【佐賀】「邪馬台国」ひも解く手掛かり!? 吉野ヶ里遺跡で新発見の石棺話題に――関連株探る ★10 [樽悶★]
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佐賀県の国指定特別史跡「吉野ヶ里遺跡(吉野ケ里町、神埼市)」で新たに出土した石棺が、5日に開けられる。弥生時代の日本列島に存在したとされる邪馬台国の謎が解き明かされるきっかけになる可能性があるとして・・・
2023/6/1 12:38
https://kabushiki.jp/news/589754
★1:2023/06/03(土) 12:10:06.13
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1686041980/
関連スレ
【佐賀】世紀の大発見!?「邪馬台国時代の墓」を発掘、有力者の墓の可能性も…吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で発見された石棺墓 ★10
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1685697010/ >>42
対馬まで1000里、壱岐島まで1000里で同程度の距離というのは実際の距離感に近い
当然この1000里70km程度がベースにすべきだろう またもや捏造するか 国立歴史民俗博物館
https://daishi.at.webry.info/200910/article_34.html
>最近の歴博は、もと館長の白石太一郎以降、こういうマスコミ操作に長けた学者が多くなっています。そしてそれは近畿圏の学者にほぼ共通した性行なのです。同志社の森浩一名誉教授などは、こういう傾向を「学者として全く恥ずべき姿勢だ」と非難しています。 >>45
つまり70キロしか無い対馬までの距離を430キロと思っていた魏の人間の旅程は全く参考にならないと畿内派は言いたいわけね
まあ主張するのは勝手だが、俺はそういう人間とは話をするきはないのでこの辺で終わりにさせていただく 九州の邪馬台国は4世紀以降に奈良の大和朝廷の侵攻によって滅亡した
これが事実
神武が崇神とかとんでも馬鹿なこと言わなければいいだけ
神武は紀元前後の人 魏志倭人伝て著者が直接日本で見た訳じゃなく噂話程度を書き記したと聞いたことがある まあ狂ったように「魏の1里は440メートル」などと主張するアホの畿内派が大量にいるんだろうな
まじで論理的じゃないわこいつら 4世紀に奈良から高塚古墳が拡散、北九州~南東北まで和人化
現代日本人の内なる二重構造では畿内から離れる周縁部程半島大陸の影響が薄くなる
倭王武「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」
上表文「東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國」 大陸からの渡来の波は、古墳時代を通じて断続的に押し寄せたが、それは中央政権の支配が拡大するにつれて、農耕が全国的に普及したためである。
このように渡来形質をもつ農民集団が本土の広い範囲に進出したからといって、古墳人の地域差が縮まったわけではない。
大陸要素の濃度という点からみれば、古墳人の地域差はむしろ拡大している。したがって、古墳人の特徴も、地域を無視して一概には論じられないが、
大ざっぱにいうと、大半の古墳人は現代日本人に類似する特徴を多かれ少なかれもっている。
百々幸雄らは、頭蓋小変異の出現頻度によって、縄文人・渡来系弥生人・古墳人・歴史時代日本人に分割され、現代人の特徴は古墳時代まで遡れると結論している。これらの特徴はすべて大陸に由来するものである。
各地の古墳時代男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)
+2.12…畿内
+1.47…南近畿
+1.08…四国
+0.76…東中国・西近畿
+0.70…西中国・北東九州
+0.51…関東・南東北
+0.40…北陸
-0.87…南九州・西九州
※+は弥生(朝鮮)側、-は縄文(アイヌ)側 >>45
千里刻みの水路や、百里刻みの陸路が、メートル単位で正確な縮尺になってるという畿内説の、なんと馬鹿げた思い込みなことよ 日本人の「完成」は古墳時代だった?
https://www.asahi.com/sp/articles/ASP9K55ZJP9JULBJ00Z.html
金沢大や鳥取大などの国際研究チームが18日、米科学誌サイエンス・アドバンシズに発表 >>52
著者の陳寿はそもそも日本に来たことないよ 帯方郡から邪馬台国まで12000里
これを1里70メートルで計算してしまうと840キロとなり、とても畿内に届かないことから、対馬までの距離すら魏の人間は把握してなかったなどというこじつけをしてしまう畿内派
話できる相手じゃないでしょこれまじで 中国人に読ませたら九州説になる
結局大和の邪馬台を紐付けしたい奴らの認知バイアスの問題よ >>52
史書は基本的に前代の史書を書き写し当時の朝貢の記録を添える
前代の史書からの変更点があれば修正される >>46
水行は船行と違って
海岸線に沿った移動、川を使った移動でも使う。
船で遡れない川沿いを歩いて移動するのは
陸行じゃなくて水行。 だいたい畿内派の根拠を把握したつもりだが、これでますます一層俺の九州説が確固たるものになってしまったわ
なんで畿内なんて思えるのか本当に不思議 関係ないけど福岡の行橋の実家あたり自宅建て替えようとしたら地面から遺跡出てきて中断になること多いわ
近所もまた?みたいに売約中止になったりね
掘り返したくないから実家どうしようとか思う >>64
そんな都合よくあちこちに船を放置したり拾ったりできるかよ 日本書紀、古事記を編纂した大和政権は
西暦248年頃の日本の記録を持っていなかった。
つまり卑弥呼の時代には皇室は日本の統治者なんかじゃない。
畿内か、下手したらまだ四国にいたと思われる 狂ったように魏には存在しなかった1里78mの短里を主張する九州説の方が非論理的
魏で使われてた1尺24cmの正始弩尺などのモノサシから換算して
魏の1里は約430mだったと判明してる
魏志倭人伝の里数は全体で行程が1万2千里になるように
おのおのの行程が水増しされたもの
帯方より1万2千里というのは当時の概念でものすごく遠いこの世の果てを漠然とあらわす数字
邪馬台国をとても遠い国とした比喩的表現で実際に測った距離ではないよ 畿内説は皇室が邪馬台国から始まっているとしたい勢力だろ
あそこは滅ぼされた土蜘蛛国達の国
皇室とは全く関係ない
邪馬台国が九州にあった時すでに大和王朝は数代目の天皇がいたし卑弥呼は子供いないし大和王朝に入った形跡もなし
箸墓は出雲信仰である大物主三輪山信仰の為の象徴的古墳 北九は磐井の乱の頃にはとっくにヤマト朝廷配下だよ。この間何があったかだな。 >>37
まず1000里というのが適当すぎん?
AD2世紀や3世紀の距離の記述がそこまで正確とはとても思えん
せいぜい「とても遠い」という意味では >>67
は?
普段から国の行き来に使ってるルートを使うだろ?
魏の使者を案内するんやぞ? >>58
魏志倭人伝の1里を換算したら1里78mの短里になったと言ってるのは九州説だろ
畿内説では魏志倭人伝の里は実際に測定されたものではないと言ってる >>75
まだ2ちゃんねるすらなくてあめぞうだった >>71
だよな
後世に残ってる地名は壱岐対馬松浦伊都ナぐらいだからなあ >>46
関門海峡は海の民にとって重要な航路だから見張りが厳しい
諸星大二郎の海神紀おすすめ、安曇族土蜘蛛熊襲隼人てんこ盛り 卑弥呼の後を継いで統治したのは岱与
その後行方知らず
途中で誅殺されたが後を継ぐ者おらず内乱をまた始めているうちに大和勢力が侵入してきたのだろう たかだか500年前の本能寺の変ですら何が何だか分かってないのに邪馬台国の真相なんて分かるのかよ 以前、3のくせに「2get」と書き込んでしまい、
「2000万年ROMってろ!」と言われてしまった者です。
言われた通り2000万年間、沢山沢山ROMりました。
猿から人類への進化…
途中、「ガットハブグフーン?」と書き込んだジャワ原人に反論しそうになったりもしましたが、
言いつけを固く守り、唇を咬んでROMに徹しました。
そして現れては消えていく文明。数え切れないほどの戦争…生と死、生と死。
2000万年経った今、晴れて縛め(いましめ)を解かれた私(わたくし)が、
2get出来るチャンスに今っ!恵まれました。
感動で…私の胸は張り裂けんばかりです。
卑弥呼女王、見てますか?
義経様、清盛様見てますか?
信長様、秀吉様、家康様 見てますか?
それでは、2000万年の歴史の重みと共に、
キーボードを叩き壊すほどの情熱をもって打ち込ませていただきます。
2grt! >>81
少なくとも大和朝廷と無関係なのは確定してる
日本書紀や古事記の記述からそれは明らか。 >>71
そこまで行かずとも、倭王武の頃413年には西日本から関東北陸まではヤマト王権の支配下だろう
考古学的にも記紀的にも整合する
問題は、3世紀前半以前に九州北部が畿内勢力の支配下にあったかどうかのみ 勝った方が負けた方の国名名乗るとかwww
逆に考えるんだ >>81
おれは昨日隣で起こった夫婦喧嘩の理由すら知らないからなあ 12000里は女王国までの距離であって邪馬台国までの距離ではない
対馬と壱岐の島内の距離も勘案すれば女王国の玄関口である伊都までの距離が12000里と言いたいだけ
それ以上の意味はない
12000という数字になっている理由は>>69に同意 わからないことはわからないでいいのに
妄想を断言して垂れ流す奴は本当に頭がおかしい 現存する魏志は写本が新しく中国の学者は改竄、挿入があると言っている
後の大和朝廷が奈良であるという新情報のせいでそうなったんだろう
>>69
>>85
じゃあ魏志韓伝は? 短里で書かれているぞ
学者は「韓伝と倭人伝はセットだから通して読め」と言っている。韓伝で説明していることは倭人伝では省略されているので >>73
そう、そして船は港につなぐんだよ
船で出かけたら、次の港までは船で移動する
これが水行 >>87
現代でもある
新興企業が大きくなって企業合併で
古くからある老舗を併合してその老舗の名前を名乗り
老舗のネームバリューを宣伝に生かす >>79
案内係は安曇族か宗像族なので問題ないかと >>87
シャープ
日産
ThinkPad
モトローラ ここ数日で「邪馬台国は筑紫平野一帯」という結論に達しました。
卑弥呼がいた場所が筑紫平野のどこかは分かりませんが。 >>87
>>95
古代においては世界的にも負けた側の国名を残す統治法が多い
古代じゃなくてもカーネギーなどは常に買収された側の社名を残すようにしていた
統治が上手いならそうする
もちろん倭国もそうだったとは断言できないがそういう統治法がある 帯方より南1万2千里は魏の尺度だとオーストラリアやパプアニューギニア
実際に測った距離ではないのは明らか
というのはもう何十年も前から言われてる
九州説は短里短里で聞かないけど
まさに>>25
短里があった事を示すモノサシなど見つかってないし
見つかってる魏のモノサシは1尺が24cm
これから換算して魏の1里は440mと判明してる >>89
伊都国までは1万五百里じゃね?
伊都国は邪馬台国で女王国も邪馬台国の方がしっくりくるな 帯方郡の使者と道案内人や通訳が使用している里が65〜70mなだけでしょ NGにしてるから番号飛びまくってるけど、ひたすら一里440メートル主張してる畿内派・・・
哀れになってくるわ >>104
日本書記に筑紫から任那まで2000里と書いてある 辰砂=硫化水銀
大和鉱床群 伊勢 紀ノ川河口の間
阿波鉱床群 阿波吉野川沿い
九州鉱床群 大分市坂ノ市姶良郡溝辺町丹生附
九州西部鉱床群 佐賀県多良岳嬉野町松浦市 田油津媛(タブラツヒメ)山門郡瀬高大草・神功紀
宇津羅姫(ウヅラヒメ)山門郡長島宇津・景行紀
八女津姫(ヤメツヒメ)八女郡北矢部・景行紀
神夏磯媛(カムナツソヒメ)田川郡佐波・景行紀
速来津姫(ハヤキツヒメ)海部郡宮浦・豊後国風土記
比佐津媛(ヒサツヒメ)日田郡會所・豊後国風土記
五馬媛(イツマヒメ)日田郡五馬・豊後国風土記
大山田女(オオヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
狭山田女(サヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
八十女(ヤソヲミナ)杵嶋郡嬢子・肥前国風土記
海松橿媛(ミルカシヒメ)松浦郡賀周里・肥前国風土記
浮穴沫媛(ウキアワナヒメ)彼杵郡浮穴郷・肥前国風土記
征伐された土蜘蛛女は津と川上に住む、肥前は土蜘蛛に有利な地形に割拠していたと見る
呼子~松浦一帯
https://i.imgur.com/gs0d5Uf.png
大村湾一帯
https://i.imgur.com/nwHDHYn.png 大和朝廷には神武の天照と出雲の大国主と二つの神がいたんだろ
そして崇神に神託したのは天照ではなく大国主御魂である大物主
その神託によって大和を強大化した >>101
統治法の話
>>104
韓伝が短里なのでしょうがないじゃないか>>92
学者は韓伝と倭人伝はセットだと言っている >>103
個人的に安曇族と同族じゃないのかなと思っています >>89
いや、伊都国までの距離は10500里と書いてるわけよ
その程度の計算すら陳寿ができないと思ってる畿内派酷すぎないかいくらなんでも
魏の人間は、対馬までの距離すら全く把握してない、伊都国までの距離すら積算できないと馬鹿にしてるのが畿内派 魏志倭人伝の記述からだいたい60~70mでしょ1里は >>115
短里のモノサシが見つかってないからしょうがない
韓伝も倭人伝も実際に距離を測ってないんだろ まあ俺も短里という単位があったとは思わない
隋の時代でも倭人は里を知らないと書いてあるし
<魏志倭人伝には陳寿の誤解が多く含まれています。>
中国史書は先代の史書と当時の記録をもとに後世の文書屋が編纂したものです。
「里数」表記の行程は中国側に残っていた記録であり、
「日数」表記の行程は朝貢に来た倭人からの伝聞記録です。
それぞれ表現方法が違うだけであり帯方郡から北部九州までの道のりです。
卑弥呼の使者が魏に来たので改めて女王国までの行程を確認したところ倭人は次のよう答えた
・帯方郡から南に船で20日行けば半島南部の投馬国
・更に南に10日進み北部九州=邪馬台国に上陸します
・上陸後、女王の都までは徒歩です
・合計三十日の道のりです。
この朝貢記録を陳寿は誤解し、南に水行三十日,陸行一月と記した。
卑弥呼時代の倭国たち:https://i.imgur.com/41Q7Kwe.png
・女王国の東には海が有り、それを渡るとまた倭種の国々があった。
・南に敵対する狗奴国があり、卑弥呼時代に戦争が勃発した。
・後漢時代の倭は100国あったが女王国は30国である。(馬韓が50国なので割と小規模)
倭人伝において女王国の西側の国については一切触れられていないことから、
おのずと女王国は倭の西部に位置することがわかる。
<その他の文献記録>
・韓国は東西が海に面し、南は倭と接する4千里四方の国である(魏志韓伝)
・倭人が鉄をとりに半島まで来ていた(魏志韓伝)
・倭人は「里」を知らず「日」を使って距離を表現していた(隋書)
・伊都国の又南、至る邪馬薹国(翰苑 広志逸文)
・日本書紀 崇神記65年「任那者去筑紫国二千余里北阻海以在鶏林之西南」
半島南部の任那から北部九州の筑紫までの距離が約2000里と記されている
魏志倭人伝と同様に短い里が使用されている
安倍さんが卑弥呼で山上みたいなのが暗殺して
当時のマスコミ野党朝鮮人がこいつこそ神だと崇めて嘘を吹聴しまくって支配した
まあこれが歴史なんだろう 昔も今も九州の人間なんて蛮族扱いされてたんだろ
じゃああのステレオタイプな連中との交流避けて、大陸の人間と交流しようぜって考えるのが自然だと思うよ
吉野ケ里近辺育ちの俺としての想像 対馬が方可400里、壱岐が方可300里
まず正しくない 海路の距離なんて古代では測れないんだから「うーん、千里ってことで」って
感じにしたのでは。陸路も藪漕ぎするような場所じゃ歩測も厳しいので
「最大で一日十里くらいで」ってことにして、さらに日数も日によって距離が
変わることもあって切りの良い10日単位にしたと。つまり実際には100kmを
5日かけて歩いたとしても「百里」「十日」になる。 D1a2aがアイヌや沖縄
O1b2が倭人だけどOが中国だから日本人は南方と古代中国とすれば宮崎の山の中に居たなら南方系の隼人
鬼神信仰の鬼道をするなら天照大神は半島から来た弥生人の勢力でスサノオは縄文人の隼人の可能性が高い マキムクは戦闘の跡と中国への朝貢の形跡がないそうだから
吉野ヶ里の方がヤマタイコクには近そうだ。 >>119
対馬が400里四方で壱岐が300里四方と書いてある
マンハッタン距離で考えれば島内の移動距離は合計で1400里になる
伊都を通過して奴国まで100里だからちょうど12000
奴国が境界なのは文中にも明記してある
算数できないのはどっち? >>128
そのころ倭人には距離を数値で表すことができなかった
よって使者による目分量
対馬は縦に長いから、見る角度によって変わる >>86
城の山古墳、副葬品は中国製「盤竜鏡」 大和政権からか
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG1501D_V10C13A1CR0000/
新潟県胎内市にある日本海側最北の前期古墳「城の山古墳」(4世紀前半)で
昨年見つかった副葬品の銅鏡が、1~3世紀に中国で作られたとみられる「盤竜鏡」と分かり、
同市教育委員会が15日、発表した。 >>133
もうそんなこじつけは聞く気しないので終わりにさせていただく 「島を歩いた距離も含める」なんて言い出すのはいい加減呆れるわな畿内派
もう何でもありだわ 邪馬台国まで行く使者が、対馬や壱岐島を隅々歩いて、その距離も含めて「帯方郡から女王国まで12000里」などと主張する畿内派
一方で、対馬から1000里、壱岐島まで1000里などの距離には含めてないなどと都合のいい解釈
話できる相手じゃないわな >>86
越後は8世紀に性的将軍派遣してるけど支配下だったのか? 統治の話だけど
日本が韓国を併合して韓国と名乗っとけばその後の展開は違ったはず
首都を半島に移す案は明治政府内にもあった あと伊都国はやっぱり糸島市付近で、あの狭い地域に一大卒を置いて
魏の使者を留めておくんですね。ちなみにその東側の奴国(福岡平野)の
入り口に後年の「山門庄」があるのも興味深い。 >>140
よく見なよ
対馬や壱岐の歩いた距離を含めれば九州北部で1万2千里と書いてるのは九州派 >>142
その場合でも国名は大日本帝国なんじゃないの? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています