【考古学】特別企画展『よみがえる邪馬台国』〜倭人伝のクニを探るX〜 「邪馬台国と有明のクニU」開催 佐賀・吉野ヶ里遺跡 ★2 [ごまカンパチ★]
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://www.yoshinogari.jp/event/R5-kikakuten.html
今年で15回目を迎える特別企画展『よみがえる邪馬台国』。
シリーズ「倭人伝のクニを探る」の第5弾は、昨年に引き続き、玄界灘と並ぶ大陸文化流入の玄関口となっていた「有明海」に注目し、
その沿岸に所在する佐賀県佐賀市・武雄市・小城市・吉野ヶ里町、長崎県島原市などの遺跡からの出土品とともに、
最新の発掘調査成果を紹介します。
併せて、弥生文化の伝播や九州と近畿との交流において重要な航路であった、独自の文化を築いていた讃岐(香川県)の弥生時代についても紹介します。
開催日時:2023年9月23日(土)〜11月12日(日)
開催場所:公園東口・歴史公園センター「多目的ルーム」、佐賀県吉野ヶ里遺跡展示室
観覧無料(入園料および駐車場は有料)
※関連イベント等はソースで
★1:2023/08/28(月) 19:53:58.30
前スレ
【考古学】特別企画展『よみがえる邪馬台国』〜倭人伝のクニを探るX〜 「邪馬台国と有明のクニU」開催 佐賀・吉野ヶ里遺跡 [ごまカンパチ★]
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1693220038/ クンニ?なんだよこれ、俺の巨大ペニスの話かよ
ちなみに俺の巨大ペニスは地元の松戸では性剣デュランダルといわれている銘刀だ
毎日俺の巨大ペニスに刺し殺されたいという女子が大行列さ、セックスもつらいぜ 魅力度ランキング最下位の佐賀にとって汚名挽回の大チャンス 県内の干拓地を干潟に戻せよ
佐賀市を水没させて干潟に戻せよ >>002
巨大でもフニャフニャでは
役に立たないw 半島は靴を履いてる。倭国は裸足じゃん
quercus-mikasa.com/wp-content/uploads/2018/07/00394e52cc86543667514f266a76b352.jpg >>0011
それは後世に想像で書かれたデタラメな絵
古代は文化、軍事、経済など全ての面ではるかに日本の方が先進国だった
少なくとも半島の南半分は日本の勢力下にあり、半島はヤマト文化圏の貧しい最果てだった
日韓ともに、そういう基本的な史実を無視しているので、なぜ白村江で日本とシナが激突したのか、その
理由がわからなくなっている テンプレ①
関川尚功
「どうやったら箸墓古墳の土器が3世紀という事になるのかまったくわからない。どう観てもあれは古墳時代の土器で、卑弥呼の時代のモノではない。3世紀の墓に4世紀の土器をどうやって埋葬するのだろうか」 テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 テンプレ③
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 テンプレ④
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 夜はミニ貫頭衣を着た女性たちによるダンスショーとかあればいいのに
竪穴式住居とかで宿泊できたらいいのに 木村拓哉と工藤静香の次女Koki,鼻&唇ピアスの最新ショットにネットが騒然「野沢直子」「こっち方向に向かったら駄目だ」
https://sgthju.yakshaving.org/0831/4bpigt4m.html 吉野ヶ里は邪馬台国を共立したクニのひとつ
または邪馬台国の軍事拠点であって卑弥呼の居住地ではない
福岡か大分だろう 畿内説はヤマト王権がそれだけ古くから日本を支配していたという権威付けでもある
魏志倭人伝の時代から数世紀後の第一回遣隋使で国書すら持っていかなかったから畿内ではないだろう >>026
第一回遣隋使で国書を持参したが
朝鮮経由の帰路百済を通過中に
歴史上最初のヒッタクリに遭遇し
返書を奪われた。
ヒッタクリの起源は韓国ニダ とても言いにくいのですが畿内説終了のお知らせです。
邪馬台国は九州でした。
【重要】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国-----(魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 「倭国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。
百女国以北、其の戸数道里は、略載する得可し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。
安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。革を以て衣と為す。」(古田武彦訳)
『広志』の成立は古田先生の研究によれば4世紀初頭とされ、『三国志』を編纂した陳寿の没後(290年)間もなくの頃です。
従って、『広志』を書いた郭義恭は『三国志』を読んで、それを参考にしています。
ですから、『広志』には『三国志』以後に得られた倭国の情報が記されています。
たとえば『三国志』では邪馬壹国の南方向にある投馬国(薩摩地方)の存在が記されていますが、
筑後地方の南の肥後地方については記されていませんでした。
ところが『広志』では邪馬嘉国(山鹿)、百女国(八女)、伊邪分国(屋久島か)などが記されており、
4世紀段階の倭国に関する情報が記録されているのです。
従って、「空白の4世紀」などと平気で書くのは自らの不勉強を露呈するようなものです >>031
「邪馬台国はなかった」で恥を晒した古田ソンセンニムか
卑弥呼をヒミカと呼ぶからお里が知れる
古田学級生徒w >>32
『広志』書いたのは吉田センセーじゃなくて4世紀初頭の郭義恭ですよwww 結局畿内説を主張してるのは考古学者ではなく
日本書紀信者でしたとさw
日本書紀に書かれているのは真実であって欲しい
そういう願望に引きずられて現実を解釈する
まさに
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
このまんま。 >>30 >>31
古代中国の世界地図は朝鮮半島の南に日本列島が描いてあるから
畿内で合ってる 現代日本では各都道府県の間の距離は県庁所在地をピンポイントで
起点/終点としているが、当然邪馬台国の時代にはそのようなことは
まずないだろう。
例えば現在の大都会岡山県と兵庫県の距離は約120kmだが、実際には
岡山市から出発し、姫路市あたりまできたところで兵庫県になったと
判断し、距離は約80kmだと記録することも考えられるのではないか。 >>37
それで反論になってると本気で思ってるの? 傍から見ていてどっちの言うことも結論ありきで説得力にかけるのでとにかく証拠出してくれるよう願う
この間の石棺の茶番とか酷かったしな >>36
徳島の自称古代史研究者は、調子に乗って飛鳥時代の京は阿波にあったとかいうトンデモまで言い出すからw
調子に乗らせちゃだめだよ。 明治時代から日本の人口は3〜4倍に増えているが徳島県の人口は全く増えていないw 古墳時代の奈良に古墳が多いのは、奈良に何かがあったというわけではなく、単純に「墓域」だったからである
住人が居たとすればほぼ全て奴隷であり、住居跡がない事から野営キャンプ場だったと考えられる
つまり纒向遺跡は古墳造営キャンプ場の痕跡であり、古墳の被葬者は周辺国の首長であり、副葬品は被葬者とともに外部から持ち込まれた物である
墓域がゆえに墓が多く鏡など副葬品が多く発見されるのは至極当たり前のことだ
史書と全く様相の異なる纒向遺跡を邪馬臺国だなどと主張する行為は学問に対する冒涜である 投馬国へ水行20日
邪馬台国へ水行10日陸行1ヶ月は
文脈的におかしい、後世に改竄又は訂正されたのでは
という説が説得力を持つな。
恐らくオリジナルの魏志倭人伝には邪馬台国は九州と書いてあり
それを参考にした5世紀の書物には邪馬台国は九州と書いてあった。
そういうことだろう。 抑、突厥は日本のことを倭と呼んでいるのか?
呼んでないんじゃないのか? >>45
いやでも奈良は大和王権以前は何もなかった場所でそこにいきなり大都市ができたのは阿波からの移転だと思うよ
九州からいきなり奈良盆地になんてことはない そうではなくて北欧の海賊のことじゃないの?
倭って。
日本が併合してごっちゃになった 卑弥呼の時代はAD180年〜240年頃
それ以前は男性たちが倭国大乱に陥っていた時代だ
後漢書によればその頃から邪馬台国は存在している
この倭国大乱の痕跡が畿内には無い
なお七万戸の邪馬臺国は卑弥呼が女王となる以前に成立しているが、この痕跡も畿内には存在しない 【妥当な結論】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
【New】2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ 正直どっちでも良いと思うけどこのネタいつもスレで白熱するよな
日本史板にいるおじさん達が出張して来てる感じ >>53
> 後漢書によればその頃から邪馬台国は存在している
そうではなくて、三国志よりも後で編纂された後漢書が魏志倭人伝の内容を転載しているだけで
後漢の時代に邪馬台国があったかどうかを書いてるわけではない
三国志:陳寿著、280〜297年
後漢書:范曄、司馬彪、432年 >>56
日本書紀は正しい、天皇家は紀元前660年から2600年以上の歴史がある世界最古の王家なんだ!
という畿内説信者を
いや流石にあの古代天皇達の長寿は嘘やろ、ウリの歴史は5000年ニダ、 みたいな恥ずかしいことすんなよ
大和朝廷は実際には邪馬台国より後の成立やろ?
と九州説信者が叩きまくる構図 >>37
朝鮮半島も南に
九州を北にして本州、四国を南に
描いた地図があったな
あれなら倭国が会稽東冶の東まで広がっている
というのも納得 >>57
史書というのは、編纂された時点の記録じゃ無いんだよ
保管されている記録文献から、当時の記録を抽出して編纂してるんだよ
だから史書が作成された時期や順序はさほど気にする必要はない >>29
日本書紀「隋とは対等な関係よ。皇帝からの返書?なくしたったw」
隋「野蛮な倭国王が天子と名乗ったから皇帝ブチ切れ」
何があったかお察しだろう 後漢書によれば、卑弥呼以前にすでに30国の連合があり、それぞれの国に代々王が存在していた
それらが倭国大乱を引き起こすから卑弥呼を共立女王とし、各国の王は皆それに従う事とした クンニして欲しい美女が集まるクニはここですか
ここが邪馬大国だぁシコシコ 今邪馬台国スレ二つ立ってるからバラけてイマイチ盛り上がらない
一つに絞って常時立っててくれ >>66
ククク、"真実の"阿波説勢の勢いを分散させる為よ。"彼ら"もバカではないからな。"能力者"見ているか? 邪馬台国の遺跡であれば
・歴代の王や王族、巫女の墳墓、戦死者の墓が出てくる可能性がある
・物見櫓、城柵、厳重に警備された宮殿の遺構が出てくる可能性がある
・鉄鏃などの鉄製品、絹、古代中国からもたらされた品々が出土する可能性がある
北部九州はこれらを満たしてる
でも邪馬台国は畿内にあるんだっけ?
畿内からも出てくるといいねぇ
あ、4世紀以降の遺跡を「3世紀だ」って言い張ればいいかw ホケノ山古墳があるので興味があれたらググってみて。 >>58
最近5chのスニュースで
神武起源が300年位新しくなったという記事
を読んだ >>69
わざわざ教科書に畿内説を載せるくらいだもの
きっと凡人の私たちには想像のつかない特別な理由があるんだよ
まさか
「邪馬台国は大和に違いない」
「箸墓は卑弥呼死亡時期にできたから卑弥呼の墓!(馬具が出てきた?知らん!)」
みたいな雑な理由ではないはずだ >>70
堂ノ後古墳も一緒にググるとおもしろいよね ホケノ山古墳の石囲い木槨は有名だよね
魏志倭人伝によると、倭人の墓に槨はないらしいけどw 時は2004年12月28日。テレビ特番「笑ってはいけない温泉宿1泊2日の旅 in 湯河原」において
ダイナマイト四国よりキレのあるしっこく!しっこく!見せた女将が登場したがあれは邪馬台国阿波説のメッセージを伝える現代の卑弥呼の姿ではなかったか。
その貴重な資料映像がこちらでである。ではみなさんご唱和ください!
https://youtu.be/RU4bouDoMeo?si=xqIEUY58FlyKd9mG 畿内からは邪馬台国にあるはずのものが出てこず、邪馬台国にないはずのものが出てくる >>1
●【大麻推し】ごまカンパチのスレ立て
●2023年2月~7月
※略称
アル下=アルコール下げ
タバ下=タバコ下げ
薬物=薬物(大麻以外)
共和下=アメリカ共和党下げ
厚労下=厚労省下げ
202302 大麻6 他11
202303 大麻6 他 4
202304 大麻8 他 6 アル下 5 共和下3
202305 大麻6 他21 アル下25 共和下6 厚労下0 薬物2 タバ下1
202306 大麻5 他38 アル下28 共和下6 厚労下1
202307 大麻1 他27 アル下32 共和下1 厚労下0 薬物1
●2~7月合計 大麻32 他107 アル下90 共和下16 厚労下1 薬物3 タバ下1
●前月7月の詳細
20230702 大麻0 他2 アル下2 薬物1
20230703 大麻0 他4
20230704 大麻0 他2
20230706 大麻0 他0 アル下1
20230708 大麻0 他3 アル下2
20230712 大麻0 他3 アル下4
20230717 大麻1 他2 アル下5
20230724 大麻0 他1 アル下6
20230726 大麻0 他0 アル下4
20230727 大麻0 他1 アル下2
20230728 大麻0 他7 アル下2 薬物0 共和下1
20230730 大麻0 他2 アル下4
●7月合計 大麻1 他27 アル下32 薬物1 共和下1 ポンコツ大先生がポンコツ説を唱えると、その弟子たちはそのポンコツ説の上に自説を構築するしかない。
ポンコツ先生が死んで、弟子たちが「あの説は間違っていた」と言えるかというと、それは不可能。
もう既にポンコツ説の上に自説のポンコツ屋上屋を立てているので、もうその基礎を否定できない。
さらにその弟子が、さらにポンコツ屋上屋を重ねて、かくしてポンコツ大楼が出来上がる。
ピサの斜塔と違って物理法則の働かないポンコツ大楼はどんなに傾いても倒れないw
日本の歴史学とはそんな大楼。 >>79
うむ。日本の学会全ての阿波説への徹底した黙殺がそれに当たりますな。誠実な研究をして欲しいものです。 >>76
あれ?
反論できなくなっちゃった?
大丈夫だよ
ホケノ山から木槨が出てきてもコピー銅鏡が大量に出てきても5世紀にできた古墳より新しい疑惑があっても
3世紀の邪馬台国だーってメディアで報じればへーきへーき 後漢書と魏志倭人伝ちゃんと見比べれば、邪馬臺は、実は、漢の時代の列島覇権国で、しかし倭国大乱に敗れ、覇権放棄の証として女王を即位させた(剣を持つ王=男王の禁止)と分かる。
漢の時代、邪馬臺国の王はその名で朝貢せず、配下の奴国王の名で朝貢し、列島内で「自身は漢の皇帝と横並びの地位だ」と言える状況を作っていたと分かる。
これと同じことを大乱の勝者にして博多港を既に直接支配している謎の勢力「大倭(ダイワ)」がやっている。
自身の正体を隠し軍門に下した邪馬臺国女王の名で朝貢している。
そして大倭(ダイワ)は、漢の時代に邪馬臺が手に出来なかった「倭王」の称号を、見事に魏から貰った。
倭王=邪馬臺女王の上の存在が大倭(ダイワ)のトップだから、大倭(ダイワ)のトップは、倭の皇帝となったのである。
それが3世紀の魏志倭人伝の姿。
次の4世紀、華北が崩壊し朝貢による東亜の秩序が消失した折に、大倭(ダイワ)は邪馬臺(やまと)を亡ぼし、その権威ある名を継いで、「大倭(やまと)」となる。
後世に「倭」の字を嫌って改字し「大和(やまと)」となる。
最近、大和王権などと言うアホな学者揃いだが、違うんだな。最初から大和朝廷だったんだよ。 >>61
つまりご寛恕にかかれている卑弥呼は、三国時代の卑弥呼ではなく、卑弥呼は二人いたと? >>83
棺内花みたいに入ってたじゃん
畿内の古墳は賑やかだねぇ
古代中国の高貴な方々や北部九州の王、巫女だと、愛用の銅鏡や祭事用の銅鏡を上品に副葬するだけだから寂しいもんよ >>77
そういうのを見て、それでも畿内説支持するのって
もう学問じゃなくて宗教だよな。 >>82
それだと金印が大和朝廷に伝わってないことが説明できない >>86
三角なんちゃら鏡が日本で二番目に多く出てるのは福岡やで?
ついでに、
三角なんちゃら鏡は、縁の加工の仕方での区別でしかなく
なんちゃらの方は文様のパターンだけの括りなので
三角なんちゃら鏡と言っても、膨大な種類がある
たった一種類の鏡を指してる言葉ではない
誤解されがちなので一応書いとく ホケノ山古墳はもともと4世紀のものとされていたのに奈良の学者たちが「3世紀!卑弥呼の時代のもの!」って言い張ってんだよな
石囲い木槨が出土してんだから、仮に3世紀に築造でも邪馬台国とは無関係だろう
魏志倭人伝は倭人の墓は「棺あって槨なし。」と言ってんだから 323:日本@名無史さん:[sage]:2023/08/31(木) 13:34:03.55
>>281
三角縁神獣鏡は
大和朝廷が邪馬台国に背乗りして
あたかも自分達が邪馬台国の末裔であるかのように宣伝するために
量産したんだと思うわ
紀年入れたのは卑弥呼が貰った鏡であるかのように思わせるめ。 >>86
>>87
大量に出土したのは黒塚古墳のほう
畿内説が心の拠り所にしている別の古墳 >>1
儒教徳川トクチョン朝鮮人[反日]が江戸時代に始めたヤマタイコク議論から全然変わらないのは、奴らがわざとそうしているからw ホケノ古墳は箸墓古墳と近く、黒塚古墳は崇神の墓の近く。
一帯に権力者が集合してるのが判明してる。 三角縁神獣鏡は国産でした。
> 一方の国産説も決め手に欠けたが、1年前、画期的な新説が現れた。昨年この欄で紹介した「国宝・金印論争」にも登場願った鈴木勉・工芸文化研究所所長の著書
> 「三角縁神獣鏡・同笵(どうはん)(型)鏡論の向こうに」(雄山閣)である。
> 鈴木氏は金工や金石学が専門。物の形や文様の変化を追う考古学とは違い、実験が裏付ける製作技術の観点から製作地に迫った。
>
> 着目したのは、鋳造後の仕上げ作業。三角縁神獣鏡の文様には、三角形が連続する「鋸歯文(きょしもん)」がある。
> 鋸歯文を拡大画像で比較すると、ヤスリや砥石(といし)で磨かれるなど、種々の異なる加工痕が残っていた。
> 加工痕の違いは工房や工人、工具の違いを示すものという。
>
> そこで、黒塚古墳(奈良県天理市・33面出土)など、三角縁神獣鏡が出土した10以上の古墳を対象に加工痕を比較した。
> 結果は簡明。仕上げ加工痕は出土古墳ごとに見事にまとまっていた。
>
> 三角縁神獣鏡では同じ型の鏡が複数存在する。同笵(型)鏡と言い、別々の古墳からも見つかるが、同型同士でも加工痕は古墳によってさまざまだ。
> 一方、出土古墳が同じなら、異なる型の鏡にも同じ仕上げが施されている。つまり加工痕は鏡の型ではなく、出土古墳に規定されているのだ。
>
> 鋳造の最終工程で施される仕上げのまとまり具合から導かれる事実は明らかだ。鏡の製作地は、日本列島内の出土古墳近くということになる。
>
> その上で鈴木氏は見つかる鏡の少なさなどから、工人が各地の出土古墳近くに定住しているのではなく、大和地域に本拠を置く複数の移動型の工人集団が
> 各地の依頼で現地に出向いて製作する「出吹(でぶ)き」を想定した。 >>81
反論するつもりはないから安心してくれ
学者は間違ってて、胡散臭い個人ブログのガセネタこそ正しいと固く信じてるアホに何を言っても無駄だから
意味不明なことを大声で喚いてる知的障害者を距離を置いて眺めてるようなもの
だから面白いと言ったわけだ >>97
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」
畿内説は旧石器捏造事件並みのインチキだってさw >>97
そうそう
学者、特にメディアに出てくる専門家は正しくて
アマチュアは胡散臭いよねぇ
コロナワクチンでもアマチュアが危険だ危険だと初期から騒いでたし >>99
どんな世界でもアマチュアが胡散臭いとは限らない それってあなたの感想ですよね
メディアが必ず信用できますかね?🤗 例:NHKほい論破ぁ🤗 女王国で使われていた市の監視役「大倭」とは、
国内の物資供給をコントロールしていた組織の事である
となると鉄器がしっかり供給されていた地域が、女王国の領域だったと考えられる
以下、参考
卑弥呼時代はちょうど鉄器時代の真っただ中でした。
魏志倭人伝に倭人が「鉄のやじり」を使っている記述があり、この時代の日本には既に鉄器文化が到来していたことがわかります。
また、『3世紀の中国の歴史書「魏志東夷伝弁辰条(ぎしとういでんべんしんのじょう)」には、朝鮮半島南部の地域に鉄が多く出て、「韓、注意1(ワイ)、倭みなしたがってこれをとる。
諸市買うにみな鉄をもちい、中国の銭をもちうるがごとし」と記されています。
鉄を求めて、弥生人がさかんに朝鮮半島南部に出かけていった様子が描かれています。』
よって弥生時代の鉄器の出土量が多い地域が、当時の倭人達の経済共同体であったと見なせます。
猿でもわかる卑弥呼時代の鉄器文化圏
https://i.imgur.com/v0XeHSj.png >>101
畿内にも鉄は普及していたはず!
土壌のせいで3世紀までの鉄は溶けたから出てこないだけ!
だっけ?w >>102
何の根拠も出さず感情論でそうした言い訳を言い放つのが畿内説の学者の特徴 >>102
畿内って言ってしまえば、奈良盆地だけじゃなくなるから、普通に鉄器はあるよ
奈良盆地内に絞ると、唐古・鍵しか見つかってない >>1
儒教徳川トクチョン朝鮮人[反日]が始めたヤマタイコク議論が江戸時代から何も変わらないのは、奴らがわざとそうしているからw 3世紀末に書かれた魏志倭人伝を、
まったく時代の異なった日本語の読み方で、やまたい国って読んでる人は知識不足です。
邪馬台国 佐賀県にあったんなら
有明海沿岸辺りは今でも度々川氾濫してるから全部流されたのかな
にしても吉野ケ里は内陸部であれだけ掘り繰回しても出てこないからもう絶対ないでしょ >>107
そもそも倭人の発音を当時の中国人が聞いてそれに漢字を当てている時点で
かなりズレてくる可能性あるしな。
日本人にはLとRの違いやSとTHの違いも分からないし
倭人と中国人の間でもかなり齟齬があったと思うわ >>105
吉野ヶ里の人。
この人自身がバイアスかかってる。 >>109
>そもそも倭人の発音を当時の中国人が聞いてそれに漢字を当てている時点で
かなりズレてくる可能性あるしな。
まさにそう。
なのに知識がないから、まったく異なる時代の日本語の読み方でやまたい国って読んじゃう。
歴史上、日本にやまたい国なんて国はなかったから、
だから歴史に消えた幻の国だーってはしゃいじゃう。
知識がないってこういうこと。 >>101
鉄というのは再生産されるので中々残らないんだよね。
再生産が止まった地域は残るけど >>112
だからホケノ山には鉄製品が残ってるんだね
納得 >>113
墓の副葬品は墓の持ち主、被葬者の故郷からの持ち込み品 >>93
黒塚古墳の現地説明会俺2日連続で行ったよ。
初日、家に帰り着く前に夕方のNHKテレビのニュースに
顔が映ってて所属のサークルメンバー数人から
テレビに映ってたと電話が掛かってきたと
家族に言われた思い出。
その後歴史番組「その時歴史が動いた」で
テレビに映っている自分の姿を見て
「中々の男前だ」と思った。
黒塚古墳のある柳本は織田信長の
弟織田長益(有楽斎)の五男尚長の
陣屋跡だそうだ。
三角縁神獣鏡が確か33枚出土した。 >>116
わざわざ持ち込むあたり、鉄の豊富な地域から少ない地域にやってきたのかな >>104
淡路島の鉄器工房から唐子鍵に
納品前の鉄鏃が百個以上発見されてる >>89
魏が滅んでもはや金印は意味をなさなくなった。
そういうこと。ま、そのうち何処かから出てくるよ。
漢倭奴國王の金印だってどこか変なところに埋もれてたんだしw 漢鏡を後世も大切に使った倭人だから金印は別格の扱いだろうと思う >>114
弥生時代の鍛冶工房って全部リサイクル工房なんだけど?
弥生時代に製鉄は行われていない
加工済みの鉄製品を輸入して、このまま使ったり、熱して叩いて加工して再利用したり
まだ鉄原石や砂鉄から不純物を取り除いて製鉄する技術は日本にはなかった時代
少なくとも最低限このくらいのことは知ってから書き込んでくれます >>123
話逸らすな
畿内で鉄器が出土しないのは、リサイクルされてたからだと言ってただろ
それに対して九州の鉄器リサイクル工房の例を示しただけだろ
さっさと弥生時代末期の畿内の鉄器工房を示せよ >>124
俺じゃないし知らんがな
鍛冶工房と製鉄工房の違いぐらいは知っとこうな?
俺は>>104 >>125
>>122に対し>>114と返してる中で、
なぜ俺が製鉄工房と鍛治工房の区別がつかない奴だと思ったんだ?
お前が区別出来てないからじゃ無いのか? >>127のレス番間違い
>>112に対し>>114と返してる中で、
だな >>127
鉄のリサイクル工房を俗に鍛冶工房という
それが九州にしかなかったと言いたいんだろ?
淡路島に五斗長垣内遺跡ってのがある
一応現在までに見つかっているなかでは
弥生時代日本最大の鍛冶工房跡 製鉄ができるようになったのは
5世紀以降なので
それ以前は全部鍛冶遺構。 >>129
答えになってないぞ
だったら近畿にもあるぞと、エビデンスのリンク貼って示せばいいだけだろ
この手のスレで鍛治と製鉄の区別つかない奴なんて見た事ないがお前は見たことがあるのか?
初心者のくせw >>131
お前の>>114に対して、俺は>>123と返しただけだぞ?
レス番追えてない? >>133
お前はお前の想像に対しレスしてるようなもの
人と会話したことないのか? >>134
>>114が間違いだとまず認めましょうね?
鉄器のリサイクルは九州だけではありません
知らなかったのなら、勉強しましょう
九州マンセーで嘘書かれても訂正が面倒くさいだけなんだわ 鉄が権力を作ることは確かだ
その鉄が北部九州に集中しており畿内に少ない事は事実である
(畿内説の学者談) ご苦労。今回も四国徳島阿波説で結論が出たようだな ではご唱和してけろ
しっこく!しっこく!🙅♀ >>109
そもそも漢晋代の音韻学上、韻母は兎も角韻子はほぼ不明
そもそも音韻学の始まりが宋代・明代なんだから
日本側の音韻学も上代日本語は古墳時代以降なんだから、三國志等、当時の読みを確定的に語る連中は善院詐欺師と思って良い 五斗長垣内遺跡の北、明石大門(あかしおほと)に近い
舟木遺跡から桃の種が出土している。
纏向と共通する九州バカの知らない世界
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/588830 >>97
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが、
邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている??
九州説の柳田康雄國學院大學教授は
九州地方では古い時期の古墳の発掘も多いが、
邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている
糸島の伊都国博物館などその最たるもので
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
北部九州の鏡やすずりなどの出土品が
57年からの漢委奴国王(筑紫城)のモノなのか
238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノなのか
年代論の解決が決定的な課題だ
っつってるよ 訂正
>>97
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが、
邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている??
九州説の柳田康雄國學院大學教授は
九州地方では古い時期の古墳の発掘も多いが、
邪馬台国 九州説 が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている
糸島の伊都国博物館などその最たるもので
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
北部九州の鏡やすずりなどの出土品が
57年からの漢委奴国王(筑紫城)のモノなのか
238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノなのか
年代論の解決が決定的な課題だ
っつってるよ そもそも畿内説論者は1世紀奴国をどう思ってんのか
邪馬台国否定したって奴国の覇権確定してんだから無意味だろうに 事実、邪馬台国九州説が調査の前提になっていて
先日の吉野ヶ里の未盗堀の石棺の調査も
邪馬台国と関連する遺物が出なかったとたん
関心が無くなってる >>144
畿内説は単純に
九州には漢委奴国王・倭奴國
畿内には親魏倭王・邪馬台国 舟木遺跡は約40ヘクタール
吉野ヶ里遺跡に決してひけをとらない
ライバル遺跡。
製塩土器やイイダコ壷などが出土
明石海峡の名物は昔も今も変らない。
> 朝鮮みずほ銀行:西村正雄(★⇒洪浩然(ホン・ホヨン)の子孫。)
> 安倍晋太郎『私は朝鮮人だ』の種違いの兄弟(母は同じ))
> ⇒地下鉄サリンテロ朝鮮オウム石原宏高(3男)・木原正裕家(木原誠二の兄:妻の殺人容疑)・楽天三木谷
> ➡木原誠二官房副長官の父、木原雄一郎は元ソフトバンクの取締役
ほんとですか。すごいな…。木原誠二はやっぱりアベ系の中身完全に安倍派でしたね
>>106 >>1
【千葉】「日本人が、集団で日本人を殺す」 関東大震災直後、自警団が沖縄出身者らを虐殺…「検見川事件」現代にも通じる偏見と差別 ★2
2023年8月17日 中日新聞 /newsplus/1692486513/
>朝鮮半島からの本土帰還について調べれば朝鮮人の民族性が見えてくるよ
奴らは日韓併合時代(明治43〜昭和20.8)は建前上は日本人で、その子や孫らが日本に居座ったまま
で国会議員とか嘘吐きアベ朝鮮マズゴミDSとか役所,研究所,経団連とか創価統一警察とかにいて
この福田村事件でもたぶん検見川事件でも朝鮮人[エタ/同和] が朝鮮人[エタ/同和] を殺害した事件なのに、
こうして「日本人が日本人を殺した事件」とアベコベのデマを言いふらしているんでしょ
あと、アイヌや琉球沖縄も同じ日本人なのに別民族かのように、また[知りながら]日本人は朝鮮由来だと真逆の嘘を流している
>>106 >>1
【千葉】「集団で襲ってくる」「井戸に毒を入れた」…関東大震災から100年の今、「福田村事件」が問う“日本人の本性” ★3
2023/8/14(月) 現代ビジネス /newsplus/1692346257/ >>140
>そもそも漢晋代の音韻学上、韻母は兎も角韻子
オマエが中国音韻学のド素人という事が
よく分かる、恥ずかしい書き込みw >>147
吉野ヶ里のライバルは平塚川添遺跡だよ
遠方のタコ漁集落とか知らんがな >>150
では、プロの解説をどうぞ
勿論、出典は示せるよね?
俺が書いた内容は、行政院國家科學委員會,臺灣大學中國文學系和中央研究院資訊科學研究所の研究成果に基づいているつもりだけれど、間違いがあるなら根拠とともに指摘してくれ 平塚川添遺跡の規模は17ヘクタールで吉野ヶ里や
舟木遺跡の足元にも及ばないw
鉄製品も出土してないしショボイなw
唐子鍵の高床式大型建物の柱は高さ2m
↓施工業者のHP
ザイエンス 唐古・鍵遺跡史跡公園(奈良県)/ >>152
中国音韻学で「韻母」ときたら「声母」だろ。
子韻という専門用語はあるが「韻子」なんて
聞いたことも見たことも無い
オマエの妄想から出た言葉w
「韻母」「声母」をググってみろ。
何も知らない野郎が内容も理解せずに
盲目滅法コピペしても笑われるだけ
三十六字母というのが有るのを知ってるか? >>152
以前、別スレで小學堂のサイトを教えてくれた御仁かな
小學堂の検索結果を見れば分かるが、多くの漢字でいちおうの声母・韻母の推定が行われている
それが実際に国際音声記号でどういう発音だったのか、というのは音韻学でなく音声学の話になっちゃう >>154
おお、すまん
聲母の間違いだった
で、君の見解は? >>147
北淡歴史民俗資料館で舟木遺跡の製塩土器や蛸壺の展示を見たぜ
ただ日本遺産だかなんだか知らないが、いろんな展示が無理やり神話と結びつけられてて、解説してくれた学芸員さんもばつが悪そうだった >>155
多分、そも知れないけれど、聲母が判明しているのは隋唐時代以降が殆どじゃないかな? >>153
多重環濠で厳重に警備されてんだから狭いだろ
祭事に使われた青銅器に、籠城でもしていたのか細々と作物を育て漁をしていた形跡があるうえ
なぜかここだけ鉄鏃などの武器が見当たらない
周りの遺跡からは当たり前のように出てくるのに
何か特別な意味があるとしか思えない 音韻学とは有る(=或る)言語で
どういう子音、母音があるかを論ずる学門。
現代中国標準語=北京官話にはkiという
発音=音韻は無いが福建語には有る。
北京官話ではフランスのパリと
インドネシアのバリは区別しないけど
福建語では区別できる。
これは同じ中国語というカテコリーでも
北京官話と福建方言の音韻体系が
異なるからである。 >>160
中国音韻学と書かなきゃ解らなかった?ごめんね
中国音韻学では時代も含めて、地方や少数民族、支配民族により発音体系の差異が激しく、それだけに正確な推定は難しいという意味も込めて>140を書いているんだけれど、おかしいところがあるなら具体的に指摘しなよ >>158
上古音の研究はカールグレンによる『詩経』の研究からスタートしてるから、むしろ先秦時代のほうが韻母・声母データが充実してるはず
小學堂のページが多数の研究者の説を並べて表示してくれるように、説が固まってるとは言いがたい状況みたいだけど 万葉集の漢字ばかりで書かれた原文と
それを書き下した日本語文を比較すると
現代の福建方言がよく似ている
例えば「許」という漢字は現代日本語で「キョ」だが
記紀万葉で「許」を「コ」と読む場合がある。
例えば「来る」の未然形又は命令形の「こ」に
「許」の字を使ったのが
56例ある。北京官話で「許」はxu=シュという発音、
福建南部で「コ」という発音。
http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/ko_oturui_hinnsi.htm
「居」は北京官話:juチュvs福建南部で「kio」という発音。 >>162
ヨーロッパ的な言語学研究としてはカールグレンが先鞭者であるのは間違いないよね
ただ、中国国内でも明代には資料に基づく帰納法で結論を出す考証学はあったみたい
基礎は清の音学五書みたいだけれど
結局のところ自分の主張の意図は、三國志を始めとする当時の史書に対して、読みはこうだ!と無根拠に主張する人たちへの反論でしか無いのだけれど >>164
清代考証学者銭大マの「古無舌上音」は
中国語方言の最古の形を留めている
福建南部方言、少し新しい客家方言、
広東方言そして日本に伝えられた
万葉仮名が魏晋南北朝の漢字音復元に
役に立つ 清代考証学者銭大マの「古無舌上音」は
中国語方言の最古の形を留めている
福建南部方言に基づいて出した結論。
中国の言語学者「王力」は《漢語史稿》の中で
軽唇音fは重唇音piwから派生したと分析してる。
全訳漢辞海は隋唐音に王力の説を採用してる。 >>165
いや、で結局のところ、俺の主張であるところの三國志当時の読みはこうである、と断言している人は信頼出来無いってのに具体的な反論はあるの? 邪馬台国分析に清代とか糞笑えるな。
考証学の精神ゼロのバカ。19世紀の清王朝の学者未満の底辺知能のネトウヨ 。
真実を告げよう。
邪馬台国はヤマト国であり、ジャップは中華に調光しているのだ。
日本文化は韓半島の文化の亜種であり、韓国と日本は兄と弟の関係にある。
韓半島とジャップは文化的に深い関係にあるのだ。 難しそうな事言えば簡単に言いくるめられると思ってる人は結構居る
我慢してよく読めば大抵は議論のスジの、実のあることは何も言ってない
時間の無駄なんで迷惑なんだよね というか>>165は前に俺とも上古音関係で話してて
南部方言が〜と無駄な長文書き連ねてた奴と同じ奴じゃないか? ジャップの先祖は遼寧省で農業を営んでいた農耕民族であった。
夏家店下層文化人の一支流であり偏堡文化人がジャップの直接的先祖なのだ。
そもそも日本語の起源は中国の遼寧省にある。
遼河文明は気候変動で壊滅し、遼河文明人は周囲に移住して行った。
殷王朝の支配層は遼河文明起源であったという説もある。
ジャップの先祖である偏堡文化人は遼河文明崩壊で韓半島に移住したのだ。そして山東半島系の稲作文化を受け入れて無文土器文化人となった。
この無文土器文化人が日本列島に植民したのが弥生人だ。
ネトウヨに告ぐ。
てめえらジャップは選民でなんでもねーんだよ。
縄文文明?糞笑える。
カルトもいい加減にしろよ。 >>171
それは合ってるかもしれないが無駄にヘイト煽ってる時点でネトウヨと同レベル
失せろ 3世紀末に書かれた魏志倭人伝を、
まったく時代の異なった日本語の読み方で、やまたい国って読んでる考古学関係者って笑えるな。
三国志がぁとか言い出して、やっぱり考古学関係者ってバカだと思った。 南至邪馬壹國 女王之所都
壹とは中央官庁のこと
つまり、女王が都とする国は
邪馬を中央官庁とする国
女王が都とする邪馬を中央官庁とする国の名前は出てこない >>121
中国と繋がりがあった
というのは箔だよ
隋書でも日本からの使者は
自分達は魏志倭人伝に書かれている邪馬台国だ
と自称したくらいの箔
本当に持っていたなら正倉院入りでおかしくない。 >>121
そもそも日本書紀にも書けないレベルでしか
邪馬台国の話を知らない時点で
大和朝廷は邪馬台国と無関係だと分かる。
男は大人も子供も刺青をし
素潜りをして魚や水鳥を捕るのが上手く
箸すら知らずに竹を編んだ食器から手掴みで食う
温暖で一年中裸足
これが偉大なる天皇が治める大和朝廷の民なわけないだろうwww
あ、倭地の説明であって邪馬台国のことじゃない
という反論は無しね。
倭人の地だから倭地
魏志倭人伝は邪馬台国や倭人の習俗を伝える文書だから邪馬台国と関係ない民の習俗を書く必要がないし
書くならちゃんとどの地域のどの国のことか書く必要があるから。 >>143
>福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
>北部九州の鏡やすずりなどの出土品が
>57年からの漢委奴国王(筑紫城)のモノなのか
-238年からの親魏倭王(邪馬台国)のモノなのか
>年代論の解決が決定的な課題だ
なぁ分かってる?
どっちにしても九州が中国との交易の拠点だったことには変わらないんだぞ?
その二つの解決は
邪馬台国は九州のどこにあったのか?
を推定する為に必要な課題であって畿内は問題外の外という話だ >>145
関心が無くなってる割には調査は継続だし
スレも盛り上がってるなw >>173
考古学関係者は言語学者じゃないから
荒井白石も言語学の知識無くヤマタイを
吹聴したバカ
古事記伝は断片しか読んだことが無いけど
本居宣長は音韻学の知識があったらしい。
江戸っ子が合口が苦手なことに気が付いて
平安時代の定家仮名遣い「くわ」は「か」と読んで良いと
旧仮名遣いを改訂した。
「グワテマラ」は「ガテマラ」と読むのは
「宣長仮名遣い」だ。
「新宿」を「シンジュク」ではなく「シンジク」と
発音するのが「江戸弁」。
「玄関」は「グヱンクヮン」と発音するのが本来の
字音語発音。
昭和30年代filmをNHKのアナウンサーは「ヒルム」と
発音してたのをオマエラは知るまい。
もう10年位前になるか外国の生命保険参入が始まった時
盛んにTVCMが流されたが「手術」の発音が出来ないので
タレントが「すずつ」などと発音してたがタカラズカで
日本語の修業した天海祐希だけが「シュジュツ」と
発音出来た。 >>173
別に、「やまたいこく」が暫定的な読みなのは誰だって知ってるんで・・ >>177
福岡の糸島市の三雲・井原遺跡や平原遺跡
佐賀の吉野ヶ里遺跡
北部九州の鏡やすずりなどの出土品が
57年からの漢委奴国王(筑紫城)のモノとなれば
初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
で、238年からの親魏倭王(邪馬台国)は、神武に東征された畿内 >>182
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
これを丸っと信じてるのは馬鹿かカルト信者
まともに考えれば神武天皇の即位が紀元前660年だというのは嘘だと分かる 南至邪馬壹國 女王之所都
壹とは中央官庁のこと
つまり、女王が都とするところは邪馬を中央官庁とする
邪馬を中央官庁とする国なので「邪馬壹國」と中国が呼んだ
でも、邪馬を中央官庁とする国というのはあまりにも事務的で
倭は、その名称が雅美でないことを嫌って、日本に改めた >>179
最近では投馬國=妻國(八女周辺)だと言う説が広まってきてるな
なんでも古名は上妻や下妻と言われてたとか 邪馬台国は仲哀天皇・神功皇后に攻め滅ばされた
筑後山門郡の土蜘蛛の女王の田油津媛のいた国だろう。
田油津媛は卑弥呼より50年以上時代が下るから、
卑弥呼ではなく台与なんだろう。 >>182
>大和州に移り住んで
これは九州説信者特有の誤魔化し
実態は河内に先回りした饒速日と
ナガスネヒコに戦争を仕掛けて
侵略した >>185
ムリ。
邪馬台国が狗奴国と南部で接して戦うという
魏志倭人伝上の位置関係が崩壊してしまう。 >>174
「壹とは中央官庁」
新説だな、それで証拠は何だ 難波津尓(なにはづに)
美船泊農等(御船泊てぬと)
吉許延許婆(聞こえ来ば)
紐解佐氣弖(紐解き放けて)
多知婆志利勢武(立ち走りせむ)
吉許延許婆(聞こえ来ば)という風に
乙類「こ」に「許」という
万葉仮名=当て字が使われている。
「許」をコと発音するのは南福建語
香港方言ではhœyヘォュィ
昔新嘉坡(シンガポール)の大学で
中国語を習ってる時夜に日本語学校で
「許コー」さんという美人の学生が居た。
福建人だった。
「蘇絹月Soh kuen guatソー・クエン・グヮッ」
という美人も居た。やはり福建人だった。
中国語でkuen/kwenという発音は
日本の高校の古文の時間にクヱンと書いてあっても
合口の発音でも江戸弁に合わせて開口のケン
と発音しろと強制される。
井上ひさしの「国語元年」という脚本を
読んでみるとエエ。 とある本でちょっと面白い話が書いてあって
家型の土器の出土は珍しくて熊本からの出土がほとんど
んでその家型土器は出入口が出雲大社の大社造りになっているらしい。
わざわざ土器にして残そうとする家って今で言う国会議事堂的な重要な建物だったかもしれないから
ひょっとしたらこの土器は卑弥呼の居住、執務した建物を模したものかも
みたいな。 「山東半島系の稲作文化」
これもマユツバ物だな。
山東半島は気候温暖降水量が多くて稲作用の
水がタップリあるのかよ
中国北部では餃子や豚まんなど冷涼な地域で
栽培される小麦の粉食。
南部は「南船北馬」という格調高い四文字熟語が
有るように米が主食で揚州炒飯が有名だわな >>195
そもそも、華北や朝鮮半島では日本の弥生時代の水田遺跡で多く出土する田下駄が全く出土しないよね。
下駄の様な鼻緒で足に仮固定するサンダル式の履物って支那朝鮮にはないよね。
最近になって奴らビーチサンダルやミュール履くけど、漢服、チャイナドレス、チマチョゴリに合わせる下田草履っていう全く存在しない。 >>196
一番凹んだところから鉄の矢じりのラインが始まっているから菊池川だと北よりだと思う
狗古智卑狗と菊池郡の名前の共通性があるから菊池川が狗奴国というのはアリだとは思うが
多分狗奴国が邪馬台国に勝って国境線が北上した際に川の名前が変わったんじゃないかな。 人吉、球磨盆地が肥後国と熊襲国の戦闘の境界線。
現在では人吉は肥後なので
ある時点で肥後が勝って確定し
以後は固定化されたのだろう。 邪馬台国時代からあった比売大神への信仰を
大和朝廷謹製の八幡神社が背乗りして奪った
隠された日本史を象徴する存在が宇佐神宮 >>192
適当に思いついたのがこれ
邪馬台国と狗奴国は倭国大乱のときにも争っていて、邪馬台国が連合体になったときに邪馬台国側が勝利
邪馬台国の連合軍の軍人たちが狗奴国の東側を占領して、将軍の出身地の聖地の名前から「日向国」として独立させた
邪馬台国と日向国は同盟関係で狗奴国とは冷戦状態に
ところが卑弥呼が高齢になり跡継ぎ問題が勃発すると邪馬台国と日向国の関係が拗れて
狗奴国はここぞとばかり日向国に侵攻
日向国の将軍らは側近や呉出身の職人を引き連れて、邪馬台国と対立関係にあった吉備国へ亡命していった
とかね 普通に狗奴国に邪馬台国が制圧された
でも良いのでは? >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 邪馬台国が中国(魏)に助けてもらうほど熊本が強かったなんてちょっと信じがたい
狗奴国が熊本として、邪馬台国があんな南端を目指した理由もわからん >>205
太陽が昇る方向を1月間も間違え続けるというキチガイ地味たことをいうのが畿内説
そんな超絶方向音痴はとっくに遭難してる
滞在地である伊都国からの放射説と考えれば何の矛盾もなく九州
てか伊都国まで10500里、邪馬台国まで残り1500里 >>205
はい、嘘
1 世紀末に書かれた『漢書』地理志には『周礼』
(周代ではなく戦国時代:BC403~BC221 になってから
の成立とされる)
の九州のうち 6 つについて目標となる山への方位が記述されている.
これらの山は霊峰とされ、その後仏教や道教の寺院が建立され、現在では観光地となっている.
いずれも洛陽からの距離は400~1100km、山の高さは 2 千 m 程度かそれ以下であるので、
見透し線は得られない対象である.
しかしその(8)方位の精度は 6 つの山のうち 4 つは 5 度以内、残りは 18 度、12 度であり、
8 方位(45 度ずつ)記述としては驚くべき正確さである.
ただし測量方法はわからない.それからほぼ 500 年後の 3 世紀末に執筆された倭人伝の冒頭に
「倭人在帯方東南大海之中」、地誌記述部分に「自郡至女王国万二千余里」とある.
900km くらい離れた遠隔地ではあるが帯方郡の「東南」という方位記述(方位測量の成果)を疑う理由はなく、
距離測量については「1 寸千里法」という天文測量法を述べた『周髀算経』という書があっ
た.
日本列島では弥生時代のことであるので当時の中国文明の先進性は隔絶していた. >>192
これ、熊本側は熊襲征伐などの
邪馬台国vs狗奴国。
宮崎側は狭穂彦王の乱の
邪馬台国vs生目
だろう。 >>205
間違えたんじゃなくて錯誤させるためわざとそう記述した 律令国家の形成あたりは興味あるけど、邪馬台国の時代は関心ないな
魏志倭人伝の編纂で聞き取りを受けた担当者があの世で、倭国なんて行ったこともない俺が適当にでっち上げた方位、距離を
真に受けて議論してるのかよ、と苦笑いしていたりして 二世紀の終わり頃に、畿内では銅鐸が破壊され、神器は鏡に変わる。
そして三輪山の麓に巨大な纏向遺跡の構築が開始される。
銅鐸文化人が営んでいた磯城の唐子鍵遺跡は廃絶し、彼らの一部は磐余の大福に移住して何故か銅鐸を壊して鏡を作るようになる。
記紀の神話では神武は九州から軍を率いてヤマトに入り、最初に磯城を降伏させたという。
神武の軍に反抗した族長の兄師木は殺されて、神武に従った族長の弟の弟師木は神武の一党に合流たという。
また弟師木はその後自分の娘たちを神武の子供たちに嫁がせて神武一族で大きな力を持つようになるになる。
磯城の唐子鍵遺跡が兄師木と弟師木の国だったのだろう。
そして唐子鍵の人たちの一部は征服者に合流して銅鐸文化を捨て、九州からの征服王の本拠地になった磐余で九州系の銅鏡文化に乗り換えたのだろう。
この時期こそが魏志の云うところの卑弥呼の時代であり、邪馬台国の成立とは九州勢力のヤマト王権の建国の事だと考えるのが一番スッキリする。 534:日本@名無史さん:[sage]:2023/09/01(金) 12:01:54.02
テンプレ
畿内説の作り方
①記録文献と全く整合しない作り話をメディアを利用して拡散
②たまたま出土した遺物を作り話にこじつけて印象操作を図る
③都合の悪い調査・測定結果は徹底的に隠蔽する >>176
魏志倭人伝の記述を邪馬台国のことだと勝手に決め付けて、ひたすら強弁することしかできない低脳 >>212
饒速日が畿内に派遣されて平定のための拠点を作ったんだろ
その後、饒速日と同族の神武が現れた >>177
糸島は伊都国
伊都国からの出土品は邪馬台国の位置論争とは無関係
論理的思考力ゼロ >>215
頭大丈夫?
魏志倭人伝読んだことある?
邪馬台国までの道里と習俗や政治について書かれた文書だぞ?
肝心の邪馬台国の習俗や政治を書かずになんで周辺国の習俗を優先して記述するんだよw >>217
いとこくは卑弥呼を共立した国々の一つだろw >>215
魏志倭人伝は陳寿が皇室の祖である司馬懿の功績を讃えるために書いたもの
他の周囲の国は完全スルーか野蛮な国としてボロクソに書いてる
司馬懿は邪馬台国が魏に朝貢するきっかけを作ったため大出世したんだから
陳寿は邪馬台国がどれだけ素晴らしいか褒めることで、間接的に司馬懿をアゲアゲしてんの
だから邪馬台国の東の海の向こうは「倭種」扱い
狗奴国や南の国々も雑な扱い
従って、魏志倭人伝に記載されている倭人は邪馬台国か、邪馬台国を共立した国々の人々だとしか思えない >>218>>219
無知過ぎる
ネットに転がってるガセネタを鵜呑みにするのではなく、専門家の解説を読んで出直してこい
今のレベルでは議論する資格なし >>220
正しくは魏志東夷伝な
そのなかの倭人条を倭人伝と日本人が語ってるだけ >>1
●【大麻推し】ごまカンパチのスレ立て
●2023年2月~8月
※略称
アル下=アルコール下げ
タバ下=タバコ下げ
薬物=薬物(大麻以外)
共和下=アメリカ共和党下げ
厚労下=厚労省下げ
202302 大麻6 他11
202303 大麻6 他 4
202304 大麻8 他 6 アル下 5 共和下3
202305 大麻6 他21 アル下25 共和下6 厚労下0 薬物2 タバ下1
202306 大麻5 他38 アル下28 共和下6 厚労下1
202307 大麻1 他27 アル下32 共和下1 厚労下0 薬物1
202308 大麻9 他52 アル下20 共和下7
●2~8月合計 大麻41 他159 アル下110 共和下23 厚労下1 薬物3 タバ下1
●前月8月の詳細
202307803 大麻1 他2 アル下6
202307805 大麻1 他9
202307806 大麻0 他1 アル下6
202307809 大麻2 他0
202307810 大麻0 他0 アル下0 共和下2
202307811 大麻0 他5 アル下0 共和下1
202307818 大麻2 他5 アル下0 共和下4
202307822 大麻0 他3
202307823 大麻1 他6
202307824 大麻1 他2 アル下4
202307825 大麻0 他0 アル下2
202307826 大麻0 他1
202307828 大麻0 他9 アル下1
202307830 大麻0 他2
202307831 大麻1 他7 アル下1
●8月合計 大麻9 他52 アル下20 共和下7
・大麻9の内4がタイ政治情勢(※大麻推進派が野党に降るかどうかの瀬戸際)
・他52の内31がウクライナ絡み(※ウクライナは大麻推進国) >>222
おまえの間違いはすでに指摘済み
知識の乏しいおまえの決めつけを100回連呼しても無意味なものは無意味
出直して来い >>226
横レスだけど「お前は知識が無い!ハイ論破!」とか言って、誰が納得するの? >>226
何一つ指摘してないな
伊都国は卑弥呼を共立した女王国の中の一国やぞ
つまり広義における邪馬台国でもある。
ユナイテッドステーツオブ邪馬台国の伊都州みたいな存在 魏志倭人伝によると、女王国の東には海があり、それを渡り千余里でまた倭種の国々がある
また、女王が居たのは城柵で囲まれ守衛が番をしている警備厳重な地区の楼閣
まさに吉野ヶ里遺跡の様相である
よって畿内は東の倭種の国であり、比定領域の圏外です 後漢書によると、卑弥呼時代より以前の邪馬台国には大倭王がおり、代々王を継ぐ国が30国あったとの事
倭国大乱に陥り収拾がつかず卑弥呼を統一女王に位置付け、トップに置いたのでしょう >>227
魏志倭人伝に書かれていることはすべて邪馬台国のことだという曲解が間違ってると指摘済み
こんな基礎の基礎さえ知らないやつにこれ以上何を言う必要があるんだ? >>231
>魏志倭人伝に書かれていることはすべて邪馬台国のことだ
これは概ね正しいよ?原文読んだことある?
具体的にどの箇所が邪馬台国以外の言及か指摘出来ます? >>231
相手のレスを曲解して耳に入れないのは貴方のの方にしか見えないけど >>231
魏志倭人伝の文章の構成
1帯方郡から邪馬台国(女王国の都)の経路
2経路から外れた女王国の国々の名前
3女王国の南に女王国に属さない国があることと帯方郡から女王国までの総距離
4男は刺青してるよ、硬派で服装はこんな感じ、
5こんな植物育ててる、こんな動物いるよ
6兵隊はこんな武器使うよ
7気候はこんな感じだよ、暖かくて裸足な、化粧はこう
8飯は手掴みで食うよ
9死んだら葬式はこう
10中国に行くときはこんな感じ
11産物は真珠とか丹とか
12占い大好き、男女平等っぽい酒好き
13挨拶は手を叩く、跪かない、みんな長生き
14妻は4~5人、治安良し
15税金集めて高床倉庫に集めるよ
16女王国の北側は伊都国が連合国を監視監督してるよ、伊都国は中国との外交窓口ね
17庶民は偉いさんに会ったら道を譲る、返事はアイ
18この国は昔分裂して乱れたけど卑弥呼を立てて平和になったよ
19女王の暮らしはこんな感じ
20女王の国の東には別の倭人の国、他にもこんな国あんな国
21倭人の国々は巡り歩いて5000里
22景初二年に卑弥呼の使者来たよ、金印上げる >>234
の構成を見れば分かる通り
魏志倭人伝は徹頭徹尾『邪馬台国(女王国)』に関して語られている。
4~14が邪馬台国(女王国)以外の国の描写というのはあり得ない。
何故なら15以降の文章が明らかに邪馬台国(女王国)の描写だから。
もし描写する国の対象が変わるなら明確にそれを示さなければならない。 >>232
刺青
素潜り
手掴みで食う
あのバカが挙げた例だが、これらは邪馬台国のこととは書かれていない
専門家が誰も同調しない曲解は誤りだと認識すべき >>236
>入れ墨
記紀に後代入れ墨禁止令を出した記述があります
>素潜り
海女という単語はご存じありませんか?
>手掴みで喰う
箸が伝わったのは5世紀頃 >>236
北九州の海人[あま]・安曇族の磯良、宗像族 >>176
日本書紀や古事記に邪馬台国が書いてないから、
大和朝廷は邪馬台国と無関係というのは無理がある。
なぜなら、魏志倭人伝に邪馬台国の
外交官として登場する難升米や伊聲耆は、
モロ、藤原氏の祖先の梨迹臣命と伊世理命だからだ。
従って、藤原不比等は藤原氏が邪馬台国の外交官として
魏との外交に関わっていた事を知っていた可能性が極めて高く、
ソレを知っていて、隠したというのが正しい解釈になるだろう。 >>239
日本書紀によれば神武天皇即位は紀元前660年
邪馬台国の時代には神功皇后が三韓征伐したころ。
なんで卑弥呼や魏から金印貰ったとか書いてないんですかねぇw >>240
時代そのものはちゃん動かしていかないといけないぞ。 南北方向は一寸千里法で凡その距離を出せたとしても
東西方向はいい加減な距離だと思う
水行一月に至ってはその間の食料はどうしたんだという
疑問を持たない奴らは
カスミを吸っていたとするんだろう
まずこの点を解決する必要がある。 狗奴国は、
57年に後漢の皇帝「光武帝」から印綬され
204年に 後漢の遼東太守「公孫康」が設立した帯方郡に属した
北九州にある倭の奴國
公孫康の後を継いだ公孫淵が237年に、
燕王を称し年号を紹漢と定め、独立を宣言
魏の第2代皇帝「曹叡」に反旗を翻した際に
公孫康から玉璽を与えられ
公孫康とともに魏に反旗を翻したため
魏からは倭の奴國ではなく、狗の奴国と呼ばれるようになり
魏は、九州北部の奴国の変わりに、畿内の邪馬台国を親魏倭王とした >>242
知っていて隠した
とすると藤原氏や天皇家にとってとても都合が悪い話なんでしょうねぇ。
やっぱり背乗りですか。
倭人の国の邪馬台を渡来系の天皇家がクーデターで乗っ取った、倭人側の天皇家への協力者が藤原氏とかですか。
藤原氏はその功績で天皇家に重用されていくと。 >>201
八幡大神って比売大神とも応神(神功)ともまた別の地元神のような
気がしないでもない。 狗奴国は、
57年に後漢の皇帝「光武帝」から印綬され
204年に 後漢の遼東太守「公孫康」が設立した帯方郡に属した
北九州にある倭の奴國
公孫康から、後漢の遼東太守の後を継いだ公孫淵が237年に、
燕王を称し年号を紹漢と定め、独立を宣言
魏の第2代皇帝「曹叡」に反旗を翻した際に
公孫康から玉璽を与えられ
後漢の遼東太守の公孫康とともに魏に反旗を翻したため
魏からは倭の奴國ではなく、狗の奴国と呼ばれるようになり
魏は、九州北部の奴国の変わりに、畿内の邪馬台国を親魏倭王とした >>232
「魏志倭人伝に書かれていることはすべて邪馬台国」
↑
大間違い、読解力が正一並み >>247
魏志倭人伝のより古い写本、又は原本が見つかればワンチャン >>245
渡来系が乗っ取ったのは継体かなあ?
で、その渡来系からまた取り戻したのが天武系。記紀はその天武の時に
編纂が始まったのだが、主導したのは藤原不比等だろう。
ただし、一旦取り戻した皇統は、光仁の頃にまた渡来系へと移って
いったわけだ。天武系の井上内親王とその子供を処刑して、渡来系の
高野新笠との子供の桓武天皇に皇統が渡されたのもそれが理由だろう 大同2年(807)に成立した
大同本記を元にした倭姫命世記には、
魏志倭人伝の卑弥呼のエピソードと
同じ様な事が書かれている。
記紀成立当時の藤原家には、
祖先の梨迹臣や伊世里が
魏に使者として赴いた時の話は
余裕で残っていたのは間違い無い。
要はそれをなぜ書かなかったのかというだけの話でしかない。 >>252
伊勢神宮側は「倭姫命世記」を後世の創作としているね。
本当のところはわからないけど。 >>248
>「光武帝」から印綬され
変な言葉遣いをする香具師が大杉漢方 狗奴国は、
57年に、後漢の皇帝「光武帝」から印綬され
204年に後漢の遼東太守「公孫康」が設立した後漢の帯方郡に属した
北九州にある倭の奴國
公孫康から後漢の遼東太守を継いだ公孫淵が237年に、
魏の第2代皇帝「曹叡」に反旗を翻した際に
公孫康から玉璽を与えられ
後漢の遼東太守の公孫康とともに魏に反旗を翻したため
魏からは倭の奴國ではなく、狗の奴国と呼ばれるようになり
魏は、九州北部の奴国の変わりに、畿内の邪馬台国を親魏倭王とした 日本は煬帝に遣隋使を派遣した時、
冊封体制を完全否定する外交姿勢を貫いた。
その時既に冊封体制の不味さに気付いていたのだろう。
その後に成立した日本書紀は漢文で書かれ、
隋や唐に日本の歴史を紹介する為に書かれたモノであり、
日本の正史に冊封体制に組み込まれた事実はないというアピールを
する必要があったのだろう。 >>255 つづき
しかし、魏と晋が、漢復興を掲げた漢族の劉裕に滅ぼされると、魏から狗の奴国と呼ばれていた北部九州の古の倭奴國は、再び復権を果たすことになる 北朝鮮では楽浪郡も帯方郡も遼東半島説だろ北朝鮮学会は邪馬台国をどこに比定してんだろね ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か後漢音でなく現代音で分析してしまう 水行1月の食料はどうしたか
その1ヶ月に何処にも上陸しなかったのか
船の大きさはどれくらい
誰も答えられないw 吉野ヶ里遺跡展示室
観覧無料(入園料および駐車場は有料)
九州は吉野ヶ里で金を儲けようとしている
裏には町興し村興しの魂胆がある
唐子鍵は駐車料タダ、近くの道の駅のような
土産物屋の駐車場もタダ
銅鐸叩き放題、太っ腹
吉野ヶ里は欲深い >>216
「饒速日が畿内に派遣されて平定のための拠点を作ったんだろ
その後、饒速日と同族の神武」
これは九州出身の侵略者神武の東征を
正当化する作り話w >>261
沿岸航海で時々停泊しながら進んだんじゃないの? >>266
魏志倭人伝に記載されている
邪馬壹國 女王之所都には
・・官有 伊支馬(いきま)
・・次曰 彌馬升(みます)
・・次曰 彌馬獲支(みまかし)
・・次曰 奴佳醍(ぬはだい)
つまり
垂仁天皇「伊久米入日子伊佐知命」イクメ・イリビコイサチノミコト
皇后「氷羽州比賣命」ヒバス・ヒメノミコト
皇太子(後の第12代景行天皇)妃「美波迦斯毘賣命」ミカハシ・ビメノミコト
皇妃「沼羽田入毘賣命」ヌバタノ・イリビメノミコト
の垂仁天皇一族が
【言い伝えではなく実録】で、邪馬台国の女王の官として列記されとる 饒速日が物部氏の祖先を引き連れて
乗ってきた天の磐船はうきは市の
珍塚古墳の壁画に描かれてたけど
今は大分ハゲてるらしい
このままでは高松塚壁画の
二の舞いになるぞ
何しろ筑紫を物部氏が支配してたという
証拠の壁画だから大切にしないと >>268
あぁ要するにその頃は天皇ではなかったんだなw
クーデターで邪馬台国を乗っ取ったからそれを書けなかったんだろうw >>270
天皇とは、神武のことを
天(津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)の皇(子)と呼んだのが始まりであり
倭の王のことでは無かったんだろな
今は、天皇が象徴で、内閣総理大臣が官
昔は、卑弥呼が象徴で、邪馬の壹(中央官庁)の天の皇子が官 >>268
官有 伊支馬(いきま)
>次曰 彌馬獲支(みまかし)
ハイハイ、(みまかし)という読み方は大間違い。
魏晋南北朝時代の「支」は「キ」と音読みする
万葉集で天皇の古い呼び方を
於保支見(おほきみ)という
万葉集第5巻 第896番歌
於保「支」見能(大君の)
等保能美可等々(とほのみかどと)
末「支」太末不(ま「き」たまふ)
官乃末尓末(つかさのまにま)
美由「支」布流(みゆ「き」ふる)
…(後畧)*美由支は「深雪」
天平五年三月一日良宅對面獻三日 山上憶良謹上 大唐大使卿記室 於保支見(おほきみ)>平安時代以降
於保支見の様に単語の2文字目以降の
ハ行音の頭子音が消滅してア行音に変化する
現象をハ行転呼と言う。 古代は国の名前に「大」の字を被せるのが流行っていた
特に唐宋時代はその傾向が顕著である。
下朝鮮なんか20世紀21世紀になっても
「大」」の字を使ってる時代錯誤の後進国w
「東海」も太平洋を知らなかったり
地球が丸い事を知らなかった時代の中華帝国属国
時代の残滓w 燕雲台っていう中国遼朝のドラマ22話で
契丹部族の奴婢の墓標裏一面に×の線刻がされてて
吉野ヶ里の石棺じゃんと >>272
萬葉集に用いられている「やまとことば」が
魏の時代にあったのか 縄文人・弥生人の次に来た古墳人てのが大和朝廷を作った人々なわけでしょ 渡来人、100年早く奈良に移住か 最古級の建物跡発見(2018年11月29日)
https://www.asahi.com/articles/ASLCX5JHQLCXPTFC01S.html
大壁建物が4世紀末~5世紀初めに築かれ、渡来人の同町への移住時期が100年近くさかのぼる可能性が出てきた 万葉集の中で最も古い歌は4世紀前半の
磐姫皇后(いわのひめ)の作と伝えられる歌ではないか
と言われてる。
万葉集巻第1の1番歌は5世紀後半の雄略天皇の歌とされている。
万葉集中に現代でも使われてる言葉がある。
魏晋時代に日本列島に倭人が住んでいたのは確かだから
「やまとことば」は有っただろうね。
但し証拠は見つかっていない。
日本列島には北から南からいろんな民族が集まってきたから
いろんな言葉が混じって妥協して5母音の音韻体系に
収束したんだろう。
現代語の「暁あかつき」は万葉やまとことばで「あかとき」。
沖縄は3母音体系だし会津弁はイとウの区別が曖昧だし
英語のmincedと云う単語に対して関東弁と関西弁で
メンチvsミンチと感じ方の違いがあるし… 8世紀・9世紀に朝鮮半島から来た難民の大群は
古墳人と遺伝的に分けられるような存在じゃないと >>1
儒教徳川トクチョン朝鮮人[反日]が始めた奈良福岡ヤマタイコク論争が江戸時代から何も変わらないのは、奴らがわざとそうしているからw ジャップは選民ではないからな。
差別意識もいい加減にしろよな。
邪馬台国はヤマト国であって、ジャップは建国の頃から中華に朝貢していたのだ。
ネトウヨは韓国を中国の属国だったとバカにするが、邪馬台国はヤマトであり中華に朝貢したという点で韓国をバカにできるものではないのだ。
ネトウヨ悔しいのぉ。ねぇ今どんな気持ち!どんなき気持ち!
九州説とか糞笑える。江戸時代の国学者は必死に邪馬台国はヤマトではないと主張していたが、ネトウヨ思考そのままだよなぁ。進歩のない糞ジャップ。大草原wwwwwwwwww 東遷説だと大和朝廷の成立が3~4世紀になる
天皇家は紀元前660年から2600年以上続いた世界最古の王家ニダ
と威張りたい人には不都合になる。 >>58
トンキンものが、江戸幕府の開闢以前から、日本の首都はトンキンだったなんて主張するのが、畿内説だからさ。 畿内説:大多数の考古学者が支持する学説
九州説:知識の乏しい素人が信じてる俗説 畿内説のソース:学者が書いた論文や文献
九州説のソース:素人のブログやトンデモ本 ディープステートが世界を裏で支配してると主張する陰謀論者たちを「Qアノン」と呼ぶ
邪馬台国が九州にあったという俗説を信じてる陰謀論者たちを「九アノン」と呼ぶ >>296
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 >>297
テンプレ②
清水眞一 前・奈良県桜井市教委文化財課長
私は二十年間、大和の中央部・桜井市で「邪馬台国は何処」とのテーマを持って、
発掘調査に従事してきた。その結果として、邪馬台国が成立して女王卑弥呼を擁立する
までの弥生時には代中・後期に、大和には他地域を圧倒するような「ムラ」や「墓」が
見られないことに気付いた。
代表的なムラである唐子・鍵遺跡も、畿内の同時期の池上・曽根遺跡や田能遺跡などと
比較して、飛び抜けて大きいムラとは思えなかった。逆に、墓に関しては、
西日本各地と比べて遅れた地域との思いも抱いたことだった。
であれば、その次の古墳時代に入って、纏向の地に百メートル以上もの巨大古墳が、
なぜ突如として築造されるのか。これは、大和の地に別の地域の人々が入って来たと
考えざるを得ない状況とみた。
では、誰が何処からきたのか?考古学の資料からは、特定の地域が限定できない。
となれば、卑弥呼の邪馬台国は、北部九州のどこかではないかと思われる。 >>296-297
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 普通に考えて朝鮮半島、大陸の近い北九州だろ。
徒歩や馬で北九州から近畿まで行くのにどれだけの時間がかかると思ってんだよ。当時はろくな道も整備されてないのに。朝鮮半島から外敵がやって来ても対応出来ないじゃん。 「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
歴博・NHK・朝日新聞ですね >>303
いくら瀬戸内海が内海だって言っても、灘や瀬はいくつもあったわけだし
危険だったのは確からしいからな >>305
そう
魏からの贈り物を伊都国で開封してリストと相違ないか確認して邪馬台国の卑弥呼に送り届けるのに
確認してからまた船旅をしていくつもの国(共立したとはいえいつ寝返るか分からん)を越えて瀬戸内海を横断するのかなぁ
伊都国と邪馬台国は別の国でも隣同士だと思うわ
奈良に政権があったときは難波がその役割をしてたじゃん
難波が伊都国だって言われたほうがスッキリする 純粋に沈没のリスクもあるからな。
可能なら陸路が望ましかっただろう >>176
残念だが、九州北部は冬は雪がふるほど寒い。
その描写だけを信じるなら、宮崎でさえも冬場に二月は最低気温が0度を下回る日本で該当する地域は存在しないよ。 >>309
邪馬台国沖縄説か
後代に琉球の国らしきものが滅ぼされたんだよな
これもあまり言及されないけど 王族満州人なら支那人とは交流してるわけないじゃん
我们ウーマンみたいな
ん? なんで🇮🇪アイルランドでハプロD出てんの?
えーー!! 箱崎宮と那津の間の御笠川
これを南東に「水行」すると、板付遺跡や金隈遺跡を経て太宰府に到着
さらに太宰府で宝満川に乗り換えて南に「水行」すると久留米で筑後川に辿り着く
筑後川の周りには弥生時代末期〜古墳時代の遺跡が点在
何か意味がありそう 元寇の時中韓連合軍が攻めてくる前に
韓国人が提灯持ちしてモンゴルの酷暑を以って
使者として来日したが
鎌倉か太宰府で打ち首になったんだよな
「宰」という漢字は「生贄の畜生を殺す」という意味がある。
「宰殺」屠宰」という熟語がある。 >>309
九州は一冬に数回、雪がちらつく程度だよ
たまに雪がうっすら積もるくらいで、10年に1〜2回の当たり年に数センチ積もるかな
奈良や京都みたいな幻想的な雪化粧はなかなか見られないし
魏のあった中国北部や半島よりは「温暖」 神戸の乙女塚古墳には20年に1度くらい
由支(雪)がちらつく低度
卑弥呼之冢在摂津神戸 実は我が国は対外的には
我が国のことをヤマトと呼称したことはない。
倭(ワ)か日本である。 232:日本@名無史さん:[sage]:2023/09/02(土) 10:41:26.33
畿内説www
4世紀の奴隷が箸墓古墳の周濠を建造していた時にたまたま発掘された土器が、卑弥呼が死んだ頃の年代の物らしい
と言う事
これに対し
畿内説・・・土器が3世紀中頃なので箸墓古墳も3世紀中頃の墓であり卑弥呼の没年と一致するのだ!
九州説・・・それ土器単体を編年しただけじゃん。墓との関連性は不明だろ。 >>321
倭国→九州
倭種、日本(ひのもと)→本州四国
両者が統一されて大倭、のちに大和
と予想 北部九州説が違うと思われる点
・北部九州に当時のアメリカである魏がバックアップした国があるのに、その後短期間で畿内の豪族が日本を統一してる点
・邪馬台とヤマトの音声的な相似点 >>324
魏は滅亡したよ
そして魏が倒れて数年するとそれまでずっと続いていた朝貢の記録が途絶えて消息不明になった 筑豊之石可以攻我玉
筑豊の石(=石炭)以って我が玉(唐子鍵の勾玉)を
攻(=磨)くべし >>324
アメリカが滅亡して別の国ができ、そこと交流しようとして上手くいかなかったら滅びるがなw
「やまと」なら筑後山門(やまと)もあるぞ >・北部九州に当時のアメリカである魏がバックアップした国があるのに、その後短期間で畿内の豪族が日本を統一してる点
邪馬台国は実のあるバックアップを受けていない
こういうのもなんだが邪馬台国は魏にとって南方の弱小斜陽蛮族国家
そうした実状に反した厚遇自体が対呉牽制・司馬懿の評価上げるためという面があった
なにより貰ったのは鏡や旗竿くらいで兵は派遣されてない、毎年のように幾度も救援求めたのにね
>・邪馬台とヤマトの音声的な相似点
ヤマトは日本各地にある
北九州である場合、史書などと照らして最も蓋然性が高い筑紫平野にフツーに”山門”が存在する
ヤマト=大和・畿内ははっきり言ってかなりしょっぱい素人の説だよ >>325
確か300年頃に一度朝貢してるはず
これ割と無かったことにされてるけどなんでだろうね? >>1
儒教徳川トクチョン朝鮮人[反日主義者]が始めた奈良福岡ヤマタイコク論争が江戸時代当時から何も変わらない
のは、奴らがわざとそうしているから(当たり前)w >>324
>その後短期間で畿内の豪族が日本を統一してる点
邪馬台国が東遷したんだろう 天智天皇が白村江でボロ負けして
博多まで唐軍が攻めてきそうだったから
近江大津宮まで疎開した。
近江で天智天皇が好き放題やってたら
ジモティーの天武天皇にクーデターされた。
以後、九州から畿内に政権が移った。 >>315
つかさ、じんぎむくゎんでしょ?
ジンギスカン
律令制知らないの?😂🙊🤣 >>306
畿内にたくさん各地の土器とか集まってるやないか
みんな畿内まで行ってたのはわかってる >>335
墓を置きに作りに行ってた
その後は墓参りに行ってたよ >>333
防人を壱岐、対海、筑紫に駐留させて防備を固めたんだな
天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
原文 <久>尓<具尓>乃 佐岐毛利都度比 布奈能里弖
和可流乎美礼婆 伊刀母須敝奈之
訓読 国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし
(天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
原文 和我都麻波 伊多久古<非>良之 乃牟美豆尓 加其佐倍美曳弖 余尓和須良礼受
訓読 我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
天平勝寳七歳乙未二月相替遣筑紫諸國防人等歌)
原文 知波夜布留 賀美乃美佐賀尓 奴佐麻都<里> 伊波<布>伊能知波 意毛知々我多米
訓読 ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父がため 「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)は、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の「一強体制」が崩壊。
群雄割拠の状態になった倭国には、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本には独自の勢力が現れた。
それら西日本の独自の勢力が、、大陸の後ろ盾を失った北部九州に対抗するために、卑弥呼を共立して連合国を形成したのが、邪馬台国を中心とする国々だ
しかし、それも僅か30年あまりで魏が衰退し、連合は徐々に崩壊していき、大陸での漢族の復興により、再び北部九州が大陸の後ろ楯を受けて、連合を解消しバラバラとなった西日本の独自の勢力を個別撃破して征伐していき、最後に邪馬台国を撃破したのが神武東征だ >特別企画展『よみがえる邪馬台国』
これ、博物館の企画展だったらアウトだったな。
もはや学術として見られていない日本の考古学。
どうしてこうなった!? ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう 邪馬台国=ヤマト王権。
九州説なるものは、江戸のネトウヨ(平田篤胤などの国学者)が、日本が中国に朝貢した歴史を修正するために主張したのが始まりである。
国学者の妄説は明治維新後に古史古伝を信奉するカルトに引き継がれ今に至るが故に、自民党を支持する日本会議や壺が九州説を必死に主張するのである。
壺や日本会議の者たちは早く目を覚まして九州説を捨てて、今後は自民党の支持をやめなければならない。
なお維新や国民民主は野党ではあるが、自民党の補完勢力である。
市民の投票すべき野党とは、即ち日本共産党、立憲民主党、社民党、れいわ新選組の事である。 >>318
それ良く言われてるけど本当なのかねえ
倭国大乱って寒冷化からの食糧不足が招いたのでないの?
実際飢饉で半島に難民が大挙して押し寄せてきたたなんて記録も有るわけだし
お隣の中国でも長江の支流が凍結して船が出せなくなり、魏の呉遠征が中止になったりもしてる
どっちにせよ倭人条の記録は明らかに南国のそれ
どんなに温暖な時期だったにせよ有り得ない記述なのよね
距離や人口に加えて、こちらも政治的意図により捏造されたものと見た方が良いのかも 倭人は東南大海中に100余国に分かれて住んでいた
漢の武帝が四郡を設置してからのち漢と使訳を通じたのはずーっと30余国
後漢の時代も魏の時代もそれはおなじ
その使訳を通じた30余国を「倭国」といいその倭国には30余国をとりまとめる「大倭王」がいた
大乱前は70-80年ほど男の大倭王が続いたが、大乱中大倭王はいなかった
大乱後に共立されたのは女王卑弥呼であり
卑弥呼没後に内乱で引きずりおろされたのが男王でありそして次は台与だった
みな倭国の大倭王だった
その頃、東の倭種(70余国)の消息はわからない
↓
266年を最後にそれまで頻繁に朝貢し続けていた倭国の消息が突然に途絶えた
↓
宋書「倭王武の先祖が東に55国、西に66国平定した」
↓
旧唐書「倭国と日本は別種なり、日本はもと小国、倭の地を合わせたり」 ruha??(ドレス)
マジ、アジア系の言葉なんだろうな🇭🇺ハンガリー語って。
麗羽とか 「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の漢委奴国王の「一強体制」が崩壊。
群雄割拠の状態になった倭国に出現した、出雲地や吉備地域が共立した卑弥呼とは、誰であろう
イザナギはイザナミの死後に
天照大神・月読・建速須佐之男命の三人の子をもうける
この三人の子は、イザナミの死後に生まれた子なので母は、正室のイザナミでは無く
イザナミから海原を治めろと言われた建速須佐之男命が、出雲王国の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県雲南市大東町須賀)の母の元に行きたいと泣き叫んだことから
出雲の女性だったことがわかる
天照大神も必然的に、正室のイザナミとの子では無く、出雲の女性との子で
イザナギから高天原を治めろと、筑紫城から出されている。
そして卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡
ここに、出雲地や吉備地域が、筑紫城から放逐された皇孫の天照大神を手中して、女王として共立し、筑紫城から遠く離れた纒向に、天照大神がいる都、邪馬台国を造った
という背景が見えてくる 纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳は、後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれる「纒向型前方後円墳」
筑紫城から放逐された皇孫の天照大神を女王として共立した
出雲地域の「四隅突出墓」と吉備地域の楯築墳丘墓を合わせて出来た 纒向遺跡からは昭和53年、駐車場整備に伴う狭い範囲での発掘で、予想外に、掘っ立て柱建物跡と、凸形に張り出した柵の跡が見つかった
平成21年には、新たに大型建物跡などが東西に一直線で並んでいるのが見つかった
発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、宮殿を思わせる配置であるとともに
東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土して
シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市の要素を示していた。
最古級の前方後円墳が集中し、大型宮殿跡がある纒向遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及ぶ
これまで200回も発掘されたが、調査はまだ全体の3%ほどでしか無い >特別企画展『よみがえる邪馬台国』
こんなことやってるのは学術じゃないよな。
月刊ムーのイベント >>328
福岡市西区の早良平野にも「山門」があります >>349
どうだろう
邪馬台国だった畿内は、征服者神武の死後、
神武が九州で
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った嫡男(正室の生んだ男子のうち最も年長の子)タギシミミを、ぶっ殺してしまい
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミを、神武の後を継ぐ2代目「天の皇」として、それ以降
第3代天皇も、やはり
第2代天皇と出雲のコトシロヌシの娘の間に出来た子で
第4代天皇は
第3代天皇と出雲のオオモノヌシの娘の間に出来た子で
第5代天皇は
第4代天皇と奈良の豪族の娘の間に出来た子で
第6代天皇は
第5代天皇と尾張(名古屋)の天忍男命の娘の間に出来た子で
第7代天皇は
第6代天皇と第6代天皇の姪の間に出来た子で
第8代天皇は
第7代天皇と奈良の豪族の娘の間に出来た子で
第9代天皇は
第8代天皇とニギハヤヒの子孫の娘の間に出来た子 そして最終的に第12代景行天皇は
息子のヤマトタケルを派遣して
征服者神武の実家である九州・倭奴國の漢委奴国王家を討伐させち舞う ここらへん
>>360
>>361
に
日本の記紀に邪馬台国や卑弥呼が出てこない由縁があるのだろう >>314
三世紀末の状態はわからんけど、今の宝満川って浅くて船では
通れなさそうな気もしないでもない 当時日本が中国に渡る航路は九州北部から対馬経由朝鮮半島を経由して中国に行く海流しか無かった
日本海の現在の出雲や石川の海流で朝鮮半島航路も400年以降になる
五島列島から中国に渡る海流は800年とかそれぐらい 「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)は、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の漢委奴国王の「一強体制」が崩壊。
群雄割拠の状態になった倭国には、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本に独自の勢力が現れた。
それら西日本の勢力が、大陸の後ろ盾を失った北部九州漢委奴国王に対抗するために、卑弥呼・・つまり
正室のイザナミとの子では無く、出雲の女性との子で、父のイザナギから高天原を治めろと言われ、筑紫城から出された天照大神を共立し
3世紀初め、天照大神(卑弥呼)が都を置く所として
突然出現したのが奈良県桜井市の纒向遺跡(邪馬台国)
帯方郡→韓国→対海國→一大国→末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壱國は
韓国から出雲に渡り、現在の京都府を南下して、纒向に至るルートだな 中国の歴史書での記録がしばらく途切れちゃう
卑弥呼様やってた時、三国志の時代って
中国兄さんは凄い差だったのよ >>369
イザナギはイザナミの死後に
天照大神・月読・建速須佐之男命の三人の子をもうける
この三人の子はイザナミの死後に生まれた子
また、イザナギから海原を治めろと言われた建速須佐之男命が、出雲王国の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県雲南市大東町須賀)の母の元に行きたいと泣き叫んだことから
この三人の子の母は正室のイザナミでは無く、出雲の女性だったこともわかる
その出雲には
天照大神・月読・建速須佐之男命の母がいた
根之堅洲国にある須賀(すが)の地(島根県雲南市大東町須賀)がある西出雲王国の
神門臣家の八束水臣津野命が出雲6代目主王となり
国引きを決意
朝鮮半島の新羅の岬に余った土地があるぞと見つけられ、切り取り、島根県出雲市大社町の稲佐の浜との間に航路を拓いた
という出雲国風土記国引き神話が遺されている >>370
宗像三女神「あらやだ」
志賀海神社「ふーん」 >>345
温暖期だと言ってるのは考古学者じゃないから信用できるだろう。
弥生時代の海岸線の位置のデータとかも見たことあるだろ? >>376
https://kotobank.jp/word/%E5%8B%95%E3%81%99%E3%82%8C%E3%81%B0-2089741#:~:text=%E3%82%84%E3%82%84%E3%81%A8%E3%82%82%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%A8%E3%80%82,%E3%81%BE%E3%81%9F%E3%81%97%E3%81%A6%E3%82%82%E3%80%82
🇭🇺időじゃん! >>371
確かに。あの三国志の呉がまさかの日本に朝貢してたんだよな 普通逆のイメージだよな🤗
し、真実に触れるなあああ!!🙄キエエーーー!!🤗 もろに旧唐書
日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した
じゃねーか >>360
旧唐書には
倭国がみずからその名前(邪馬台国)が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた
ともあるから
邪馬台国を改めて、日出ずる国「日本」としたならば
卑弥呼を改めて、天照大神としたこともあるだろう >>382
ググっても色んな説が出てきてイマイチ確定が出来ないのよね
決定的な証拠は無いのかなと
古代後期小氷期
日本では弥生時代にあたる1~2世紀頃には寒冷期を迎えました。西暦300年頃に温暖な状態に一旦落ち着きましたが,400年頃には冷涼化のトレンドに戻り,5世紀中はそれが続きました
http://atmenv.envi.osakafu-u.ac.jp/aono/clihis/ >>384
少なくとも対馬壱岐島伊都国までは比定出来てるんだから
九州にあることを否定する材料は無いと思うわ 少なくとも周辺国において寒冷化を示唆する記録係残ってるわけで
今のところは寒冷化寄りに考えてるかなあ >>380
だったらハンガリー語で訓読み出来るのか? そもそも邪馬台国の時代の筑紫平野の海岸線と平野部の状態すら
確定していないんだよねえ。地質調査とかでわからないものかな? >>388
遺跡はわりと残ってるから、遺跡の場所は陸地だったんじゃないかな
>>55 >>389
吉野ケ里に関しては貝塚に沿って海岸線が在ったのではなかろうかと
物流の関係で、古代の集落は水路に沿って発展するわけだし他も恐らくは 女王国(邪馬台国)の一大率
新撰姓氏録から率を抜き出すと漢人の2例以外すべて百済人
楊侯忌寸(出自隋煬帝之後遠率楊候阿子王也)
楊侯史(達率楊公阿了王之後也)
香山連(百済国人達率荊員常之後也)
高槻連(百済国人達率名進之後也)
城篠連(百済国人達率支母未恵遠之後也)
大丘造(百済国速古王十二世孫恩率高灘延子之後也)
清道連(百済国人恩率納比且止之後也)
中野造(百済国人杵率答他斯知之後也)
古氏(百済国人杵率玖君之後也)
呉氏(百済国人従率呉伎州之後者)
豊村造(百済国人徳率古魯父佐之後者) >>390
船での移動は海だけでなく川や人工水路も活用してそう
環濠を造れるくらいだから、川と環濠を繋ぐ水路とか田んぼに水を入れる水路とかね カグヤマ
香山連(百済国人達率荊員常之後也)
尾張連・吹田連・多比連・津守連(火明命子天香山命之後也)
古氏(百済国人杵率玖君之後也)
若犬養宿禰(火明命十五世孫古利命之後也)
呉氏(百済国人従率呉伎州之後者)
榎室連(火明命十七世孫呉足尼之後也)
和(ヤマト)
和朝臣(百済国都慕王十八世孫武寧王之後也)
和連(百済国主雄蘇利紀王之後也)
和造(高麗人伊利須使主男麻弖臣之後也)
ヤマトタケルヒメ
阿刀部(山都多祁流比女命四世孫毛能志乃和気命之後者)
和気朝臣も日本武尊の後裔を称している
ヤマトタケルヒメの末裔を部民にしていた宿禰・連は
阿刀宿禰(饒速日命孫味饒田命之後也)
阿刀連(同上) >>392
そう川に拠る移動
太宰府が地政学的にどれほど重要な場所かが判るね
軍事物流における最要地 >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 隋書
其國境東西五月行南北三月行各至於海
東西五月行とはどこからどこまでで
南北三月行とはどこからどこまでだ? 物流的にも人流的にも防衛的にも大宰府は要衝
あんな地勢はなかなか見られない >>394
太宰府すごいよね
御笠川で那津と繋がってるし、宝満川から筑後川に合流できる
寺社や政庁跡の下を掘れば弥生時代の重要な遺跡が出てくる気がしてならないわ 御笠川を「南に水行」していくと太宰府を経て筑後川に辿り着く件 日本書紀
至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛
新撰姓氏録
阿刀部(山都多祁流比女命四世孫毛能志乃和気命之後者)
九州のヤマトに2人の女王か 大宰府の地の利は凄い
ただ、残念ながら弥生終末期の時点で、そうした地の利で都を置くという発想は
当時の倭人の頭には無かったと思う >>401
大宰府は北から攻められたら守りが強いが南から攻められたら弱いというのが定説だよ >>401
どうだろうね
今のところ何も出てないからなんとも
太宰府を南に下ると筑紫平野が拡がる
廣志曰倭國東南陸行五百里到伊都國又南至邪馬臺國
仮に筑紫平野に邪馬台国が在ると仮定するのなら、太宰府に何か在るのかと想定するのは自然な事かと >>395
それ日本史板で完全論破された糞コピペじゃんw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>404続き
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 日本会議や壺のネトウヨは邪馬台国九州説など早く捨てろ!
ジャップは建国のときから中華に朝貢していたのだ。
ネトウヨ論法では韓国は中華の属国でジャップよりも下らしいが、邪馬台=ヤマトでありジャップも同じく中華に朝貢していたのだ。
ネトウヨの悪あがきがくそわらえるな。
ねぇ今ネトウヨどんか気持ちwww
どんな気持ちwwwwwe >>404
それは間違い
なら投馬国への水行二十日陸行〜となるはず
はい、論破 w >>405
陸行一月は陸行一日の単なる写本時における写し間違い。
■十日だの二十日だの書いておいて、三十日だけ一月と書くと言うことは、駢儷文の観点から言って100%無い。
■また、三世紀などという時代には川にはロクに橋が架かっておらず、陸行一月できる場所は事実上物理的に存在しない。
この時代にそのような長距離は必ず水行するのであり、これは本居宣長が畿内説を否定した根拠でもある。
つまり陸行一月は誤記であり、写本時の単なる写し間違いである。
■百済伝で「其南海行三月有耽牟羅國」と書かれているものがあり、
耽牟羅國は済州島のことなので百済から三ヶ月も掛かる訳がなく、三日の誤植とされている。
このようなケースも実際ある。
■梁書の倭人条は魏志倭人伝をほぼパクって作ったものだが、これには「陸行一月日」とある。
つまりこの当時すでに陸行一月の資料と陸行一日の資料とが両方あったのだろう。現在残っているのは陸行一月の間違ったほうだったわけな。
陸行一月は陸行一日の単なる写し間違いである。 >>405
放射読みは正解だよ
ただ理由はもっと簡単
魏志倭人伝では伊都国の紹介のあと、そのすぐ直後に「全ての郡の使いがここに駐留する」と明確に書いてある。
駐留したと明確に断ってるんだから、それ以降を伊都国を基点として放射読みするのは
あったりまえ。 そもそも駢儷文の観点から言って
水行十日陸行一月は誤記で間違いないから
水行十日=陸行一月と言う言い分は頭から成り立たないw w
>>396
これは正直分かんない
文脈から言って陸行のことだが
そもそも古代日本に陸行何ヶ月も出来る土地が物理的に存在しない
川にはロクに橋はかかってない
陸行したら直ぐに山にぶち当たる
そんな長距離は必ず水行する
これは本居宣長が明言していること
ただのウソ記事ではないかね 魏志倭人伝は、
1、伊都国基点の放射読みが正しい。
2、陸行一月は陸行一日の単なる写本時における写し間違い。
つまり、邪馬台国は御井。 ぜんぜん邪馬台国とは関係ないけど、神事で鏡ってよく使われる
じゃないですか?
ぼくの推定では、この「鏡」を使って、別の時代の神主/巫女、
特に並列パラレルワールドの神主/巫女と「通信」または「会話」
する方法がどうもあった気がw
神事を何十年も従事する事で、1000人に一人ぐらいが
偶然気付く方法として恐らく特に隠ぺいされた方法で伝承されてるはず?
この卑弥呼さんというのは、恐らくかなり長い特定期間の歴代巫女の
合成人間なんじゃないかと思う。そうでもなきゃ、法律も無い
時代に国全体をまとめられる訳がない。
ってそれが分かった所でどうでもいい話だね。
どうでもいいけど、テレビゲームなんて、なんであんな物作れたの?
誰作ったの?予算は誰出してんの?これパラレルワールド製じゃね?w 帯方郡から伊都国まで10500里ほど
伊都国から御井まで陸路で1000里ほど
ピッタリ
伊都国から水行十日陸行一日で御井につく
やはりピッタリ
邪馬台国は御井 水産物禁輸、早期打開見えず 公明訪中延期で政府・与党衝撃 ★2 [蚤の市★]
>>1
自分らで大地震大津波/合わせて原発爆破しておいて、太陽光・風力推進(石油購入/電気ガス代ぼったくり貧困化)の反原発劇場。
アベ創価DS戦勝国民連も鳩山カン小泉河野れいわも東電もニッポン背乗り協会NHKマズゴミも経団連も、朝鮮中華もプロレスの >>380
ハンガリー語と日本語と中国語とごっちゃになってんのか?
いたずら書きだと思って捨てた漢文、実は古代ハンガリー語じゃねーの? 御井は筑紫平野の軍事的要衝であり
卑弥呼の墓である祇園山古墳があり
背後には神籠石遺跡の中心的存在である
巨大な高良山神籠石遺跡がある
邪馬台国は御井で100%間違いない >>292
特に威張りたい訳でもないけど始まりは紀元前660年かそれ以前でも何ら不思議ではないと考えています
ただ そのころ朝廷と呼べるものであったか?は定かではないだけで存在そのものを否定する根拠は聞いたことないですね 翰苑が引用している「廣志」に、邪馬台国の場所が記されているが、伊都国から南に行くと邪馬台国だと言っている。
廣志曰く、倭国東南陸行五百里、到る伊都国、又南、至る邪馬嘉(臺)国。
(嘉と臺とは非常にしばしば誤記される文字であるので、邪馬臺国のことだと考えられる。)
御井で間違いない
>>209 >>309
邪馬台国は宮崎にあった!みたいな本もあるよ
フーン( ´_ゝ`)📖みたいに読んでみるのもいい えー?!
でしょベルトに金属鎧も出てるw
唐の時代から退化してねえか? まだ論争してんのか。日本の歴史って、意外にショボいのな。 お金目当てで、邪馬台国の位置を誘導しようとするものは、もれなくバチが当たる。
先人への畏敬の念がまるでない。 邪馬台国はヤマト国で山門国のこと
発祥が山門だから
卑弥呼の時代に御井に移り
その後甘木・朝倉に移り(安本美典の言う邪馬台国)
最後は奴国と融合して太宰府に都を置き(倭京)そこで滅んだ お金のためもあるのかも知れないけど
基本キチガイの猿は大体いつもこんな感じ 特別企画展『よみがえる邪馬台国』
こんなインチキしてる考古学やべえ 10歲の男児がいたが、兵士は幼いので殺すのに忍びず、足の筋を切断して草沢の中に棄てた。雌狼がいて肉を与え男児を養い、成長すると、雌狼と交わり身篭らせた。隣国の王は男児の生存を聞くと、再び兵士を遣って殺した。兵士は傍らの狼を見て一緒に殺そうとしたが、雌狼は高昌国の北山(ボグダ山脈)へ逃れた。山には洞穴があり、中には草の茂る平らな土地があって、周囲は数百里で山に囲まれていた。狼はその中に隠れ、10人の男子を生んだ。10子が成長すると、外で妻を孕ませ、その後各々一家を持った。 うそっ?!
阿謗歩らは愚かなため、国を滅ぼした。兄弟の一人である伊質泥師都は、狼から生まれ、風雨を呼び寄せる能力を持ち、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、四つ子を生んだ。その一人である大児は踐斯処折施山に住み、山上にある阿謗歩の一族を寒露から助けたため、主(あるじ)に推戴され、訥都六設となり、突厥と号した。 >>431
室町時代まで遡れる武家だけど、それ以前は一応は源氏で神話の世界に迷い込んじゃう。どの名家も
天皇家と藤原家に繋がるって、奴らはアダムとイブかよw やっぱ、ショボいな。 上天より命ありて生まれたる蒼き狼ありき。その妻なる惨白き牝鹿ありき。 邪馬台国だった畿内は、征服者神武の死後、
神武が九州で正室の
日向の吾田邑(むら)の小椅(おはし)の娘「アヒラツヒメ」との間に作った嫡男(正室の生んだ男子のうち最も年長の子)タギシミミを、ぶっ殺してしまい
東征後に神武が奈良で
出雲のコトシロヌシの娘「イスケヨリヒメ」との間に作った子カムヌナカワミミを、神武の後を継ぐ2代目「天の皇」として、それ以降
第3代天皇も、やはり
第2代天皇と出雲のコトシロヌシの娘の間に出来た子で
第4代天皇は
第3代天皇と出雲のオオモノヌシの娘の間に出来た子で
第5代天皇は
第4代天皇と奈良の豪族の娘の間に出来た子で
第6代天皇は
第5代天皇と尾張(名古屋)の天忍男命の娘の間に出来た子で
第7代天皇は
第6代天皇と第6代天皇の姪の間に出来た子で
第8代天皇は
第7代天皇と奈良の豪族の娘の間に出来た子で
第9代天皇は
第8代天皇とニギハヤヒの子孫の娘の間に出来た子とした
そして最終的に第12代景行天皇は
息子のヤマトタケルを派遣して、征服者神武の実家である九州・倭奴國の漢委奴国王家を討伐させち舞う
もろに旧唐書「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した」だな 旧唐書には
倭国がみずからその名前(邪馬台国)が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた
ともあるから
邪馬台国を改めて、日出ずる国「日本」としたならば
卑弥呼を改めて、天照大神としたんだろう >>408
邪馬台国の時代には既に奈良に大和朝廷があったんだ!
と叫ぶ方がネトウヨでは? >>422
神武天皇127歳
孝昭天皇114歳
孝安天皇137歳
孝霊天皇128歳
孝元天皇116歳
開化天皇111歳
崇神天皇119歳
垂仁天皇139歳
景行天皇143歳
成務天皇107歳
応神天皇111歳
考安天皇は考昭天皇が80歳の時の子供
考霊天皇は考安天皇が86歳の時の子供
考元天皇は考霊天皇が70歳の時の子供
これを丸っと信じてるのは馬鹿かカルト信者
まともに考えれば神武天皇の即位が紀元前660年だというのは嘘だと分かる >>448
へー
紀元前660年に奈良で神武が天皇を名乗ってから
西暦57年 建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす 「倭国乱」の時期にあたる弥生時代末(2世紀末ごろ)は、中国の後漢王朝が衰退し、大陸の後ろ盾を失った北部九州の漢委奴国王の「一強体制」が崩壊。
群雄割拠の状態になった倭国には、北部九州とは別に、出雲地域に「四隅突出墓」と呼ばれる特異な墳丘墓、吉備地域には当時として国内最大の楯築(たてつき)墳丘墓(岡山県倉敷市、墳丘長約80メートル)が築かれるなど、西日本に独自の勢力が現れた。
それら西日本の勢力が、大陸の後ろ盾を失った北部九州漢委奴国王に対抗するために、卑弥呼
つまり
正室のイザナミとの子では無く、出雲の女性との子で、父のイザナギから高天原を治めろと言われ、筑紫城から出された天照大神
を共立し
3世紀初め、天照大神(卑弥呼)が都を置く所として
突然出現したのが奈良県桜井市の纒向遺跡(邪馬台国)
大陸の後ろ盾を失った北部九州漢委奴国王は、
204年に後漢の遼東太守「公孫康」が設立した後漢の帯方郡に属したが
公孫康から後漢の遼東太守を継いだ公孫淵が237年に、
魏の第2代皇帝「曹叡」に反旗を翻した際に
公孫康から玉璽を与えられ
後漢の遼東太守の公孫康とともに魏に反旗を翻したため
魏からは倭の奴國ではなく、狗の奴国と呼ばれるようになった 昭和60年前後に公開された国宝、海部氏系譜図には記紀にある天孫降臨神話とは全く違う天孫降臨が記述されている
天火明が息津鏡と辺津鏡を携え丹後に降臨したとある
天火明は記紀ではニニギの子とされているが、海部氏系図ではニニギの兄弟
天火明は、饒速日命ともいわれ、記紀の神武東征にもでてくるように、神武より先にヤマト入りしていたのが饒速日命である
一方、古事記には、垂仁天皇3年に、新羅王子天日矛が息津鏡、辺津鏡を日本に持ってきたとある
これはいったいどういうことなのか
天火明がニギハヤヒであり、その天火明は古事記では天日矛と解釈できる記述もある
急激に畿内が力をつけたのは、やはり朝鮮からやってきた渡来系が貢献したと解釈せざるを得ないだろう
天孫降臨は渡来系の来日であり、その技術力で製造されたものが様々な宝とされ重宝された
そして、渡来系により力をつけた畿内勢力が、九州邪馬台国を滅ぼし、400年後記紀を作成した
これが真実では >>448
履中天皇以降は平均在位12年程度だが、それ以前は平均在位70年
履中天皇以前も平均在位12年で計算すると、神武天皇が西暦200年頃即位したことになる
これは卑弥呼と同時期
卑弥呼が存在し、死んだ時代には日本の起源となる出来事があったに違いない
日本の起源の痕跡となるあらゆる事象が西暦200年前後に収束する >>1
偉大な🇨🇳中国でわけわからん🇯🇵日本が奪っていった事にしないと話成り立たないよなwwww
実は奪ったのが🇬🇧高麗コリアーだったなんて意地でも認めたくない😂🙊🤣 🇭🇺ハンガリーにやって来てるんだろ?
🇬🇧イギリス人モンゴル帝国外交官 >>452
皇統は何故日向の襲の高千穂に降臨したのだろう? 邪馬台国の難升米
「あ?!公孫氏が魏に滅ぼされた?!
こ、こえー
魏から攻め込まれたらヤバいから、卑弥呼さまの都の場所は誤魔化しておこっと
おっと、強そうな国だと見せかけないと」
魏の司馬懿
「公孫氏を滅ぼしたったwww
ん?東夷の邪馬台国が朝貢したいって?
邪馬台国が呉の背後の国って設定にすれば、俺、大出世するやんwww」
※蜀を牽制するため大月氏国を朝貢させた曹真、邪馬台国を朝貢させた司馬懿は大出世
大月氏国、邪馬台国だけ「親魏」の特別な金印が与えられた
魏志倭人伝を書いた陳寿
「晋の皇室の祖である司馬懿をあげあげしよっと
朝貢する国が遠いほど、豊かで大きいほど、皇帝の徳が高いっていうもんね
あー、邪馬台国はなんて遠くて大きいのでしょう」
こうして三者三様の思惑が一致して、幻の邪馬台国が誕生したのであった
めでたしめでたし >>453
履仲以降の5世紀王が平均在位12年なのは
兄弟相続が多いからだよ
親子相続なら12年で世代交代ということはない
記紀の系図が正しいならそれ以前はほぼ親子相続だよね
親との子年齢はもっと離れている >>458
世界のどの王朝も平均在位はたいしてかわりはない
一方で天火明がニニギの子だったり兄弟だったりする
系図の兄弟か親子かなどというのは信憑性が低い ネトウヨ九州説論だと歴代天皇に神功を入れないんだな。
神功を含めれば一代12年で計算しても三世紀だろう。
即ち邪馬台国=ヤマト王朝だな >>451
纒向遺跡を目の当たりに見てきた人の見解
坂靖・著『ヤマト王権の古代学―「おおやまと」の王から倭国の王へ』(2020/2/5)
著者の坂氏は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館の学芸課長を経て、現在、奈良県地域振興部文化財保存課の主幹という、
現役の奈良県の考古学者でありながら、邪馬台国北部九州説の立場をとっています。
(中略)
「ヤマト王権は、布留式期に日本列島各地に強い影響力を行使することをはじめたのであって、
初期のヤマト王権の版図は、きわめて限定されていたとみるべきである。
・・・弥生時代中期から後期の近畿地方においては、中国との直接交渉を示す資料がほとんど知られていない。
楽浪形土器は北部九州に集中し、松江市以東にはまったく認められない。
邪馬台国の時代、すなわち庄内式期においても、魏と交渉し、西日本一帯に影響力をおよぼしたような存在が、奈良盆地にはみあたらない。
邪馬台国の所在地の第一候補とされる纏向遺跡の庄内式期の遺跡の規模は貧弱であり、魏との交渉にかかわる遺物がない。
さらに女王卑弥呼の居所は、出入りするものは男子が一人いただけであり、そこに宮室・楼観・城柵が厳かに設けられ、
常に人がいて、兵が守衛するような場所であったと記されるが、纏向遺跡にはそのような場所を認めることはできない。」 倭人伝に係れた邪馬台国を無理やりヤマト王権に結び付けようとする意味が分からない
何か政治的な思惑があるの? >>463
邪馬台国と大和朝廷が無関係だと
天皇家の歴史が書き変わってしまうからだろう。
2~3世紀の九州は大和朝廷の統治下にあったかどうかで
日本書紀の2~3世紀の記述が嘘か本当なのかが決まる >>461
纒向遺跡で発掘調査をしている
纒向学研究センター 寺沢薫所長
卑弥呼が統治した3世紀初め、突然出現したのが奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡
平成元年、佐賀県・吉野ケ里遺跡の発掘により大型祭殿跡や楼閣のような物見やぐら跡が見つかった
纒向遺跡からは昭和53年、駐車場整備に伴う狭い範囲での発掘で、予想外に、掘っ立て柱建物跡と、凸形に張り出した柵の跡が見つかった
平成21年には、新たに大型建物跡などが東西に一直線で並んでいるのが見つかった
発掘された大型宮殿群は、東西に軸をそろえ、宮殿を思わせる配置であるとともに
東南アジア産とみられるバジルの花粉、中国の桃源郷を思わせる約2700個の桃の種も出土して
シルクロードなどを通じて文物が持ち込まれた、まさに国際都市の要素を示していた。
纒向遺跡に集中する最古級の前方後円墳は、後円部と前方部の長さの比率が2対1で築かれる「纒向型前方後円墳」と呼ばれ
この設計プランをもつ最古級の前方後円墳は、北部九州から千葉県まで100基に上る
ヤマト王権のシンボルの前方後円墳が纒向で誕生し、地方との政治的関係がこの段階で形成され各地に広がったことがわかる
最古級の前方後円墳が集中し、大型宮殿跡がある纒向遺跡は東西2キロ、南北1・5キロに及ぶが、これまで200回も発掘されたが、調査はまだ全体の3%ほどでしか無い >>464
いや邪馬台国では無く、漢委奴国王・倭奴國と大和朝廷が無関係だと、天皇家の歴史が変わってしまう
なんせ
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。彦瀲の子の神武が継ぎ立ち、あらためて天皇を名乗り、大和州に移り住んでその地を治めた。
だからな >>465
寺澤薫は東遷説を言い始めているな、2世紀の奈良には邪馬台国の痕跡は無かったからね。 >>462
何が言いたいのかわからんが、2代〜9代天皇は存在すると思う
海部氏に限らず、物部氏中臣氏大伴氏尾張氏なども、神武天皇から崇神天皇までの1〜10代の各天皇と行動をともにした人物が存在する
各氏族が天皇家の歴史に記述を合わせたと反論するやつもいるが、海部氏系図には天皇家の天孫降臨とは全く違う話を書いているわけで、天皇家の存在しない天皇に合わせて自らの系譜を捏造するだろうか
しないだろう >>447
邪馬台国の時代にはすでに近畿日本は存在してたよ
日本と名乗っては居なかっただろうがね >>464
記紀が嘘松だらけなのは
遥か昔からみんなうすうす知ってる
今更何の問題も無い >>472
少なくとも邪馬台国関連はウソ言ってないよ
ちゃんと筑紫の土蜘蛛の女王達を征服したと書いてある >>468
そうですね
記紀は事績の捏造は好き放題やらかし上げるが
人物の捏造はやらない
これは常識
人物の捏造するんだったらそもそも神武が九州から来たなんておかしな話しにするわけがない >>473
それ嘘だよ
その当時はまだ九州倭国は全然健在
その討伐をやったのは九州倭国だよ しかも辛国息長大姫大目命という九州に祀られてる異国の女神様と
よく似た名前のキャラクターをこしらえてそのひとが卑弥呼かなあ?ってとぼけて見せる記紀 一番ひどいのがヤマトタケル
事績はほぼ全部捏造
多分まるで赤の他人がやったことをヤマトタケルがやったことにしてる
ヤマトタケル自体は神武と同じで
まるでカタワのようなゴミ人間
恐らくヤマトタケルの事績で本当なのは兄殺しだけw 九州倭国が滅んだのは白村江の戦いでの敗戦が原因
時代がまるで違う 伊都国や奴国や不弥国がまるっと筑紫国に上書きされた時期が女王国消滅のタイミングだろうな またまた淡路説で盛り上がっているな ではご唱和してくれヤス! >>448
倭国は米と小麦の二毛作して
今のグレゴリオ暦の五月に麦の穂が茶褐色になって
麦刈りをしたからその季節を「麦の秋」と呼んだ。
そやから倭の2年が魏の1年で倭人は長寿やと
倭人伝に書かれたし古代天皇=於保支見も長寿 伊邪那岐命・伊邪那美命が国産みの後、
神々を生み出した神産みの中に
神武の先祖の大綿津見神(豊玉彦)はいるけれど
天照大神・月読・建速須佐之男命はいない
なぜなら天照大神・月読・建速須佐之男命の母親は伊邪那美命ではなく
出雲王国の根之堅洲国にある須賀の地(島根県雲南市大東町須賀)の女性だから >>463
大和王朝が3世紀の倭国の覇者だけど、
魏志倭人伝と違うね??
魏志倭人伝ってデタラメだね??
魏志倭人伝の狗邪韓国が倭の領土ってデタラメだね??
っていう朝鮮人の文化的侵略工作。 >>485
またコイツか。
イザナミが行った黄泉の国は根の国出雲だアホタレ。 ちなみに
伊邪那岐命・伊邪那美命の国産みでは
九州は筑紫島(つくしのしま)
その国王が自ら言うには、初代の国王は天御中主と名乗り、彦瀲に至るまで、およそ三十二代とされている。
彼らは皆、尊を尊称として、筑紫城に存在していた。
ということは、
初代の国王は天御中主から彦瀲までは九州にいたということ
だからな 一方
天照大神・月読・建速須佐之男命の母親は
出雲王国の根之堅洲国にある須賀の地(島根県雲南市大東町須賀)の女性
国津神です ネトウヨは日本人の起源が中国の遼寧省にある事すら認めないからな。
遼河文明が寒冷化と乾燥化で衰退して、夏華店下層文化人の一支流である偏堡文化人が韓半島に移動しそこで山東半島系の稲作文化を取り入れて、無文土器文化人になった。
そしてその無文土器文化人が北九州に植民して弥生文化人になる。
ジャップのゲノムの9割は西遼河起源であって、日本語も元々は遼河流域で話されていた言葉だった。
縄文人はアイヌ語を使っていて日本民族ではない。
この当たり前の定説すら否定するのがネトウヨ集団。
奴らの歴史観は竹内文書や日猶同祖論やホツマツタエを正当化するための詭弁で成り立っているんだからな。
安倍ゲリゾーのゲリノミクスを支持していた連中の知能などそんなものだ。 >>489
アホは黙っていなさい。
イザナミは黄泉の国に行きイザナギと離別。
スサノウは母(イザナミ)の国に行きたいといって、
イザナギは激怒も、
スサノウは天下を放棄して根の国に行った。
黄泉の国=根の国=出雲。
コレが日本書紀に明記してある。 スサノウが任された天下とは、
銅鐸の出土から佐賀吉野ヶ里遺跡周辺と決定。
天照大神が任された高天原は当時太陽観測施設のあった伊都国で決定。
月読命が任された青海原は、
現代にも口の中に入れたものを吐き出して、
発酵食品を作る風習のある山門八女で決定。 >>1
あしひきの山路も知らず白橿のえだもとをををををにゆきの降れれば >>491
つか、韓ってハーフの事だよん
合いの子 >>468
あり得ない長生きの割には特に事績も無い
モデルとなる人物はいたかもしれないが天皇では無かったろう。
天皇家、藤原氏から歴史の捏造を命じられた日本書紀古事記の編纂者は
真実の歴史が失われるのを恐れて後世の俺たちにヒントを残してくれた。
神武天皇と崇神天皇が同一人物であるかのようなヒントを残し
崇神天皇と彦火火出見尊が同一人物であるかのようなヒントを残し
彦火火出見尊と神武天皇が同一人物であるかのようなヒントを残した。
神武天皇=崇神天皇=彦火火出見尊
欠史八代の天皇は存在しない。 大和朝廷の歴史は邪馬台国後の崇神天皇から。
これを認めたくない人達が畿内説に固執する。 >>478
日本の神話ってサイコパスな弟が兄を虐げる話が多すぎない?
末子相続のモンゴル文化の影響か? そうか、古事記ではアマテラスを含む三貴子って黄泉の国から
戻ったイザナギが禊の最後に顔を濯いだ時に生まれた神なので、
それはつまり三貴子も「穢」ということになる。 >>500
ほら、記紀が編纂される直前に「弟」が「兄(の子供)を殺した」
事件があるじゃない? まぁ吉野ヶ里が邪馬台国とは思わないが、九州北部に存在していたであろう事はかなり濃厚だからなぁ >>491
糞チョン・パヨクはどうしても
日本人と朝鮮人をヒモ付けしたくてしょうがない
日本と併合された時代の夢から
覚めたくないニダ 学生の頃大和朝と邪馬台国は中国で言うところの周と秦のような関係なんじゃないかと思っていた
大和朝から唐突に瀬戸内海周辺に国家が成立した訳でなく、既に瀬戸内海の諸王から宗主のように邪馬台国があがめられいて、後から大和が実力で諸王を制圧した
大和朝はよほど陰惨な方法で邪馬台国抹消してまるで日本をはじめて作ったのが大和朝であるかのように伝承を語り継いだ 当時の大都会、大国だった魏からの使者を
きちんとおもてなし出来たのかな、と
ローマなんてテルマエロマエだよ 初代神武天皇は風じゃないかと、久しぶりに橿原神宮に行って思ったんだよな
上皇后陛下の御歌の石碑を読んでの個人的な感想だけど
遠つ世の 風ひそかにも 聴くごとく 樫の葉そよぐ 参道を行く
風といえば、播磨風土記に出てくる五色の玉を持つ石神であり大国主伊和大神
尾張で終わる国作りを成し遂げた神さま
紀元前後か1世紀前半の実話じゃないかな 甲骨文字の研究で
神は天からキザハシを使って
降臨して来ることがわかってる
↓「降」の甲骨文字(中国語は甲骨文と言い、英語ではオラクルと言ふ)
https://img.zdic.net/zy/jiaguwen/43_F4CD.svg
左側は左右の足、右側は「きざはし」=階段を表わしている。
倭人は支那の「殷」の時代から支那と交流していた
唐子鍵から高床式建物に上り下りする
梯子が出土している。
共 伴 土 器 は 大 和 第Y-3様式である。
甲骨文字研究の結果「一歩」は左右の足を踏み出すこと。
つまり現代の2歩に相当する ここまで全部 妄想
ここからも全部 妄想
ちなみに全員独身中年ハゲ
よーし!はりきっていこー! >>498
神武と崇神が同一人物はまずありえないな
崇神は四道将軍を派遣し北部九州から関東まで支配領域を広げた人間
これは1代12年換算によれば西暦300年頃になり、考古学的にもこの頃前方後円墳が全国に広がっていく
よそ者が大和での地盤づくりをし、そのような業績をなしたとは考えづらい
業績がないことを存在しないと考える一方業績が多すぎることは疑問に思わないのはなんなんだろうか 10代以降はまだしも欠史以前や神話をさも歴史記述のごとく語るのは勘弁なんだな
推測ならまだしも決定!とか言っちゃうの痛々しいよ >>512
でも欠史が架空で崇神が覇権を握った勢力としての始祖と解釈するのが自然じゃない? 伊和大神を石神(いしがめサン)と訛って
発音してた祖母
そういう経緯(いきさつ)だったのか >>512
>よそ者が大和での地盤づくりをし、そのような業績をなしたとは考えづらい
ニニギノミコトは神武天皇と同じ天孫族
そもそも神武天皇は奈良入りする前に吉備で数年過ごしてる 宮崎県に天孫降臨した天孫族は四国に進出し、四国経由で畿内、奈良に勢力を広げる
これがニニギノミコトグループ
渡来系DNAのこの分布はこれを裏付ける
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/
一方神武天皇(崇神天皇)は中国地方経由で『東征』し奈良入りをする。
吉備での数年間は吉備方面での足場作りをしていたんじゃないかと思う。
んで晴れて奈良入りしてニニギノミコトグループと合流、古墳文化を作り上げる。 >>492
亡骸は、
『古事記』によれば出雲と伯伎(伯耆)の境の比婆山(現在の中国地方にある島根県安来市伯太町)に
『日本書紀』の一書によれば紀伊の熊野の有馬村(三重県熊野市有馬の花窟神社)に葬られた
天照大神・月読・建速須佐之男命の母親のいる
出雲王国の根之堅洲国(根の国)
島根県雲南市大東町須賀とは全く別の場所です 横からだけど
>>519
まあ、その人はよそ者の神武が入ってきてから八代も経ているから
崇神が権力を振るうことができた、ってことかと。
でも、同じように神武の前にニギハヤヒがナガスネヒコの妹を娶って
すぐに権力を握ってた感じだから、崇神だって可能ではありそう。 >>501
母親が天津神ではないのよね
出身地が
出雲王国の根之堅洲国にある須賀の地(島根県雲南市大東町須賀)というだけで
名前もわからない >>402
有明海は浅瀬で潮が引く季節は沼地になるから、南の海からは攻められないのよ。 >>523
神なんだから母親がいなくてもいいんですよ
ていうか、そもそも「決してわたしの姿を見てはいけません」と
言われたのに見てしまったということは、両目に最大の穢があるって
ことで、そこから生まれたアマテラスとツクヨミは当然最大の
穢であるというわけだ。 ネトウヨ思考
・日本人は縄文人の子孫
・日本語は縄文語の子孫
・Y遺伝子Dが自慢
・縄文文化を縄文文明という
・邪馬台国は九州と主張
・日本が中華に朝貢したのが許せない
・アイヌ人はシベリアからやってきた虐殺者
・なぜかエベンキという民族に関心がある
・古史古伝や日ユ同祖論などのオカルトを信奉
・邪馬台をじゃまたいと呼んでしまう低学歴
・国学者の九州説をなぜか反皇国史観と思い込む
・魏志の漢字を何故か現代音で分析してしまう >>520
天孫降臨は鹿児島の野間岬に船で乗り上げだし当地で隼人の女と代を重ねたからゲノムだと縄文寄りになってるよ 神武が橿原に宮殿作ったらしいけど紀元前にそんな遺構ないのよな 【非女王国】対海国、其大官曰卑狗、副曰卑奴母離
【非女王国】一大国、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離
【女王国属国】伊都国、官曰爾支、副曰泄謨觚、柄渠觚
【女王国属国】奴国、官曰兕馬觚、副曰卑奴母離
【女王国属国】不弥国、官曰多模、副曰卑奴母離
【女王国属国?】投馬国、官曰弥弥、副曰弥弥那利
【女王国本国】邪馬台国、官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮
【非女王国】狗奴国、男子為王、其官有狗古智卑狗
いうまでもなく大和王権はヒコ(彦)の国 オモシロ九州説
Q:九州のどこに邪馬台国がありましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから邪馬台国を示唆する遺跡がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこから魏との外交を示唆する物証がでましたか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:水行十日陸行一月だと九州からはみでませんか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに7万戸の大国が存在できるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに30国連合を示唆する物証があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:九州のどこに径百余歩の墓があるんですか?
A:そんなの知らねぇ!!
Q:本当に九州に邪馬台国があったんですか?
A:ありました(ドヤッ
Q:ではその証拠は?
A:そんなの知らねぇ!! あと神社についてはちゃんと由来を吟味しないといけないわけよ。
近代になって定めた橿原神宮とか、あと明治期以前の神社でも
例えば近江の多賀大社のように元は誤りなんだけど現在まで
ちゃんと信仰されていたりするものがあったりして、これと
同じことを記紀成立前後に行われていたらしいことも当然
考えにいれておかないといけない >>529
誰も知らなかったはずの縄文時代の遺跡が出た(キリッ
だそうですよ >>497
>「与台13歳」
魏書の倭人伝は邪馬「一」国やら「臺」国やら「台」
「壹」与、「臺」与に「与台」と名前も読み方も
定説が無いからレス番検索に手間が掛かる。
魏志の倭人伝は後漢書より先に書かれたんだよな。
卑弥呼「年已長大、無夫壻」という風に当初
注目されてなかったから生年不詳。
一方神武以来の天皇は魏と交流し始めて
倭人の使者若しくはヤマト王権関係者から
聞き取って長寿であるとの情報を得たんだろう
だから「臺與」の13歳は帯方郡の役人にも
漏れ伝わってるから中国式の年齢の数え方が
分かってるノサ。
倭人が数えたのと古代支那人が数えたのとの違い。
簡単なことやんか。 >>520
海部氏系図によれば、天孫降臨したのは天火明であり、降臨した地は丹波
当時の表は日本海側であり、渡来系は日本海側に多いと解釈するのが自然だろう
そして海部氏系図の天孫降臨神話のとおり、丹波から大和入りし、四国に広がったと解釈するのが自然
神武の前に大和入りしていたと記紀にある饒速日も天火明の別名
つまり、遺伝子的にも日向の天孫降臨は捏造で、実際は丹波だったと解釈するほうが自然 >>508
魏が最初から倭を蛮族だと思って何の期待もしていなかっただろうから
それで国交に差し支えた記録はない
「こんな遠くからよく来たな」と魏の権威付けに使えればよかっただけ >>534
陳寿の『魏志』(倭人伝を含む)は
范曄の『後漢書』より先に書かれたが
范曄が『後漢書』を書くに当たり参考にした
謝承の『後漢書』や薛瑩の『後漢記』は
陳寿の『魏志』(倭人伝を含む)より先に書かれた >>534
陳寿の『魏志』(倭人伝を含む)は
范曄の『後漢書』より先に書かれたが
范曄が『後漢書』を書くに当たり参考にした
謝承の『後漢書』や薛瑩の『後漢記』は
陳寿の『魏志』(倭人伝を含む)より先に書かれた
しかし
范曄の『後漢書』には
陳寿の『魏志』(倭人伝を含む)のような
邪馬台国に行くための具体的な経路・方位・距離は書かれていないので
帯方郡ー韓国
- 海を渡る1000余里 絶海の孤島「対海國」
- 南に海を渡る1000余里 「一大国」
- 南に海を渡る1000余里 「末廬国」
- 東南に500里 「伊都国」
- 東南に100里 「奴国」
- 東に100里 「不弥国」
- 南に水行20日 「投馬国」
ー南に水行10日、陸行1月 「邪馬壱國」
は、陳寿の独自取材によるもの ドラムはモンゴルのほうで他の宗教に入信していても不思議はないんだけど − 南に水行20日 「投馬国」
ー南に水行10日、陸行1月 「邪馬壱國」
九州の東側(投馬国)と西側(邪馬台国・狗奴国)? >>537
ほんの60年前、70年前は現代(ヒュンデ)と
年齢の数え方が違っていたんだぞ。
子供が生まれた瞬間から1歳と数え始める。
だから
最初の正月元旦が来たら数え年で2歳だ。
これは数学で言う自然数の概念そのまま。
6〜70年前は「ゼロ歳児」なんちゅう言葉は無かった。
年寄りに年を聴かれて「むっつ」と答えると
「満か数え歳か」尋ねられるのが日常茶飯事だった。
教訓:歴史は現在の常識で解釈すると間違いばかり。 うむ。今回もしっこく徳島ダイナマイト阿波説で結論が出たようだな
学閥や利権に囚われない5ちゃんでは昔から阿波説で結論が出ているからな
それではご唱和してけろ!しっこく!しっこく!しっこく!🙅♀ 白帝城<李白>
朝に辞す白帝 彩雲の間
千里の江陵 一日に(して)還(かえ)る
白帝城から江陵までは約600km
したがって1里は約600メートル
李白は701年〜762年盛唐の詩人
科挙の試験にすべったが
玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の
推薦を得て長安に上京した。玄宗への謁見を待つため
紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、
当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、
この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。
このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の
推薦を得て、同年の冬、李白は宮廷の翰林供奉
(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになった。 >>448
丸っと信じるというかね そこら辺は昔のことだし誤差はある程度あっても不思議ではない
初代はいろんな意味で人間離れしてたとしても何ら不思議ではない
その後も現代のように崩御 即 全国ニュースというわけではないのだから
インカ帝国だったかな 王が死んでも領地は残るとか
そのようなしがらみの中で崩御を伏せたり欠落した部分を埋めたりなどの可能性はあるものの紀元前660年を否定するまでには至ってない
さらに660にいきなり湧いた訳でもないだろうし始まりの解釈しだいではそれ以前の可能性まである 直系じゃんハンガリーとウイグルwwww
これが唐? ほれ。ここに答えが全部書いてあるぞ。
邪馬台国の地を開拓した人の子孫に伝承されてる最強の史料だよ。
http://oomoto.net/sub3-j.html
出雲王国とヤマト政権 大元出版 >>538
ニギハヤギと彦ホアカリが同一人物ってとこは合ってる。
どっちも徐福のこと。徐福が出雲にきたときは彦ホアカリと自称して、
徐福の部下が大事件を起こして出雲に居れなくなっていったん秦に帰って
次は有明海に来た。そこではニギハヤギと自称した。吉野ヶ里に住まわせて
もらってずっと先の子孫が日向に移動。
神武という一人の人間は実在しない。スサノオやアマテラスもそうで、複数の
人物を混ぜてキャラクターを作ってるから。神武は初代邪馬台国(ヤマト国)の
大王(天皇)の天の村雲のことでもあり、11代目大王(垂仁天皇)の
物部イクメのことでもあり。東征した者も複数居る。渡来人も団体で移動してるし
初期のヤマト国は共同政権だったり、簡単な話ではない。 九州説派はせめて県だけでも特定しろよ
畿内は奈良の桜井〜橿原で確定なんだからよ >>520
ニニギは皇室と同じハプロのd1a2の縄文人だと思うがな >>559
証拠は? 第六感かw
このスレッドは段々カルト染みて汚な >>558
く考古学の発掘成果として、
畿内は奈良の桜井~橿原は邪馬台国と
一切関係がない事が明らかになっている。
ソレを、畿内は奈良の桜井~橿原が邪馬台国だから、
魏志倭人伝は間違ってるね??
魏志倭人伝の狗邪韓国は倭の領土もデタラメだね??
っていう朝鮮人の戦略が邪馬台国畿内説。 >>538
残念だがニギハヤヒは、
実際に河内を拠点にして、
大和に進出した可能性が極めて高い事が、
大阪湾型銅戈の分布により明らかになっている。 そもそも「ヤマタイコク」なんて読むバカに場所とか歴史とかわかるわけない
どっからどー読んだってジャバダイコクだろバカには分からんだろうけど >>556
これ、出雲が大和朝廷になったとか、国譲りを無視しているな。 >>564
日本の正史は皇統を日向がルーツと紹介するもの
出雲や筑紫など日向と別に皇統のルーツがあったのなら
わざわざ隠蔽したり偽装したりする必要がない
そんなあたり前のことをわからない人もいるんです 【兵庫】ランニング中の少女の尻触り 5分後再び遭遇し胸触ったか 19歳大学生の男を逮捕 2023/09/02
>>1
そんなのとか盗撮とか ホモ愛人(枕営業)ジャニタレ問題 とかより、
アベトモ山口敬之(朝鮮名不詳)とかアベトプロレス山本太郎(〃)みたいな強姦犯外人を先に捕まえろよアベ警察や司法は 出雲大和連合が銅鐸を作成して同盟範囲にバラまいたのは確実だが、
ソレを後の大和朝廷は何か知らなかったのだから、
出雲大和連合が後の大和朝廷でないことは確実。 >>527
天孫族は薩摩隼人の国々へ勢力を伸ばせなかったから
四国方面へ本拠地を移したんだと思う >>560
皇室のハプロを男系で遡れば当然ニニギもd1a2になるだろう >>570
明治天皇の眉を見れば明らかに縄文人だろ >>571
昭和天皇や上皇陛下や今上陛下は弥生顔だろう。
そもそも大和朝廷成立に際して
進んだ渡来系の文化文明が大きな役割を果たしたのでは? 大和国風土記に石津神と天津神の三都のまぐわいは婚姻のこととある
皆血縁を結んで一緒に国を作ったんだろう >>570
天の磐舟で日向に天孫降臨
どこかから渡ってきたと言ってるも同然
ただし、今の顔立ちを見て10世代前がわかるわけもないし、20世代前、30世代前と遡れば顔立ちなんて全然わからん
単なる印象操作にしかならんよ
現在の天皇が既に126代目だからな >>568
それでも数世代は日向の国にいて現地と強固な血縁関係はできただろうね
渡来系だけで交わって血を濃くするメリットがないし鹿児島の女の子は可愛い そもそも古墳が多い地域が邪馬台国だと思ってる学者が池沼
奈良に古墳が多いのは墓域だからなんだよ
被葬者は周辺国の王たちであり、奈良の王じゃない
それらの国々の土器が奈良に集まるのは当たり前
周辺国とは、元銅鐸民族の領域の国だ 石見神楽の切目は興味深い
切目「「それ神といつぱ、天地未分の昔より、虚空円満におはします。これは即ち一元の神、又五行別像のその理はいかに。」
介添「木火土金水、青黄赤白黒の色を得て、五柱の神と現はれたまふ。」
切目「さてその垂跡は」
介添「事解男、速玉の男、伊弉諾の神社。」
切目「無念の鼓は。」
介添「父母の声。」
切目「羯鼓太鼓は。」
介添「幼兒の声。」
切目「みな神風の源は。」
介添「重波よする伊勢の宮。古歌に曰く、片そぎの千木は内外に變れども誓ひは同じ伊勢の神風。」 >>575
貴族は互いの家で嫁や婿をとって血の濃さを維持するものだろう? 神武の東征自体は
垂仁、景行が日向生目から宇佐妻垣に進出して、
吉備津彦の娘の播磨稲日大郎姫との
縁戚を通じて、
大和纒向に進出して行った所を元に作った創作。
ソレで、日向→宇佐→吉備→畿内大和になっている。 >>576
畿内は卑弥呼の前にいた王や巫女の墳墓が出てこないのが致命的
卑弥呼の墓も前方後円墳かどうか怪しい
戦乱の中で築いた径100歩の塚が、大規模な土木工事で造られた巨大な前方後円墳とか現実離れしている
せいぜい丘を利用して短期間で仕上げた円墳だと思うわ >>574-575
宮崎って百済の王子が流れ着いた神社あるよね >>579
垂仁天皇没年齢140歳
景行天皇没年齢143歳
かなり盛ってるよな
仮に実在していて長生きだったとしても二人だけで150年ぐらいは盛られている
他の天皇の異常な長寿を補正したら大和朝廷成立は邪馬台国以後になるだろう
日本書紀に邪馬台国や卑弥呼を明記出来なかったのはそれが理由なんだろう 大国主の出雲大和連合が銅鐸を象徴とする勢力で、
その銅鐸が元々北部九州佐賀吉野ヶ里遺跡周辺で作られたのが始まりで、
その次の編年の銅鐸が、銅剣と共に出雲荒神谷遺跡から出土する事から、
吉野ヶ里遺跡周辺から
出雲荒神谷遺跡に進出した部族の長が、
スサノウであることが確定しており、
ソレが現状、前2世紀の事と言うことになる。
スサノウが前2世紀に吉野ヶ里遺跡周辺に居たということは、
その兄弟姉妹の天照大神が実在していた事が確定し、
当時の太陽観測施設のあった伊都国が
天照大神の居た高天原と言う事になる。
またもう一人の兄弟姉妹の月読命は、
口の中に入れたものを食べさせる保食神のいた青海原に進出したとされるが、
コレが八女に口の中に入れたモノを発酵食品として食べさせる風習が残っており、
月読命が派遣された青海原が山門八女と確定する事になる。 >>562
淡路島に弥生後期の大規模な鉄鍛冶遺跡が見つかってる
宮崎県~四国~淡路島~河内~奈良
天孫族の支配地の拡大はこの順序だと俺は思う。
淡路島で鉄鍛冶やっていたのは機密の保持が便利なのと
回りが海だから守りやすいのもあったのではなかろうか。 天照大神が伊都国の巫女か女王であることが確定すると、
天照大神を祀っていた巫女の倭姫命も
当然伊都国の巫女と言う事になり、
後は流れで倭姫命=邪馬台国卑弥呼で、
3世紀中期の北部九州の状況から、
山門八女が邪馬台国の都ということにばる。 >>580
神武から全部あるけど、全部見ることができない
みんな大好き崇神天皇陵は山邊道上陵(ヤマノヘノミチノヘノミササギ)に葬ったと日本書紀にある
平安時代にまとめられた延喜式諸陵式には、大和国城上郡に東西2町、南北2町、守戸一烟がいたとある
ないわけではなく、見れないってのが正解 >>565
皇統を重視すると
葦原中国:古代出雲【伊都国】
構成:島根県東部から鳥取県西部の複数の国々
初王:九州倭奴國国王の伊邪那岐神と伊邪那美神から産まれた13番目の子の大山津見神の6世孫の大国主
九州倭奴國国王の伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない出雲の娘との間に産まれた長男のスサノオと、西出雲のクシナダヒメとの間に出来たスセリビメと結婚した
高天原:古代奈良【邪馬台国】
構成:紀伊半島を中心に、大阪から長野までの複数の国々
初王:九州倭奴國国王の伊邪那岐神と、伊邪那美神ではない出雲の娘との間に産まれた長女の天照大神
スサノオの娘と結婚した、九州倭奴國国王の伊邪那岐神と伊邪那美神から産まれた13番目の子の大山津見神の6世孫の大国主に国譲りを迫り、激戦の末に併合する
海神国:古代九州【倭奴国】
構成:九州全土の国々
初王:天之御中主神
日本最初の政権で、全ての政権の祖
何代目かの九州海神国王が、後漢(25年 - 220年)から57年に「漢委奴国王」称号を賜り倭国王となるが、後漢が魏によって衰退すると、属していた帯方郡の公孫氏と共に、魏に対して反旗を翻した。
その後、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(彦瀲)倭奴國国王の時代に四人の皇子が東征
第4皇子の神武が、葦原中国と高天原を制圧し
天(津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)皇(子)として統治する >>585
そもそも伊都国に巫女が存在したのかどうかすらわからない
魏志倭人伝の記述ですら伊都国は小さい
そして、そもそも天照がどこに住んでいたのかなんて、中々証明できない >>587
なぜ、わざわざ日向出身と偽ったのか?
って話をしてるんだが、俺の考えた皇統はどうでもいい
自分のルーツを偽るってよっぽどの理由がいるぜ? そもそも天孫降臨神話自体、記紀編纂当時の女帝(持統、元明)から
孫(文武、聖武)への皇位継承を正当化するために創作されたという
説があって、そのベースになったのが各豪族の伝承だと考えられるので
高天原も渡来系の豪族の伝承を元に創作しただけなんじゃないの? まだ邪馬台国とか言ってんのか
佐賀は本当に見苦しいな
考古学への興味の無さが浮き立ちまともに注目されるべき遺跡が軽く見られるだけなのに あと、それこそ魏志倭人伝の記述でもわかるとおり、朝鮮半島南部の一部は
倭国だったんだから、別に区別する必要もないわけよ >>578
新参者には地元の有力者との血縁の方がメリットが大きい >>590
天照の孫はニニギであって神武でもない
女帝からの継承は既に推古天皇で前例がある
神功皇后は文献的にも天皇に即位した記述はなく、摂政の地位にしか就いていない 考古学で日本のルーツを探るならまず目の前にある古墳の調査やDNA鑑定をしなさいよ >>588
ソレはあなたの願望で、
考古学上、伊都国に女王や巫女が居て、
太陽観測施設があった事も判明している。
魏志倭人伝にも、伊都国の長官は爾支と書かれており、
爾支=禰宜の事で、もう3世紀には神社のシステムが既にあって
実際に運用されていた事が分かる。 考古学はたまたま出てきた物を並べて適当に作り話をしてるだけ
だから倭人伝とも記紀とも整合しないおとぎ話になってるんだよ >>593
中世までは姻戚関係で地位を確立してたからな
戦国時代は武家のちも混ざってるし、同族婚で固めてたわけでも無さそう で、伊都国に居た邪馬台国の役人は、
禰宜という神主のサポート役と言う事で、
神主の立場の人間は、
やはり邪馬台国の卑弥呼という事になるだろう。 いやいやこの時代を研究する場合神話が多く含まれている時代なんだからその辺の話も考察しないとダメだろう。
魏志倭人伝は日本との外交上嘘が多いし古事記、日本書紀は神話が多く含まれてからな
そういった意味では魏志なんかより竹内文書と月間ムーが一番真実に近い歴史書になるのは事実
小生もNYに旅行に行った際ホームレスがそう言ってたしな(彼は元フリーメーソンで地球に縄文時代に留学しに来た宇宙人、とは本人談) 神話を裏付けるような考古学的な発見があるなら
その上で神話を考察するのは良いと思う スサノウや天照大神が前2世紀とすると、
徐福が前3世紀末期ということで時代的には近い。
前2世紀のスサノウの痕跡が出土するということは、
前3世紀末期の徐福の痕跡も、
日本に来たのであれば、
実際に遺跡として具体的なモノが
出土する可能性が高い。 >>596
>考古学上、伊都国に女王や巫女が居て
巫女は神事の補助職の事であって、シャーマンとは別だよ?
考古学上って事は、ちゃんと巫女がいた物証があったり
当時の文章が残ってるってことかい?
太陽観測と巫女の関係は?
禰宜が祈祷した証明は?
この辺って君の願望や予想何じゃないの?
シャーマン的な祈祷師がいたのはそれこそ縄文時代からいたから
別にどうでもいい
無理に神社の形式に寄せてるのが、意図的すぎるな また、伊都国が天照大神が居た場所という事で、
那珂川上流の岩屋が、
天の岩屋ということになり、
博多櫛田神社辺りが、
卑弥呼の家臣の大若子命がいて、
一大率を置いていた場所と考えられる事から、
伊都国は那珂川西岸一帯を治めていた可能性が高い。 そう言えばDat落ちした方のスレで
最新の研究では卑弥呼が死んだ247年に日蝕無かったよ
と言ってリンク貼られていたけど実際にリンク踏んでpdf落としたらその論文の結論が
『天照大御神は卑弥呼のことが神話化・伝承化したものであり,
天照大御神の天の磐戸伝承は卑弥呼の死と関係する,との見解がある([12]).
卑弥呼の死の前後と見られる紀元 247 年に,北九州で,皆既または皆既に近い日食があったことは,注目に値する』
になっていてワロタ
まぁこういう裏付けがあった上で
神話の天照大神は卑弥呼のことでは?
と神話と現実をリンクさせるのはアリだと思う >>605
貴方の考古学に基づかない願望を聞いてもしょうがない。
平原遺跡などには実際に祭祀の道具を持って殉死した女性の遺体も出土している。 奴国が女王国の傍国で女王国ではないからね
弥生時代後期博多からは播磨の土器が大量に見つかっている
おそらく播磨のことと思われる、ハリ国も女王国の傍国なんだよな
九州北部は卑弥呼の共立に加わっていないんだろう >>2
キモッ!!!
もしかしたら脱腸かもしれない。近所の幼児がそれで、ビックリしたことがある。 >>608
> 平原遺跡などには実際に祭祀の道具を持って殉死した女性の遺体も出土している。
祭祀の道具なんて縄文時代の遺跡からも出てるんよ
青森県の三内丸山遺跡に巫女がいたのか?と言えば
それはシャーマンや祈祷師の類だ
※アニミズム文化が縄文時代から存在していた証明ではある
君は無理に神道的な巫女という言葉を出して
天照との関連付けるイメージを植え付けてるだけ
君の弁に乗っかるなら、きっと糸島よりも遥かに古い
三内丸山遺跡に天照は居たんだろ >>562
「大阪湾型銅戈の分布により明らか」という根拠がさっぱり意味不明だが、瀬戸内海は見た目によらず海流が激しい箇所が多く5世紀まで航行困難だったと言われている
対馬海流に乗って日本海側を進んだほうが遥かに容易で、天火明=饒速日が丹後に降臨したという海部氏系図の記述のほうが信頼に足る
なにより息津鏡辺津鏡が実際に籠神社に存在する
仮に饒速日が河内から大和に入ったとして、それは丹後からと考えるのが妥当だろう >>609
傍国として挙げられているのは全部女王国だよ
女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
女王国より北にある国は戸数や距離が分かったけどそれ以外の傍国(中心地からはずれた所にある国)は
遠くて詳しく分からなかった。
その上で
奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。
奴国で女王国の国境が尽きるということは奴国自体は女王国 日本書紀のイザナギが筑紫国にでかけたと書かれてあるけど
魏志倭人伝のころも筑紫国ってまだ存在してないよな >>557
「ニギハヤギ」はローマ字入力の時
人差し指でHを押さえる積りが
Gを押さえてしまったんだなwww
キーボードの「S」と「L」の処に粘着テープを
貼っておいて薬指は常に「S」と「L」が
ホームポジションと覚えておけば
キーボードを見なくても画面だけ見てれば
高速にローマ字>漢字変換が出来るぞ 1世紀の福岡平野では方形周溝墓が作られるようになる
これは弥生時代に山陰〜関東にかけて流行っていたものだな
本州の勢力が福岡平野の勢力と関係が深くなり移住があったんだろうね >>608
平原遺跡が伊都国なんてのがそもそも仮定の話でしょ
同時代の遺跡が在りました
それ以上の何ものでもない 九州の勢力が奈良に侵入した痕跡は4世紀後半の富雄丸山古墳の蛇行剣
蛇行剣は九州南部で古墳時代に大流行する
5世紀の諏訪からも蛇行剣が見つかっている
大和と諏訪を影響下におく、国津神の平定や東征と話のプロットが同じだな
奈良時代の記紀編纂時、九州の勢力が朝廷内で権力を持っていて、古墳時代の話をヤマト政権誕生時の話にすり替えたという仮説も考えられる 平原遺跡については殉葬と呼べるものはない
周濠の土壙墓は周濠が埋まった後の物で後の時代のもので殉葬ではない
そして土器は周濠から弥生時代後期前半と終末期の物が見つかっているが、上記のように周濠に終末期の土壙墓が作られてるので1号墓の実際の年代は弥生時代前半の可能性がある
1号墓と同時期と考えられる2号墓についても木を植えるために攪乱してるのでこれも弥生時代後期前半とみるのが自然
この2号墓には副葬品はない
だいたい墳丘墓は累代の墓として集中して同じところに作られるので墓が沢山ある=殉葬では決してない
これも上で書いたように後の時代の築造の物と分かってるので殉葬の証拠でも何でもない >>313
そうじゃなくてさ、滅んだ任那日本府なんだろw
隋や唐って。
アヴァールが極東攻め込んで滅ぼした。
分析の結果が、NHKスペシャル「日本人 はるかな旅」で取り上げられ、「DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した」と紹介され、話題を呼んだ。 🇧🇬ブルガリアも出てるんじゃなかったっけ?
ハプログループD >>619
蛇行剣のルーツはインドネシアとか南方ルーツの剣だよ
同じように南方ルーツの銅釧や貝釧というのが、弥生時代から分布してる
これがきっかけだ!ど、断定するのは難しい >>597
残念ながら近畿四国に広がった渡来人の血は天孫族ではなく後世渡ってきた人たちの影響だと思うよ
最初に南九州に来たニニギの一族が勝ち組になったというだけでね 🇭🇺ハンガリーの先住民ってケルト系なんだろ?
🇮🇪アイルランドとかもw >>624
日本国内の蛇行剣の意匠を見るとインドネシア→南九州→その他と伝播したのでは >>631
天孫と関係なく渡来人系の氏族が沢山あるから >>2
女子A「何これ、貧相なモノしまってくれる?」
女子B「くさっ!なんかくさいこれ!腐ってる!!」
女子C「おまわりさーん」 日本書紀による天照大御神とスサノオの仲違い話通称天の岩戸伝説の内容だけど
これも筑紫国と同じ感じで、スサノオが皮を剥いだ馬を投げ込んだとあるけど
魏志倭人伝のころでもまだ日本に馬いないのよね… >>630
そういうことだと考えるのが割とスムーズ >>607
最近の研究って日食説って40年以上前から出てた気がするが。
推理小説家の高木彬光の著書「邪馬台国の秘密」(1973)か
「古代天皇の秘密」(1986)のどっちかに載ってたような記憶が。
でも他の人の著作だったかもしれないので、間違ってたらごめん。
ちなみに上の高木彬光の小説は面白いから読んでみそ。 >>634
記紀が編纂された頃には馬もいたんだろうから問題ナッシング 蛇行剣の分布
https://i.imgur.com/KsmARXx.png
南九州に集中(西都原古墳からは南洋産貝製品や南洋の家や船を模した品)
→紀伊→和泉→山城(大隅隼人移配地があり隼人の盾もここから)
→出雲→加賀→信濃諏訪大社(フネ古墳、深い山なのに御船祭りが有名) 熊野に銅鐸と関係する磐座がある
世界遺産の、ゴトビキ岩、琴引岩と呼ばれる巨大な岩があり銅鐸の破片や銅鐸を模造した石製品が見つかっている
現地ではゴトビキはヒキガエルという
ヒキガエルは谷を渡って移動するが必ず元いた場所に戻ってくる性質を持つカエルである
近くの阿須賀神社とその周辺には弥生時代末期〜古墳時代の集落跡が見つかっている 玉製品や土師器も見つかっている
祭神は事解男命
伊勢にもタニグクという興玉神石がある
タニグクはヒキガエルの神さまで国土の隅々まで知り尽くす存在という
伊勢の内宮には興玉神が祀られている
玉を興すという性質だけで名がないのか伏せられているのは興味深い点である
旧石器時代の日本列島には定住の跡がなく人々は移動しながら狩猟採集の生活をしていたと思われる
縄文時代には山々に巨石の磐座が作られるようになる
六甲の山々には縄文時代からの磐座が無数に残っている
大阪平野や奈良盆地を囲む六甲山系、和泉山脈、葛城生駒山系、三輪山にも多数の磐座がある
谷を越え磐座から磐座へ移動する神さまとされた人々がいたんじゃないか >>639
決定的なのは記紀編纂や日本神話に引用された元ネタ
日向神話の元ネタは赤道ニューギニアの島々
天孫降臨神話の元ネタは大陸北東アジア >>632
もっと具体的に
何世紀から何世紀の間インドネシア系の渡来人の流入がこのような遺跡、又は文書によって確認されてるとか
そういうのが知りたい >>642
なぜインドネシア?
渡来人といえばちょうせんとちゅうごくじゃないの?
NGワードみたいだから平仮名で 渡来人を待つだけではなくて海人族は船で遠出するからね
台湾あたりでインドネシア人と会った隼人もいたかもしれない 蛇行剣の出土はほぼ全部日本
一点だけ韓国から出てる事から日本独自の剣であると考えられている
鍛冶に関わる遺物と共伴する事が多いことから鍛冶技術を持つ人間の副葬品ではないかと言われている >>646
韓国のどこらへんかわかる?
南部だったら伽耶との関係もあるかもしれんし >>644
インドネシアは例えだよ
台湾でもタイでもどこでもいい。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18CCA0Y1A610C2000000/
これを説明できるような移民の記録なり遺跡があるのか無いのか知りたいね。
四国と畿内を染め上げるレベルの移民ならある筈だよ まぁ船というより飛行船(UFO)でくればヨーロッパからも結構近いしな
この辺に関しては正確な歴史書とされる月間ムーもそろそろ教科書に採用されてもいいだろう >>558
明治維新に例えると大久保利通がどこにいたかと同じ構造だから東京の大久保邸はすぐ分かる。その前どこにいたかが簡単に分からない。鹿児島みたいなど田舎だったら発掘も進まない
子孫の麻生太郎がいるから福岡説。最も科学が発展し黒船や鉄道やアームストロング砲を作っていた佐賀説。桂小五郎がいた山口説もある
幕末に交易や金融で力を貯めていたらしきエリアは鹿児島、山口、高知、佐賀あたり。この中のどこかに大久保の出身地があるとされている
欧州の記録によるとパリ万博に出展しているのは薩摩、佐賀、徳川の三国。すると佐賀と鹿児島に絞れるかもしれない
それと同じで伊都国のすぐ南までは分かってるから佐賀平野から筑後平野、甘木朝倉、トヨの時代だと大分、東遷の前に南遷があった説だと宮崎も入ってくる
畿内は場所が特定出来てるというのは東京の大久保邸を指しているだけだからあまり意味がないのよ >>647
大韓民国全羅北道任の金城里石榔墓群A号墳ってところ
百済があったあたりだね >>621
金海市は任那日本府だね
この解析サンプル群は、6世紀の朝鮮半島南部金海地方に存在していた伽耶人(日本府)のものである。
日本では既に古墳時代後期である頃の朝鮮半島南部にも、縄文祖先系統が強めの人々がいたということがわかる。
https://i.imgur.com/RoHnKYI.png
https://i.imgur.com/Iv4HHgl.png
紫○現代韓国人
桃○現代日本人
赤○伽耶人
緑○縄文人
AKG_10207とAKG_10218はゲノム全体に占める縄文成分が20~25% 蛇行剣のルーツはマレー、インドネシアな
インドネシアの蛇行剣(クリス)は、ジャワ語で『刺す』という意味
紀元前1000年頃、メソポタミア(現イランとトルコあたり )では、
銅や鉄の精錬が盛んだった。
そして、この精錬技術が、メソポタミヤからインドやインドシナ半島を経て、インドネシアに伝わりました。
http://3.bp.blogspot.com/-ttcD2qhpVUg/UiGrCbO9vQI/AAAAAAAATfM/d1DEoFm_7wY/s1600/resize8280.jpg
インドネシアには『アジサカ王子と白ワニ』という、日本の『八岐大蛇(ヤマタノオロチ)』と同じような物語が伝えられている。
日本とインドネシアは、共通の主食・文化・価値観・道徳・言語をもつ最友好国
第二次大戦後の旧オランダ領東インド(約340年間インドネシアはオランダの植民地)の
独立戦争で終戦後日本に帰還するのを待っていた旧日本軍将兵の
一部が独立戦争に参戦し共に戦った日本人の姿に感動し、
「インドネシア建国の父」と呼ばれる当時のスカルノ大統領が親日に傾いたことが、
インドネシア国民全体による親日の始まりと言われている。
東京電力福島原発が爆発炎上して電力不足を聴いた
インドネシア政府はタンカーに満載したLPガスを
プレゼントしてくれた。
反日を続ける下朝鮮は雲泥の差。 >>644
メジャーなのが半島系渡来人ってだけで、東シナ海や
南シナ海から、沖縄や台湾を経由してやってくる人もいたよ
海人族と呼ばれるのは、その中で操船技術に長けた
海洋漁労民出身者の事で、日本に移り住んで、漁をしたり物流に携わったりした
インドチャイニーズ系の阿曇やインドネシア系の隼人がメジャー
なぜそう言えるのか?は
彼らが身に着けていた装身具が日本に広まっていたり
墓制が離れた土地にあったり、地名に類似性があったりするから 1.天之御中主神が筑紫島(九州)に国を造り、初代国王となる
2.伊邪那岐命国王のときに倭国統一を掲げて
淡路島 - 四国 - 隠岐島(山陰) - 九州 - 壱岐島 - 対馬 - 佐渡島 - 本州と、次々に征服し、後漢皇帝に朝貢して「漢委奴国王」称号を賜り倭国王となり、紀伊の熊野(高天原)の伊邪那美との間に大綿津見神(豊玉彦)が産まれ、
倭は、漢委奴国王である伊邪那岐命の「一強体制」となる >特別企画展『よみがえる邪馬台国』
これなに? またまたゴッドハンド案件? 【解決済み】
邪馬臺国に関する記録文献は魏志倭人伝だけではありません。
伊都国のすぐ南と書かれている文献もあるのです。
『広志』(編纂:晋の郭義恭)
広志いわく、
---東南500里で到る伊都国、又南、至る邪馬臺国--
---(このあと魏志と同様に周辺国の紹介へと続く)
伊都国:福岡西区であり倭国の守衛国
↓
又南至る
↓
邪馬臺国:吉野ヶ里、甘木・朝倉、八女など有明海と取り巻く筑紫平野に存在した小国群の総称
筑後川の遺跡群
https://i.imgur.com/oMjsFIX.jpeg
【New】2023/3/30
福岡・八女市に弥生後期の環濠集落跡 吉田・辺田ノ上遺跡 岩戸山古墳の南西
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/1073771/ >>656
佐賀県の必死ぶり見てると哀れだよな
吉野ヶ里の棺の時も別に大したもんでも何でもないのに知事が出てきて邪馬台国がどうのとか発表してたし
なんていうか邪馬台国とか言う人ってほぼ全員考古学なんて一切興味ないよね >>259
半島の支配は古代から朝鮮てことから言ってるんだろうけど、そうすると邪馬台国が半島南部になるんだよなw >>315
また勘違いしてる奴が…
打ち首になったのは第一次元寇の後だぞ
既に戦争が始まってからだ >>658
卑弥呼時代に南の狗奴国と戦争状態に陥ってたのだから、例えば八女に居た卑弥呼が吉野ヶ里に避難していた、という可能性は無いとは言えない
吉野ヶ里の日吉神社下で巫女の遺骨が発見されていることから、この辺りに古くから巫女文化が存在していたのは確実 >>315
元使塚は大正時代に作られたものなんだぜw >>656
考古学者の司馬遷次郎は発掘した銅鐸から、古代日本を支配した
邪悪な国家「邪魔大王国(じゃまたいおうこく)」と「女王ヒミカ」の復活を察知していたが、ある日突然、銅鐸の奪還をもくろむヒミカ配下の者たちの襲撃を受け・・・ 考古学というのは発掘物によってのみ事実を考える学問
なんの出土物もない状態での想像など学問でも何でもない
出土物の根拠のない説など単なる物語でしかない
なぜか古代史を語る人間の多くがこういう想像を論だと思ってるからそもそも文字通り話にならない 渡来人とは記紀風土記に記録されてる朝鮮からの
「帰化人」という由緒ある言葉を朝鮮人が不服で帰化人の
代わりに使い始めた「日本史用語」。 >>665
絹の出土
733 :名無しさん@1周年 :2018/02/20(火) 22:32:15.88 ID:MmmtVobm0
なお絹研究の権威、布目順郎氏の見解によると・・・
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber1944/45/6/45_6_P277/_pdf
> (iv)九州から本州への養蚕伝播――
> 弥生絹は今のところ福岡,佐賀,長崎の3県以外からは出ていない。
> それが古墳時代前期になると近畿,中国,北陸からも絹が出るようになり,九州では北部のみでなく熊本県からも出るようになる。
> すなわち,養蚕がわが国へはじめて伝えられてから少なくとも400年間は九州北部で独占していたことになる。
> 九州から本州への伝播経路としては,瀬戸内海ルートと日本海沿岸ルートの2つが想定される(図4)。
> 魏志倭人伝は,邪馬台国において養蚕・絹織が行われていると記し,その時期は弥生後期に当たる。
> そのことと,上記の事柄とから,邪馬台国の所在地としては,九州北部とするのが妥当と考える。 >>665
鉄の出土
> 825 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 22:55:12.63 ID:d3rkd5G50
> 弥生時代の鉄分布と北部九州を代表する海人族阿曇の分布がよく一致する
> 鉄は海人族とともに九州からやってきたんだな
> http://inoues.net/tango/tango_z1.jpg
> http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg
> 828 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:01:52.61 ID:yQGATf5S0
> >>825
> 福岡の1621に対して奈良の13が光るねwwww
>
> そこから読み取れるのは、奈良は九州を支配するどころか近隣の山城や河内さえ支配できてなかったってことだな
> そして4世紀以降急に発展するのは九州の海人に征服されてその東国攻略の前線基地になったおかげ、と
> 841 :名無しさん@1周年 :2019/09/07(土) 23:23:21.53 ID:1L9obXG40
> >>825
> >>308の資料と照らしても間違いなさそうだな
> 弁韓の鉄材と鉄加工の技術を持った海人が西日本を席巻していき、やがて東日本をも射程に捉えたので畿内を前線基地にしたのだろう
> だが東に版図を広げるにつれて遠い九州が本国では不便になり、畿内に都を移した、というのが一番しっくりくるストーリーだ >>665
鏡の出土
中国鏡の専門家によれば卑弥呼の時代の鏡は北部九州が出土の中心です
http://yamataikokunokai.com/katudou/kiroku366.htm
>■徐苹芳氏の意見
>中国社会科学院考古学研究所の所長をされた考古学者、徐苹芳氏はのべる。
>「考古学的には、魏および西晋の時代、中国の北方で流行した銅鏡は明らかに、方格規矩鏡・内行花文鏡・獣首鏡、?鳳(きほう)鏡・盤竜鏡・
>双頭竜鳳文鏡・位至三公鏡・鳥文鏡などです。
>従って、邪馬台国が魏と西晋から獲得した銅鏡は、いま挙げた一連の銅鏡の範囲を越えるものではなかったと言えます。
>とりわけ方格規矩鏡・内行花文鏡・?鳳鏡・獣首鏡・位至三公鏡、以上の五種類のものである可能性が強いのです。
>至位三公鏡は、魏の時代(220~265)に北方地域で新しく起こったものでして、西晋時代(265~316)に大層流行しましたが、
>呉と西晋時代の南方においては、さほど流行してはいなかったのです。
>日本で出土する位至三公鏡は、その型式と文様からして、魏と西晋時代に北方で流行した位至三公鏡と同じですから、
>これは魏と西晋の時代に中国の北方からしか輸入できなかったものと考えられます。」
中国社会科学院考古学研究所所長・徐苹芳氏が挙げている銅鏡はいずれも北部九州からの出土が多数
http://yamataikokunokai.com/katudou/image3/366-16L.gif >>651
ありがとう。百済も大和と関係が深かっただろうからな。 蛇行剣については主に九州南部の鹿児島県辺りに集中的にみられるものだけど、この地域が特段製鉄に大きなアドバンテージがあったというわけでもないのが面白いね
なぜここにそういう場があったのか興味深い 実用には適さないから剣とはいうものの
平和の象徴だったんじゃなかろうか
蛇行剣 富雄丸山古墳の蛇行剣は鋳造じゃなくて鍛造で鞘までしっかり作られた名品
ただの祭祀用に作られた模造品じゃないのが凄いな
かなり高度な技術があった事が伺える >>673
古墳時代の厨二病
カクカクしてる方がきっと強いんだよ
ルーン文字の剣もギザギザが多い方が強いとかだし
魔除け的な力の強さを表してるんじゃね? >>665
>考古学というのは発掘物によってのみ事実を考える学問
ゴッドハンドという事実から考える考古学について ゴッドハンドという事実から考える考古学について
特別企画展『よみがえる邪馬台国』 >>676
最近のゴッドハンドは畿内説がやらかしてるらしい
東海大学教授の考古学者北條芳隆氏
「いわゆる邪馬台国がらみでも(旧石器捏造事件)と同じようなことが起きている」
「証明を抜きにして仮説だけがどんどん上積みされておりマスコミもそれをそのまま報じている」
「近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。」 >>680
>近畿地方では古い時期の古墳の発掘も多いが
、邪馬台国畿内説が調査の前提になっているために
>遺物の解釈が非常に短絡的になっている。
考古学の学問性は今や崖っぷちまで追い詰められている。
ということでしょ。
例えば発掘現場から桃の種が大量に出たとする。
本来それは発掘現場から桃の種が大量に出た
ということ以上でも以下でもない。
にも関わらずその桃の種が祭祀や呪いに使われていたと何の根拠もなく主張し
マスコミもそれが確定事項であるかのように報道する
これはもはや学問とは言えない
まさに崖っぷちに追い詰められた学問性ということだろう。 >>681
ゴッドハンドは東北で自分で石器を埋めて自分で発見してた事件
奈良で何か埋めてたならやらかしてる事になるけど
そういうことではないんだね? 桃の種が祭祀に使われた説はあり得るでしょ
お供えは基本 畿内派メディアによる印象操作「纏向遺跡の建物は祭祀場であり、大量の桃がお供えされた」
しかし桃の種が発見された場所は柵列の下の別の遺構
https://i.imgur.com/J2EZhbs.png
纒向の建物と桃の種が同時期に存在していたわけではないと判明
畿内説は建物を取り壊した後に桃が埋められたと言っているが、なぜ取り壊したのかは不明 >>648
まず日本人は北海道から沖縄に至るまで渡来系との混血が進んでおり
関西四国が渡来系要素が多いというのは相対評価でしかないという点は理解してる? >>685
四国と畿内に顕著に渡来系のDNAが分布してるのはファクトだよね! >>682
旧石器捏造は発覚する前に何人かの学者がそれを指摘していたにも関わらずに
無視されていた。
邪馬台国畿内説推しと同じ構図だよ。 この話かな?
半島系固有DNAの分布
https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
邪馬台国時代の倭人は半島系だはなく、中国の呉越の末裔と記されているのだが
■邪馬台国は何処?
九州説:54.4%
近畿説:35.7%
その他:9.9%
https://i.imgur.com/L5Nc9eR.png >>681
>例えば発掘現場から桃の種が大量に出たとする。
>本来それは発掘現場から桃の種が大量に出た
>ということ以上でも以下でもない。
>にも関わらずその桃の種が祭祀や呪いに使われていたと
>何の根拠もなく主張し
>マスコミもそれが確定事項であるかのように報道する
追加で、発掘した人間が手にした情報は大きく3つ
・3000個近い桃の種が同じ穴から見つかった。
・動物にかじられた形跡はない。
・果肉が残ってる種がある
さて、その桃の種はどう経緯のものか?考えよ。が考古学者の仕事
まず果物なので、ゴミ捨て場を予想する
ところが、ここの種はネズミにかじられた形跡がない
普通ゴミとして捨てられた桃の種があった場合
ネズミなんかに齧られて穴が開く
※実際にそんな齧られた跡のついた桃の種の遺物はある
ではなぜ纏向の桃の種は、ネズミに齧られていなかったのか?
→ネズミが来る前に埋められたから
一箇所の穴に3000個の、果肉のついた桃を埋めた理由を考えよ
→祭祀使った供物の可能性を考えるのが、そんなにおかしなことか?
桃の大産地ならともかく、都市遺跡の端でなら
祭祀だろうと考えるのは、最もスッキリした解釈だよ >>682
こういう話もあったな
箸墓古墳の年代推定は、ほかの古墳と同様に土器の編年によります。
当初は、前方部から出土した壺形の土師器が布留式土器であり、4世紀から5世紀のものだった為に、古墳時代前期~中期の古墳であるとされていました。
ところが1970年頃に、後円部から吉備の国に見られるような特殊器台や特殊壺も見つかったのです。
これは吉備における弥生時代末期の典型土器ですので、箸墓古墳もまた弥生時代末期、つまり3世紀の造成であろう、という推定がなされた訳です
一般に、時代の異なる土器が出土した場合、より新しい土器の年代に合わせて編年が行われます。当たり前ですよね?
古い土器の時代に、未来の新しい土器を埋める事は出来ませんから。
ここで3世紀とした理由は、後円部が3世紀に造成され、後円部は4世紀~5世紀頃に造成された、という曲解でした。これはいけませんね?
奈良盆地以外でこんな時代推定をしようものなら、考古学の権威たちは、口から泡を吹かんばかりに激怒するでしょう。
「有り得ない」と。箸墓古墳だからこそ許されているのです。
考古学会が近畿中心主義なのは有名な話ですが、さらに何らかの圧力が、時代推定を邪馬台国時代へと曲解させたようですね?
なお、周辺の古墳からも同じような事例がありますが、こちらは正しい時代推定が行われています。
三角縁神獣鏡の大量出土で有名な黒塚古墳や椿井大塚山古墳などで、しっかり4世紀~5世紀とされています。 書き込み見てると願望優先されてる感あるけど
2世紀3世紀倭国の都城はどこですか?
とうの昔に学問的にも答え出てますよね >>686
本土人はみんなほぼ渡来系で縄文系の血の方がレア
天孫族どころか渡来人が大挙して押し寄せてできたのが今の日本
関西は朝廷が移民ウェルカムキャンペーンでもやってたんじゃないか?
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/page/7200/
縄文人の骨から抽出したDNAを調べた研究などの成果を含め,現在の本土人は,縄文人に由来するゲノム成分を20%程度保有していると推定されている。
言い換えれば,本土人のゲノム成分の80%程度は渡来人に由来する。
大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと思われるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく,近畿地方や四国地方に,より多くの割合の渡来人が流入したのかもしれない。 どう考えても無理ある畿内説を後押ししてんのは九州説派なんよな >>687
纏向の桃の種が祭祀の跡なら、そういう大きな祭祀が行われた都市があったということまではほぼ確定する
邪馬台国の夢を見るかどうかは人それぞれだけどな >>653
インドネシアとはハイヌヴェレ型神話という共通点もあるな
(ハイヌヴェレはセラム島の女神で、排泄物として高価な食器を生む力を持っていたが
その食器を受け取った島民達の怒りを買い、祭りに乗じて殺されバラバラに切り刻まれ土に埋められたが
その死骸から後に主食となる芋が生えてきたという。
日本神話のウケモチノカミやオオゲツヒメとよく似ている) >>695
祭祀に桃の種を使っていた
ということを裏付けるような文献はあるの?
弥生時代後期の祭祀に関する文書なり古文書は? 畿内
桜井、橿原で場所は確定!物証は怪しいのしかないけど!?
九州
場所は知らん!でも畿内は間違っている!
これを延々繰り返してる >>695
いや確定しないだろ
古墳建造時のキャンプ場だったんだなと
奴隷が桃や蛙を食って頑張ってたんだなと 特に根拠は無いけどこの桃の種は祭祀に使われていたにちがいない
というのは学問じゃなくて妄想だよな >>698
九州は北部九州一帯だろ
>>657みたいな連合国
中国もそのあたりを比定してる >>699
キャンプ場に、全国各地の土器が千個も集まってるものと考えるのか?
まだまだ未発掘エリアのほうが多いから、更に増えるだろうに >>702
全く証拠になってないw
畿内説はどこまで行っても勝手な妄想に終始するだけ
いつもの事よ >>703
では桃の種3000個の意味を説明してよ 繰り返すが意見は出土物を根拠として語らなければならない
それが考古学
なんら出土物の根拠も提示しない話など考古学でもなんでもな
ただの想像の物語でしかない >>706
分からないことは分からないまま保留するのが学問ですよ >>704
全国と言っても元銅鐸連合国各地からな
それらの国々の共同墓地だったんだよ
現実的に考えろ 否定するのであれば他の出土物をもって有力な論を提示する必要がある
例えばモモが無意味だというなら桃が無意味なゴミであるという証拠の出土物を提示する必要がある
俺は認めないは論でも何でもない >>709
過去の痕跡を見つけて、何があったのか、何に使ったのかを考えるから「考古学」と言うんだけど?
思考停止は考古学ではない
考えた末にわからなくて、保留するのは仕方ないけど >>712
どこの何て史書に桃の事が書かれてるんだよ? >>712
分からないことを無理やり妄想で分かったような気になるのは学問ではない。 考古学は出土物で語るもの
出土物の根拠もない話は一切意味をなさない >>684
近畿パー
マジでこんなんばっかだよなw >>715
文系はそういうのが当たり前らしい
いかにそれらしい妄想をでっち上げるかを競う世界らしい >>713
古代の祭祀場だったと比定される場所から桃の種が出てくることが多い
纒向遺跡も他の祭祀場遺跡のように祭祀場だったのでは?
というのなら考古学だね。
3000個の桃の種が見つかるなんて前代未聞だ
祭祀場後に違いない
これは妄想 >>716
考古学者は、遺物が埋まった時のシチュエーションや時系列を解析する能力がお粗末すぎる >>698
してないよキチガイの猿
九州説で確定だ
場所は御井
>>701
邪馬台国がどこにあったのって話してんだろ
これがどこにあったかでその連合のデカさも大分変わってくるからな
一帯全てが邪馬台国という名の大規模な国で、その中に小国が・・・って説もあるにはあるが
じゃあ次は女王が都構えてたとこドコだよ?って話にもなってくる
畿内に反論する前にまずそこらへん詰めていくべきではないのか >>719
箸墓古墳を造りに3000人集まったからオヤツに準備した桃が3000個なんだろ >>708
繰り返すが
卑弥呼の墓は祇園山古墳
箸墓ではない
出土物から明らか
桃については、古事記でイザナギノミコトがヨモツイクサ(黄泉の軍勢)へ桃の実3個をぶつけて追い払う描写があり
古代日本において魔を祓う特別な力を持つ植物と見なされていたのは間違いない
堂々巡りなど全くしていない
邪馬台国は御井
卑弥呼の墓は祇園山古墳であり
その背後にある巨大な高良山神籠石遺跡が邪馬台国の遺構だ
>>723
筑紫平野の小国群だろ普通に解釈すれば
後漢時代から30国それぞれに王が居たんだよ
という事は各国は明確に分離された領域を持っていたはずだ
つまり環濠集落のようなやつな
倭人伝に書かれた卑弥呼の居住区の描写はまさに吉野ヶ里遺跡のような様相だ >>728
全然否定しないよ
邪馬台国である根拠にはなってないだけ >>719
海の無い奈良県から鯛の骨3000匹分が見つかっても、異様だと思うけどな
本来身近にないものが、たいりょうにあるにはあ、何か理由があるはずだろ? >>712
モモが祭祀に用いられた可能性があることは認める
それをもってして邪馬台国の存在の証明であるとするのは論理の飛躍であり
思考の放棄である
はい、論破 w 南あわじ市の松帆地区で採取された砂の中から、2015年4月、
砂利製造工場の従業員が銅鐸を発見。市の教育委員会が急遽調査に
入り、加工工場及び別の仮置き場に保管中の砂の中から、
計7個の銅鐸が発見したと発表した。いずれも南あわじ市の
西海岸沿いの松帆地区に一括して埋められていたとみられるので、
「松帆銅鐸」と名付けられた。銅鐸が7個と複数埋納されて
出土した例は、全国で4番目の多さです。
※@加茂岩倉銅鐸(島根県)39個、A大岩山銅鐸(滋賀県)24個、
B桜ケ丘銅鐸(兵庫県)14個、C松帆銅鐸(兵庫県)7個
いずれも、弥生時代前半末から中期初頭(紀元前3〜同2世紀)に
製作された古い段階の銅鐸で、うち1個は、これまで全国で
11個しか確認されていない最古段階の菱環鈕式銅鐸です。 畿内説ならまずは畿内が「女王国の東の倭種の国」では無かったという事を証明しろ >>733
「海の無い奈良県から鯛の骨3000匹分が見つかっても、異様だと思うけどな
本来身近にないものが、「たいりょう」にあるには」
「桃の種」を「鯛の骨」とまちがってるのか
九州バカは色々脚色するのが美味いな豚骨味にしてくれ >>733
鯛が好きな権力者がいたのかなって思うわ
桃も、桃が好きな権力者が毎日食ってただけじゃね >>737
桃の産地でもない奈良で大量の桃はやはり異様
同じく海の無い奈良で海の魚の骨が大量に見つかっても異様 >>688
>この話かな?
>半島系固有DNAの分布
>https://i.imgur.com/mbXNz7Y.png
>邪馬台国時代の倭人は半島系だはなく
半島系九州人は故郷の半島のことしか頭に無いんだなw >>738
食用ではなく実のままで埋納されている
大量の桃が食べもせずに同じ場所に埋められてる
これ以外にも祭祀土器も同じところから見つかっている
この事から祭祀の遺跡だと判断される
またこのような痕跡は近江や吉備でも同様の状態で見られ、さらには導水施設、円筒埴輪など近江、吉備でも同じような祭祀を行っている事が推察される
単なる一遺跡の話ではなく広範囲にわたって同様の祭祀を行う文化がこの一帯に成立していた事が分かる
なのでかなり大規模な共通の祭祀を持つ勢力がこの辺り一帯に存在して事が見て取れる証拠となっている >>733
祭祀跡とする根拠はないな
例えば日本書紀や古事記に
ナントカ天皇は雨乞いの儀式の為に桃を集めさせた
とか
ナントカ氏は豊作を祈願するために桃を集めてこんな儀式をした
とか
祭祀を司るナントカ氏の地域は桃が特産で祭祀に桃を用いていた
みたいな記述があるなら理解できなくはない。
そんな裏付け無しに
大量の桃の種が出た→祭祀に使われたに違いない
なんて言い出す奴がいたら頭の中身を疑うわ >>742
お前は用法はわからないんだろ?
わからないのに違うと言うなら、その根拠は? ・食べもせずに同じ場所に大量の桃が埋められている
・祭祀土器も共伴する
・大型の建造物や導水施設などが付近に存在する
・纏向、近江、吉備でも同様のほかで見られない状態の発掘がされる
これをもって「何の意味もない」というのであればそれだけのハッキリした物証を元にした論が必要
認めないは論ではない 記紀の黄泉の国でイザナギがイザナミの醜い手下に追いかけられてそれに桃の種を投げて追い払った描写があるから
それが桃の種が鬼を払う元になったとも書いてある
邪気を払う中国の思想がそのまんま日本神話でも通用してるのがわかるな >>743
祭祀に使われたという根拠が無いと言ってるだけ
明日隕石が降ってきて東京が壊滅する可能性があるように
桃の種が祭祀に使われた可能性があるのを否定したりはしない
ただ今の段階で殊更に取り上げるような説だとは到底思えない >>697
邪馬台国の超重要拠点で、
祭祀の道具を持って殉死した巫女の居た伊都国で、
桃の種を祭祀の道具に使っていた痕跡は一切無いので、
纒向と邪馬台国は無関係である事が証明されてしまい、
畿内説は跡形も無く消え去っている。 >>746
このレベルの痕跡を祭祀と言わないなら、縄文、弥生に祭祀なんてないよ >>744
傷んだ桃を捨てただけだろ
吉備を見てもわかる通り、桃は珍しくもなくいくらでも獲れた時代だったんだろう >>739
>桃の産地でもない奈良で
オマエはスーパーイオンの仕入れ担当者か
兵庫県赤穂市砂越には牡蠣の養殖場が有るのに
「広島が牡蠣の産地」だからと高いガソリン代払って
https://www.google.com/maps/search/%E7%89%A1%E8%A0%A3/@34.6947977,133.9892443,10z?entry=ttu
遥か遠くの広島から仕入れてくる?w >>731
弥生時代の遺跡や王のものと思われる弥生式墳丘墓を数えると北部九州に三十国程度あったと解釈するのが妥当らしいな
やはり邪馬台国連合三十国は北部九州 >>744
モモが祭祀に用いられた可能性があることは認める
それをもってして邪馬台国の存在の証明であるとするのは論理の飛躍であり
思考の放棄である
はい、また論破 w つまりイザナミ、イザナギの話は吉備と出雲の間の出来事かな 畿内説の思考回路は韓国製
箸墓古墳の近くに落ちてた土器の年代が3世紀中頃なので箸墓古墳も3世紀中頃の墓ニダー!
纒向建物の下の別の遺構から出土した桃の種が3世紀前半なので建物も3世紀前半ニダー!
(笑) そして畿内には首長級と思われる弥生式墳丘墓は存在しない
まあどう考えても邪馬台国は北部九州だな >>657
間違い
総称などではない
総称は「女王の領域」
その首都が邪馬台国で御井のあたり 弥生時代は海面が高くて奈良はギリギリまで海の湿地だったんだよ
で、「そこを農地として開拓したら自分の田んぼにしていいぞ!」ということになって日本各地から開拓民が集まったんだよ
それで各地から主に貧民が集まって土木工事を猛烈にやった
(だから各地の土器が出て、金属器は出ない)
土木工事やると当然いらない石や岩、土砂なんかも大量に出る
その大量のいらない石や土砂を山のような積み上げていったと
その山のような土砂を何かのモニュメントにしようと盛り上がった
それが箸墓などの初期古墳郡だよ >>748
モモが祭祀に用いられた可能性があることは認める
それをもってして邪馬台国の存在の証明であるとするのは論理の飛躍であり
思考の放棄である
はい、また論破 w 孟子見梁恵王。王曰、
「叟(=孟子)不遠千里而来。亦将有以利吾国乎。」
「ジジイ、千里と遠しとせず来たる。
亦将に以つて吾が国を利する有らむとするか。」
この千里は「長里」 青森にキリストの墓あるっぺぇ!ほい宇宙人降臨ね🤗
うむ阿波説でまたまたまた活気づいているな 記紀は捏造だらけだからね
因みに国産み神話は欽明以降の創作
狗邪韓国が無いw w
>>759
弥生時代の奈良盆地は古代湖だった。
古代湖が浅く埋まりだしたのが4世紀からで
森林伐採されて土砂崩れが起きたからだ。 ググったら巻向から発掘された桃の種の数ハンパないな
これは確かに特別な地域だったのが伺えるわ >>745
ただそれが邪馬台国の時代まで遡るかどうかは定かではないからな >>767
人工的に埋め立てていったんだよ徐々に
だから段階的に巨大古墳ができる
5世紀には奈良湖の埋め立ては完了し大阪湾の埋め立てが進むとともに、
巨大古墳の場所も大阪湾に移動してる >>769
酒の原料にしてたんだと思うぞ
奈良湖開拓の肉体労働者が求めるものといえば酒と女 邪馬台国は、宮崎県西都市の西都原(さいとばる)で決まり。 >>774
お前ら猿は文系だろうが理系だろうが猿
論理などない
はい、論破 w 失敗じゃ無いもん
中止だもん
これが日本の理系w w
文系猿はこれに輪をかけてアレw w >>761
「奈良盆地は海抜50m」
2000年前の奈良盆地には海水が溜まっていた。
「大和には 群山あれど とりよろふ
天の香具山 登り立ち 国見をすれば
国原は 煙立ち立つ
海原は 鴎立ち立つ
うまし国ぞ 蜻蛉島 大和の国は
昔と今とは全く違う >>779
九州説は畿内説ほどアレじゃ無いってだけだね
結局はバカの猿w🐒 しっこく!しっこく!🙅♀ よほど阿波説が都合が悪いようだな?ムー編集長に言いつけるぞ?🙆♀
邪馬台国は御井だよバカの猿ども
疑わしい点など一ミリもない
文系だろうが理系だろうが
畿内説だろうが九州説だろうが
お前らみんなバカの猿なのは同じことだバカの猿どもw
(´・ω・`)(´・ω・`)
>>1
チョンチョ、チョンチョン、
朝鮮人〜
天皇先祖は朝鮮人〜 日本人一億二千万人居て
正しいこと言ってるの
このオレただ一人だと言う
この凄まじい光景w w w
『隋書』
都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。
邪麻非堆国、邪馬壹国じゃないと意味通らんよね >>780
その歌は九州王朝のうたで
それを倭の別種日本がパクったんだよw
だからおかしくなる。 もう、どこでもいいからはよ決めろ
福岡、佐賀、大分のどっかぐらいでいい >>780
阿波の香久山だなそれは
万葉集の複数の歌の舞台は阿波 祇園山古墳だと思うよ
なんも新しくないものが実は正解 >>785
当時の誰が山崩すだけの
土木機械とダンプを持ってたの?
奈良盆地の地下は花崗岩で
そのため水が溜まりやすいけど
案外地下水がない水不足地域だ。 >>784
古代○○○半島は縄文人が先住していた。 倭人伝は筑紫の九州王の話だが?
畿内王朝の発掘で、240年の倭王は畿内でも
倭人伝は、卑弥呼九州北部2千里、で自己完結してる。
時代を正しく記録してる文が
倭人伝なので蘇らないと思うぞ? 一時期学者の世界でも畿内説ばかりになったから
金を引っ張るために論争させろと、上司からの命令で九州派になってそこからミスター吉野ケ里にまでなった高島が凄いよ
https://i.imgur.com/8rc1G7F.jpg >>792
大量の人力でやったに決まってんじゃん
ピラミッドだって人力で作ったんだぞ 頭の出来映えの良くない奥山氏が、頭の出来映えの悪い者達に紛れ、隠れてしまった。 纏向遺跡、桃の種しか言わない
アホの一つ覚え
九州バカに付ける薬は無い
安本美典のウンコでも嘗めとけ アスペって文字通りの意味でしか理解できないんだっけか?
「海原」って書いてあるから海だったのに違いない? 倭人伝に、「その山には丹あり」とある。その原料である「辰砂」(しんしゃ)
の 鉱山跡が徳島県阿南市の若杉山遺跡で確認されている。卑弥呼の時代、
水銀朱を産出したのは徳島県阿南市の若杉山遺跡だけである。
お前らは猿呼ばわりが嫌なんだろ?
止めて欲しいんだろ?
止めないよバカの猿どもw w w🐵🐵
しょーがねーじゃん
だってお前ら猿なんだからw w w w🙈🙉🙉🙈
役にも立たないつまらん書き込みばかり
運営はネタが無いのかよ >>570>>584
渡来人だと思うが宮崎の天孫降臨は別の話だと思うわ
おそらく淡路島を足掛かりに来た古墳人
国生みの神話からすると淡路島をアジトにして鉄鍛冶遺跡はその痕跡でまずは四国を制圧
その後近畿を制圧して本州の拠点をゲット
淡路島~四国~河内~奈良の順
神武天皇東征は熊襲を制圧しに行った王族が九州からクーデターした話だろう 猿「おのれオレたち猿をしつこくしつこく猿呼ばわりしやがって!」 猿「おいみんな オレたち猿をしつこくしつこく猿呼ばわりするキチガイが居るぞ
無視しろな」 いやでもそうは言うけど
お前ってやっぱり猿じゃん🙈🙊🙉 いやでもそうは言うけど
お前ってやっぱり猿じゃん🙈🙊🙉
↓ はい、ポキは猿です!シコシコ止まんないよぉ💦🍆😩 猿だけに!🤗
しっこく!しっこく! アークを信じろ🥷 >>792
奈良盆地は水不足地域だと?
布留川、大和川、龍田川、佐保川、曽我川、飛鳥川
宇田川、吉野川、十津川、葛下川(かつげがわ)
奈良県吉野郡上北山村と川上村及び
三重県多気郡大台町(旧宮川村)にまたがる
大台ヶ原では年間を通じて降水量が多く、
屋久島に並ぶと言われるほどの多雨地帯だぜ。
伊勢湾台風が大台ケ原の森林を破壊して地表に
日光が差し込むようになり、ミヤコザサが繁茂し始めたため
ニホンジカの生息数増加した。
唐子鍵遺跡では井戸を掘り多重環濠で防衛線を築いた。
これは地下水が豊富なことを意味してる。
なーんにも知らない
九州バカのウソツキ野郎、ざまあ >>820
唐古鍵は銅鐸勢力の都市だろ?
銅鐸はその後全く作られなくなるんだが
つまり征服されてるってことだわな >>712
いやそれ無茶苦茶やろw
桃が出てきたら邪馬台国です、否定出来る根拠が出せないならそれが事実ですってか 地球上で花崗岩は、ごくありふれた存在だが、
太陽系の地球以外の岩石天体には、
ほとんど見い出されない。
その理由は、花崗岩の形成に水の関与が
必要であり、水の海の存在する地球でのみ
花崗岩が大量に作られてきたためだろうと
考えられている(以上出典: フリー百科事典
『ウィキペディア(Wikipedia)』)
魏志倭人伝だけ読んでもこういう理科系の知識は
得られない。俺は小五、小六と学研の月刊「科学」
を読んでた。その「科学」に有る時、褐鉄鉱、黄鉄鉱
硫黄、黄銅鉱、花こう岩などの標本が
付録に付いてた。六甲山系は花崗岩が多いと習った。
花崗岩は墓石などに利用されるが風化しやすい。
鉄分が含まれてるから錆びると膨張して崩れるんだな
「日本沈没」を書いた小松左京のSF小説も連載されてた。
大阪駅前の旭屋書店で小松左京の直筆サインを貰った事がある。 >>788
それよく言われるけど、本当のところどうなんだろうね
>大和には群山あれど
大和とは九州に在ったのか? 九州には博多から熊本まで山門が3箇所くらいあるんでしょ
それがそのまま勢力範囲だったんでは 山門の「門」はかなり古い時代から「ト」と読まれてきた文字である >>825
九州にもヤマト地名はあるだろ。
というか九州地名を日本がパクったんじゃないかな。 >>1
儒教徳川トクチョン朝鮮人[反日主義者]が始めた奈良福岡ヤマタイコク論争が江戸時代当時から何も変わらないのは、
奴らがわざとそうしているから(当たり前)w 黒塚古墳では竪穴式石室に赤色の顔料が全面に
敷きつめられていました。 床面顔料は水銀朱で、
壁面は赤色顔料(ベンガラ)の付着が確認されている。
副葬された 刀剣類にも朱が塗られていたことで、
魔よけの意味を持つとされる朱を強く意識した "真っ赤な石室"
水銀朱はベンガラと異なり、特定の場所でしか産出しない。
日本では中央構造線に 沿った地点、伊勢や奈良、和歌山などの
山中に多く産する。
バクテリアがつくる顔料
https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2020/02/20200203.html
北海道の約1万7千年前の遺跡からは、ベンガラが付着した台石を含む、
顔料生産の関連遺物が発掘されている。
…
原料が鉄バクテリアに由来するため鉱物由来のベンガラと
区別され、その粒子がパイプ状であることから、文化財の世界では
「パイプ状ベンガラ」と呼ばれています。
パイプ状ベンガラは、全国の遺跡から出土しており、
縄文時代の土器や装飾古墳をはじめ、
本研究所のある奈良県では、黒塚古墳の粘土棺床※2)や、
尼寺廃寺の塔の礎石上などで確認されています※3)。
ベンガラと言えば阿蘇と条件反射する
九州バカのオナニー・ネタが墓無く消え去った瞬間wwwww 北の玄関口が玄界灘・室見川の河口地域の山門(福岡市西区)
南の玄関口が有明海・筑後川の河口地域の山門(福岡県山門郡)
南端が熊本県菊池市の山門
東が大分県中津市の山門庄・山国・耶馬渓 >>831
弥生なら九州ても水銀朱は採取されてたよね 明治天皇が猿の歌を詠まれている
猿
梢よりこずゑをつたふこのは猿つばさあるかと思はるゝかな 836
「思はるゝ」
飛鳥時代以前の発音では
Omoparuru kana
平安時代
omoΦarurukana
omowarurukana
これが「ハ行転呼」
日本語教育者の試験に出題される。
飛鳥時代以前の
不弥pumiが宇美umiに変化するという
例外は日本語音韻学的にあり得ない
九州説の御都合主義w ベンガラが阿蘇からしか入手出来ないと
思うとる馬鹿は話にならないw
> 朝鮮みずほ銀行:西村正雄(★⇒洪浩然(ホン・ホヨン)の子孫。)
> 安倍晋太郎『私は朝鮮人だ』の種違いの兄弟(母は同じ))
> ⇒地下鉄サリンテロ朝鮮オウム石原宏高(3男)・木原正裕家(木原誠二の兄:妻の殺人容疑)・楽天三木谷
> ➡木原誠二官房副長官の父、木原雄一郎は元ソフトバンクの取締役
ほんとですか。すごいな…。木原誠二はやっぱりアベ系の中身完全に安倍派でしたね
>>1
【千葉】「日本人が、集団で日本人を殺す」 関東大震災直後、自警団が沖縄出身者らを虐殺…「検見川事件」現代にも通じる偏見と差別 ★2
2023年8月17日 中日新聞 /newsplus/1692486513/
>朝鮮半島からの本土帰還について調べれば朝鮮人の民族性が見えてくるよ
奴らは日韓併合時代(明治43〜昭和20.8)は建前上は日本人で、その子や孫らが日本に居座ったまま
で国会議員とか嘘吐きアベ朝鮮マズゴミDSとか役所,研究所,経団連とか創価統一警察とかにいて
この福田村事件でもたぶん検見川事件でも朝鮮人[エタ/同和] が朝鮮人[エタ/同和] を殺害した事件なのに、
こうして「日本人が日本人を殺した事件」とアベコベのデマを言いふらしているんでしょ
あと、アイヌや琉球沖縄も同じ日本人なのに別民族かのように、また[知りながら]日本人は朝鮮由来だと真逆の嘘を流している
>>1
【千葉】「集団で襲ってくる」「井戸に毒を入れた」…関東大震災から100年の今、「福田村事件」が問う“日本人の本性” ★3
2023/8/14(月) 現代ビジネス /newsplus/1692346257/ 魚の骨は魚醤の残渣。
発酵されてるので細かい骨の粉になってる。
桃のタネは酒の残渣。
共に残ったものを一気に捨てるから
一箇所から大量に見つかる。 鉄サビを褐鉄鉱(カッテッコウ)という
唐子鍵から出土した「勾玉の入ったサビた容器」が
褐鉄鉱カッテッコウ
鉄バクテリアとは
水田の取水口付近、コンクリート構造物の
漏水箇所など、湧水量及び移動量が少ない場所で
大量に繁殖し、サビ色のドロドロとした沈殿物を生成する。
水面に鉄の薄い酸化被膜が浮くと自然光を屈折させて
虹色に光り、これが油膜のように見えることから
油の流出や投棄事故と錯覚することがある。
主な鉄バクテリア
レプトスリックス属(Leptothrix)
ガリオネラ属(Gallionella)
以上出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
こういう水面に油が浮いているような現象は
偶に見かけることがある。
オマエラもスマホやパソコンの画面に見入ってないで
外へ出て歩け! 忖度таамаг?
だれの言葉だ?って感じでしょw >今年で15回目を迎える特別企画展『よみがえる邪馬台国』。
15回もやってるのかw
勝手に佐賀だと決めて、勝手によみがえらせてる。
ゴッドハンド時代と変わらない。 【終戦の日】高市経済安保相、自民・萩生田氏が靖国参拝 終戦記念日、岸田首相は見送り(2023/08/15
>>1
中曽根(現役総理大臣が統一教会合同結婚式に祝電)小泉アベ[二代目池田大作]みたいな反日主義者(似非保守=偽日本人=スパイ朝鮮人、八百長戦争やって日本国民三百万人(特に心身健康な愛国青年男性)死なせた連中)が行くところだしなあ
まともに科学的/学術的調査もやってない最初の時点(明治終わり〜昭和初め)から、
「日本人や稲作や製鉄は中華や朝鮮由来」だというようになぜか決まっているのは、結局、↓が原因でしょ
====
被差別部落(同和地区)って、徳川体制の国策朝鮮移民だからね、徳川家康が李氏朝鮮スパイ役人末裔だったのが根源の問題
>明治終わり〜昭和初めまでに、旧徳川系スパイ/反日主義者(朝鮮+一部中華系)が日本の中枢を握ってたからだよな
特に水戸光圀(朝鮮徳川儒教体制なのに水戸学「大日本史/古事記」=ウソ日本史=似非神道=偽天皇教)の流れが多いだろう
>>852 >>853
【熊本】部落差別から逃れたい…願い抱き満州へ、敗戦後帰れず集団自決 日系人ジャーナリスト「国策の犠牲」
(2023.7.30)newsplus/1690725488/ >>1 >>852 >>853
【千葉】「集団で襲ってくる」「井戸に毒を入れた」…関東大震災から100年の今、「福田村事件」が問う“日本人の本性” ★3
asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1692346257/
721 - - - 2023/08/20(日) 15:07:38.84 ID:H2lGe/Z70
>>1
>地元の自警団を中心とした100人以上の村人によって、とび口や日本刀、猟銃で惨殺され、利根川に流された。
>自警団員8人が逮捕され、実刑となったものの、大正天皇死去[昭和天皇即位]に伴う恩赦で2年後に釈放された。
だから、香川の行商団員もその千葉の自警団員もエタ(被差別部落=同和=朝鮮人)だったということ。
昭和天皇は八百長戦争やった体制内朝鮮スパイ連中の側で恐らく中国人(明治天皇大正天皇とは血の繋がりもない)
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています