【佐賀】「邪馬台国」ひも解く手掛かり!? 吉野ヶ里遺跡で新発見の石棺話題に――関連株探る ★3 [樽悶★]
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佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡(吉野ケ里町、神埼市)」で新たに出土した石棺が、5日に開けられる。弥生時代の日本列島に存在したとされる邪馬台国の謎が解き明かされるきっかけになる可能性があるとして・・・
2023/6/1 12:38
https://kabushiki.jp/news/589754
★1:2023/06/03(土) 12:10:06.13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685780848/
関連スレ
【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★10
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685697010/ よ う こ そ 邪 馬 臺 国 へ
翰苑(第30巻のみ大宰府天満宮に残る:唐の張楚金の編纂)
が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されている。
邪は伊都に届き、傍らは斯馬國に連なる。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国。又南、至る邪馬嘉(臺)国。
中国の史書において、連続した行程の場合は「又~至る」と記述される
※伊都国:福岡県糸島市,福岡市西区あたり
■アクセス
伊都国の南 徒歩すぐ どーでもいー
生きていく上で1ミリもかんけーねー
きょーみねー 坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」
じゃあどこやねん!!!!!
纏向遺跡じゃないことは分かった!!! じゃあどこやねん!!!
場所を言えや!!!
>>5
なるほど。伊都国のすぐ南かサンクス >>2
隋書倭国伝との記述の相違はどうなんだろうね?
名前が日本に伝わってるものとは全然違うらしいけど
https://michikusa.biz/zuisyo-wakokuden/
現代語訳
西暦600年、倭王の姓はアメ、名は多利思比孤が、大王と名乗り、使者を文帝のもとに派遣してきた。文帝は役人に命じ、日本の風俗について質問させた。
「開皇二十年」とは西暦600年のことです。第1回・遣隋使の使者は誰なのか分かっていません。
ただし現代語訳からも分かる通り、第1回・遣隋使のときの中国(隋)の皇帝は文帝です。
また、倭王の名前は多利思比孤とありますが、これは男性名です。しかし当時の天皇は推古天皇(在位:592年~628年)で、女性です。
なので、この「多利思比孤」が誰を指しているのかもよく分かっていません。
ちなみに遣隋使は全て推古天皇の時代に行われています。
また、推古天皇の時代の権力者は聖徳太子と蘇我馬子です。
第2回・遣隋使に関する記述
大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。
現代語訳 西暦607年、倭の王、多利思比孤が使者を派遣し、朝貢してきた。
今回も倭王は多利思比孤という男性名ですが、実際は推古天皇(女性)の時代の話です。
この607年の第2回・遣隋使が、有名な小野妹子の遣隋使です。 廣志の「伊都国からまた南に行くと邪馬台国」は非常に重要な意味を持つ。
廣志は魏志倭人伝より先に郭義恭センパイが書いている。
もし、これがデマや嘘であるなら、何の為にそんなことをするのか? 邪馬台国 (奈良県) 倭国の支配者
奴国 (福岡県)
伊都国 (福岡県糸島郡)
狗奴国 (熊本県)
邪馬台国(奈良県)の女王・卑弥呼 (日巫女)による鬼道(祈祷)
普通にこうだろうな
狗奴国(熊本県)から魏の役人が常駐してる伊都国(福岡県糸島郡)に
攻めてきたから、倭国は魏に援軍を頼んで承認された。 SAGA さが SAGA さが
卑弥呼もさが 公表してねぇ
SAGA さが SAGA さが
江頭もさが 公表するな
SAGA SAGA OH OH 佐賀県
SAGA さが これが 悲しい性 旧石器時代は氷河期で瀬戸内海は陸地であり淡路島は四国と陸続きでまだ島ではなかった
五色台や二上山でサヌカイトの石器が作られていた時代、天地未明の時代(天地未明の時代から神がいたと石見神楽の切目にある)である
その後氷河期が終わり海面が上昇し淡路島が誕生する
氷河期が終わった縄文時代草創期には早くもユーラシア大陸の影響が見られるようになり勾玉が誕生するのはこの時期である
旧石器時代から日本列島にいた集団と氷河期が終わりユーラシア大陸からやってきた集団が出会った瞬間かもな
国生み神話で淡路島より先に1番最初に誕生するのは葦船に乗ったひるこである
石見神楽の切目は興味深い
切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」 畿内説(特に奈良説)は文献からの読み解きが拠り所
物的証拠があまりにも貧弱すぎる >>13
廣志は1次史料じゃないんだから、1次史料みたいに扱うのやめなよ 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。
イベント内容神楽の里、由布市庄内町では5~10月の第3土曜の午後6時から庄内の神楽座が持ちまわりで月1回の定期公演を行います。
【出演座】
有志会
【入場料金】
500円
開催場所
庄内総合運動公園 神楽殿(雨天時:庄内公民館) 考古学ちゅうのは地道な学問なので、石棺一つ開けてもほとんど発見は無いかも知れない。
まあでも一発逆転もあり得るから面白いんだよ。
まあでも大半は地味なデータ蓄積作業。 >>1
呉と結びついてた奴国
魏が帯方郡を手中に収めたことで、呉の敵国である魏と同盟しようとした、奴国の敵国である狗奴国
邪馬台国九州説を主張するアホな九州説カルト信者にはこのパワーバランスが理解できないんだよなw
どう考えても帯方郡に赴いたのは、奴国ではなくて狗奴国からの使者なわけで <魏志倭人伝>
中国側の認識と倭人が訪れた際の記録をもとに後世の陳寿が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
陳寿は南国をイメージしているので記録に記された邪馬台国の方角は南で間違いないでしょう。
久しぶりに訪れた倭人に女王国までの行程を確認したところ、
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
行程と位置関係:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png
これを陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した可能性があります。
その他の記述を見ると、
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
なお、女王国の西側の国については一切触れられていないことから、おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかります。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている※魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている 堺には面白いえべっさんの伝承が残っている
むかぁし、むかぁしのこと、堺では、まだ人間は住んでなくて神様ばかりが住んでおられましたのやと。その時代、堺は浜のえべっさんのあたりまで海であったそうですが、ある日のこと、この浜に葦の葉で編んだ舟に乗って目も鼻もまだ出来ていない、未熟児の神様がこの浜にたどり着かれたそうです。そしてこの浜でどのような修行をなさったのか、誰も知りませんがこの地でえべっさんと言う立派な神様におなりになったそうです。神様になられるまでの年月はわかりませんが、それは長い年月だったと思います。長い長い年月の後、この地には神様だけではなく人間も、動物、魚、鳥と住むようになったそうです。
このようにして、堺は神様を中心にりっぱな村落が築かれたのだそうです。こうして出来た村落に流れる、石津川上流へ向かった所にもう一柱の天地を守るえべっさんが五色に光る石を持って御降臨なさったそうです。こうして、浜と陸の神様に守られた堺の地上には、木々が生え、草花が咲き、鳥は舞い、動物は駆けめぐり、海にはたくさんの魚が泳ぎ、それは素晴らしい楽園であったと言われております。 このようにすばらしい楽園をお造りになった神々はやがて天へと住まいを移されたそうです。 阿呆な日本の周りには疚しい疾しい馬鹿馬鹿しい大国だらけだな!wwwwww >>14
狗奴国は邪馬台国の南にある
奈良の南は和歌山県 続き
ところが、神々によって満たされた地上で万物が平和に暮らしているというのに、神様と同じ姿をした人間だけが、欲という感情を持つようになったそうです。この欲という感情は喜びや悲しみの感情を生みふくらませて、どんどんそうした感情の種類を増やして、戦いの感情や支配する感情など、色々な感情が広がっていったそうです。こうした中で浜のえべっさんは、どんなときでもどんな願いも必ず聞いて下さるのだそうです。
村落の人達はそんな浜のえべっさんを慕いあがめて、お願いへと鳥居をくぐり、いつの時代においても変わらず手を合わせているそうです。また五色に光る陸のえべっさんの御陰で、いかなる転変地変が起きようとも、それが自然によって起きたものであれ、人間のごうがなしたことであれ、へだてなくこの地で生きる人々に再生の力を授けてくださるのだそうです。それから、同じえべっさんでも、浜のえべっさんへお願いする時は、神社の後ろ側から拝むのだそうです。ここから拝むと、どのような願いでも叶えてもらえるそうです。浜のえべっさんは耳が遠いので、前から拝んでは聞こえないのだそうです。 歴史文化財でもあれば人気観光地になれるかもしれんから必死なんだろうなー、としか思えない マムコを箸で突かれて箸墓古墳に葬られたんじゃないの? 関連スレ
ご当地ナンバー「飛鳥」ぶっちぎり普及率1位の6・29% 2位「富士山」 [powder snow★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685796359/ >>1
ウクライナに領土放棄を迫っていた!!──米紙報道 >>26
漢の時代には100国を支配してた奴国が倭国大乱で分裂してしまって、
帯方郡にやって来たのは30国しかを支配出来てない弱小勢力側だとかいてあるだろーに
それも理解できてないアホなの?w >>4
八女だよ
邪馬台国は「八女台国」
■■■ 日本史板での結論:邪馬台国の場所 ■■■
tps://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
tps://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg >>33
モモソ姫(卑弥呼)がマンコを箸で突かれて死んだから。
当時の倭国に箸を使う文化はないから
箸は中国の暗喩で、
おそらく倭国にやってき魏の軍人の張政に殺された。
中国人ってマンコに刃物突き刺して殺しそうだし。 >>41
九州説を信じてるアホなカルト信者が真実を理解したくない気持ちはわかるけどなw >>39
こういう馬鹿バカしい事を最もらしく述べ立てるのが畿内派。 >>42
奴国が100国を支配してるって翻訳してるのお前だけな 畿内説も>>23みたいな行程と位置関係がわかる図をアップしろよ >>41
そもそも、呉と交易してた側が、呉の敵国である魏と交易しようと思うなんて、アホ過ぎだろw >>40
〇〇じゅうなんだよなw
60.70,80,90 >>48
奴国が100国を支配してるって翻訳してるのはお前だけな アンケート
畿内説マンは事実をねじ曲げて一体何を守りたいの? >>12
推古天皇が嘘なのか
嘘のタリシヒコを名乗ったのか
どっちだろな >>49
70→なだんじゅう七?
80→やくんじゅう八?
開音節で日本人とっつきやすい >>5
わろた
伊都国のそばだな
で、卑弥呼の墓も伊都国にあるんじゃね? >>50
漢の時代には100国を支配してたけど、それが倭国大乱が起きて、帯方郡にらさやって来たのは30国しか支配できてない側だと書いてあるのに
バカなの?w >>56
そうだよ
畿内説は廣志を完全にスルーしている
廣志を書いた郭義恭センパイは、陳寿の魏志倭人伝より先に書かれてる。
わざわざ嘘を書く理由もない >>57
漢書地理史にそもそも倭国大乱なんて出てこない
倭国は100国余りに分かれてるとしか書いてない パンドラの箱よ。決して開けちゃあいけない
私は警告したからね >>57
そんなものどこにも書かれてない
脳内ソースか? >>49
なんで使わないんだろうなー
ᠨᠵᡠ ᡠᡴ᠋ᠰᡠᡵᠠとか
ᠵᡠᡧᡝᠨ語とか
日本人には中国語より喋りやすいと思う 委奴国は猪名県だった摂津だよ
猪名川を中心に弥生時代後期まで栄えていた地域で、廣田神社の神域であった六甲の山々には縄文時代のものも含めて無数の磐座がある
漢委奴国王の金印を持っていたのは五色の玉を持つ石神、五色に光り輝く石を持つえべっさんでしょう
五色に光り輝く石を持つえべっさんは堺に降臨し五色に光り輝く石を埋め磐山を作ったという伝承が残っている
大阪城の地にあった石山という古墳だろう
黒田官兵衛は大阪城の普請を担当していたので金印を掘り当てて後に福岡まで持っていったんじゃないか
五色に光り輝く石を掘ろうとしたら目が潰れるといういい伝えも残っている >>57
奴国が百国を「支配」してたって記述はどこにある? >>65
しかし、なんで女なんだろうなー
やべえな 中国魏晋南北朝史学会の陳教授によると魏志倭人伝には複数の情報が混ざっているという……
【里数】帯方郡 → 省 略 → 邪馬台国
【日数】帯方郡 → 投馬国 → 邪馬台国
二つの別々の資料を繋げて情報を水増ししてしまったのだろうな
だから先行史料と違うことになっているのだろう 天皇 お遊ばれたたい すみません先祖が九州なものでたまにお国言葉が
国民 「」 ビルドアップ!
バンバンバンバン
ビルドアップ!
バンバンバンバン
バラバラババンバン
ババンババンバンバンバンババンバン >>2
歴史を記録する趣味は中国とローマしかなかった
だからフランスもドイツもイギリスも古代はローマの記録頼み 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。
イベント内容神楽の里、由布市庄内町では5~10月の第3土曜の午後6時から庄内の神楽座が持ちまわりで月1回の定期公演を行います。
【出演座】
有志会
【入場料金】
500円
開催場所
庄内総合運動公園 神楽殿(雨天時:庄内公民館) 邪馬台国は纏向遺跡のある大和盆地、委奴国は摂津、邪馬台国の南の狗奴国は纏向遺跡の南大和川の南に広がる河内でしょう
狗奴国の官は河内彦だな
邪馬台国は九州でもなく畿内でもなく大和でしょうね 正当性を示すために記紀に初代天皇が日向出身であることをアピールして、三種の神器を大事にしてんだろ
ってことは
ガチな正統派は滅ぼされたから、チャイナに正当派の子孫だと説明したんだと予想
邪馬台国の一大率だった伊都国に「日向」峠があり、すぐそばの平原遺跡を始め周辺の遺跡から三種の神器が出土してんのは偶然じゃないはず 邪馬台国の場所は間違いなく九州上部
卑弥呼のいた場所は俺の通ったsmクラブ >>53
推古天皇は実在しない。
押坂彦 =聖徳太子 = アマタシヒコ
『隋書』
開皇20年(西暦600年)、俀王あり、姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)、阿輩雞弥(オオキミ)と号す。
王の妻は雞弥(キミ)と号す。後宮に女六七百人あり。太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす。
大業三年,其の王多利思北孤,使いを遣わして朝貢す。使者曰く『海西の菩薩天子重ねて仏法を興すと聞く。故に遣わして朝拝せしめ,兼ねて沙門数十人来りて仏法を学ぶ』
阿毎多利思北孤
・姓は阿毎(アマ)、字は多利思北孤(タリシヒコ)
・阿輩雞弥(オオキミ)と号す
・太子を名づけて利歌弥多弗利(ワカミタフリ)となす
押坂彦人大兄皇子
・太子彦(タイシヒコ)と呼ばれる。
・大兄君(オオエキミ)と呼ばれる。
・子供(ワカ)の名前は田村(タフリ)である。
※日本書紀では「村」を「フリ」と読む
倭王・阿毎多利思北孤と押坂彦人大兄皇子が同一人物であることが『隋書』の記述からわかる。
その後、押坂彦の子孫が天皇になってるし、押坂彦 = アマタラシヒコ >>68
漢の時代には、倭国は100国を支配してたって書いてあるだろ
それが、倭国大乱前の奴国なんだよなぁw 後漢から金印を貰って180年間ぐらい、代々倭国王だった倭奴國
遺跡も出土品もたくさんあるだろう
後漢を滅ぼした魏から金印を貰って、たった45年間ぐらいだけ倭国王だった邪馬台国
遺跡も出土品もほとんど残っていない >>67
何言ってんだコイツ
>>84
ハイハイお前の妄想でしかない訳ね
「倭国」が100国を「支配した」なんていう記述もないからな サガフロンティア無印で三種の神器の天叢雲剣はめちゃくちゃ強くてテンションあがったなぁ!毎回洞窟に天叢雲剣をゲしにいってたわ 肥前国風土記は残っている
吉野ヶ里遺跡のある神埼郡についても書かれている
昔、この郡には荒ぶる神がおり、道を行き交う人々を襲ったので多くの死者が出た。纏向日代宮御宇天皇が巡狩した時に この神は平和になったので、それからは災禍が起こることは無くなった。これによって神埼郡と呼ばれている。 倭国大乱前に100国を支配してた倭国が倭国大乱で分裂してしまって、
帯方郡にやって来たのは30国しか支配出来てなかった側だって、はっきり書いてあるのにw その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
この
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
が、いよいよ確認出来る >>43
馬鹿馬鹿しくないだろ
マンコに刃物を突き刺して卑弥呼を殺した魏の張政が
倭王を決めようとしたら
さすがに反発が凄くて、争いが起こって
台与を女王にすることで和平になったんだよ >>12
第2回というのはあくまで中国側の記録
日本の記録では607年小野妹子が最初の遣隋使で、600年に使者を送ったなどどこにも書いてない 陳寿は魏志倭人伝を作るにあたり、明らかに郭義恭センパイの廣志をパクってる
・邪馬台国に至るの後に、女国以北はその詳細を記載できるとある。(魏志倭人伝では女国が女王国になってるがほぼパクリ)
・邪馬台国の次に斯馬国(魏志倭人伝でも邪馬台国の次に斯馬国で一致)
・東南陸行五百里到伊都國(廣志と魏志倭人伝で全く一字違わず完全一致)
郭義恭が嘘を書く理由は全くないので、邪馬台国はやはり伊都国の南にあったのだろう 248 日本@名無史さん[] 2023/06/03(土) 22:47:57.63 ID:
>>247
<魏志倭人伝>
中国側の認識と倭人が訪れた際の記録をもとに後世の陳寿が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
陳寿は南国をイメージしているので記録に記された邪馬台国の方角は南で間違いないでしょう。
久しぶりに訪れた倭人に女王国までの行程を確認したところ、
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
行程と位置関係:https://i.imgur.com/x9GfeDT.png
これを陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した可能性があります。
その他の記述を見ると、
・女王国の東の海を渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
なお、女王国の西側の国については一切触れられていないことから、おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかります。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている※魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>81
三種の神器がセットで出土しちゃったからね >>94
卑弥呼や邪馬台国のことは、わずか14年前のことだから、そんな必要無い >>94
しつこいな
廣志は1次史料じゃないから正確な情報じゃないよ
なんで正確な情報ってことにしてるんだ >>84
だから、どこに書いてるんだ?
あまりにもレベルが低すぎる あ~ち~め―、お~お~お―
あめつちに きゆらかすは さゆらかす かみわかも かみこそは きねきこう きゆらならは ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています