【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★10 [樽悶★]
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表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00010005-rkbv-001-3-view.jpg
佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡」にある「謎のエリア」で大きな発見です。邪馬台国時代のものとみられる石棺墓が新たに見つかりました。
■「線刻」と呼ばれる多数の記号
吉野ヶ里遺跡で先月末に見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの「石棺墓」です。吉野ヶ里遺跡には長年、神社があり発掘調査ができていなかったいわゆる「謎のエリア」がありました。石棺墓は、去年5月に始まったこのエリアの調査の一環で見つかったもので、表面の石に「線刻」と呼ばれる多数の記号があります。一般の石棺墓より規模が大きく、見晴らしの良い場所にあります。
■来月に石棺墓の入り口を開ける
邪馬台国があったとされる時期と重なっていることから、王など有力者の墓の可能性もあります。佐賀県は、来月5日にこの石棺墓の入り口を開け、1週間ほどかけて副葬品などを調べる方針です。
5/29(月) 15:27配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b1ecc567bd0e979d7100aa006959d899e4beb142
弥生時代の大規模な環ごう集落の跡が残る佐賀県の吉野ヶ里遺跡で、弥生時代後期のものとみられる墓の一部が出土し、専門家は「かなり身分が高い人の墓の可能性が高く、さらに調べれば歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
吉野ヶ里遺跡では、歴代の王の墓とされる「北墳丘墓」のすぐ西側にあり、貴重な発見があるのではと注目されながら手付かずだった「謎のエリア」と呼ばれる場所で去年から、10年ぶりとなる大規模な発掘調査が行われています。
この調査で先月、4枚の平らな石が並んだ状態で見つかりました。
4枚を合わせると全長は2メートルほどになり、調査を行っている佐賀県によりますと、墓の「ふた」だということです。
弥生時代後期、1世紀から3世紀ごろの有力者の墓のふたとみられ、表面には「×」のように見える線が交差した記号のようなものが無数に刻まれていて、埋葬した際に何かしらの意図を持ってつけられたとみられています。
吉野ヶ里遺跡では、これまで弥生時代中期の王の墓が見つかっていますが、邪馬台国が存在したとされる弥生時代後期の有力者の墓だとすれば、初めてとなります。
吉野ヶ里遺跡の発掘に長年携わってきた考古学者の高島忠平さんは「『謎のエリア』の中でも最も高く、見晴らしのよい場所にあり、かなり身分が高い人の墓の可能性が高い」と指摘したうえで「さらに調べれば、当時の政治のあり方を読み取るうえで歴史的に大きな意味を持つ発掘になる可能性がある」と話しています。
佐賀県は今後、墓の中を調査することにしていて、副葬品などが見つかるかが注目されます。
2023年5月29日 5時40分
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230529/k10014081181000.html
世紀の発見となるのでしょうか。佐賀県は5月29日、吉野ヶ里遺跡で邪馬台国時代のものの可能性がある石棺墓が見つかったと発表しました。
「邪馬台国時代の可能性が高い。いま、我々は非常に興奮してときめていて、これからどうなんだろうという気持ちが高ぶっています。」(佐賀県・山口知事)
吉野ヶ里遺跡で新たに見つかったのは、縦1.7メートル、横3.2メートルの石棺墓です。去年5月から発掘が始まった、「謎のエリア」と呼ばれる場所で見つかりました。
見晴らしの良い場所に単独で存在し、線刻といわれる記号が刻まれているなど、これまでにない墳墓だということです。
佐賀県は、吉野ヶ里遺跡でこれまで見つかっていない弥生時代後期、いわゆる邪馬台国の時代の有力者のものの可能性があるとしています。
6月5日から石蓋をあけ、副葬品などを1週間ほどかけて調べるということで、佐賀県の山口知事は「世紀の発見を期待する」と話していました。
5/29(月) 19:08配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b5e6e9a20939b8f67d4fe4a0042eb3cdfa748a0c
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230529-00530401-fbsnews-000-2-thumb.jpg
★1:2023/05/29(月) 19:34:47.21
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685628876/ 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 >>5
有ったよ
記紀以前の書物を焚書し、漢字伝来以前の文化をなかった事にしてしまったのが天武天皇 キリスト教徒が創造論やマリアの処女受胎を信じるのは自由だけど
それを学問的な事実であるかのように扱い
他人に信じるよう強制するのは間違いだし許されない。
皇室の万世一系や神武天皇即位紀元前600年を信じるのは自由だけど
それを学問的な事実であるかのように扱い
他人に信じるよう強制するのは間違いだし許されない。 >>1
日本の文献には一切出て来ないけどそもそも実在したんですかね? >>12
九州説工作員が大挙して嘘ばかり書き連ねてるんだよ
これはいわば呪いの儀式 >>15
しかし橿原遺跡の年代があってたり、河内湾の状態があってたり、奈良時代にも捏造が不可能なことができてるのも事実 >>15
事実だったらどうするの
間違いとは決めつけられない ハニワ原人復活の日も近い
それはすなわちおめえら山戸人の全滅日だ
ククク・・・ 6月5日に開けるんだな
まぁいつもの鏡片とかだろうな >26
石棺にバツ印の事が書かれてるそうだね
出雲の青銅器にもバツ印が刻まれたりするがまぁ無関係だろうな
〇×でもしてたか 過去スレ読んでそれでも畿内説を信じる人はグレーゾーン >>1
🇻🇳ベトナムの二字熟語の方が正しいのか?? 佐賀は観光資源を活かす能力が低いから持ち腐れになるな >>21
神武天皇127歳
孝昭天皇137歳
孝霊天皇128歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
あなたはこれが史実だと思う? >>17
書いてあることがめちゃくちゃだから
史料として信用するレベルにない 日本は若狭湾から流入してきた渡来人によって作られたんだよ
DNAの分布で科学的に証明されている >>34
記紀に欠損がある(書かれてない天皇がいる。)もしくは禅定がすぐに行われて居らず、空位期間がある。またはそのどちらも。
橿原遺跡の年代の事実を無視しなければ、そのどちらかと考えればいい。
橿原遺跡を無視したら、前に詰める説も取れるだろうけどな >>27
まーじで
また欠片や空の棺が出土しただけかと思ったら何か言ってるんだ
まあ魏志倭人伝の記述を解読すると卑弥呼邪馬台国が九州北部に
あった事は濃厚に思えるが、かならずしも佐賀吉野ケ里遺跡だとは思って居いないけど
仮に邪馬台国で無い場合も、吉野ケ里遺跡に関して重要なリアル史跡情報が齎されるのは
間違いないだろうね。おらまじでワクワクすっどw
ま卑弥呼や邪馬台国の歴史が今後次第に確かなものとなっていく場合も、日本の
昔の史実歴史は既に多く判明しており、日本最古の都市王朝国家なども地域は存在が
既に既知なのでそう天地が大きくひっくり返るような大発見にはならないが、歴史史実検証
に伴うロマンや好奇心をそそられるのは確か >>34
纏向の出土状況が崇神の四道将軍の派遣範囲と同じだったり
記紀で畿内勢力が九州勢力を飲み込んだ話は倭王武も同じようなこと言ってたし
何かしら元ネタになった逸話はあるのかもね まあ九州説の人が期待するのは勝手だけど、地方豪族の墓から何が出土しようと
畿内説は微動だにしない アクセス面で優遇されてるから
名所あっても何もしない佐賀
アクセス面がチンカスだから
どげんかしようとしたけどどげんもならんかった宮崎 大和王室内には天照大神と倭大国魂神が奉られていて倭大国魂は大和の地主神で大国主の荒魂
やはり大和朝廷は出雲系 >>43
そもそも提唱者が九州説に乗り換えてるだろ・・・ 卑弥呼は出雲と関係ないからやはり邪馬台国は九州でしょう
土蜘蛛の国だよ よくある間違い
卑弥呼は邪馬台国の女王
魏志には倭国はもとは男を王にしていたが(倭国を構成する諸国が)互いに攻伐するこが何年も続いたので(倭国を構成する諸国が)共に卑弥呼を立てて王としたとある
卑弥呼は邪馬台国の女王ではなく倭国の女王だった
帯方郡から1万2千里離れたところに邪馬台国がある
魏志には帯方郡から1万2千里離れたところに女王国があるとしか書いていない >>32
発音がてんで一致しない
🇻🇳ベトナム語とは一致してる >>1
はぁ
よく調べたらクソジャップが韓国に先進文明を乞食していた事実が改めて浮き彫りになるだけだろうなwww >>46
米大陸に行ったのは上が繋がってた頃
そっから北米組、日本組に分かれたってのが定説
さすがに当時の船で米大陸は厳しい
魏志倭人伝の歯黒とか裸は恐らくインドネシアやフィリピン?
しかし太平洋に大陸があったとしたら?
後は自分で考えろボケ >>55
その時代の半島人と現代の半島人はあんまり関係ないけどな >>55
そういう書き方やめろやカスレイシストがよ
変なネトウヨ故意に呼び込んで何企んでるんだ?プーアノンさんよ
バレてんだよ 梯子を外された畿内説信者の断末魔の叫びが見れるスレはココですか? >>59
俺含めアホみたいに連投する奴が多いから
そんだけ話題性がまだまだデカいのが邪馬台国論争
お前も参加しろよ 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 もうこれ病気だろw
九州土人はコンプレックスこじらせすぎ
だからお前ら卑しい言われるねんw >>62
九州説もだよ。
田川説、博多説、宮崎説とかいろいろあるだな。 >>34
旧約聖書の登場人物も異常に長生き。ある時期に老化ウイルスが人類に広まり、
短命になっただけで、それ以前の人間はもっと長く生きたのかも 機内説には物証が無い。
倭人の項に書かれている産品は機内説では生産されていない。 福岡県遠賀川河口域の山鹿貝塚で3500年前の埋葬人骨が20体以上出土しており、
緑色大珠を持った2号・3号・4号の女性人骨は呪術師兼女族長であったとしている。
サメの歯のイヤリング、翡翠勾玉、貝の腕輪十数個、垂れ飾り、足飾りを全身に付けていた。
縄文人の女性が装身具を多数身に着けて埋葬された事例は全国でも極めて少なく、縄文社会の構造について一考の余地を与えている。
https://i.imgur.com/3zq0XJZ.png
女性酋長シャーマンが多いのは北部九州の伝統 三国志魏書東夷伝倭人条(通称魏志倭人伝)に、女王に百枚の銅鏡を送ったとあります。
銅鏡は日本各地から多数出土していますが、その中で魏の年号が刻印された紀年銘鏡は10枚
うち二枚は実在しない「景初四年」の銘が有ります。
九州では今のところ景初四年の銘が有る鏡が一面出ているだけですが、
今回発掘される石棺墓から、魏と交流を示す出土物は出てくるのでしょうか?
結果が楽しみですが、調査はくれぐれも慎重に行っていただきたい。 >>34
史実でないとも言えないよ
古代長寿伝説は色んなとこにあるから 狗奴国みたいなライバル国家あったじゃん
そこじゃね 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 >>40
神社の下だからね
それなりに特別な人間の墓なのは間違いない
卑弥呼の時代よりも大分古い可能性が濃厚らしいが、そんなの関係なしに楽しみだよ
全く新しい古代日本の姿が浮かび上がって来るかもしれないし >>80
ヒント ヤンキーイキってるやつが多い、猛々しい男が多い、亭主関白がなおも受け継がれている、美人が多い、女を使って商売するのに長けている >>52
南至邪馬壹國 女王之所都
間違ってるのはそっちでは? >>72
学会とつるんで畿内説推しやってたメディアがダンマリな状況
お察し下さい >>79
信じるか信じないかの問題ならそれは宗教であって学問ではない 深く考えなくてもわかるでしょ
猪名県の摂津が委奴国、大和が邪馬台国、邪馬台国の南にある狗奴国は大和川の南の河内で狗奴国の官は河内彦 >>84
それ女王国の首都って意味や
アメリカでいうワシントンやね >>86
科学でもわからないものもあると量子論で結論が出てるよ
科学的にも宗教を否定する根拠はないね 少子化で今の日本が滅ぶって時に
邪馬台国とかクソどーでもいいわ 卑弥呼って単に占い当たる婆さんなだけで選ばれた人でしょ
九州の王族とも関係ないただの村人かも
弟や親族は酋長になったことで恩恵受けたのだろうけど >>85
学会はもろ畿内押しだがメディアはそうでもない
単に話題性がないからでしょうな >>91
それを理由に>>34を本気で信じてるの? >>92
少子化で滅ぶの?何で?
バングラディシュみたいなのが理想なの?
変わってるねw >>92
産めや増やせやで1億2千万まで来たけどさ
お前は戦争でもするつもりな訳? >>89
当時の国の概念を調べておくれ
国の中に首都はない
今の国とはまるで違う >>95
科学的にはなかったとは言えない
まあ最も神武天皇などの年齢は倍数表記とは言われてるけど ハワイは年々日本に近づいており、最終的には日本の手前で沈む
https://www.lettuceclub.net/news/article/1018208/
ハワイは年に6cmから9cmほどの割合で少しずつ北西側に移動している
つまり、ハワイは日本に年々近づいているのだ
ハワイ島の中心からカウアイ島を経てミドウェーまでをひとつの線で結ぶと、
その延長線上に日本があります。
1年あたり8センチメートルで計算すると、8000万年後には日本とハワイがくっつくことになる >>85
畿内説でほぼ決まりって状態なのに
もしろメディアは数少ない九州説の学者に意見を聞きに行ってただろ >>34
魏志倭人伝にあるんですが。
日本の人々は長寿で、百年、あるいは八、九十年を生きると。 >>99
概念もなにも
史料皆無なんだから何もわからんけど 昔は豪族の支配してる範囲が国なんじゃないの?知らないけど
無茶苦茶国あったと思うよ >>92
壮大な釣りみたいだけど北欧のノルウェー、スウェーデン、フィンランドの人口はすべて1000万人以下…あの広い国土で少ない人口でも国民の幸福度はトップ3で滅びる気配がないけど >>93
選ばれたっつーかどっかから連れてこられた感じやろ 嘘ばかりついてる九州説はカルト宗教や共産主義の工作員だけど
なぜ嘘ばかりつくのか?
カルト宗教や共産主義の元締めは大体フリーメーソン
フリーメーソンは嘘の王とされるルシファー崇拝をやっていると言われ
嘘をつけばつくほど
人が騙されれば騙されるほどパワーが増すという教義らしい
史学や考古学ではとっくに邪馬台国は大和国と何十年も前に結論が出てるのを
短里などのすでに論破され済みの古びた論を振りかざして邪馬台国は九州九州といまだに意って聞かないのはそういう理由 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 >>109のような頭のおかしい人が畿内説では普通だから困る
まともな人は九州説ばかり >>34
春と秋になったら年を数えるんだっけ
半年に1歳ずつ歳をとる
そうすると実年齢は半分になるけどそれでも長生きだけどな >>113
それは古代天皇の長すぎる寿命をなんとかこじつけるために言われているだけで特に根拠は無い
いずれにせよ武内宿禰なんて300年生きたと書いてあるのでムダな足掻きでしかない 古代史は淡路島北九州ラインだよね
出雲奈良ラインはあるだろうけど 九州説とちょっとでも話をしてみ
カルト宗教の狂った教義で頭がおかしくなってて
人間の精神構造をしてないのがわかるから >>99
国家連合体の中心が邪馬台国って一つの国
中華はそれをまとめて女王国と呼んでいた
ロシア連邦をまとめてロシアっていうようなもんや 邪馬台国はそこまでデカく無いだろ
単に中国と繋がってただけで >>114
佐賀もかもしれないが、日田の日差しの強さは不思議なものですまさに太陽の土地と言ってもいいくらい、何故か大分の中で一番夏は暑い土地だ、水はピカイチうまい >>120
日本史板はもう九州説の圧勝だもんな
畿内説の本スレさえ九州勢に東征されて乗っ取られてる 日田は直接邪馬台国と関係があったのかは分かんないけど名前からも場所からも神秘的なものは感じるね
風土記が残ってれば面白い話があったんじゃないかなぁ >>122
そうやって客観的事実を受け入れられないから畿内説は一敗地に塗れたんだよ >>123
年がら年中昼日中から工作員が何も考えずに九州九州と書き込んでるだけだろ
金もらってやってる工作員だから
>>125
そんな事実はないね そら援軍目的で派遣したのに畿内なわけないよ客観的で申し訳無いが 僕の考える最強の○○説を垂れ流したり突っ込んだりしてる内は楽しいけど
罵倒し始めるとつまらんくなるな >>128
7万戸、一戸当たり4名と少なめに見積もっても20万だからねぇ当時としては超が着くぐらい大国だわ。 金貰ってるって謎なんだが日本において文明は九州からだぞ
それは半島経由じゃなく南方古代中国からだけど 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 >>102
畿内説でほぼ決まりかけたのは暦年較正曲線IntCal2013で箸墓の年代が50年遡って卑弥呼と合致する言われたからだが2020年版でまた元に戻ったから畿内説は振り出しというかほぼ負けが確定してるよ なんで満州語捨てちゃうんだか
明らかに矛盾してるし。
満州人の方が日本人と交流してると思うぞ?
発音で分かるんでしょ? >>128
戸数の信憑性はどうかなとは思うが?
里数と一緒で比率で考えた方が良いのでは?
前スレに貼ってあった弥生時代の推定人口
https://i.imgur.com/F40J3cG.png >>130
他人の こうかもしれない古代史 を読みたいのにね 邪馬台国は滅んだんだよ。プレ日本はまだその時代に存在しないか中国と国交がない ひょっとしてみんな自分だけの古代史を持ってるんか? 意味不明なんだがヤマト王権が邪馬台国かで議論してるのに >>126
よく読んだ
そもそも卑弥呼は邪馬台国の女王じゃない、倭の女王である
邪馬台国には都をおいてるってだけ
ってことが判明した 関係ないけど都道府県魅力度ランキングで悲願の最下位を茨城から奪取した佐賀は吉野ヶ里遺跡にこだわりすぎ…もし金印が出たら魅力度アップしてしまうよ 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 魏書の1節でデタラメが確定してるからロマンがあるのに
魏書において倭国なんてどうでもいいんだぞ そもそも卑弥呼が実在したかどうかも
怪しい
もちろん
日本の歴史上で卑弥呼って名前の人が
一人もいなかったとまでは思わないが ヤマト王権は奈良。ただ天皇の出身地に関しては九州かもしれない。もしくは大阪。
邪馬台国が九州ならばヤマト王権に直接の繋がりはない。 >>136
こんな連中に編年基準なんて意味無いんだよ
旧石器時代捏造事件以来、考古学会の体質は変わってない
騙されるな箸墓年代
https://i.imgur.com/5c0znBb.png
箸墓古墳の「前方後円墳形式」は、これまで4世紀以降の古墳時代の築造と考えられてきた。
ところが歴博は、箸墓古墳の築造年代を「240~260年」とこれまでより100年以上早いと発表。
(略)
箸墓古墳の堀や堤から出土した土器に付着したススや、炭化した煮こぼれに含まれる炭素14で年代を測定したという。
(略)
「示されたデータでは、箸墓古墳の年代は100年以上の幅を持ちうるものでした。はじめに『箸墓古墳=卑弥呼の墓』の結論があって、そこにデータをあてはめたとしか思えませんでした」 >>152
馬具が出てきてんだしモモソの墓っぽいから4世紀以降で合ってると思うわ ヒミコってなんて日本語だろうね。日の巫女(神子)、姫の巫女なんて日本の歴史で1000人ぐらいいてもおかしくないなあ >>154
葺石も確認されてるしね
3世紀中頃というのはあり得ない
ましてや狗奴国と戦争中だったというのに巨大古墳なんか建造できるわけがない >>145
ただの神託所だよ
ギリシャのデルポイ神殿みたいなもん みんなちゃんと出土品に基づいて話をしようぜ
25 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:39.93 ID:68Ek905f0
免田式土器と呼ばれる弥生土器のグループがある
免田式土器は卑弥呼の時代に作られた土器で、古墳時代に入ると消滅する
その分布から、邪馬台国の南にあったという狗奴国の土器と考えられている
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/22178
> 1.免田式土器とは何か
> この免田式土器は、弥生時代の後期後半頃に盛んに作られたようです。3世紀、「魏志倭人伝」の中に
> 邪馬台国や女王卑弥呼のことが述べられている時代とほぼ同じ頃と考えてもよいでしょう。
https://special.sankei.com/a/life/images/20190902/0001p1.jpg
分布の中心は熊本平野南部と球磨地方(人吉盆地)、そして阿蘇
熊本でも菊池川より北にはごくわずかしか分布せずこれは交易などによるものと考えられる 26 :不要不急の名無しさん :2020/09/18(金) 07:06:45.99 ID:68Ek905f0
免田式土器の分布から邪馬台国の南にあったとされる狗奴国の版図がおおよそ割り出される
https://i.imgur.com/4pKQIsd.jpg
https://i.imgur.com/xysLhhD.jpg
邪馬台国はこの北側なので、魏の使者が上陸した玄界灘から熊本の菊池川以北までが
共立国を含めた女王の勢力圏となる >>156
確かにそうだね
魏志倭人伝にあるような小さめの墳墓だろうね ■■■ 日本史板での結論:邪馬台国の場所 ■■■
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
https://i.imgur.com/8UPzltf.jpg
https://i.imgur.com/pPIaxBU.jpg
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう 土蜘蛛の女性酋長一覧置いとくぞ
卑弥呼乱立祭りやで
田油津媛(タブラツヒメ)山門郡瀬高大草・神功紀
宇津羅姫(ウヅラヒメ)山門郡長島宇津・景行紀
八女津姫(ヤメツヒメ)八女郡北矢部・景行紀
神夏磯媛(カムナツソヒメ)田川郡佐波・景行紀
速来津姫(ハヤキツヒメ)海部郡宮浦・豊後国風土記
比佐津媛(ヒサツヒメ)日田郡會所・豊後国風土記
五馬媛(イツマヒメ)日田郡五馬・豊後国風土記
大山田女(オオヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
狭山田女(サヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
八十女(ヤソヲミナ)杵嶋郡嬢子・肥前国風土記
海松橿媛(ミルカシヒメ)松浦郡賀周里・肥前国風土記
浮穴沫媛(ウキアワナヒメ)彼杵郡浮穴郷・肥前国風土記 これ系は学者でもイデオロギーで自分のご都合主論になるからな
日本の学問は全く信用できない 豊後国風土記に登場する人物名が畿内と近いんだよな。大分は大和政権との繋がりがかなり臭う >>165
同意
何の疑いもなく畿内説だと思っていたけど
伊都国歴史博物館で弥生時代の三種の神器や古代中国の高貴な人の装飾品を見て目が覚めたわ
北部九州こそ弥生時代の最先端
遠く離れた畿内に女王を共立できるのか?と疑問に思って畿内説を調べるうちに、畿内説は矛盾だらけだと知ったわ
あんなもん、よく学問になったな >>163
八十人のアマゾネス軍団を虐殺した景行天皇は鬼畜だわ 吉野ケ里の王墓とされる北墳丘墓は中期には放棄されてる
それに継続する墳墓が無いので王のような特別な存在はいなくなっていると思われる
もともとこの遺跡は威信財のような物もほとんど出てこないので、王の国というよりも、共同祭祀を行う一般の人々の集落と見るのが自然だろう >>152
こういう藁人形論法で学問を批判するから九州説はカルト信者扱いにされるんだろうな
自業自得だけど 邪馬台国は熊本市かなあ。熊本県熊本市と宮崎県は部族討伐の話がない 畿内説派も生活あるから今さら間違いでしたと言えない状況なんだな
調査には税金も投入されてる、それで飯食ってるのもたくさんいるだろう
日本はほんと変えられないなあ >>161
今も九州人で性格差がある地域が当てはまってなんか笑った
邪馬台国は肥後もっこすでいまだに自分達が日本の代表みたいなやる気があるよな
奴国は今も昔も博多もん 九州説は口から出まかせをお互いに言い合ってるだけだね 畿内説:大多数の考古学者が支持してる学説
九州説:知識の乏しい素人が信じてる俗説 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 Qアノン:アメリカにおいて、ディープステートが世界を裏で支配してると主張する陰謀論者たち
九アノン:日本において、邪馬台国が九州にあったという俗説を信じてる陰謀論者たち >>161
土蜘蛛に名前の引き継ぎが見られるから、狗奴国に関してはほぼ球磨郡だとは思うよ。 >>179
もうそれしか頼るところが無くなったのか…
かなしいね >>179
畿内からは考古学的根拠が何も出てきていない
桃の種が出たから卑弥呼が食べてたことにしよう、と言った後付け設定ばかり こんな論争してるから大和川が氾濫して奈良盆地が弥生以前の奈良湖に逆戻りしそーじゃないか(てきとー 畿内にプレヤマト王権があったことはどっちの説でも変わらん。単に魏志倭人伝の邪馬台国は九州だよってだけ
別に近畿を攻撃してるわけじゃないぞ >>179
畿内説が京大の内藤湖南
九州説が東大の白鳥庫吉
ただの学閥争い >>187
それな
本当の大和政権の前身の古代国家に謝れ!
まさに太古の歴史浪漫がつまってる展開なのになんでその魅力に気付かん? >>186
九州も洪水多いやね
筑紫平野も水没
喧嘩両成敗! >>168
そもそも畿内説最初に唱えた奴が九州説に言い直してる
畿内説派は九州派にいちゃもん付けることで生き永らえてるだけやで 熊襲はすごいわかりやすいよな。球磨郡と曽於郡 今でもちゃんと地名になってる >>174
熊本市に行きたくて唐津に上陸するかってとこがちょっと引っかかる
筑紫平野でも同じだけど
熊本県は狗古智卑狗のほうでは 吉野ヶ里遺跡近辺は日本住血吸虫症の発生地域
これだけでも分かるだろ
ここは倭人の住まいじゃなかったの 諸星大二郎の漫画で磯良が有明海に迷い込んで仕方なく川を上った先で待ち構えていた幻術を使ってくる巫女が大山田女と狭山田女だったような >>185
それな
卑弥呼と同時代のものは出てきても魏との関係性が不明なのは変わらない 唐津までは大洋航路。
日本で船を降りたら、後は規模の小さい小回りのきく船で移動するのよ
唐津は古い壱岐航路。神功皇后の時代になると、沖ノ島航路へ切り替わった
目的地別に使い分けていたのかもしれない 菊池氏はおおよそ日本で最も古くからいる豪族だからな
熊本は狗奴国でクコチヒコ?の一族だろ >>161
魏志倭人伝無視だな
相変わらず東南を北東
南至が西至、東至になっている
ボツ >>195
邪馬台国は負け戦で割譲されてるのかも
敵対勢力に筑紫平野とられて陸からは行けない 謎の行程は敵国避ける必要があったからでは >>84
邪馬台国が女王の都するところってだけだぞ
卑弥呼がそこにいて神託を受けるなり指示を出すなり何らかのことをしてた場所ということ
まあ倭国の首都的な場所だったのだろう >>204
だからどうしたんだよ
論理的な根拠を示せよ いくつかの国がまとまってるだけで中央集権じゃないし。首都の概念はないよ >>179
ヤマトは両方あったんだ
九州にあったのが邪馬台(ヤマト)、これが渡来人コロニー
畿内にあったのがヤマト王権に繋がるヤマト、渡来人が同化した縄文人国家連合 >>207
当然、共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない。 >>185
そんなわけないだろ
仮にそうだったとしたらそんなのにも勝てない九州説の方に問題あるね 何で畿内か九州のどちらか一方なんだよ
両方あったから渡来人コロニーの邪馬台国が滅ぼされだんだろ 倭国の首都というのがあるとしたら代々王のいた伊都国かな……
卑弥呼は邪馬台国で骨焼いてた >>213
邪馬台国の王は生目天皇
卑弥呼は邪馬台国を含む倭国の長 >>191
言い直したからって何
それで邪馬台国が九州になったりしないから
言い直したならしたでその内容が重要だろ
九州説はこんな印象操作ばかり
ちょっと聞いたー?とゴシップを広めるオバチャンのやり口 卑弥呼が注目されるのって魏志倭人伝に出てるからでしたっけ? 坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 奈良系と九州系での主導権争いの跡地は見つかってないのかよ
絶対仲良くなんかやってけないんだから戦いのあとがあるはずだ 2020年に発表されたintcal20(日本を考慮した年代測定の指標)によって
畿内説が頼りにしてた遺跡が軒並み4世紀以降に分類されてからは
畿内説の学者からの反論が全くなくて逆に捨てる人が続出
邪馬台国論争は畿内説の自殺ですでに終わった状況 これかな?
『奈良文化財研究所名誉研究員の狩野久氏は、
邪馬台国は本来「崇敬な山の入り口」の意味の「山(やま)門(と)」だとする説を紹介し
「邪馬台国が九州にあった可能性は高い」との見解を示した。』 >>203
都するってのは言い換えると統べるらしいから
邪馬台国は卑弥呼が倭国をまとめてた場所って感じだな 桃の種が出たから卑弥呼が食べたことにしよう、
という畿内説の後付けにすら勝てない根拠の薄弱な九州説 >>208
ヤマトは元々一般名詞で山都
山近くの集落は皆ヤマト やっぱりやーめた
<ソース>
読売新聞YOL(21.11.2018)
邪馬台国の候補地?見学施設、財政難で建設延期 社会
奈良県桜井市は、邪馬台国の有力候補地として注目される纒向(まきむく)遺跡で、
2020年度中の完成を目指していた「ガイダンス施設」の建設延期を決めた。
財政難が原因。整備を進める史跡公園の核となる施設で、遺跡見学の拠点として
期待されていたが、新たな完成時期は未定だ。
■纏向遺跡で出土した土器の産地
伊勢・東海系:49%
北陸・山陰系:17%
河内系:10%
吉備系:7%
近江系:5%
関東系:5%
播磨系:3%
西部瀬戸内海系:3%
紀伊系:1%
■学者の見解
「これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含むものの、
九州由来もしくは朝鮮由来の土器は非常に少なく、この遺跡が大陸との交易は乏しかったと推定される。」 >>202
邪馬台国と狗奴国はずっと戦争状態だったんだからだいたい同じくらいの国力だろう 九州説がそんな弱いならやりたい放題だな
三角縁神獣鏡が見つかったから卑弥呼が魏からもらった事にしよう >>213
伊都国は倭国に従ってた国だから倭国じゃないよ >>217
魏志倭人伝ではいちばんの大物だからでは >>225
もともとって意味だろ
コロニーや連合体になった名称のヤマトのことを言ってる ■桜井市纏向学センターHPより
辻河道出土の銅鐸と特殊埴輪(桜井市大字辻)
辻河道からの出土遺物のうち、特筆すべきものとしては纏向遺跡第7次調査出土の特殊埴輪片や銅鐸の飾耳があります。
銅鐸の飾耳は突線ちゅう式銅鐸の破片ですが、纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく、数少ない弥生時代の遺物の一つと言えます。
纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく
纏向遺跡では弥生時代の遺構は極めて少なく 代々王がいたのは伊都国
倭国大乱で衰退したのは九州
大乱のあった地域で共立されたのが卑弥呼
卑弥呼没後男王が立つもまとまらず仲間割れ
266年の朝貢を最後に消息が途絶えた 馬具の話も有耶無耶にしてますね
ニュース:箸墓古墳で馬具出土
2001年12月「箸墓の周濠から、馬具と布留1式土器が同時に出土した。」
奈良県桜井市箸中の箸墓古墳の周濠から、乗馬の 際に足を掛ける馬具、木製の輪鐙(わあぶみ)が見つかり、桜丼市 教委は三十日、
「輪鐙は4世紀初めに周濠に投棄され たと推定され、国内最古の馬具である可能性が高い」 と発表した。
■魏志倭人伝の記録
倭国に馬はいなかったと書かれている
■馬と人との歴史
鐙をはじめて本格的に使ったのは、5世紀のフン族(アッティラ王が率いる北アジアから東欧の幅広い地域を根城とした騎馬系遊牧民族)だと言われています。 >>227
戦争状態ではなく以前から仲が悪かったということだろ >>235
アッティラより早い日本の歴史www
我が国万歳! 神国大和万歳! >>233
邪馬台国の一部だ
工事だらけだろう
行く必要がない。
なので邪馬台国の文字が出てくるのは
ひとつしかない。 >>219
青谷の弥生人はかなり凄惨な殺害のされ方をしている
住民は海辺に掘られた穴に遺体が詰め込まれている
むごい死に方をした巫女が強い霊力で転生するとかそんな思想も
想定されているが、やはり単にジェノサイドに近いものだろう
倭国大乱との関係は定かではない
その他に、勢力争いを思わせる遺構はやはり高地性集落だ 畿内説が霊感商法詐欺と罵られる理由
■畿内説学者(松木氏)の見解
「北部九州では紀元前1~2世紀、朝鮮半島から鉄の素材が入り、加工して流通するようになった。
弥生時代、倭で最初に本格的な金属器社会に入った地域だ。
初期の国家について『鉄が権力をつくる』との説を私は支持している。
ではなぜ鉄の一大生産地だった九州に比べ出土品も少ない近畿に大和政権ができたのか。」
「北部九州は交易が盛んで、鉄も豊富にあり、経済的にも進んでいた。
空間的、階級的にも分散して社会形成が進んだ。」
--- とココまでは事実を語っているのですが、唐突に ----
「イメージしやすいのは、みんなで豊かになる『共和制』だ。」
畿内説統一教会の布教活動へと変貌します・・・・ >>240
そうだよ。まだヤマト政権が台頭していない。 >>237
倭国大乱で互いに攻めあった状態のまま卑弥呼の共立に加わらなかったのかもね >>237
互いに攻撃しあっている状態で戦争していないのはなかなか難しいのでは >>240
徳島、奈良、三重の丹や鉱物資源が経済基盤
物流網が整備されつつある。
若狭湾、大阪湾、伊勢湾。経済絡むから近郊の有力な豪族も参加。なので様々な形の墳丘墓や
古墳がある <考古学会入会資格
『入会資格は25歳以上、著書・論文・発掘報告書いずれか1篇以上、あるいは資料紹介や分担執筆など3篇以上が条件で、査読論文までは求められないが、』
訳:作文が書ければOK
『協会の審査委員会で著書等の審査をされ、その後現会員からの意見等を受け付け問題がなければ入会出来る。』
訳:畿内説の方針に準じていればOK >>115
武内宿禰を代々襲名した説。
ほら、段四郎とか猿之助みたいにさ。 >>227
熊本もこの件の関連で邪馬台国の対立国としてより一層脚光を浴びるだろうねw 纏向遺跡で古墳時代のカエルの骨発見
以下、ニュース記事より抜粋
カエルの骨を調べた奈良女子大の宮路淳子教授(環境考古学)は「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。
しかし、当時の人たちが日常的にカエルを食べていたかどうかは資料が少なく、さらなる調査が必要だ」としている。
研究成果は24日に刊行された「纒向学研究」に掲載されている。
蛙の骨を見ただけでなぜこんな可能性を見いだせるのか???
「カエルは祭祀の供物で、祭りが終わった後に出席者が食べ、骨を穴に捨てた可能性がある。」 >>245
逆だ
元々仲が悪かったので戦争になり卑弥呼側は魏(帯方郡)に援軍を求めた 想像だけど・・・。
邪馬台国って 佐賀か長崎だろうな・・ って思ってる >>207
女王の影響範囲=国連
倭の女王=事務総長
邪馬台国=国連本部のある国
その他の国=国連に参加してる国
狗奴国=非加盟国の一つ
俺は女王の影響範囲を女王国と中国側が仮に呼称していると見ている
一般的には女王国=邪馬台国と思いがちだろうけどな
まあそこはどうでもいい
読んでて色々変な場所を見つけた
倭国で検索してみ 俺のはあるサイトの受け売りだが、逆言ってる奴もいるんだな
邪馬台国が国連そのもので女王国はその中に含まれる一つの国みたいに
さすがにこれはないと思うが、面白いもんだな ヤマトというのはその国を現す言葉じゃあないんだろうな
覇権を持った国を意味するんだろうな >>256
そこだな
邪馬台国は完成された国であって
維新財が豊富とか、立派な建物が並ぶとかね
支配しているとかの願望が先行だろう。
投馬国、邪馬台国のみ可5万、可7万
開拓地だよ。見積もりだな。 >>248
蜀10万戸、投馬国5万戸、邪馬台国7万戸
女王国だけで軽く蜀を越える
日本列島の半分以上はありそうだ 畿内説のシナリオ
「卑弥呼時代には西日本全体を統治する強大な勢力が纒向にいた 」
[課題点]どうしても古墳建造キャンプ場に見えてしまう
・理由は分からないが大型建物は何度も立て直されている(臨時の建物)
・大型建物は柱が細すぎて楼閣であった可能性は無い(被葬者の遺族の宿泊所)
・やたら飯炊き土器と土木用具が出る(建築現場だから)
・奴婢1000人の住居跡が無い(作業員は野宿)
・意味不明な木製仮面、カエルの骨、桃の種(打ち上げの宴会)
・4世紀初頭に閉鎖して行方不明(古墳完成) 都するという言葉は確か史記にも出てた
都にしているみたいな感じの使い方だった思う いきなり歩いてるとこ後ろから刃物で首何回も刺されたら間違いなく死ぬよな カエルか
タニグクという国土の隅々まで知り尽くすヒキガエルの神さまがいたな
ヒキガエルは谷を越えて移動するが必ず元いた場所に戻ってくるという習性があるとか
伊勢の興玉神石がタニグクやね
熊野には世界遺産であるゴトビキ岩という磐座がある
ゴトビキは現地の言葉でヒキガエルのことらしい
ゴトビキ岩からは銅鐸の破片や銅鐸を模した石製品が見つかっている
ゴトビキ岩は熊野川の西岸にあり熊野川の大谷を渡った東岸に阿須賀神社がある
神社の境内とその周辺には弥生時代〜古墳時代の集落跡が見つかっている
ちなみに伊勢神宮で三節祭および柏流しの神事の時、占いに使用した柏の葉のことを三角柏(みつの柏)という
三角柏の別名が隠れみのの葉、おおたに渡りというらしい 纏向閉鎖からしばらくすると4世紀末に
産経新聞(2018.11.28) 最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
『白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。』 熊野の阿須賀神社の祭神は事解男命(ことさかおのみこと) 蛙と言えば諏訪の神様だな
みしゃくじさまとかだっけ
蛙の生け贄お供えするよね
なんかおもしれー >>263
別に邪馬台国は古墳キャンプ場や物流インフラ工事でいいんだな。終わりゃ、次の現場だな。
それを他国を支配とかになるからおかしな事になる。
それほどの力がありゃ、乱や狗奴国など抑えるよ >>271
だからあんたが言う邪馬台国はどこにあるのかな❓ >>268
吉備もあるんだな。
桃とか吉備系だろう。邪馬台国一部だな。 残酷な殺され方してる時代だからな
燃やされたり、弓で撃たれたりそこら中に死体はありそう >>255
筑紫平野だよね、筑後川の流域。卑弥呼の墓は祇園山古墳。 >>273
吉備は邪馬台国というより投馬国の可能性が高いと思う >>279
俺は思わない。
丹や鉱物資源 産出の四国、紀伊半島は
サヌカイト等の鉱物資源は豊富 だから吉野ヶ里が邪馬台国なら近くの糸島で政治をさせる意味がない
五万戸の投馬国が入る隙間もない
そもそも松浦から糸島に行く意味もない
もう無茶苦茶 >>265
それは戦国という時代に生まれた運だろ
寝ている時に来られたりとかもしょっちゅうみたいだしな
ウクライナなんか気楽だ >>281
女王国だよ。
奴国も女王国
なので、奴国の南に狗奴国 三角柏はみつの柏
大和風土記にみつのという言葉が出てくる記述がある
石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のことという件やね
柏と言えば柏原だが、安寧天皇の片塩浮孔宮は『古事記伝』『大日本地名辞書』によると柏原市が候補地になるようだ
柏原の青谷辺りに堅カタの地名が残っている
青谷は鳥取と関係があると考えられる地名なんだよな
昨年青谷上寺地遺跡の人骨から復元した人物のそっくりさんに柏原市の人が選ばれたとニュースになっていたが、
『和名類聚抄』には「河内国大県郡鳥取郷」とあり、古代の 寺院・集落跡があって「鳥取千軒」とも呼ばれてきた、柏原市青谷(あおたに)の周辺であろうといわれている
青谷上寺地遺跡の人骨の遺伝子を調べた結果、4点のうち2点はハプログループC1a1 (Y染色体)だったのも興味深い
安寧は、まさに婚姻と関係が深い諡号なんだよな
安は、新婦が廟にお参りをして清めをし、嫁いできたことを祖先の霊に報告し、嫁いできた家の霊を受けて、この家の人になる儀式をしていることを示している漢字
寧は、屋内に水盤を置いて神に願い事をし、心を安らかにする意味の漢字
近畿地方で銅鐸がブームだった時代の代表的な遺跡に伊勢遺跡がある
伊勢遺跡は首長たちが集まり祭祀を行なっていた場所だろうと言われている
伊勢遺跡では夜に水の祭祀が行われていたようだ
伊勢遺跡の特徴は大和風土記にある石津神と天津神の三都のまぐわいの記述や安寧という諡号と合致するんだよな >>289
ないよ。魏志倭人伝にはない。
奴国の南だよ >>210
結局何が出てきたと言うのか?
倭人伝の描写にかすりもしないものばかりじゃねーか
他人の墓を無理やり卑弥呼の墓にしようとしてるだけ 邪馬台国は近畿、卑弥呼は九州という説だな
断片的な発言ではなく体系的にまとめて説明しないと伝わらないぞ >>291
実際、箸墓古墳は未調査だし年代も不明のままだよな 「新説邪馬台国の謎」殺人事件 古代史トラベル・ミステリー - 文芸・小説│電子 ...
「新説邪馬台国の謎」殺人事件 古代史トラベル・ミステリー(荒巻義雄,文芸・小説,講談社,電子書籍)- 古代史マニアの老画家が、「マ」という文字の記された紙片 この板でたまに邪馬台国関連のスレ見かけるが、よく伸びてる感じ
みな結構好きなネタなのね 遠賀川流域の物部と邪馬台国は関係あるのか気になる
地理的に畿内東征への足がかりとなる地方だし >>299
南至る邪馬台国 女王の都とする所
さすがにここは邪馬台国=女王の居た場所と考えなきゃ
それ以外の解釈は基本的に曲解だ >>301
思い込みだな
魏志倭人伝になんて書いてある? >>302
基本的にそれも思い込み、
曲解だな。どこに居の文字がある >>303
自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史 とあるが? >>253
畿内説ってこんなんばかり、因果が全部逆なんだよ
「桃が出たから卑弥呼が食べてたことにしよう」「カエルが出たから邪馬台国で食べてたことにしよう」「まんこに箸刺さって死んだ人の墓って言われてるけど卑弥呼の墓にしよう」
完全に頭おかしいよな 燃やされるより刺されたほうがいいだろ
痛いとかの前に即死だろうし >>310
卑弥呼だと言われるイチキシマヒメは美人だったそうだ >>305
わざわざ、遠方の邪馬台国に行く必要がない。
一大率は、取り締まりのみ、
もし、邪馬台国なら報告、指示に受けるのに
日数かかりすぎ、不合理。
伊都国だな >>311
違う。共立されたのは卑弥呼
邪馬台国ではない 今日本と呼んでる土地は大八州(オオヤシマ)という土地
その内「大」は誇張や形容詞なんだから
現日本の国土の土地の名前自体はヤシマ
ヤシマに広い版図を持つという意味でヤシマタイコク
これが邪馬台国なんだから邪馬台国が日本の何処だったかと探す時点で見つかるわけがない
女王の都である所の名前は記述にある"女王国"
日本なんて名前もない時代まで日本の歴史などと言ってる
日本のウヨ教育の敗北
正しい歴史観を持つなら日本国の歴史は戦後だけそれ以前は大八州史な >>315
お前の言い分だと、大阪府知事が九州に住んでいると言う特殊な状況なんだよ。まともじゃねえだろお前。 銅鐸の時代の代表的な遺跡の一つ池上曽根遺跡は摩湯丘陵の麓にある集落跡でヒスイの勾玉や銅鐸が見つかっている
スサノオのマユから生えてきたのが楠で、枯野伝説によると楠からできたのが軽船らしい
この辺には楠の元に堅い木でできたお地蔵さんがやってきた話が残っている
堅い木と言えば柏や樫だよね
楠の元にあった堅い木はある日悪い奴らに海に捨てられた
長い年月が経ち、ある日嵐を引き連れ大蛸に乗り戻ってきたという
安寧天皇の次代は懿徳天皇で宮は軽の宮
懿徳うるわしい立派な徳という意味だね
軽の宮は池上曽根遺跡と関係があるかもしれない
諡号に徳がつくのは仁徳、聖徳、孝徳
記紀で仁徳天皇の時代に枯野伝説がある 楠が切られ軽船が作られる話
叡福寺の七不思議によると、聖徳太子の母の棺の轅を植えたら楠が生えた
孝徳天皇は諱が軽だな
話は変わるが、住吉大社に楠珺社というウカノミタマが祀られている社がある
楠の美しい玉という意味やね
住吉大社には堺にある宿院頓宮に神輿が渡る夏祭りがある
堺に渡る前に神輿を海水で洗う戻り湯という神事が行われる
この神事で使った水は和泉の海に流れていくという民話が残っている
宿院頓宮の祭神は弟橘姫
弟橘姫はヤマトタケルの妾で関東の海で海に捨てられた、或いは自ら海に入ったという伝承があるね >>318
判ってんなら一大率が取り締まりのみなわけないの分かるでしょ >>320
訂正
楠の元にあった堅い木のお地蔵さんはある日悪い奴らに海に捨てられた >>319
国々の集まり
国連事務総長はポルトガル。
国連はポルトガルにあるか? 魏志倭人伝は情報を水増しする必要にかられて時間も場所もバラバラなあちこちから倭国や倭人に関する情報の断片を探してきてコピペして繋いだ不完全な記事なんだ
だから距離も行程もおかしなことになってるし戸数だけは正確なんてことも無いんだ
距離が西域の大月氏に見合うように誇大に設定されているので戸数も大月氏を念頭に水増しされてると考えた方がいいんだよ…… >>319
おまえがまともじゃない。
国々の集まりだ >>283
邪馬台国は30カ国の連合国、各国にはもともと指導者がいる
投馬国と狗奴国は邪馬台国ではないと書かれている
壱岐から一番近い場所が松浦(東松浦半島)、そこから使者の最終目的地である伊都国に移動するのは当たり前 邪馬台国の呪いを封じ込めるために出雲神社を建立したんだろ。
なぜそれに気づかないのか謎だな >>323
国連の事務所はアメリカにある
アメリカが邪馬台国みたいなもの >>303
伊都国は女王国の北に位置すると書いてるよ >>320
関東の海言うなw
アンタ あの姫のなんなのさ >>283
無茶苦茶なのはオマエの認識だw
あの辺りの何処に邪馬台国が在っても不思議じゃない
ただ、行政の中心的たる伊都国は太宰府で確定なので、その南に在るって事は久留米辺りが妥当なんだよな
それかもっと南下して八女か… 邪馬台国は邪魔な大国という意味で邪馬台国な
それは大陸からの侵略者である当時の天皇から見た卑弥呼の国 >>335
そんで近畿や畿内は王無しでいつまでやってたの? 伊和大神の子、伊勢津彦は風を起こし東国に去ったんだよな
播磨風土記にはまた五色の玉を持つ石神が目を潰されて怒り大嵐を起こした話が残っている
堅い木のお地蔵さんは嵐を引き連れ大蛸に乗り戻ってきた
関東の人々の協力の下、嵐と大蛸と態勢を立て直し戻ってきたのか
多摩丘陵は昔は横山と呼ばれていて、横山の枕詞はマユ引きの
マユと関係があるんだよな >>340
奴国や不彌国も王なしになっているが?
いつまでもやっていた 大陸からの侵略者である天皇は邪馬台国を滅ぼし卑弥呼を抹殺。
卑弥呼とは卑しい呪い師であるから侵略者である天皇が邪馬台国の支配者に付けた蔑視の名前
元は別の呼び名があったであろうが、当時の天皇がそれを完全に封印 卑弥呼を抹殺した大陸からの侵略者である当時の天皇は、
呪い師である卑弥呼の呪いを除けるために出雲神社を建立。
そして海の近くは狙われやすいことを良く知る天皇は内陸に居を構える >>310
漫☆画太郎のババァが一番似てるんじゃないかな
即位した時点でババァなんでしょ? >>338
女王国以北は女王国の北側って意味
もしくは、九州北部は実際には従ってない国も多かった?だから伊都国にあんなに兵が >>310
卑弥子と聞くとブラックエンジェルズを思い出してしまう >>350
当時は20歳でも年増だったのだろう、少し前の日本でも24歳になるとクリスマス後のクリスマスケーキと揶揄されていたからね >>350
外交官がほれ込んでる描写がある
多くの男王も従ってることから、妙な魅力があったことは確かだ
だから卑弥呼って漢字になったんだろ >>346
倭国は自国を指す言葉だったワコク(我国)の勘違いで書かれた国名な
ワコクはヤスィーマタイコク(我が国は八洲大国)
倭国は存在せず邪馬台国が当時認識されてた
大八州文化の日本全土を示す言葉
女王国は女王がいるという事が中心であり首都なんだし
色々地名が名付けられる前の古代でもあるからからそれ以前の地名はない >>352
そうだよね。女王国の北でなく
女王国の北部の国々のひとつでいいかな?
それなら当方も同じだな。 大陸からの侵略者である当時の天皇は都合の悪い事実は全て抹殺または封印。
天皇自らが卑弥呼よりも位が高い神を名乗ることで卑弥呼よりも位が高い存在であることをアピールすることになる >>266
天下の出来事を何でも知ってる神様はクエビコという案山子の神ぞ >>357
当時の倭人がワコクという呼称を用いていたというソースが有るなら教えておくれ >>357
ゴメン勘違いして読んでた
倭国なんて中国人が勝手に呼んでた呼称 >>356
卑弥呼が九州にいるから行く必要がないんだ
南至 投馬国同様に
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
の紹介だけだよ。詳細な方向や停泊地はない。
里数もない。
まさか、どこにもよらずは無いと思うよ。 近畿にあったらどうなるの?
九州にあったらどうなるの?
なんで喧嘩してんの? >>84邪馬台国が女王の都する所という文がなんで邪馬台国の女王に繋がるのか >>356
畿内説もおかしなことに
邪馬台国の南に狗奴国を探している人もいる
倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和
別に邪馬台国と不和じゃない
卑弥呼との不和関係だな。
卑弥呼が九州なんだから
奴国の南に狗奴国がある。 >>347
それこそ吉野ヶ里あたりなんじゃねーの?
奴国は連合国の主要国で、かつては漢の皇帝から金印もらってる邪馬台国連合の中でもかなり大きい国、もしくは卑弥呼は奴国内で執政してた可能性もある >>363
古語では王はわう
うは「得」であり手に入れる自分のモノにするという意味
わうの存在は倭人伝に伝えられる様に確立しているので
現代語の王に繋がる同じ文脈で我得(わう)として
自己を示す「わ」専制的な所有者としての「う」
で語が成立していたと考えられる
意味としては所有している私という宣誓的な意味と
私は所有されているという隷属的な意味が合致、混在して使われて居ただろう
であれば語彙が細分化する前の自分の~を示す語は「ワ」だ >>345
伊都国(福岡県糸島)からそんな遠くない南部一帯のどこかだろ
畿内説は伊都国の南がいきなり奈良に飛ぶとかイリュージョン >>373
すまんが邪馬台国は中心国でもない。
女王国を構成する国々のひとつに過ぎない。
邪馬台国は支配などしていないし遠方の地
あくまで共立されたのは卑弥呼。
奴国にはいないと思う狗奴国と近すぎ。
又 伊都国で魏との交流があるからね。 >>374
有難う
ワが我というのは同意
国家という概念を持たなかった当時、全体を称する倭国という呼称は出てこないって言いたかった >>368
近畿にあったら馬もいない弥生時代に関東から九州・対馬一帯を支配した統一王朝があったというファンタジーになる
九州にあったら九州北部一帯の勢力で、ほぼ文献の記述通りにおさまる 神武東征までに卑弥呼に類する人物を抹殺したようなことは書かれていない
抹殺と言うなら卑弥呼没年前後に日食が2度あって
うち一度は黒い太陽あるいは欠けた太陽が登ってきて
当時の人々に怖れや衝撃を与えたと思われ
その咎により卑弥呼は頃された
という話をする人がいる >>168
それ、後漢時代の遺物なんです。魏の時代は畿内から出てます。「魏志」倭人伝ですよね?
後漢書東夷伝ではないんですよ >>376
可能性の話だよ
邪馬台国が30カ国の一つかもしれんし、30カ国の総称かもしれんし、総称であれば主要国のどこかに首都的な場所を置いてたかもしれんと言う話 >>379
というかむしろ記紀にですら九州で有力な女性に助けられるという展開が幾つかある
むろん記紀自体が皇族を第一の権威、権力として描くための文書なので
皇族やその一党は開明的で威厳があり大規模で、相手は地方の一部族的に描かれるが
それを差っ引いて考えれば皇族の為の記紀ですら
九州に大きな女王の権威があった事は無視できなかったとも見える >>375
水行の解釈違いだな。
別記事と取る九州説
郡に戻るとか、戻らない>>161もいる
当方は不彌国から連続だな
ただ、行っていないから詳細なもんがないだけ。
当方は邪馬台国は近畿。
卑弥呼が九州。
万二千餘里は奴国と不彌国。
当然、投馬国、邪馬台国は万二千餘里超え事になる
其餘旁國遠絶 不可得詳の国々が
女王国の以北ではない方角にある。
北西や東等に対しての記述はない >>384
卑弥呼が近畿から九州に行った証拠を出せよ >>384
続き、女王国の東千里も
候補はいくつかあるが
使者が実際に確認という前提なら
里数表示がある所からでないと
マヌケになる。 >>384
畿内には邪馬台国を類推できる遺物が全くないじゃないの
奴国は邪馬台国連合の南限だよ、畿内のどこだというのか?南紀白浜か?さらにその南にある投馬国ってどこ? >>387
近畿なんだけど
邪馬台国を類推できる遺物ってなんだ?
丹、ト骨、絹、鉄はあるけどな。 >>52
女王国を倭国全体とするなら1万2千里よりずっと前に着いているぞ >>387
これも意味不明。
邪馬台国連合はないな。
女王国はある >>390
纒向には城柵、楼閣がまったく出てこない
外敵と戦ってた形跡が全くないんだよ >>393
それはわからないだろう。
記述がない。宗女しかない >>396
卑弥呼が近畿から九州に行ったと言う記述もない >>399
鬼道を使い
どうやって衆を惑わすのか?
なんで共立されたの? >>401
ズバリ伊都国王墓の被葬者の子供で巫女の英才教育を受けた人だよ。 >>394
邪馬台国は30カ国連合のトップ、または総称
30カ国の南限は奴国、畿内ではない >>387
投馬国は丹波か但馬でしょう。この辺りは古代に結構重要な土地です。 >>404
根本的に違うな。
そういう、決めつけはないな。 >>407
それはいつもの南を東に置き換えるやつ? >>408
そういう事です。
邪馬台国は古墳等の工事時期ですな。
紀伊半島から伊勢湾は霊場とか修験地と思う
まあ、行ってもしょうがない。 卑弥呼の少し前の王が帥升、その系譜が伊都女王墓の被葬者でその一族が卑弥呼と台与だろうね。近畿の馬の骨とは違うサラブレッドだよ。スサノオのから五十猛の系譜も代々宇佐神宮の巫女を輩出し宇佐の神託に関わっていることからも、卑弥呼と台与の先祖はスサノオだったのではないだろうか。 >>412
まあ、想像はご自由に。
当方とは違うだけの話 ちなみに近くにある今城塚古墳からは大量の埴輪が発掘されました
https://goo.gl/maps/MLCWwXDVdKBWbwkc7
この古墳は継体天皇の古墳と目されている。継体天皇は現在の天皇家の直接の祖先ですね。
神武系が途絶えたので福井から大阪に呼び寄せました。初めは奈良に入れず枚方に宮があったのですね。 >>410
古代中国では、中国の都を北にして考えているのですね。つまり遠ざかるほど南に行くと勘違いしていたのです。 >>383
何か嘘くさい取って/作って付けたような感がある九州巡行だが女酋長がいくつかあるな
仲間売りや親殺しなどあまり良く描かれていない
土蜘蛛の田油津媛は誑かしの媛か
卑弥呼の後胤のように見せるような描き方 >>295
正確な年代を調べたら路頭に迷う研究者がわんさか居るんだろうよ。
つまりあやふやにのらりくらりして何年も何年もやり過ごす気なんだろう。
当事者だったら食いっぱぐれると分かってて調べるか?
自信が在れば今の吉野ヶ里みたいに普通はガンガン調べるさな。
吉野ヶ里周辺なんて掘ったら掘っただけプラスになる。
マイナス面なんか全く無いんだからね。 事実が分かればそこからまた新しい謎が生まれる 学問とはそういうもの
かくしてぼやかす必要などない >>419
先が無いとぶら下がってる奴は皆食いっぱぐれるぞ。
畿内説なんて其の最たるものだろうよ。 ほんと文明の欠片も感じさせないな…
ローマ帝国じゃ高度な文明だったのに。土人そのものww 糞速い対馬海流に逆らって伊都国から長崎周りで有明海を目指す(要は目指すは伊都国の南)と1月掛かっても不思議じゃ無い。 中国側ももっと発掘に力を入れて欲しい
曹丕が葬られていると伝わる場所は広大な畑で、その中の一角に木が生えていて、そこに墓が昔はあったらしい
未発掘なので盗掘にあっているかもしれないが調べてくれ
司馬懿仲達の墓も同じ様な感じで残念でならない アニメ化しようにも住んでるのが竪穴式住居じゃねえw
めっちゃ不潔だよね
一生風呂入らないヒロインとか目眩がする 邪馬台国なんか大分にあったに決まってるんだから
問題は卑弥呼とかトヨが温泉に入ったかどうかだろう
当時の温泉跡を探すんだ 隋書倭国伝のアメノタリシヒコは記記で言う天足彦国押人命だろう
実際は天足彦国押人命が倭国王だったのは間違いない
後世で家系図を改竄され王から外されたのだろう >>414
太田茶臼山が「継体陵じゃない」というのは何となくわかるけど、じゃあ今城塚が「継体陵だ」っていうのはどうしてわかるんだろうな
「他に候補が見当たらない」くらいじゃ、推理小説でよく真犯人を誤認させられるやつじゃないか 魏志倭人伝
上陸地点から東南500里到
吉野ヶ里は伊都国だな。東南至100里に奴国
東行100里 ここから聞いた事。
実際には行っていない
南至(省く)投馬国は四国
南至(省く)邪馬台国は近畿 まあ、願望が先行なんだね。
邪馬台国が中心でなければならない
維新財が豊富でなければならない
立派な建物が並んでるとか
鉄や絹が豊富でなければいけないとか
既に決めつけだしな。
邪馬台国について
そういう記述は見当たらない 畿内説のいうことには根拠がないからな
○○遺跡がでた!邪馬台国だ!卑弥呼だ!
それ、ヤマト政権の遺跡じゃないの? >>430
榎一雄は伊都国までしか行ってなくてその先は聞いた事という説だったな >>435
俺もそうだよ。
邪馬台国に対する過大評価、過度の期待が
先行と思う。復興地であり、開拓地
丹等の産出、宗教地が邪馬台国とは思う。
当方は近畿だな。
卑弥呼が九州の伊都国、或いは不彌国に
いれば、矛盾はせず 伊都国の南にあるってことや
帯方郡から1万2千里という記述に矛盾してる >>439
南至だよ。
奴国や不彌国で万二千餘里だな。
魏志倭人伝には女王国だよ。
邪馬台国ではない。 >>440
東南至奴国は東南に行けば奴国に着くという意味だ
だから南至なら南の方向に邪馬台国がないとおかしい
不弥国までで10700里
余里については、通算距離1万2千「余」里に含まれてる >>1
天皇が朝鮮人の征服民だと早くわかればいいね。国を産んだとか嘘っぱちが消えてなくなる 卑弥呼も台与も推しだと思うんだ
血にこだわるのはその後の話 >>441
おかしくないけど?
方300里と方400里理解しているのか?
加算忘れと思う。 >>444
でた!加算忘れ!
加算は忘れるは方向は間違うは畿内説は無理に無理を重ねなきゃならんのな まあ普通に倭人伝読めば女王国の場所は、
九州のあまり北じゃない場所で、
東は海、渡海先に倭人の国があるところだよな。
素直に考えれば、記紀に鏡好きの
女性宗教指導者がいたとされる日向国だろうに。
西都原は最大級の古墳群だしさ。 畿内には三重の環濠跡が見つかってる弥生最大規模の唐古鍵遺跡がある >>445
東南500里もあるぞ。
何故か途中から北東へ
何故、直接行かないのか? で、第2候補は宇佐なんだけど、
結論をいうと、
宇佐は台与に代替わりした後で、
日向が卑弥呼。
国の名前が
宇佐は豊(トヨ)の国
日向は日向(ヒムカ)の国だから。 130 ウィズコロナの名無しさん 2023/06/01(木) 00:31:04.54 ID:FKBPRBmx0
中国の史書を中国人が読んだ結果
https://i.imgur.com/hGyWM1v.png
北部九州一帯が邪馬台国 >>449
簡単だ
呼子から真東に糸島の山が見えるからだよ
その山の南に伊都国はあるのだから目的地が東南と分かる >>451
そうだ。何遍でも繰り返しだな。
畿内説は卑弥呼が九州とかはないだけど?
当方は範囲も違う。支配していないし
又、邪馬台国が中心国とかの決めつけはない。 >>449
直接行かないのは日が暮れるからだ
一大率がいるから博多湾には抜けられん
使者は伊都国にとどまるのが女王国のルールだ >>442
古代の半島の住民は現代朝鮮人とは別の民族なんです。
縄文人と漢人が雑居していた感じ。 >>455
邪馬台国は女王国の都と書いてある
なんで都が女王国じゃない地域にあるんだよ >>453
山に登ったのか?
その地点のみの見えただけ
進みながら確認するわな。
直接行かないのはなぜ? 田油津媛(タブラツヒメ)山門郡瀬高大草・神功紀
宇津羅姫(ウヅラヒメ)山門郡長島宇津・景行紀
八女津姫(ヤメツヒメ)八女郡北矢部・景行紀
神夏磯媛(カムナツソヒメ)田川郡佐波・景行紀
速来津姫(ハヤキツヒメ)海部郡宮浦・豊後国風土記
比佐津媛(ヒサツヒメ)日田郡會所・豊後国風土記
五馬媛(イツマヒメ)日田郡五馬・豊後国風土記
大山田女(オオヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
狭山田女(サヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
八十女(ヤソヲミナ)杵嶋郡嬢子・肥前国風土記
海松橿媛(ミルカシヒメ)松浦郡賀周里・肥前国風土記
浮穴沫媛(ウキアワナヒメ)彼杵郡浮穴郷・肥前国風土記
台与の時代は景行天皇辺りだから景行紀の中に出てくる土蜘蛛のどれかが台与なんじゃないかな >>458
よく読んだら?
女王国之所都ではなく女王之所都だよ >>432
例えば短里のような、根拠のある部分はそれでいいと思う。
問題なのはそこからの飛躍が根拠がないこと。
放射読みは、完全に結論ありきだし、伊都国までしか行ってないというのも根拠がない。
日向峠とかも無関係なのに、無理矢理のこじつけ。
こういうのを混ぜるから、九州説そのものが胡散臭く見られる。 >>458
誰が女王国じゃない地域と書いた?
女王国だよ >>459
山に登らなくても見えるんだよ
てか、登ったら山は見えんだろ
直接行かない(行けない)理由は書いた
日が暮れてしまうため、博多湾には逃げられないためだ 博多の志賀島は安曇の拠点。何故か年に一度八女の八人の巫女が舞う。決まった八女のお家の方のみ。この繋がりがわからんが何かある。志賀島には今の国歌ができる前から伝わる。 >>461
よく読んだら女王国の都じゃなくなるのか? 魏長里(1里434メートル)で当てはめる魏志倭人伝の行程
上陸地点の末盧国(糸島半島)から
距離も方角もピッタリと一致
・伊都国500里は宮崎
・奴国100里は朝倉付近
・不彌国100里は宇美や遠賀川沿い付近
https://i.imgur.com/57QI8au.jpeg
おそらくは
天孫アマテラス系が宮崎から北部九州に入り
伊都国の出先地域(分国)が糸島付近に出来上がった
それゆえに1000程度の戸数(本国は万余戸)だったのだろう >>463
東の海の先は倭種の国であり、女王国じゃない 中国人より中国語の理解が深い奴以外は九州説に反論すべきではない
130 ウィズコロナの名無しさん 2023/06/01(木) 00:31:04.54 ID:FKBPRBmx0
中国の史書を中国人が読んだ結果
https://i.imgur.com/hGyWM1v.png
北部九州一帯が邪馬台国 邪馬台国はわからんが、九州には何かあった遺跡が多すぎる。大宰府も政調跡の下に更に古い地層が複数あるという。水城も白村江以前からあった地層が確認されてる。九州王朝かそれが邪馬台国があったと思う。 隋書に魏志の邪馬台は大和のことと書いてるよ
中国人も邪馬台国を大和国と言っている そもそも魏志倭人伝通りなら邪馬台国は海の上になるからな
記述が間違いってことが前提やろ >>475
隋の時代にはヤマト政権の統一が終わって邪馬台国は滅んでるからな 最新の研究によると
韓国人は、中国人と日本人の混血らしい
化学研究世界トップ中国科学院による遺伝子研究
The Korean population also has NEAC, SEAC and RC, but F 3 results strongly suggest that it received gene flow directly through Han Chinese and Japanese
>韓国人にもNEAC、SEAC、RCがありますが、F3の結果は、漢民族と日本人を通じて直接遺伝子フローを受け取ったことを強く示唆しています←ここ注目
Han Chinese and Korean are not well distinguished, while all the Japanese individuals cluster perfectly.
>漢民族と韓国人は十分に区別されませんが、日本人はすべて完全に区別化されます。
★日本人は他民族とDNAで完全に区別可能。韓国人は日本人より北方漢民族に似ている。
韓国人は大陸と日本の混血。という結果。
https://hereditasjournal.biomedcentral.com/articles/10.1186/s41065-018-0057-5
https://i.imgur.com/vwGW9y5.jpg >>476
なんだ?
伊都国から南に1500里だぞ
熊本を超えるかどうかすら怪しい 韓国人は、中国人と日本人の混血という結論
https://agora-web.jp/archives/221019113518.html
データを素直に解釈する限り、やはり現代韓国人のDNAは現代日本人と現代中国人の中間で、その他にも多少は北方系の人間の影響が見られるようです。言い換えれば、韓国人は日本人と中国人の混血である可能性が高いことになります。 この画像が分かりやすい
https://i.imgur.com/DegAUP4.png
やはり韓国人は、日本人と漢族の混血にしか見えない 数字はウソをつかない
https://i.imgur.com/pOVDp9N.jpg
四国にも弥生人が多いことに注目。
台風直撃が多い四国と和歌山県には縄文人が住み着かず、
移住してきた弥生人が当時、僻地だった四国や和歌山県に住み着いたことがわかる。
つまり、弥生人による侵略はない。当時の僻地に住み着いただけ。 >>477
墓域だったから墓が多いのは当然
ただし墓しかない 邪馬台国の官から見えてくる支配領域の実態
・伊支馬 いきま 垂仁天皇
・彌馬升 みましょう(御間=崇神の叔) ヒコイマス
・彌馬獲支 みまかんき(御間=崇神の干岐)
ツヌガアラシト(うしきありしちかんき)
・奴佳鞮 ぬかてい 中臣連祖(クニナズノオオカシマ等)
ヒコイマスは丹波、ツヌガアラシトは任那の王子
半島から畿内までの日本海ルートが構築された官体制と読める >>474
当たり前の事を、さも凄い事のように騙して、結論を押し込む騙しの書き方
>九州には何かあった遺跡が多すぎる。
なにもない遺跡なんてものは存在しない
>大宰府も政調跡の下に更に古い地層が複数あるという。
日本全国、地層は複数重なっているから地層という
>水城も白村江以前からあった地層が確認されてる。
水城はただの土塁、人工的に持ったところもあれば、元々の小山を活用したりもあるので、当然のことを言ってる
>九州王朝かそれが邪馬台国があったと思う。
これを信じさせたいがための騙しの工作
こんな程度の文章に騙されるやつは、魏志倭人伝も読めない 皇族は縄文人です。
弥生人が日本の天皇や王族や皇族になったことはないようだ。
N253487 Sumeramikoto (Emperor of Japan) D-CTS8093
https://www.familytreedna.com/public/japan/default.aspx?section=ycolorized
伏見宮家
伏見宮家のY染色体遺伝子は、ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である
これは、伏見宮家の男系子孫1名から得られた解析の結果に基づく。
東山天皇
人皇第113代・東山天皇(Emperor Higashiyama, 1675-1710)のY染色体遺伝子は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST055457)である
これは、東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔粘膜の解析による。
南朝・後村上天皇
南朝・後村上天皇(Emperor Gomurakami, 1328-1368)の男系子孫のY染色体を調査した結果、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)であることが判明した
近衞文麿
内閣総理大臣を務めた、近衞文麿(Fumimaro Konoe, 1891-1945)のY染色体は、
ハプログループD1b1a2(D-IMS-JST022457)である。
2019年6月19日改訂のISOGGより D1a2(旧D1b1'2)に変更。
「縄文系」のD1a2(旧D1b)、(チベットD1a1)
オクスフォード大学の遺伝学研究チームのクリス・テイラースミス(Chris Tyler-Smith)
及び、 カラー・レッド(Color Red)は、日本人男性のY染色体の一塩基多型(SNPs)および
縦列反復数(STRs)を解析した結果、天皇家のハプロタイプは(D-CTS8093)に属する
系統であると結論づけました。 古墳が多いから畿内ってのも畿内説らしいメチャクチャな言い分だな
ヤマト政権の古墳だろ >>483
なんかいろんな表現をした図を探して
好みのを選んでるんだな
どうとでも書けるだろw >>468
意味不明?直接いけない理由?
糸島方面には行かなかったんだな?
日が暮れたとかそういう記述はないが? >>462
使者は伊都国にとどまるルールなんだから、伊都国までしか行かないだろ
里数を書いてる国と所要日数しか書いてない国には、その理由があると考えるのものも必然
トータル1万2千里を考慮すれば、放射説でしか説明できないだろ
畿内説で説明してみろよ >>489
事実だから調べてみろよ。わからないからこの遺跡、事実が何なのか教えてくれ。 >>493
俺が貼ったリンクの中に他の図もあるから見てごらんよ 。
すべて韓国人は、日本人と中国人の混血であることを示している。
この結論は、もう科学的には変わらないよ。 だいたい北京はもともと中国じゃないぞ
元の時代に進化した街
昔は中国じゃない >>492
いや、帯方郡が起点だ
帯方郡から1万2千里 >>474
白村江で一度完全破壊されてるやね
だからこそ記録が抹消されてる
だからこそ過剰な防備を整える >>475
大和なんて書いてないよ
邪靡堆と書いてある
そもそも魏志倭人伝には大倭は市の監視役として使われていたと書いてある 邪馬台国は九州統一する前に近畿出雲吉備四国伊勢東海の大和連合に滅ぼされた
九州から出て日本統一しようとするにはまず九州全体を統一しなければならなかったけどあれだけ分国してたらまず無理だな
滅ぶべくして滅んだ >>488
伊支馬(いきま)は、垂仁天皇(本名イクメ)だろうね。
そうなると崇神天皇の崩御年は198年ということになる。 畿内説は論外という帰結
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている >>445
九州説「松浦から糸島は東南じゃないけどそこはヨシ!
でも南は信じるから邪馬台国は九州
水行十日も行ける川は九州にないけどそこもヨシ!」 >>502
市は当時の経済の中心地
市の監視役ってことは財務省なみの権力機関で
邪馬台国の支配者層だね
だから魏志倭人伝にわざわざ書かれている >>1
>>世紀の大発見
地上波のニュースで見たことねーぞ >>503
邪馬台国は内乱を収めたり、南の狗奴国との争いで手一杯だからな
早々に見切りをつけて、新天地に活路を見出したヤマト政権が正解だったわけだ >>495
短里を有りにして、近畿地方まで届く分けない。
勝手に間違ったレッテルを貼るな
>使者は伊都国にとどまるルールなんだから、伊都国までしか行かないだろ
そんなルールは書いてない
放射説をするのに、伊都国起点にしたほうが都合がいいから、編み出させたもの >>503
大和連合の都は纏向の可能性が高いと思うけど、諸国連合がいつ頃の時代にかけてどのように形成されて行ったかは興味深いよな >>506
まぁたイチャモンか
呼子から見たら、伊都国は東南だぞ >>506
末羅国
山にまつろう漁村地帯
こんな所で上陸なんてとんでもない! 政略結婚で広げていったんでしょ
その子達がまた地方豪族と婚姻を繰り返す
あと四道将軍で道も整備した >>462
通過するだけの末盧までのことは紀行のようにリアルに描写しているのに
滞在したはずの伊都国のことは奴国投馬国と同程度のことしか書いてない
伊都国に行ったかどうかも怪しい >>510
短里なんて考えなくても、末盧国から伊都国までが5百里と言うんだから、両国の場所さえ分かれば推定できる
それに、使者は伊都国に滞在すると魏志倭人伝に書いてる
畿内説では1万2千里を全く説明できないで確定かな 畿内説の人って九州否定する事が好きなのね。自分を立証する事にエネルギー使えばいいのに。 祭祀を皇室内から外に出したのも良かったのかもな
オーブンにした
神社を元を作ったのは崇神天皇 >>497
当たり前の事を、書き方でごまかしてる騙しの手口だといってる
何もない所を遺跡というのか?
何かがあるから遺跡と呼ぶんだろ?
たとえ大宰府だろうと、俺んちだろうと、その地下には何世代もの地層が眠ってることに変わりはない
土塁の積み方を理解してれば書いてることは当たり前 >>517
99パーセントの学者は畿内説と言われてるから
学問的には畿内説でほぼ確定していて
九州説論者が知識ないだけ >>520
でた!畿内説の布教活動!
99%って誰が言ってるんだ?
完全にカルトの手口じゃないな >>516
それは何日も前からか俺が主張してることだ
松浦縣と怡土縣の距離で見ればわかるってな >>491
古墳が多いから邪馬台国じゃないという方がもっとメチャクチャ >>516
伊都国に使者が留まると書いてるなら、原文を転記してみよう >>517
そう
畿内を掘り尽くしても何も出てこないから、九州叩きしてんだよね >>521
立石山や可成山が見える
間に海があるだけで障害物はないからな 学者が信用できんのですわ。学者が嘘をつく理由が知りたいのです >>524
古墳が多いから違うとは言ってないぞ
畿内にあるのはヤマト政権の古墳だろと言ってる >>515
末盧国と伊都国の間に紀行文なんて書いてないよ
末盧国の風景を書いてるだけじゃん >>514
九州と言っても一枚岩じゃないだろうし九州の国でもそこにいち早く加わる勢力もいたんだろうね
那珂八幡古墳の首長なんかはそういった勢力だったんだろうか >>502
邪靡堆は邪摩堆(やまと)の誤記
そもそも隋が国交を持ったのは大和朝廷
中国では大倭をやまとと読まない
ダイワとかそんな読み >>530
嘘でも嘘だと証明できたら成果になるから
予算は文科省が割り振るから、キャッチーな嘘ついたもんが有利 >>532
ならば、そこは女王国ではないし、ましてや女王国の都である邪馬台国ではない >>530
考古学会=畿内説統一狂会
今も昔も底辺の寄せ集めによるプロパガンダ学会だよ >>537
大和はヤマトと名乗っていない
理由は? >>530
???
九州の主な古墳は発掘調査済みで
九州の主な古墳は、邪馬台国時代のものではないことがすでに判明してるぞ
発掘調査されてるからもちろん物的証拠も大量にある >>536
それはずっと居続けると解釈するかどう解釈するかの話しでしかなく、明確にそこにい続ける根拠ではないだろ? >>516
伊都国は一大卒が置かれ邪馬台国の監視下にあった国 >>539
いや邪馬台国も女王国だよ。
女王国の都ではないが? >>516
九州説は1万2千里を説明できてしまうんだね
邪馬台国までの距離じゃないのに >>537
奈良県(大倭)は、魏志倭人伝に登場する
倭国の経済(市)を支配している「大倭」に由来するとしか考えられない
魏志倭人伝は中国の正史の1部であり
偶然の一致はありえない
倭国の支配者層だったから奈良県側が大倭という漢字を当て字したのだろう >>531
3世紀の古墳があるから
邪馬台国の時代の古墳だよ ちなみに邪摩堆の語尾は今も昔も「タイ」と読みます
ヤマトとは読みません
もしヤマトがヤマタイと名乗ったとしたらオレオレ詐欺ですね
いずれにせよ隋の時代は卑弥呼とは無関係
日中の史書はともに、倭王は筑紫から大和へ引っ越したと書いてます ここの九州説の人は、畿内を否定してないと思うよ。九州で何があったか事実を追いかけてるだけ。畿内がわざわざ入り込んでくるから反論したくなる。 >>544
そりゃ近くの奴国や不弥国に出かけるぐらいはするだろうな
里数がちゃんと書いてある >>547
九州説って、北部九州から船で20日+10日進むと北部九州にたどり着くという珍説だろ >>545
だからなに?
伊都国が女王国外からの侵入を監視してるんだけどな
邪馬台国のお膝元として 立派なもんをじゃんじゃん発掘してくれたら畿内説に鞍替えするのに
もっと調査頑張れよ >>550
出土品見たことないの?
邪馬台国の時代の古墳じゃないよ >>530
なら邪馬台国は新潟にあったとかいう
素人の方を信用するんだな >>547
女王国自体には10500里の伊都国で確実に入ってる >>555
どうでもいい
筑紫の尊が大和洲(河内)に移って天皇と称した >>550
そのころにはヤマト政権が畿内にいただろ >>557
邪馬台国のお膝元なんて中国の歴史書には書いてないな ヤマトは一貫して大陸にヤマトと名乗ってるが
邪馬臺、邪靡堆、邪摩堆と表記に揺らぎはあるが魏志以降、大陸の認識は倭の都はずっとヤマト 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 >>565
女王国の都じゃなければ、どんな意味だというんだ? >>566
あと1500里で邪馬台国だぞ
お膝元だろ >>567
ヤマトなんて名乗っていない
一貫して語尾はタイ
ヤマトは大倭でありダーワだ
ヤマトなんてのは後世が当てたキラキラネームよ(万葉時代の流行り) >>563
記紀上ではな
倭王ではないし移動しただけだな
魏志倭人伝には筑紫も大和州の記述もない。
いつの時点かな? >>572
邪馬多伊じゃなくて
邪馬台な
タ・イと2音ではない >>571
中国に対しては倭国か日本としか名乗っていない
隋書の邪摩堆(ヤマタイ)は国ではない >>549
中国では奈良を邪馬台と呼んでる
大倭は日本側の呼び方で中国では別物
当時の日本に漢字はないからな 別に今の九州説は畿内に邪馬台国あっても良いわけだよ
同じ名前の国があったんだねってだけの話 でも魏志倭人伝には載ってないね >>553
里数が書いてないと、日数だったら行ってない根拠になるのか? >>572
中国南朝があった呉越地方の方言なら過去も現在もトゥと発音されるがな。薹(台)も堆も。 >>560
景初3年や正始元年と書かれた三角縁神獣鏡などが見つかってるよ
240年の卑弥呼が魏に使いを送ったころの物だね 魏志から隋書までの歴代正史ガン無視して旧唐書にばかりこだわるのは何なんだろ >>498
むちゃくちゃだw
その頃の中国人はいまの中国人と呼べないし
朝鮮という国ができたのは
それから7千年後だ
お前の朝鮮愛は永遠か知らんが
あまりにもナンセンスだ >>552
九州王朝のようなありもしないものを信じてるのは、九州説でも異端だよ? >>579
他に違いがある理由があるのなら書いてみろよ >>562
魏志倭人伝には伊都国や奴国は女王国より北の国とある >>564
ならヤマト政権=邪馬台国なんじゃないの 大和王朝は王のことをスメラミコトと呼ぶ
ユダヤ語由来らしいな >>570
正確に測量してない
100里単位でしか書いてないから
里数に関してはかなりいい加減な記載なのは明らか
当然、日数は信頼性高いだろうね >>569
卑弥呼が都とする所だよ。
奴国や不彌国等から見れば都でもない。
国々の集まりである。 >>581
シナからは出てこないパチモンのことか? >>585
そもそも邪馬台国って王朝か?
ヒミコとトヨにすら血縁関係がないのに >>589
畿内からは馬具がでてる
邪馬台国に馬はいない >>578
ヤマト(山戸)という地名はミナト(水戸)みたいなもので、日本中にあった地名だったのはそうなんだろね
ミナトと違い普通名詞化まではしてないけど 中国史書に「邪馬台国条」という条項は存在しません
「倭国」または「日本」しか存在しません 何百年も前の文献に書かれている事が本当かというとかなり眉唾なんだよね。複数の独立した文献が一致してれば信ぴょう性は増すけど >>589
魏の時代も隋の時代もヤマトという呼称は存在していない >>590
ユダヤ語はアラブ語とそっくりということを知らん奴が多い
あれは文字が違うだけだ
日本語がモハメドの言葉と同じだと嬉しい謎の連中 >>586
書いた本人以外に分かるわけがなかろうし、纏めた陳寿がそうしたのかもしれない。
わかるわけ無い物に一つ仮説をあてて、その上さらに放射で読むと言うのは、仮説の上の仮説
そりゃあてにはならんから、せめて自分で根拠を用意しろ >>570
魏の1里は約430mだから
1500里だと600kmくらいの距離ぞ
余裕で九州を出てしまうな
畿内に到達するかも >>591
正確じゃないにせよ伊都国まで五百とと書いてるんだ
残りは3倍の距離
畿内までは、軽く10倍以上の距離
方角も違うしな >>596
語尾をトと発音するとすれば都、門(戸)ぐらいだな >>602
当時どうやってそのメートル計測すんねん >>596
基礎語彙そのものだからかなり古いだろうね
山ト 川チ セッ津
あたりは相当古いだろ >>583
根拠もなく古い資料のほうが信用出来るっていう人多いけど
倭国との交流は続いてたわけで
倭国の使者から正確情報を得て修正して
新しい歴史書のほうが正確な部分もあると思うよ >>601
つまり、畿内説では説明できないんじゃないか 帯方郡から南や東に万二千里だからソウルから4800キロ南東の海上でいいんじゃね?
そんなに魏志の里数にこだわるなら >>602
だから伊都国まで五百里なんだよ
そう書いてあるだろ >>581
それもうとっくにニセモノとバレてます
後の時代にまとめて作ったことが既に判明している
729 :名無しさん@1周年 :2018/12/14(金) 07:07:46.83 ID:KIkBsuQN0
畿内説が心の拠り所にしている紀年銘鏡も、銅の成分を測定すると異なる年号の鏡で同一ロットの銅が使われており
後の時代にまとめて作成したことが判明w
http://www7b.biglobe.ne.jp/~ronnrinomichibiki/1hpkouennshuu-arai-hi-gikyousetsu2016-1-17.pdf
> (5)複製鏡の存在(紀年鏡の場合)
> 国内出土の「魏の紀年鏡」で鉛同位体比が判明しているものが、5種9面ある。表4には相互間の鉛同位体比の類似係数の関係を示す。
> これを見ると,同笵鏡でも鉛同位体比が大きく異なり、同時に鋳造したとは考えられないものがある
> 反面、年号の異なる鏡に鉛同位体比が一致していて、同時に鋳造した可能性を示すものがある。
> すなわち、
> Aグループ(正始元年森尾鏡、景初4年辰馬鏡、青龍3年大田南鏡、青龍3年個人蔵鏡)
> Bグループ(正始元年柴崎鏡、景初3年広峯鏡)
> であり、年号鏡を後の時代に纏めて製造していたことを示唆している >>588
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
「女王国より以北は、その戸数や距離をおおよそ記載出来るが、
その他の国は遠くて情報もなく、詳しく知ることは出来ない。」 >>603
日数のほうが信用できる
北部九州から船で10日+20日進んで
北部九州のわけない >>608
中国の学者は逆
中国の史書は古いほど信憑性が高いとの事
実際に新唐書書の日本条は日本が渡した日本記を丸写ししている手抜き史書 >>613
女王国の都じゃないなら、どんな意味なんだ? >>604
関東にいると谷戸(ヤト)って言葉はたくさんあるぞ >>593
中国の都のあった洛陽でも見つかってるよ
画文体神獣鏡や方格規矩神獣鏡も畿内の古墳から見つかってる >>589
別にそれ自体はいいんだ
ただ卑弥呼がいて、女王国に与しない狗奴国が邪馬台国より南にあって男王卑弥弓呼と戦争状態で、卑弥呼が死ぬ
そんな国が巻向に入るかな >>595
後世の馬具が見つかっても邪馬台国がなかった事にはならないね >>616
北部九州から、なんてどこに書いてあるんだ? >>617
信ぴょう性が高いといっても
正確な情報じゃないのは明らかだし
1次史料じゃないのに1次史料みたいに扱うのはおかしいよ >>619
卑弥呼にとって都だよ。
奴国や不彌国から見れば都でもない >>618
末盧国が松浦の根拠は?
ソウルから4000キロの海上じゃない根拠は?
魏志の里数にこだわるなら >>599
隋なんかは大和朝廷と遣隋使で国交まで結んでるのにそりゃおかしいな >>594
王朝とは、支配階級の血統なりの継承が続いている必要があるのと、朝儀のような会議や面談で国を運営することの意味
要するに統治者の血統と統治の機構をあわせて、王朝という
邪馬台国は次の王を決める仕組みがないので、壱与がつくまでに揉めてるし、卑弥呼は人に会わないので統治機構も働いてない
実際には各国の王(長)が困ったときに、占いでアドバイスを行うアドバイザーなのではないかな? >>616
それは君の読み間違いです
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>620
だから本当にヤマトだったなら「邪馬都」「邪馬戸」だろ
隋書ではわざわざ「邪馬臺」→「邪摩堆」と文字を変えて語尾がタイである事が強調されている >>610
お前は何時までも人のことを畿内説だと勘違いしてるのが救いがない >>621
古物店からだろ?
古物店の主が畑で見つけたらしいな
シナには1~2枚しかないなら、盗掘か逆輸入だろ >>632から導かれる結論
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる >>626
それはさすがに魏志倭人伝に書いてあるよ >>622
主語が女王国なら、女王国の都と書いてるんだろ >>606
書いてある里をメートルでに直すとそうなるよ
魏の1里はだいたい430mと当時使われてたモノサシ等からわかってるから >>625
纏向が見つかったとき、卑弥呼がいた時代の遺跡だと言ってたのは畿内説だぞ >>596
戸や門は上代特殊仮名遣いの甲類だから音が合わないんだよ
だから山戸や山門ではない
山の麓の意味の山本の可能性があるが
その場合の「と」の音が乙類なのか調べてみたが
万葉集では坂のふもとが坂之踏本となっていてこれじゃわからんな >>633
都は違うだろ
音読みすぎる
ヤマイ国かもな
あと大和は山人だろ >>612
そこから女王国まで1500里とも書いてる >>633
ヤマタイなら4文字にするはず
ヤマトだと言うつもりはないが、当て字ゾーンでいきなり2音がそこにだけ現れるのは不自然 >>627
まあ史書の成分はこれだからな
過去史料の写し、
倭人の説明不足、
中国使者の勘違い、
日本人の嘘、
筆者の推測 >>629
他にどこに上陸するんだよ
壱岐から目視できるのは呼子だけだ >>630
中国史書にヤマトと読む文字は一切無い
それは事実 >>614
畿内からは三角縁神獣鏡だけじゃなくて
画文帯神獣鏡や方格規矩神獣鏡も見つかってる
魏にも同じものがある >>623
畿内なら余裕だけど
纏向は都市遺跡じゃなくて王宮跡 >>645
つまり、末盧国・伊都国間の距離の3倍の距離だ >>640
舗装された真っ直ぐな道なら
雑草ぼうぼうの原野100mも正確に測れんての >>642
確かに現代の発音とは違うんだろうね、なるほど
じゃあ奈良のヤマトの語源は気になるね
上で誰かが書いてたカワチ(河内)とかと対になるもんと思ってた
川のこっち側、山に向かうあっち側みたいな感じで 大和と河内と摂津はどう考えても組み物セットだろ
ヤマト大国だったんじゃないの >>652
それらも全て国産のコピー品だと判明しています
型取りすることでいくらでもコピーが作れるんだよ
http://mainichi.jp/articles/20180118/dde/018/040/020000c?inb=ra
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。 >>624
含まないね
青森より北は北海道で青森ではないからね >>604
神戸→ごうど
とどのつまり、
瀬織津媛は卑弥呼に由来する >>633
それじゃヤマタイという名の国か地域があれば確定だね
どこにもないようだけど 中文で「ト」と読む最も古い文字は「門(戸)」だそうだ >>660
青森は北海道と同じものを表すぞ
中世の概念では青森と道南に区別はない >>642
ちゃんときれいに変化してるならそれが正しいんだが、言語はナマモノだからなあ。 >>657
なる、山外でヤマト!
奈良には外山と書いてトビと呼ぶ地名もある >>635
三角縁神獣鏡だけじゃなくて
画文体神獣鏡や方格規矩神獣鏡も畿内の古墳から見つかってる
魏にも同じものがあるね 卑弥呼ってただの土蜘蛛国の祈祷師だぞ
皇室の祖先でもないし末裔でもない
神武とも関係ないただの土蜘蛛シャーマン >>663
なんで中文が関係あるんだ?
バカなのかな >>641
卑弥呼の時代の遺跡に後世の馬具が見つかっても何の問題もない
コーラの空き缶やコンビニのパンの袋も見つかるかも >>671
卑弥子はコンビニ勤務だったのか
最低賃金上げるために祈祷を >>673
そんな事言ってるから中国は日本の歴史家を馬鹿にしてる >>656
たぶん測ってないんじゃない
魏志倭人伝の距離は適当なもの >>674
大和の由来じゃないのか
ミカド中国人説なのか >>659
それなら畿内はコピーの元になる鏡を
魏から輸入してた事になるね 卑弥呼という当て字からも卑しい出自が見てとれる
出自もわからないただの祈祷師だよ >>660
女王国より北じゃなく、女王国以北だぞ
以下と未満の区別ができないのかよ >>663
上古中国語でも門はムンとしか読まない。トは日本でしか読まない音。
ちなみに薹、台は上古中国語でトゥーと発音し、都は上古中国語でタ、中古中国語でトゥオと発音する。 >>678
大倭は女王に使われていた市の監視役
ヤマトがその文字を当て字に選んだ理由は? あの頃の九州には王室とか無かったんだろう
原始的な集落原始的な政治体系
だから土蜘蛛と言われのちに大和政権に征伐された >>682
お前の持論なんか基準にするな
>>473 >>682
音読み=中国人の発音をベースとした読み方
訓読み=日本の元々の意味に合わせた読み方
これがわかってない人が偶にいる >>676
古代の中国古文書なんて
いまの中国語でも読めんよ
中国に帰ればいいのに
そもそも魏志倭人伝なんてガリバー旅行記なみのファンタジーだぞ
謎の動物が三十種も出てきて
十五種くらいが未解明
日本にはユニコーンとかミノタウロスみたいな幻獣がゴロゴロいたことになってる >>679
それは過去からの伝世品で事足りる
つまり畿内の銅鏡は何の根拠にもなりません >>664
なら北海道は沖縄より北だから
北海道と沖縄も同じになるね ところで邪馬台国から魏への献上品てかなりショボいよな
奴隷10人と染物の布地10メートルくらいだけとか
運ぶの大変なのは分かるがもう少し頑張って欲しかった 銅鏡ウザイな
国産三角縁神獣鏡を中国製と言うのは銅鐸が中国製だと言ってるようなもの 佐賀の必死さは笑えるレベルw
在日チョンが多い以外何も無いからな
そして佐賀県民とも呼ばれず賀人と呼ばれている >>682
持論?アホか?古代中国語発音なんて、英語版wiktionaryに漢字入力したら誰でも見れるんだけど。
古代中国の文献を日本の漢字読みで考えてるお前ってかなり頭悪いよ。 >>693
以北、以南、以下、以上
全て基準になるものを含む >>692
伝世品じゃなくても事足りるよ
景初や正始と240年辺りの卑弥呼の時代の魏の年号も入ってるし >>693
それは違うんだけど
みちのくがあって都加留がある
蝦夷と都加留はほぼ同じ >>701
伝世品でないことが証明出来ない時点で何の根拠にもなりません
残念でした >>701
畿内ではパチモン文化が旺盛だったじゃないか >>699
なら北海道は沖縄以北だから
北海道と沖縄は同じ場所になるね >>701
>>614のとおり後からまとめて作ったのが判明しているので年号も無意味ですね >>598
基本的に魏書というか偽書だと思っていい >>706
まあ沖縄以北と言ったら沖縄は入るわな
それは訳者の表現なのか原文なのかどっちなのか
前者なら間違いの可能性はある >>704
逆に鏡が伝世品である事を証明しないと
さもないと畿内から見つかる銅鏡には景初や正始と
240年辺りの卑弥呼の時代の魏の年号も入ってるから卑弥呼の時代に魏と国交を持っていたと思われてしまうよ >>706
同じ場所とは限らんだろ
南の境の話をするとき、沖縄以北が日本だというなら、そのとおりだしな
女王国の限界に関する記述だしな >>702
君の場合はな。
何故、邪馬台国は1回しか出てこない。 >>651
近畿説でもない俺に何を要求してるんだ? >>711
女王国より北の国々とは女王国を含まないよ >>710
いや全然
鏡が後から作られた国産コピーである時点で卑弥呼の時代のものとは言えなくなりました
畿内説には根拠がありません >>698
おいおい頭おかしいのか?
倭人伝は倭人の発音を中国の漢で表現してるんだよ
倭人がヤマタイと言うから邪馬臺
イトと言うから伊都
倭人の返事がアイ(ハイ)だから噫と記された
倭人はヤマトなんて言ってないのは確かだ >>713
里数の記載がある国とない国がある理由だよ 鏡の研究はすごい複雑で素人には何だかよく分からないな
ただ3世紀4世紀の古墳から景初年号の鏡が出てるならオリジナルはその勢力がどっかから入手した
どこから入手し何故それに価値を見いだしたのかは気になる そもそも邪馬台国の頃に中国で流行った鏡は北部九州からの出土が大部分
当時中国と交流があったのが北部九州なのは明白
304 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 23:12:33.44 ID:MnedjF5X0
>>272
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif >>715
国内のコピー鏡もあって
魏から輸入された鏡もあるんでないの >>708
もし邪馬台国の跡や卑弥呼の墓が見つかったらイリオス(トロイ)遺跡発掘みたいに大騒ぎになるだろうけど望み薄だね 古文書を追うのはいいが
現代語の以上以下の使い方を知らんようでは
古文書はもっと無理だ
3歳以下は3歳含むだ
当たり前だぞ >>717
基準を示して、○日以前とかなら○日を含むだろ >>720
畿内の古墳から銅鏡が出るのは4世紀以降ですよ
築造形式や出土品から箸墓古墳よりやや古いとされているホケノ山古墳から4世紀の小枝が見つかっています
古墳は盛土で密閉するので築造した後に小枝が混入するのは不可能なので、
築造が4世紀であることがハッキリしています
箸墓古墳はそれより新しい時代のものですから卑弥呼の墓である可能性はありません
460 :ニューノーマルの名無しさん :2021/05/05(水) 01:21:05.99 ID:cfsy/uqY0
>>436
期待するのは自由だけど、箸墓古墳は形式が4世紀のホケノ山古墳より新しいから可能性はほぼないと見たほうがいい
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku318.htm
> 纏向古墳群のなかの、ホケノ山古墳の築造代は、箸墓古墳の築造年代よりも古いとみられている。
> 考古学者の寺沢薫氏の年代論によれば、ホケノ山古墳は、庄内3式期のもので、箸墓古墳は、そのあとの、布留0式期のものである。
> 2008年に、『ホケノ山古墳の研究』(奈良県立橿原考古学研究所編集・発行)が、刊行されている。
> 『ホケノ山古墳の研究』によれば、ホケノ山古墳出土の、「古木効果」がはいらないよう慎重にえらばれた十二年輪の小枝の、炭素14年代測定法による測定値は、
> 四世紀を主とする年代を示している。
> (4)ホケノ山古墳出土の試料によるばあい、歴博仮説は1%以下の危険率で棄却できる小枝の資料だと、ホケノ山の年代は320年~400年ごろとなる。
> 箸墓古墳はそれよりも新しいと言われており、もっと新しくなる。詳細は317回「炭素年代法記事について」参照。 >>726
示してるだろ
実際に行った国と、行っていない国との違いだ 女王国の北側→女王国北部と言った方がわかりやすいかな >>723
それを証明できていないのが畿内説の現状
つまり根拠がありません >>732
畿内の3世紀の古墳からも三角縁神獣鏡や
画文帯神獣鏡や方格規矩鏡が見つかってるよ >>735
なら女王国以北の国々というのは女王国を含まないね そもそも神獣鏡という形式は魏と敵対していた呉のものです
材質も呉があった南中国のものが使われています
231 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 23:43:12.60 ID:xGjjowfH0
神獣鏡は魏の鏡じゃないからいまだに畿内とか言ってる人はよく勉強してね
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku356.htm
> 「三角縁神獸鏡」や「画文帯神獣鏡」の文様は、「南中国」の呉鏡系の文様であって、卑弥呼や台与が外交交渉をもった「北中国」の魏や、
> 西晋の鏡系統の文様ではない。また、鉛同位体比による分析でも、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」は、
> 「南中国」の銅が用いられているという結果が出ている。
> [平尾良光「青銅器の鉛同位体比-分析データをどう読むか-」(『考古資料大観 第6巻』小学館、2003年刊、所収)参照]。
>
> つまり、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」は、文様も原料も「南中国」系のものが用いられているのである。王仲殊は、のべている。
> 「ここで注意すべきは、中国の平縁神獣鏡が、どの種類であれすべて南方の長江(揚子江)流域の製品であって、
> 北方の黄河流域のものでなかったことである。最盛期である三国時代のさまざま平縁神獣鏡を例にとると、それらは長江流域の呉鏡であって、
> 黄河流域の魏鏡ではない。」 >>718
中国の漢の時代の薹の発音はタイじゃなくてトゥーだってなんども言ってるのが分からんのか?英語版で薹の項目Wiktionary見てみろよ。Old Chinese Pronunciation はdɯːだよ。 >>739
けど九州説は女王以北の国々は女王国を含むと言って聞かないのさ
都合悪いから >>740
それは古墳の年代推定の誤りですね
炭素年代測定で4世紀築造と判明したホケノ山古墳より古い古墳からはそれらの鏡は出てきません >>743
ヤマドゥか
ママドゥみたいだな
アフリカン >>741
日本以北がロシアというのは、言葉の意味する内容が事実と異なってる
てか、日本語能力の問題だな
ほれ、辞書を引いてみろ
https://www.weblio.jp/content/%E4%BB%A5%E5%8C%97 >>742
これ全部嘘なんだぜ
九州説は酷いだろ
三角縁神獣鏡は魏を含む中国北方の銅鏡の斜縁神獣鏡と同じ形式
銅素材も蛍光分析で分析されて魏鏡と同じもので作られてるとわかってる 日本以北はロシアだから
日本はロシアに含まれる by九州説 旧河内(現東大阪市)には【若江鏡神社】なるお社が鎮座しており、大伊迦槌大神、仲哀天皇、神功皇后をお祀りしているが、肝心の主祭神は不明(空座)のままである。謎だ… >>636
まあこれが正しいやね
実際に辿った行程は到を使用してる伊都国のみ
他は皆併記、上陸地を起点とする放射読みが妥当
そもそも引用元の廣志には記載のなく、後から追記した箇所なのだから >>752
中国製の原材料しか無い時代だからその理屈でいくと全て中国産だよ
日本独自の大型銅鐸も同様に >>752
神獣鏡が呉の形式だと言っているのは中国側の研究者ですよ
ウソは君の方ですね これを機に正しい史書の読み方ぐらい覚えろ
「女王国以北」は「女王国内の北側=女王国北部」だ >>752
原料が同じなら、国産でも同じ結果になるだろ >>757
日本の銅鏡は輸入した銅素材を溶かし合わせて作るから
不純物の銀・アンチモン比が魏で造られた銅鏡より多くなるんだよ
一方で三角縁神獣鏡と魏で作られた銅鏡は銀・アンチモン比が一致
これは三角縁神獣鏡が魏で作られた鏡である事を示している 巻向は2世紀末から4世紀前半
祭祀と皇族の住居地
唐古鍵が大和の集落地だろう >>758
中国の研究者が間違ってるのかもよ
日本の考古学では三角縁神獣鏡は魏鏡で結論づいてる ほぼ団塊の爺さんなんだろうが朝になると活発になるなw >>761
しかも漢鏡を溶かして作られたと見られる三角縁もある
だから成分や国産か船載かなんて分類は指標にならないとか >>762
その理論は金属研究の専門家によって否定されています
> 650 :名無しさん@1周年 :2019/06/08(土) 14:37:02.32 ID:vlUn2Ajg0
> >>618
> >そもそも黒塚古墳の三角縁神獣鏡は成分分析の結果、後漢鏡と同じ成分だと判明している
>
> あいにくだが、それは完全な誤りだと金属分析の専門家からとっくの昔に指摘されてるんだ
> しかも平成十六年には既に指摘されていたのに平成三十年になって同じ過ちを繰り返している悪質なゴッドハンド
>
> http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/100.pdf
> > 平成十六年五月、マスコミが一斉に泉屋博古館の発表をもとにして「卑弥呼の鏡、中国鏡と成分一致、製作地論争に新展開」と報じた。
> > 興味ある内容であり、さっそく関連する詳細な報告書「Spring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光分析」1)を入手し一読して驚いた。
> > すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、とても容認しがたい議論が展開されていた。
> > すなわち、微量成分のアンチモンが錫原料からもたらされたと言う前提そのものが完全に間違っており、
> > 当然のことながら、その前提から導かれた「三角縁神獣鏡は魏鏡」との結論も無意味のものであった。
> 中略
> > たまたま、泉屋博古館の続報論文について、金属製錬史分野の第一人者である植田晃一氏とお話する機会があったが、
> > 植田氏も泉屋博古館の主張について「実際を知らない愚論で、……こんな幼稚な論文が罷り通ったのでは、日本考古学の将来は真っ暗」
> > とまで述べておられた。 >>769
三角縁神獣鏡の成分分析の結果
魏から輸入されたものと
色んな銅を溶かし合わせて国内でコピーしたものの2種類がある事がわかってる >>769
さらに言えば、ヤマト政権が邪馬台国を滅ぼしてれば、宝物なんてぶん取り放題 >>770
九州説ではロシアは日本以北じゃないの?
お大事に >>765
金属研究の専門家によれば、三角縁神獣鏡は国産
魏鏡とか言ってるのはゴッドハンド扱い
http://www.shmj.jp/tuushin/tuushin77.pdf
> 特に、三角縁神獣鏡は日本から既に 560面も出土しているが、未だ中国からの確実な出土例がない。
> 大流行したのは確実に日本のみであり、流行地で複製鏡が製作された可能性が高いのである。
> その意味で注目すべきは、三角縁神獣鏡の 80%以上が同型鏡(同笵鏡)だという点である。
> 中国鏡にはほとんど同型鏡(同笵鏡)は見られないので、三角縁神獣鏡だけの特徴であり、いわば大量複製技術なのである。
> また、三角縁神獣鏡には表面に凸線キズという欠陥が認められるが、これも中国鏡にはない。
> 見かけは同じであっても、内部品質、特に組成は製作地によって異なるかもしれない。
> これらの点に関して、近年の大きな進展は、
> 1、中井一夫が、鏡のキサゲ加工から、青龍 3年鏡は踏返し鏡であることを論証したこと
> 2、鈴木勉が、2層式鋳型(粗い外型に細かい内型)を用いて、凸線キズの再現に成功したこと
> 3、新井宏が、鉛同位体比の研究から、異なる年号鏡を後にまとめて鋳造していることや同時期の中国鏡との比較で、
> 大部分が国産であることを論証したこと、などである。
>
> 王仲殊は最新の論文で、「日本の著名な金属考古学者新井宏氏が、三角縁神獣鏡に含まれる鉛同位体比率の測定に基づき、
> ……三角縁神獣鏡が中国の「魏鏡」ではなく、日本で製作されたことを確認」と称賛してくれた。
> >>775の続き
> さて、2015年になってからの進展。
> ひとつは、前出の鈴木勉が三角縁神獣鏡の鋳造後の補修痕を精密比較して、埋葬古墳毎に特徴が異なり、
> 鋳造地が古墳に近いところにあったとしたことである。もちろん、これは国産説に繋がる。
> もうひとつは、奈良県立橿原考古学研究所が年末に読売大ホールで開催した公開講演会「三角縁神獣鏡研究の最前線」で、
> 凸線キズの研究から、三角縁神獣鏡の「舶載鏡」が誰もが国産鏡と認める「?製鏡」と、同一の鋳型(外型)で作られていたことを
> 明らかにしたことである。「舶載鏡」も国産であった。
>
> 筆者もこの講演会に招待されて参加したが、所長の菅谷文則は遠慮がちながら「国産説」と言う。
> しかし、発表者はなぜか歯切れが悪かった。
> あるいは、旧石器捏造事件のように、石器を埋める現場の撮影までしない限り、考古学界では「魏鏡説」が生き続けるのであろうか。 >>771
単なる言いがかりにしか過ぎんね
三角縁神獣鏡には銅出徐州 師出洛陽(徐州の銅で洛陽の鏡師作)
と彫ってあるのもあって
魏の銅鉱山のあった徐州の銅で洛陽の鏡師が作ったものと見られてる
その洛陽でも三角縁神獣鏡が出土 >>1
世紀の大発見
新エネルギーでも見つけてから使え >>733
それはお前の感想レベルでしかなく、何ら根拠が示されてないわけだが?
実際に行った国、行ってない国の証明なんてできるわけがない
つまりお前の感想 九州説は畿内説を憎むあまり狂って
ロシアは日本より北じゃないと主張し出したよ >>782
徐州の銅山は呉の領土側にあります
魏の領土に銅山はありません
480 :日本@名無史さん :2019/09/24(火) 23:10:43.09
>>357
>魏の時代には徐州は魏の支配下
残念でした
徐州刺史部で銅山があったのは徐州最南端の江都や儀徴のみで三国時代は呉の領土だ
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 三国時代の、魏の領域になっている徐州に、銅を産出する地域は、ふくまれていたのか。西晋時代、東晋時代の徐州は、どの範囲をさすのか。
> すでに、1992年に、中国の考古学者、王仲殊氏は、参考文献を示し、かなりくわしく論じている。
中略
> 要するに、上にのべたように、三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。
> しかし、もし『銅出徐州』の銘文中の徐州が、いまの江蘇省の長江以北と山東省東南部の広大な地区をさしているならば、いまの揚州市付近の江都、
> 儀徴一帯には、古く銅鉱があり、漢代の初めに呉王の劉?が鋳銭したところと伝えられている
> 〔呉王劉?は漢高祖劉邦の兄の子で、呉地方に封建され、王国内の予章郡で銅山を開発して、銅銭を鋳造した。
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/365-17.gif
> 王仲殊氏の文章中にみえる「江都」「儀徴」などは、後漢の時代、「徐州剌史部」の監督する地域内にはいっていた。
> この江都、儀徴には、古く銅鉱があった。
> 三国時代には、「江都」「儀徴」などの地域は、呉の領域内にあった。 >>785
だから、違うと言うなら書き分けの理由を説明してみろよ
それに使者は伊都国に滞在するルールだしな 金印が田舎の水田から見つかったというのも眉唾だしな >>784
呉で見つかったのなら九州説にもワンチャンあったかも知れないけど
三角縁神獣鏡が見つかったのはよりにもよって魏の都のあった洛陽からだからね >>790
遺跡じゃなくて畑で見つかったんだよな
それも発掘ではなく、たまたま >>787
これも全部嘘
徐州は魏の曹操と呉の劉備の徐州の戦いで
曹操が勝って魏の領地になった
銅山県という銅が産出される場所があって後の時代になっても銅銭などが作られてた
三角縁神獣鏡の銅はここから産出されたものが使われてると見られている >>791
じゃあロシアは日本より北だから
日本とロシアは同じだね >>793
通貨の供給が滞る程に銅が不足してるのに? >>792
まあ近くに古墳が多い地区らしいから
そこから盗掘なりされたものが埋まっていたのではと言われている >>784
お前は根拠を書けと言われてもずっとお前の感想しか書いてないぞ?
いい加減にごまかさずに書けば? >>794
日本より北と、日本以北とは意味が違う
俺が言ってるんじゃないぞ
辞書がそう言ってる ロシアは日本以北だから
ロシアと日本は同じ国 by九州説 >>798
ではロシアと日本は同じ国ではない場合があると
女王国もそうなんじゃないの >>795
不足などしてないはずだよ
宋の時代になっても徐州の銅で宋銭などの銅銭が作られてるからな >>793
銅山県に銅山があったというのも使い古されたウソ
中国の考古学者に否定されている
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 三国時代の、魏の領域になっている徐州に、銅を産出する地域は、ふくまれていたのか。西晋時代、東晋時代の徐州は、どの範囲をさすのか。
> すでに、1992年に、中国の考古学者、王仲殊氏は、参考文献を示し、かなりくわしく論じている。
> 王仲殊氏はいう。(傍線を、引いたのは、安本。)
> 『銅出徐州』の銘文にある徐州とは、どの地を指しているのであるか、研究しなければならない。思うに徐州とは漢の武帝が置いた十三の刺史部
> 〔州内の国政を視察・報告させるために中央から派遣した官の刺史が監督する地域〕の一つで、管轄地区はいまの江蘇省の長江以北および
> 山東省の東南部の地区であった。後漢時代の徐州の治所〔郡役所のおかれこころ〕は?(せん)(いまの山東省?)にあり、魏時代に彭城(ぼうじょう)
> (いまの江蘇省徐州)にうつした。しかし、指摘しなければならないことは、いまの徐州一帯では、古代より銅を産出しない。
> 『漢書』地理志、『続漢書』郡国志には、彭城およびその付近の地区には、漢代に鉄鉱があり、かつて鉄官〔鉄の産地で鋳造を担当した官〕がおかれたが、
> しかし銅鉱はない。『新唐書』地理志、『宋書』地理志などにも、徐州には鉄を産するといっているが、銅を産出するとはいっていない。
> ただ、明・清時代の関係ある書籍になってようやく徐州付近に銅山があり、『旧く、かつて銅を産す』といっているが、実は根拠のないことである。
> 清時代の雍正年間〔1723~1735年〕に徐州府に銅山県がおかれたが、しかし銅山といっても有名無実である。
> 近代の実地踏査によれば、徐州利国駅〔山東省との境にある地〕でとれるおもな鉱石は赤鉄鉱であり、銅山島の南端にある鉄峰の赤鉄鉱の中に
> 黄銅鉱がまざっていて、風雨によって緑色になっている。銅山の名のおこりはこのことからおこったのであろうが、しかし、採鉱のできるような銅鉱山ではない。
> 要するに、上にのべたように、三国時代には、彭城およびその付近では決して銅を産することはなかった。 >>802
銅山県と呼ばれるとこに銅山がなくて何があったの
古代中国人は〇〇か
九州説は酷すぎるな >>801
徐州の銅は呉側にあったので魏は銅の不足に苦しみました
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku365.htm
> 魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。
> このことについて、中国の考古学者、徐苹芳氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)
> という文章のなかで、つぎのようにのべている。
> 「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では
> 銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、
> 新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけて
> さらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて?鳳鏡(きほうきょう)に属し、
> 金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の
> 『魏武帝の雑物を上(のぼす)すの疏(そ)』(安本註。ここは『上(たてまつ)る疏(そ)』と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に
> ”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも鉄鏡は引き続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、
> 位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、
> すべて鉄鏡が副葬されていました。
> 銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方に極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」 九州説は古代中国人を
銅山もないところに銅山県と名前をつける〇〇とバカにしているぞ >>804
山が緑青の色だったからそう名付けられただけで銅鉱があったわけではないと
中国側の研究者がそう言っているわけです
諦めなさい >>801
魏の時代の話な
銅が不足してるから品質の悪い劣悪な通貨で誤魔化してた
晋の時代になって呉を降してからは元に戻る >>806
ちゃんと引用先を書いても、ねじ曲げるのが畿内説 >>805
これらの長文コピペは全部ウソね
徐州は魏の領地で銅山県と呼ばれる銅の産出地があった
三角縁神獣鏡には銅出徐州 師出洛陽(徐州の銅で魏の鏡師が作った)と彫られてるものがあって
徐州の銅で魏の鏡師が作ったものと考えられている
仮に三角縁神獣鏡が九州説の言うようにニセモノなら
魏の領地でなく銅山もない徐州の銅で作ったと彫る理由は何なのか >>812
銅山県に銅鉱が無かったと言っているのは中国側の考古学者です
諦めなさい
徐州の銅を使えたのは呉かそれを滅ぼした西晋ですから
呉か西晋の職人が作ったわけですね >>808
宋の時代でも銅山県の銅で宋銭など作られてるんだよ
現代中国人も古代中国人を銅山もないとこに銅山県と名前を付ける〇〇と思ってるというのか >>814
中国側の考古学者が言ったからって何で諦めなくてはいけないのか
三角縁神獣鏡には銅出徐州 師出洛陽(徐州の銅で魏の鏡師が作った)と彫ってあって
魏の都のあった洛陽からも見つかってる
中国の考古学者よりこっちを信じるね >>815
日本史板の畿内説スレで聞きかじったのでしょうがそれはソースの無いデマですよ >>816
徐州の銅が呉側にしかなかったわけですから諦めるしかありません
魏の鏡師が作ったなんてどこにも書いてありませんよ >>815
いや貴方ねえ…
魏の時代の話してください >>818
三角縁神獣鏡が洛陽で見つかってるのに? >>820
ソースを出して議論しているのは九州説側だけですからね
デマを並べるだけの畿内説には都合が悪すぎて聞いていられないでしょう >>821
洛陽で見つけたと言っているのは古物商へ持ち込んだ農民だけで証拠がありませんし
西晋の都も洛陽ですから根拠になりません >>819
魏の時代には徐州の銅山県の銅で
三角縁神獣鏡など銅製品が作られてた
蛍光分析による成分分析の結果魏の鏡と三角縁神獣鏡は
同じ銅で作られている事がわかっている >>824
そのソースの無いデマを何回繰り返すのでしょうか?
やっぱり畿内説は根拠が無いから「嘘も百回言えば真実となる」を狙っているとバレちゃいますよ >>823
洛陽の三角縁神獣鏡は畑から出土したのが古物商に持ち込まれたんだよ
周囲は古墳が多い地域で見つかった場所もわかってる
農民が古物商へ持ち込んだといって
印象操作しようとしても無駄 >>825
三角縁神獣鏡が蛍光分析で成分分析されて
魏の鏡と同じ銅で作られてる事がわかったと言うのはソースあるよ 畿内派の拠り所はもう完全に潰されちゃった感じよね
纏向は邪馬台国→四世紀の遺跡でした
箸墓古墳は卑弥呼の墓→四世紀の古墳でした
三角縁神獣鏡は中国から送られた鏡→中国では出自不明の怪しげな一枚しか見つかってない
三角縁神獣鏡を魏鏡だとのたまう馬鹿はとりあえず置いといて今畿内派は何を拠り所にしてるんだろね >>826
古物商に持ち込んだのですから正式な発掘調査による出土品ではありませんね
個人がうちの畑を掘ったら出てきたなんていうのは信頼性が極めて低いものです
何より洛陽は西晋の都でもありますから意味がありません >>827
どうせSpring-8の話でしょ
それはもう金属研究の専門家に否定されています
> 650 :名無しさん@1周年 :2019/06/08(土) 14:37:02.32 ID:vlUn2Ajg0
> >>618
> >そもそも黒塚古墳の三角縁神獣鏡は成分分析の結果、後漢鏡と同じ成分だと判明している
>
> あいにくだが、それは完全な誤りだと金属分析の専門家からとっくの昔に指摘されてるんだ
> しかも平成十六年には既に指摘されていたのに平成三十年になって同じ過ちを繰り返している悪質なゴッドハンド
>
> http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/100.pdf
> > 平成十六年五月、マスコミが一斉に泉屋博古館の発表をもとにして「卑弥呼の鏡、中国鏡と成分一致、製作地論争に新展開」と報じた。
> > 興味ある内容であり、さっそく関連する詳細な報告書「Spring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光分析」1)を入手し一読して驚いた。
> > すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、とても容認しがたい議論が展開されていた。
> > すなわち、微量成分のアンチモンが錫原料からもたらされたと言う前提そのものが完全に間違っており、
> > 当然のことながら、その前提から導かれた「三角縁神獣鏡は魏鏡」との結論も無意味のものであった。
> 中略
> > たまたま、泉屋博古館の続報論文について、金属製錬史分野の第一人者である植田晃一氏とお話する機会があったが、
> > 植田氏も泉屋博古館の主張について「実際を知らない愚論で、……こんな幼稚な論文が罷り通ったのでは、日本考古学の将来は真っ暗」
> > とまで述べておられた。 >>831
資料的価値というものがあるね
それに三角縁神獣鏡は紋様や形式や素材の研究で魏鏡である事は確実で
洛陽で見つかったのはオマケ程度のものだから
これが呉で見つかったなら大問題だけど >>833
いいえ
鉛同位体比による成分分析では三角縁神獣鏡は南方の呉の銅であると出ていますね
本場中国の研究者によれば形式も呉のものです
231 :名無しさん@1周年 :2018/11/17(土) 23:43:12.60 ID:xGjjowfH0
神獣鏡は魏の鏡じゃないからいまだに畿内とか言ってる人はよく勉強してね
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku356.htm
> 「三角縁神獸鏡」や「画文帯神獣鏡」の文様は、「南中国」の呉鏡系の文様であって、卑弥呼や台与が外交交渉をもった「北中国」の魏や、
> 西晋の鏡系統の文様ではない。また、鉛同位体比による分析でも、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」は、
> 「南中国」の銅が用いられているという結果が出ている。
> [平尾良光「青銅器の鉛同位体比-分析データをどう読むか-」(『考古資料大観 第6巻』小学館、2003年刊、所収)参照]。
>
> つまり、「三角縁神獣鏡」や「画文帯神獣鏡」は、文様も原料も「南中国」系のものが用いられているのである。王仲殊は、のべている。
> 「ここで注意すべきは、中国の平縁神獣鏡が、どの種類であれすべて南方の長江(揚子江)流域の製品であって、
> 北方の黄河流域のものでなかったことである。最盛期である三国時代のさまざま平縁神獣鏡を例にとると、それらは長江流域の呉鏡であって、
> 黄河流域の魏鏡ではない。」 >>834
そうやって都合の悪い事実から目を逸らし続けなければ存続できないのが畿内説という謬説なのですね
よくわかりました 魏志倭人伝には、「男子は大人も子供も皆、顔や体に刺青をしている。はじめは海にもぐる時、大きな魚などから身を守るためのものだったが、今はただの飾りになっている。
国によって刺青はおのおの異なり、左にあったり、右にあったり、大きかったり、小さかったりする。身分が貴いものと卑しいものによっても差がある」と書かれている。。
また「いま倭の水人は、好んで潜って魚やはまぐりを捕らえ」とあるので魚介類を常食としていたと思われる。
奈良は海に面していないのでこれらの記述から邪馬台国は奈良にあったとは思えない。
日本各地で黥面が出土されているが奈良からは出土されていない。 >>836
じゃあ三角縁神獣鏡が呉で見つかるといいね
実際に見つかったのは魏の都のあった洛陽でだけど なぜか「九州は鏡が出る」とか思いこんでる人が多いのが不思議
そもそもこの時期の九州は完全な分裂と衰退の時期
そしてその後はまとまった勢力など一度も登場しないまま現代にいたる
なぜここに邪馬台国があると思えるのがむしろ聞きたいくらい
①弥生時代後期以降、新式の完形鏡が一枚も出ず小型和鏡、古い時代の鏡片がでるのみで鏡の出土は4世紀以降の古墳出土
②絹は最盛期の13遺跡から激減し1遺跡から麻布よりも粗雑な物が出るほど衰退している
③後期には福岡中心に北部九州全域を影響下に入れていた勢力が突如消滅して各地がバラバラになりその後まとまった勢力は出現しない
④鉄器は石器の代替程度の物しかなく他に優位をもつものではない
⑤土器、祭祀、墓制などの全てを畿内の影響に塗り替えられその影響はドンドン強くなり独自性を完全に失う
考古学的な九州の状態
こんなところのなにをもって優越してるとか凄いとか言ってるのか皆目わからない >>839
農民の自称が根拠では無意味ですね
三角縁神獣鏡の元になったと考えられている画文帯神獣鏡は呉の鏡ですね
312 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 23:22:03.72 ID:MnedjF5X0
>>284
画文帯神獣鏡は呉鏡だよ
洛陽でもごくわずかに出土していて皆無ではないが長江流域に比べると著しく少ない
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-26.gif
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-25L.gif >>837
その通りで金印も鉄鏡も玉壁も根拠にならないのよ >>841
そういうウソを並べても畿内説の信頼性が下がるだけですよ
304 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 23:12:33.44 ID:MnedjF5X0
>>272
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif 考古学者って纏向見つけただけで「邪馬台国だ!」と騒ぐ程度の知能だしね >>841
大和王権は狗奴国だからじゃね?
全て辻褄があう >>755
主祭神云々はわからないが、そもそも神功皇后の頃に大般若経があったのか
どうかの方が謎に思える >>841
絹は完全に北部九州ですね
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 ダンワラ古墳の鉄鏡は確かに注目に値する凄いものだがそもそも何の調査もされておらず古墳もすでになく
「ダンワラ古墳から出た」と言う伝があるのみで物の研究には意味があるが、考古学的な出土状況の資料としてはまったく意味をなさない
また古墳からは轡が出たとされている
そのために古墳そのものは6世紀とされている
考古学と言うのは「新しい方の年代」で判断する
伝世だのはかなり特異な条件が揃った場合のみ言えるだけのものでなんでも編年など成りたたない
たとえば現代の家にアンティークがあったとして、
その家の人がそのアンティークの初代の持ち主の関係者かと言うとそうはならないだろう
それこそどこからか持ち込んで「○○から出ました」と言うことだってできる
これを持ち出して九州説など成立しえない >>846
それそれ。個人的には崇神=神武が狗奴国系だと思ってる。
で、応神が邪馬台国系で、神功皇后と継体は渡来系かな?
あ、アマテラス系を作ったのは天武(藤原)ね >>841
>④鉄器は石器の代替程度の物しかなく他に優位をもつものではない
これも明白なウソですね
なぜ畿内説の人は嘘ばかり言うのでしょうか
嘘をつかないと出土品に裏付けられた北部九州説に対抗できないのですね分かります
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode04/occupation03.html
> 弥生時代の農業生産を画期的に高めたのは、鉄製農具の普及です。
> 鋤や鍬に鉄が使われるようになったことにより、土を耕すことが容易になり(ある研究成果では木製農具に比べ作業効率が約4倍に伸びたと算定しています)、
> 新しい土地を田や畑として切り開く開墾も盛んになったと考えられます。
> 鉄製農具が普及するようになった中期後半以降の集落の急激な増加がそれを裏付けていると言えるでしょう。
> 鉄製農具は農業の生産性を左右する重要なものでしたが、鉄素材は朝鮮半島から得なければならず非常に貴重なものでした。
> 吉野ヶ里遺跡は全国の弥生時代遺跡のなかでも鉄製品が多く出土し、鋤・鍬の鉄製刃先や鉄鎌など鉄製農具も豊富であったことがわかっています。
> このような「鉄」の豊かさは弥生時代の吉野ヶ里が大きな力を持つ集落であったことを示していると考えられます。 >>848
レスをよく読むと良い
起源だのの話はしてない
「邪馬台国当時の九州の絹」の話をしてる
書いた通り
むしろ「むかし盛んだったものが邪馬台国の時代にほぼ消滅に近い状態になってる」 >>848
もしかしてそれ1989年て事か?
最近滋賀の稲部遺跡から絹出てるよ >>851
これも見当違い
いまだに昭和の感覚
まず「鉄器」と全部まとめてるがその内容は、手斧、槍鉋、細い棒がほとんど
「農具」と称するものは「鎌」でこれは後期になってようやく登場する
そして開墾道具の「鋤、鍬」に至っては後期後半後葉でたったの20例しかない
しかも使った痕跡もない
この鉄器を作れるだけの遺跡の数を考えると総数もおそらくこの20が限界と言える
なので「鉄が世の中を変えた」などと言うのは大間違い
弥生時代は「木と石の時代」
鉄がイメージ通りの活躍をするのは古墳時代になってからの話 >>854
なぜそんなもんを?
なんの意味があるの? >>852
よく読むべきなのは君です
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 >>855
こちらはソースを提示しています
君のソースの無い妄想では対抗できませんよ >>857
弥生時代後期は邪馬台国の時代じゃない
弥生時代後期は1世紀ごろ
邪馬台国の時代は弥生時代後期後半の2世紀中ごろ
「弥生時代後期」という大雑把な括りで語る方が間違ってる
そして提示した「1遺跡」と言うのはまさに弥生時代後期後半から末にかけて邪馬台国時代の遺跡の話をしてる
宮の前遺跡一つ
つまり、邪馬台国のその時代の九州の絹は明らかに衰退しており優越性など皆無 遺跡と同じで年代がむちゃくちゃだな
先ず吉野ケ里と平原はどっちが古いのよ? >>863
2014年とは随分古いですね
>>851は現在のソースです 福岡中心に北部九州全域を影響下に入れていた勢力が突如消滅して各地がバラバラになりその後まとまった勢力は近畿に移った >>557
12000里は邪馬台国までの距離でなくて女王国までの距離だろ >>866
短里なんてない
12000里は外界までの距離 うちの近所は弥生時代の遺跡が少ないけど
古墳時代初頭に東海地方の人が移住して発展したらしい >>851
生産能力が4倍に伸びたと書いているが、鋤や鍬は書いたお通り弥生時代後期後葉にようやく登場した物
全国で20例でしかも使ったことさえもないもので4倍に増えたと書いてるのだからむしろいい加減な内容でしかないのが分かる
そもそも「4倍に伸びた」と言うのは、実際の耕作の痕跡などを元にしたのではなく
「鉄の農具を使ったら」というだけの話で考古学的な資料とは何の関係もない
弥生時代の鉄器については野永氏の見解の通り課題過ぎる評価でしかない 中国人が300年前の日本について「安房は古の阿波だ」って書いただけで現代日本人は安房は四国だって言い張ってるようなもん >>866
九州説は帯方郡より女王国まで一万二千余里を帯方郡より邪馬台国まで一万二千余里に変換するし
魏志倭人伝が方角を間違えているのを無視しるしか
糸島からは放射説で解釈するし無茶苦茶 >>871
その野永論文にこうありますが
>弥生時代前期末葉から中期前葉前後の鋳造鉄斧破片の使用に際しては,鍛冶加工ではなく,もっぱら研磨によって刃部が作り出されていたため,
>その使用価値は限定的なものであったとみてよく,広域の流通網は形成されなかった。
>中期中葉から後葉以降,一般的な生産財鉄器(鉄鏃や農工具)が製作され,経済基盤の維持のために日常的に使用されていった。
鉄製農耕具が日常的に使用されていったそうですよ >>868
残念ですが他の中国史書でも使用例が見つかっています
411 :ニューノーマルの名無しさん :2021/10/05(火) 12:20:44.24 ID:mpXV5LtY0
>>361
春秋戦国時代は短里だからね
当時書かれた戦国策に記された戦国七雄の領土は全部短里で書かれている
https://i.imgur.com/WpRnm2e.jpg
例えば楚の領土は方五千里と記されているけど長里だと方四千里でもこんなに広い
方五千里なんてほぼ中華全土統一で秦の始皇帝が存在できないw
> 655 :不要不急の名無しさん :2020/09/26(土) 19:14:02.48 ID:y1B9e6n60
> 魏志韓伝に韓の大きさが方四千里と書かれているが、
> 三国のほぼ中央に位置する荊州・襄陽を中心に方四千里の範囲を地図に描くとこんな感じ
> https://i.imgur.com/GFj713W.jpg >>865
九州説を唱える限り、卑弥呼の勢力の規模は小さなものになることから逃れることはできない
九州北部の泡沫部族集団に収まりますというのが、九州説の裏の意味でもある
あれもこれもは欲張りすぎ >>803
話を逸らすことしかできないなら、一生人にレスつけるな
相手住むだけ無駄 おっと畿内説の話題逸らしに付き合ってしまいました
魏志倭人伝に出てくる鉄器は鉄鏃(鉄製の矢じり)だけでしたね
4 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:41.00
BS-TBSの諸説あり!の映像らしいが、弥生時代の鉄鏃が大量に出土した場所が九州を横断するように存在している
どう見てもここが邪馬台国と狗奴国が戦闘してた戦線=国境ライン
https://i.imgur.com/31R7rP6.jpg 弥生人は、中国東北部の遼河流域など北東アジアで多く見られる遺伝的な特徴を持ち、縄文人と混血している一方、古墳人は、弥生人が持っていない東アジア人に多く見られる特徴 日本で500枚見つかって中国で1枚しか見つからないなら普通の人は日本製の鏡って判断する
しかも日本で加工したことがわかってるのが多数混じってるとか疑いようがないレベル >>879
熊本と福岡はヤクザが多いのは今も昔も変わらないということでしょうか
福岡は昔から喧嘩っ早い気質は太古からなのですね >>881
中国からは1枚も見つかってないよ
論理的に考えると日本から買った三角縁神獣鏡が中国の骨董市にあったと考えるべき 魏志倭人伝で韓の広さが方四千里となっていますが
>>876の下の図を見れば分かりますが通常の里程で計算すると魏の本国よりも広くなります
魏から帯方郡に派遣された官吏が朝鮮半島を自国より広いなどと思うわけがありません
短里で記しているのは明らかですね >>879
熊本のほうが。まだ、話のわかる人間は福岡より多そうですが、かなりの頑固者だったんでしょうか、欲に言う石頭みたいなものでして なお魏志倭人伝だけではなく倭人伝を含む東夷伝全体が短里で書かれていますね
例えば高句麗伝や扶餘伝には国の大きさが方可二千里とあるけどその場所に方二千里を設定すると
公孫氏の遼東が飲み込まれて存在出来なくなります
表記は短里でしかありえない
505 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:11:52.51 ID:V7dsXfha0
>>102
夫余や高句麗の方可二千里、東沃沮の可千里は短里じゃないとその場所に収まらないよ
長里だと夫余や高句麗は約900km四方になって朝鮮半島の数倍、黒龍江省と吉林省がまるごと入るくらいの巨大国家になってしまう
朝鮮半島の付け根にそんな巨大国家を設定すると遼東まで飲み込まれて公孫淵は一体どこを支配していたのかということになる
https://i.imgur.com/BuYaHJT.jpg
522 :不要不急の名無しさん :2020/08/31(月) 23:39:48.29 ID:V7dsXfha0
>>505のついでに言うと900kmって魏の都・洛陽から蜀の都・成都までの距離に等しい
魏の都・洛陽から呉の都・建業(今の南京)までは650kmに過ぎない
夫余や高句麗の方可二千里が長里ではあり得ないことが理解できるだろう
実際の三国時代の高句麗はこのくらい
短里で方二千里(約160km四方)程度
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/kokuri.gif >>876
周の時代の距離まで否定してないのよ
だからもしかすると陳寿が用いた資料は周の時代かもしれない >>877
その通り
邪馬台国は北部九州に限られる
九州右翼は欲張り過ぎ 佐賀には佐賀大和ICという
やまとの字を冠した地名のインターチェンジがあるw
ハイもう結論出ましたねw ※注意事項
このスレの1スレ目は5/29なので、ニュー速+のスレ建てルールから、次スレ建て依頼はもう出来ません
続きがしたいなら、それ系のニュースを探してきて、自分でスレ建て依頼しましょう
または★樽門氏が探してきてくれるのを待つしかありません >>891
陳寿というより公孫氏でしょ
帯方郡を基準にしてるんだから公孫氏の記録を転用してる >>896
隋書の話はしていません
魏志の里程が短里であるという話をしているのです
倭人伝を含む東夷伝の記述は韓の方四千里も高句麗の方二千里も全部短里ですね なぜ、魏の鏡が突発的に畿内で見られるようになったのでしょう?後漢時代の鏡は北九州が多かったです。 古代朝鮮の伽耶には日本人の遺伝子を持った高貴な人々がいたと判明
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1656071245/
縄文人が朝鮮半島に移住していた可能性
ウィーン大学で行われた研究によって、古代朝鮮の南部に存在した「伽耶」の古墳において、
日本人に特徴的な縄文人のDNAを多く持つ人々が埋葬されていたことが判明しました。 >>902
魏の鏡は北部九州中心に出土していますよ
神獣鏡は呉の鏡です
304 :不要不急の名無しさん :2020/08/30(日) 23:12:33.44 ID:MnedjF5X0
>>272
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif >>883
前スレに成分調べたら複数年号の鏡が一緒に作られてる可能性高いとか貼られてて笑ったわ
そんなんだったら紀年銘鏡はほぼ贋作じゃんか >>901
魏の時代に短里なんて存在しない
周の時代ならもしかするとそうかもね 🇺🇸アメリカ的考え方だよな
日本なんかアジアの最下位だ!
我们ウーマンども!! だから陳寿が用いた資料って事になるのよ
これはあり得る >>1
ウーマンだーー!!women
おちんちん付いてるのにウーマンなの??
😂🙊🤣 だから陳寿が用いた資料は周の時代って事になるのよ
これはあり得る 満州語使いなって!
意地張ってないで。アジアの恥だ。 タブガチ語再生かー!
ロマンあるな!源氏のふるさと ブラックモンブランにサンポー食品に葉隠てんぷらうっど~~ん😼 そうなると行程に書いてある伊都国とかは周の時代で紀元前 7世紀までは倭国の時代だ。
朝鮮半島南部と日本列島を版図にした大国だ。
しかし663年の白村江で倭国は敗北した。
それで国力を落として倭の別種の日本に併合された。
だから8世紀からは日本の時代だ。
ヤマイ国、倭の五王は倭国だ。
記紀で7世紀以前の倭国のことを書いていたら
それは単なる作文だ。 >>904
魏は呉が倭国と通じようとしていたので妨害したとある。
毎回必ず阻止できていたとも考えにくいので、物なり、人なりがたどり着いていた可能性はある
その時のルートとしては、朝鮮半島は魏が支配しているので使えない
呉が支配していた中国南部の揚州から、台湾、沖縄、九州南部のルートで行くしかない
という、時代背景的な解は考えられないことはない
ただし三國志呉書が未完のまま終わってるので、本当の所は知りようがない >>917
舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
陳寿は紀元前の漢代の事も書いてるし有り得るのよ >>915
誰もそんなことは主張していませんが?
当時の高句麗領土がこの程度でそれを方二千里と記しているわけですから短里でしかあり得ないのです
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kokuri/kokuri.gif
魏の通常の里程で二千里なら一辺がこのくらいの長さの正方形になるということです
https://i.imgur.com/BuYaHJT.jpg >>921
蘇我までは九州勢力政権
天智と藤原は百済人 陳寿はいろんな資料を組み合わせてるから古いのもあるだろうよ >>917
廣志と魏書も
魏略、廣志、魏書、魏志倭人伝が周の時代に書かれたものの転写ということはある 蘇我が元の天皇だったわけですね
藤原と藤原の人形の天智に易姓革命やられてたわけだ >>925
金錯銘鉄剣に21代雄略天皇の宮として、斯鬼宮の名称が掘られてる
奈良県磯城郡の事だよ
ちなみに唐古・鍵遺跡も磯城郡にある
なにか根拠を探そうぜ ちなみに安満宮山古墳は継体天皇の宮があった樟葉の宮の淀川をはさんだ向かい側にあります。
樟葉宮のすぐ北には、宇佐神宮を勧請した石清水八幡宮がありますね >>922
呉の黄竜二年(二三〇)に、衛温と諸葛直が夷洲と亶洲を探しに行かされ失敗しているのを見ると可能性は低いでしょう
280年に呉が西晋に滅ぼされた後に西晋から日本に伝わったと考えるのが自然でしょうね >>931
九州政権とは書いてない
九州勢力政権だ 佐賀が日本の中心だったなんて恥ずかしくて言えない。そっ閉じ社外秘案件。 機内説有力だったの本当に数年前までなんだな
子供の頃にはすでに畿内ってなってたからなあ >>933
発行年が1985年とありますが
>>874のほうが新しいですね 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
後漢書があるからなんだけど漢代の事を書いてるのがどうも違和感があったのよね >>909
取り敢えず依頼下
立つかどうかはスレ建て人の人次第だけどね 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。 >>935
一回で諦めたのかどうかは、呉志倭人伝がないからわからん
呉書が完成してないので、辿りようがない >>874
鉄刃農具の使用についてはカラカミ遺跡の上層式が根拠とされていたが、
これが中期から後期後葉になった事から鉄刃農具が生産に寄与したと言うのは否定されている
提示した資料の言う通り数も少なくとても世の中を変えたと言う情勢にない >>936
蘇我氏が力を持つ前、九州とあまり関わりのない天皇が既に奈良に住んでた >>942
後漢書に詳しく書いてるでしょ
そうなると陳寿は完全に後漢時代の事を書いたって事になるでしょ
魏書なのに何故に? >>939
書いた通り
鉄刃農具の出土年代は後期後葉になってる
出動数からして過大評価であることに変わりはない 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。
イベント内容神楽の里、由布市庄内町では5~10月の第3土曜の午後6時から庄内の神楽座が持ちまわりで月1回の定期公演を行います。
【出演座】
有志会
【入場料金】
500円
開催場所
庄内総合運動公園 神楽殿(雨天時:庄内公民館) >>945
その事実を認識した上で野永氏が出した結論がこれです
>中期中葉から後葉以降,一般的な生産財鉄器(鉄鏃や農工具)が製作され,経済基盤の維持のために日常的に使用されていった。 >>920
二文字が好きだよな
🇻🇳 chú ý→🇯🇵注意? >>949
野永氏はそんな評価はしていませんね
>中期中葉から後葉以降,一般的な生産財鉄器(鉄鏃や農工具)が製作され,経済基盤の維持のために日常的に使用されていった。
君の個人的見解はどうでもいいです >>948
違う違う
後漢書はだいぶ後の西晋に書かれたから三国志が元なのよ
ちょっと違う箇所もあるけど 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
これだけだと魏の時代と読めなくは無いけど
後漢書があるから後漢時代の事だというのがわかるわけで >>946
武内宿禰は、大和7部族の祖となっているのですから、その宗家は「蘇我氏」 武内宿禰が長寿すぎるのは、同じ名前を子または孫が世襲しているとみています >>935
横レス失礼。水銀朱からみたらどうでしょうか?
tps://www.gsj.jp/data/chishitsunews/83_11_03.pdf
7ページ、あたりに水銀鉱脈がほとんど呉。
呉との国交はないが貿易はある。
或いは沖縄が中継地点という場合もあるのでは?
推測ですがね。近畿 魏志だから魏の時代の事だと勝手に思ってるけど
実は周代かも知れない >>944
失敗談のみ書いて成功事例を書かないとは考えにくいですね
衛温と諸葛直は率いていった1万の兵のうち8~9割を失ったという大損害を出しているので
何度もチャレンジしたというのも無理があります >>960
少なくとも、魏の時代ではない箇所が一つはある。
それはNHKの番組で九州説を支持した魏晋南北朝史学会副会長・陳長崎氏が指摘している。
「刺史」を魏志倭人伝では、監察官(CIA、ゲシュタポなど)のように書いているが、陳寿の時代の刺史はただの行政官に過ぎず、かつ州牧以下だった。
したがって、魏志倭人伝の刺史について書かれた部分は、184年より前に書かれた竹簡を、ただ陳寿がそのまま転写しただけということになる。 庄内の神楽は江戸時代末期から伝わる伝統芸能だとは思いますが、他と比べて非常に荒々しくも躍動感あり、太古の意思を継承した神楽だと思います。
皆さん、庄内神楽を見てください
日田庄内に受け継がれた素晴らしい太鼓の響きは邪馬台国に通じる古代の意思を感じることができます
毎年11月3日・4日に庄内町総合運動公園では、庄内町神楽祭り・庄内町ふるさと祭りが開催されます。
イベント内容神楽の里、由布市庄内町では5~10月の第3土曜の午後6時から庄内の神楽座が持ちまわりで月1回の定期公演を行います。
【出演座】
有志会
【入場料金】
500円
開催場所
庄内総合運動公園 神楽殿(雨天時:庄内公民館)
https://i.imgur.com/oGvFrtd.jpg 中国の史書はその時代に合わせた書き方をしてるけど
三国志は陳寿が勝手に書いたもんだからそうじゃないんだろう 誰か書いてたが白村江までは倭国の方が強かったんだろうな百済難民移民政権が大化の改新クーデタ一による藤原政権 >>966
唐って内陸の国家だからな
だんだん進出してきてぶつかったのが白村江
ちなみに唐の侵略を手引きしたのが新羅 >>954
よく読むと良い
>弥生時代には鉄刃農耕具が普遍的には普及してはいなかったことが明らかとなった
農具と言うのは鉄刃農具じゃなくて鎌とかそういう物を指してる >>962
100里単位だったでしょうね。
実際に測定すれば、魏里で端数があったと思う
近畿 魏志倭人伝は後漢書(正確には後漢書の元の資料)を
ほとんど写して書かれた可能性がある >>959
興味深い話ですが、魏から倭へ水銀朱が下賜されたという記述が魏志倭人伝にありますので
決定打というには弱いかと
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/117/5/117_5_948/_pdf
> 朱という言葉は一般に硫化第二水銀を指すのだが,考古学関係者は水銀朱という名称を用いることがある。それは,古代に用いられた
> 無機赤色顔料化合物に朱(硫化第二水銀),ベンガラ(酸化第二鉄),鉛丹(四三酸化鉛)の三種類があり,これらを厳格に
> 区別していない場合があるからである。
> 例えば,硫化第二水銀は,辰砂,朱砂,丹砂,丹,朱,銀朱,真朱,真赤土,水金,水銀という呼び名があり,
> 酸化第二鉄はベンガラ,ベニガラ,鉄朱,丹,鉄丹,朱丹という別名を有する。また,四三酸化鉛も鉛丹,赤鉛,丹,光明丹,黄丹という別名がある(市毛, 1998)
> さらに魏志倭人伝文中にある「真珠・鉛丹各50斤」という記述の真珠は硫化第二水銀(真朱)のことであると解釈されている。
ちなみに九州の墳墓から出土する水銀朱は硫黄同位体測定により中国産と見られていますが
畿内で出土する水銀朱は日本産が使われています
魏から水銀朱を下賜された邪馬台国は九州でしょうね >>954
つまり
>>863>>933の論文は
一般的に世の中を変えたと言われる鉄刃農耕具は弥生時代後期後葉に出現しており数も限定的でほとんど意味をなしてない
弥生時代の鉄器は石器の代替程度の意味しかない
鉄器が活躍するそのイメージは古墳時代から
鉄器が優位を持ってると言うのは勘違い 結局、その情報に年代差があるってことだよ
伊都の官はニニギで
邪馬台国の官は垂仁天皇なんだから
数十年の開きがある >>968
普遍的ではないというのは畿内など鉄の普及が遅れていた地域があったということでしょう
下記の結論は北部九州など鉄器の普及していた地域の話ですから矛盾しません
>中期中葉から後葉以降,一般的な生産財鉄器(鉄鏃や農工具)が製作され,経済基盤の維持のために日常的に使用されていった。 舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
後漢書が正しいならこれは300年以上前の話し
300年間変わってないのか疑問 >>972
熊本とか九州地方は弥生後期に既に鉄製農具そこそこ一般化されてたと思うぞ
ぽこじゃが出てくるし
日本全体で言えばまだまだ一般化はしてなかったで正しいけど >>974
論文を読んでないとしか言いようがない
「弥生時代には鉄刃農耕具が普遍的には普及してはいなかったことが明らかとなった」
「鉄製工具よる木製農耕具の加工生産によって灌漑などのインフラ整備,沖積低地の開発が効率的に行いうるようになったとも想定できることから」
要は「木を削るのに使った」と言う程度の物でしかない
農具と称するものは石刃と変わらない鎌しかない
そして君の提示した吉野ケ里の「生産力4倍」記事のおかしさも理解できるだろう >>970
それは無い
陳寿がこう言ってる
陳寿の東夷伝の評
史、漢著朝鮮、兩越、東京撰録西羌。魏世匈奴遂衰、更有馬丸、鮮卑、爰及東夷、使譯時通、記述隨事、豈常也哉!
「史記」や「漢書」は朝鮮と兩越を著し、東京(洛陽の修史事業部門。東観で後漢時代)は西羌を撰録した。魏の世には匈奴が遂に衰え、代わって鳥丸・鮮卑が台頭した。東夷までも使訳が時に通うようになった。記述は事の変化に随うべきである。どうして常のことがあるだろうか?
陳寿の友人である張華の功績は非常に大きい >>979
それは君の勝手な解釈です
同じ論文中にこう書かれているのですから諦めなさい
>中期中葉から後葉以降,一般的な生産財鉄器(鉄鏃や農工具)が製作され,経済基盤の維持のために日常的に使用されていった。
普遍的ではないというのは畿内のように鉄器普及が遅れた地域もあったというだけでしょう >>976
変わったのは倭国大乱後は元銅鐸文化圏が朝貢をやめて独立国家を目指した事
北部九州勢は卑弥呼女王に属し朝貢を再開した
南の狗奴国は銅鐸文化圏と同様に独立国家を目指した >>978
宇佐神宮もこの時上書きされてしまったよ チャック トクソンだろ?
[下部][脩徳] 嫡 徳孫 >>980
丸写し部分があるのは事実だけどな
全部が丸写しではないだけで >>982
論文を読めとしか
「弥生時代には鉄刃農耕具が普遍的には普及してはいなかったことが明らかとなった」
「鉄製工具よる木製農耕具の加工生産によって灌漑などのインフラ整備,沖積低地の開発が効率的に行いうるようになったとも想定できることから」
その論文に数も書いてある
そしてもう一つの論文にもある通り20例程度しかない
実際に現在になっても数は変化ない
そもそもその鉄刃工具を作るだけの技術をもつ遺跡の数を考えるとそれが上限だろう
君がすがりつくような「実は沢山あった」にはなり得ない >>983
それはつまり「鉄器なんて関係なかった」という補強にしかならない
鉄器など無くても弥生時代は始まり、鉄器など無くても人口が増えてる
つまり弥生時代の鉄器に世の中を変える力なんてなかった事の証拠だと言える
鉄刃農耕具の出現と数と技術を考えれば「実は早い段階から沢山あって普及して世の中を変えていた」など言いようがない >>986
応神も新羅系のようです。『古事記』によれば、応神の母・神功皇后の始祖は「新羅の国の王子」である天之日矛(天日槍とも書く)。妻の阿加流姫(比売神)を追って新羅から渡来した王子は、但馬国(現在の兵庫県北部)に住み着き、その中心地の豊岡市にある出石神社に祀られています。応神はその子孫になります >>992
君が自説に都合の悪い部分を読もうとしないチェリーピッカーだということです
>中期中葉から後葉以降,一般的な生産財鉄器(鉄鏃や農工具)が製作され,経済基盤の維持のために日常的に使用されていった。
これは論文の結論部分に書かれていることです 古墳時代成立の鍵となるのは鉄ではなく威信財や祭祀
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=3037
九州北部の鉄の量は尋常ではありませんでした。これは倭国乱後も変わりません。つまり、鉄の中心が
西から東に移るという現象は、観察されていないのです。戦乱前と同様に、九州北部の鉄の保有量は
圧倒的で、鉄をめぐる優位性は変わっていません。
それに対して、明らかに分布の中心が西から東に移るものがあります。それは、鏡です。鉄は、武器であり
農耕具であり、すなわち利器、実用品です。一方、鏡や玉は、それを持っているからといって戦いに勝てるわけで
はなく、土地の開発が進むわけでもありません。ただ、それを持っていることによって、自分の威信が高まります。
その意味で、「威信財」と呼ばれています。この威信財の中心は、西から東に移る傾向が見られています。
その移動を示しているのがこちらの図です。これは紀元前1世紀から紀元後の2世紀まで、中国で作られた鏡が
どのような状況で日本の遺跡から出土するかを示したものです。
九州北部では弥生時代にもらったものは、もらった人の墓にすぐに副葬するのですが、近畿ではそれが200年から
250年後に造られた古墳から出てくるようになります。つまり、近畿では副葬されるまでどこかで保管されていたのです。
卑弥呼が登場すると、三角縁神獣鏡という魏の鏡が大きな役割を持つようになり、全国の首長たちに
配られるようになります。つまり、当時の倭国の大部分の地域では、鏡を持つことが自分の地位の高さを
示す威信財として、非常に高く位置付けられていた、という段階にありました。
しかし、九州北部の王たちの間では、そうした段階は紀元前後にはすでに終わっており、より実用的な利器に価値を見いだす
という段階に入っていたのではないかと考えられます。つまり、当時の九州北部地方と近畿地... オモシロ畿内説まとめ
Q:奴国から南に向かって畿内に着くのは無理でしょう?
A:そんなん知らへん!!
Q:東の海の先に倭種の国があるそうですね?
A:知らんのや!!
Q:三角縁神獣鏡ってシナでは1枚しかでないのに、どうしてザクザク畿内から見つかるのですか?
A:知りまへん!!
Q:畿内のどこに倭国大乱の跡があるのですか?
A:知っておまへん!!
Q:纒向遺跡から馬具が出ましたよね?
A:知らんちゅうとんねん!!
Q:吉備国や出雲国を通らずどうやって畿内に入るのですか?
A:知らへんのや!!
Q:帯方郡から12000里だと畿内に届かないのでは?
A:知らへんゆうとるやろが!シバくぞ!
Q:本当に畿内に邪馬台国があったんですか?
A:あったで(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:知らへん!!知らんがな!!知ったことかいな!! このスレッドは1000を超えました。
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