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【歴史】「土民は銃殺、女は逃がす」 日中戦争、旧日本軍には「略奪マニュアル」があった…“強盗”指南も ★4 [樽悶★]

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0001樽悶 ★
垢版 |
2023/08/12(土) 10:52:25.95ID:fAEZDYv09
南京に入城する日本軍=1937年12月撮影
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230811-00000006-maiall-000-1-view.jpg

 1937年に始まった日中戦争で中国大陸に侵攻した旧日本軍は、現地住民の食料などを奪う行為を繰り返していた。大本営直属の経理部門「野戦経理長官部」は、39年3月に「支那事変ノ経験ニ基ク経理勤務ノ参考(第二集)」という冊子を発行した。そこには事実上の「略奪マニュアル」と言える内容があり、民衆が隠した物資をどのように発見するかの「コツ」が記されていた。

 冊子の一項目「住民ノ物資隠匿法ト之ガ利用法」には、次のような内容が書かれている。「前方にレンガの壁を設け、その後方の家屋や倉庫などの全体を覆い隠していることがある。この場合には壁を破壊する必要がある」。また「銀行の倉庫には抵当物として食料その他が発見されることがある」と「銀行強盗」を促すような内容もある。

 当時は戦地の兵士たちに日本国内から十分な物資が補給されず、食料は現地で手に入れる「現地自活」の方針が取られていた。資料からは、末端の兵士の判断だけではなく、軍として略奪行為を「指南」していた様子が浮かぶ。

 京都市出身の陸軍歩兵・小林太郎氏(故人)は、37年から約2年間にわたり上海戦、南京攻略戦、徐州作戦などに従軍。略奪や殺害を繰り返した日常を淡々と日記に残した。「行軍中いもを畠(畑)から掘つて来て、焼いも」(37年9月25日)、「行く行くの部落(集落)でニハトリ(ニワトリ)を徴発」(38年3月28日)といった行動を記している。

 さらに、敵のトーチカ(コンクリート製の防御陣地)を攻撃した際、そこで炊事をしていた民間人について「土民は銃殺。女は逃がす」(37年11月20日)などと記載。敗残兵を見つけたので殺した、という記述も多い。

 小林氏は39年に満期除隊し、戦後は高校の数学教師を務めた。次女の能崎(のざき)嘉子さん(77)は「酒も一滴も飲まず、まじめだけが取りえのような人だった」と振り返る。高校生の時、自宅の仏壇の上にあった日記を初めて読み、知らない父の姿に驚いたという。

 小林氏は晩年、精神疾患を発症し、気分の浮き沈みが激しかった。能崎さんは戦争の影響を感じたという。(以下ソース)

8/11(金) 0:59配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/b843f42d006e599938fee4c4497825724f55c555

★1:2023/08/11(金) 19:40:11.24
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1691770627/
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