二世紀の終わり頃に、畿内では銅鐸が破壊され、神器は鏡に変わる。
そして三輪山の麓に巨大な纏向遺跡の構築が開始される。

銅鐸文化人が営んでいた磯城の唐子鍵遺跡は廃絶し、彼らの一部は磐余の大福に移住して何故か銅鐸を壊して鏡を作るようになる。

記紀の神話では神武は九州から軍を率いてヤマトに入り、最初に磯城を降伏させたという。
神武の軍に反抗した族長の兄師木は殺されて、神武に従った族長の弟の弟師木は神武の一党に合流たという。
また弟師木はその後自分の娘たちを神武の子供たちに嫁がせて神武一族で大きな力を持つようになるになる。

磯城の唐子鍵遺跡が兄師木と弟師木の国だったのだろう。
そして唐子鍵の人たちの一部は征服者に合流して銅鐸文化を捨て、九州からの征服王の本拠地になった磐余で九州系の銅鏡文化に乗り換えたのだろう。

この時期こそが魏志の云うところの卑弥呼の時代であり、邪馬台国の成立とは九州勢力のヤマト王権の建国の事だと考えるのが一番スッキリする。