輪山は記紀にある日本最古の信仰
ただの山でしかない三輪山をなぜ祀ったか
それは阿蘇山信仰を三輪山信仰へとすり替えたのではないか
ちょっと不思議だったんだよ
日本最古の神社は三輪山を信仰する大神神社と言われながら建設されたのが阿蘇神社よりずっと後なのかって
ちなみに大神神社建造が578年
聖徳太子が命じて職人を募り金剛組を立ち上げ建造したとされる
そして聖徳太子の生年が574年
これが「金剛なら何かを知っているかも」と言った所以 >>3
中国人の権威的学者がヤマトと読むと言ってましたよ 委奴国は摂津、摂津は元々は猪名県だった
邪馬台国は大和
邪馬台国の南の狗奴国は河内
これで決まりでしょう 神功は元々スメラミコトで天皇だろ
仲哀の子供ではない応神は明らかだが
これは天皇の直系の先祖だからな
仁徳朝や天武朝は滅びてるが
継体で応神からの系譜は生きてることになってる
だから宇佐が天皇にとっては神格が一番高いことになる
神託が必要になったのも分かる >>904
すり替える必要はないと思う。
神聖な山に抱かれた土地(ヤマト)を大切にしてきただけとは思わん?
各地でさ。
三輪山は、弥生期に栄えた稲作共同体からよく見える。
三輪山に守られているから稲作ができるのだという感覚はよくわかる。 大神神社建造よりもずっと前から信仰されてたんじゃないかな。
現在の三輪山の磐座ができたのは神社よりずっと前のはず。 石鏃、いやゆる鏃の出土状況をみると、広域間で攻伐して痕跡が絶無。
ローカルな地域の抗争はもちろんあったろうが。
まあ高地性遺跡とは何か? という問題まで含んで考えないとね。 >>896
今でさえ秋篠宮みたいなのがいるんだから、藤原の頃の天皇の血なんて繋がってるケース少ないだろうな 玄武、青龍、朱雀、白虎で示された通り
東西南北まさに中心、キトラ古墳
奈良県、明日香村。 >>915
昔は宮家いっぱいあったから何とかなった >>910
まあそれも思うんだけどただの山、ただの岩を信仰するより
火を噴き恐れを生み出す阿蘇山の方が信仰の対象としては自然かな、とは思う >>895
邪馬台国が行ったときの魏も孫権に度々攻められててジャップに構ってる暇なんてなかったんだよな。 どこにあったのかもわからないのに
ただの妄想だろ。ばからしい。考えるだけ無駄だ >>917
ちゃうちゃう、皇太子の父親は誰?って話だよ。 >>908
自称五代子孫の豪族がデカイ古墳作って疲弊した旧王朝を倒しただけの話なんだが? >>921
あぁあのそこら中で子供作っては中絶させて唯一怒鳴り込んできた家の娘と結婚した人?
普通に上皇ではないのか? >>901
理屈が素人丸出しだな
「神武天皇」の名称も日本書紀や古事記には記載が無く「狭野」「彦火火出見」「神日本磐余彦天皇」と記述されているものを後世に「神武天皇」として祭り上げたのが始まり 江戸時代だって遠く離れた紀州から遠い親戚を連れてきたやん、血統が大事な家だとたまにある話だろ。 >>923
陛下やミーヤと比較しても明らかに異質。両親のどちらかが異なってないとああはならない。
父は平成天皇で平民美智子の子ではないとすればまだ良いけどね。 イザナギ=筑紫城 漢委奴国王
ワダツミ=イザナギとイザナミの子
イザナミの死後に謎の女性との間に産まれた
アマテラス=高天原(紀伊半島奈良高原)に転封
ツクヨミ=イザナミが葬られた出雲に転封
スサノオ=ワダツミの代わりに筑紫城 漢委奴国王を継がせる
で、スサノオは、ワダツミ=イザナギとイザナミの子 に虐められ逃げ出す >>924
天武天皇
「デカイ古墳作ったのあれ、俺の先祖な」
「九州にある伝説、あれも俺の先祖な」
「出雲地方にある伝説、あれも俺の先祖な」
「北陸の豪族?もちろん俺の親戚」
「諏訪?よく知らないけど俺の親戚」
「鹿島、香取?あー糞中臣の地だからあれは俺に関係ない」
「そんな感じで歴史書よろしく!」
こうしてできたのが記紀 >>885
魏志倭人伝には伊都国に一大卒が置かれ邪馬台国の監視を受けていたとあるから
その頃の九州はどっかに支配されてたんだよ >>927
で、イザナミの死後にどこかの女性との間に出来たスサノオを、自分の次の、筑紫城の漢委奴国王にしようとしたイザナギも、筑紫城に居られなくなって、
筑紫城の漢委奴国王を、ワダツミに譲位して、
アマテラスが統治する奈良の高天原の近くの淡路島に隠居する >>932
大宰(おほ みこともち)は行政の中心って意味だよ
現代日本で言えば霞が関の様な地域 >>932
「倭国大いに乱れる」
天候不順→飢餓→疫病蔓延→民衆反乱、であったことはほぼ確定でいいと思うよ。
しかし、トヨとモモソの時系列が合わないのはどうしようもない。 >>932
イザナギとイザナミの征服進路は
高天原(奈良)から進軍して
はじめに淡路島、
つぎに四国、
隠岐島、
九州、
壱岐島、
対島、
佐渡島で
最後に本州統一
だからね >>932
そうだね。
伊都国の一大卒を支配していた、というか一大卒を設置した勢力が邪馬台国で確定でいいと思う。
それが機内勢だったかというと証明の方法がないといいたい。 魏志倭人伝には九州は伊都国や奴国と書かれてる
となると必然的に邪馬台国は大和国 空白の4世紀に政変なりがあって邪馬台国からヤマト王権に移動した
単純に移動期間が空白の4世紀だと思う
複雑な前知識がない方が全体を把握できると思うがね 空白の四世紀もおかしな理解してる人だらけだな
中国の史書に出てないだけで別に日本側に何かあったんじゃない
むしろ考古学的に見て古墳のシステムの洗練化と分布の拡大がみられる
200年ごろに大和に成立した勢力がより協力に成長した様子がうかがえる だからこそゴチャゴチャした状況を史書に書き残す理由がなかったように思う
後の日本人にすら訳分からんわけでw >>941
だから、あれらはそもそも天武天皇を喜ばすためのものであって歴史的な正当性とか二の次な訳で >>935
疫病あったなら疫病があったって書くやろ
一文も出てこない事象取り上げて確定とするのはちょっと 考古学的な画期は纏向型から定型化するまでの間
西暦で言うと180年くらいから280年くらいの間
この段階は古墳の規律も弱く、分布も限られる
箸墓の定型化後に古墳の秩序が確立し全国に広く分布する形
箸墓の登場を境に大和の中心性がより強化され全国の統合が更に進んでいく様子が見える >>940
だよね。
空白の4世紀の中原は分裂の時代にあたるから、北九州勢だろうと畿内勢だろうと、
大陸に挨拶に行く必要性を感じなかったのだろう。
五胡十六国のうち、どれに挨拶するのが最も合理的かなどわかんねえし。
大陸に強力な帝国が出現したら、すかさず使者を派遣して恭順を示しつつ、防衛力を高める。
大陸が分裂しているときは、挨拶の要はなし、防衛もサボってよし。
この繰り返しだ。 >>940
お前もたいがいだがな
3世紀に畿内勢力が影響力を増したことに異論はないが、それがいつなのかという話
お前の説も結局のところ無理やり200年頃にしようとしているにすぎない >>943
崇神の時代に疫病で人口が半減した、と日本書紀に書かれている。 仲哀天皇や神功皇后以前の天皇も九州に絡み過ぎだし、応神天皇が九州生まれだしな
遣宋使を送っていた倭の五王の時代まで九州に政治の中心があったのを意味してるかもしれない >>953
何度も頻繁に中国に足を運び支援を要請しておいて、邪馬台国が勝利した側なら、常識的に返礼にでも行くだろう
行ってないのは滅びたから >>960
だからそれがどの程度の信憑性があるのかと言ったはずだが 238年、243年、247年と魏に派遣しておいて、いきなり途絶えるのは不自然すぎる
ヤマト王権狗奴国との争いが激しくなり、魏を味方につけようと頻繁に魏に派遣して、その後突然途絶えたのは狗奴国に滅ぼされたからと解釈するのが腑に落ちる YouTube動画をみるとネトウヨ論客はみな九州説
安倍信者や日本会議や統一教会の教義か何かなんだろうな(草
崇神陵の行燈山古墳が四世紀前半の築造だから崇神の没年は318年説でほぼ正しいのだろう
となると卑弥呼は欠史八代の頃の斎王ということになる
九州瀬戸内の銅鏡祭祀族が卑弥呼なる巫女を旗印に畿内の銅鐸祭祀族を制服した歴史でもあったのだろう
その証拠に二世紀末に銅鐸祭祀の磯城の唐古・鍵遺跡は廃れて銅鏡祭祀の大福遺跡など磐余の近くに政治の拠点が移っている
やはり西暦160年から180年頃に九州から吉備にかけての勢力がヤマトをコンクエストして磯城の勢力の一部を取り込んだあと磐余に本拠地を置いたとしか思えない
卑弥呼は倭国大乱を制した神武が神輿に担いていた斎王か何かだろう
彼女は80以上まで生きていたようだから5代孝昭か6代孝安くらいまで存命していたはずであり、魏志に云う男弟の一族が天皇家になるのだろう
天皇家は中国に朝貢していて倭が中華の属国だったのは間違いない
真実の歴史を目を背けるネトウヨに笑える >>965
そんなもん一職員の説をそのまま受け取れるわけ無いだろ
考古学ってそんな世界なのか
査読は 日本は高句麗や新羅が北部政権へのルートを塞いでいたから南朝に遣使してる
そもそも北朝は異民族の国だから正統性を主張するなら南朝の方が筋が通る
中国史でも魏、晋、宋、斉、梁、隋と連続して使節が来てると書いてる
空白も何もなく単純に中国側が混乱して記録残せてないだけの事 >>972
他の説も並列に書いてる
それも見ればいい >>970
265年に魏は滅びるんだよ。
礼を述べに使者を派遣しようにも、魏が存在しない。 >>967
魏が滅びるのは265年
数年おきに魏に使者を派遣していた邪馬台国が突然20年近くも音沙汰なしになるのは異常
それだけ異常なことが起きたということ
滅びたんだよ
西晋にしても禅譲で大規模な戦争が起きたわけでもなく、邪馬台国側に問題がないとしたら行けない理由がない >>974
他の説を並列に書いたところでなんだというのか
結局確定的な情報ではまったくない
3世紀後半とするのが妥当だろ >>976
邪馬台国の台与が西晋に朝貢している。
連絡が途絶えるのは、その後のことだね。
宋が出現するまで、日本列島側は誰に朝貢していいかわからんかったのだよ。 >>975
それでも中国に派遣しないと分からんわな
さらには禅譲で魏に仕えていた人間が皇帝になっているわけで行かない理由がない 中国の史書では邪馬台国の台与の後に何事も無かったように男性王が即位したと書いてる
しかしながら中国の史書は後の大和朝廷と邪馬台国は連続してないと示してる
なので恐らく大和の中で政変があり共同で選んだ首長から、世襲の王朝に変わったんだろうと推察している
だから邪馬台国は滅んで、そのあとを新たに大和朝廷が支配したと言う図式になる
上でも書いたが「邪馬台国の後継など誰も名乗ってない」 >>977
他の有力説の編年も書いてるだろ
バカなのか
認めないと喚いてればそれが説になると思ってるのか >>979
だから西晋(司馬)には、台与が朝貢している。
途絶えるのはその後。
ちなみに、西晋が滅ぶのは316年。 >>982
そんなもん200年というのが定説になってないんだから参考程度にしかならんわアホが >>984
魏の都も禅譲された晋の都も洛陽だよ。
宮殿も同じはず。
半島の帯方郡の役所も同じ仕組みのはず。 五胡十六国時代のどこかに朝貢してた記録でも出てくれば何かわかるのかもしれんがな >>989
そうだね。
日本列島のどこかが朝貢していると思うんだよな。 中国ですら後漢末期の動乱で三国志みたいな状況になるくらいだから
当時の日本も気候変動による天候不順とかで動乱が起きていたのだろうな >>988
魏の都と書いてるのに西晋時代にとよが派遣していると解釈するのはぶっ飛んでるわな
全く妥当ではない 倭国大乱と言う言葉に惑わされ過ぎだとは思う
ただ少なくとも弥生時代後期に福岡を中心とした北部九州に存在した勢力が瓦解して九州に統合勢力が無くなった事は考古学的に見て取れる
時期的には適合すると言えるな
この後に九州にはもう大きな勢力は出現せずに畿内から拡大する勢力の影響に飲み込まれ埋没する >>972
考古学って偉い人が言ったらその通りになる世界よ。
楠木正成が一夜にして朝敵から忠臣の鑑になってるし イザナギとイザナミの征服進路は
天御中主神、高御産巣日神、神産巣日神がいる
高天原(紀伊半島)←『魏志倭人伝』の『真珠』の産地
から進軍して、淡路島を足掛かりにして
四国←『魏志倭人伝』の『丹』の産地
隠岐島←アマテラスの國譲り 出雲は『魏志倭人伝』の『青玉』の産地
九州・壱岐島・対島←日本武尊の熊襲征討
佐渡島・本州←日本武尊の東国征討 >>992
魏志では、台与は魏に朝貢
晋書では、女王は晋に朝貢 と言うかそもそも史書すら読んでないんじゃ話にもならない >>859
弥生時代の狛犬の一つでも掘り起こして来いよ 舐めすぎだろwwwww
10国の犠牲があるから2000年以上持ってる >>996
晋を滅亡させたのは、漢委奴国王を印綬した後漢の末裔
漢委奴国王を倒して親魏倭王になった邪馬台国は朝貢できない このスレッドは1000を超えました。
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