【佐賀】「邪馬台国」ひも解く手掛かり!? 吉野ヶ里遺跡で新発見の石棺話題に――関連株探る ★10 [樽悶★]
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佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡(吉野ケ里町、神埼市)」で新たに出土した石棺が、5日に開けられる。弥生時代の日本列島に存在したとされる邪馬台国の謎が解き明かされるきっかけになる可能性があるとして・・・
2023/6/1 12:38
https://kabushiki.jp/news/589754
★1:2023/06/03(土) 12:10:06.13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1686041980/
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https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685697010/ >>89
いや、伊都国までの距離は10500里と書いてるわけよ
その程度の計算すら陳寿ができないと思ってる畿内派酷すぎないかいくらなんでも
魏の人間は、対馬までの距離すら全く把握してない、伊都国までの距離すら積算できないと馬鹿にしてるのが畿内派 魏志倭人伝の記述からだいたい60~70mでしょ1里は >>115
短里のモノサシが見つかってないからしょうがない
韓伝も倭人伝も実際に距離を測ってないんだろ まあ俺も短里という単位があったとは思わない
隋の時代でも倭人は里を知らないと書いてあるし
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
安倍さんが卑弥呼で山上みたいなのが暗殺して
当時のマスコミ野党朝鮮人がこいつこそ神だと崇めて嘘を吹聴しまくって支配した
まあこれが歴史なんだろう 昔も今も九州の人間なんて蛮族扱いされてたんだろ
じゃああのステレオタイプな連中との交流避けて、大陸の人間と交流しようぜって考えるのが自然だと思うよ
吉野ケ里近辺育ちの俺としての想像 対馬が方可400里、壱岐が方可300里
まず正しくない 海路の距離なんて古代では測れないんだから「うーん、千里ってことで」って
感じにしたのでは。陸路も藪漕ぎするような場所じゃ歩測も厳しいので
「最大で一日十里くらいで」ってことにして、さらに日数も日によって距離が
変わることもあって切りの良い10日単位にしたと。つまり実際には100kmを
5日かけて歩いたとしても「百里」「十日」になる。 D1a2aがアイヌや沖縄
O1b2が倭人だけどOが中国だから日本人は南方と古代中国とすれば宮崎の山の中に居たなら南方系の隼人
鬼神信仰の鬼道をするなら天照大神は半島から来た弥生人の勢力でスサノオは縄文人の隼人の可能性が高い マキムクは戦闘の跡と中国への朝貢の形跡がないそうだから
吉野ヶ里の方がヤマタイコクには近そうだ。 >>119
対馬が400里四方で壱岐が300里四方と書いてある
マンハッタン距離で考えれば島内の移動距離は合計で1400里になる
伊都を通過して奴国まで100里だからちょうど12000
奴国が境界なのは文中にも明記してある
算数できないのはどっち? >>128
そのころ倭人には距離を数値で表すことができなかった
よって使者による目分量
対馬は縦に長いから、見る角度によって変わる >>86
城の山古墳、副葬品は中国製「盤竜鏡」 大和政権からか
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1501D_V10C13A1CR0000/
新潟県胎内市にある日本海側最北の前期古墳「城の山古墳」(4世紀前半)で
昨年見つかった副葬品の銅鏡が、1~3世紀に中国で作られたとみられる「盤竜鏡」と分かり、
同市教育委員会が15日、発表した。 >>133
もうそんなこじつけは聞く気しないので終わりにさせていただく 「島を歩いた距離も含める」なんて言い出すのはいい加減呆れるわな畿内派
もう何でもありだわ 邪馬台国まで行く使者が、対馬や壱岐島を隅々歩いて、その距離も含めて「帯方郡から女王国まで12000里」などと主張する畿内派
一方で、対馬から1000里、壱岐島まで1000里などの距離には含めてないなどと都合のいい解釈
話できる相手じゃないわな >>86
越後は8世紀に性的将軍派遣してるけど支配下だったのか? 統治の話だけど
日本が韓国を併合して韓国と名乗っとけばその後の展開は違ったはず
首都を半島に移す案は明治政府内にもあった あと伊都国はやっぱり糸島市付近で、あの狭い地域に一大卒を置いて
魏の使者を留めておくんですね。ちなみにその東側の奴国(福岡平野)の
入り口に後年の「山門庄」があるのも興味深い。 >>140
よく見なよ
対馬や壱岐の歩いた距離を含めれば九州北部で1万2千里と書いてるのは九州派 >>142
その場合でも国名は大日本帝国なんじゃないの? >>143
玄界灘から博多湾まで見通せるから、警戒に都合がいい >>144
この辺は共通認識としてもらわないと話にならんわなまじで
整合性の取れないことが出ても考えを変えないんだからまじで話にならない >>145
都合が悪いことは九州派の所業にしてしまうな >>151
無駄だと思うな
魏志倭人伝の都合の悪い記述は誤りか改ざんだと言い出すのが畿内説 >>152
何で畿内説が対馬や壱岐を歩いた距離を含めれば
女王国のあった1万2千里は九州北部と主張しなきゃいかんの? いやまさか、対馬まで1000里から1里70m程度すら共通認識とできないんだから、無理でしょ
畿内派とは絶対に話にならないと断言する 対馬や壱岐を歩いた距離を含めれば
女王国のあった帯方より南1万2千里は九州北部と畿内説が主張してるという
九州説はついに狂ったのか 畿内説は日本書紀ありきだから
弥生時代から北部九州にいた秦や波多の名前の人々←中央アジアの血も入ってる を
6〜7世紀に朝鮮から来た設定で突き通そうとするのが嫌だね
秦や波多は弥生時代には織物技術や鉱石の採掘技術を持ってきてたのに >>153
いや俺も相当盛ってるしでたらめも多いと思ってるよ
しかし帯方郡から、任那までの距離、対馬まで1000里、壱岐島まで1000里というのは距離感的に正しく思える
そこから1里どの程度かは分かるわけで、そこすら一致できないんだから話なんて不可能でしょ
畿内派は勝手に妄想語ってれば良い 東夷独自の短い里があったとすれば流石に史書に書かれてるはずだよ >>154
最近の畿内説の手口だよ
1万2千里は女王国までの距離で、邪馬台国はもっと先にあると言いたいらしい
だから、伊都国までで10500里だと釘を刺してる
伊都国は確実に女王国だからな >>162
まあそう言ってる人が居るかも知れんね
オレは違うけど 最初の方の天皇はどうせ適当なんだから神武東征をトヨの没後にすればスッキリする
日向を出立した神武は宇佐にて邪馬台国(ヤマト)の王になった
ヤマトの錦の下で勝ち進んだ苦労したけど
纏向かどっかまで平定した後
「我こそはヤマトの大王、神武である!」
これで奈良はヤマトになったわけよ
うん、完璧 >>163
末盧国までで1万里
そう書いてあるんだから縮尺を気にしてもしかたない
測量しながら歩いてるわけじゃなし 戸数と里数は大月氏国との釣り合い(司馬懿と曹真の功績の釣り合い)のための観念上の数値だからあまり考えても仕方ないよ
三国志研究の専門家の意見も参考になる 邪馬台国の遺跡であれば
・たびたびの戦で厳重に警備された集落、戦死者の墓、鉄鏃などの鉄製武器が出てくる
・大陸と交流した形跡、大陸で生産された品々が出てくる
・南に狗奴国らしいクニ、邪馬台国と対等に戦える鉄武装したクニがある
この3つは外せないでしょ
吉野ヶ里遺跡はこれらと矛盾はしないけど証拠不十分
比定するのはまだ早い まあ別に1里440メートルだったとしてもいいのよ
陳寿は距離を盛りたかったと解釈できるから
相対距離は割と正確だから邪馬台国までの位置も自ずと把握できる
畿内派にはできない合理的思考ですわな >>86
そういえばワカタケル雄略天皇の頃には埼玉まで支配してたか。 >>150
文中に出てくる数字を素直に足したら12000になると言っているだけ
残り1500しかないから北九州だ、と盲信的にいうのは根本的にやばいひとたち
しかも移動手段については何も言及してないのに脳内補間する人たちとは議論が成立しない
現実的なのは海岸線に沿って船で移動するんじゃないの?知らんけど
あと、邪馬台国がどこにあったかという話とは独立に、12000里の説明は着くとしか言ってない >>166
帯方より南1万2千里が示すのは沖縄台湾辺りの会稽東冶の東
陳寿も今までの道里を計算すれば女王国はまさに会稽東冶の東に当たると魏志倭人伝に書いてある
要するに女王国は魏ではとても遠い南にあるとされてたんだよ >>171
どうして島のサイズを路程に加えなきゃならんのだ? 対馬壱岐島内の距離を加えて計算するなんて説を言ってる奴なんて今日まで見たことなかったな >>172
またシナがメルカトル図法の世界地図を持っていた伝説か
当時のシナの認識では、会計当地の東には九州がある
https://i.imgur.com/h1jMHKh.png >>174
畿内派の矛盾を指摘するとこうなるという好例だな
哀れだわ、馬鹿すぎて >>174
島内の距離でさえない
海から眺めた島のサイズだ >>176
いちいち変換するのが面倒なだけだよ
ニスイとサンズイの違いも意味がない
シナはまだ地球が丸いことを知らない時代 畿内説は結論ありきなんだからなにをどう説明したところで主張は覆らない >>178
じゃあ距離の話に戻ろうか
末盧国までで1万里 吉野ヶ里は邪馬台国の時代にはかなり衰退してたってのを覆さないとどうにもならんだろ >>173
??
海を渡るのは大変リスクが大きいのだから最短距離にするよね?
最短距離になるまでは島づたいに移動する
その移動距離を考えなくても良い理由は逆になに? ツクヨミは男か女か分からないからLGBTだったかもしれない
で潰して統一勢力でどんどん東進して難波に大和朝廷
欠史8代どころか崇神天皇まで存在しない
崇神天皇がスサノオで神武天皇で倭の五王になるかな
邪馬台国連合がまた争い始めた4世紀に現れた
三韓討伐とか新羅討伐とかしながら継体天皇だろうね >>183
そこから南に20日水行で投馬国
さらに南に水行10日陸行1月で女王国ね
場所は沖縄や台湾あたりに相当する会稽東冶の東
魏志倭人伝に書いてるのはこういうこと 日本書紀「唐と戦争したのは倭国。我々は日本。百済、新羅、高句麗は倭国」 >>190
そこから、というのはどこからだ?
末盧国から残り2千里だが >>186
とんでもない馬鹿だな
船はどうするんだかアホが
畿内派ってアホしかいないのかな >>194
魏志倭人伝によれば不弥国から南に水行して投馬国にまず行く事になってるよ なんで高千穂かだよな
高千穂に鬼道をする巫女の誰かを閉じ込めてたかも 吉野ヶ里が巨大とか言うけど
ほとんどの遺跡は発掘されてないんだから
比較して巨大かどうかわからんだろ >>196
不弥国からとは書いてない
魏志倭人伝によれば伊都国から残り1500里 >>188
横軸に天皇の代数をとって縦軸に即位年をとってみると、履中天皇以降は直線的になるのだが、以前は急激に直滑降する
つまり、寿命が突然伸びだす
これを履中天皇以降の即位期間で計算すると、神武天皇は西暦200年前後になる
邪馬台国時代に日本の大きな転換点があったと強く推測させる推論ではあるな 弥生時代の石棺墓に丹ならほぼ邪馬台国で決定的なんだけど、これを阻止するには畿内説側がこの石棺墓にケチをつけるしかないわけ。
予防線を張り、あれは古墳時代の石棺墓と言い出す始末、呆れる♪ 邪馬台国が北九州なら遺跡も所在地も明確になりそうなもんだけどねえ
伊都国、奴国は争いなし、
なのにその何倍も大きい投馬国や邪馬台国が人によって所在地バラバラなのは不思議だ >>66
九州人は一度収容施設に放り込んで九州を軒並み発掘したらいいと思う
日本の歴史の解明のためだ
我慢してくれ 全く忖度しない
中国人学者の見解
中国魏晋南北朝史学会 副会長 陳長崎教授
纏向遺跡に桃の種が2000個出た事や、水銀が南で採れることが根拠として挙げられていました。 桃は南でも採れるし、水銀も四国や佐賀で採れているので、根拠にはならないですね(笑) 3世紀前半にヤマト王権が北九州までその勢力下に置いていたという説にも違和感はなくはない
感覚的なもんだが 邪馬台国がたとえ九州にあったとしても
日本の統一政権ではなく北九州の一地方政権で
しかなかった事よ
畿内まで支配が及んでなく
纏向遺跡は別の国があった証拠よ
北九州の邪馬台国はただの田舎政権よ >>197
前方後円墳も多いし、北から九州を制圧できなかった畿内勢力が、四国から宮崎に渡って九州制圧の足がかりにしたのでは
まあどうとでも解釈できる
景行天皇の熊襲征伐も東廻りで宮崎から >>199
魏志倭人伝によれば不弥国の次に
南に20日水行で投馬国
さらに南に水行10日陸行1月で女王国
場所は沖縄や台湾あたりに相当する中国の会稽郡東冶県の東 あの旅程は方角も距離も全部デタラメ
遠く海を隔てたちっぽけな島国なんて眼中にないので対馬壱岐までは来て九州には上陸さえしてない
つまり倭人伝は世界最古のカラ出張の報告書である >>207
わかってねーな、それでいいんだよ。倭人伝の邪馬台国や卑弥呼を知りたいだけ。大和朝廷なんてお呼びじゃないんだよ♪ >>209
不弥国の次に投馬国のことを書いてる、それだけのこと
これまでのように前に書いた国からの距離は書いてない
起点は不弥国じゃないんだよ
なんせ、伊都国から1500里なんだからな >>195
船で海岸線沿いに移動すると書いたが?
現代日本語文も読めないひと?
>>189
狗邪韓国までは海岸線を水行している
そこから対馬までで「初めて」海を渡るとしている
海を渡る距離が1000里と書いてある
海岸線沿いに移動するのと海を渡るのは別の概念なので1000里には含まれていない >>207
まあ纏向遺跡は
畿内にすらヤマト王権の支配が及んでいなかった証拠でもあるけどなw
あれだけの規模の聖地が記紀に一切記されてないわけで 弥生時代後期に博多から大量の播磨の土器
そこから話を進めないとね >>213
であれば距離は1000里で変わらないだろ
なんか本当に馬鹿なんだな >>213
帯方郡から狗邪韓国までは海沿いに移動してる
7千里だ
何も区別してない
水行は水行だな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています