【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★9 [樽悶★]
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表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00010005-rkbv-001-3-view.jpg
佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。
■「線刻」と呼ばれる多数の記号
吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。
■来月に石棺墓の入り口を開ける
邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。
5/29(月) 15:27配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142
弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。
この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。
4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。
弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。
吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代中期の王の墓が見つかっていますが、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓だとすれば、初めてとなります。
吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「『謎のエリア』の中でも最も高く、見晴らしのよい場所にあり、かなり身分が高い人の墓の可能性が高い」と指摘したうえで「さらに調べれば、当時の政治のあり方を読み取るうえで歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
佐賀県は今後、墓の中を調査することにしていて、副葬品などが見つかるかが注目されます。
2023年5月29日 5時40分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html
世紀の発見となるのでしょうか。佐賀県は5月29日、吉野ヶ里遺跡で邪馬台国時代のものの可能性がある石棺墓が見つかったと発表しました。
「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、我々は非常に興奮してときめていて、これからどうなんだろうという気持ちが高ぶっています。」(佐賀県・山口知事)
吉野ヶ里遺跡で新たに見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの石棺墓です。去年5月から発掘が始まった、「謎のエリア」と呼ばれる場所で見つかりました。
見晴らしの良い場所に単独で存在し、線刻といわれる記号が刻まれているなど、これまでにない墳墓だということです。
佐賀県は、吉野ヶ里遺跡でこれまで見つかっていない弥生時代後期、いわゆる邪馬台国の時代の有力者のものの可能性があるとしています。
6月5日から石蓋をあけ、副葬品などを1週間ほどかけて調べるということで、佐賀県の山口知事は「世紀の発見を期待する」と話していました。
5/29(月) 19:08配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e6e9a20939b8f67d4fe4a0042eb3cdfa748a0c
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00530401-fbsnews-000-2-thumb.jpg
★1:2023/05/29(月) 19:34:47.21
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685595727/ >>1
邪馬台国スレが伸びるのは
もしかして、ネトウヨ内の内ゲバなのかな?
神社本庁 vs 統一教会? >>4
邪馬台国があった時代、北部九州が栄えていたのが明らかだからだろ 日本の考古学は邪馬台国マネーに支えられてるからね
答えなんて出ちゃダメなんだよ
もしかしたらもう分かってる可能性すらあるから 最近誰がが作った芸術作品かもしれないぞ
カタカナでヒミコノハカなんて彫ってあるかも いったい何が出るのか、出ないのか・・・静かに結果を待ちましょう。
尚、評価が定まるまでは数年を要します、みなさん焦らないで。 中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我蝦夷宅を焼いてしまい、それまでの資料がなくなってるから中国の使者の書いた文なり文字が出てこないかな? この時代の伊都国すげーよ
邪馬台国の一大率
平原遺跡からは三種の神器、古代中国の高貴な人が身につける装飾品、真東に「日向峠」 >>9
お金じゃないんですよ
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 くだらん論争に費やすパワーの無駄さに気付かぬバカ学者 >>12
伊都国が邪馬台国の一大率だよ
魏志倭人伝にも北部九州のクニが出てるの知らんの? >>8
倭国大乱の時代ですから、必ずしも栄えていたとは限りません。
なんせ卑弥呼は魏に援軍を要請したとされていますので。 動画見たけど誰も卑弥呼だの邪馬台だのなんて言ってないんだが >>5
大昔に答えは出てましたよ
太宰府に残された文献「翰苑」より
広志(史書編纂:晋の郭義恭)に記載された邪馬臺国
広志いわく、~東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国・・・(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国とは福岡西区であり倭国の守衛国
又南至る邪馬臺国とは、
吉野ヶ里、朝倉、八女など有明海と取り巻く広範囲に存在した国々の総称です >>19
そもそも吉野ヶ里は邪馬台国より時代が古いから無関係と発見時から言われてなかったか >>21
これでいいじゃん
あと、巫女女王のいた山門も怪しいな 困るのは邪馬台馬鹿のせいで近畿一帯にあった本当の原初の国が見なかったことにされてることなんだよな
邪馬台国なんてどうでも良いんだよ
本当にあった古代国家の事を調べろよ >>17
魏志倭人伝に書いてある方向は間違ってたことにして
さらに距離も短く解釈したら九州になるんだって 卑弥呼さまのミイラと金印が出てくるはず
まあツタンカーメン王クラスだろ >>1
ヘリョンさん!
お願いしますよ!ヘリョンさん!何か一言だけでも >>18
魏に援軍を支援て、何か月かかるん?
日出処の天子から日入処の国へ…日が暮れるわ 近畿地方にも弥生時代後期の砦のような集落の遺跡が伊賀の名張に残っている
伊和大神の子伊勢津彦は伊勢の地名の由来となった人物で、伊賀に石の砦を作っていたがヤマト政権誕生時に敗れ風を起こし東国に去ったという伝承が残っている
伊勢の風の神さまはシナツ彦シナツ姫だったかな
神奈川にはシナガの地がある
その辺に逃れたのかな?
或いは諏訪か
シナガ鳥は猪名の枕詞だった
寒川神社の御神体は猪の頭だが、伊吹山の神さまも白い猪だったな >>25
邪馬台国に気を取られてヤマトの研究が白紙のままなのです このまま開帳されるまで突っ走るかw
>>14
伊都国=糸島ではないね
それなら船で直接乗り付ければ良い
東南陸行五百里なら海からそれだけ内地に行った所が伊都国 >>22
そうなのか、なら邪馬台とか関係無しに新しい知見が得られるといいね。楽しみだ >>18
普通に亡国の危機よね
そのまま滅び去ってたとしてもおかしくない 【日数】帯方郡 → 投馬国(対馬)→ 邪馬台国
【里数】帯方郡 → 省略 → 邪馬台国
投馬国トゥマと對馬国トィマは同じ国ってことで
里数と戸数は盛ってる前提でこれでいいことにしようぜ >>6
カルト宗教は誰もが知る通り、しつこいもんな。
カルト宗教は、自分の陣営の利益のために延々と論争を続ける。
カルト宗教 = アタマのおかしい利益追求集団。 関東と畿内の地名が重なるんだよな
河内の狭山池の中心、心には龍神が祀られている
池干しした時に見えるが、池中の祠の前には龍神淵と呼ばれる直径27m、深さ5mのすり鉢状の大きな窪みがあり、そこにご神体が祀られている
すり鉢状の窪みは埼玉の狭山にある七曲井の井戸とそっくり
水脈が深い地域の井戸の形だな
埼玉のサイだよな
奈良の三輪山にある大神神社の荒魂は狭井の神という井戸や薬、酒の神さま
何か関係があると思うんだよな
池心に宮があった欠史の天皇がいる
孝昭天皇で昭は日を招くという意味の漢字
孝が招いた日という意味かな
孝昭天皇の宮は掖上池心宮
掖は宮殿のわきにある小門の意味 、心は真ん中という意味の漢字
宮殿の脇にある小門の上にある池の真ん中の宮という意味か
誰の宮殿なんだろう、龍の女神?
狗奴国の卑弥弓呼は大神神社の狭井の神と孝昭天皇のモデルなんじゃないか >>1
【岸田悲報】真の御母様、文鮮明を否定へ・・教団ナンバー2を更迭「生命の源泉はお母様を通じて誕生する」 2023/05/24
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1684932465/
【悲報】統一教会さん、韓国本部の天福宮教会を売却 お布施不足が原因か 2023/04/26
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1682458441/
↑↑
統一教会、もうじき潰れるで。 >>6
以前から九州説派のウヨと近畿説派のウヨがやりあってる
前者はDNAから容姿まで貶してくるから始末におえないマジモンのゴミ
こんなんじゃ九州と思ってても近畿傾いちまうわ サイの神さまと言えば塞の神さまを思い出す
中国では塞と言えばとんがり帽子のサカを指すらしい
常陸風土記に山野や里にサカ鳥が住むとある
風土記が作られた奈良時代に常陸辺りにサカの人々が住んでいたのかな
千葉からはとんがり帽子を被った西洋人風の埴輪が見つかっている
サカ鳥のは朝越えに掛かる枕詞で、東に掛かる枕詞は鶏がなく
鶏冠は昔はサカと呼ばれていた 「○○里」を「○○り」と読むって、何か北朝鮮風だよな 狭山池の隣がオオタタネコがいた陶邑でここからは出雲の加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている
ちなみに奈良の上牧や和歌山の黒田からも加茂岩倉遺跡の銅鐸が見つかっている 本田望結、胸元ざっくりのシースルー姿が大反響「めちゃめちゃキレイ」「セクシーですね」「スタイルいいし大人色っぽい」
http://civuu.fmikg.org/0602/jxle/e1917e.html 前スレでアホみたいに罵り合ってた連中はどこ行ったんだ?
もう終わりかガス欠か?
まさかマジで壺神道関係だったのか 江戸時代まではみんな普通に邪馬台国=九州だと思ってたんだよね 漢風諡号を追っていくと
孝昭の次は孝安
安は新婦に関する漢字だな
卑弥呼の次の男王は孝の娘を新婦に迎え王についたのかな?
その次は孝霊
霊は巫女を意味する漢字だな、孝の巫女
台与のことか
争いを収めようと色々思案して王の人選をしていたのかもと想像が膨らむ
ちなみにトヨウケは摂津の飯盛山にいたが障ることがあり丹後に戻ったと摂津風土記にある
その次は孝元
元は、冠をつけた人を表す漢字でモト(根源)やオサ(長)の意味
孝のモト、孝の長という意味の諡号か 九州説の者だが
同じ九州説の人が期待しすぎなのが気になる。多分ガッカリするぞ
とりあえず金印は出ない。中国に返さなきゃいけないやつだから
それなりの身分の遺体ではあろうけど、、 邪馬台国は福岡のどこかなのは間違いないと思うけどさ
魏志倭人伝に出てくる地名や人名を当時の中国語で読まずに現代の音読みするのがよくわからん
なんで? 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 >>54
まったく逆だ
普通に大和の元祖だろうと思っていた
だが「これでは中国の属国だったことになる」と本居宣長ら国学者が、あれは九州の熊襲の女酋長が勝手に使者を送ったんだと言い出した 最近は畿内説のほうをウヨと決めつける知識のない人が多くて困る 縄文時代は東日本が人口多く船も交易もある。弥生もそうだろう。畿内にも人は住んでたし吉備は大きな勢力だった
地名>>43
もあっちこっちにコピーされている。地名だけなら東北説も出来る。
つまり全都道府県で何とでも言える。情報量が多い
そんな中で
>>15と>>21の2つを厳選して貼ってるこの人は頭良いと思う 九州人は朝鮮人の血が濃いから当たりだな
弥生人は目が細いし 孝元天皇の宮は『日本書紀』では軽境原宮(かるのさかいはらのみや)、『古事記』では軽之堺原宮
軽なんだよな
楠からできたのが軽船
孝徳天皇の諱も軽
延喜式には皇御孫之命は下津磐根に宮を建てたとある
道饗祭には湯津磐村という言葉が登場し、クナトという名前も登場する >>46
九州派が「近畿のDNAは朝鮮と同じ」って言ってくるの?
こういうの?
https://i.imgur.com/OgY5oDg.png
半島人固有DNAの分布 >>1
カルト宗教は、自分の陣営の利益のために延々と論争を続ける。
カルト宗教 = 文字通りカルトにとらわれてアタマが狂った利益追求集団。 池上曽根遺跡は二上山のサヌカイト製の石剣や紀ノ川産の石で作られた数千点の石包丁が見つかった石器製造の集落跡
巨大なヒスイの勾玉や弥生時代最大級の神殿、楠の巨大井戸、銅鐸、蛸壺、木製の男根なども見つかっている
池上曽根遺跡のある摩湯丘陵には湯が湧き栄えた集落の伝承が残っている
堺から和泉にかけての海岸線は井戸を掘ると塩湯が湧く
奈良時代や平安時代は都から人々が堺の塩湯に湯浴みに来ていたという記録が残っている
この風習は明治時代になっても続いていて、奈良から婦人たちが列をなして堺に湯浴みに通っていたという
湯津磐村はこの辺のことかもな
ちなみに風の神さま、スサノオのマユから生えてきたのが楠 河内には龍神が治水を行なった伝承が残っている
石切神社の上之宮には黒龍が祀られていて、トミの一族の伝承が残っている
様々な集団が協力して国作りが行われたのかもな
むかしむかしそのまた、むかしの事だそうです。大阪平野は河内湖といって陸の少ない所だったそうです。そこで大和の龍が河内湖の中を駆けめぐって、湖底を交ぜて低い所は川、高い所は陸となって、河内湖がなくなったそうです。しかし人間が住むにはまだ水面部が多く、動植物が生活するには不便な状況であったようでしたが、年月と共に川は一層深くなり、陸は一層高くなって、湿地帯ながらも人間が住めるようになったそうです。
やがて年月は人間が住みやすい地形へと、どんどんと出来上がり、広い広い平野となって、動植物が生活を始めると、人間も定住し村落が出来ていったそうです。
こうした変動をご覧になった龍神様は、大和から柏原まで降りてこられて、大和発祥の水を川を伝って柏原へ集め、ここから大阪平野へ八つ手の葉のように支線川を広げて、淀川へ流れ込むように、しっかりと整理なさったそうです。そして、龍神様は、そのまま柏原から堺へ向かって走られたそうです。この時まだ川にはなっていませんでしたが、龍神様はこうして柏原から堺へ向かって低地をおつくりになり、新しい川の構想をお考えになっていらっしゃったそうです。 東北には龍の黒神の伝承が残っているね
三内丸山遺跡は農耕の跡やたくさんのヒスイが見つかった、遼河文明の影響が見られる集落跡だな
遼河文明は龍トーテム
三内丸山遺跡の人々が数千年後に河内の治水を行なったのかもと思うとロマンがあるよね めんどくさいから、九州から近畿まで邪馬台国にしとけば良いのに 銅鏡や古墳など考古物を素直に見ると
邪馬台国は畿内 >>33
お前考古学者だろ
暴きたい墓がるんだな
仁徳天皇陵とかよ! >>43
埼玉はさきたまが変化したのかと思ってたが違うの? 多摩丘陵は昔は横山と呼ばれていた
横山の枕詞はマユ引きだな。多摩丘陵にはユの木にまつわる話も残っている
池上曽根遺跡のある摩湯と何か関係があるのかもな
関東の海に入った、或いは捨てられたという伝承がある弟橘姫は堺にある住吉大社の宿院頓宮に祀られているんだよな
住吉大社の夏祭りで宿院頓宮に渡る神輿を海で洗う湯戻り神事は興味深い
神輿を洗った水は池上曽根遺跡のある和泉地方の海岸に流れていくという伝承もある >>75
古墳が出た→卑弥呼のものにしよう
記紀に記述がない→皇女の誰かにしよう
桃の種が出た→卑弥呼が食べてたことにしよう
(´・ω・`)畿内説は因果関係が全部逆なんだよ 残念だけど部族長程度の墓で文字も重要な品も出てこないだろう
さっさと古墳暴け
外人が夜な夜な盗掘するぞ >>84
九州派はDNAに関してどういう主張をしているのだろうか? 鬼界カルデラ爆発があったとき縄文人たちがずいぶんと世界にばらまかれた
空白地帯になった西日本に後から戻ってきたやつらとか、どうだったかなあ 聞く相手を間違えるやつって頭おかしいの?
> 九州派はDNAに関してどういう主張をしているのだろうか? >>86
邪馬台国は、その風俗からして縄文系
ヤマト政権は、渡来人と融合した弥生系
そのとおりのマップじゃないか >>75
魏志倭人伝の戸数を素直に信じると、畿内説でないと当時の人口推計的に合わない
弥生時代後期の筑前、筑後、肥前、壱岐、対馬、豊前、豊後で合計4万人
魏志倭人伝が嘘を書いてある前提で考えないと九州説ではあわない 少し前に本を出版した関川尚功氏は更に高く評価される事だろう
今後はああいった見解が主流になるだろう >>75
全然素直に見てないだろ
それが、ヤマト政権の遺跡じゃなく、邪馬台国のものであるという根拠は何ひとつないのだから 人口ガー!言うのはトンキン民やカントン民だけかと思ってたら近畿民もその程度だったでごわすか 国の単位を律令国レベルまで引き上げるなら、魏志倭人伝の戸数であう
郡や里の単位の小集団と見なすと、九州説でも収まる
>>82
邪馬台国の女王は部族長レベルでないと、九州説は成立しない
強大な邪馬台国像は九州説にはあってないって事を理解するべき >>97
歴史人口学の計算方式なんて、だいたい世界中で使われるもの
遺跡の規模、当時の遺骨、遺跡間の距離で一定面積の人口を推計する
この数字の振れ幅は2倍までと言うのが通説
魏志倭人伝に出てくる17万戸=85万人なんて数字は、当時の日本の総人口すら突破するヤバい数字だとわかってなさすぎる https://ebc999.blog.ss-blog.jp/2022-07-24
邪馬壹国は原始的なシャーマン的社会というイメージを持っている人が多いと思いますが、邪馬壹国を中心にした倭国は、漢王朝の文化や技術を吸収し、水運や道路の整備を行い、中央集権化をかなり進めた、人口も多い、東夷の中で最強国です ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています