「倭国。東南陸行、五百里にして伊都国に到る。又南、邪馬嘉国に至る。
百女国以北、其の戸数道里は、略載する得可し。次に斯馬国、次に巴百支国、次に伊邪国。
安(案)ずるに、倭の西南、海行一日にして伊邪分国有り。布帛無し。革を以て衣と為す。」(古田武彦訳)

『広志』の成立は古田先生の研究によれば4世紀初頭とされ、『三国志』を編纂した陳寿の没後(290年)間もなくの頃です。
従って、『広志』を書いた郭義恭は『三国志』を読んで、それを参考にしています。
ですから、『広志』には『三国志』以後に得られた倭国の情報が記されています。
たとえば『三国志』では邪馬壹国の南方向にある投馬国(薩摩地方)の存在が記されていますが、
筑後地方の南の肥後地方については記されていませんでした。
ところが『広志』では邪馬嘉国(山鹿)、百女国(八女)、伊邪分国(屋久島か)などが記されており、
4世紀段階の倭国に関する情報が記録されているのです。
従って、「空白の4世紀」などと平気で書くのは自らの不勉強を露呈するようなものです