【歴史】「諸説あり!」邪馬台国研究、全体像が分かる読みやすい入門書「やっぱり邪馬台国は筑紫平野だ」 [樽悶★]
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著書を手にする豊田滋通さん(福岡市の梓書院で)
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230801-00010013-rkbv-003-9-view.jpg
弥生時代の環濠集落「吉野ヶ里遺跡」(佐賀県)で見つかった石棺墓。「邪馬台国が九州にあった証拠が見つかるか」と地元では期待が高まったが、本来「地元びいき」「地域振興」と歴史は無縁。問題は、ファクトだ。今、邪馬台国研究はどの辺りまで分かっているのか。歴史好きのRKB神戸金史解説委員長がイチ押しの書籍がある。RKBラジオ『田畑竜介 Grooooow Up』で著者にインタビューした。
■「ファクトが出てから盛り上がりませんか?」
1年ほど前に「吉野ヶ里で10年ぶりの本格発掘始まる」という話題を取り上げた時、僕はものすごく期待していて「楽しみ!」と話したんですが、いざ今年6月に石棺墓を開けるにあたって、地元の人たちや歴史ファンが盛り上がり過ぎていて、どこかで気持ちが引いてしまっていました。
「謎のエリア」というネーミングは別にいいと思うんですが、まだモノが何も出ていないのに、佐賀県知事が率先して記者会見を開いて「地域振興」みたいなにおいがしてきました。歴史学って、ジャーナリズムの仕事と同じで、ファクトが一番大事。「ファクトが出てから盛り上がりませんか?」と思っていました。
(省略)
「邪馬台国は近畿にあったんじゃないか」「いや、私たちのいる九州じゃないか」。自分のところに持ってきたい人が多いのも分かりますが、筆者の豊田滋通さん(福岡県春日市在住)は西日本新聞の記者だった方で、とても冷静に書いています。東京新聞・中日新聞に115回連載された記事の書籍化です。豊田さんにインタビューしてきました。
(省略)
■本の最後でやっと示された著者の見解
「邪馬台国は一体どこにあったんだろう?」
いろんな意見があっていいのですが、最終的にはモノが出てきて決まってきます。そのモノについて、豊田さんに考えを聞いてみました。
豊田:7万戸(魏志倭人伝の記述)の巨大な国が、どこにあるのか。それが出てくると、「やっぱり邪馬台国はここだ」となるでしょうね。「筑紫平野」は、広大な平野です。我々はどうしても、佐賀県とか福岡県とか考えるでしょう。でも、佐賀平野と筑後平野じゃなく、「筑紫平野」。要するに、筑後川の周辺。あの広さが、7万余戸の実態ではないかなあ、と。
神戸:僕らが生きているうちに、決定的な証拠が見つかってガラリと動くのかどうか。
豊田:「筑紫平野」はあまりまだ発掘されていないんです。農地が多いから。これからまだまだ可能性が出てくると思いますよ。
神戸:巨大環濠跡が見つかる、とか。
豊田:吉野ヶ里にあれだけのモノがあるわけですからね。
神戸:「あそこにしかないわけではないでしょう」ということですね。
豊田:と、思いますねー。
■邪馬台国の所在地と卑弥呼の墓
「邪馬台国は、いろいろな国の連合体だった」と言われています。共立された王は、当時の風習として、出身国で葬られている可能性もあるんです。実は、巫女がまつられていた平原遺跡(福岡県糸島市)こそが「卑弥呼の墓ではないか」と考える研究者もいるんです。
「7万戸が住んでいた」と言われている邪馬台国の「跡」は、どこにあるのか。まだまだ「筑紫平野」にも発掘できていない場所がいっぱいあります。近畿の纒向遺跡(奈良県桜井市)でも、発掘された部分は2%に過ぎないそうです。突然どこかから出てくる可能性は十分あります。
モノが、どこでどう出てくるか。土地の上には家屋などが建っているので、発掘はどうしても断片的です。でもそれを積み重ねていくと、どんな歴史像が結べるのか。こういったところが、歴史の非常に面白いところで、すごく僕は期待しています。また、吉野ヶ里遺跡で「謎のエリア」と言われるところは、遺跡の内で本当に重要な場所なんです。僕はまだ何かあると思いますね。
(省略)
神戸金史(かんべ・かねぶみ) 1967年生まれ。毎日新聞に入社直後、雲仙噴火災害に遭遇。福岡、東京の社会部で勤務した後、2005年にRKBに転職。東京報道部時代に「やまゆり園」障害者殺傷事件を取材してラジオドキュメンタリー『SCRATCH 差別と平成』やテレビ『イントレランスの時代』を制作した。
8/1(火) 17:52配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/85d443bc3cc656973b62b6d657f1b260f32ade75
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230801-00010013-rkbv-000-9-view.jpg 畿内は掘ればいくらでも出てくる
九州説なんてあっと言う間にコールド勝ちするぐらいにね どこでもいい
その後ヤマト王権に滅ぼされたから歴史から消されたんだよ 倭人伝のうちイト国までは実際の記録だけど
そこから先は、適当に話を盛った創作だよ。 筑紫平野?ありえませんよ。
世界史を紐解いても連合国家を創りだすのは耕地に恵まれぬ蛮族です。
邪馬台国は耕地に恵まれず、航海術、冶金術、鬼道によって周辺諸国を従えていったカルト国家です。
ヤマタノオロチの伝説は恐怖政治を敷いていた(「一大率は殺史のごとうふるまう」)邪馬台国が
南の狗奴国(狗古智卑狗=スサノオ)に壊滅させられた史実を伝えているのでしょう。
邪馬台国は耕地に恵まれぬ肥前(おそらくは彼杵郡か高来郡)に突如としてまるで後の平家のごとくあっというまに滅びた国家です。 そもそも1800年前に筑紫平野ってあったの?
あの辺は干潟続きの湿地だったはずなんだが 筑紫平野?ありえませんよ。
世界史を紐解いても連合国家を創りだすのは耕地に恵まれぬ蛮族です。
邪馬台国は耕地に恵まれず、航海術、冶金術、鬼道によって周辺諸国を従えていったカルト国家です。
ヤマタノオロチの伝説は恐怖政治を敷いていた(「一大率は殺史のごとうふるまう」)邪馬台国が
南の狗奴国(狗古智卑狗=スサノオ)に壊滅させられた史実を伝えているのでしょう。
邪馬台国は耕地に恵まれぬ肥前(おそらくは彼杵郡か高来郡)に突如として出現し
まるで後の平家のごとくあっというまに滅びた国家です。 蜀の生まれの陳寿が
又聞きで適当に書いたのが魏志倭人伝やろw
(´・ω・`) 「交差点」目指す育児は、仕事術から生まれた。バズりまくる夫妻に、育児ハックを聞いた。
https://gyzdd.unfug.net/0803/qo8zuhq8.html もう良いからそういう子供のケンカ
韓国にあったで落ち着いとけー 九州説にせよ畿内説にせよ、どこの地元も観光収入欲しさにおらが村こそ邪馬台国だと必死w
浅ましい。 魏のころはまだ方位の計り方が曖昧だったし、地球が球体とも分かってないから
東と南を間違えた可能性は十分にある
頭のイメージでは平面、実際は球面を移動すると、現実と乖離が出る
使節団が日本に着ます、そして下関海峡に入ったら、そこから先は大きな河口だと思いますよね、
大陸の人にとって対岸が見えない川は普通だし、詳細な日本地図を知らない状態だから
つまり瀬戸内海を大きな川だと思ってずっと進んだ先が近畿地方ですよ 九州はやれ大雨だ、台風だ、噴火だ
としょっちゅう大災害が起きている。
近畿ではそのような災害はない。
災害だらけの地域で都市機能が営めるのか疑問。 >>9
ヤマタノオロチなら出雲だろう
どうして筑紫になるんだ 文化財総覧WebGISが面白い
検索語入力したら件数を円で表示してくれる
検索の仕方が悪いのかもしれんが
畿内って箱式石棺がほとんどないんだな
よくこれで邪馬台国の議論に参加してたもんだわ
標準記録も突破してないのに世界陸上のレースに乱入するようなもんだろ
箱式石棺は山鹿が多い
ひょっとしてひょっとするかもしれん 幻想を抱きたいのは分かるけどね、九州は古代から日本の辺境なのよ テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>22
>魏のころはまだ方位の計り方が曖昧だったし、地球が球体とも分かってないから東と南を間違えた可能性は十分にある
ねーよサル
朝日が昇ってくる方角が東だと当時から誰でも知ってる >>4
土蜘蛛として滅ぼされた巫女女王の祖だと思うわ アトランティスみたいに天変地異で海底に沈んでたりして >>22
東を「南」ねえ
じゃあ狗奴国とやらは東海のクニなんだよね
なぜか纏向と東海は仲良しで箸墓古墳も一緒に作ったみたいだけど 邪馬台国の位置ってスイカ割りみたいなもんだろ
右に10歩、左に30歩、そこから右に100歩…みたいな
よって当たることもあれば、当たらないこともある 途中で騙して韓国に戻ったニダ
邪馬台国は韓国ニダカサハムニダ >>25
一応高志(北陸)って事になってるけどね
出雲に侵攻してきた敵対勢力だから
筑紫勢力の侵攻の可能性も無きにしもあらず 東京人=チョン
って根付いちゃったからな もうこれは一生拭い去れないと思うよ >>1
筑紫平野に行くには佐賀に上陸して途中海を渡る必要性が少ない
逆に筑紫平野に邪馬台国の敵対クニがあれば、それを避けるために有明海を舟で渡る必要がある
つまり邪馬台国は今の熊本県 >>34 >>39
誰か北京当たりと西日本での太陽の見え方を絵にしてくれたら分かりやすいんだけど
もちろん緯度の違いで、北京と西日本で太陽の昇り方が違います、
北京では日本より南東寄りに太陽が現れる
それを基準に日本で日の出の方向を決めると、実際より南に寄ってしまう
つまり南に行ってるつもりが東に行ってた >>22
近畿はもっとない
近畿に行くなら九州に上陸して、いくつか分かれていたクニの中を歩いて行くようなリスクはとらない
九州に来た船で、そのまま海流に乗って兵庫か京都くらいまで行って、そこで上陸して邪馬台国を目指す
その旨の記述となるはず
いずれにしても歩くのは最短距離 >>11
久留米辺り迄は海でしょうね
それでも結構な広さの平野になる
当時の日本は平野が物凄く少ないので(関東も関西も大半が海)、数少ない貴重な平野
九州北部で多くの人口を抱えられるのはこの辺りしかない
https://i.imgur.com/AonP5ik.png >>48
その図は海面を高く見過ぎている
糸島半島は当時も陸続きであったことが分かっているし柳川市にも弥生遺跡が多数ある >>22
指南車も知らんのか?
秦の時代に既に存在していた。
指南車の精度や実用性は怪しいところがあるが、古代中国で方角が重要視されていたことは確実。
軍事行動、特に行軍では方向と距離はとても重要。 春くらいにchatGPTに「邪馬台国はどこにありましたか?」って聞いたら
「魏志倭人伝によるとどこそこその位置なので現代のタイとラオスの国境付近になります」と新説を出してきてビビったw 朝鮮半島からもし大軍が攻めて来て
近畿なんかに政府があっても何も指示
出せないでしょ。
普通に考えて北九州。
元寇の時も関東から続々と鎌倉武士が
南下してきたわけで。
その末裔が毛利家、大友家、島津家などでしょ。 >>0006 倭人伝のうちイト国までは実際の記録だけど、そこから先は、適当に話を盛った創作だよ。
よくあるトンデモ説の典型。
魏志倭人伝をまじめに読んでない。
例えば、張政の記述が創作?
張政は軍事的な情報を得るために、倭へやってきた可能性が高い。
目的は、
a できれば倭を魏の同盟国とし、軍勢を提供させたかった(実際には、さほどの兵力はなく、遠隔すぎて使えないと判断したろう)
b 呉を挟み撃ちにするような勢力として、プロパガンダに利用したい(こちらは「会稽東治の東」と、適当な記述で、ふかしてる)
ただし、魏の使者は卑弥呼と直接の謁見はできず、「見る者少なし」と言い訳してる。おそらく男弟が実質的な倭国側の外交責任者だったのだろう。
張政は卑弥呼の葬儀にも列席したのではないかな。だから当時の殯(もがり)の様子や卑弥呼の墓の形状が記されている。
なお、張政は倭国(といっても邪馬台国を中心とする勢力)と狗奴国との戦争に際して、倭国の指導者あてに檄文を書いている。
当時の倭国の指導者(又は通訳などを含む指導層)はこれを読むことができた。(そうでなければ檄文を書く意味がない)
つまり中国語が理解できた。
陳寿が創作したとしたら、必ずばれることになる。 >>3
畿内は掘れば掘るほど邪馬台国じゃない証拠が出てくるんだよな 地政学考えたら日田盆地が起こりの地で、そこから筑紫平野を支配して強国になり、最後博多を手に入れて、漢の権威を背景に列島における覇権を握ったわけで。
で、後漢書と魏志倭人伝よく読めば、その漢の時代の列島の覇権国が倭国大乱で敗れ、謎の勢力大倭(ダイワ)に博多港を支配されてると分かる。
この大倭(ダイワ)こそが畿内勢力だわな。後の大倭(やまと)だ。 邪馬台国論争は政府のプロパガンダ。例によってお前らは操られてるだけ。
弥生時代の史実は出雲族の子孫が伝承をとうの昔に公表してくれてて全部分かってる。
国宝級の資料がアマゾンで普通に売ってる。
ヤマタイコクではなくヤマト国。
ヤマト国は奈良の三輪山周辺でその初代大王はムラクモ。ムラクモの子が海部氏になり、
海部家の家系図も公開されてて国宝になってる。出雲族の東の王家からムラクモに就任祝いに
プレゼントした鉄の剣がムラクモ(草薙)の剣だ。ムラクモの祖父の彦ホアカリは徐福のこと。
2200年前にヤマトの地を開拓したのは、中国人に殺されたヤエナツミ(事代主)の子の
クシヒカタさんでその子孫の方が伝承を公開してくれてる。
それで何があったか全部分かる。なぜ天皇がこれまで自分の出自を隠してるかも分かる。日本列島の
人間の遺伝子と文化が入れ替わった真相も。それが歴史が隠蔽されてる理由だよ。
魏から金印を貰ったのは九州の豊国の宇佐族の女王の豊玉姫。豊玉姫は自分はヤマトの
姫巫女(卑弥呼)だと偽って魏に使いを送ってた。ほんとのヤマトの姫巫女はモモソ姫。
政府から寄付金を貰ってる研究者達は邪馬台国論争は答えが出ないことを知ってて茶番を
続けて儲けてるだけ。 吉野ヶ里は物部王国。秦王国でもいいけど。ここは2200年前に秦の始皇帝の命令で
日本列島にやってきた徐福と部下3000人と始皇帝の氏族の築いた国だよ。
元は出雲族の分家の宗像家の国だが、徐福と宗像の姫の市杵島姫が政略結婚して
一緒に住むようになった。
徐福の中国での本名は徐市ジョフツ。徐福の末っ子の男児のホホデミが最初に物部を
名乗った人物だ。物部神社で祀られるフツの神とはジョフツのこと。物部神社の
鶴の紋章は徐福伝説の鶴のこと。嫁さんの市杵島姫はフツが来た島の姫の意味。
徐福が北九州で自称した名前がニギハヤギ。前回出雲に来た時は彦ホアカリと自称した。
出雲族の伝承ではそうなってるし、出土してる墓の形態は徐福と部下の故郷と一致してる。
それから400年以上後に、物部の子孫の物部イクメが豊国の豊玉姫と朝鮮系の
渡来人のヒボコ族のタジマモリと連合軍を形成して縄文人系の出雲王国とヤマト国を武力侵略。
そして実質的な初代天皇のイクメ天皇が誕生する。物部王朝は直ぐに滅びるが。 魏志倭人伝の旅程の記述のうち、方角については、地図上の方角に完全に一致するとはかぎらない。
そもそも「東南」より細かい方角の記載はなく、東、東南、南、南西、西、西北、東北など、45度以内の誤差があったことは確実。
また、中国からの使節団が宿泊した経由地から出発するときの方角を示すものであるならば、その後は海流の影響を受けて方角がずれていたり、「道なり」に進むことで方角がずれることもあり得る。 >>0060
物部を語るときは、出雲との 親 密 な 関係を示さないと、ただの無知な珍説になるぞ。
石上神社の正殿の真ん前に出雲建雄神社があることを知らんのか? 国宝なのに。
「物部は出雲を征服した」などの、雑な妄想は通用しない。
ところがこれが難しくて、しっくりする説はなく、出雲も物部も謎に満ちた氏族となっている。 >>46
ちょっと感覚がずれるとしても定量的に考えると無理がある
ぼ 卑弥呼は姫巫女のこと。人名ではなく役職名なので何人も居る。
ヤマト国のモモソ姫が大乱を収めたという意味は、まずヤマト国は縄文人系である出雲族の国。
3世紀半ば第1回目の所謂神武東征があり(2回目は70年後に物部イクメが)、
物部ミケイリと物部イナヒがヤマト国に侵略に来るのだが、ほんとは物部は負けてたのだ。
しかし出雲族の東の王家があえて物部をヤマトに迎えいれた。出雲族というか縄文人は
とにかく人を信じる。今でも出雲や青森などの縄文系の遺伝子の濃い人はとことん
お人よし。物部は中国人だから乱暴者で宗教は北斗七星を信仰しててヤマトの朝日信仰
とも合わずうまくいかない。そこでモモソ姫が物部の宗教と朝日信仰を混ぜた祭祀の
方法を発明して打ち解けていった。結局物部は一度は吉野ヶ里に帰っていった。またくるが。
古事記の神武の金色のトビは出雲族の東の王家の富家(トビ家)のこと。ナガスネヒコの
モデルになったのはモモソ姫の弟の大彦(幼名ナカソオオネヒコ)これは物部を絶対的に
嫌って戦い続けて敗北し最後は信濃まで逃げてそこで暮らして亡くなってる。布制神社の
祀る大彦命がナガスネヒコのことなんだよ。 まともな学者なら
「邪馬台国は日本じゃない」
と言うんだけどなwww >>66
将軍様の国と場所が一致するんだよなぁ…。 纏向遺跡に九州系の土器は少ない。
ゆえに、纏向遺跡は、九州の伊都国に重要な出先機関とされる一大卒を置いた邪馬台国とは、関係性が薄い。
また、記紀では、卑弥呼=神功皇后とされるように、邪馬台国の扱いはかなりでたらめ。
ヤマトの指導層の間で、邪馬台国の伝承がほとんどなかったことは確実で、邪馬台国とヤマト政権は別物。
纏向遺跡は宗教的な施設である可能性が高い。後の時代の高野山や比叡山のようなもの。
中国地方の国々は、邪馬台国の連合に加わりつつ(倭国30国の構成要素の一つ)、宗教的には、纏向を中心とする前方後円墳で葬儀を行う新興の教団を支えていたのではないかな。
一方、邪馬台国の卑弥呼の鬼道とは、死者の埋納方法を強く意識した宗教で、平原遺跡の方形周溝墓や吉野ヶ里の墳丘墓のような、伝統的な弥生墓を用いたものとしか考えようがない。
卑弥呼系の鬼道そのものは、邪馬台国の滅亡とともに廃れるものの、鏡で死者を封じこめる(黒塚の鏡の向きなどから、平安時代の寝所の八稜鏡のような破邪ではない)という思想は、古墳へ引き継がれた。 >>63
アホか 記憶力か読解力がないのか。
俺が言ってる内容は、出雲族の王家の伝承そのものだぞ。
物部の祖の徐福は出雲にも来てて、ここで徐福の部下のホヒが大事件を起こしてしまう。
ホヒ親子が出雲族の主王のヤチホコさん(大国主)と副王のヤエナツミさん(事代主)を
殺害してしまう。ホヒは徐福の命令でやったと言ったが、それは本人しか分からない
ことで、伝承でも真実は分からないが。それで徐福は居れなくなり一度中国大陸に帰ってる。
この事件で出雲族は真っ二つに割れていろんな思いや葛藤があっただろうが、新天地を
一つ開拓し分家することになった。それでヤエナツミさんの子のクシヒカタさんが
ヤマトの地を開拓し、三輪山に事代主を祀る神社(当時は神社ではないだろうが)を
立てて、そこから見える朝日をアマテラスと名付けて拝むようになった。
しかしヤマト国の初代大王は徐福の孫のムラクモに任せる。この辺が縄文人らしいところで
あえて任せる。現在の猜疑心の塊で虐め好きな日本人と縄文人の遺伝子は根本的に異なる。
現在の出雲大社の宮司をやってるのは殺した方のホヒ家の子孫であり大国主の祟りを
抑えようとしてる。これは結局後に物部がヤマトを侵略し出雲を侵略したことによる。 >>69
トヨの台はトと発音するのに、邪馬台国だけ強引にタイと呼んで意図的に錯乱させようと
してるのが分からんのか? 弥生時代に文化と人間の遺伝子が入れ替わって、記紀には天皇家の祖がみんな船に
乗ってどこからかやってくる。出雲とヤマトを侵略したことを匂わせる内容があり。
天皇は自分の苗字と出自をずっと隠してて言わない。弥生時代まで文字がなかった
という嘘。都合よくこの時代の資料がないと言う(嘘で出雲族が史実を完璧に残してる)。
魏志倭人伝には倭国大乱と戦争があったことが記されてる。記紀での天皇の出自の
九州には吉野ヶ里という中国の出土品がじゃんじゃん出てくる渡来人の国がある。
政府が日本史の何を隠したがってるか、これだけ揃えばバカでも察しがつくだろう。
邪馬台国卑弥呼論争はそれから世間の目を背けさせるために仕掛けられてるプロパガンダ
にすぎない。
出雲族の王家の伝承に全部答えが書いてある。魏から金印貰った豊国の宇佐族の豊玉姫が
ヤマト遠征中に病死した場所も分かってる。厳島だよ。だから厳島神社と宇佐八幡宮は
様式がよく似てる。 土蜘蛛の女性酋長一覧置いとくぞ
卑弥呼乱立祭りやで
田油津媛(タブラツヒメ)山門郡瀬高大草・神功紀
宇津羅姫(ウヅラヒメ)山門郡長島宇津・景行紀
八女津姫(ヤメツヒメ)八女郡北矢部・景行紀
神夏磯媛(カムナツソヒメ)田川郡佐波・景行紀
速来津姫(ハヤキツヒメ)海部郡宮浦・豊後国風土記
比佐津媛(ヒサツヒメ)日田郡會所・豊後国風土記
五馬媛(イツマヒメ)日田郡五馬・豊後国風土記
大山田女(オオヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
狭山田女(サヤマダメ)佐嘉郡川上・肥前国風土記
八十女(ヤソヲミナ)杵嶋郡嬢子・肥前国風土記
海松橿媛(ミルカシヒメ)松浦郡賀周里・肥前国風土記
浮穴沫媛(ウキアワナヒメ)彼杵郡浮穴郷・肥前国風土記 福岡県遠賀川河口域の山鹿貝塚で3500年前の埋葬人骨が20体以上出土しており、
緑色大珠を持った2号・3号・4号の女性人骨は呪術師兼女族長であったとしている。
サメの歯のイヤリング、翡翠勾玉、貝の腕輪十数個、垂れ飾り、足飾りを全身に付けていた。
縄文人の女性が装身具を多数身に着けて埋葬された事例は全国でも極めて少なく、縄文社会の構造について一考の余地を与えている。
https://i.imgur.com/3zq0XJZ.png どこでもいいだろ
いつまでくだらない論争やってんだよ
結論なんて出ないんだから、めいめい好きな場所だと
思ってればそれが正解だ 倭国と大和日本は別種
日本人の原型は古墳時代に完成したと金沢大学とドイツの国際研究チームがネイチャーに発表
形質人類学では九州が最も原住民アイヌに近い、東国は渡来形質
また、関東・東北の古墳人は顔の高さも眼窩も高い値を示しており、渡来系弥生人・東日本古墳人とほぼ同じである。
https://i.imgur.com/LHKH2rS.png
https://i.imgur.com/nNiww8r.png 土蜘蛛伝承のある肥前は縄文渡来中間、南部九州はより縄文に近い
日本人の内なる3重構造では渡来系の大和日本(東国)が九州原住民系を攻めている
土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム2022年度研究報告第19号
https://i.imgur.com/W5xlMUM.png
https://i.imgur.com/s0foxHU.png 夷人雑類、つまり化外の地
隈本の語源も大和民族の住まぬ僻地だからと言うもの
「西方民族の名称の古史に見ゆるもの、隼人あり、熊襲あり。肥人・薩人あり。種禰人・夜句人・阿麻弥人あり。
海人の部下にありと思考せらるる海部・安曇部など、また西方民族の系統に属するもののごとし。」
夷人雑類の肥人。水野祐はこの異族を西九州の漁労民にあてている。熊本県の箱式石棺墓から出ている西九州の古墳人は、低顔という点では南九州古墳人をしのぎ、大腿骨骨体の柱状性も強いなど、その特徴は南九州古墳人によく似ている。
肥人は西北九州の漁労民と深い関わりをもつ異族だと言われているから、在来系の特徴をもつ西北九州弥生人は、肥人につながる人たちだったのかもしれない。 各地の神話を取り込んだ日本書紀で天孫降臨の地として有名な高千穂峰がある宮崎県高原町の立切地下式横穴墓群(5世紀中頃から6世紀)
https://i.imgur.com/9uIQLQA.png
https://i.imgur.com/UCpx4xh.png
典型的な縄文形質76体の人骨が出土
隣の宮崎県小林市東二原地下式横穴墓群は公園に人骨レプリカ付きで一般公開してる 例えば、弥生後期から奈良時代までの500年間、形を変えず存続して作られていた南九州の成川式土器はある時期を境に途絶える
これが9世紀初頭、抵抗していた隼人の名が最後に記録された時期と重なる
まつろわぬ民と呼ばれた者たちは日本に組み込まれていく訳だ(公地公民)
この地域から保存状態良好な人骨が1000体以上出土している
https://i.imgur.com/VEpyZQS.png
https://i.imgur.com/Jm7IBDy.png 「成川式土器」と呼称されてきた土器群を現在の編年観にてらすと、弥生時代後期から古代(9世紀)にまで及ぶが、
様々な編年案を経て、現在は弥生時代終末期以降の南九州在地土器を「成川式土器」と呼称するのが一般的である。
成川式土器終焉までの過程をたどってみると、徐々に古代土師器や須恵器が取り入れられるとともに、成川式土器を使用していた人々の生活が変わっていく様子を垣間見ることができる。
https://i.imgur.com/aNcGvNT.png
時期別に器種組成を見ると、大きく2段階に分けることができる(図4)。
弥生時代終末期から古墳時代前期の中津野式・東原式の特徴としては、大型の高杯が安定的に出土するようになり、同時に小型丸底壺や鉢類などの食器類の器種が充実する。
食器類が増加するのは、弥生時代中期後半の大隅半島に分布する山ノ口式(入来式縄文土器の系譜)や弥生時代後期の川内川下流域の松木薗式(曽畑式縄文土器の系譜)に見られたが、
それが全域に普及するのは東原式段階である。
https://i.imgur.com/b4StvHE.png 食器組成として見ると、少量の大型高杯と多量の小型鉢類が多いことから、共用器である置食器と銘々器の手持食器を中心として構成されていることがわかる(図5)。
古墳時代中期以降の辻堂原式・笹貫式を見ると、薩摩半島から鹿児島湾岸地域は東原式段階の機種組成をほとんど引き継いでいるが、高杯は土師器系高杯へと変化し、小型化・多量化する。
小型の鉢類も多く、また、須恵器𤭯模倣品や在地的な坩など、飲用器の発達がみられる。坩には大型のものと小型品2種類が認められる。
したがって、共用器である大型飲用器と銘々器である置食器と飲用器、および手持食器がセットとなっている。
この様相は、少なくとも7世紀まで続くと考えられる。
https://i.imgur.com/CmHWv6B.png
8世紀段階では大壺が消失する一方、須恵器杯などの食膳具が安定的に加っている。
9世紀段階になると土師器食膳具の他、土師器煮沸具も加わって、成川式土器としては甕だけが残る。
もともと成川式土器の甕底部は脚台か平底を呈し、補助具なしに自立できる事が特徴だが、最終段階の甕にも
その特徴は残っている。紫コラ層直下から検出される建物には竃が確認されているが、同時に炉のみの建物も検
出されており、炉で使用する煮沸具として残った可能性が高い。 邪馬台国沖縄(琉球)説 Part1
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1533027941/
解決!! 邪馬台国の場所は沖縄
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1647433192/163-
解決!! 邪馬台国の場所は沖縄 2nd インパクト
https:
//lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1651232086/41- 襲速紀要素(熊襲・速吸瀬戸・紀伊)とは
日本固有種が主流分布域を離れて隔離分布している現象
紀伊半島と言えば熊野水軍、熊野本宮大社、南方熊楠、風土病の流行地
何れも太平洋黒潮ルート上に分布 紀伊半島南部に位置する和歌山県田辺市磯間岩陰遺跡(5世紀~6世紀)古墳人ゲノムは、1号個体が縄文成分~56%、2号個体が縄文成分~51%と古墳時代人としては例外的に「縄文人」に近い。
遺跡のY染色体はD1bとO1b2、mt.DNAの8割がM7a1a。 物部はヤマト国と出雲王国を侵略するにあたって豊国の宇佐族の豊玉姫と連合を組む
ことにした。朝鮮のヒボコ族とも連合したが。ヤマトも出雲も出雲族の国。
物部はヤマトを支配するにはヤマトの朝日信仰に対抗する宗教が必要だと考えて宇佐族の
月信仰に目をつけた。宇佐族が古事記でのツクヨミ族だ。豊玉姫は自分はヤマトの姫巫女だと
偽って魏に使いを送り魏から認められた。女の考えることはよくわからん。
ちょっとイメージが壊れるがオオゲツヒメが豊玉姫だ。トヨは娘の豊姫のことで、古事記では
アメノウズメになってる。この時、日本列島は弥生の大飢饉の真っ最中で、ここは俺の
推測だが物部は月=豊穣の信仰で日本列島を統一すれば飢饉が収まると考えた、のではないか?
豊玉姫は遠征途中で病死するが物部イクメとヒボコとウズメはヤマトを武力征服する。物部とウズメは
ヤマトの人に月信仰を強要する。この時のヤマトの朝日信仰の姫巫女はモモソ姫の次の
代のサホ姫であった。サホ姫は一度はイクメと政略結婚するが逃げ出す。サホ姫は後の籠神社になる
ところに隠れてこれが古事記の天の岩戸隠れの話になってる。この時サホ姫が持って逃げた朝日信仰の
祭祀の道具の鏡を後に倭姫が持ち出し八咫鏡になってる。 >>81
天孫降臨は徐福が中国を出る前に決めてた自分たちのキャッチフレーズなんよ。
徐福船団が日本列島に来る前に朝鮮に立ち寄ってるけど、そっちでも天孫降臨言ってる。
これは佐賀県が製作した徐福伝説のビデオより。
ニニギのモデルになったのは徐福の400年以上あとの子孫の物部イニエ。イニエの
嫁さんは阿多隼人のアタツヒメ。マレー人だ。コノハサクヤヒメとも言う。イニエは阿多隼人の
航海技術が欲しかった。
夫妻は日向に一時期住んでた。コノハサクヤヒメは早死にで、イニエが次に結婚したのが
宇佐族の豊玉姫だった。豊玉姫は夫が居たのだが、流石女王で権限は豊玉姫の方が上だったみたいだ。 >>81
国立歴史民俗博物館 藤尾慎一郎
2023年2月11日に鹿児島市国際交流センターにおいて計画研究A02班・B01班合同の報告会を開催しました。
両班は2018年度から宮崎県南部や、トカラ列島十島村を含む鹿児島県に所在する遺跡の調査を行ない、
人骨の形質人類学的調査を行っている鹿児島女子短期大学の竹中正巳教授からご提供いただいた人骨を調査し、
DNA分析と年代学的調査を行なっています。その成果は、年度ごとに「国立歴史民俗博物館研究報告」に公表しております。
篠田謙一「南九州古人骨のゲノム解析結果」
篠田は、九州南部の縄文人、古墳人のDNA分析を行なった結果、縄文人のミトコンドリアDNAは西日本縄文人のハプログループであるM7aであった。
横穴墓から出土した古墳時代の人骨には、縄文系核ゲノムの比率が高い人びとが多いことに注目した。
頭蓋骨比較
白人 縄文人 南九州古墳人 日本人
https://i.imgur.com/thPlV1Z.png 宮崎県在住者におけるY-STRハプロタイプおよびY-ハプログループの地理的分布
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jafst/advpub/0/advpub_778/_pdf
宮崎県内の1,285名分のサンプルを対象に、各市町村の父系出身地を参考に分布の集計を行った(Table 3,Fig. 2)。
北西部の椎葉村周辺(椎葉村、西都市、西米良村、美里町)はD-M125の割合が高い傾向が示された(Fig. 2)。 D1a2a(D-M57、D-M125 最近共通祖先 約15,100-21,200年前) C1a1(C-M130、C-M131 最近共通祖先 約11,650年前)
https://i.imgur.com/D02SFMF.png
(北東部)34.6% 8.7% 平均43.3%
延岡市 32.4% 14.1% 計46.5%
日之影町 28.6% 21.4% 計50.0%
門川町 34.8% 4.3% 計39.1%
日向市 26.0% 6.5% 計32.5%
木城町 30.0% 10.0% 計40.0%
都農町 52.9% 5.9% 計58.8%
川南町 34.7% 4.3% 計39.0%
新富町 27.8% 5.6% 計33.4%
高鍋町 43.8% 6.3% 計50.1%
(南東部)32.0% 8.9% 平均40.9%
宮崎市 37.8% 9.6% 計47.4%
日南市 27.4% 11.8% 計39.2%
串間市 30.8% 5.2% 計36.0% (北西部)50.2% 11.4% 平均61.6%
高千穂町 35.3% 20.6% 計55.9%
西都市 48.0% 6.6% 計54.6%
美里町 51.7% 13.8% 計65.5%
椎葉村 68.8% 6.3% 計75.1%
西米良村 71.5%
国富町 25.8% 9.7% 計35.5%
(南西部)41.2% 17.7% 平均58.9%
都城市 40.9% 9.7% 計50.6%
えびの市40.9% 25.0% 計65.9%
高原町 38.9% 5.6% 計44.5%
小林市 29.3% 22.4% 計61.7%
三股町 47.0% 5.9% 計52.9%
綾町 50.0% 37.5% 計87.5% 琉球人と南九州人の生体観察―アイヌおよび韓国人との比較― 安部国雄 順天堂大学医学部解剖学教室
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ase1911/87/4/87_4_393/_pdf
沖縄県 読谷村、北中城村
宮崎県 椎葉村、西米良村
鹿児島県 霧島市、南さつま市
こうして琉球人と南九州人について共通した観察項目を、先人によって得られたものと著者のものを比較してみると、
各項目において殆ど差異を認めないのである。 沖縄に住んでる人は14世紀ごろ以降に本州から南下してきた人々との混血だから、琉球人なんて存在しない >>14
実際にファクトで語ってないしな
発掘がすすめばいいのにー、とか言ってる妄想 筑紫平野が大規模に開発されるのは4世紀以降ですね。
3世紀の吉野ヶ里は山と海に挟まれた
比較的小さなエリアでした。
吉野ヶ里クラスと思われる遺跡群が
だいたい10kmおきにありますので
それぞれが小国だったのでしょう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています